最後の戦国武将 内藤帯刀忠興 目次

武功立藩(上巻)

第一章 桃山時代天正二十年(1592年)
第二章 天下二分慶長三年(1598年)
第三章 強行出陣慶長八年(1603年)
第四章 一万石衆慶長二十年(1615年)
第五章 磐城平藩元和八年(1622年)
第六章 道山居士寛永八年(1631年)
第七章 泉藩成立寛永十一年(1634年)
第八章 富岡岩城氏大永四年(1524年)~

新政開削(下巻)

第九章 島原の乱寛永十三年(1636年)
第十章 小川江筋寛永十五年(1638年)
第十一章 幼少将軍慶安四年(1651年)
第十二章 大坂城代承応四年(1655年)
第十三章 世代交代万治四年(1661年)
第十四章 諸行無常寛文十一年(1671年)

登場人物紹介

三河内藤氏系図

磐城平藩地図

磐城平龍ヶ城城下町地図

内藤政長家臣団

内藤忠興家臣団

内藤義概家臣団

「武功立藩」(上巻)
 長きに渡る戦国時代を戦い抜き、群雄割拠の列島を統一したのは、関白豊臣秀吉でした。 東海の有力大名である徳川家康は、小田原北条氏攻略に軍功有って、関東二百五十万石に移封されます。 徳川家の重臣内藤家長は、江戸城の南、桜田村に屋敷を与えられ、上総佐貫二万石が任されれました。 しかし太平は続かず、秀吉は朝鮮に戦を求めて出兵します。 家康は秀吉の参謀として肥前に赴き、家長の嫡男政長も従軍します。 政長が肥前赴任中、江戸桜田屋敷で長男が生まれました。これが本作の主人公、内藤帯刀忠興です。 政長の肥前滞在は長引き、次男政次が生まれたのはその七年後でした。 よって忠興は内藤家の嫡孫として、三河武士の教育を受け、その精神を育みます。
 やがて秀吉が病没すると、天下は二つに割れました。 東の徳川家康と西の毛利輝元が挙兵し、美濃関ヶ原で大戦が勃発します。 この前哨戦である伏見城で、内藤家長は四万の大軍を半月近くも足止めし、 最期は政長に遺言状を残して、自害しました。 関ヶ原において、たったの一日で西軍を壊滅させた徳川家は、やがて天下人となり、江戸に幕府を開きます。 内藤家も政長の家督相続が認められ、所領も加増されました。 程無く二代将軍に徳川秀忠が就任し、同時に忠興も元服を果します。
 それから九年後、徳川家との溝を深めていた豊臣家が兵を挙げ、大戦が勃発します。 忠興は父政長の下、安房の守りに就いていましたが、最後の大戦に参戦するべく、京へ向かいます。 軍令違反を咎められるも、熱意が家康に認められ、軍勢の端に加わる事ができました。 大坂冬の陣はやがて講和が成されて終息し、忠興は軍功を認められて、 相続を待たずに一万石の大名となりました。翌年、大坂夏の陣が勃発します。 忠興は一万石衆と弟政次を率いて出陣し、家康の警護に付きます。 この戦で、豊臣方の真田信繁が徳川本陣に突入し、徳川勢は潰走するも、忠興と重臣達は奮戦しました。 最後は豊臣方も力尽き、大坂城は炎上して、徳川方が勝利を収めます。
 翌年、徳川家康が病死し、名実共に徳川秀忠が諸大名を纏める事に成ります。 一方、奥州の伊達政宗は健在であり、内藤政長、忠興父子は、奥州磐城平藩に移封加増されます。 しかし磐城平藩は動乱冷めやらぬ地で、頼みと成る物は巨大な龍ヶ城のみでした。 政長は善政を布き、藩政の安定に努めます。 父が政治に力を入れる一方で、忠興は軍事に力を注いでいました。 奥州会津蒲生家減封時の三春城受け取り、大坂加番の拝命などです。
 やがて三代将軍家光の代になると、諸大名を震え上がらせるべく、肥後の大大名加藤家を改易処分にします。 内藤家は主力部隊を総動員して八代城を受け取り、功績を挙げました。 程無く政長が病に倒れ、忠興が磐城平藩主を相続します。 これまでは二万石の大名でしたが、新たに七万石城持ち大名となり、藩主として新たな課題に挑戦して行きます。

「新政開削」(下巻)
 磐城平藩主となった内藤忠興ですが、せっかく大名として手腕を振るおうとした矢先、 武家諸法度が改正されました。 すなわち、大名は譜代であっても、外様と同じく二年の内一年以上の江戸滞在が義務付けされました。 よって、大名が国政を執る事は難しく成り、国家老に権力が集中する事と成ります。 頻繁な帰国は藩の財政を圧迫し、また藩主が長期政策を主導する事が困難になりました。 何もしなければ、藩政は国家老に任せ切りとなり、藩主の権威は衰退します。 しかし、忠興は郡奉行に沢村勘兵衛を登用し、藩領開発を主導させます。 藩内の情報はつぶさに収集し、あくまで藩主が藩政を指揮する体制の維持に努めたのです。
 沢村勘兵衛が率先して行ったのは、灌漑用水路の整備でした。 磐城平藩は成立当初、仙台藩の伊達政宗から関東を守るべく、巨大な城を築く事に力を注いでいました。 よって他藩と比べて、新田開発が遅れていたのです。 沢村勘兵衛は家老や重臣と対立してでも、政策の実現を押し通そうとする所が有りました。 そして遂には、郡奉行解任の憂き目に遭ってしまいます。 しかし勘兵衛の兄甚五左衛門が普請を担当した「好間江筋」は計画が進み、やがて完成に至ります。 ある年、磐城平藩で大旱魃が起りました。磐城郡内を視察した勘兵衛は、被害の甚大さに驚かされます。 そして、自分の俸禄を返上してでも藩民を救うべく、動き始めます。 勘兵衛が普請を担当した「小川江筋」の開削は再開し、やがて完成を見ます。 しかし完成と共に、対立する重臣から法度に違反している旨を糾弾され、切腹します。 ここに忠興は、有能な士を犠牲にする事になりました。
 一方江戸では、三代将軍家光が身まかり、四代将軍に徳川家綱が就任しました。 初めて幕府は幼い将軍を頂く事となり、忠興は幕府が外様大名に脅かされぬよう、 帰国して関東守護の体制を整え、また大坂城代を拝命して、西国大名に睨みを利かせました。 二度目の大坂城代就任の時、不運にして雷が火薬庫に落ち、大爆発を起しました。 忠興は責任者の一人として大坂城修復を仰せつかった物の、膨大な費用を要する為、金策に追われます。 忠興は信州松代藩の後見人であったので、真田家の信頼を得て金を借り、 返済の見込みの無い借金をする事が無く、この窮地を乗り切ります。
 また、江戸では火災が有り、幾度か藩邸を焼失します。 ある年、虎ノ門上屋敷と六本木下屋敷を相次いで焼失した時、藩に倹約令を出しました。 その頃、郡奉行今村仁兵衛は窮民対策として税を違法に低くしていたので、 それが発覚して磔(はりつけ)の刑に処せられました。 仁兵衛は数学者でもあり、藩内の測量や開発、引いては法律の制定にも寄与した功労者であったので、 忠興は再び人材を失ってしまいました。
 しかし、嫡男義概(よしむね)を頻繁に帰国させ、次期藩主としての実践教育をさせていたので、 忠興が隠居すると共に、義概は温めていた法律を次々と制定し、藩主の権力維持に努めました。 徳川四代に渡って仕えた忠興は、義理に篤い人柄でした。 恩を返し、約束を果し、全てを成し遂げた上で、この世を去ります。 忠興が墓所に選んだ所は、国許ではなく、初めて武家政権が誕生した鎌倉でした。


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