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第一節 桃山時代
天に太陽有り、地に人材有り。然(しか)れども地上は砂(さ)塵(じん)に蓋(おお)われ、陽光朧(おぼろ)げなり。
あちこちから砂埃(すなぼこり)が巻き上がる。 数多(あまた)の人足(にんそくそく)が大地を穿(うが)ち、また均(なら)している。木槌(きづち)で杭(くい)を打つ音もけたたましい。大工の姿も目立つ。
その煙(けむ)たい空気の中を、四人の侍が颯爽(さっそう)と歩いて行く。皆逞(たくま)しい体躯(たいく)をしており、先頭右が初老で、左はまだ元服を済ませていない少年である。後ろ二名は護衛の様(よう)で、周囲に静かに目を光らせている。
大人は全員が頭髪を月代(さかやき)にしている。その形(なり)をよく見ると、久しくこの武蔵国(むさしのくに)を支配していた、北条武士ではない。応仁元年(1467)の、京師に於(お)ける大乱後に齎(もたら)された戦国時代。その先駆けと成った伊勢宗瑞長氏が興した小田原北条氏は、五代に渡って領土を広げ、関東八州の大半を手中に収めた。しかし畿内で関白豊臣秀吉が台頭し、天正十八年(1590)に北条氏を降伏させると共に、奥羽をも版図に取り込み、天下統一を成し遂げた。
北条家の当主氏直は高野山へ流刑に処され、秀吉は軍功の有った徳川家康に、その旧領二百五十六万石を与え、久しく所領として来た東海、甲信からの転封と成った。石高としては、凡(およ)そ二倍の加増である。
徳川家は北条家の居城、相模国(さがみのくに)小田原ではなく、長禄元年(1457)に太田道灌(どうかん)資長(すけなが)が築いた、武州江戸城を府と定めた。あれから二年。徳川家はここ江戸の開発に、全力を注(そそ)いでいた。
ふと、少年の口から欠(あく)伸(び)が出た。
「ふわぁ。天下太平にござりまするな。」
直後、老荘の男が顔を顰(しか)めて怒鳴(どな)る。
「戯(たわ)けを申すな。」
そして俄(にわか)に、諭(さと)す口調に変わった。
「天下が定まって、まだ日が浅い。それに北条家旧領への国替えじゃ。当家に任されし所領は上総国(かずさのくに)。安房(あわ)里見家の真正面ぞ。常に気を引き締め、万一の事態に備えねば成らぬ。」
老将の名は内藤弥次右衛門家長といい、佐貫(さぬき)ノ庄二万石の城主であり、徳川家康の重臣である。
佐貫は浦賀水道の東岸に位置し、直(す)ぐ南の安房館山には、里見義康が戦国時代に守り抜いた、九万石の所領を有している。里見家の祖は鎌倉幕府を滅(ほろ)ぼした新田義貞の祖先である新田義重の子、里見義俊であり、正真正銘の清和源氏である。
家長に咎(とが)められた少年はその次男、内藤小一郎であった。佐貫内藤家の邸(やしき)は江戸城の直(す)ぐ南、桜田村に在る。邸(やしき)に戻った親子は、廊下をドカドカと歩きながら、何やら落ち着かぬ様子である。
小一郎が父に尋(たず)ねる。
「そう言えば、兄上の御子がもう直(す) ぐ生まれるとか?」
「うむ。しかし政長は今、太閤(たいこう)殿下の命を受け、殿の御供で肥前(ひぜん)に居るそうな。」
天下人(てんかびと)と成った豊臣秀吉は、関白職を甥(おい)の豊臣秀次に譲(ゆず)り、太閤と成っていた。その秀吉の命に因(よ)り、諸大名の軍勢が肥前国名護屋城に集められていた。家長の長男左馬介(さまのすけ)政長は、家康の本隊である大番組の二番頭を仰(おお)せ付かり、軍勢を率(ひき)いて江戸を留守にしている。
「子が生まれるというに、父が側に居てやれぬとはのう。」
家長が嘆(なげ)くのと時を同じくして、侍女が一人、こちらに小走りでやって来るのが見えた。
侍女は家長の前で座礼をとる。
「申し上げまする。」
「生まれたか?」
「おめでとうござりまする。御方様は無事、若君を御出産遊ばされました。」
「でかした!」
家長は満面の笑みを湛(たた)えた。
天正二十年(1592)二月一日、武蔵国五千石三宅康貞の娘はこの日、内藤政長の長男を生み落した。その赤児(あかご)は、万鍋と名付けられた。佐貫内藤家待望の、嫡孫(ちゃくそん)の誕生である。
暫(しばら)くして、家長は侍女から赤児(あかご)を受け取った。邪気の無い、小さな顔を覗(のぞ)き込み、思わず顔が綻(ほころ)ぶ。
「うむ。中々良い面相じゃ。」
つと、家長の表情が曇(くも)った。
「太閤殿下の朝鮮出兵が近いと聞く。政長が無事戻り、我が子の顔を見られれば良いが。」
家長は空を見上げ、西国に在る長男の身を案じた。
四月十三日、対馬(つしま)の北方、李氏朝鮮王国釜山(ぷさん)浦を豊臣軍第一陣が侵攻。文禄(ぶんろく)の役(えき)が勃発した。
火縄銃を装備しない朝鮮軍を相手に、豊臣軍は快進撃を続けた。五月十日、肥後(ひご)の大名小西行長率(ひき)いる一番隊が首都漢城を陥落させ、七月二十四日には平壌へ入った。加藤清正率(ひき)いる二番隊も東海岸部を進み、遂(つい)には女真族の領域にも侵入した。
朝鮮王国の大半が豊臣軍に制圧された頃、愈々(いよいよ)宗主国である大明帝国が動き始めた。政治の腐敗が進む万暦帝の治世といえども、やはり兵の数、武装に於(おい)ては朝鮮軍の比ではなく、小西行長、豊前(ぶぜん)の黒田長政らの黄海方面軍は、平壌から北進する事ができなくなった。また、李舜臣率(ひき)いる朝鮮水軍が、守備の手薄な後方輸送船団を奇襲し、豊臣軍に甚大な被害を与えた。
太閤秀吉が明国を相手に強気の交渉続ける一方で、朝鮮各地で義勇軍が蜂起し始めた。豊臣軍は朝鮮半島で明国軍、女真族、朝鮮水軍、義勇軍を敵に回し、平壌の防衛線維持で手一杯となり、膠着(こうちゃく)状態に陥(おちい)った。
この頃、江戸の内藤邸に、政長からの書状が届いていた。
「むう。」
顔を顰(しか)めて書状に目を通す家長に、小一郎が尋(たず)ねる。
「父上、兄上は何と?」
読み終えた書状を、家長は次男に渡した。
「戦(いくさ)の形勢は思わしくなく、帰国の御許しは、当分下される見込みが無いそうじゃ。」
二人は揃(そろ)って、ため息を吐(つ)いた。
朝鮮の戦(いくさ)が長引く一方、翌文禄二年(1593)八月三日、摂津国(せっつのくに)大坂城で吉事が有った。太閤秀吉に男子が誕生したのである。秀吉の二人の男子は共に夭折(ようせつ)しているので、めでたく御世継ぎの誕生である。生母は淀(よど)の方で、元亀四年(1573)に滅(ほろ)びた近江国(おうみのくに)の戦国大名、浅井長政の長女である。捨て子は育つの縁起を担(かつ)ぎ、拾(ひろい)丸と命名された。秀吉は吉報を受けて大坂へ帰国し、諸侯より祝賀の礼に浴(よく)した。
一方でこれを機に、身を滅(ほろ)ぼした者が有った。秀吉の実姉日秀尼と三好吉房の子、関白豊臣秀次である。次第(しだい)に秀吉から疎(うと)まれる様(よう)になり、文禄四年(1595)七月八日、秀吉の命で高野山に追放され、出家して禅閤(ぜんこう)と成る。程(ほど)無く十五日に 、豊禅閤秀次は切腹した。また秀吉は、秀次の一族を幼児(おさなご)に至るまで、悉(ことごと)く処刑したのであった。
暫(しばら)く後(のち)、肥前国名護屋城の渡り廊下を歩く、三人の武士が居た。中央前を歩くのは、徳川家大番組二番頭内藤政長で、右後方が三番頭久野民部宗俊、左後方が四番頭栗生新右衛門勝永である。
宗俊が呆(あき)れ顔で呟(つぶや)く。
「まったく、太閤殿下は気でも違われたか?」
勝永も相槌(あいづち)を打つ。
「何も、赤児まで手に掛ける事もあるまいに。」
つと、政長が両者を制した。
「方々、そこまで。」
歩みを止めて聞耳を立てると、直(す)ぐ手前の曲(まが)り角から、次第に足音が近付いて来る。
やがて現れた男は、俄(にわか)に片膝(ひざ)を突き、政長を見上げる。
「徳川家の、内藤左馬介殿と御見受け致す。」
自分と知った上での、待ち伏せであった。他家の者である故(ゆえ)に、警戒せざるを得ない。
「いかにも。」
「某(それがし)、奥州会津藩蒲生(がもう)家の家臣、蒲生郷成(さとなり)が子、郷喜(さとよし)と申しまする。」
「何、蒲生家の?」
陸奥(むつ)会津藩九十二万石。藩祖は近江国出身の蒲生氏郷(うじさと)である。しかしこの年の二月七日、病(やまい)を得て、京の伏見にて薨去(こうきょ)。跡(あと)を継いだ子の秀行は、まだ十三歳の若さであった。蒲生家は幼君を支えるべく、三家老が藩政を取り仕切る事となった。筆頭家老は米沢七万石の蒲生郷安(さとやす)。他に二本松四万石の蒲生郷成(さとなり)と、中山一万三千石の蒲生郷可(さとよし)である。
因(ちな)みに、徳川家康の三女振姫は秀行に嫁いでおり、政長と郷喜両者の主家は、姻戚(いんせき)関係にある。
政長は、後ろで話を聞いていた、宗俊と勝永の方へ向き直る。
「大事な用向きの様(よう)じゃ。儂(わし)が伺(うかが)って置く故(ゆえ)、大久保様には宜(よろ)しく御伝えしてくれ。」
二人は承知し、郷喜に会釈(えしゃく)をした後、その場を去って行った。
「では郷喜殿、こちらへ。」
「はっ。」
政長は郷喜を立たせると、話ができる別間へと案内した。
人気(ひとけ)の無い一室に入り、戸を閉めると、両者は正対して座した。そして先(ま)ず、郷喜が浅く礼をとる。
「御忙しい所、誠に申し訳ござらぬ。」
「いや。」
「実を申さば、当家家中に不和が有り、内府様の御力添えを賜(たまわ)りたく。」
「むむ?」
内府とは即(すなわ)ち内大臣、徳川家康の事である。
蒲生氏郷の死後、会津藩では派閥抗争が激化していた。特に家老の郷安と郷可の対立が深刻で、郷成は両派の調停に努めていたのである。
会津藩は奥州鎮護の要(かなめ)である。ここが崩(くず)れれば、北方の独眼竜こと伊達政宗が、何を仕掛けて来るか、分かった物ではない。
郷喜は一歩躙(にじ)り寄る。
「このまま事態が悪化致さば、大事に繋(つな)がりかねませぬ。何とぞ内府様に、御取り成しの程(ほど)を。」
ここで蒲生家に恩を売っておいて損は無いと考えた政長は、郷喜の手を取る。
「郷喜殿、御手を御上げ下され。この政長が確(しか)と承知致したと、御父上に御伝えあれ。」
「おお、かたじけない。」
東北地方には戦国時代以来の大名、伊達政宗や最上義光などの勢力が、依然割拠(かつきょ)していた。亡(な)き蒲生氏郷は、伊達政宗の監視役として、秀吉が派遣した俊英であった。その死後、間も無くの事である。
話を終えた政長は、急いで大番組の広間へと向かった。
到着と同時に、政長は広間の入口で座礼をとる。
「遅くなり申した。」
「おお、話は済んだのか?」
広間の奥から声を掛(か)けたのは、武蔵国羽生(はにゅう)二万石の、大久保相模守(さがみのかみ)忠隣(ただちか)であった。徳川家年寄(としより)であり、大番組の取纏(とりまと)め役である。
上座の家康から、直(じか)に声が掛けられた。
「まあ座れ。」
「はっ。」
政長は深く頭を下げた後、立ち上がって、同僚が座す前を通って行く。左手に並ぶのは宗俊と勝永。そして右手に並ぶのは、大番組一番頭内藤紀伊守信正と、五番頭永井右近太夫尚政である。信正は政長と同じ姓である事から察せられる様に、従兄弟(いとこ)の間柄である。信正の父、伊豆国(いずのくに)韮山(にらやま)一万石の城主内藤豊前守信成は、家長より一歳上の兄に当たる。
しかし先代清長の跡を継いだのは、弟の家長であった。家伝では家康の父、松平広忠の子を懐妊した娘を、三河国(みかわのくに)矢矧(やはぎ)城主島田久右衛門景信に嫁(とつ)がせた所、三月後の五月五日に男子を儲(もう)けた。しかし、この日に生まれた子は父母に禍(わざわい)を成すと言われ、島田家でも持て余し、寺に預けようと考えた。それを不憫(ふびん)に思った親類の清長が、自分に当時跡取りがいない事も有って、養子に迎えたという。内藤信成は公(おおやけ)にはされていないが、徳川家康の異母弟であると言われている。また信成という名は、家康が元服して松平元信と名乗った時に、その偏諱(へんき)を頂いた物である。
政長は宗俊の隣、上方に腰を下ろした。そして、家康が政長に尋(たず)ねる。
「して、蒲生家からは何を申して参った?」
「はっ。蒲生家家老蒲生郷成殿より、御子息郷喜殿が遣(つか)わされ、派閥抗争の激化を食い止めるべく、殿の御力添えを頂きたいと。」
「何と。」
下座の尚政から声が漏(も)れる。
「氏郷侯が身罷(みまか)られて、まだ日が浅いというに。」
隣の信正も頷(うなず)いている。
「やはり十三の幼子(おさなご)に、九十二万石の仕置は、ちと無理が有った様(よう)にござりまするな。」
家康は畳(たた)んだ扇子(せんす)の先で、顔を掻(か)いている。
「ふむ。」
俄(にわか)に着想を得た様(よう)で、家康は目を見開いた。
「秀行は我が婿(むこ)とは申せ、儂(わし)が直々(じきじき)に乗り出しては、話が仰々(ぎょうぎょう)しくなり、却(かえ)って家中の不和を増長させかねぬ。」
側に控(ひか)える忠隣も、賛同の意を示す。
「確かに。表立った騒(さわ)ぎに成らぬ様(よう)、家臣同士で接触するが良いかと思われまする。」
「うむ。では我が家臣と、蒲生郷成との繋(つな)がりを持って置かねばのう。」
家康は手に持つ扇子を、政長に向けた。
「政長。」
「はっ。」
「そちに年頃の娘は居るか?」
「はっ。娘は一人居りまするが、歳が十に満たず…」
「稚(やや)子(こ)でなければ構(かま)わぬ。そちの娘を郷喜に輿(こし)入れさせ、そちは蒲生郷成の縁者として、我が意向を蒲生家に伝える、橋渡しと成れ。」
「承知仕(つかまつ)りました。早速(さっそく)その旨(むね)、我が父家長に申し伝えまする。」
政長は大任を拝命した責任を感じ、深く平伏する。主君の一存で、急に娘の嫁(とつ)ぎ先が決まる。これが戦国武将の慣(なら)わし物であった。
「では、蒲生家の事は政長に任せる。」
そう言い終えると、家康は腰を上げた。
「話はここまでじゃ。儂(わし)は少し休む。忠隣、付いて参れ。」
忠隣は承知し、家康の後(あと)に続く。主君が退室するので、五人の大番組頭は、一斉(いっせい)に頭を下げた。
名護屋城中の廊下を歩く家康がふと、随行する忠隣に声を掛けた。
「大番組の者達だが、思った以上に使えるのう。」
「畏(おそ)れ入りまする。五人共若く、経験はまだまだ足りぬ物の、皆、戦国時代を生き抜いた、父の背中を見て育って居りますれば。」
「うむ。将来徳川家を支える人材に育て上げねば。」
ここで家康は歩を止め、周囲に人気(ひとけ)が無い事を確認してから、忠隣の方へ振り向いて尋(たず)ねる。
「所で、明国や朝鮮との、水面下の交渉は如(ど)何(う)なっておる?」
「はっ。半島では屡々(しばしば)小競(こぜ)り合いが続いており、目下、停戦の機会を窺(うかが)って居りまする。」
家康の、眉間(みけん)の皺(しわ)が深くなる。
「ううむ。この様(よう)な無益な戦(いくさ)は早く終らせ、本国の政(まつりごと)に力を注ぎたいものよ。まあ、関東には当家の主力をほぼ残してある故(ゆえ)、心配には及ぶまいが。」
徳川家臣団の主力を挙げると、高崎十二万石井伊直政、結城十万石結城秀康、忍(おし)十万石松平忠吉、館林十万石榊原康政、大多喜十万石本多忠勝、小田原五万石大久保忠世、佐倉四万石武田信吉、矢作(やはぎ)四万石鳥居元忠。三万石以下は割愛するが、戦国時代に武田信玄晴信などの強敵と戦い、生き抜いて来た猛者(もさ)がごまんと居たのである。
太閤秀吉から徳川家に朝鮮出兵の要請が有った時、家康は関東に入部して間も無い事と、府である江戸が荒廃したままで、その普請(ふしん)に追われている事を理由に、大軍の動員を断る事ができた。主力の温存は叶(かな)った物の、家康は肥前に詰(つ)める事となり、江戸開発の指揮を執(と)れずにいるのが歯痒(はがゆ)かった。
家康の退室後、政長は自室に戻って直(ただ)ちに筆を取り、主命を書状に認(したた)めて、江戸へ早馬を飛ばした。
数日後、江戸桜田の佐貫内藤邸では、庭で鞠(まり)遊びをする孫達を、家長が縁側に腰掛けながら、微笑(ほほえ)んで見守っていた。そこへ俄(にわか)に、慌(あわただ)しい足音が聞こえて来る。家長がその方を見遣(みや)ると、音の主は家老の安藤金右衛門と、同じく家老の上田甚六であった。
両名は家長の前に着くと、揃(そろ)って跪(ひざまず)いた。
「申し上げまする。」
金右衛門の声に、家長が答える。
「如何(いかが)致した?」
「若殿より、文(ふみ)が届きましてござりまする。」
「どれ。」
家長は書状を受け取ると、じっくりと読み始めた。
それを余所(よそ)に、庭で遊んでいた万鍋は 鞠(まり)を手に取ると、俄(にわか)に憤(むずか)った。
「姉上、蹴鞠(けまり)はもう飽(あ)きました。別の遊びを致しましょう。」
姉が溜息(ためいき)を吐(つ)いた時、家長達は縁側を後(あと)にし、侍女が急いで駆け寄って来た。
「姫様、御殿様が御呼びにござりまする。大事な御話故(ゆえ)、直(ただ)ちに御越し下さりませ。」
「はい。」
素直に返事をする姉を見て、万鍋は剥(むく)れた。
「えーっ。」
「万鍋、また後で遊びましょう。」
「分かりました。」
万鍋は渋々(しぶしぶ)ながら答えた。
暫(しばら)くして、万鍋にも祖父家長から御召(おめし)が有った。家臣の安藤清右衛門定久に伴(ともな)われて、家長の居間へと向かう。
「若君を御連れ致しましてござりまする。」
清右衛門の声の後、万鍋は入口で、ぎこちない座礼をとる。
「おお、入れ。」
家長の手招きで、万鍋は居間の中へ進む。そこには金右衛門と甚六の他、同じく家老の村田与兵衛も同席している。幼い万鍋にも、何か大事な話が成された後であると感じられた。
祖父を前に、再び万鍋は座礼をとった。
「御呼びにござりましょうか?」
「うむ。御事(おこと)の姉上の事でのう。実は家康様より御命令が下され、姉上は嫁に行く事が決まった。」
「えっ?」
突然の事に、万鍋は愕然(がくぜん)とした。
「では…もう姉上とは会えなくなるのでござりまするか?」
「そうじゃ。姉上の嫁(とつ)ぐ先は遥(はる)か遠く、北は奥州の会津郡、若松という所じゃ。峠(とうげ)を幾(いく)つも越え、馬を使ったとて、大分(だいぶ)日数が掛かるであろう。」
それに、与兵衛が補足する。
「加えて申し上げますれば、姫様の輿(こし)入れ先は会津藩蒲生家が御家老の御家。徳川家の者が、おいそれと足を踏(ふ)み込める地ではござりませぬ。」
再び、家長が口を開く。
「万鍋、姉上は御事(おこと)に取って唯一の姉弟(きょうだい)。それ故(ゆえ)、家中の決定後直(ただ)ちに、御事(おこと)には伝えて置いた。」
万鍋は深く頭を下げる。
「御じじ様、有難うござりまする。今から…姉上の所へ行っても良いのでしょうか?」
「おお、行って参れ。今は母上の所に居るであろう。」
「では。」
万鍋は一礼すると、再び清右衛門に伴(ともな)われて、家長の許(もと)を辞して行った。
去り行く万鍋の寂(さび)し気(げ)な顔を見て、思わず家長の口から息が漏(も)れた。
「本(ほん)にかわいそうな事じゃ。政長が江戸に詰(つ)めて居られれば、他に兄弟もでき、斯様(かよう)に寂しい思いをせずに済んだ物を。」
三人の家老達も、同じ気持であった。
やがて内藤政長の長女は、蒲生郷喜の許(もと)へ嫁(とつ)いで行った。政長の子は万鍋唯(ただ)一人が、江戸に残された。
文禄五年(1596)九月二日、大坂城を明国冊封使(さっぽうし)が訪れた。和議を行う為(ため)、正使楊方亨と副使沈惟敬が派遣されて来たのである。この年、豊臣軍も和睦(わぼく)の為、朝鮮から軍勢を引き揚げていた。豊臣家は使節団を饗応(きょうおう)した物の、明国皇帝の書翰(しょかん)が秀吉に渡された時、事態が一変した。明国皇帝が秀吉を日本国の王に封ずるという文面に、怒りを覚えたのである。秀吉は和議を決裂させ、明年朝鮮への再出兵を決意した。戦国の世が終っても猶(なお)、戦(いくさ)の無くなる日は訪れなかった。
この年の十月二十七日、元号が慶長と改められた。伊予国(いよのくに)と 山城国(やましろのくに)伏見周辺に於(おい)て、大地震が相(あい)次いだ為といわれている。翌慶長二年(1597)、再び豊臣軍は大軍を率(ひき)いて、朝鮮へ攻め込んだ。
しかし文禄の役とは異なり、此度(こたび)は奇襲攻撃が叶(かな)わなかった事と、朝鮮軍も戦(いくさ)に慣れ、火縄銃を装備する様になった事から、豊臣軍は慎重に前進せざるを得なかった。慶長三年(1598)に入っても猶(なお)、豊臣軍は朝鮮王国の首都、漢城に達していなかったのである。
この頃、国内では会津藩に、一大事が出来(しゅったい)していた。筆頭家老蒲生郷安が専横を極め、対立していた小姓組の亘理(わたり)八右衛門を暗殺し、これを受けて町野繁仍(しげより)らが兵を挙(あ)げ、両軍は一触即発の事態となった。
最早(もはや)こうなっては、他家の力を借りる他は無いと考えた家老蒲生郷成は、子の郷喜を京の伏見城に派遣した。太閤秀吉に随行し、徳川家康も上洛していたからである。
伏見の徳川邸に郷喜が入って程(ほど) 無く、政長は緊迫(きんぱく)した面持(おもも)ちで、家康の居間に向かっていた。蒲生家使者来訪の報は、家康の耳にも届いていた。大番組大久保忠隣に加え、家康の知恵袋である相模玉縄城主一万石の本多正信を左右に侍(はべ)らせ、家康は泰然と政長の到着を待っていた。
やがて家康の間に到着すると同時に、
「待ち兼ねて居ったぞ。政長、近う。」
と声を掛けられた。政長は家康の前へ進み出て、礼をとる。
「只今(ただいま)、蒲生郷喜が参りました。」
「うむ。して、用向きは?」
「目下、本城若松に於(おい)て合戦の気運高まり、願わくば、殿に調停を御願したいとの事。」
家康は、ポリポリと頬(ほお)を掻(か)く。
「忠隣。」
「はっ。」
「儂(わし)の一声で、蒲生家の家臣が矛(ほこ)を納めるかのう?」
「殿が乗り出す動きを見せれば、怖らくは。」
「渋々(しぶしぶ)、一時だけじゃな。」
横から、正信が言葉を加える。
「蒲生家を真に纏(まと)められるは、藩侯のみ。迂闊(うかつ)に手を出さば、当家にも要らぬ火の粉(こ)が降り懸(かか)りましょうぞ。」
「そういう事じゃ。」
家康は頷(うなず)くと、政長を指さす。
「そちは郷喜を持て成し、緩(ゆる)りと京見物の案内をする等(など)、当家に郷喜が来訪している事を、衆人に知らしめよ。その内何者かが焦(じ)れて、動き出すであろう。」
「御意(ぎょい)。」
正信は微笑を湛(たた)えている。政長は承(うけたまわ)り、郷喜の許(もと)へ戻って行った。
やがて蒲生家の騒動は、太閤秀吉の耳にも入った。朝鮮で戦(いくさ)をしている最中(さなか)、奥州で動乱が起れば一大事である。秀吉は直(ただ)ちに、蒲生秀行から会津領を召し上げる事を決意した。
その翌日、徳川家康は伏見に登城し、秀吉の見舞(みまい)に参上した。秀吉が蒲生家の減封を家康に諮問(しもん)すると、家康は和(にこ)やかに同意した。安堵(あんど)した秀吉が、蒲生家の転封先について尋(たず)ねると、家康は下野国(しもつけのくに)を推挙した。理由は一つに、下野は会津の隣国であり、秀行に多少は情けを掛けられる事。もう一つは、家康の所領に隣接するので、徳川家が代わって監視できるという物であった。
秀吉は家康の案を採(と)り、蒲生秀行は陸奥国若松九十二万石から、下野国宇都宮十二万石に減封された。騒動の原因となった筆頭家老、蒲生郷安は罪を問われて追放となり、肥後熊本の加藤清正預かりとされた。これと対立していた蒲生郷可は、河原城主六千石となったが、この年に病没した。両者の調停に努めていた蒲生郷成は、常陸国(ひたちのくに)笠間城主三万石となり、一万石の減封で済んだ。そして郷安の蒲生家仕置奉行の座を引き継ぎ、ここに徳川家が恩を売る形で、蒲生騒動は一先(ひとま)ずの決着を見た。
一方、蒲生家の下野減封に伴(ともな) い、大名の大きな配置替えが生じた。越後国(えちごのくに)春日山の上杉景勝が会津百二十万石に転封され、越前国(えちぜんのくに)北ノ庄十八万石の堀秀治が、春日山三十万石に加増されたのである。上杉景勝は、戦国時代に祖父長尾為景(ためかげ)が勢力を広げ、先代上杉謙信輝虎が久しく治めた、越後を離れる事となった。一方の堀秀治は、父秀政が太閤秀吉の旧主にして戦国時代の英雄、織田信長に小姓(こしょう)時代から仕(つか)えた人物で、出世街道を走っていた。
天下統一後も、諸大名の仕置(しおき)に気を配り続けていた豊臣秀吉であったが、この年、高齢という事もあり、日に日に体調を崩(くず)していった。やがて太政大臣の官職を朝廷に返上し、愈々(いよいよ)死期が迫(せま)って来た事を察した時、五大老を枕許(まくらもと)に呼び寄せた。
豊臣政権では、政務の実務者である五名の奉行の上に、御意見番として五人の大老を置いていた。即(すなわ)ち、武蔵国江戸二百五十六万石徳川家康、加賀国(かがのくに)金沢百三万石前田利家、安芸国(あきのくに)広島百一万石毛利輝元、備前国(びぜんのくに)岡山五十七万石宇喜多秀家、そして陸奥国若松百二十万石上杉景勝であった。一方の五奉行は、大和国(やまとのくに)郡山二十万石増田(ました)長盛、近江国佐和山十九万石石田三成、甲斐国府中十六万石浅野長政、近江国水口五万石長束(なつか)正家、丹波国(たんばのくに)亀岡五万石前田玄以基勝である。
秀吉は唯一の子、未(いま)だ六歳の秀頼の事を頼み、五大老五奉行が力を合わせて秀頼を守り立てる様(よう)誓紙血判させた後、八月十八日に薨去(こうきょ)した。享年六十二歳。
五大老五奉行が先(ま)ず成した事は、秀吉の死を隠すべく密葬の上、朝鮮王国との和議を成立させる事であった。この交渉は速(すみ)やかに行われ、翌慶長四年(1599)には、豊臣軍は朝鮮半島からの撤退を完了させた。
この時、秀吉の死が広まると、豊臣家子飼いの対立が、俄(にわか)に激化した。即(すなわ)ち、尾張派と近江派の抗争である。尾張派とは、秀吉が尾張国の戦国大名、織田信長の足軽組頭に登用された頃に仕え始め、久しく過酷(かこく)な戦場(いくさば)を、生き抜いて来た武将達である。主に福島正則、加藤清正らが中心で、その頂点が秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)であった。他方近江派は、秀吉が近江国長浜の大名に取り立てられた頃から仕え、治政に長(た)けた者が多かった。石田三成らが中心で、秀吉の側室にして豊臣秀頼の生母、淀の方を頂いていた。両派の対立は大名同士のみならず、奥向(おくむき)にも及んでいたのである。
一(ひと)波瀾(はらん)が起きる事を予測した家康は、秀吉の死後間も無く、三男秀忠を江戸に下向させ、大軍を京に呼び寄せる様(よう)、下命した。政長は秀忠の御供を仰(おお)せ付かり、江戸に向かう事となった。
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