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第二節 天下二分
秀忠一行が江戸に到着した時、江戸には秋風が吹いていた。桜田村へ、一筋の隊列が伸(の)びている。大番組を解(と)かれた、内藤政長の部隊である。
早馬からの報(しら)せを受けて、佐貫内藤家の邸門には、当主家長以下、主(おも)立つ者がその到着を待っている。次男の小一郎は元服を済ませ、今は元長と名乗っていた。家長の隣に立つ万鍋は、既(すで)に七歳になっていたが、父の顔は覚えていない。二年前に一度会っているが、あの時は五歳であった。去年、於丹生(おにぶ)という弟が生まれ、今では万鍋も兄である。
やがて政長を先頭に、内藤邸に軍勢が到着すると、政長は停止を命じた後、馬を下り、家長の前へ進み出て、頭を下げた。
「父上、只(ただ)今(いま)戻りましてござりまする。」
一回り逞(たくま)しくなった長男の肩を叩(たた)き、家長が答える。
「無事に任を全(まっと)うし、誇(ほこ)らしく思うぞ。」
「ははっ。」
そして政長の視線は、隣の元長に移った。
「小一郎、御主(おぬし)も元気であったか。見違えたのう。」
「兄上、この通りにござる。それより、某(それがし)よりも先に、声を掛けるべき者がいるのでは?」
元長はポンと、万鍋の背を押した。蹌踉(よろ)けながらも、万鍋は政長の前で踏み堪(こた)える。そして、父の顔を見詰(みつ)めた。
「父上…」
慣れぬ言葉を口にし、戸惑(とまど)う万鍋の両肩を、政長は強く掴(つか)んだ。
「そうじゃ。儂(わし)はそなたの父上じゃ。」
政長は破顔しながら万鍋の手を引き、邸内へ入って行った。
その日の夜、家長は細(ささ)やかながら、政長帰着を祝う酒肴(しゅこう)を用意し、長年の労を犒(ねぎら)った。この席には万鍋も、母に伴(ともな)われて加わった。下座には重臣の他、政長に扈従(こじゅう)した侍大将も招かれていた。
宴(うたげ)の中、家長が隣の政長に徳利を差し出すと、政長は謹(つつし)んでそれを受け、一気に飲み干(ほ)す。政長が返杯する時、家長はつと真顔になって尋(たず)ねた。
「此度(こたび)中納言様御帰城の目的は、大軍を上洛させる事であったな?」
「いかにも。」
「太閤殿下が身罷(みまか)られ、跡を継ぎしはこの万鍋より幼い、秀頼君じゃ。この機に乗じて、誰が何を仕掛(しか)けて来るか分らぬ。天下が動く事も有り得る。」
俄(にわか)に、酒席は静まり返っていた。その中で、家長の声が響(ひび)く。
「元長。」
「はっ。」
「次は儂(わし)直々(じきじき)に、当家の主力を以(もっ)て上洛に及ばん。中納言様の江戸出立に間に合う様(よう)、軍勢を整えて置け。」
「承知。」
出陣の下知を受け、家臣の中から喊声(かんせい)が上がる。ここで家長が言う中納言とは、家康の子の中で唯一徳川の姓を冠する、秀忠の事である。
そして家長は、政長の方へ向き直った。
「儂(わし)と元長で参る故(ゆえ)、政長、次は御事(おこと)が留守番じゃ。当邸(やしき)には、孫が万鍋と於丹生(おにぶ)しか居らぬ。当家が断絶せぬ様(よう)、御事(おこと)は二人に弟を儲(もう)けてやれ。」
「承知仕(つかまつ)りました。」
政長とその妻三宅氏が頭を下げると、家長は満足顔で頷(うなず)いた。
「そして万鍋の事じゃが、この通り健(すこ)やかに育ち、既(すで)に七つじゃ。そろそろ金一郎の名を授(さず)けても良いと思うが。」
金一郎の名は先代清長以来、内藤家の跡継ぎが襲名して来た物である。
「異存、ござりませぬ。」
政長の返答後、万鍋は家長に呼ばれ、祖父と父政長の間に座した。そして、家長が宣言する。
「万鍋に金一郎の名を与え、当家の嫡孫(ちゃくそん)と定める。」
「おめでとうござりまする。」
家老安藤金右衛門以下、重臣一同は挙(こぞ)って万鍋改め金一郎に平伏した。
この頃、前田利家が伏見の徳川家康に大坂登城を求め、家康はこれを拒(こば)んだ。その結果、四大老五奉行に加え、小西行長、常陸国水戸五十三万石佐竹義重、土佐国(とさのくに)浦戸二十二万石長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の世嗣(せいし)盛親が大坂城へ詰(つ)め掛け、他方家康に靡(なび)く大名は伏見に集結し、一触即発の事態が生じていた。
その折の慶長四年(1599)正月、徳川中納言秀忠率(ひき)いる主力部隊が、伏見へ向けて、江戸を発って行った。
大軍を得た徳川家康に対し、五奉行は朝鮮から帰国した諸将から、苦戦を強(し)いられた責任を追及され、苦境に立たされていた。斯(か)かる中、徳川と四大老五奉行の均衡(きんこう)を保ち、動乱に至らずに済んだのは、偏(ひとえ)に前田利家の尽力に因(よ)る所が大きかった。
しかし前田利家は齢(よわい)を重ねて、病(やまい)を得ていた。太閤秀吉の遺命を犯(おか)し、勝手に諸大名との会談、婚姻を行う家康に釘(くぎ)を刺(さ)すべく、僅(わず)かな供を連れて、また病身を押して、伏見徳川邸に赴(おもむ)いたのである。そして天下の安寧を家康に託し、閏(うるう)三月三日に薨去(こうきょ)した。
前田利家の死後間も無く、事件が起った。先の朝鮮出兵で石田治部少輔三成に遺恨(いこん)を抱(いだ)く七将、即(すなわ)ち、肥後国熊本二十五万石加藤清正、尾張国清洲二十万石福島正則、豊前国中津十八万石黒田長政、三河国吉田十五万石池田輝政、丹後国宮津十二万石細川忠興、伊予国松前(まつさき)十万石加藤嘉明、そして甲斐国府中十六万石浅野長政の世嗣(せいし)幸長が、軍勢を率(ひき)いて大坂石田邸を襲撃したのである。三成は誼(よしみ)の深い佐竹義宣邸へ逃亡したが、佐竹家に七将と事を構(かま)える力は無かった。三成は已(や)むなく、徳川家康の許(もと)へ走った。
太閤秀吉の死後、徳川家の専横を恐れ、四大老五奉行を以(もっ)て家康を牽制(けんせい)して来た中心人物こそ、この石田三成である。徳川家中からは、三成を七将に差し出すべし、との声が上がった。しかし家康は、三成が奉行の職を辞して、所領の佐和山に謹慎する事を条件に、三成の助命を提案した。三成はこれを受ける他に道は無く、家康の申(もうし)入れを承諾し、家康次男結城秀康の護衛を得て、三月十日に佐和山へと去って行った。
石田三成が去って直(す)ぐの三月十二日、家康は豊臣家の京に於(お)ける出城、伏見城に入り、城代の長束正家と前田玄以を追い出して、居座り続けた。この頃から家康は一部の者より、天下様と呼ばれる様(よう)に成った。
五月十九日、戦国時代に四国を統一した、土佐の長宗我部元親が死去。世嗣(せいし)盛親が跡を継いだ。反徳川の勢力が削(そ)がれて行くのを好機と捉(とら)え、家康は愈々(いよいよ)謀略を巡(めぐ)らし始めた。
八月、家康は加賀百万石の藩主が久しく所領を留守にしている事を案じ、前田利家の跡を継いだ利長に、帰国を促(うなが)した。利家は、三年は上方(かみがた)を動かぬ様(よう)、利長に遺言してあったが、相続後間も無い利長は、ここで徳川家との間に溝を作るは不利と考え、大人しく金沢へ帰国した。
しかし程(ほど)無く、奉行が徳川家康に大坂登城の上、秀頼君への拝謁(はいえつ)を命じた所、家康は暗殺の企(くわだ)てが有るのを理由に、これを拒(こば)んだ。徳川家が挙げた主謀者は前田利長、浅野長政、土方雄久、そして秀頼生母、淀殿の側用人である大野治長(はるなが)であった。
結果、家康は軍勢を伴う許しを得た上で、大坂城に入ったのである。秀頼君への謁見が無事に済むと、家康は直(す)ぐ様(さま)四名の詮議(せんぎ)を奉行に命じた。やがて浅野長政が罪を認め、隠居の上、謹慎。大野治長と土方雄久は所領召し上げの上、常陸佐竹家預かりとされた。
残る前田利長は、大老宇喜多秀家と、姻戚の細川忠興が骨を折った御蔭(おかげ)で所領は安堵(あんど)された。しかし、代りに生母芳春院を江戸へ人質に差し出す事と、異母弟犬千代を世嗣(せいし)にし、徳川秀忠の娘珠(たま)姫と婚約する運びとなった。
この頃、夫が亡(な)くなった後、その妻は剃髪(ていはつ)するという武門の慣(ならい)に従い、秀吉の正室北政所(きたのまんどころ)は大坂を去り、京の高台院に移った。空いた大坂城西の丸には徳川家康が入り、天下の舵(かじ)取りをする事になった。
漸(ようや)く天下に安定の兆(きざ)しが見えた事で、大老の上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家は帰国し、家康もまた、三男秀忠などを江戸に戻した。前田利家は既(すで)に亡(な)く、毛利輝元と宇喜多秀家は朝鮮出兵で疲弊(ひへい)し、上杉景勝は会津入部で、何(いず)れも家康と対等に、大老職に当たれる者はいなくなっていた。大坂城で徳川家康が秀頼君に代って天下の政(まつりごと)を行い、増田長盛、長束正家、前田玄以の三奉行が補佐に当たるという形で、一応の決着を見たのである。しかし水面下で、豊臣家を安泰たらしめるべく、打倒家康に動く者達がいたのであった。
*
翌慶長五年(1600)、上杉景勝の家臣藤田信吉が会津藩を出奔(しゅっぽん)し、景勝に野心が有る事を、江戸の徳川秀忠に報告した。秀忠が信吉を大坂に送った頃、出羽国(でわのくに)角館戸沢政盛や、越後国堀秀治の家老、堀直政の使者も大坂を訪れ、上杉が戦(いくさ)仕度(じたく)をしている旨(むね)を通報した。
家康が上杉家へ、家臣伊奈昭綱を使者に送った所、後日、景勝自身と、家老直江兼続から書状が送られて来た。上杉家の弁明は、戦(いくさ)をする積(つも)りならば、道は作らず壊す物と回答。直江状に至っては、飽(あ)く迄(まで)当家に有らぬ疑いを掛けるのであれば、戦(いくさ)も辞さずという物であった。
六月二日、家康は関東奥羽越の諸大名に上杉景勝征伐を下知し、十五日に豊臣秀頼から金二万両、米二万石を拝領する事で、豊臣家が徳川家を遣(つか)わして逆賊を討つという、大義名分を得た。翌十六日には早くも大坂を発(た)ち、徳川勢は伏見に入った。
京には久しく徳川家と昵懇(じっこん)にしていた、薩摩国(さつまのくに)鹿児島五十六万石の島津惟新斎義弘が居り、家康は留守中京に万一の事有らば、宜(よろ)しく頼むと使者を発して置いた。一方で、家康は伏見城の直参を召集し、内藤家長も主君の許(もと)へ馳(は)せ参じた。
家康臨席の下(もと)、本多正信から伏見城留守居役の名が呼ばれる。
「総大将、鳥居元忠殿。副将、佐貫内藤家長殿、同じく深溝松平家忠殿。目付、安藤定次殿…」
指名を受けた者は頭を下げ、次に呼ばれる者の名を、頭に刻(きざ)み込む。二番目に指名された家長も、同じであった。
「以上。」
正信が守将全員の名を読み終えた後、家康から言葉が有った。
「斯(か)くの如(ごと)し。上杉討伐に大軍を要する為(ため)、伏見には千八百しか残せぬ。但(ただ)し、京に有事が出来(しゅったい)すれば、島津義久殿と木下勝俊殿が、援軍に駆け付ける手筈(てはず)となっておる。諸将には宜(よろ)しく、京師の守護を頼む物なり。」
「御任せ下さりませ。」
守将元忠が答えると、伏見留守居を仰(おお)せ付かった他の将も、これに倣(なら)った。
その日の夜、家康は鳥居元忠と夕餉(ゆうげ)を共にした。元忠は家康が駿河(するが)の戦国大名、今川義元の人質であった頃から、側近として仕えた忠臣である。此度(こたび)の奥州下向は、石田三成らの反家康派を挙兵に及ばせ、一気に殲滅(せんめつ)するというのが、徳川家の作戦である。その為(ため)には伏見を犠牲にせざるを得ず。且(か)つ、大軍をここへ足留めできる、屈強の部隊を置かなければ成らなかった。家康は断腸の思いで、元忠と別れの杯(さかずき)を交した。
家康が伏見を発った後、鳥居元忠は留守居の徳川家臣を本丸へ召集し、軍議を開いた。副将の家長と家忠は、元忠の両脇に控える。元忠はこの場で、諸将の持口(もちぐち)を決めた。
「本丸は不肖(ふしょう)元忠と、内藤弥次右衛門殿、内藤小一郎殿。西の丸は松平主殿頭(とのものかみ)殿と、松平五左衛門殿。治部少丸は駒井猪之助殿。名護屋丸は甲賀佐右衛門殿、岩田兵庫殿。坂の丸は深尾清十郎殿…」
「承知。」
「御任せあれ。」
配置が決まった将は意気軒昂(けんこう)、承服の意を示した。
その後徳川家康は緩(ゆっくり)と、本城江戸を目指した。途中で合流する軍勢は、尾張清洲福島正則、三河岡崎田中吉政、同国吉田池田輝政、遠江浜松堀尾吉晴、同国横須賀有馬豊氏、同国掛川山内一豊、駿河府中中村一氏。家康の軍勢には五万が加わり、やがて江戸に到着した。
東海諸将が家康の陣営に加わったのに対し、北陸諸将には中々、徳川に味方する動きが見られなかった。昨年、家康暗殺を企(くわだ)てた咎(とが)に因(よ)り改易され、常陸に流されていた土方雄久が、前田利長の従兄弟(いとこ)に当たるというので、この者を加賀に派遣し、出兵を促(うなが)した。これを受けて、前田家は家康への与力を約束するも、越前諸侯に徳川と対立する動きが有り、西に備える事となった。
特に越前敦賀五万石大谷吉継は、石田三成の子重家を人質に、上杉征伐に加わる予定であったが、三成に与力し、反徳川連合軍の結成に動いていた。毛利家重臣の安国寺恵瓊(えけい)らと接触し、毛利輝元や宇喜多秀家が起(た)つとなると、西国諸侯からも続々と、これに味方する者が出て来たのである。
その頃江戸桜田の内藤邸では、金一郎が母の居間を訪れて、生まれたばかりの、妹の寝顔を覗(のぞ)いていた。金一郎がちょっかいを出そうとすると、
「せっかく寝付いたのに。」
と、母に叱(しか)られた。
そこへ、ドスドスと足音を立てて、政長が現れた。荒々(あらあら)しい物音に、次女は目を覚まして、泣き出してしまった。三宅氏が夫を睨(にら)むと、政長は苦笑して詫(わ)び、自ら娘を抱き上げて、あやした。政長は娘に笑顔を向けながら、妻に告げる。
「儂(わし)の出陣が決まった。」
三宅氏は、俄(にわか)には信じられぬ様子である。
「しかしながら、大殿は京の守りを仰(おお)せ付かり、殿は西国から戻られて日も浅く、兵の数も足りぬのでは?」
「そうも言っては居られぬ。徳川家存亡の時じゃ。安房の里見侯は御味方を約束して居る。所領の事は、江戸留守居の御方に御任せし、儂(わし)は集め得るだけの兵を全て率(ひき)い、江戸を発(た)つ。」
政長は、傍(かたわ)らの長男に目を遣(や)った。
「金一郎。」
「はい。」
「この江戸も安泰かどうかは分からぬ。万一に備え、武芸の鍛錬に励(はげ)め。」
「承知致しました。」
神妙に答える金一郎を見て頷(うなず)くと、政長は娘を妻に渡し、早足で去って行った。
数日後、百騎ばかりの兵が集まると、愈々(いよいよ)出陣する運びとなった。邸内で将兵が隊列を整えている中、政長は甲冑(かっちゅう)を身に纏(まと)い、姿を現した。後ろから娘を抱いた妻と、金一郎も見送りに出て来る。
父が残した家老達は、佐貫城の守りを命じられた。万一里見家が攻め来(きた)れば、家老の権限で、城を焼き払えるからである。政長は家臣に下知する。
「安藤源左衛門、上田甚右衛門。両名には当桜田邸を任せる。江戸城より御下命有らば、それに従う様(よう)。」
「ははっ。」
続いて政長は、長男金一郎に視線を移す。
「御じじ様や叔父(おじ)上、更(さら)にはこの父も居なくなる故(ゆえ)、この邸(やしき)の主は金一郎、御主じゃ。源左衛門や甚右衛門の助けを得て、母上や弟、妹を守るのだぞ。」
「はい。」
金一郎は心細さを圧(お)し殺すのに精一杯(せいいっぱい)で、言葉が続かなかった。
「御無事の御帰りを。」
妻三宅氏の言に頷(うなず)くと、政長は庭に下りて、颯爽(さっそう)と馬に飛び乗った。そして全軍に号令し、江戸城へ向かい、進発して行った。
内藤家の大人達は粗方(あらかた)、邸を出払ってしまった。金一郎は九歳ながら、天下に一大事が起っているのを感じていた。
やがて徳川直属の軍勢が江戸城に揃(そろ)うと、家康はこれに東海甲信等の諸侯をも加え、会津へ向かい北上して行った。
七月十七日、毛利輝元は連合軍の総帥として、久しく徳川家が占拠していた、大坂城西の丸に入った。ここに徳川家康率(ひき)いる東軍、毛利輝元率(ひき)いる西軍と、天下は二分されたのであった。
西軍が東軍に対し有利であったのは、家康の知らぬ間に、二大老三奉行が大坂城に入り、弾劾(だんがい)状を発して、徳川の大義を打ち砕(くだ)いた事。大坂には諸侯の妻子が人質として置かれていた為、西軍はこれらを以(もっ)て、東軍諸侯に揺さ振りを掛けられる、等であった。
石田三成が各藩邸に兵を以(もっ)て押し入った所、丹後宮津細川忠興の妻ガラシャ夫人は、吉利支丹(きりしたん)故(ゆえ)に自害はできぬと、邸に火を放ち、家臣の手で落命した。この報を聞き、下手(へた)に藩邸を威圧すれば、同じ過(あやま)ちを起し、東軍諸侯から要らぬ怨(うら)みを買うと忠告された三成は、以後は藩邸の監視に留め、畿内の平定に移る事を決した。
七月十八日、西軍の宇喜多秀家二万、小早川秀秋二万、島津義弘三千が伏見城に迫(せま)り、守将鳥居元忠に降伏勧告を行った。元忠は城内に残っていた家康の側室達を、高台院や公家の邸へ避難させた後、敢然と徹底抗戦を宣言した。この日の夜、本丸守備の任に在った若狭国(わかさのくに)小浜六万石、木下少将勝俊が夜陰に紛(まぎ)れて伏見を脱出し、本国へ帰ってしまった。他方、徳川家勘定頭の佐野肥後守は、毛利家の大坂城西の丸占拠の後、美濃国で手勢を集め、伏見に馳(は)せ参じた。
上林竹庵という者が居り、宇治より内藤家長を訪ねて来たのだが、不運にも戦(いくさ)に巻き込まれ、太鼓丸の守りを命ぜられた。
十九日、手切れと成った両軍の間に、戦(いくさ)が起った。宇喜多秀家は乾(いぬい)門、小早川秀秋は艮 (うしとら)門、島津義久は西門より押し寄せる。敵は追手門、搦手(からめて)門にも回り、怒濤の勢いを見せる。
家長は老いたといえども、嘗(かつ)ては天下に聞こえた弓の名手である。天守閣より火矢を放ち、郭(くるわ)内に在る侍屋敷を焼き払い、敵の遮蔽(しゃへい)となる物を無くした。また、各地で火の手が拡大した為、敵は進む事能(あた)わず、攻め倦(あぐ)んだ。
同じく七月下旬、細川忠興の居城である田辺城にも、前田茂勝ら率(ひき)いる西軍一万五千が押し寄せた。守将は忠興の父にして、室町幕府足利義昭将軍の側近であった、幽斎藤孝である。忠興が主力を率(ひき)いて東軍に在る為、五百に満たぬ手勢で守っていた。幽斎は、藤原定家以来の二条流歌道を三条西実枝より受け継ぐ、古今伝授の者であった。幽斎が討死(うちじに)を遂(と)げれば、四百年の伝統が途(と)絶(だ)えてしまう。八条宮智仁親王が講和に動いた他、幽斎の弟子が攻め手にも多く、士気は頗(すこぶ)る低かった。
七月二十四日、江戸を発していた徳川家康は、上杉征伐の本営とした、下野国小山(おやま)に到着した。この時に鳥居元忠より、西軍挙兵の報が家康に齎(もたら)されたのである。家康は、諸侯に明日軍議を執り行う旨(むね)布告した後、黒田長政に東軍参加を諸大名に勧める様(よう)、内命した。
その頃、伊達政宗が上杉方の白石城を攻め落し、東軍の意気は上がっていた。愈々(いよいよ)次は我等が白河を攻め取る番だと、息巻く武将が多い中、家康は静かに、軍議の席に着いた。
先ず本多佐渡守正信より、通達が成された。
「石田三成、大谷吉継と共謀し、毛利輝元を頂いて、挙兵に及びたる由(よし)。」
俄(にわか)に、諸将が騒(ざわ)つき始めた。家康はそれを静めた後、悠然と説(と)き始める。
「大坂には諸侯の妻子在り。因(よ)って既(すで)に人質とされて居る心配がござろう。此(こ)は家康、心痛の極み。武士の慣(ならい)として、今日の友が明日敵になるは、珍しからず。故(ゆえ)に諸侯が治部少輔に味方されようが、この家康、少しも御恨(うら)み申さず。御所領への帰路の安全は、家康が保証致さん。」
暫(しば)しの沈黙の後、諸大名から声が上がった。
「妻子に後ろ髪引かれて、武士の道が全うできようか。」
「おお、憎(にく)きは奸臣(かんしん)石田三成じゃ。彼奴(あやつ)の風下には、死んでも立てぬわ。」
「願わくば、某(それがし)に三成打倒の御先陣を。」
家康は諸侯に対し、静かに頭を下げた。
「御気持ち、忝(かたじけな)い。家康、この通りでござる。」
そして再び頭を上げた後、家康は諸大名に尋(たず)ねた。
「では、我等はこのまま会津を討ち、然(しか)る後(のち )に大坂へ取って返すか?将又(はたまた)この場より直(ただ)ちに、西へ上るべきか?」
諸侯は暫(しば)し黙(もく)していたが、やがて先に討つは石田三成との声が高まり、東海道の諸侯が挙(こぞ)って、己(おの)が居城を徳川家に明け渡す事を宣言し、軍議は決した。
「諸侯の御言葉、感謝申し上げる。では直(ただ)ちに小山を引き払い、三成が野望を打ち砕(くだ)かん。」
家康は総大将を四男松平忠吉、目付を井伊直政とし、諸大名を西へ向かわせた。しかし会津や、出兵に応じない常陸の佐竹義宣を気に掛け、家康自身は小山に留まった。これが二十五日の、小山評定である。
二十六日に諸大名が粗方(あらかた)引き払った後、遅れて真田信幸が着陣した。信幸は信濃国上田七万石真田昌幸の長男である。この日、岳父本多忠勝の仲介を得て、家康に拝謁(はいえつ)した。
「遅参の儀、誠に申し訳(わけ)ござりませぬ。」
家康は外方(そっぽ)を向いて居り、同席した忠勝が、冷汗(ひやあせ)をかいて言上する。
「真田昌幸は石田三成と義兄弟。加えて次男信繁は大谷吉継の娘婿(むすめむこ)であり、その誼(よしみ)から、西方へ付くとの由(よし)。」
信幸は一歩躙(にじ)り出て、必死の形相(ぎょうそう)である。
「畏(おそ)れながら不肖(ふしょう)信幸、父や弟と縁を絶(た)ち、上州沼田城の手勢を以(もっ)て、内府様の御役に立ちたく、罷(まか)り越しましてござりまする。」
暫(しばら)く信幸に頭を下げさせた後、家康がぼそりと呟(つぶや)いた。
「会津征伐の先鋒は結城秀康じゃ。その下に付くが良かろう。」
「ははっ。」
真田昌幸は小大名ながら、武田信玄より直々(じきじき)に兵法を学んだ、戦(いくさ)上手である。家康にまた一つ、悩(なや)みの種が増えた。
家康が悠長に小山に滞陣して居られなくなったのは、それから間も無くの事である。三奉行連署による、徳川家の豊臣家に対する不忠を書き連(つら)ねた書状が、家康の許(もと)へ届けられた。二大老三奉行が結託し、秀頼君を頂く事に成れば、徳川家は全国諸大名を敵に回す、賊軍と成る。慌(あわ)てて家康は、東海道軍の目付に本多忠勝を派遣し、松平忠吉を病(やまい)と称させ、江戸に引き揚げさせた。そして結城秀康を小山に残し、徳川秀忠には宇都宮城の改築を命じて、自らは江戸に戻った。
一方京の伏見城では、激戦が繰り広げられていた。一日でも長く持ち堪(こた)えられれば、その分西軍の東進を遅らせる事ができる。三河武士が意地を示す中、戦況を一気に悪化させたのは、味方の裏切りであった。
板の丸を守っていた深尾清十郎は、元は近江六角佐々木氏の家臣であったが、本多正信と深交有って、徳川家に仕(つか)えていた。甲賀の足軽を預かっていたのだが、配下の扱いを粗略にし、怨(うら)みを買っていた。そして甲賀衆は主(あるじ)を見限り、塀柱を切って、裏切りを示す火を上げたのである。
一角が崩(くず)れると、太閤秀吉が築きし名城といえども、寡勢(かぜい)では防ぐ事能(あた)わず。敵味方入り乱れての戦いの中、家長の家臣神谷甚四郎は大工の腕を持ち、必死に消火に努めていたが、愈々(いよいよ)敵の大軍が城内に突入すると、得物(えもの)を太刀に持ち替え、討死した。
松の丸が焼け落ち、矢も底を突くと、家長以下内藤勢は、本丸の外に打って出た。先頭を駆けるのは、小一郎元長である。果敢に敵を斬り伏せるも、敵は次から次へと湧き出て来る。家長も高齢を押して奮戦したが、やがて手傷を負い、目付の安藤治右衛門に命じて、手勢を城内へ引き揚げさせた。
家長は家臣の肩を借り、蹌踉(よろ)めきながら階梯を上って行く。程無く鐘楼に辿(たど)り着くと、ドカリと腰を下ろした。
「原田勘右衛門。」
「はっ。」
「ここに書状を認(したた)めて置いた。そちは敵に紛(まぎ)れて城を脱し、これを政長に届けよ。」
「しかし…」
「よいか。そちはここで儂(わし)と死すより、政長への伝令を果す方が、百倍の功が有る。早(はよ)う行け。」
勘右衛門は、目に涙を溜めている。
「承知、仕(つかまつ)り申した。」
一礼した後、勘右衛門以下数名は、鐘楼から下りて行った。
どうやら、西の丸も落ちた様(よう)である。家長の側に残った安藤治右衛門と小一郎元長は、疾(と)うに覚悟を決めていた。家長は次男元長に告げる。
「元長、子が親より先に逝(ゆ)くは不孝ぞ。因(よ)って、儂(わし)が先に参る。」
元長はまだ、十六歳である。父親としては不憫(ふびん)に思うも、仕方が無かった。
鐘楼に火が付けられ、甲冑(かっちゅう)を脱いだ家長は、ふと介錯(かいしゃく)を務める治右衛門を見上げた。
「そなたや火消の甚四郎は、信康君が遺臣であったな。斯(か)かる剛の者を殿より任され、儂(わし)は果報者であった。」
徳川信康は、家康の長男である。天正七年(1579)に織田信長から、敵対していた武田信勝への内通を疑われ、家康は徳川家の為に苦渋の決断を下し、信康を切腹させた。その時に家康は、信康付きの家臣の多くを、内藤家長に預けたのである。
「殿は江戸入部の折も、我が桜田の邸を、御(おん)自ら縄張(なわばり)をして下された。この家長、ここ伏見に於(おい)て最期を遂(と)げるも、一辺の悔(く)いや有らん。政長、後は頼むぞ。」
直後、家長は切腹して果てた。そして元長、治右衛門もこれに続いた。
伏見城本丸に最後まで残った鳥居元忠の許(もと)にも、遂(つい)に敵勢が侵入して来た。野村肥後守の家臣雑賀孫市重朝が元忠に槍を向けると、元忠は従容(しょうよう)と座し、手柄首として持ち帰る様(よう)に勧めた。孫市は斯(か)かる人物を討ち取るは忍びなしと答え、元忠に切腹を促(うなが)した。元忠はその言葉を甘受し、孫市に介錯(かいしゃく)を頼んだ。
八月一日巳(み)の刻、伏見城は宇喜多、小早川、島津の大軍に因(よ)り攻め落された。伏見方千八百の尽(ことごと)くが死傷に対し、攻め手の被害は二千五百であったという。内藤家長享年五十五歳、鳥居元忠は六十二歳であった。
家長の命を受けた勘右衛門は、伏見城の脱出に成功し、一路東へ走った。数日を経て、漸(ようや)く江戸桜田邸に到着した時、政長は下野小山に在った。伏見を切り抜けた火急の伝令というので、安藤源左衛門は勘右衛門を伴い、登城に及んだ。
江戸城本丸にて、家康直(じき)々(じき)の目通りが許され、勘右衛門は直(じか)に、伏見落城の様子を申し上げた。京で三河武士が半月近くも意地を見せ、見事に散って行った事を聞いた後、家康は勘右衛門に告げる。
「そちが無事に江戸へ戻り、伏見の情勢を具(つぶさ)に報告したる段、実に感謝の念を抱(いだ)く物なり。そちは小山へ向かい、左馬介(さまのすけ)に伝えるべし。佐貫内藤家を家督せよと。」
「ははっ。有難き幸せに存じ奉(たてまつ)りまする。」
勘右衛門と源左衛門は、同時に平伏した。
下城後、源左衛門は勘右衛門に、新しい馬と携行できる飯を用意してやった。勘右衛門は有難く受け取ると、直(す)ぐに小山を目指して駆けて行った。
源左衛門は桜田邸に戻ると、先ずは三宅氏と金一郎を一室に招いた上で、当主家長と元長の討死、そして政長の家督相続を伝えた。本来なら、政長の相続は大いなる慶事である。しかし家長、元長両名の死は、それを相殺(そうさい)して余り有る不幸であった。
内藤家長は、家康が三河の一大名であった頃から仕え、三河の一向一揆に始まり、越前朝倉攻め、長篠の合戦、小牧の合戦、小田原先陣など、数々の武功を挙げし兵(つわもの)である。それを考慮の上、源左衛門は三宅氏に尋ねる。
「佐貫の所領には、然(さ)したる兵も残されて居りませぬ。今、大殿の御逝去を家中に公表して良い物か。」
「妾(わらわ)に確たる事は言えませぬ。甚右衛門殿には報(しら) せ、両人合議の上で決めて下され。」
「ははっ。」
源左衛門は承服すると、退室して行った。
残された金一郎に、母が告げる。
「よいですか。御じじ様の死は御家の一大事。当分は、人に知られる事の無き様(よう)。」
「畏(かしこ)まりました。」
金一郎は、自分に武士の心構(がま)えを教え、弓の使い方を指南してくれた祖父や、剣の稽古をつけてくれた叔父の死が、俄(にわか)には信じられなかった。湧き出て来る感情は、唯々(ただただ)己(おのれ)の無力を悔やむ気持であった。
勘右衛門はやがて、家長の遺書を政長に渡し、同時に、家康より相続の許しが下りた事を報告できた。政長は涙を堪(こら)えつつ、遺書を読み終えると、大地を強く蹴った。
「儂(わし)は、ここ小山で燻(くすぶ)っては居られぬ。早(はよ)う西へ上り、父上や弟の仇を討ちたい。」
隣で、家臣の安藤志摩定次が言上する。
「我が父治右衛門も、伏見で討死(うちじに)を遂(と)げたる由(よし)。御気持は痛い程よう解りまする。しかし怒りに身を任せる事は、有っては成りませぬ。せっかく家長公が興せし内藤の御家。殿の身に万一の事有らば、遺(のこ)されるは幼き金一郎君にござりまするぞ。」
「相(あい)解った。」
政長は不満気な顔のまま、床几(しょうぎ)に腰を下ろした。
伏見落城後、西軍は近江大津の京極高次を降伏させ、宇喜多秀家や小早川秀秋らは伊勢へ、石田三成や島津義弘らは美濃へ侵攻した。美濃大垣三万石伊藤盛正や、同国岐阜十三万石織田秀信は西軍に与(くみ)し、濃尾国境で東西両軍が睨(にら)み合う形となった。しかし西軍の主力は伊勢に在り、東方は総帥徳川家康の不在に因(よ)り、直(ただ)ちに両軍がぶつかる事は無かった。
東軍諸将は戦(いくさ)を前に熱(いき)り立ち、目付の本多忠勝、井伊直政に対し、頻(しき)りに家康の出馬を促(うなが)した。家康も、江戸でのんびりしていた訳ではない。西軍の将に、内応を呼び掛けていたのである。家康は東軍先遣隊の本営、尾張清洲に使者を送り、自身は風邪(かぜ)で動けぬが、諸侯は何故(なにゆえ)動かぬのかと、逆に尋ねた。
東軍も諸大名の連合軍である上に、家康より豊臣家に忠義を尽(つく)す者、西軍に人質を取られている者、様々(さまざま)であった。互(たが)いに疑心を抱(いだ)いている諸将を試すべく、先ずは先遣隊のみで岐阜城を攻め取る様(よう)、家康は命じた。
八月二十二日、東軍は二路に分かれ、それぞれ福島正則、池田輝政を先頭に、美濃へ入った。岐阜城の守将織田秀信は、織田信長の嫡孫(ちゃくそん)である。東軍諸将は各々(おのおの)功を焦(あせ)り、戦(いくさ)目付の作戦を守らず、力攻めをした。一方、大垣城の石田三成は、毛利輝元の援軍を得られず、岐阜城を支援する兵が足りなかった為に、一日で岐阜は陥落した。
その頃、宇都宮に移っていた内藤政長は、江戸の家康に宛(あ)てて、上方への出撃を熱望する書状を送っていた。その甲斐(かい)有って二十四日家康より、結城秀康から徳川秀忠の麾下(きか)に移る事が許された。同時に、秀忠の軍は中山道を進撃する様(よう)、御下命が有った。政長は喜び勇(いさ)んで、秀忠軍の陣触(じんぶ)れに応じた。
一方江戸の家康は、外様(とざま)の東軍が岐阜城を落した事で、西軍への寝返りは無いと判断し、九月一日に重い腰を上げ、松平忠吉の手勢を伴(ともな)って、東海道を西へ向かった。江戸留守居を任されたのは、五男の武田信吉であった。
政長が配属された秀忠軍は、下野(しもつけ)から上野(こうずけ)を経て、中山道に沿って碓氷(うすい)峠を越え、信州に入った。三万八千を数える、徳川直参(じきさん)の主力部隊である。小諸(こもろ)まで来た時、大久保忠隣らが、西軍与力を鮮明にした、上田城の真田昌幸攻略を進言した。目付の本多正信は、真田は小勢故(ゆえ)に、放って置いても問題は無く、下手(へた)に手を出せば、名うての戦(いくさ)上手故(ゆえ)に、味方の被害が大きくなると、これに反対した。総大将の秀忠は、これが初陣である。僅(わず)か二千の上田勢など、一揉(も)みで潰(つぶ)せると考え、初陣を飾るに丁度(ちょうど)良いと、上田攻めを決めた。
信州上田城は山に囲まれ、兵を伏せるに適した所が随所に在った。真田昌幸は伏兵で敵が怯(ひる)んだと見るや、城内の本隊で一気に崩(くず)し、徳川方が態勢を立て直す頃には、既(すで)に城内へ引き揚げていた。
徳川勢の被害は日に日に増え、上田城が落ちる気配(けはい)は、一向に見られなかった。秋の雨天に晒(さら)される徳川陣営に、早馬が到着した。家康からの命令で、中山道軍を九月十日までに美濃へ到着させよ、という物であった。秀忠は直(ただ)ちに軍勢を引き払い、西へ急行させた。とは言う物の、長雨で道は泥濘(ぬかる)み、川は増水し、進軍は遅々(ちち)たる物にならざるを得なかった。
*
西軍の主力が伊勢を制圧し、美濃に到着する一方で、家康の西進を受けて、近江大津の京極高次が、東軍へ寝返った。大津は美濃と京、大坂の間に在る要衝で、西軍は直(ただ)ちに一万五千の大軍を、大津城へ向かわせた。京極高次の妻お初の方は、秀頼生母淀殿の妹であると同時に、五年前に徳川秀忠の正室に迎えられた、お江の方の姉である。豊臣家が公然と西軍を支持しない以上、縁戚では東軍の方が近く、弟である信州飯田の京極高知は、岐阜城攻略に加わっていた。
やがて家康本隊が美濃に到着し、東軍の士気が上がる暇(いとま)も無く、石田三成の家臣島左近清興が、手勢五百を率(ひき)いて杭瀬川を渡河し、東軍に打撃を与えた。
東軍は岐阜城、西軍は大垣城を本営とし、いつ大戦(おおいくさ)が起るか分からぬ事態の中、数日間睨(にら)み合いが続いた。東軍は中山道軍の到着を待ち、西軍は大津城の落城と、総大将毛利輝元の出馬を待っていたのである。家康としては、西軍を只(ただ)撃滅させるだけでなく、戦後の論功行賞も考慮し、直参(じきさん)に手柄(てがら)を立てさせる必要が有った。
さて、地方に目を向けると、家康が西に向かったのを見て、伊達政宗は上杉景勝と和睦(わぼく)。上杉家米沢城主直江兼続は、山形の最上義光領に攻め込んでいた。九州豊前では、かつて秀吉の軍師であった黒田如水孝高(よしたか)が、大坂より帰国して、西方諸侯と戦(いくさ)を始めていた。
九月十三日、前田茂勝ら一万五千を相手に戦っていた、丹後田辺城の細川幽斎は、遂(つい)に周仁(かたひと)(後陽成)天皇が勅使を派遣し、開城する運びとなった。古今伝授の者が討死する事の無き様(よう)、朝廷が動いたのである。芸は身を助ける、の一例となった。
十四日、大津城が愈々(いよいよ)危(あや)うくなると、家康は秀忠率(ひき)いる徳川主力部隊の到着を待たずに、軍勢を西へ進めた。西軍が立て籠(こも)る大垣城は、東軍とほぼ同じ数で守っている。ここを戦場(いくさば)にして時を費(つい)やせば、西方は田辺、大津、大坂より、大軍が駆け付けるであろう。一方の東方は、秀忠軍が合流したとしても、難路を抜けたばかりでは、怖らく兵は疲れ果てている事であろう。家康は大垣を素通りし、中山道を西に向かった。そしてこれを見た西軍を、城から誘(おび)き出すのに成功したのである。
再び両軍が対(たい)峙(じ)したのは、中山道から北国往還と伊勢街道が分岐する、関ヶ原という盆地であった。ここには既(すで)に、大谷吉継四千が布陣して居り、西方の山並は、やがて馳(は)せ参じて来た、西軍諸侯の旗で埋(う)め尽(つく)されていた。
東軍本陣は東の桃配(ももくばり)山に置かれ、主力は石田三成がいる、笹尾山の麓(ふもと)に侵出した。また桃配山の東、南宮山には毛利秀元、長宗我部盛親併(あわ)せて二万以上が配置され、これに備えて東軍は、池田輝政、浅野幸長、山内一豊ら、一万以上を東に回さねば成らなかった。加えて南西の松尾山には小早川秀秋率(ひき)いる一万五千が布陣するも、内応を約束していた為に、備えは置かなかった。
斯(か)くして翌十五日早朝、東軍先陣の福島正則を抜け駆けして、松平忠吉と井伊直政が、西軍宇喜多秀家の陣を朝駆けし、戦(いくさ)が勃発した。東西両軍は共に八万余騎。兵力は互角であった。特に笹尾山の近くが激戦となり、石田三成、小西行長、宇喜多秀家、大谷吉継隊に対し、東軍は福島正則、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、藤堂高虎、田中吉政、京極高知らが入れ替り立ち替わり、波状攻撃を繰り返した。
東軍は果敢に攻め続けた。周囲を囲(かこ)まれ、また低い所に布陣しながら崩(くず)されなかったのは、家康の調略に因(よ)る物であった。毛利家の吉川(きっかわ)広家を内通させ、南宮山の毛利勢二万を足留めさせた事と、松尾山の小早川秀秋一万五千が静観していた事が、有利に働いた。
やがて石田三成勢は猛将島左近を失い、蒲生郷舎(さといえ)が奮戦していた。郷舎は政長の長女が嫁(とつ)いだ郷喜とは、兄弟であった。しかし蒲生騒動で主家が下野宇都宮に減封されると、出奔(しゅっぽん)して、石田三成に仕えていたのである。
開戦から三時間。勝機が見えぬのに苛(いら)立ち、家康は桃配山を下りて、本多忠勝隊に合流した。そして機を見て遊撃部隊を、突っ込ませたのである。
「倅(せがれ)が居れば、斯(か)かる苦労はせずに済んだであろうに。」
家康の愚痴(ぐち)を聞いて、側の家臣が尋ねる。
「其(そ)は、中納言様にござりまするか?」
「秀忠ではない。長男信康じゃ。」
この日は、徳川信康の命日であった。
東西共に犠牲が増え、苦戦に陥(おちい)ると、勝敗の帰趨(きすう)は、小早川秀秋の去就如何(いかん)となった。石田三成は再三再四使者を遣(つか)わすも、言葉を濁(にご)して動かず。一方で、徳川方の寝返りの合図にも、中々応じなかった。家康は鉄砲を用意し、松尾山に撃ち込んだ。これを受けて、小早川勢は出撃せざるを得なくなったが、東西どちらに付くのか、家康の賭(か)けであった。
小早川家の若い当主が下した決断は、大谷吉継隊への突撃であった。途中、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱の四将がいたが、小早川軍の怒濤(どとう)の進軍に気圧(けお)され、挙(こぞ)って寝返ってしまった。
大谷吉継は正面の敵勢で手一杯であった所、都合二万が突如、脇腹に攻め寄せて来たので、構(かま)えは崩(くず)され、支離滅裂に潰走した。吉継は癩病(らいびょう)を患(わずら)い、侵(おか)された顔を日頃から、布で覆(おお)い隠していた。故(ゆえ)に切腹後、家臣に首を埋(う)めさせ、敵に晒(さら)されぬ様(よう)にした。
続いて関ヶ原に於(お)ける西軍の総大将、大老宇喜多秀家の主力も破(やぶ)られ、敗走した。小西行長もまた、同じであった。
西軍を纏(まと)めて来た笹尾山の石田三成は、敗北を悟ると、僅(わず)かな御供を率(ひき)いて、居城佐和山方面へ逃(のが)れて行った。
最後に、井伊直政、松平忠吉勢と対(たい)峙(じ)していた、島津勢が残された。周囲の味方の陣は既(すで)に落ち、孤立無援となった千五百騎の大将、島津惟新斎義弘が下した決断は、徳川本隊への強行突破であった。流石(さすが)に九州を震撼(しんかん)させた鬼島津四兄弟の次男であり、井伊直政、松平忠吉に手傷を負わせると、その隙(すき)に伊勢街道へ出る事ができた。ただ、副将で甥(おい)の島津豊久は、討死を遂げた。
元亀四年(1573)、当時一万の軍で浜松城に籠(こも)っていた徳川家康は、武田信玄に三方ヶ原へ誘(おび)き出され、野戦に於(お)いて、一日で敗走した事が有った。往時の敗戦を活(い)かし、此度(こたび)関ヶ原に於(おい)て、八万の軍を半日で壊滅させるという、未曾有(みぞう)の大勝利を収めるに至ったのである。
家康は戦後、小早川秀秋以下、寝返りの五将を賞すると共に、直ちに江州佐和山を落し、石田三成の退路を断(た)つ様(よう)命じた。
関ヶ原の合戦から二日後、小早川勢は佐和山への攻撃を開始した。城主三成が主力を率(ひき)いて出払っている為に、この名城も翌十八日に落城した。
大津城は既(すで)に西軍の手に落ち、城主京極高次は淀殿の義弟という事で、高野山へ流されていた。しかし東軍が大挙して押し寄せて来た為、二十日に家康は入城する事ができた。
この日、中山道の秀忠軍が漸(ようや)く、大津城で家康本隊に追い付く事ができた。しかし、天下を二分する大戦(おおいくさ)に遅参した事は、東軍諸侯から見ても、大いなる失態である。家康は、秀忠の目通りを許さなかった。
細川忠興が所領田辺城の奪還に動く他、東軍諸将は残党狩りに精を出していた。小西行長、毛利家の安国寺恵瓊が捕(つか)まり、二十一日には田中吉政の兵が、石田三成を捕(とら)えた。石田三成と田中吉政は、共に秀吉の小姓として仕えた仲でもあった。翌日、石田三成は大津城へ送られた。
二十三日、秀忠は漸(ようや)く、家康との対面を許された。三日間の対面不許可には、三つの理由が考えられる。一つは諸大名への体面。二つは秀忠に猛省を促(うなが)す事。そして三つは、強行軍で疲れ切った徳川の主力部隊を、休ませる事である。
二十六日、家康は京の南、淀城へ軍を進めた。西軍の総大将毛利輝元は、家臣の吉川広家が宜(よろ)しく働き掛けているというので、神妙に大坂城西の丸を出て、城下の藩邸に移った。西軍はここに消滅し、奉行の増田長盛、前田玄以は国許(もと)へ逃亡した。もう一人の奉行、長束正家は関ヶ原に出陣し、既(すで)に切腹しているので、秀吉が遺(のこ)した五大老五奉行の体制は、完全に崩壊した。
二十七日、家康は大坂城に入り、東軍諸侯と共に、秀頼君並びに淀殿から、戦勝を賀する言葉を頂いた。
十月一日、敗軍の将石田三成、小西行長、安国寺恵瓊は、市中引回しの上、京六条河原で斬首に処された。
さて、大(おお)戦(いくさ)が集結すると、当然論功行賞が行われる。だが東軍諸侯の所領を加増するその前に、当然西軍大名の所領を、削(けず)らなければ成らない。石田三成に与(くみ)した二奉行、増田長盛、前田玄以は改易処分となった。
続いて苦境に立たされたのは、毛利家であった。徳川家より改易を通達され、代りに周防(すおう)、長門(ながと)二国三十七万石を、吉川広家に与える事で、決着を見るかと思われた。
しかし毛利家には、三矢(し)の教えが有る。戦国の英雄、毛利元就が三人の子に伝えた、矢は一本では容易(たやす)く折れるが、三本束(たば)ねれば折れ難(にく)いという話である。三本の矢とは、毛利家、吉川家、小早川家である。小早川家には、高台院の甥(おい)である秀秋が養子に入ったが、吉川家の当主広家は、元就の孫である。
加えて広家は、毛利家の所領安(あん)堵(ど)の為に、東軍に内通していたのである。必死に、毛利輝元に徳川家と事を構(かま)える積(つも)りは無かった事を説明するも、西軍が東軍諸侯の引き抜きに用いた多くの書状には、輝元の花押(かおう)が有り、徳川家はこれを以(もっ)て、輝元の罪とした。
十月十日、毛利家は広家に与えられる予定であった、防長二国三十七万石に減封され、広家はその内、岩国一万石に封ぜられた。吉川家は何とか、毛利家を存続させる事が叶(かな)った物の、久しくその主家から怨(うら)まれる事となった。
東軍諸侯の恩賞の沙汰は、十五日より、順次公表された。安芸、備後は福島正則に与えられ、代って尾張一国を、松平忠吉が拝領した。また西軍に加担した越前の諸大名も処分され、こちらの一国は、結城秀康に与えられた。石田三成の旧領には井伊直政、宇喜多秀家の旧領には小早川秀秋が入り、小西行長の旧領は加藤清正に与えられた。
徳川に味方した諸大名の多くが、西国の大名となり、関東、東海、甲信の大半は、徳川譜代の家臣に与えられた。
東軍に味方した大大名の内、前田利長は北陸を守った功に因(よ)り、百万石を安堵(あんど)された一方、百万石を約束されていた奥州の伊達政宗は、無用に南部利直の所領に手出しをした事を咎(とが)められ、六十三万石への微増となった。
関ヶ原で徳川本陣を突っ切って逃走した島津惟新斎は、生きて薩摩に戻る事ができた。そして十一月二十二日に、謝罪文を送って来たのである。九州には島津と昵懇(じっこん)の大名が多く、また家康とも、伏見を頼まれる程の仲であり、加えて鳥居元忠と諍(いさか)いが有るなど、已(や)むを得ぬ事情が勘案されて、島津家の処罰は先送りとなった。
*
年が明けて慶長六年(1601)、大坂城に於(おい)て新春参賀の儀は恙(つつが)無く執(と)り行われた。しかしこの時、豊臣家を揺るがす事件が起きていた。昨年十二月十九日に、九条兼孝が関白に就任していたのである。関白職は秀吉、秀次と世襲され、豊臣家が諸大名の上に立つ為に、絶対不可欠の物であった。朝廷から通達が無く、遅れてこの事を知った淀殿は、家康を警戒する様(よう)に成り始めた。
春のとある日、家康は実子を除(のぞ)く、譜代の大名を召集した。政長も何事かと、登城に及んだ。
狭(せま)い一室に、家臣団が犇(ひしめ)く様(よう)に座った。そして上座の家康は、諸将に諮問(しもん)した。
「徳川家の世継(よつぎ)には、誰が相応(ふさわ)しかろう?」
誰も、答えを返す者はいない。家康が進んで議題に踏み込む。
「秀忠で良いか?それとも他に居るか?」
名指しで、宿老から順に尋ねられた。すると多くが、年長者の結城秀康、もしくは関ヶ原先陣の松平忠吉を挙げた。政長は相続間も無く、経験や交流が乏(とぼ)しい事から回答を差し控えたが、秀忠を推したのは、大久保忠隣位(くらい)であった。
然(しか)して三月下旬、豊臣秀頼と徳川秀忠に、権(ごんの)大納言昇進の宣旨(せんじ)が有った。家康が後継者に選んだのは、意外にも秀忠であった。また、家康は秀忠次女珠(たま)姫を前田犬千代に嫁(とつ)がせるべく、秀忠に江戸下向を命じた。政長もこれに伴う事となり、再び江戸の地を踏める事を喜んだ。
一方、秀頼が家臣である秀忠と同列に置かれた事で、淀殿は憤激した。そして、秀忠長女千姫と秀頼の婚礼を、延期させる事にしたのである。
秀忠が江戸に到着すると、政長は軍役を解かれ、桜田邸へ戻った。家老の安藤源左衛門並びに上田甚右衛門の出迎えを受け、邸内に入ると、妻三宅氏と長男金一郎、次男於丹生(おにぶ)、そして幼い次女の姿が見えた。政長が駆け寄ると、三宅氏が顔を上げる。
「よくぞ、御無事で。」
金一郎も、父を見上げた。
「此度(こたび)の大勝利、おめでとうござりまする。」
「うむ。留守中御苦労。」
毅然(きぜん)と答えた積(つも)りであったが、あどけない次女の顔を見ると、ついつい顔が綻(ほころ)ぶ。政長は次女を抱き上げ、
「おう、大きゅうなったのう。」
と、笑顔を振り撒(ま)いた。
「甚右衛門。」
ふと、政長は家老を呼んだ。
「はっ。」
「今年は父上の一周忌じゃ。手筈(てはず)は整っていようのう?」
「御命日の八月一日までには、佐貫に善昌寺が落成する運びと成りましょう。」
「うむ。母上の位(い)牌(はい)も、そこへ御移し致そう。金一郎は、御ばば様の事は覚えて居るか?」
「いえ、余りよくは。」
「あの時、そちは未(いま)だ四つであったか。だが、孫のそちをよくかわいがった物じゃ。今年は佐貫に参り、父母の弔(とむら)いをすると共に、金一郎には所領を見て貰(もら)おう。」
「承知致しました。」
政長は娘の顔を覗(のぞ)きながら邸に上がると、皆に下知する。
「今宵(こよい)、凱旋(がいせん)の宴(うたげ)は許す。しかし、明日からは喪(も)に服する。」
妻子並びに両家老は、挙(こぞ)って承服した。
八月一日、内藤政長は金一郎を連れて佐貫に入り、浄土宗善昌寺に於(おい)て、一周忌の法要を執り行った。導師は、先代家長の叔父内藤甚五左衛門忠郷の三男、演誉昌馨である。三河国松応寺の僧で、釈誓巌という法名を持つが、政長に招聘(しょうへい)され、この善昌寺を開基した。
仏前には三つの位牌が並ぶ。
義松院厳誉繁応善昌大居士 家長
馨宗院殿荘誉月庵理慶大姉 松平忠長女
修徳院殿顕挙花春善慶大居士 元長
家臣の多くは、内藤家の柱石を失った事に涙した。
法要を終えた後、政長は金一郎を連れ、領内の巡検を行った。民情視察に加え、佐貫の地理を教えた後、城が見える小山に登り、行厨(こうちゅう)を取った。
政長と金一郎は並んで草地に座り、飯を頬張(ほおば)る。ふと、政長が箸(はし)を休めて、金一郎に目を遣(や)った。
「どうじゃ、我が内藤家の所領は?」
金一郎は慌(あわ)てて飯を飲み込んで、少し噎(む)せながら答える。
「山海の自然に囲まれ、良き所と存じまする。」
「それだけで、満足できるか?」
「は?」
「大人なれば、大名であれ、百姓であれ、暮し向きに目が行く物ぞ。」
金一郎は、少し気になった事を答えた。
「田畑に男衆が少なく、女子(おなご)や老人が多かった様(よう)に存じまする。」
「そなたにも気が付いたか。着眼は先(ま)ず先(ま)ずの様(よう)じゃな。では、その原因は解(わか)るか?」
「いえ。」
「実はな、儂(わし)と御じじ様の所為(せい)なのじゃ。」
「えっ?」
金一郎は、目玉を大きくして驚いた。政長は、遠く海を見詰めている。
「御じじ様が、多くの男衆を率(ひき)いて京の伏見で戦い、尽(ことごと)くが討死した。また、儂(わし)も残りし僅(わず)かな者達を連れて上洛したが、途中難路でのう。幾人かが崖(がけ)から落ちたり、また濁流(だくりゅう)に飲まれてしもうた。」
「しかしそれは、家康様の御命令にござりましょう?」
「いかにも。しかし、民は恨(うら)まずには居られまい。またその恨(うら)みが主君に及ばぬ様(よう)努めるのが、家臣の役割じゃ。」
「家康様に代って、恨(うら)まれるのでござりまするか?」
「それだけでは、領主としての器(うつわ)には足りぬ。戦(いくさ)が必然である以上、徴発されし農民が死しても、その遺族の暮しを守ってやる必要が有る。放置致さば、民はあの佐貫城を築きし名将、里見義弘を懐(なつ)かしもうぞ。」
「では、どの様(よう)にすれば良いのでござりましょう?」
「う~む。それが難題じゃ。それを見付ける為に、こうして領内を直(じか)に見て回る必要が有る。目下(もっか)、男手が無くとも成り立つ、生業(なりわい)を探して居る。未(いま)だ、幼子(おさなご)を飢(う)えさせぬ様(よう)にするだけで、手一杯だがのう。」
金一郎はまだ、父の悩みをよく理解できなかった。そして、己(おのれ)の小ささと父の大きさを、十歳なりに感じ始めていた。
食事が済むと、親子は再び馬に乗り、家臣と共に巡検の続きを始めた。
上方(かみがた)では八月八日、結城秀康に伴われ、上杉景勝が伏見城を訪れた。そして、家康に謝罪を申し上げた上で言い渡されたのは、会津、佐渡、庄内の召し上げであった。会津と庄内は米所であり、佐渡は金山を有する。十六日、上杉家は改易こそ免(まのが)れた物の、置賜(おきたま)、信夫(しのぶ)、伊達三郡の、三十万石に減封された。普通、減封には多くの浪人を出す物であるが、景勝は先代上杉謙信以来、不敗の家臣団を解雇しなかった。少ない扶持(ふち)を分ち合い、苦労を共にする道を選んだのである。斯(か)くして十一月二十八日、上杉家は大所帯のまま、出羽米沢へ退去して行った。
上杉家に代って会津六十万石に封ぜられたのは、嘗(かつ)ての会津藩主にして家康の娘婿(むすめむこ)、蒲生秀行であった。政長の縁者である蒲生郷成は、守山城代に任ぜられた。
*
明けて慶長七年(1602)、家康は伏見に留まり、恒例の大坂城での新年参賀に欠席した。そして、諸大名が大坂と伏見、どちらを訪れるのかを見たのである。加えて、豊臣家の面目を損ねる事を始めた。京の二条に徳川家の城を築くべく、西国大名に普請(ふしん)を命じたのである。毛利輝元、上杉景勝は減封処分、宇喜多秀家は滅亡、前田利長は服属。大老は最早(もはや)家康一人となり、天下人の様(よう)に振舞(ふるま)った。
四月、前(さき)の会津征伐で徳川家の命に背(そむ)き、中立の立場を取っていた、常陸五十三万石の佐竹義宣が上洛し、処分が下される事となった。五月八日、佐竹義宣は出羽秋田二十一万石に減封され、これに服属する陸奥飯野平十二万石岩城貞隆、同国小高六万石相馬義(よし)胤(たね)、常陸龍ヶ崎四万五千石蘆名義広の三名は、改易処分となった。相馬家には佐竹家より、客分の扱いで一万石を任される運びとなり、当主義胤は平将門以来の相馬家を残せると、これを甘受した。しかし世嗣(せいし)三胤が御家断絶を覚悟で伏見に上り、相馬家再興を願い出た。その頃、嘗(かつ)ての宿敵伊達政宗も上洛して居り、所領安堵を言い渡されていた。三胤は先ず、伊達政宗に接近した。そして相馬家旧領に徳川直参が入るよりも、外様小大名相馬家が存続した方が有利である事を力説した。
斯(か)くして伊達家の取り成しを得た三胤は、徳川家臣土井利勝に接触する事が叶(かな)った。村人が村界を争うだけで、事は代官、延(ひ)いては大名の争いに発展する怖れが有る。徳川家と伊達家の間に、六万石の外様大名が居た方が、天下の安泰には良いであろうと話が纏(まと)まり、利勝から家康に裁可を仰(あお)いだ上で、認可が下りた。ここに相馬三胤は父の跡を継がずに、父の旧領六万石の大名と成った。しかし小高は山城故(ゆえ)に破却し、北方仲村に新たな平城を築く事が条件とされた。三胤は利勝と懇意(こんい)となり、偏諱(へんき)を頂いて、名を利胤と改めた。相馬中村藩の祖である。
一方で六月、皆川広照が岩城家執権佐藤大隅守より、飯野平城を接取した。この月には常陸笠間に於(おい)て、佐竹、岩城両家立ち退(の)き後の処理に係る定書(さだめがき)が提出され、徳川家の所領は奥州楢葉郡にまで及んだ。
佐竹氏の歴史は長い。家祖は河内源氏の棟梁源頼義の三男、新羅三郎義光である。永保(えいほう)三年(1083)に起った清原氏の内訌(ないこう)に、陸奥守源義家が介入して大戦(おおいくさ)に発展したのが、後三年の役(えき)である。義光は官職を捨ててまで、兄義家の援軍に馳(は)せ参じ、源氏は苦戦の末、勝利を収める事ができた。その後義光は、奥州勿来(なこそ)の関近くに広がっていた、菊多の庄の管理権を勝ち取り、西方八溝山の麓(ふもと)にして久慈川の上流、依上(よりがみ)に城を築き、居城と成した。義光の子は久慈川に沿って所領を拡大し、中流域佐竹の庄を抑えた義業(よしなり)の子孫が、佐竹の姓を冠する様(よう)になる。また義業の兄弟で義清という人物が、下流武田の庄まで進んで、武田を姓としたが、子の行い悪く、甲斐国へ移住する事となった。この子孫が、甲斐武田氏である。佐竹氏も清和源氏の末裔(まつえい)で、実に五百年に渡り、常陸国久慈川流域を支配して来たのである。それが、遂(つい)に移封となった。
佐竹家の旧領水戸は、家康の五男武田信吉に、十五万石で下された。そして岩城貞隆の旧領十二万石の内十万石を、鳥居家を相続した忠政に下される運びとなった。
この年の四月十二日、内藤政長の父家長の従弟(いとこ)に当たり、徳川十六将に数えられた、内藤甚一郎正成が逝去した。頼もしき親類を失った政長であったが、訃報(ふほう)の後には吉報が待っていた。
江戸桜田の内藤邸に、家康の使者として、本多正信が遣(つか)わされて来た。政長は正信を客間へ案内し、家老と共に下座へ控(ひか)える。正信は書翰(しょかん)を広げ、厳かに読み上げる。
「内藤左馬介政長。右の者、徳川家への忠勤篤(あつ)く、また先代家長の功績を鑑(かんが)み、常陸国江戸崎六万石を与える。」
政長は静かに一礼すると、正信を見上げて尋ねる。
「畏(おそ)れながらその儀、辞退致しまする事、叶(かな)いましょうや?」
後ろの家老達が、驚いて膝(ひざ)立ちになる。正信も目を白黒させて問い返した。
「要らぬと申すか?」
「過分なる御配慮、誠に有難く存じ奉(たてまつ)りまする。ただ…」
「ただ?」
「江戸の守りが、気に掛かり申す。」
正信は大いに笑った。
「越前に秀康殿、尾張に忠吉殿在り。加えて関東、東海、甲信の大半は、徳川譜代の大名じゃ。江戸のどこが危(あや)うい?」
「では、安房国は?」
「里見殿は嘗(かつ)て、小田原で太閤殿下の逆鱗(げきりん)に触れ、下総、上総、安房の所領悉(ことごと)く召し上げとされる所を、殿の取り成しに因(よ)り、安房一国を安堵された経緯(いきさつ)が有る。会津討伐の折には、結城秀康殿の軍に加わって居る故(ゆえ)、徳川に弓引く事は致すまい。」
「では、豊臣恩顧の西国大名が、秀頼君を頂き、水軍を以(もっ)て安房に押し寄せれば、如何(いかが)相(あい)成りましょう?安房へ通ずる道は狭(せま)く、大軍の通行が容易ならざる上に、安房を泊地とした水軍が浦賀水道を抜ければ、江戸を遮(さえぎ)る物は皆無と存じまする。」
「確かに。徳川家に船戦(ふないくさ)の兵法を知る者は少ない。」
「当家は目下、志摩国(しまのくに)九鬼家より水軍の人材を引き抜きつつあり。水戦の兵法を得て、浦賀水道の西を佐渡守様、東を不肖(ふしょう)政長が固めますれば、海の上も安泰にござりましょう。嘗(かつ)て源頼朝公は石橋山で敗れた後、安房国より再起し、征夷大将軍に御昇り遊ばされた例もござる。」
「征夷大将軍か…ふむ。そなたの言、一考に値する。では、追って沙汰を致す。」
「ははっ。」
正信は苦笑した。
「全(まった)く、六万石を欲しいと言う者有れば、六万石を要らぬと言う者も居る。困った事じゃ。」
正信は猶(なお)も笑いながら、客間を去って行った。
後ろから、安藤源左衛門の溜息(ためいき)が聞こえる。
「本に殿は、忠臣にござりまするな。九鬼家の者を新たに召し抱える以上、所領の加増が無くば、困りまする。」
「心配致すな。佐渡守様なれば、その辺りも汲(く)み取ってくれよう。」
呑気(のんき)な主君に、他の家老の口からも、溜息(ためいき)が漏(も)れた。
その日の夕餉(ゆうげ)時、普段と変わらぬ父を見て、金一郎が尋ねる。
「父上、解らぬ事がござりまする。」
政長は汁を啜(すす)ってから返した。
「何じゃ?」
「六万石御辞退の儀、誠にござりましょうか?」
「これっ。」
隣で幼い次男の世話をしていた母が、金一郎を窘(たしな)める様(よう)に制した。
「よいよい。」
政長は漬物を口に運び、ポリポリと噛(か)みながら、金一郎に話の続きを促(うなが)した。
「では御尋ね致しまする。大名が忠義を尽すは、禄(ろく)を得る為であるのが、鎌倉の頃よりの、武家の慣(ならい)と聞き及びまする。」
「ほう。では、忠義とは何ぞ?」
「御じじ様の如(ごと)く、死しても主君を御守り致す事と心得まする。」
「確かに、御じじ様は徳川家の忠臣であられた。しかし、そちは違う様(よう)じゃな。家督は、於丹生(おにぶ)にくれてやるか。」
五歳も年下の弟と比較され、金一郎は腹が立った。
「卒爾(そつじ)ながら、某(それがし)は主命に従い、死も厭(いと)わぬ覚悟にござりまする。」
「立派じゃ。口先だけで思慮が足りぬを、忠義と申すか。」
父の言葉を、金一郎は理解できなかった。政長は箸(はし)を置いて、長男に諭(さと)す。
「家康様は今、天下取りに動かれて在(おわ)される。当然、諸大名との衝突が想定され、当家も再び、兵を出す事も起り得る。然(しか)るに、江戸崎は六万石といえども、蘆名義広が旧領であり、ここの兵を駆り出したとて、一旦(いったん)味方が不利と見れば、傾(なだ)れを打って潰走致すであろう。」
戦(いくさ)について、金一郎が理解するのを待ってから、政長は話を継いだ。
「もう一つ。江戸崎は湿地が多く、収穫が不安定じゃ。不作の年に戦(いくさ)が起らば、何と致す?」
地理の説明も受け、金一郎は漸(ようや)く得心(とくしん)した。
「よいか。物事の価値を、一概(いちがい)に数や格式で断じては成らぬ。己(おのれ)が如何(いか)にそれを有効に使えるか。それを見極め、より主君を守(も)り立てり事が、真の忠義ではあるまいか?」
「金一郎が、迂闊(うかつ)にござりました。」
金一郎は、深く頭を下げる。
「汁が冷める。早う食え。」
父の言葉を受け、金一郎は箸(はし)を取った。
そして十一月二十二日、再び本多正信が桜田邸に遣(つか)わされ、上意が伝えられた。此度(こたび)は佐貫の庄周辺に、一万石の加増である。政長は謹(つつし)んで拝命し、佐貫内藤家の家禄は、三万石となった。
内藤家の家臣も増え、安藤志摩定次、上田外記信直の二人を、組頭に昇進させた。
この頃、家康は伏見に在って、大名の仕置と共に、天下の政(まつりごと)をも行っていた。例を挙げると、上杉家から召し上げた佐渡金山を以(もっ)て銀座を開設し、貨幣の統一を行った事。海外貿易には、徳川家が認可した朱印状が必要である事。東海道、中山道の宿駅に伝馬(てんま)を設(もう)け、飛脚を定期的に往来させる事、などである。
さて、織田信長が足利義昭を擁(よう)して入京を果した折、村井貞勝を京都所司代に任じ、京の治安に宛(あ)てさせたが、その職制は豊臣政権に引き継がれ、昨今は徳川家家臣板倉勝重が拝命していた。その京で、天下を揺るがす人事が行われた。慶長八年(1603)二月十二日、朝廷は徳川家康をして、征夷大将軍に任官せしめたのである。
征夷大将軍は、元は夷狄(いてき)討伐の際、臨時に置かれし役職であったが、源頼朝以降は、武家政治の頂点に在る者が任官して来た。天正元年(1573)に、足利義昭が織田信長に因(よ)り追放されてからは、空位であった。豊臣家はこれを受け、徳川家に幕府を開く野心有りと見た。しかし家康は、秀忠の長女千姫を豊臣秀頼に嫁(とつ)がせる事で、両家の融和を計った。