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第三節 強行出陣
慶長八年(1603)は、徳川家と豊臣家がめでたく姻戚となったが、一方で九月十一日、徳川家の北の守りを任せていた家康五男、武田信吉が病没した。信吉に子無く、武田家は断絶となり、所領の常陸水戸二十五万石の内、二十万石を家康十男、長福丸(ながとみまる)が相続した。長福丸は未(いま)だ幼少であったが、同じく家康九男五郎太丸も、甲斐二十五万石の大名である。実質は徳川直轄領に等しかったが、家康は孫の様(よう)な末の息子達を殊(こと)の外(ほか)かわいがったのであろう。
この年家康は、江戸幕府確立の為に動き出している。家康の将軍宣下の後、世嗣(せいし)秀忠を源頼朝に倣(なら)って、右近衛大将を兼帯させた。そして次男秀康、四男忠吉らに号令を掛け、秋に江戸城へ召集したのである。
江戸を天下の府とする仕度を整える家康の許(もと)へ、薩摩藩主島津忠恒(ただつね)が、関ヶ原の詫(わ)びを申し上げるべく訪れた。手土産は、元大老宇喜多秀家親子である。忠恒は神妙に隠居惟新斎の罪を詫びた。結局、井伊直政の遺言も有って、これを許した。しかし宇喜多秀家の場合、そうは行かない。関ヶ原で最も、東軍に打撃を与えた人物である。秀家の妻が前田利長の妹であった事から、命だけは助けられたが、遠く八丈島へ流刑に処された。
*
明けて慶長九年(1604)、恒例の大坂城新年参賀は無く、諸大名が挨拶(あいさつ)に訪れたのは、江戸城であった。
また七月十七日には、秀忠に慶事が有った。正室お江の方が、次男を出産した。二年前に、側室志乃の方が生みし長男、長丸が夭折(ようせつ)しているので、正(まさ)しく世嗣(よつぎ)の誕生である。家康はこの孫に、自分の幼名である竹千代と名付けた。
世嗣を得た事で、家康は征夷大将軍の官職が、徳川世襲の物である事を天下に知らしめるべく、将軍職を三男秀忠に任官させる様(よう)、朝廷へ働き掛けた。しかし、豊臣家もただ黙って見ているだけではなかった。お江の方と、朝鮮の役で病没した先夫豊臣秀勝の間に生まれた完子(さだこ)姫を、淀殿は養女として育てていた。そしてこの姫を、関白九条家の嫡男、忠栄(ただひで)に嫁(とつ)がせたのである。朝廷としても、幕府が成立する事は好ましくなかった。
しかし家康は巧みに五摂家、即(すなわ)ち摂政、関白の座を持回りにして来た九条、近衛(このえ)、一条、二条、鷹司(たかつかさ)の不和を突き、九条兼孝を関白辞任へ追い込んだ。然(しか)して、秀忠将軍任官の内定を、得る事ができたのである。
*
慶長十年(1605)正月、家康は江戸を発ち、二代将軍就任の仕度に取り掛かった。
その頃、桜田内藤邸に将軍家の使者が訪れ、内藤政長に秀忠公上洛の御供をする様(よう)、台命が下った。しかも、新将軍の威厳を示す為に、大軍を用意する様(よう)にとの仰(おお)せである。
政長は承り、家老や組頭に軍勢を集める様(よう)下知すると、続いて金一郎と、安藤清右衛門を呼んだ。
二人が揃(そろ)って政長の許(もと)を訪れ、座礼をとると、政長は二人を呼び寄せた。
「金一郎は、幾(いく)つに成る?」
「十四に相(あい)成りまする。」
政長は頷(うなず)くと、後ろに控(ひか)える清右衛門に尋ねた。
「そちには、金一郎の教育を任せて居ったな?」
「はい。」
「そろそろ金一郎を元服させたいと思うが、どうじゃ?」
「若殿は武芸の上達に、目を見張る物有り。加えて学問にも真摯(しんし)で、政(まつりごと)にも関心を御持ちで遊ばしまする。若殿の御元服は、某(それがし)からも御願い致したき所でござり申した。」
「うむ。」
政長は立ち上がり、二人に命ずる。
「金一郎。そちには我が副将として、右大将様御上洛の御供を命ずる。また清右衛門は、金一郎の補佐に当たるべし。」
「ははっ。」
二人は挙(こぞ)って承服すると、政長の許(もと)を辞して行った。
廊下で、金一郎は高揚した顔を湛(たた)え、清右衛門に尋ねた。
「初陣か?」
「然様(さよう)にござりまする。」
「敵は?」
「居り申さず。」
俄(にわか)に、金一郎は不機嫌な顔になった。
「敵が居らねば、初陣とは申さず。何故(なにゆえ)右大将様は、大軍を召集なされるのか?これから農繁期というに。また百姓から恨(うら)まれようぞ。」
「いいえ。徳川家の武威を諸大名に遍(あまね)く知らしめ、天下に太平を齎(もたら)せば、民も感謝致しましょう。」
「しかし、私は武家に生まれながら、戦(いくさ)を知らぬままで良いのか?」
「江戸に幕府が開かれ、若殿御成長の砌(みぎり)は、上様より職を賜(たまわ)り、天下の御為(おんため)に働く事となりましょう。それも大名家の本懐。」
金一郎は納得の行かぬ顔で、自室へと戻って行った。
二月二十五日、内藤政長、金一郎親子率(ひき)いる軍勢が、江戸郊外の指定地に到着した。
「これは、すごい…」
金一郎が驚いたのは、秀忠公御供の多さである。関東譜代に加え、奥羽の諸大名も馳(は)せ参じ、総勢十万を超えた。
「どうじゃ、壮観であろう?」
父の言葉に、金一郎は愕然(がくぜん)としたまま頷(うなず)いた。
東海道で秀忠の軍勢は十六万に膨(ふく)れ上がり、その威容を諸大名に示しつつ、三月二十一日に伏見城へ到着した。
四月七日、将軍家康は宮中に参内(さんだい)し、権大納言右近衛大将徳川秀忠を、征夷大将軍に推挙した。斯(か)くして十六日、勅使が伏見城へ来訪し、政長も同席する中、秀忠は内大臣征夷大将軍を拝命した。
同日、内藤家にも勅使が派遣され、金一郎を従五位下(じゅごいのげ)帯刀(たてわき)に叙任した。帯刀とは、古代律令制に於(おい)ては春宮坊に属し、皇太子の警固を役目とした。この日、金一郎は初めて正装し、父の後見の下(もと)、勅命を拝した。
二十六日、秀忠が将軍宣下拝賀の為、参内した。この時、金一郎も同じ日に任官が有ったというので、秀忠の御供を仰(おお)せ付かった。
新将軍拝賀の儀は恙(つつが)無く終り、伏見に戻った秀忠は、金一郎を手元に残し、父の政長を召した。程無く参上した政長に、秀忠は束帯(そくたい)を纏(まと)ったまま、声を掛ける。
「そちの嫡男は、中々に行儀が良い。もう、元服させても良いのではないか?」
「御誉(ほ)めに与(あずか)り、恭悦(きょうえつ)の至りと存じ奉(たてまつ)りまする。」
金一郎も、父に倣(なら)って平伏する。秀忠は笑みを湛(たた)え、金一郎を見る。
「内藤家の祖、義清殿は我が曾祖父、清康公の偏諱(へんき)を与えられた。先代家長殿もまた、父上の一字を頂戴して居る。なれば此度(こたび)、儂(わし)より金一郎に、忠長の名を与えようぞ。」
政長は深く、頭を下げた。
「上様よりの過分なる思(おぼ)し召し、感謝の言葉も見当りませぬ。」
「有難き幸せに、存じ奉(たてまつ)りまする。」
金一郎もまた、秀忠の前に平伏(ひれふ)した。
従五位下藤原朝臣内藤帯刀忠長。二代将軍の覚えめでたく、佐貫内藤家の世嗣(せいし)と認められ、元服を果した。父政長は跡継ぎが成人し、漸(ようや)く肩の荷が一つ下りた様(よう)であった。
五月一日、秀忠の将軍宣下を受けて、諸大名が祝賀を申し奉(たてまつ)るべく、伏見へ登城した。豊臣恩顧の大名も挙(こぞ)って参列し、新将軍就任の儀は盛大に執り行われた。
八日、徳川将軍家は高台院を通じ、豊臣家にも臣下の礼を取る様(よう)要求した。しかし大坂方はこれを無視し、後日家康六男忠輝を大坂に派遣する事で、融和を保った。
将軍職が、徳川家世襲の物である事を諸大名に示した後、将軍秀忠と、隠居して大御所となった家康は、幕府の地固めをするべく、江戸に戻った。内藤政長、忠長親子もこれに従い、馬上の忠長は至極(しごく)上機嫌であった。
「清右衛門。」
「はっ。」
「どうじゃ、江戸を出た時と変わって見えるか?」
前髪を落し、大人と同じ形(なり)をして大小を差し、甲冑(かっちゅう)を身に纏(まと)っている。
「はっ。立派な御姿にござりまする。」
丁度(ちょうど)、近くで話を聞いていた、親類で徳川家年寄衆の内藤清成が、馬を寄せて来た。
「今後は、言動に気を付けられよ。大人扱いされるとは、失態の折には御腹を召す事も有り得まするぞ。」
「腹を召す…」
途端(とたん)に青ざめた忠長を見て、清成は笑いながら去って行った。
「腹を召すとは、切腹の事よな?」
「御意(ぎょい)。」
清右衛門は、忠長の浮かれ気分が吹き飛んだのを見て、胸を撫(な)で下ろした。
江戸に戻った徳川家は、二代将軍の威光を示すべく、西国諸大名に対し、将軍家の府たる江戸城の普請(ふしん)を命じた。これには、外様大名の財政を逼迫(ひっぱく)させ、力を削(そ)ぐ目的も兼ねていた。同様に、豊臣家にも寺社の再建を勧め、秀吉が遺(のこ)した莫大な金銀を消耗させるべく、働き掛けた。
今や、天下の政(まつりごと)を行うのは、豊臣家でも関白家でもない。加えて、将軍でもなかった。将軍秀忠には左右の丞相(じょうしょう)として、宿老の本多正信と大久保忠隣が、補佐の役に当たっていた。しかし重要事項の決裁には、大御所家康の承認を求める事となり、事実上の天下人は大御所であった。
家康は将軍家の自立を期待し、隠居所を駿河府中に定め、江戸を離れたが、江戸と駿府の間で使者の往来が頻繁になっただけで、やはり家康が実権を持ち続けた。
*
慶長十一年(1606)七月十三日、内藤家長の従兄(いとこ)に当たる内藤仁兵衛忠政が、大御所に従い駿府に移っていたが、病(やまい)を得て亡くなった。享年七十五の大往生である。
年老いて死ぬる者有れば、また年若くして死ぬる者有り。翌慶長十二年(1607)は、徳川家に取って呪(のろ)われた年であった。三月五日、尾張清洲城主にして、家康四男の松平忠吉が身罷(みまか)った。関ヶ原で受けた鉄砲の、鉛の毒に因(よ)る物と言われる。忠吉に嗣子(しし)無く、東条松平家は断絶した。忠吉の遺領は、家康九男義利が相続した。
そして間も無く、今度は越前北ノ庄城主にして、家康次男結城秀康が薨去(こうきょ)した。秀康の母は、家康の正室築山殿(つきやまどの)の侍女であった。しかし秀康懐妊で怒りを買い、厳しい処分を受けていたのを、命からがら家臣に救われ、生まれて来た。家康が秀吉に臣従した時、人質として秀吉の養子となり、秀吉に実子が生まれると、結城晴朝の養子に出された。兄信康の死後は家康の長子でありながら、異母弟秀忠の下に置かれるも、武功を以(もっ)て徳川家に尽(つく)して来た。将軍秀忠は、未(いま)だ若年の秀康長男、忠直の越前相続を認め、松平の姓を与えると共に、三葉葵の家紋の使用を認可した。秀康の遺言で結城家は後に、五男直基が相続した。
人の命は常ならず。幕藩体制を確立する為には、人材育成もまた重要である。秀忠は酒井忠世、青山忠俊、土井利勝らを登用し、本多正信、大久保忠隣の下で修業を積ませた。一方で駿府の家康も、正信の嫡子正純に目を掛け、手元に置いて教育した。
*
慶長十三年(1608)、幕府は東国の守りを固めるべく、前(さき)の大戦(おおいくさ)では西軍が伊勢路から、美濃大垣へ攻め寄せた事を考慮し、徳川家に忠勤の篤(あつ)い藤堂高虎を、伊予今治から伊勢安濃津(あのうつ)に移し、伊賀国(いがのくに)も所領として与えた。また東海道の入口、尾張藩の居城を名古屋に定め、再び西国大名に、大規模な築城の普請(ふしん)を命じた。
この頃、対外的な事件も起きている。北方蝦夷(えぞ)地は、全て松前慶広に任せていた。そして南方、即(すなわ)ち琉球王国は明国の冊封(さっぽう)を受けていたが、島津家より琉球出兵の要請が有り、幕府はこれを認可した。斯(か)くして慶長十四年(1609)四月、島津勢は琉球の府である首里城を占領し、国王尚寧をも虜(とりこ)にして、薩摩藩の支配下に置く事に成功した。嘗(かつ)て豊臣軍を朝鮮半島より退(しりぞ)けた明国は、政治が乱れ、最早(もはや)冊封国を支援する力を失っていたのである。琉球国の内、首里城の在る本島より東の島は、全て薩摩国に編入された。
外交問題として、幕府は琉球王国の処置を、島津家に任せた。また、三浦按針(あんじん)ことウィリアム・アダムズをして、肥前平戸に商館を創設させ、対オランダ貿易の拠点と成した。
徳川幕府が成立して七年も経つと、諸大名は挙(こぞ)って将軍家に靡(なび)き、剛気な福島正則や加藤清正さえも、幕府に恭順の姿勢を示していた。しかし大御所家康にはまだ、二つの不安が有った。
一つは、既(すで)に齢(よわい)七十に近付き、何時(いつ)天に召されてもおかしくはない歳に加え、度々(たびたび)持病に苦しめられていた。孫の様(よう)にかわいい末の三人の息子が気掛りで、将軍秀忠に将来を頼んだ。そして三人共に幼少ながら、大名に取り立てられたのである。九男義利は既(すで)に尾張藩主であったが、水戸藩主であった十男頼将を、家康の隠居所である駿河の藩主とし、十一男鶴千代を水戸の藩主にする事で、三人の立場を固めてやった。
もう一つは、徳川家の意向に容易に従わぬ勢力が、依然存在する事であった。一に豊臣家である。家康が秀頼に対し、挨拶(あいさつ)に訪れる様(よう)命ずるも、淀殿は頑として、これを撥(は)ね付けた。豊臣秀吉は多くの所領の管理を家臣に任せていた為、それらは悉(ことごと)く、今は徳川家の管理下に置かれている。豊臣家の直轄領は、大坂近辺の六十五万石が残されているのみであった。
豊臣家は既(すで)に、幕府から見れば一大名に過ぎない。それよりも厄介(やっかい)なのは、朝廷であった。朝廷は、古来より存続する官職を有名無実の物にする、幕府の権力強化を嫌う傾向が有った。また、周仁(かたひと)天皇の後継者を巡り、幕府と対立していた。摂家は皇弟八条宮智仁親王を推挙する一方、幕府は未(いま)だ后(きさき)の在(おわ)されない、第三皇子政仁(ことひと)親王を推していたのである。京都所司代は有力公家の不祥事を暴(あば)き出し、関連した女御(にょうご)共々、流刑処分とした。斯(か)くして朝廷は震え上がり、徳川派の若き関白九条忠栄が、朝廷の舵(かじ)取りをする様になった。
*
慶長十五年(1610)は家康の末娘、市姫が幼くして逝去し、喪(も)に服していたが、一方越後国で騒動が起った。福嶋藩主堀忠俊は十四歳と若く、本来補佐に当たるべき家老も、代替りをしたばかりであった。前(さき)の家老堀直政の死後、跡目を相続した兄直清と、弟直寄の間に不和が生じた。直清が一向宗の僧と口論になり、それが原因で手討(てうち)になった者が出ると、直寄は越後で一向一揆勃発の怖れ有りと、幕府に通報したのである。これを受けて幕府は、堀家の所領を召し上げ、忠俊の身柄を陸奥磐城平藩の、鳥居忠政に預けた。通報した堀直寄は、越後坂戸五万石から信濃飯山四万石に転封となり、代って越後を与えられたのは、家康六男松平忠輝であった。旧領信濃川中島十二万石の領有も認められ、忠輝は一気に六十万石の大身(たいしん)となった。
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翌慶長十六年(1611)春、家康は新帝即位の準備の為に上洛し、一方で大坂方に、豊臣秀頼との対面を求めた。
豊臣家は愈々(いよいよ)、これを拒絶し続ける事が難しくなり、遂(つい)に上洛に及んだ。警固に従う大名は豊臣恩顧で、肥後熊本加藤清正、紀伊和歌山浅野幸長、安芸広島福島正則の、一万の軍勢である。三月、二条城に於(おい)て徳川家康と豊臣秀頼は対面に及び、両家の不和を解消させた。
四月、皇太子践祚(せんそ)の大典に参列すべく、在京であった二十二名の大名を二条城に召集し、幕府に背かぬ旨(むね)の誓紙を提出させた。また朝廷に対しては、官職の定員と席順は幕府が決める事を認可させ、その分即位大典の費用を、徳川家が弾(はず)んで用意する運びとなった。
斯(か)くして五月九日、周仁(かたひと)天皇は退位して後陽成上皇となり、政仁(ことひと)親王が即位した。即(すなわ)ち、後水尾(ごみずのお)天皇である。
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翌慶長十七年(1612)、幕府は東北、関東の大名六十五名からも誓紙を提出させ、その威光を天下に示した。
勢いを得た幕府は慶長十八年(1613)、「勅許紫衣法度」(ちょっきょしえはっと)を定め、久しく高僧に対し、勅許を以(もっ)て与えて来た紫衣に、幕府の認可が必要となった。九条家に代り、新たに関白を拝命していた近衛家は、已(や)むなくもこれを了承した。そして近衛家の姫を、将軍家嫡男竹千代に嫁(とつ)がせる話が進められた。
諸大名、豊臣家、さらには朝廷をも、意のままに動かす幕府であるが、権力を増すと共に、派閥抗争が表面化して来た。派閥とは即(すなわ)ち、大久保忠隣を中心とする武断派と、本多正信を中心とする文治派である。武断派は剛直な者が多く、将軍秀忠の為に尽す一方、文治派は策略家が多く、大御所家康の権力維持に動き、度々(たびたび)衝突する様になっていた。
口論だけならまだしも、天下の政(まつりごと)に携(たずさ)わる力を持つだけに、策謀を以(もっ)て、相手の追落しを計る様になった。
その行き着く先が、四月の大久保長安事件である。昨年、本多正純与力の岡本大八が、肥前日野江有馬晴信から、賄賂を受け取った事を訴えられる事件が有ったが、今度はその報復に本多派が、大久保派大久保長安の汚職を訴え出た。長安は元々、旧敵甲斐武田氏の家臣である。武田家滅亡後は、その財政能力を家康に認められ、金山奉行、銀山奉行等を拝命し、また松平忠輝の附家老をも仰せ付かっていた。長安死去の直後、長安邸から莫大な量の金銀が押収された事で、長安の子や重臣は死罪、他の家臣は大名家預かりの処分を受けた。長安はその財力を以(もっ)て、多くの大名家と繋(つな)がっていた。それらの大名は処分する方針だが、陸奥仙台伊達政宗と、伊予松山加藤嘉明は影響が大きい為、御咎(とが)め無しとされた。
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明けて慶長十九年(1614)正月、大久保忠隣養女の無断婚姻が本多正信より報告され、また馬場八左衛門から忠隣謀叛の訴えが有り、家康は遂(つい)に、大久保忠隣を改易処分とした。そして身柄を近江彦根井伊直孝に預け、旧領六万五千石の府、相模小田原城は破却された。しかし忠隣の軍功は大きく、嫡孫仙丸の外祖母が家康の娘であった事も有り、仙丸に武蔵国騎西に二万石を与え、大久保家の断絶を免(まのが)れる事ができた。
忠隣謀叛の根拠が、豊臣方に付く事であった事から、幕府の豊臣家に対する警戒は、一層強まった。
その頃幕府は豊臣家に、京の方広寺大仏殿の再建を命じていたが、四月に梵鐘が完成する運びとなった。奉行の片桐且元(かつもと)は、梵鐘の銘文を幕府に報告し、幕府が金地院崇伝や林羅山に解読させた所、不吉な文言(もんごん)が有ると忠告された。特に、「国家安康」は家康の名を分断して国を安んじ、「君臣豊楽」は豊臣を君主として楽しむ、の意が含まれていると上奏したのである。幕府はこれを受け、豊臣家に逆心有る証拠と断じた。七月二十七日、家康は本多正純を派遣し、大仏供養の延期を通達した。
この年、忠長に弟が生まれた。即(すなわ)ち、政長の三男である。千(せん)千代と名付けられ、政長は妻三宅氏を誉(ほ)めながら、この赤児(あかご)を抱き上げた。忠長も弟於丹生(おにぶ)を伴って、弟の顔を覗(のぞ)きに訪れた。
八月、将軍より内藤政長へ、登城を求める上意が有った。政長は直(ただ)ちに江戸城へ登り、将軍秀忠に謁見した。側に控えるは、本多正信と土井利勝である。
「麗(うるわ)しき御尊顔を拝し、恭悦至極に存じ奉(たてまつ)りまする。」
恭(うやうや)しく座礼をとる政長に、秀忠が呼び掛ける。
「大事な話じゃ。近う寄れ。」
政長は承知すると、前へ躙(にじ)り出る。再び礼をとる政長に、秀忠は真顔で話し始めた。
「近々、そちに出兵して貰(もら)う。」
「はっ。して何処(いずこ)に?」
「安房館山じゃ。前(さき)の、大久保忠隣が事件は聞き及んで居ろう?」
「はい。」
「里見忠義は、忠隣の孫婿(むこ)じゃ。近々忠義を江戸へ呼び寄せ、身柄を拘束した上で、改易を申し渡す。政長には、館山城の受取り並びに、破却を命ずる。」
「確(しか)と、承知致しました。」
脇から、本多正信が尋ねる。
「そちを責任者に、また目付には加藤源四郎、太田善太夫を宛(あ)てる。他に、必要な人材は居るか?」
「されば、副将に常陸笠間の松平丹波守殿。外房の寄せ手に、上総大多喜の本多出雲守殿。」
正信は、秀忠に認可を求める。秀忠は少し黙考した後、政長に言い渡した。
「本多忠朝に、戸田康長か。まあ、それ位は付けてやらねばのう。よし、許そう。」
「加えてもう一つ、お願いの儀がござりまする。」
「何じゃ?申してみよ。」
「佐貫や大多喜にて兵を留めては、里見家に勘付かれる怖れ有り。因(よ)って、軍勢は土井殿が居城、下総佐倉に留めて置きとうござりまするが。」
秀忠は、利勝に目を遣(や)る。
「異存、ござりませぬ。」
土井利勝の承諾を得て話は纏(まと)まり、政長は兵馬を整えるべく、江戸城を辞して行った。
桜田邸へ戻った政長は、直(ただ)ちに安藤志摩、上田内記らの組頭を召集し、安房館山城接取の段取りを協議し始めた。それを聞き付け、忠長も父の許(もと)を訪れた。
突然姿を現した忠長を、政長が睨(にら)み付ける。
「呼んでは居らぬぞ。」
忠長は前へ進み出て、座礼をとる。
「この度(たび)、上様より台命を仰(おお)せ付かりし事、誠に祝着の極みと存じ奉(たてまつ)りまする。なればこの忠長、元服した以上は率先して、御家の役に立つべく役目を得て、研鑽(けんさん)を積みとうござりまする。」
政長は忠長から目を背(そむ)け、房総半島の地図を見詰める。
「殊勝なる物言いじゃ。なれば役目を与える。」
「はっ。」
忠長は期待しつつ、父の言葉を待つ。
「此度(こたび)の件は、将軍家の意向に沿い、大多喜本多家並びに、笠間松平家と連携して、事に当たる。故(ゆえ)に、ここ桜田邸には、連絡する者が必要じゃ。その大任を、忠長に命ずる。」
もっと派手な役目を期待していた忠長は、途端(とたん)に仏頂面(づら)になった。政長は涼しい顔で、言葉を継ぐ。
「この役目を受けるも良し。大人しく他の役目ができるのを待つのも良し。」
どうあっても、先陣を務めて館山入城など、任される見込は無さそうである。
「では、連絡役を相(あい)務めまする。」
「うむ。では下がってよい。」
無役よりはましだと思い、忠長は神妙に下がって行った。
数日後、政長は組頭を悉(ことごと)く従えて、江戸を去って行った。忠長は桜田邸に残されるも、政長は他に伝令役を置いて居り、忠長の役は無きに等しかった。
斯(か)くして九月九日、重陽の賀儀に参列すべく、江戸に登城した里見忠義は、門衛より差し止められ、城下の邸で待機する様(よう)言い渡された。
程(ほど)無く城下の館山藩邸に、幕府年寄土井利勝が現れた。そして、里見忠義が謀叛人大久保忠隣に加担するとの通報が有った為、安房十二万石を召し上げるとの上意が伝えられた。
突然の事に、館山藩の家老が国許(もと)へ使者を遣わした所、既(すで)に内房から内藤政長、外房からは本多忠朝が、安房国内へ押し入っていた。江戸城下に詰める藩主忠義は、国家老から見れば人質も同然で、安房一国は忽(たちま)ち、内藤政長に因(よ)り制圧された。忠義は神妙に、改易の沙汰を受ける他は無かった。
この事件より少し前、幕府が豊臣家普請(ふしん)の、方広寺梵鐘の銘文について、豊臣家代表の片桐且元に糾問(きゅうもん)する最中(さなか)の九月六日、西国大名五十人から、幕府に背(そむ)かぬ旨(むね)の誓紙を提出させた。
九月二十日、片桐且元は幕府の要求、即(すなわ)ち豊臣秀頼の大坂城退去、生母淀殿の江戸移住を持ち帰り、今後の対策を練(ね)ろうとした。しかしこれ迄(まで)の数々の無礼に、淀殿は怒りを抑えられず、側近の大野治長も同心した。秀頼の守役を先君太閤秀吉より仰(おお)せ付かり、豊臣家存続の為に腐心して来た且元であったが、遂(つい)に淀殿の勘気を蒙(こうむ)り、今日までの度(たび)重(かさ)なる幕府への弱腰姿勢を、豊臣家への謀叛と見做(みな)された。大野治長率(ひき)いる主戦派が、且元追放を決めたこの日、安房国では内藤政長が、館山城の破却に着手した。
十月一日、片桐且元は遂(つい)に大坂城を追われ、摂津茨木城へ逃げ帰った。そして翌二日、大坂方は諸国の大名、浪人に対し、徳川打倒の檄文(げきぶん)を発した。
これを受け、関ヶ原で敗れ、改易された大名や親族、家臣達が続々と、御家再興の為に大坂城へ駆け付けたのである。中には黒田長政の下(もと)で武名を上げた後藤又兵衛基次、中山道で徳川秀忠の大軍を足留めした真田信繁など、一騎当千の兵(つわもの)も数多くいた。
大坂不穏の動きは京都所司代から、直(ただ)ちに駿府の、大御所家康の許(もと)へ上奏された。家康は九男松平義利を尾張、美濃、近江の総大将として先発させ、自身は十一日、東海の軍勢を率(ひき)いて駿府を発った。
一方大坂方では、軍師真田信繁が京の速(すみ)やかな制圧を進言していた。目的は、朝廷の親豊臣派を動き易くする事と、幕府と遮断された、西国諸大名を味方に付ける事であった。しかしこの策は、手薄になった大坂城に危機が及ぶ怖れが有る。大野治長は太閤秀吉が築きし大坂の籠城戦を主張し、これが認可された。斯(か)くして二十三日、家康は二条城に入り、伊勢の藤堂高虎に、大和の制圧を命じた。
その頃、江戸では将軍秀忠が陣触れを行い、東国諸大名が続々と、江戸に集結しつつあった。桜田邸で退屈していた忠長は、この陣触れに色めき立ち、家老の安藤源左衛門と、上田甚右衛門を召し出した。
「御呼びにござりましょうか?」
程無く参上した両家老を招き、忠長が尋ねる。
「大坂謀叛の動き、安房の父上には伝えてあるか?」
甚右衛門がさらりと返す。
「万事、抜かり無く。」
「其(そ)は大儀である。所で、私(わし)は上様に御供を仕(つかまつ)り、大坂へ出陣に及びたいが。」
今度は、源左衛門が慌(あわ)てて答える。
「御再考を。目下、家中の組頭は挙(こぞ)って殿に扈従(こじゅう)し、兵が居りませぬ。また、軍用金と兵糧も、俄(にわか)に整えるは無理にござりまする。」
忠長が幾(いく)ら話しても、両家老は頑(がん)として、首を縦に振らない。仕方無く、忠長は両家老を下がらせた。
忠長は暫(しば)し黙考した後、傍(かたわ)らの安藤清右衛門に尋ねた。
「私(わし)は、確か連絡役を、父上より仰(おお)せ付かって居ったのう?」
「御意。」
「斯(か)かる大事を、私(わし)自らが報告に赴(おもむ)かねば、不行き届きの御咎(とが)めを受けよう。」
「それは、無き物と…」
清右衛門の返答を遮(さえぎ)り、忠長が重ねて尋ねる。
「確か江戸湾には、当家所有の船が在ったのう?」
「はっ。江戸と佐貫の伝令に用いる物が一艘(そう)。」
「出立じゃ。清右衛門、供をせよ。」
「はっ?」
忠長は一人でも、安房へ行く意思を固めている。清右衛門は幾度も軽挙妄動を諫(いさ)めたが、忠長が是が非でも行くと決めた以上、付き従う他は無かった。
幸い天候に恵まれ、波も穏やかである。三浦半島と房総半島の狭(はざ)間(ま)に在る浦賀水道は、両岸がよく見える程、細くなっている。忠長の座乗する船はこの水道を横断し、程無く南に見えて来た、館山の湊(みなと)に着岸した。
運良く、湊の警備を務めていたのは、内藤家の組頭であった。忠長の急な来訪に驚いてはいた物の、直(す)ぐに政長の許(もと)へ案内してくれた。
政長は館山城に在って、打壊しの手順、期日、予算等を、組頭と確認していた。そこへ忠長が突然現れ、また碌(ろく)でもない話をしに来たと推察し、不機嫌を顕(あらわ)にしたまま、忠長の目通りを許した。
塀(へい)を打ち崩し、堀に土砂を流し込む喧騒(けんそう)の中、忠長は父の前で膝(ひざ)を突き、一礼する。
「父上に言上致しまする。先日大坂に於(おい)て、異変これ有り。」
「もう聞いて居る。」
父は帳簿を見詰めたまま、忠長を一瞥(いちべつ)もしない。忠長は不満を覚えつつも、話を継ぐ。
「上様は、陣触れを御発し遊ばされました。」
「それも知って居る。」
「なれば当家も、他家に後れを取っては成りませぬ。」
政長は漸(ようや)く、忠長に目を向けた。
「儂(わし)が、上様より館山城の破却を仰(おお)せ付かりし事、そちも存じて居ようのう?」
「はっ。しかしそれは、変事出来(しゅったい)の前にござりまする。」
政長の顳顬(こめかみ)に、血管が浮き出る。
「では、当家も大坂に兵を繰り出し、その隙(すき)に里見家が旧臣に安房を奪われ、江戸が危(あや)うくなれば何とする?」
「何も、組頭悉(ことごと)くとは申して居りませぬ。某(それがし)に一隊を御預け下されば、当家の面目を立てて御覧に入れまする。」
「馬鹿者!」
遂(つい)に、政長は怒鳴った。
「この城を壊すだけで、どれだけの費用を要するか知っての上で、物を申しているのであろうのう?先ずは、それを申してみよ。」
忠長は言葉に詰まりつつも、答えを返す。
「台命なれば、足りぬ分は上様に奏上されれば…」
「たわけ!」
再び、政長の雷が落ちる。
「三十二万石ぞ。それを上様より無心せよと申すか?この不忠者が!」
不忠者呼ばわりされ、忠長はカチンと来た。
「御じじ様は伏見で御討死遊ばされ、当家に一万石の恩賞が下され申した。なればこの忠長も大坂に散り、父上に一万石を献上仕(つかまつ)らん。」
「そちには一石の価値も無し。とっとと失せよ。」
組頭が取り成し、忠長に帰還を求める。清右衛門も忠長を宥(なだ)める様に、湊へ案内した。
漸(ようや)く忠長が帰る様子を見せたので、政長は落着きを取り戻し、息子に声を掛ける。
「役目、大儀であった。折角(せっかく)ここまで来たんじゃ。佐貫の善昌寺に立ち寄り、御じじ様の菩提(ぼだい)を弔(とむら)って参れ。」
忠長は無言のまま、頷(うなず)いた。
館山から佐貫は近い。忠長はその日、佐貫城外の善昌寺に宿泊した。
暗い御堂の中、蝋燭(ろうそく)の火だけが、本尊様の近くを照らしている。忠長は黙して座し、祖父の位牌を見詰めていた。
そこへ、住職の演誉昌馨が現れた。
「秋風が冷たい季節、斯様(かよう)な所に在(おわ)されては、御風邪(かぜ)を召されまするぞ。」
忠長は、住職の方へ向き直る。
「御願いしたき儀がござりまする。」
演誉昌馨は意外な顔をしつつも、にこやかに返す。
「拙僧(せっそう)にできる事なれば。」
住職が忠長の前に座すと、忠長の目は仏前の位牌に移った。
「我が祖父家長公は、どの様(よう)な武功を挙げて来られたのでござりましょう?」
演誉昌馨は仏前で静かに合掌した後、滔々(とうとう)と話し始めた。
天文十五年(1546)、三河国岡崎城主松平広忠家臣、内藤清長の子に生まれる。当時、室町幕府に諸大名を抑える力は無く、力の有る者が力の無い者を倒して伸(の)し上がる、下剋上(げこくじょう)が横行し、戦乱の絶(た)えぬ時代であった。松平広忠は先君清康と同様、家臣に殺害され、まだ幼かった家康は、東海一の大名今川義元に従い、尾張の織田氏と戦っていた。永禄三年(1560)に、今川義元が大軍を率(ひき)いて上洛の途中、尾張の織田信長に討ち取られると、主(あるじ)を失った三河国は混沌(こんとん)とし、この隙(すき)を突いて、家康は岡崎の大名になる事ができた。しかし三年後、領内で大規模な一向一揆が起り、門徒である家臣もこれに加わる中、家長は家康に従って戦い、初陣を飾った。二年後には家督を相続し、家康の一字を頂く。永禄十二年(1569)、三河を統一した家康は、武田信玄と連合して今川氏を攻め、この時、遠州掛川城を攻略すべく出陣。元亀元年(1570)は、畿内を抑えて台頭著(いちじる)しかった織田信長に対抗すべく、将軍足利義昭が信長包囲網を築いた。徳川家だけは織田家に従い、越前朝倉攻めに従軍する。この時、先陣を務める。天正元年(1573)、東三河の奥平貞能が武田氏から内応し、救援に馳(は)せ参じる。二年後、諏訪勝頼を長篠に討ち破り、遠州二俣城を攻める。家康より松平姓を賜るも、これを固辞。四年後、家康嫡男信康並びに築山殿が、織田信長より武田家への内応を疑われる。家康は妻子を死罪にし、信康の家臣を預ける。翌年、遠州田中へ出陣し、軍功有り。二年後、武田氏が滅亡し、甲州大野の守備を任される。同年、京の本能寺に於(おい)て、織田信長が家臣の明智光秀に討たれる。信長家臣の羽柴秀吉が備中より取って返し、光秀を討ち取る。しかし織田家の嫡子信忠は京で光秀に討たれており、相続を巡(めぐ)って戦(いくさ)が起る。天正十二年(1584)、小牧、長久手に於(おい)て、信長次男北畠信雄を頂く家康と、信忠長男三法師を頂く羽柴秀吉が衝突。蟹江城攻めの先陣を務める。翌年、徳川家家臣石川数正が出奔(しゅっぽん)して秀吉に仕(つか)え、石川家の同心八十騎を預かる。やがて徳川家は、関白豊臣秀吉に服従する。天正十八年(1590)の小田原北条攻めでは、先陣を務める。慶長五年(1600)、伏見城で西軍四万を半月近く足留めさせ、御最期。
祖父の偉業を聞いている内に、忠長の頬(ほお)を涙が伝った。
「斯(か)くも立派な武将を祖父に持ち、何故(なにゆえ)非力な忠長が生まれてきたのか。確かに父上の仰(おお)せの如(ごと)く、私(わし)には万分の一の価値も無し。不忠にして、不孝者よ。」
演誉昌馨は、怪訝(けげん)な面持ちで尋ねる。
「何故(なにゆえ)、斯様(かよう)に嘆(なげ)かれるのか?」
忠長は涙を拭(ぬぐ)う。
「失礼を致し申した。実を申さば、大御所様並びに上様が、大坂攻めの陣触れを御発し遊ばされ申した。現今の情勢から察するに、此度(こたび)を最後の大戦(おおいくさ)に、天下は定まりましょう。しかし忠長には、父上から出陣の許可が下りず。武門の家に生まれながら、戦(いくさ)を知らぬは情け無き限り。敵方の総大将豊臣秀頼殿は、私(わし)より一つ下であるというに…」
「然様(さよう)にございましたか。」
住職は、掛けるべき言葉が見つからない。そこへ、廊下で話を聞いていた清右衛門が突然、御堂の中へ入って来た。
「御免!」
そして、忠長の前で膝(ひざ)を突く。
「若殿の御志、某(それがし)も共感致しまする。されば、この清右衛門に一案有り。再び館山に、御遣(つか)わし下され。必ずや、若殿出馬の御許しを、大殿より頂いて参りまする。」
忠長の表情がつと、明るくなった。
「今の忠長に、失うを怖れる物は無し。清右衛門、そちの存分にせよ。」
「ははっ。」
既(すで)に、夜も遅くなっている。その日は善昌寺に宿を借り、明朝清右衛門は単騎、館山へ駒を走らせた。
館山城へ戻って来た清右衛門が、政長への拝謁(はいえつ)を願い出た所、すんなりと許可が下りた。清右衛門が政長の許(もと)へ通され、膝(ひざ)を突くと、政長から声を掛けられた。
「どうじゃ、忠長は?神妙に江戸へ帰る気になったか?」
「畏(おそ)れながら、この度(たび)は若君の守役として、罷(まか)り越し申した。今、若殿御成長の岐路と存じ、殿に御話を致したく存じまする。」
「ここでは何じゃ。陣屋へ参れ。」
「ははっ。」
政長は安藤志摩を伴い、清右衛門と共に陣屋へ移った。
陣屋には、共同で普請(ふしん)に当たる大多喜藩や、笠間藩を応接する間が有り、清右衛門はそこへ通された。上座に政長が座し、続いて組頭の志摩、最後に清右衛門が腰を下ろす。
先(ま)ず、政長が尋ねた。
「善昌寺で、忠長の様子はどうであった?」
「はっ。殿の仰(おお)せの如(ごと)く、先君の万分の一の力も無い事を、酷(ひど)く御嘆(なげ)きにござりました。」
「そうか。」
「ただ、守役としては些(いささ)か、懸念すべき事がござりまする。」
「何か?」
「若君は、この度(たび)豊臣家の仕置が成されし後(のち)、戦(いくさ)を知らぬ武門の者と成るを、切(せつ)に恥じて在(おわ)しまする。天下の安寧は万民の望みし所なれど、若殿は生涯、己(おのれ)に自信が持てなくなる怖れ、これ有り。」
政長は扇(せん)子(す)でトントンと、首を叩(たた)く。
「それで?」
「されば若君を満足させ、且(か)つ兵や軍資金を殆(ほとん)ど使わぬ手段がござりまする。」
「申してみよ。」
「先(ま)ず、兵を二十騎ばかりと、京まで往復分の兵糧を、御貸し願いとうござりまする。」
「上洛するのか?」
「はい。しかし、たったの二十騎を、誰が相手に致しましょう。結局は兵糧が底を突き、江戸に帰る他はござりませぬ。」
「だが、それで忠長は満足致すか?」
「何もせず、ただ殿より命ぜられるまま、江戸に残るのとは違いまする。加えて某(それがし)より機を見て、従軍の叶(かな)わざるは、台命に因(よ)る物と言上仕(つかまつ)りまする。若君は不忠の謗(そし)りを受けるを、何より嫌う御気性なれば、納得も行きましょう。」
政長は腕組みして考える。そして、傍(かたわ)らの志摩に尋ねた。
「清右衛門の考え、そちはどう思う?」
「二十騎程度であれば、若君の教育費と思(おぼ)し召されて、差支(さしつか)えござりませぬ。清右衛門の考えも、一理かと。」
「確かに。千石取りの旗本より少数なれば、大名家の嫡男だけに、どこも厄介(やっかい)払いであろう。よし、忠長を京へ遣(や)り、諸大名の陣立てでも見物させてやるか。」
意を決すると政長は立ち上がり、清右衛門に下知する。
「そちに忠長の副将を命ずる。折(おり)良く農閑期じゃ。佐貫で兵を集め、京へ行くが良かろう。近藤惣兵衛と、穂鷹吉兵衛も貸してやる。忠長に、戦(いくさ)仕度(じたく)を教えてやってくれ。」
「ははっ。御高配、痛み入りまする。」
政長は出陣許可書を認(したた)めると、清右衛門に渡した。
「呉々(くれぐれ)も、これを忠長に見せるでないぞ。他藩の組に入るのに、儂(わし)の墨付(すみつき)と勘違いされては適(かな)わぬ。」
「心得て居りまする。」
清右衛門は書翰(しょかん)を押し戴(いただ)くと、一礼して陣屋を後にした。そして佐貫へ向け、駒を走らせて行った。
やがて佐貫城に戻った清右衛門は、本丸へ駆け上がった。櫓(やぐら)の上で、内房の波濤を眺めていた忠長の耳に、ドカドカ階梯(かいてい)を昇って来る音が聞こえる。下を覗(のぞ)くと、息を切らした清右衛門の姿が在った。
「若殿、出陣にござりまする!」
思わず忠長は、両手をパチリと叩(たた)いていた。
早速(さっそく)、清右衛門は佐貫ノ庄で徴兵を行った。政長の御墨付で騎兵二十を整えると共に、歩兵や荷駄炊事等の雑兵として百名を集め、百二十名の隊を編成した。軍資金の勘定や兵糧の計算は、近藤惣兵衛や穂鷹吉兵衛に任せた。
漸(ようや)く兵を得て江戸に戻った時、将軍秀忠は既(すで)に京へ向けて進発して居り、忠長は慌(あわ)てて将軍の後(あと)を追う事になった。秀忠は関ヶ原大戦(おおいくさ)の折、徳川家主力部隊を預かりながら、遅参するという前科が有る。此度(こたび)こそは遅れまじと、東海道を強行軍で進んで行った。故(ゆえ)に忠長は京に着くまでの間に、将軍家の軍勢に合流する事は叶(かな)わなかった。
十一月、寒空の中、忠長の軍勢は京へ入った。先(ま)ずは将軍家の軍勢と認められ、下知を仰(あお)がねば成らない。
「何(ど)方(なた)に、上様への御周旋を願い出るべきか?」
忠長の問いに、清右衛門が答える。
「なれば、本多佐渡守様では?大殿とも御昵懇(じっこん)の上、上様と大御所様、双方に顔が利き申す。」
「よし。」
早速(さっそく)忠長は、本多正信の陣所を探した。
兵達に情報収集をさせ、やっとの事で、本多正信の居場所を探し当てた。忠長は身形(みなり)を整え、手勢を整然と並べ、正信の陣屋へ赴いた。内藤家の旗印を見て、門衛達は鄭重(ていちょう)に対応してくれ、加えて幸いにも、正信は陣中に居ると言う。
「然(しか)らば、佐渡守様への取り成しを、御願い致す。」
徳川譜代三万石御嫡男の要望とあって、門衛は
「暫(しば)しお待ち下され。」
と答えた後、屋敷内へ走って行った。
程無く、将と思(おぼ)しき男が現れた。
「殿が御会い下さる。手勢は屋敷の外へ留め置き、某(それがし)に付いて来て下され。」
「其(そ)は有難し。」
忠長は惣兵衛と吉兵衛に兵を任せ、自身は清右衛門のみを伴って、本多陣屋へ入って行った。
二人は一室へ通され、やがて正信の御越しが告げられた。忠長と清右衛門が下座に平伏すると、正信が荒い足音を立てて入って来た。そして直(す)ぐ様(さま)、忠長に尋ねる。
「安房国守護の任に在りし御身(おんみ)が、儂(わし)に何の用ぞ?」
忠長は頭を擡(もた)げ、正信を見上げる。
「されば、此度(こたび)は最後の大戦(おおいくさ)と存じ上げ、微力ながら徳川家の御為(おんため)に前線で働きたく、我が父より兵を借り、駆け付けて参った次第(しだい)にござりまする。」
「斯様(かよう)な事、左馬介殿からは聞いて居らぬ。」
「火急の出陣なれば。」
「俄(にわか)には信用できぬ。また、左馬介殿がこの様な無茶を許すとは、到底信じられぬ。」
「少々御待ちを。」
忠長は清右衛門に、父から頂戴(ちょうだい)した徴兵許可書を示す様、促(うなが)した。清右衛門は懐(ふところ)より書翰(しょかん)を取り出し、正信に差し出す。正信はそれに目を通すと、ジロリと忠長を睨(にら)んだ。
「佐貫ノ庄に於(おい)て、帯刀殿に兵二十騎の徴発を差し許す。これが如何(いかが)した?」
「父政長の許可が、下りた証(あかし)にござりまする。」
正信はポイと、書翰(しょかん)を清右衛門に放って返した。
「戯(たわ)け!儂(わし)には安房国内の守りを固める様(よう)、命じた物にしか見えぬわ。よろしいか?軍令を破り、兵を持場より離すは大罪ぞ!今ならまだ、儂(わし)の忠告だけで済む。とっとと安房へ帰れ。」
忠長は頭を床に擦(こす)り付け、切(せつ)に頼み込む。
「忠長、たっての御願いにござりまする。何卒(なにとぞ)、参戦の御許可を。」
正信は低い声で、側に控える家臣に告げる。
「内藤帯刀殿、江戸へ御戻りじゃ。御見送り致せ。」
そう言い残し、正信は去って行った。
忠長と清右衛門は屋敷から追い出され、門は固く閉ざされた。清右衛門が忠長に尋ねる。
「他を当たりまするか?」
忠長は首を、横に振った。
「そうは行かぬ。佐渡守様は徳川家の軍師格じゃ。その意に反して他家を頼った所で、佐渡守様が不興(ふきょう)に思(おぼ)し召されれば、忽(たちま)ち放逐(ほうちく)されようぞ。」
「確かに。では如何(いかが)なされまする?」
「是が非でも、佐渡守様の御許しを得なければ成るまい。そちは先(ま)ず、兵の宿所を探してくれ。」
「承知。しかし、若殿はどうされまするか?」
「知れた事。ここへ座り込む。」
「何と…」
清右衛門は呆気(あっけ)にとられた。
「成りませぬ。今は冬にござりまするぞ。もし御風邪(かぜ)を召されれば、戦(いくさ)所ではござりませぬ。」
「野戦が続けば、同じ事。なればこれは、緒戦に過ぎぬ。」
幾度も清右衛門は諫(いさ)めたが、やがて忠長の決意の固さを知り、その下知に従った。
寒風吹き荒(すさ)ぶ京洛で、忠長は数日間、本多正信陣屋の正門前に座り続けた。やがてそれは噂(うわさ)になり、大御所家康の耳にも達した。
軍議の後、家康は正信を留めて、事の真偽を確かめた。
「正信、そちの所に、出陣を願い出ている者が居ると聞くが?」
正信は苦笑する。
「未熟者が、匹夫(ひっぷ)の勇を知らずに押し掛け、閉口致して居りまする。まあ、金と兵糧が底を突けば、大人しく持場へ帰りましょう。」
「一体何者ぞ?」
「内藤左馬介殿が嫡男、忠長にござりまする。」
家康は、少し黙考した。
「忠長は何故(なにゆえ)、そこまで出陣したがる?」
「本人曰(いわ)く。此度(こたび)が最後の大戦(おおいくさ)なれば、参戦叶(かな)わずば、武人の家に生まれながら、戦(いくさ)を知らぬ者に成り下がると。」
爽(さわ)やかな顔で家康は、パシリと膝(ひざ)を叩(たた)いた。
「遖(あっぱれ)なる心意気。加えて情勢の判断も的確じゃ。流石(さすが)は弥次右衛門の孫よ。」
「しかし目下、佐貫内藤家には、安房の守りを命じて居りますれば。これは軍令を破る行為に他ならず…」
家康は、正信を睨(にら)んだ。
「正信。そちは頭こそ切れるが、武人の心根を知らぬのか?」
「最早(もはや)、戦国の世ではござりませぬ。」
「そうじゃ。なればこそ、平時に在っても乱を忘れぬ、若い人材が必要ではないのか?」
「はあ…一理ござりまするが…」
「理(ことわり)ではない。武人の本懐じゃ。儂(わし)が忠長の立場なら、出陣を許可されずんば、無念この上無し。御主(おぬし)は若い人材に、儂(わし)を恨(うら)ませる積(つも)りか?」
「大御所様を御恨(うら)みするなど、以(もっ)ての他。」
「とにかく、忠長を然(しか)るべき部署へ、配属せしむるべし。」
大御所の命とあっては、正信も従う他は無かった。
正信が陣屋に戻って来ると、相(あい)変わらず忠長が座り込んでいた。忠長の側まで来ると、正信は眉(み)間(けん)に皺(しわ)を寄せて、言い渡す。
「全(まった)く、御主(おぬし)には呆(あき)れ果てたわい。大御所様の御命令である。」
忠長はパッと表情を明るくして、正信の前に平伏する。
「内藤帯刀忠長を、井上主計頭(かずえのかみ)正就(まさなり)の組へ編入する。」
「確(しか)と、承り申した。大御所様並びに佐渡守様の御恩情、生涯忘れは致しませぬ。」
忠長の目に、涙が溜(たま)る。
「戦(いくさ)の前の涙は不吉じゃ。さっさと新しい持場に移れ!」
「はっ。」
忠長は直(す)ぐ様(さま)立ち上がり、井上正就陣所の在(あ)り処(か)を聞いた上で、家臣達の許(もと)へ走って行った。
「やれやれ、清々(せいせい)したわい。」
正信は肩の荷が取れた顔で、陣屋に入って行った。
忠長が属した部隊の大将井上正就は、母が将軍秀忠の乳母(うば)である縁から、幼少の頃より秀忠に仕(つか)えた人物である。因(よ)って秀忠の信頼厚く、将軍秀忠の周りを固める守備隊であった。
斯(か)くして十一月十九日、徳川方阿波徳島の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)が、木津川口を守る豊臣方明石全登(たけのり)の砦(とりで)を攻撃し、遂(つい)に戦(いくさ)が勃発した。二十五日、今福を出羽秋田佐竹義宣が攻めるも、豊臣家の猛攻に遭(あ)い潰走し、出羽米沢上杉景勝の援軍を得て持ち堪(こた)える。二十八日、志摩鳥羽九鬼守隆は豊臣方の砦を夜討ちし、翌日淡路(あわじ)洲本(すもと)池田忠雄が占領した。
東西の砦を落した徳川方は十二月三日、大坂城南に築かれた砦を攻撃。ここを守る将は真田信繁で、半円状に突出している為に、徳川方は三方より攻撃できるが、東と西から攻め立てる徳川方は、脇腹から城内の豊臣勢に攻撃される仕掛けになっていた。翌四日に架(か)けて攻撃を続けるも、徳川方の被害は増すばかりであった。この出城は、真田丸と称された。
城攻めの名手、豊臣秀吉が丹精を凝(こ)らして築いた大坂城であるが、あれから三十年。新兵器が、海外より伝わっていた。射程距離二里を超える大砲で、家康はこれを、大坂城天守閣に近い北方備前島に据(す)え付け、十六日より天守閣に向け、撃ち続けた。豊臣秀頼に嫁がせた孫娘、千姫をも吹き飛ばす怖れが有ったが、家康非情の決断であった。
大砲は昼夜を問わず撃ち続けられ、遂(つい)に天守閣を直撃。近くに居た淀殿は、危(あや)うく爆死する所であった。そして、天守に移って負傷者の手当をしていた、侍女が犠牲となった。
十七日に、豊臣家との和睦を求める朝廷の使者が、家康の本陣を訪れていた。しかし家康は、武家同士の戦(いくさ)に朝廷が介入するのを、固く断った。しかし淀殿の妹で、亡(な)き京極高次の妻であった常高院が、豊臣全権の使者として遣(つか)わされると、家康はこれに配慮して、和睦の場を京極忠高の陣とした。忠高に取って常高院は、義母に当たる。
十八日から行われた和議は、豊臣家臣で主戦派の大野治長が、江戸に人質を出す事に加え、この度(たび)召し抱(かか)えし浪人を解雇する事、そして大坂城の外郭破却と、総堀を埋(う)める事で、合意に至った。
十九日、徳川幕府と豊臣家の和議が成立し、徳川方の砲撃が漸(ようや)く収まった。翌二十日、大御所家康並びに将軍秀忠と、豊臣秀頼が誓書を交し、大坂冬の陣は終結した。
この戦(いくさ)で豊臣方は、大坂城を頼みに籠城戦を行った為、井上正就組にいた忠長は、敵と交戦する機会が無かった。
「手柄首を取れなかったか…」
ぼやく忠長を、清右衛門が諫(いさ)める。
「一兵卒の様な事を仰(おお)せ遊ばされるな。立派に上様の本陣を、守り抜いたではござりませぬか。それにしても、御味方二十万近く、敵方八万の大戦(おおいくさ)は、実に壮観でござった。大殿に、良い土産(みやげ)話ができまするな。」
「確かに。」
二人は暫(しば)し、大砲で破壊された天守閣を望み、此度(こたび)の勝軍(かちいくさ)を実感していた。
豊臣方の誤算は、秀吉恩顧の大名が誰一人、豊臣家に味方しなかった事である。天守閣も危なく成って淀殿は漸(ようや)く、豊臣家の面目を守る事から、秀頼の身を守る方へ、考えを改めるに至った。
和議の条件に従い、豊臣家は大坂城二の丸、三の丸を破壊し、徳川家は総堀の埋め立てを行った。ここで、一つ問題が発生した。総堀とは通常、城の周りに巡(めぐ)らされた外堀を指すのだが、徳川家は城内全ての堀と解釈し、内堀まで悉(ことごと)く埋めてしまったのである。天下の大坂城も、本丸を残す只(ただ)の平城にされてしまった。豊臣方は抗議したが、和議を壊す事を避け、已(や)むなくこれに従った。
*
戦(いくさ)は年内に終息し、慶長二十年(1615)の正月は、海内平穏のまま迎える事ができた。京で新年と戦勝を祝った後、諸大名は帰国の途に着き、忠長も将軍秀忠の行列に加わって、江戸へ凱旋した。
桜田邸に戻ると、安藤源左衛門と上田甚右衛門、両家老が迎えに出ていた。
「初陣をめでたく勝軍(かちいくさ)に収めし事、恭悦(きょうえつ)の至りにござりまする。」
「大殿が、中で御待ちにござりまするぞ。」
忠長は馬を下り、犒(ねぎら)いの言葉を掛ける。そして兵を惣兵衛と吉兵衛に任せた上で、自身は副将清右衛門を伴って、父の許(もと)へ報告に向かった。
家老に案内された間で待っていたのは、父政長の他に母三宅氏と、弟於丹生(おにぶ)である。忠長は甲冑(かっちゅう)を纏(まと)ったまま、入口で座礼をとる。
「只今、戻りましてござりまする。」
そっと、忠長は頭を上げて、父の表情を窺(うかが)った。案の定、機嫌は斜(なな)めの様である。
「まあ、入れ。」
父の言葉に従い、忠長は部屋の中程まで進み、再び腰を下ろす。再度座礼をとろうとした時、政長がそれを制した。
「先(ま)ずは、母親に心配を掛けし事、深く詫(わ)びよ。」
忠長は三宅氏の方へ向き直り、頭を下げる。母は苦笑して、優しく声を掛けた。
「本当に、無茶な事をして。もしも万一の事が起らば…母に取って忠長殿が、どれだけ頼みか…」
「誠に、御心配を御掛け致しました。御許し下さりませ。」
母は涙を拭(ぬぐ)いつつ、頷(うなず)く。
忠長が神妙に詫(わ)びたのを見届けると、政長の表情が、つと和(やわ)らいだ。
「御事(おこと)も視野が狭いのう。弟を見て、何も気付かなんだか?」
父に尋ねられて、忠長は於丹生(おにぶ)に目を向ける。
「あっ!」
「気が付いたか?」
於丹生(おにぶ)は、元服していた。
「左兵衛尉(さひょうえのじょう)政次じゃ。儂(わし)とそちが共に軍務に就(つ)いた故(ゆえ)、万一に備えて元服させた。余り、父母に心配を掛けさせるな。」
「重ね重ね、申し訳ござりませぬ。」
詫びてばかり居る兄を見て、弟政次が笑い出した。それに釣られて、父母の口元も綻(ほころ)ぶ。
場が和(なご)やかになった所で、政長は後ろに控える清右衛門にも、声を掛けた。
「そちには苦労を掛けた。して、上方の情勢は如何(どう)であったか?」
「はっ。豊臣恩顧の諸大名、悉(ことごと)く徳川幕府に御味方し、大坂城は孤立無援なれば、程無く和議に至り申した。戦後、大坂城は平城とされ、二度と幕府に歯向かう気持は起りますまい。」
「其(そ)は祝着じゃ。めでたく初陣を飾り、次は嫁取りじゃな。」
政長の視線が、忠長に向けられる。
「はあ…」
「これ迄(まで)は、儂(わし)も佐貫の治政やら、安房の仕置やらで忙しく、感(かま)けて居ったが、此度(こたび)はそうは行かぬぞ。実は、上州高崎五万石の酒井宮内大輔殿が、大坂でのそちの若武者振りを、甚(いた)く気に入られたみたいでのう。姫君を御事(おこと)の妻にと、話を持ち掛けられたのじゃ。」
母の三宅氏も、乗り気の様である。酒井家次は、戦国時代に徳川四天王に数えられた、酒井忠次の長男である。
「どうじゃ、又と無い話であろう?」
「さて…」
煮え切らぬ忠長に、政長は語気を強めて言い渡す。
「よいか、この縁組は当主として命ずる。不満は許さぬぞ。」
忠長は黙って、頭を下げた。政長は頷(うなず)き、言葉を継ぐ。
「段取りは、儂(わし)の方でつけて置く。今日は長旅で、疲れも有る事であろう。下がって休むが良い。政次も、下がって良いぞ。」
兄弟は父母に礼をとった後、立ち上がる。弟の政次は、兄に無邪気に話し掛ける。
「兄上、戦(いくさ)はどうでしたか?何故(なにゆえ)、この政次も御供に加えて下さらなかったのですか?」
「そちには未(ま)だ早い。もう少し、武芸の腕を磨(みが)かねばな。」
「侮(あなど)り召されるな。ならば今直(す)ぐにでも、御相手致しまする。」
「今日は疲れた。明日、見てやろう。」
兄弟仲良く退室するのを見送ってから、妻三宅氏同席の下(もと)、政長は清右衛門に尋ねた。
「守役に聞きたい事が有る。」
清右衛門は、床に手を突いた。
「何なりと。」
「忠長には、誰ぞ見初(みそ)めた姫君でも居るのか?」
清右衛門は、周囲を窺(うかが)う。
「案ずるな。近くに人は居らぬ。妻に聞かせて、不都合な事は有るまい?」
「されば…某(それがし)の考え違いでなければ、武州八王子に在(おわ)される、信松院殿の所の、香具姫殿かと。」
「何と!」
政長と三宅氏は、顔を見合わせて驚いた。信松院は戦国時代、甲斐武田信玄の五女に生まれ、武田家滅亡の折、身内の姫達を連れて、武蔵国へ逃(のが)れて来た。その中に、甲斐岩殿山城主小山田信茂の娘が居り、それが香具姫であった。
「小山田氏は、天正十年(1582)に滅(ほろ)びた筈(はず)。されば、姫は忠長より十以上も年上ではないか。」
「御意…」
武田家、並びに小山田家を滅ぼしたのは、織田信長、信忠父子であり、徳川家は信長の死後、武田の旧領を切り取り、その遺臣を味方に加えて来た。譜代大名の中には武田の旧臣も居り、将軍家は信玄の次女見性院を、田安門内に屋敷を与えて、養っている。
「小山田氏か…」
「やはり、叶(かな)いませぬか?」
「年齢の事も有る。正室には迎えられぬ。」
三宅氏も、夫の言に頷(うなず)いている。政長は一息吐(つ)くと、清右衛門に言い渡した。
「この件は日を改めて、儂(わし)から直接、忠長に質(ただ)してみよう。そちは大儀であった。下がって、従軍の疲れを癒(いや)すが良い。」
「ははっ。」
清右衛門が下がった後、政長は三宅氏に向かい、
「本当に、倅(せがれ)は次から次へと、問題を作り居るわい。」
とこぼした。三宅氏も困り顔で、共に長男の将来について悩んだ。
後日、忠長は父に呼び出され、婚儀の件について尋ねられた。
「そちは元服し、初陣も飾った。当然、次は婚儀が控えて居る事、大名の子として存じて居ようのう?」
「はっ。」
浮かぬ顔で、忠長は答えた。それを見て、政長は単刀直入に、忠長の心底を質(ただ)す。
「八王子の香具姫なれば、問題は無いか?」
忠長の心の臓が、強く鼓動する。
「何故(なにゆえ)、それを?」
「儂(わし)が、尋ねて居る。」
忠長は顔を紅潮させ、小声で答える。
「はい…」
政長は暫(しば)し忠長を見詰め続け、やがてその口を開いた。
「差し許す。」
途端(とたん)に、忠長の表情が明るくなった。政長は表情を変えぬまま、言葉を継ぐ。
「但(ただ)し、条件が有る。」
「何でござりましょう?」
「先(ま)ずは酒井家より正室を迎え、然(しか)る後(のち)に香具姫は側室とせよ。加えて、正室に男子が生まれれば、これを世継(よつぎ)と定める。」
忠長の顔に、不満が浮き出ている。政長は窘(たしな)める様に、忠長を諭(さと)す。
「考えても見よ。香具姫は三十路(みそじ)なれば、子を儲(もう)けられるか不安が有る。内藤家三万石の当主として、嫡子の後継問題は、御家の一大事ぞ。」
忠長は渋々ながら、父の命令に従った。
斯(か)くして忠長は、酒井家次の娘を妻に迎えた。政長は酒井家に角(かど)が立たぬ様、正室との間に子を儲(もう)けるまでは、忠長に側室を持つ事を許さなかった。
新婚後間も無く、正室酒井氏が鉢巻(はちまき)を締(し)め、薙刀(なぎなた)を手に取り、忠長の許(もと)を訪れた。
「何事ぞ?」
驚いて立ち上がる忠長に、酒井氏が詰め寄る。
「殿には、他に懸想(けそう)する女性(にょしょう)が在(おわ)すとか。」
「何を言うて居る?」
「返答や如何(いか)に?」
妻の気迫に圧(お)されつつも、隙(すき)を突いて廊下へ飛び出す。
「卑怯(ひきょう)にござりまするぞ。」
酒井氏は猶(なお)も薙刀(なぎなた)を振り翳(かざ)し、忠長を追う。変事に気が付き、駆け付けて来た家臣土方大八が止めに入った時、酒井氏の薙刀(なぎなた)が当たってしまった。大八は腕を切られ、血が手の甲まで伝って来る。酒井氏は急いで薙刀(なぎなた)を置き、大八に止血の手当を施(ほどこ)した。そして忠長の前に手を突き、懇願(こんがん)する。
「妾(わらわ)の落度にて、大切な家臣に手傷を負わせてしまいました。何卒(なにとぞ)御許し下さりませ。加えて勝手な御願いにござりまするが、この忠義の者に恩賞を下されまする様、重ねて御願い申し上げまする。」
先程まで追い回して来た者が、今こうして頭を下げている。忠長は当惑しつつも、これを許した。
「もう良い。そちは部屋へ戻って居れ。」
「有難う存じまする。」
酒井氏は深く辞儀をすると、負傷した大八に向かう。
「迂闊(うかつ)でありました。御許しを。」
「滅相(めっそう)もござりませぬ。」
却(かえ)って大八は恐縮し、頭を下げる。
忠長は去り行く妻の後ろ姿を眺(なが)めつつ、流石(さすが)は四天王の孫娘よと、冷汗をかきながら、一方で垣間(かいま)見えたその優しさに、爽(さわ)やかさを覚えていた。後日、忠長は土方大八に、二百石の知行地を与えた。
三月二十五日、幕府より桜田邸へ使者が遣わされて来た。客間で政長と忠長、そして後方には家老達が平伏し、幕吏が台命を伝える。
「内藤左馬介政長、右の者、安房館山城の接取及び破却を無事に終え、大坂に於(お)ける大乱の折には、よく役目を果し、江戸近辺を守護せしめた。その功に因(よ)り、安房国内に一万石の加増を申し渡す。」
これで佐貫内藤家の石高は、四万石となった。
政長は承服の意を示し、書翰(しょかん)を押し戴(いただ)くと、幕吏はもう一通の書簡を懐より取り出して、読み上げた。
「内藤帯刀忠長、右の者、大坂に変事出来(しゅったい)するを聞き付け、手勢を率(ひき)いて急ぎ上洛に及びたる段、これ忠義の鑑(かがみ)なり。格別の思(おぼ)し召しを以(もっ)て、上総国佐貫の近辺に、一万石を与える。」
内藤家から、響動(どよ)めきの声が上がった。政長は、幕吏に確認する。
「有難き御言葉と、恐懼(きょうく)して承りまする。しかしこの儀は、忠長を当家より離して、立藩せしむるとの仰(おお)せにござりましょうや?」
「然(さ)に非(あら)ず。飽(あ)く迄(まで)上様から下されし、軍功への恩賞なれば、帯刀殿の御立場は、左馬介殿の御随意に。」
「有難き幸せ。」
頭を下げる政長に、横目で促(うなが)されて、忠長も書翰(しょかん)を受け取った。
幕吏が戻った後、政長は桜田邸に詰める重臣を召集し、評定を行った。その場で先(ま)ずは、佐貫内藤家に一万石の御加恩が有った事が告げられ、家中は喜びに沸(わ)いた。
次の議題に入る前に政長は、下座筆頭の席に座っていた忠長を呼び、自分の隣へ移る様に命じた。忠長は粛々(しゅくしゅく)と進み、政長の隣に腰を下ろす。そして、政長は家臣に布告した。
「前(さき)の大坂の陣で、この忠長に軍功が認められ、上様より別に一万石を賜った。」
家中から、忠長を称(たた)える声が上がる。政長はそれを静めた後、言葉を継いだ。
「因(よ)って当家では、忠長直轄(ちょっかつ)の一万石衆を置く事と致す。目付家老は安藤清右衛門、組頭は大島半兵衛、河角五郎左衛門、近藤惣兵衛、穂鷹吉兵衛、加藤藤人…」
家中の承認を得て、忠長は佐貫内藤家中に於(おい)て、独立した大名格の扱いとされるに至った。非公式ながらの、立藩である。
慶事が続く佐貫内藤家であるが、一方で戦(いくさ)が終った筈(はず)の上方(かみがた)では、再び雲行きが怪しくなっていた。去る三月十五日、京都所司代より駿府の家康に、大坂浪人の狼藉(ろうぜき)が伝えられた。家康は豊臣家に対し、前(さき)の戦(いくさ)で雇(やと)いし浪人を放逐(ほうちく)する様(よう)命じ、和睦(わぼく)の条件が満たせぬ様であれば、大坂から移封させると脅(おど)しをかけた。四月一日、家康は小笠原秀政を伏見城へ置き、大量の解雇が見込まれる、浪人達の暴動に備えさせた。
四日、家康は駿府から、尾張名古屋城に移った。城主である九男の松平義利と、紀伊和歌山藩先代浅野幸長の娘、春姫との婚儀に臨席する為である。
五日、大野治長より家康へ、国替えの儀は容赦する様、願い出る書状が届けられた。浪人放逐については、何も明言されていない。実はこの治長、前(さき)の戦(いくさ)で浪人の同意を得ぬまま和睦を行い、これを恨(うら)んだ名も無き浪人に刺され、危(あや)うい目に遭(あ)っていた。以来、豊臣家は浪人衆を、統御できなくなっていたのである。
六日、家康は遂(つい)に諸大名に対し、鳥羽、伏見への参陣を命ずるに至った。十日、この陣触れは江戸へ達し、将軍秀忠も出陣する運びとなった。
江戸に詰める諸大名は江戸城に登り、本多正信から持場が言い渡された。江戸留守居の総大将は、将軍家嫡男竹千代君とされ、これを補佐して江戸の守りを固める役に、政長も加わる事となった。一方で、将軍に伴い上洛する酒井家次組に、忠長も加わる様(よう)言い渡された。忠長は神妙に承り、隣では政長が、顔を顰(しか)めていた。
持場の発表が終ると、諸侯は遅れを取るまじと、急ぎ下城する。忠長も他家に遅れまいと席を立った所、突然政長に、肩を掴(つか)まれた。
「当家を代表して出陣するからには、不覚(ふかく)は許されぬぞ。」
忠長は確(しか)と頷(うなず)いた。
「承知。」
既(すで)に一万石衆の全権は、忠長に委(ゆだ)ねてある。政長の手が離れると共に、忠長は駆け出して行った。その背中を見送りつつ、政長は息を漏(も)らした。
「父が留守番で倅(せがれ)が出陣とは、あべこべではないか。」
しかし一方で、進んで戦場(いくさば)に臨(のぞ)もうとする姿に、亡(な)き父家長の面影(おもかげ)を感じていた。