第四節 一万石衆

 桜田邸に戻った忠長は、直(じき)(さん)の家臣を集め、下知した。
「此度(こたび)、上様より台命が下った。我が一万石衆は速(すみ)やかに軍勢を整え、岳父酒井左衛門尉(さえもんのじょう)様の麾下(きか)に入り、大坂の謀叛を鎮(しず)めに参る。組頭は直(ただ)ちに領内より、兵を集めよ。私(わし)は城を持たざる身なれば、留守役は無用ぞ。」
「ははっ。」
組頭達は挙(こぞ)って承服すると、直(す)ぐに上総へ発(た)った。

 忠長は自室に戻り、兵書に目を通そうと思っていた所、廊下で弟政次に呼び止められた。
「兄上、母上が御呼びでござる。」
「直(す)ぐに参る。」
(きびす)を返して、忠長は母の居間へ向かった。

 母三宅氏の許(もと)へ姿を現した忠長は、座して母に頭を下げる。
「台命を帯び、大坂へ出陣する事と相(あい)成りました。」
「其(そ)は、武家の母として、慶(よろこ)ばしく存じまする。忠長殿が存分に働ける様、母からの贈物(おくりもの)が有りまする。」
三宅氏は侍女に促(うなが)し、櫃(ひつ)を幾(いく)つか持って来させた。
「御覧あれ。武士の子なれば、何(いず)れ必ず要する時が来ると思い、整えて置きました。」
(ひつ)を開けると、中には具足が納められていた。朱(あけ)色で、戦場(いくさば)に於(おい)て目立つ。

 早速(さっそく)、忠長はそれを身に纏(まと)った。すると、妻の酒井氏が現れ、得物(えもの)を夫に渡す。
「父を、御頼み申しまする。」
忠長は頷(うなず)き、得物を受け取る。
「金棒にござりまする。」
それは 、十文字の槍(やり)であった。

 朱色の甲冑(かっちゅう)に、十文字の槍。正(まさ)しく大名に相応(ふさわ)しい形(なり)である。そこへ、庭から政次が声を掛けた。
「兄上、これも。」
(あし)毛の馬に、黒い鞍(くら)が掛けてある。早速(さっそく)、忠長は馬に飛び乗った。

 兄が機嫌を良くしたと見るや、政次は跪(ひざまず)いて言上する。
「畏(おそ)れながら兄上に、御願いの儀がござりまする。」
忠長は軽く馬を進ませつつ尋ねる。
「何じゃ?」
「此度(こたび)の戦(いくさ)、某(それがし)も御供に御加え下さりませ。」
笑顔で、忠長は返した。
「許す。」
急の事に驚いて、三宅氏が歩み寄って来た。
「兄弟揃(そろ)って出陣し、二人に万一の事有らば、この母はどうなる?」
政次は、母に向かって返す。
「兄上は放って置いても、父上の家督が継げるというのに、それを待たずして自ら武功を挙げ、大名と成られました。さればこの政次も、戦(いくさ)で手柄を立て、部屋住みより身を立てとう存じまする。」
忠長は馬を下りると、政次の側へ歩み寄った。
「母上、御案じ召されまするな。」
そして、政次の肩を叩(たた)く。
「御事(おこと)には、御膳奉行を命ずる。兵が飢(う)える事の無き様、恙(つつが)無く役目を果せ。」
後方支援という事で、母は些(いささ)か安堵(あんど)した様であったが、政次は不満気(げ)な面持(おもも)ちである。
「嫌(いや)なら、無理にとは申さぬ。」
出陣が叶(かな)わなければ、手柄を立てる機会を失ってしまう。戦(いくさ)は起ってみれば、何が待っているか分からない。政次は隙(すき)を見て軍功を挙げんと心に秘めつつ、神妙に兄の言に従った。

 斯(か)くして一万石衆に舎弟政次が加わり、旗奉行、鉄砲大将、弓大将、槍奉行、騎兵、小姓(こしょう)の大所帯となった忠長勢は、雑兵(ぞうひょう)を加えて三百名近くに達した。御膳奉行政次には、佐野太兵衛、成瀬忠右衛門、岡忠左衛門ら二十余騎が付き従った。

 内藤忠長の指物(さしもの)は、茜(あかね)色に金のびらびらを付けており、その姿は恰(あたか)も、戦国最強と謳(うた)われし、甲州武田騎兵を彷彿(ほうふつ)とさせた。忠長の軍勢は将軍秀忠に従い、東海道を西へ向かった。

 途中、三河国に入った所で、歩兵の将である穂鷹吉兵衛と渡辺六右衛門が、忠長の前で跪(ひざまず)いた。
「畏(おそ)れながら、若殿に御願いの儀がござりまする。」
「何か?」
「我ら若かりし頃より、出陣の砌(みぎり)には菅生総持寺へ参詣し、戦勝を祈願致して参り申した。この度も、同じ様に致しとう存じまする。」
「それは、私(わし)も肖(あやか)りたい。行くが良かろう。」
「有難き幸せ。」
両将は頭を下げると、騎乗して走り去って行った。

 四月十二日、尾張名古屋城では家康臨席の中、九男松平義利と紀伊和歌山浅野家との婚儀が、盛大に執り行われた。然(しか)る後(のち)、家康は京の二条城へ移った。

 二十一日、将軍家率(ひき)いる大軍が二条城に到着し、翌二十二日に軍議が行われた。

 一方、二十六日に豊臣方の大野治房が大和郡山城を攻め落し、幕府との対決を表明した。

 二十九日、徳川家と姻戚(いんせき)になった紀州和歌山の浅野長晟(ながあきら)が、豊臣領内に攻め込んだ。そして五月五日、徳川本隊は遂(つい)に京を進発し、大坂へ駒を進めた。

 丸裸にされた大坂城に、籠城する事はできない。豊臣方は野戦を選び、六日寅(とら)の刻、先陣の伊達政宗、本多忠政、水野勝成の軍に、後藤基次が攻撃を仕掛けた。道明寺口で、寡兵(かへい)ながらも善戦した基次であったが、十分の一にも満たぬ数では限界が有り、昼過ぎには撃破された。基次は、伊達軍の銃弾を浴びて斃(たお)れた。潰走する味方を救うべく、真田信繁が殿軍(しんがり)に駆け付け、豊臣方は何とか、城へ引き揚げる事ができた。

 道明寺口へは、伊勢安濃津の藤堂高虎も合流する筈(はず)であった。しかし豊臣方の長宗我部盛親がこれを発見し、八尾と若江で激戦となった。これに徳川方井伊直孝が援軍として加わり、木村重成は討死、長宗我部盛親は退却した。

 豊臣方の先遣隊を撃破した徳川方は、翌七日、大御所家康が天王寺口へ、将軍秀忠が岡山口へ、それぞれ進出した。忠長の属する酒井家次は家康に従い、第三陣を仰(おお)せ付かった。第一陣は、嘗(かつ)て政長と共に安房館山城の破却を行った、本多忠朝である。

 行軍を夜間に行い、布陣を済ませた徳川勢は、陽が昇るまで、攻撃を仕掛ける事は無い。忠長は近くに控える、大島半兵衛に告げる。
「時が来るまで、暫(しば)し休む。膝(ひざ)を貸せ。」
「はっ。」
半兵衛の膝枕で、忠長は直(す)ぐに眠りに就(つ)いた。
「いやはや、剛胆な御方よ。」
他に控えていた原田武蔵、丹羽才三郎、穂鷹吉兵衛、渡辺六右衛門は、若殿の戦場(いくさば)に慣れた様(さま)に、殆(ほとほと)感心した。

 夜が明けても戦(いくさ)は始まらず、陽が高く昇った頃、俄(にわか)に前方から鉄砲の音が響いた。
「若殿、頃合(ころあい)にござりまする。」
半兵衛に起されると、忠長は直(す)ぐ様(さま)立ち上がり、馬に跨(またが)った。そして半兵衛に轡(くつわ)を取らせ、視界の利く小高き所へ登った。

 午(うま)の下刻、豊臣方毛利勝永勢が、味方第一陣、本多忠朝勢に襲い掛かっていた。程無く、同じく酒井家次組に属する、松平康長が訪れた。
「帯刀殿、本多方は寡勢(かぜい)なれば、援軍に向かうべきと存ずるが。 」
「確かに。鉄砲隊を守る兵が足らず、応射能(あた)わざる由(よし)。我等の歩卒を二、三十送り、これを援護せねば。」
「では早速(さっそく)、本多方へ軍使を送り、許可を得申そう。」
「承知。」
内藤忠長、松平康長双方より、速(すみ)やかに使者が遣わされた。

 軍使より援軍の許可を求められた忠朝は、烈火の如く怒った。
「青二才の援軍は断る!持場を決められしは大御所様なるぞ。是非にと申すなら、大御所様の上意を得て参れ!」
使者は已(や)むなく、陣へ取って返した。

 この時、徳川方に誤算が生じた。正面茶臼山に陣取る真田信繁の備えには、伊達政宗を宛(あ)てていた。伊達の騎馬鉄砲隊は機動力を活かし、雨霰(あられ)の如く真田勢へ撃ち込んだが、弾籠(たまご)めの隙(すき)を突いて、伊達軍は突破された。そして家康の首を狙(ねら)うべく、真田勢は家康本陣に突入して来たのである。

 本多忠朝は奮戦の末、討死した。続いて第二陣も破られ、敵はとうとう、第三陣へ達した。

 真田勢の猛攻は凄(すさ)まじかった。松平康長は手傷を負いつつも、近藤勢の後備えが駆け付け、落ち延(の)びて行った。

 忠長の隊も、真田勢が大挙して押し寄せた。味方は崩されて散り散りとなり、やがて忠長を発見した敵兵が、突進して来た。
「掛かれ!」
忠長の叫(さけ)びも虚(むな)しく、味方は潰走する。唯(ただ)一人、水谷(みずのや)伊勢守勝隆の家臣、奥山與兵衛だけが、取って返して、敵の中へ斬り込んで行った。

 しかし毛利勝永の兵二十が、槍を構(かま)えて忠長に突き掛かって来た。忠長は馬を下り、敵の一人を組み伏せて、首を取った。

 乱戦の中故(ゆえ)に、側にいた穂鷹吉兵衛は主君の太刀を奪い、忠長に斬り掛かろうとする敵兵に応戦した。突き倒して首を取ろうとしたが、他にも敵が攻め寄せ、吉兵衛は首を取る暇(いとま)も無く、別の敵兵と交戦した。安藤清右衛門、吉田小兵衛は、忠長と逸(はぐ)れつつも、槍を取って奮戦していた。大島半兵衛は古井戸に敵を落し、上から槍で突くも、敵は刀でこれを払う。丹羽才三郎が加勢に駆け付け、半兵衛は井戸の敵に集中するも、槍を掴(つか)まれる。敵の弓兵が半兵衛に迫(せま)り、腰を射(い)られたが、半兵衛は井戸の敵を仕留めた。ただ、首を取る事は叶(かな)わなかった。幸い、敵の矢は鞘(さや)に当たっていたので、半兵衛は次の敵を求めた。忍半九郎は敵中深く斬り込み、大いに奮戦していた。小姓原田武蔵も持場を守り、戦った。しかし、渡辺六右衛門は致命傷を負い、倒れた。他に、歩兵二人の討死が報告された。

 内藤勢が持場を死守する一方、第三陣は壊滅しており、大将酒井家次は逃走していた。真田勢は遂(つい)に、家康の許(もと)へ辿(たど)り着いたのである。

 元亀三年(1572)、徳川家康は三方ヶ原に於(おい)て、武田信玄に惨敗(ざんぱい)を喫(きっ)した。あの時は命からがら、浜松城へ逃げ果(おお)せたが、此度(こたび)こそは最期かも知れぬと思わせる程、真田信繁は執拗(しつよう)に家康を追い詰めた。衛兵は一人になり、危(あや)うい所であったが、越前松平忠直の援軍有って、家康は退却できた。程無く豊臣方本陣の茶臼山が落ち、精根尽き果てた信繁は、遂(つい)に徳川方の手に掛かった。

 豊臣勢が退(ひ)いた頃、丹羽才三郎の刀は鋸(のこぎり)の様になっていた。忠長は自ら四人の首を取り、茶臼山へ向かった。

 途中、兵が腹を空(す)かせているのに気付いた忠長は、鉄砲避(よ)けの竹束を立て、兵に焼飯を食べさせた。そこへ、来客が有った。
「下総山川城主、水野監物忠元にござる。願わくば、食物を拝借致したい。」
忠長は政次を呼ぶ。しかし、政次は首を横に振った。
「たった今、当家も兵糧が尽き申した。」
忠元は弱り顔をしたが、兵の多くが、まだ食べ掛けであるのを認めた。
「済まぬが、譲(ゆず)って貰(もら)えぬか?」
兵達は狼狽(ろうばい)し、食べるのを止めた。流石(さすが)に忠長が口を挟む。
「監物殿に、兵の食べ残しを譲るのは…」
忠元が是非にと言うので、忠長は已(や)むなく、それらを水野勢に譲った。忠元も一つ貰(もら)い、ペロリと平らげると、忠長に頭を下げる。
「有難し。これでもう一働きでき申す。」
忠元はそう言い残して、大坂方面へ去って行った。

 同日、岡山口では豊臣方大野治房と、徳川方前田利常の間で火蓋(ひぶた)が切られ、豊臣方は奮戦するも、力及ばず。申(さる)の刻には天王寺、岡山の両方面で徳川方が勝利し、豊臣の残兵は大坂城へ退却した。進退窮(きわ)まった豊臣家は遂(つい)に、本丸天守閣に火を放った。本丸に残っていた信繁の長男、真田大助幸昌は、自害して果てた。

 翌日、大坂入城の前に家康は、真田信繁に因(よ)り四散していた本隊の将を、一堂に集めた。これには、忠長も同席した。

 天下平定の最後の大戦(おおいくさ)に本隊が潰走するという不始末を犯した上に、敵の猛攻を受けた名残(なごり)で、諸将は皆髪が乱れ、甲冑(かっちゅう)は土に塗(まみ)れていた。加えて、顔にも土が付いたままの者が多々いる。

 大御所の御成(おなり)が告げられると、諸将は床几(しょうぎ)を立ち、頭を下げる。家康が着座したのを見届けてから、諸将も腰を下ろした。

 家康は諸将を見渡し、話し始める。
「昨日の真田勢は鬼神の如(ごと)く、流石(さすが)に儂(わし)も肝を潰(つぶ)した。しかし斯(か)かる折にも拘(かかわ)らず、左衛門尉率(ひき)いる第三陣に、朱具足を纏(まと)い、葦(あし)毛の馬に茜(あかね)の指物(さしもの)を付けた若者が、乱れた様子も無く、よく通る声で、持場を死守して居った。実に遖(あっぱれ)な戦(いくさ)振りに、儂(わし)は感心した。その者を賞したいが。」
家康の眼指(まなざし)は、酒井家次に向けられた。家次は敗走した為、それが誰であるか分からない。
「某(それがし)から名を挙げるは、遠慮しとうござりまする。」
そこへ、松平伊豆守信吉が立ち上がって、言上した。
「葦毛の馬に朱具足は、某(それがし)の出立(いでた)ちにござりまする。」
家康は顔を顰(しか)めた。
「儂(わし)は、左衛門尉の組と申しておる。」
再三再四家康が尋ねるも、家次は黙ったままで、誰も名乗り出ない。家康は、満足顔で諸将に告げる。
「我が軍には、勇猛かつ謙虚な人物が居る。一方、豊臣方は後藤基次、真田信繁らを失い、最早(もはや)(さ)したる人材は残って居るまい。これより、大坂城を一気に制圧致すぞ。」
諸将は立ち上がり、承服の意を示した。

 この日、豊臣秀頼の正室にして将軍秀忠の長女千姫が、大坂城を出て将軍家に保護された。豊臣家最後の一策は、千姫に助命嘆願をさせる事であった。家康はこれを受けて、豊臣秀頼と淀殿母子が、未(いま)だ存命である事が判(わか)った。家康は千姫を休ませる様(よう)命じた後、大坂城内を隈(くま)無く探させた。

 程無く、籾(もみ)蔵に潜伏しているのが発覚した。家康は命を助けるから、蔵から出て来る様に催促(さいそく)した。しかし返答は無く、次第に辺りが煙(けむ)たくなった。
「まさか? 」
家康が目を凝(こ)らして籾蔵を見た時、蔵の中は既(すで)に、炎に包まれていた。秀頼母子は、敗軍の将として衆人に晒(さら)されるを恥辱(ちじょく)と考え、自害していた。大野兄弟も、これに殉(じゅん)じた。五月八日の事である。

 豊臣家は滅亡し、徳川幕府を脅(おびや)かす勢力は、ここに消滅した。やがて、千姫脱出の折に、秀頼が側室との間に儲(もう)けた一男一女が、茶人古田織部(おりべ)重然を頼って逃れている事が発覚。若君は斬首、姫は相州鎌倉東慶寺へ送られた。織部は謀叛の疑いを掛けられ、切腹した。嘗(かつ)て四国を統一した長宗我部家の当主盛親は、残党狩りに因(よ)り捕縛(ほばく)され、斬首に処された。

 真田信繁が家康本陣を蹴散らしていた折、忠長の号令を受けて踏み止(とど)まり、敵軍の中へ取って返した奥山與兵衛は、その後水谷家を出奔して、浪人となる。しかし、後(のち)に忠長の口添えを得て、松平中務大輔忠知に仕官し、三百石を賜ったという。

 秀頼自害から二十一日後、大坂城を追われて徳川陣営に加わっていた片桐家より、当主且元(かつもと)の病死が届け出された。殉死(じゅんし)を訝(いぶか)しむ者も有ったが、家康は詮索(せんさく)に及ばず、次男元包(もとかね)に大和の所領を安堵させた。

 それよりも家康が問題視したのは、松平忠輝の家臣が、将軍家の伝令を殺害するという事件であった。忠輝勢を追い越して行く伝令を、先陣の功を奪う物と誤解した結果であると、詮議の結果が報告された。しかし家康は、越後高田藩の将軍家への反逆と見(み)(な)し、生涯目通りは許さぬと、断言した。

 大坂落城後、家康は伏見城へ引き揚げ、忠長率(ひき)いる手勢も、これに加わった。そして伏見到着後、程無く忠長に、家康直々(じきじき)の御召(おめし)が有った。

 無礼の無い様に、忠長は身形(みなり)を整えて、本丸へ参上した。
「内藤忠長、大御所様の御下命に因(よ)り、罷(まか)り越しましてござりまする。」
(うやうや)しく座礼をとる忠長を、家康は内へ招いた。
「近う。」
忠長は承り、中へ進む。

 家康の側に控えるのは、本多正純唯(ただ)一人で、他には小姓の姿も見えない。再び畏(かしこ)まる忠長に、家康が声を掛ける。
「天王寺口では、若年ながら、見事な働きであった。それを翌日賞したかったが、そちは名乗り出なかったのう。」
「某(それがし)は未熟故(ゆえ)に、敵への備えで手一杯でござり申した。大御所様が感服なされる程の猛将なれば、まず某(それがし)である筈(はず)がござり申さず。」
正純が、脇から尋ねる。
「酒井家次隊は潰走するも、その中の一隊が踏み止(とど)まり、真田信繁が友軍、毛利勝永勢を押し戻して居ったが。」
「本陣の守りを仰(おお)せ付かった以上、命を賭(と)して守り抜くは、当然の事と存じまする。」
家康は、扇をパチリと閉じた。
「その若さであの剛胆な戦(いくさ)振り。加えて陣中での謙虚なる言動。流石(さすが)は弥次右衛門の血筋よ。あの時、真田信繁に加えて、毛利勝永までも押し寄せていたならば、儂(わし)は今ここで、無事ではいなかったであろう。この場で遠慮は無用。恩賞を取らせる故(ゆえ)、望むままを申して見よ。」
「御言葉、光栄の極みと存じ奉(たてまつ)りまする。然(しか)れども、某(それがし)より軍功大なる将は多々有り。」
(らち)が明かず、再び正純が口を挟(はさ)んだ。
「私事(わたくしごと)でも良い。例えば側室を持ちたいが、酒井家に角(かど)が立つのを懸念して居るとか。」
(にわか)に、忠長は狼狽(ろうばい)した。家康はその様子を楽しみつつ、忠長に確認する。
「八王子信松院殿の、香具姫を迎え入れたいとか?」
「赤面の限りにござりまする。」
「どこで出逢(でお)うた?」
「先年、武田信吉公の見舞に参上仕(つかまつ)りし折、信松院様も頃を同じくして訪れられ、香具姫殿はその御供に。」
武田信吉は家康五男であり、慶長八年(1603)に病没している。家康は、武田信玄の次女見性院を江戸城田安門内に養い、信吉をその養子とする事で、配下に加えし武田の旧臣を纏(まと)めて来た。信松院は信玄の五女なので、信吉の叔母に当たる。
「香具姫はそちと同じ天正年間の生まれといえど、歳は大分上であろう。どこが気に入った?」
「少し話を…そして続きを聞きたいと願って居りました。」
家康は身を乗り出す。
「ほう。何の話をした?」
「永禄四年(1561)の、信州八幡原合戦にござりまする。」

 俗(ぞく)に言う、第四次川中島の戦いである。千曲川の辺(ほとり)に武田信玄が海津城を築いたのを受け、上杉謙信はこれを落すべく、一万三千騎を善光寺に入れる。信玄も雌雄(しゆう)を決するべ く、二万騎を率(ひき)いて駆け付けたが、謙信は海津城より深く、妻女山へ進んで居り、信玄は茶臼山に陣取って、隙(すき)を突いて海津城に入った。暫(しば)し睨(にら)み合いが続いたが、越後の援軍が到着すれば、武田方が危(あや)うい。先に動いたのは、信玄であった。軍師山本晴幸が示した啄木鳥(きつつき)戦法を採用し、軍勢を二手に分けた。海津城主高坂弾正昌信率(ひき)いる一万二千の別働隊は、妻女山に奇襲を仕掛けて山より追い落し、麓(ふもと)の八幡原で信玄率いる八千が待ち受け、挟(はさ)み撃ちにするという策である。しかし謙信はこれを察知し、山には僅(わず)かな足留め部隊を残して、八幡原へ出撃した。信玄の本陣は、千曲川と犀(さい)川が合流する南に位置し、その日の朝は濃霧が立ち籠(こ)めていた。視界の利かぬ中、武田、上杉の両軍は鉢(はち)合わせ、激戦となった。武田方軍師山本晴幸は討死し、信玄の本陣が危(あや)うくなった時、弟の武田典厩(てんきゅう)信繁が立ちはだかって奮戦した。そして妻女山の別働隊が駆け付ける時を稼ぎ、戦死した。嘗(かつ)て武田信虎は、この次男信繁をかわいがり、家督を継がせようと考えたが、長男信玄に追放された。しかし信繁は兄信玄の忠臣となって、命を賭(と)して守った。後(のち)に信濃上田真田昌幸が、次男に信繁の名を与えたのは、これに由来する。斯(か)くして武田の大軍に挟(はさ)まれた謙信は、被害の大きい信玄本陣への、強行突破を試(こころ)みた。この時、謙信は信玄を見付けて斬り掛かり、信玄は軍配でこれを防いだという。上杉軍は武田軍を突破し、双方八割の被害を出した大戦(おおいくさ)は、こうして終った。

 家康は二、三度頷(うなず)いた。
「八幡原の戦(いくさ)は、儂(わし)もよく研究した。しかし、儂(わし)の口から話すのも無粋(ぶすい)であろうし、香具姫が父小山田信茂は、高坂弾正の隊に加わっていた故(ゆえ)、より仔細(しさい)を存じて居るであろう。よし、そちが望むのであれば、儂(わし)の意向という事で、左衛門尉(さえもんのじょう)に文句は言わせぬ。堂々と香具姫を、側室に迎えよ。」
忠長は嬉しさと恥ずかしさで吃(ども)りながら、家康に感謝を申し上げた。家康は重ねて尋ねる。
「恩賞は、これで良いか?」
「望外の御沙汰にござりまする。」
「儂(わし)も大戦(おおいくさ)について、語りとうなった。しかし長篠も、小牧、長久手も、弥次右衛門から聞いていようのう?」
「はっ。」
再び、正純が口を出す。
「では、三方ヶ原は?」
「痛い所を穿(ほじく)るな。」
家康の眉毛が下がるのを、忠長は初めて見た。正純は向き直って、忠長に告げる。
「三河譜代と武田旧臣の縁が深まるは、大御所様の望まれる所にござる。後(あと)の事は任されよ。」
(うけたまわ)る忠長に、家康は今一つ尋ねた。
「そちは、生まれるのが遅かりしと、悔(く)やんでは居らぬか?香具姫に興味を抱くは、戦国の世の名残(なごり)を感ずるからであろう?」
「願わくば三河時代に生まれ、祖父の如く、開幕の功を挙げとうござりました。」
「伊達陸奥守も、遅く生まれたが故(ゆえ)に、太閤殿下に後れを取ったと悔(く)やみ居るそうだが、そちも同類じゃのう。」
「いえ。陸奥守殿の野心とは、異なりまする。」
「分かって居る。そちの如き忠臣を遺(のこ)し、弥次右衛門の功はまた一つ増えた。本日は大儀。下がって休め。追って沙汰する。」
「ははっ。」
静かに本丸を去る忠長だが、その心は熱く高揚していた。

 七月十三日、元号が改まり、慶長二十年(1615)は元和(げんな)元年となった。これは和の元(はじめ)を意味する。十七日、幕府は「禁中並公家諸法度」を公布し、度々(たびたび)勅命を以(もっ)て幕府の邪魔をして来た朝廷に、釘(くぎ)をさした。以後、帝(みかど)は勅命を発するのを禁じられ、幕命が第一とされた。

 この月、幕府は法の整備に力を入れていた。寺院諸法度が加筆された他、武家諸法度も制定され、海内組織の悉(ことごと)くが、幕府の定めた法の下に置かれる事となった。

 豊臣家の滅亡を以(もっ)て、徳川の天下は揺(ゆる)ぎ無き物となった。武家諸法度の発表から凡(およ)そ一(ひと)(つき)、大坂の情勢が落ち着いたのを見極めた上で、八月二十四日、徳川に味方した大名小名に、帰国が許された。

 将軍家に随行して江戸に戻る折、忠長は弟政次に声を掛けた。
「此度(こたび)は危なかった。そちを殺す所であったわ。」
政次は戦(いくさ)を経験し、自信を付けた様である。
「兵糧物資の守りに追われ、敵の首を挙げずは無念の極み。次こそは、先手を御申し付け下され。」
「このたわけ!」
兄弟は、馬を並べて手勢を進めた。

 江戸に戻ると、父政長が兄弟無事の帰国を喜び、今一つの慶事を伝えた。
「二人の留守中、妹が生まれたぞ。」
三宅氏は香具姫より年長であるが、高齢出産に耐え抜いた。

 九月十七日、水野監物忠元と井上主計頭(かずえのかみ)正就より、内藤忠長に天王寺合戦の仔細(しさい)を尋ねられた。忠長勢の内、足軽大将渡辺六右衛門が討死。兵は二名討死、三名が重傷を負った。一方、忠長自ら挙げた首は四つ。兵は潰走するも、侍大将は奮戦の末、多くの敵を討ち取り、戦果は犠牲を上回った。また、奥山與兵衛の活躍も申し添えた。

 天下が平定されても、大御所家康は気を緩(ゆる)めなかった。各地で鷹狩を行い、兵馬の鍛錬を怠(おこた)らず、特に北関東で十万の勢子(せこ)を動員した鷹狩は、奥羽の諸大名に睨(にら)みを利かせる物であった。

 豊臣家滅亡の翌年、即(すなわ)ち元和二年(1616)、家康は七十五歳となり、体調を崩(くず)す様になった。家康の子で存命なのは、将軍秀忠、越後忠輝、尾張義利、駿河頼将(よりまさ)、水戸鶴千代である。鶴千代は元服して松平頼房と名乗り、また尾張侯に松平義直、加えて駿河侯に松平頼宣の名が与えられた。

 この春、家康は胃を患(わずら)い、愈々(いよいよ)命が危うくなった。死期が近い事を感じてか、家康は見舞に訪れた将軍秀忠を側に置き、末の三子とその附(つけ)家老を、枕許(まくらもと)に呼び寄せた。
「儂(わし)の遺言である。義直、頼宣の二人には徳川の姓を与える。万一将軍家断絶の砌(みぎり)は、尾張徳川家を将軍とし、名古屋に幕府を移すべし。また尾張も断絶すれば、駿河徳川家を将軍とし、駿府に幕府を移すべし。水戸は駿河の分家故(ゆえ)に、将軍を出す事は許さず。そして尾張もしくは駿河に将軍を立てる時は、滑(なめ)らかに事が運ぶ様、努めるべし。将軍を輩出できる江戸、尾張、駿河を以(もっ)て、徳川御三家と成す。」
将軍以下、その場の全員が承(うけたまわ)ると、家康は将軍を残して子を下がらせ、残った附家老に一振りずつ、脇差(わきざし)を渡した。尾張は成瀬隼人正正成、駿河は安藤帯刀直次、水戸は中山備前守信吉である。
「もし我が子孫に、徳川や松平の姓を冠するに相応(ふさわ)しからぬ者が現れたならば、この刀で斬り捨てるべし。」
三名の附家老は承り、脇差(わきざし)を 押し戴(いただ)いた後、退室した。

 最後に残った秀忠に、家康が告げる。
「忠輝は、岳父伊達政宗に担(かつ)がれて、謀叛の怖れがある。政宗の所領は安堵しつつ、忠輝を改易すべし。」
秀忠は弟を不憫(ふびん)に思いつつも、承服の意を示した。
「最後にもう一つ。我が遺骸(いがい)は下野日光へ葬(ほうむ)る事。屍(しかばね)と成りても、奥羽を睨(にら)み続けようぞ。」
全てを伝え終えた家康は、四月十七日に薨去(こうきょ)した。遺体は駿府近く、久能山に埋葬された。

 秀忠は遺言通り、直(ただ)ちに越後高田藩主、松平忠輝の所領を召し上げた。ただ、織田信長伝来の野風の笛を、父の形見として与え、芝増上寺での法要にも列席させた。然(しか)る後(のち)、西国へ流刑に処され、二度と大名に復する事は無かった。妻五郎八(いろは)姫は離縁させられ、陸奥仙台の父、伊達政宗の許(もと)へ帰された。

 翌元和三年(1617)、朝廷は源朝臣(あそん)家康に、東照大権現の神号を与え、幕府は遺言通り、日光に東照社の造営を開始した。一方朝廷では、八月二十六日に後陽成上皇が崩御した。家康の遺言に、秀忠五女和(かず)姫を、政仁(ことひと)天皇に入内(じゅだい)させる事が含まれていたが、朝廷が喪(も)に服する為、日延(ひの)べとなった。

 この頃、朝鮮王国より使者が訪れ、徳川家が嘗(かつ)て侵略した豊臣家を滅(ほろ)ぼした事を機に、和睦(わぼく)を求めて来た。朝鮮国の王への回答という事で、日本国王の返書が求められた。しかし日本の王とは、皇族の中で親王の下である。国政を司(つかさど)るのは征夷大将軍であるが、朝鮮王国で大将軍とは、王の家臣である。仲介の対馬藩主宗義成は、幕府に気付かれぬ様、返書の主に日本国王と加筆し、両国和睦に尽力した。

 さて、忠長は東照大権現の御墨付も得て、めでたく香具姫を側室に迎える事ができた。しかし当主である政長の命令で、正室酒井氏が子を上げるまで、側室の許(もと)へ通う事は禁じられた。

 正室酒井氏との間には、長女と次女が生まれた。そして元和五年(1619)、香具姫は三十路(みそじ)後半ながら、懐妊(かいにん)の兆(きざ)しが有った。

 この年、安芸国で揉(も)め事が有った。福島正則は居城広島の修築を本多正純に届け出ていたが、幕閣で勢力を伸ばしていた土井利勝が、自身は届け出を聞いて居らぬと言い、修築箇所の取り壊しを命じた。再び雨漏りする様に戻せという命令に、正則は一部のみしか、元に戻さなかった。幕府は武家諸法度に背(そむ)く行いとして、福島正則の所領である安芸、備後五十万石を悉(ことごと)く召し上げ、信濃川中島四万五千石へ、減封処分とした。

 安芸広島へは、紀伊和歌山の浅野長晟(ながあきら)が四十二万六千石で入部し、新たに紀伊を与えられたのは、将軍弟の頼宣であった。駿河府中五十万石からの国替えであり、紀伊一国に伊勢の一部を加え、五十五万五千石が与えられた。幕府は紀伊徳川家をして、畿内の抑えとしたのである。

 七月、江戸桜田邸に於(おい)て、忠長の弟政次が重病の床(とこ)に在った。忠長は弟の手を取り、悲痛な面持ちで告げる。
「病(やまい)になぞ、負けては成らぬ。そちは大坂で、真田信繁や毛利勝永と戦いし勇者ではないか。」
政次が、か細い声で返す。
「兄上、次こそは御先陣を…」
「勿論(もちろん)じゃ。その為には先(ま)ずこの戦(いくさ)、見事勝って見せよ。」
力無く、政次は笑って見せた。しかし十四日、左兵衛尉(さひょうえのじょう)政次は、二十三の若い命を散らした。政長は次男の遺骸(いがい)を、邸の東南に在る天徳寺に葬(ほうむ)った。法名藤昌院殿起嶽良英不退大居士。不退の法名は、大坂の陣で東照大権現の本陣を守り抜いた事を偲(しの)ばせる。

 悲しみに暮れる内藤家に再び光を灯(とも)したのは、香具姫であった。二月(ふたつき)後の九月五日、忠長の長男を出産したのである。忠長は香具姫の手を取って喜び、そして父政長の許(もと)を訪れた。
「父上!」
「その様子は、無事に生まれた様じゃのう。」
「はい。しかも、男(お)の子にござりまする。」
「重畳(ちょうじょう)じゃ。」
「して、我が幼名、万鍋の名を授(さず)けとう存じまするが。」
政長は暫(しば)し黙(もく)し、やがて答えた。
「それは成らぬ。」
忠長は、不満を顕(あらわ)にして尋ねる。
「我が長男にござりまする。何故(なにゆえ)斯様(かよう)に仰(おお)せられるのでござりましょうや?某(それがし)は、政次が生れ変りと存じ申す。」
「嬉しいのは解(わか)る。しかしそちも一万石の大名なれば、よくよく考えても見よ。もしこの後(のち)、正室に男子が生まれれば、如何(いかん)と致す?」
結局、長男の名は万菊と決められた。

 ともかく、政長に取っては初めての、男子の孫である。忠長正室酒井氏の手前、大仰(おおぎょう)に喜ぶのは避けたが、香具姫の許(もと)を訪れ、犒(ねぎら)いの言葉を掛けた。

 更(さら)に二月(ふたつき)が過ぎ、季節は冬に入っていた。家康の死に因(よ)り、名実共に将軍と成った秀忠は、寒空の中にも拘(かかわ)らず、先君と同様に上総国で鷹狩を行った。上総佐貫の城主政長も、これに扈従(こじゅう)した。

 宿所で将軍が休んでいる時、俄(にわか)に政長が召し出された。秀忠の側に控えるのは、土井利勝と井上正就である。政長が座礼をとると、秀忠は近くへ招いた。
「今、大炊頭(おおいのかみ)や主計頭(かずえのかみ)と話して居ったのだが、そちは大坂の陣の砌(みぎり)、江戸の留守を見事に務め、嫡子忠長は軍功著(いちじる)しいとか。」
「恐縮にござりまする。」
「先(ま)ずは外様大名の行賞から始めていたが、存じ居る通り、東照大権現の薨去(こうきょ)に続き、東照社の造営に追われておってのう。そちへの恩賞を、未(いま)だに与えて居らぬ事に気付いた。」
そして土井利勝が、政長を見据(みす)える。
「上意である。」
政長は直(す)ぐ様(さま)(かしこ)まった。
「内藤左馬介政長、長年徳川家に忠勤を尽したる事を鑑(かんが)み、安房国内に五千石を与える。」
「有難き御言葉、謹(つつし)んで承(うけたまわ)りまする。」
これで内藤政長四万五千石、忠長一万石と成った。
「二代将軍にも、東照大権現様と変わらぬ忠節を尽す様(よう)。」
政長は秀忠に向かい、深く頭を下げた。

 年が明けて元和六年(1620)八月七日、筑後柳河城主田中筑後守忠政が卒去した。嗣子無きに因(よ)り、武家諸法度に則(のっと)って、柳河藩三十二万五千石は断絶となった。

 程無く、内藤政長に台命が下り、柳河城の接取を仰(おお)せ付かった。柳河藩の仕置が任され、幕府全権の証(あかし)である黒印が、政長に預けられた。

 政長は家老の安藤志摩、上田甚右衛門を始め、家中の主力を率(ひき)いて、二十四日に江戸を発った。柳河城の請取(うけと)り並びに在番諸侯への引渡しは無事に終り、後(あと)は江戸に戻って、将軍へ報告するのみであった。しかし帰国の途中、政長は病(やまい)に罹(かか)り、療養の為に京へ留まる仕儀となった。

 政長が筑後に在った頃の九月七日、将軍家嫡男竹千代君元服の儀が、江戸城にて執り行われた。この時、御台所(みだいどころ)お江の方の希望で、次男国千代も、一緒に元服する運びとなった。佐貫内藤家は当主の不在につき、忠長が名代として出席した。

 竹千代は東照大権現の偏諱(へんき)を頂き、家光と名を改めた。一方国千代は、御台所の父浅井長政と、伯父織田信長に共通する長の字を貰(もら)い、将軍の偏諱(へんき)と併(あわ)せて忠長と改め、徳川の姓を許された。

 儀式の中で、参列の諸大名より慶事を賀する機会が有り、やがて忠長の番となった。忠長は恭(うやうや)しく、将軍に申し上げる。
「この度は、将軍家御子息が健やかに元服なされし段、恭悦(きょうえつ)の至りと存じまする。只(ただ)一つ、某(それがし)が懸念致す事が、出来(しゅったい)致しましてござりまする。」
秀忠は意外な顔で、忠長に問う。
「何じゃ?申して見よ。」
「畏(おそ)れながら、将軍家御次男と同じ名を用いるは、恐縮の極みと存じ奉(たてまつ)りまする。願わくば、新しい名を頂戴(ちょうだい)(つかまつ)りたく。」
「気にせずとも良い。そちの字は、曾祖父清長殿以来の物ぞ。」
「ははっ。」
「忠義の志は、誉(ほ)めて遣(つか)わす。確かそちには、男子が居ったのう。」
「はっ。昨年生まれたばかりにござりまする。」
「さればその子に、将来然(しか)るべき名を与えてやらねば。」
「御配慮、恐懼(きょうく)して承(うけたまわ)りまする。」
下城後、忠長は家中に長子万菊を、世継(よつぎ)と定める旨(むね)を通達した。そして香具姫には自ら赴いて、万菊に新たな名を授(さず)けると告げた。喜ぶ香具姫から息子を受け取り、忠長は笑顔であやす。
「そちは今日から万鍋ぞ。さて、守役は誰に致すか…」
忠長が白羽の矢を立てたのは、大島半兵衛であった。一万石衆の直参なれば、父政長にも介入はさせない。大坂の陣の勇者なれば、逞(たくま)しく育ててくれるであろう。斯(か)かる報告を、忠長は早く父政長に伝えたかった。

 一方、京では一大事が出来(しゅったい)していた。政長に随行していた幕府御目付とは、予(かね)てより不和であった。政長が柳河城請取りに要する大軍を率(ひき)いたまま、病(やまい)を得て京に留まったのを好機と見て、目付は政長に逆心有りと、幕府に報告した。丁度(ちょうど)この時、将軍家息女和(かず)姫入内(じゅだい)の仕度が、整いつつあった頃である。

 俄(にわか)に幕府は、佐貫内藤家に疑念を抱(いだ)いた。政長が張本人ではないにせよ、西国大名に通じ、幕府の転覆に動いているのではあるまいかと。桜田邸では隠密(おんみつ)が人の出入りを調べ、また忠長にも、然(さ)したる用でもないのに、登城を促(うなが)される事度々(たびたび)であった。

 不審に思った忠長は、幕府年寄の一人、酒井雅楽頭(うたのかみ)忠世を訪ねた。
「近頃、幕閣におかれましては、当家へ御疑念を抱(いだ)かれたる由(よし)。」
忠世は、平然と聞き返す。
「誰が申した?」
「仰(おお)せにならずとも、邸には見張りが立ち、某(それがし)は人質の如(ごと)き扱いにござり申す。」
「其(そ)は、気のせいであろう。」
忠長は、畏(かしこ)まって申し上げる。
「もし父に逆心有らば、この忠長は一万石衆を率(ひき)い、父との決戦に及ぶ覚悟でござる。その旨(むね)、誓紙を以(もっ)て御示し致さん。」
それを聞いて漸(ようや)く、忠世は忠長に鋭(するど)い視線を向けた。
「事は、深刻である。左馬介殿が幕府の意向に添わず、京へ軍勢を留め居る故(ゆえ)、和姫様御輿(こし)入れの支障となって居る。そこへ、目付より左馬介殿謀叛の訴えが有った。」
「父が病(やまい)と詐称(さしょう)していると?」
「まあ、そういう事じゃ。」
意外な事を聞き、忠長は迂闊(うかつ)な言動が許されぬ立場に在る事を知った。そして熟慮の上、忠世に申し上げる。
「では先(ま)ず父に、疑念が掛けられて居る事を、書状を以(もっ)て伝えとう存じまする。雅楽頭(うたのかみ)様に文面を確認して頂き、酒井家より届けて頂ければ、問題はござりますまい。」
「相(あい)(わか)った。誰ぞ、帯刀殿に文机(ふづくえ)を御貸し致せ。」
忠長は父政長に宛(あ)てて、病(やまい)といえども軽率の観これ有り、直(ただ)ちに酒井雅楽頭様へ、仔細を説明致すべし、と書き記(しる)した。忠世はそれを確認した上で、受け取った。
「譜代の者なれば、幕閣としても事を穏便に収めたい。では当家より確(しか)と、貴殿の書状を御送り致す。」
「宜しく、御願い申し上げまする。」
(か)くして早馬が飛ばされ、京へ向かい駆けて行った。

 数日後、忠長の書状は京の、政長の許(もと)へ届けられた。政長はそれを読み終えると、呆然(ぼうぜん)としたまま、手から書状が滑(すべ)り落ちた。
「御免。」
側に控える安藤志摩が、それに目を通す。政長は困惑していた。
「不覚を取った。まさかあの目付が、讒訴(ざんそ)に及ぶとは…何か策を講じねば。」
志摩が、政長に言上する。
「さればこの邸も、京都所司代の監視下に置かれて居りましょう。人の出入りも、慎重にせねば成りませぬ。」
「こう成れば、病(やまい)を押してでも、急ぎ江戸へ戻らねば。」
「短慮は成りませぬ。先(ま)ずはこの京で、成すべき事が有るかと。」
「はて…何をじゃ?」
「殿は過日、筑彦山の寺領が召し上げられる所、これを守った事がございましたな。」
「その様な事も、有ったのう。」
「されば当山へ使者を立て、病(やまい)平癒を祈願なされませ。」
「では、横田所右衛門を差し遣(つか)わすか。」
「畏(おそ)れながら、石原惣九郎を推挙致し申す。某(それがし)に、含む所有り。」
「では、志摩に任せる。」
(か)くして惣九郎は筑彦山へ赴き、程無く戻ると、政長の目通りが許された。
「只今、戻りましてござりまする。」
政長は大方病(やまい)が癒(い)えたとはいっても、未(いま)だ床(とこ)上げには至っていない。
「大儀であった。」
「住職より、大殿への御言伝(ことづ)てがござりまする。」
「申して見よ。」
「されば、当山は大殿に恩の有る立場故(ゆえ)に、平癒祈願を行うは、昨今の事情を鑑(かんが)みるに、調伏(ちょうぶく)と要らぬ疑念を掛けられる怖れ有り。因(よ)って、神文を起請(きしょう)の上、御家老を江戸に下され弁明されるが、大殿の御身の為と仰(おお)せにござり申した。」
「うむ。仰(おお)せ御尤(もっと)もじゃ。されば志摩。」
「はっ。」
「そちは直(ただ)ちに起請文を作成し、江戸に下りて当家に異心無き事、雅楽頭(うたのかみ)殿へ申し上げよ。」
「承知。」
志摩は神文を携(たずさ)え、一足先に江戸へ向かった。

 やがて江戸へ登城に及んだ安藤志摩は、酒井忠世を通じて神文を提出し、弁明の機会を得るに至った。志摩の弁は理路整然として、対決する目付の言を悉(ことごと)く論破した。斯(か)くして幕閣は、政長の江戸帰参に問題無しと判断し、十月初旬には桜田邸へ戻る事ができた。

 しかし 程無く、将軍家嫡子家光が野津清兵衛を遣わし、事の次第を具(つぶさ)に吟味した。先の元服の折、忠長は同名の将軍次男に遠慮し、名を改めたいと願い出た経緯(いきさつ)が有る。当時、家光の将軍職相続は東照大権現の遺命であるといえども、御台所(みだいどころ)の次男忠長への偏愛は明らかであり、忠長を三代将軍に据(す)えようとする一派が、力を持っていた。将軍秀忠の胸三寸で廃嫡の可能性も有り、家光は母と弟忠長、加えてこれに従う者達を、殊(こと)の他警戒していた。

 再び家老の志摩が応対し、清兵衛に対して、将軍並びに家光君に二心無き事を、丁寧に説明して引き取らせた。遂(つい)に幕府は政長を無実と断定し、目付を誣告(ぶこく)罪で改易に処した。漸(ようや)く政長は胸を撫(な)で下ろし、京に於(おい)て志摩の下で動いてくれた石原惣九郎に、太刀一振りを与えた。

 十一月二十八日、将軍家息女和姫は帝(みかど)の女御(にょうご)と成られ、入内(じゅだい)の儀は恙(つつが)無く執り行われた。武家の姫君を帝(みかど)の后(きさき)と成すは、有職故実(ゆうそくこじつ)に無き事であった。

 年が明けて元和七年(1621)、越前国で異変が起きた。藩主松平忠直の乱行が目立つ様になり、また将軍が江戸参勤を命じても、病(やまい)を理由に北ノ庄を動かなかった。福井藩は徳川御三家の兄故(ゆえ)に、制外の家という扱いを受け、加えて忠直は大坂夏の陣で家康本陣を救うという、武勲を挙げている。また忠直の正室は秀忠三女勝姫であり、将軍家も軽々にこれを処罰する事はできなかった。

 この年、将軍家嫡男家光が武蔵川越で鷹狩を行い、政長が御供を仰(おお)せ付かった。休息の折、家光は陣幕の中で政長に向かい、溜息を吐(つ)いた。
「昨年は大任を果しながら、有らぬ疑いを掛けられ難儀であったのう。この家光もそれを真に受け、人を遣わして念入りに調べさせた。左馬介に恨まれても、仕方の無き事よのう。」
政長は恐縮して、頭を下げる。
「主家を御恨み申し上げるなど、とんでもなき事にござりまする。この政長は却(かえ)って、若君の慎重さに感服致し申した。」
「そう言って貰(もら)えると、些(いささ)か気が楽になる。そう言えば、左馬介には孫が生まれたとか?」
「はっ。愚息忠長に次男が生まれ、千之助と名付け申した。しかしながら、脇腹にござりまする。」
「其(そ)はめでたき事じゃ。佐貫藩も安泰じゃのう。」
「有難き御言葉。」
家光は佩刀(はいとう)を握り、政長に差し出す。
「これは則重の銘刀じゃ。左馬介に与える。」
「勿体(もったい)無い…」
政長が遠慮するので、家光は言葉を加える。
「昨年の詫びと、今年の慶事を祝してじゃ。」
「されば、頂戴(ちょうだい)(つかまつ)る。」
政長は跪(ひざまず)いて、家光から太刀を押し戴(いただ)いた。家光は安心した顔で、政長に告げる。
「では、狩(かり)の続きを致すか。」
家光は床几(しょうぎ)を立ち、政長もその後に続(つづ)いて、陣幕を出た。

 翌元和八年(1622)は、出羽国で大事が起った。山形藩最上家は、足利将軍家の一族斯波(しば)氏の流れを汲(く)む名門で、陸奥仙台伊達政宗の伯父、最上義光(よしあき)を藩祖とする。義光には義康という長男がいたが、次男家親が東照大権現の覚えめでたく、義光は次男を跡継ぎと決めた。家親派は義光の死が近いと知るや、目の上の瘤(こぶ)である義康を暗殺し、慶長十九年(1614)に義光が死ぬと、家親が跡を継いだ。一方、暗殺された義康の家臣は一転、主流から外された。憤慨(ふんがい)した義康派は、家親の弟義親を立てて反旗を翻(ひるがえ)し、最上騒動が勃発した。元和三年(1617)に二代藩主家親が没すると、その子義俊が三代藩主と成った。しかし義俊は十三歳と若く、五十七万石の御家騒動は、幕府も懸念する所であった。そこへ山形藩士が、先代家親が毒殺されたと、幕府に訴え出た。幕府は幼君に大藩を治める力無しと見て、義俊が成長するまでの間、山形藩を一時、六万石に減封すると通達した。

 この年は、東照大権現の七回忌であった。将軍秀忠は日光を参詣して法要を行い、帰りは宇都宮城に宿泊し、江戸に戻る予定であった。この時、下総古河藩主奥平忠昌から、宇都宮城主本多正純の謀叛が通報され、秀忠は宇都宮を避けて、江戸へ戻った。

 正純は東照大権現存命の頃、共に駿府に在って、幕閣の中枢にいた人物である。調査は慎重に行われた。

 山形藩は幕府の減封案を受け入れられず、遂(つい)に改易処分とされた。城の請取りは本多正純に命ぜられ、正純が山形で仕置を終えた頃合いを見て、台命が下された。正純は下野国宇都宮十五万五千石から、出羽国由利郡内五万五千石への減封を、言い渡されたのである。正純はこれを固辞し、秀忠の怒りを買って、出羽久保田藩佐竹義宣に預けられた。

 正純の後任には、その謀叛を訴え出た奥平忠昌が、十一万石で宇都宮藩主に返り咲いた。奥平家は宇都宮を奪われた過去に加え、親類の大久保忠隣を失脚させられた遺恨が、正純には有った。

 一方、改易された出羽山形藩には、陸奥磐城平藩主鳥居忠政が九月二十五日、二十二万石で入部する運びとなった。

 二十八日、政長と忠長親子に、登城の御下命が有った。両名は裃(かみしも)を纏(まと)い、揃(そろ)って江戸城本丸に入り、将軍秀忠に謁見(えっけん)した。

 将軍の間には年寄衆、酒井忠利、酒井忠世、土井利勝、青山忠俊、井上正就が悉(ことごと)く控えている。程無く、小姓が告げた。
「上様の御成(おなり)。」
年寄と共に、政長と忠長も平伏する。そこへ将軍秀忠が現れ、上座に着いた。
「面(おもて)を上げい。」
秀忠の言葉を受け、政長父子は座礼から直る。
「左馬介に尋ねる。出羽最上家の事は、聞き及んでいようのう?」
「はっ。」
「山形城には、陸奥の鳥居左京亮(さきょうのすけ)を入れる事にした。」
「鳥居侯は家臣に屈強の者多く、また忠義の御家柄にござりますれば、よく彼(か)の地を治める物と存じまする。」
「そうか。して、左京亮が治めていた、磐城平藩十二万石が空いた。その穴を、両名に埋めて貰(もら)いたい。」
土井利勝が向き直って、仔細を話す。
「本年、陸奥棚倉城主立花飛騨守宗茂殿が、筑後柳河藩へ移封となり、常陸古渡藩主丹羽侍従長重殿が、五万石で棚倉へ入部致す。左京亮殿旧領の内、高野郡と菊多郡上遠野(かどおの)(あわ)せて二万石は、棚倉藩に属する。また、下総田子藩主土方掃部頭(かもんのかみ)雄重殿に菊多郡窪田一万石を加増し、能登一万石と併せて二万石とした上、窪田に陣屋を移す。残る楢葉、磐城、岩崎、菊多四郡九万石の内、七万石を左馬介殿、二万石を帯刀殿に下される。」
青山忠俊が確認する。
「左馬介殿は確か、土方殿並びに会津藩とは、昵懇(じっこん)でござったな?」
「はっ。会津藩重臣蒲生郷喜殿には我が長女を、土方殿には次女を、それぞれ嫁(とつ)がせて居りまする。」
「左馬介。」
秀忠の言葉で政長は向き直り、再び畏(かしこ)まる。
「はっ。」
「左京亮が築きし居城は、奥州の大名に謀叛が起りし砌(みぎり)、関東守護の要地と成る。大事に致せよ。」
「ははっ。格段の思(おぼ)し召し、身に余る栄誉と存じ奉(たてまつ)りまする。必ずや、水戸街道を死守して御覧に入れまする。」
「うむ。磐城平、会津、山形の三藩は、譜代、及び親藩で固められる。これで仙台も、要らぬ野心は抱(いだ)かぬであろう。」
続いて秀忠は、隣に控える忠長に視線を移した。
「帯刀。」
「はっ。」
「そちは菊多郡の然(しか)るべき所を府と定めよ。但(ただ)し、城持ちではない故(ゆえ)、居所は父と相談の上に決める様(よう)。」
「承知致しました。」
政長と忠長は土井利勝から、それぞれ七万石と二万石知行の朱印状を受け取り、年寄に促(うなが)されて退室した。

 本丸を去る間、二人共口を開かなかった。大幅な加増とは言え、転封先は未知の奥州である。坂下門では、家老上田内記と、忠長の目付家老安藤清右衛門が、護衛と共に待機していた。
「如何(いかが)にござりましたか?」
内記が尋ねるも、政長は思案顔で、
「大事故(ゆえ)、邸に戻ってから、皆の前で話す。」
と答えた。清右衛門は黙ったまま、忠長に付き従った。

 邸に戻ると、政長は一万石衆を含め、重臣を悉(ことごと)く召集し、奥州移封の話をした。五万五千石から九万石への加増を、喜ぶ声も多々聞こえたが、前列に座す首席家老安藤志摩は、深刻な面持ちである。
「未知なる土地故(ゆえ)、人を遣(や)って調べさせる必要がござりまするな。」
政長は首を縦に振る。
「鳥居家は三日前に、山形移封が決まった様(よう)じゃ。城請取りまで時間が無い。速(すみ)やかに動ける者程(ほど)、儂(わし)が当地へ赴くまでの間に、多くを調べられる。果して誰が適任か…」
そこへ、名乗りを上げる者がいた。
「畏(おそ)れながら、某(それがし)に御申し付け下さりませ。」
「井上惣太夫か。確かそちは、房州船手物頭であったのう。」
「はっ。海路奥州を目指せば、陸とは別の物が見られまする。」
「ならば、城の請取りはそちに任せる。但(ただ)し、そちは陸路を進み、手勢を率(ひき)いて行け。海路は万一に備え、海に最も精通せし者を選びたい。」
「では、沢村彦右衛門を措(お)いて、他には居りますまい。嘗(かつ)て天下に聞こえし、九鬼水軍の者にござりますれば。」
「では、磐城への先遣は井上、沢村の両名に申し付ける。地理は申すに及ばず。民情も具(つぶさ)に調査の上、逐一(ちくいち)報告に及ぶべし。」
「承知。」
重臣の惣太夫と、後方に控えていた彦右衛門は、直(ただ)ちに席を立ち、広間を辞して行った。

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