第五節 磐城平藩

 遥(はる)かな昔、景行天皇は関東に遠征し、その皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)は駿河で草薙剣(くさなぎのけん)を用い、関東を平定した。その第二王子は仲哀天皇と成り、神功皇后は武内宿禰(たけのうちのすくね)を東北へ派遣したが、船団を率(ひき)いて常陸を過ぎた頃、時化(しけ)に遭(あ)って近くに入江を探し、難を逃(のが)れた。武内宿禰はその地に住吉大明神を勧請(かんじょう)し、海運祈願の神として崇(あが)められた。磐城が倭(やまと)の版図に加わった始まりである。

 常陸の北には石城国(いわきのくに)、下野の北には石背国(いわせのくに)がそれぞれ置かれたが、鎮守府将軍大野東人(あずまびと)が北進し、聖武天皇践祚(せんそ)の神亀元年(724)に多賀城が築かれた頃、石城、石背両国は陸奥国に編入された。

 旧石城国の中心であった磐城郡を、中世の時代治め続けて来たのは、桓武平氏の流れを汲(く)む、岩城氏であった。岩ヶ岡、長孫(おさまご)の両村に跨(またが)る日吉神社の社記に依れば、後冷泉天皇の永承四年(1049)に平則道が岩ヶ岡に移り、この地を拓(ひら)いたという。また諸系図から勘案するに、朱雀天皇の御宇(ぎょう)に承平天慶の乱を起した平将門を討伐せし副将軍、平繁盛の末裔にして、出羽権守、陸奥国菊多郡司を歴任した平安忠に男子有り、海道小太郎則道が岩城氏の祖と成ったと思われる。

 岩城隆行の時代、子の所領を五郡に分けた。即(すなわ)ち長子隆祐には楢葉(ならは)郡、次子隆衡(たかひら)には岩城郡、三子隆久には岩崎郡、四子隆義には標葉(しめは)郡を与えたという。五子重胤(しげたね)には行方(なめかた)郡を与えたとされるが、実は千葉一門相馬氏の者であり、岩城氏の領分は標葉郡までであったと、古文書に有る。

 岩城氏の海道支配は久しく、源平の争乱や南北朝を生き抜いた。室町時代、岩城朝義は白土城の西麓に菩提寺曹洞宗龍門寺を建立するも、落成を見ず、応永十四年(1407)に卒す。開山は二年後、常朝の代であった。常朝は居城として飯野平城、別称大館城を築き、この地へ移ったが、応永十七年(1410)に身罷(みまか)った。跡を継いだ清胤はこの年、岩崎隆綱を島倉館に於(おい)て攻め滅(ほろ)ぼし、岩崎郡を版図に加えた。清胤は応永二十八年(1421)に没し、その後は一族の岩城隆忠が統一するまで、岩城、岩崎両郡は動乱の時代となる。やがて京で応仁の乱が起り、戦国の世に入ると、岩城氏は同族の楢葉氏を攻め、文明年間これを攻め滅ぼした。また明応元年(1492)、相馬氏が標葉(しめは)氏の居城権現堂に於(おい)てこれを滅(ほろ)ぼし、北の相馬と南の岩城は隣接する様になった。標葉郡小良浜村と、楢葉郡小良ヶ浜村の名称の由来は、互いに「己(おら)が浜」と主張した事に因(よ)るという。

 岩城氏は伊達、相馬、田村、白川結城、佐竹氏等を相手に遠交近攻策を用い、岩城、岩崎、菊多、楢葉、高野の地に十二万石を有する勢力へ成長するに至った。

 しかし、左京大夫重隆の時、男子が生まれなかった。因(よ)って、伊達晴宗に嫁(とつ)いだ長女が上げし伊達家嫡男を譲り受け、家督を相続させた。これが左京大夫親隆であり、伊達家の家督はその次弟、輝宗が継いだ。即(すなわ)ち、陸奥仙台藩主政宗の父である。親隆の子、左京大夫常隆の時、豊臣秀吉が小田原北条攻めを行った。急ぎ小田原へ参陣せねば、御家の存続が危(あや)ういのだが、当主常隆は重い病(やまい)を得て居り、行軍は遅々として進まなかった。案の定、秀吉から改易を告げられ、家老白土摂津守が、必死に御容赦を願い出た。この時、奇跡が起きた。秀吉がまだ織田家の下級武士であった頃、上方(かみがた)の情勢を調べる任務を仰(おお)せ付かり、ある日の宿で、岩城重臣の摂津守も同じ任に当たって居り、奇(く)しくも宿を同じくした二人は、情報を交換し合った。秀吉はそれを思い出すと、摂津守に免じて、岩城家の所領安堵へ漕(こ)ぎ付ける事ができた。しかし無理を押して小田原へ赴いた常隆は、その帰途、相模星ヶ谷に於(おい)て病没した。

 その後、岩城家で跡目相続の問題が発生した。常隆には男子がいる物の、未(いま)だ幼子である。親類の伊達家は遠く岩出山へ移されてしまい、いっその事、先々代重隆次女の嫁ぎ先、佐竹家より養子を迎える話が有力となった。当時佐竹家の当主義重は、重隆の外孫に当たり、戦国時代に常陸の大半を制圧した勇将であった。岩城家の申し出を義重は受け入れ、子の能化丸(のうげまる)を養子として差し出し、貞隆と名乗らせた。この時、佐竹家重臣梶原政景を菊多郡植田城に置き、岩城家は実質、佐竹家の傘下に入る事となった。佐竹家に遠慮して、先君常隆を菩提所の龍門寺ではなく、居城より東の久保町鏡山寺に葬(ほうむ)った。その遺児は伊達家へ送られ、やがて政宗の偏諱(へんき)を頂き、岩城政隆と名乗って、仙台藩士となった。

 秀吉存命中は貞隆を当主に頂き、岩城家は安泰であった。しかし関ヶ原の折、佐竹家は徳川の命に背(そむ)いて会津へ出馬せず、徳川家は戦後、佐竹家を出羽秋田へ減封し、岩城貞隆は改易に処されて、江戸に移った。

 貞隆には四十二士の忠臣が付き従い、本多正信の下で大坂の陣を戦い、元和二年(1616)に信濃中村一万石を賜った。元和六年(1620)に貞隆が没すると、その子吉隆が相続し、この元和八年(1622)には出羽国由利郡内一万石を加増され、岩城家は二万石の大名となっている。

 岩城貞隆の後、岩城、岩崎、菊多、楢葉郡内十万石は、伏見で討死を遂げた鳥居元忠の嫡子、忠政に与えられた。四郡の民に取って不幸な事に、他藩では一国一城令に伴い、府を平地へ移して町の発展と共に、領内の開墾(かいこん)に勤(いそ)しんでた頃、鳥居家は幕命を帯びて、奥州大名の謀叛に備える、大規模な築城を優先させていた。戦国の世が終っても、男衆は田畑を拓(ひら)く事能(あた)わず、山城の普請(ふしん)に駆り出されていたのである。

 幕府が鳥居家に求めたのは、凡(およ)そ一万騎を収容可能な大城郭である。当初、岩城家の居城、飯野平城を調査したが、三千騎が精々(せいぜい)であった。次に、江戸の水運の良さを考え、それに近い住吉大明神の北、住吉館跡を調べたが、これも条件に適(かな)わない。第三に、飯野平城の東、赤目崎(あかめがさき)物見岡(ものみがおか)に目を付けた。ここには後冷泉天皇の御宇、前九年の役で坂東武者を率(ひき)いた源頼義が、戦勝を祈願して石清水八幡を勧請(かんじょう)し、建立した飯野八幡宮が残っている。丘の西に土を盛り、そこへ移せば良いと判断され、遷宮と並行して、築城に取り掛かった。

 飯野八幡宮は、東を夏井川、北を好間川、南にも川が流れ、天然の外堀を擁している。西には飯野平城跡が防塁となり、守るには絶好の地形であった。巨大な城を築くべく、内堀を掘り、土を盛った。

 慶長八年(1603)以来、長い歳月を経て城郭を築いてきたが、或(あ)る時、問題が報告された。城の北西に大沼が在り、好間川の水脈に繋(つな)がっている為、北の堀へ水を入れ様(よう)にも、直(す)ぐに干(ひ)上がり、北へ流れてしまう。幕府が北の備えとして築城を命じた以上、北のみを空(から)堀にする事は許されない。度々(たびたび)工夫を凝(こ)らして土を盛るも、雨が降れば一夜にして崩れてしまう。

 藩主忠政は打つ手を欠(か)き、遂(つい)には陰明師を召し出した。陰明師曰(いわ)く、この沼には大亀が潜(ひそ)み、雨天に地中を通り、鎌田川(夏井川)を往来する為、水の流れが変わるとの事。忠政がどうすれば良いか尋ねると、陰明師は一つの故事を挙げた。昔、摂津国に長柄橋を架けた折は、人柱を立てて鎮(しず)められたと。万策尽きた忠政は、良民の内傘寿を超えた老人の中から、人柱の志願者を募(つの)った。

 やがて菅波村から、九十五歳の老人が選ばれた。人はこの者を、丹後老人と呼んでいた。良民の命を奪う以上、藩主自(みずか)ら丹後老人に会い、最期の望みを尋ねた。老人は九十五年も生きれば、最早(もはや)この世に未練は無しと答えた。しかし藩公が敢(あ)えて尋ねるので、丹後老人は人柱の跡地に、己(おのれ)の名を残したいと答えた。それは容易(たやす)い事なので、もう一つ無いかと重ねて問うと、丹後老人の子は皆先立つも、弥蔵という孫の将来を案じていると答え、忠政は孫の事は任せよと、約束した。

 忠政は丹後老人に盃(さかずき)を取らせ、それを飲み干(ほ)した後、丹後老人は深谷へ飛び込んだ。そして扇を取り出し、千秋楽を舞い終えると、上から土を流し込んだ。霊験(れいげん)有ってか、その後の普請(ふしん)は順調に進み、十二年を経て、磐城平城は落成した。城の北側には内堀が整い、二の丸と三の丸も繋(つな)がった。城の中央には窪(くぼ)んだまま沼が残り、丹後沢と称される様になった。

 忠政は丹後老人との、もう一つの約束を守るべく、家老高須弥助を召し出して、丹後老人の孫弥蔵に知行百石を与えさせ、更(さら)に山目付の役に就(つ)けた。しかしこの弥蔵は、その地位を利用して村々から賄賂(わいろ)を取り、更(さら)には罪の軽い者を、気分次第で重罪に処した。

 見事、磐城平藩祖として幕命に添い、巨大な城を築き上げた鳥居忠政は、十万石加増の上、出羽山形へ移封となった。しかし城普請(ふしん)を優先させる余り、民の暮しは逼迫(ひっぱく)していた。そして百姓の恨みは、成上(なりあが)り者の弥蔵へ向けられた。山形へ逃げられる前に、焼き殺すべしと、領民は高須弥助に願い出た。

 弥助は余りに物騒な嘆願に、これを拒否すると回答したが、百姓達は勝手に押し入るまでと言って引き揚げたので、先回りして人を遣(つか)わし、弥蔵に夜陰に紛(まぎ)れて逃げるべしと助言した。斯(か)くして翌日、百姓達は弥蔵屋敷へ押し入るも、既(すで)に蛻(もぬけ)の殻(から)であった。

 下高久村の百姓は、これで事を済ませなかった。村の領主佐藤隼人も弥蔵の一味であると叫び、隼人屋敷へ押し入って、十八人を焼き殺した。唯(ただ)一人、隼人の娘が逃げ果(おお)せ、高須弥助の許(もと)へ通報した。弥助は大いに怒り、騎兵十二、足軽百二十を率(ひき)いて、下高久村へ向かった。そして主謀者四十八人を捕縛し、死罪に処した。その首は村内、及び上平窪村に晒(さら)された。下高久村の南、天光山密蔵院こと賢沼寺では、犠牲となった五十五名の姓名法号等を記載したという。

 井上惣太夫と沢村彦右衛門は、磐城平城の請取りを行う一方、領内百姓に動乱の兆(きざ)しが有る事を、主君政長に報告した。

 政長は、既(すで)に水戸まで来ていた。水戸より先、仙台までは、道の名称が水戸街道から、陸前浜街道に変わる。浜街道を進むに当たり、政長は武頭以上の者に通達した。
「磐城平藩に於(おい)て騒動有り。民心は藩を離れ、一揆が起る怖れも有る。各隊はより一層軍律を引き締め、狼藉(ろうぜき)の輩(やから)有らば、直(ただ)ちに斬り捨てよ。」
家老、組頭、番頭、武頭は挙(こぞ)って承服した。 忠長も麾下(きか)の二万石衆に、これに倣(なら)う様(よう)下知した。

 浜街道を北上すると、やがて道が分岐する。西へ進めば久慈川に沿って、佐竹氏の嘗(かつ)ての居城太田を通過し、奥州棚倉城へ至る。磐城平を目指す内藤勢が進むべき道は、東であった。

 常陸国多珂郡平潟村を過ぎると、陸奥国菊多郡九面(ここづら)村に入る。昔、勿来(なこそ)の関が有った時代、海道は西の山間(やまあい)を通っていた様(よう)だが、次第に浜伝いの道が拓(ひら)け、今はこちらが主要となっている。

 菊多郡南部は窪田藩領であり、政長次女が嫁(とつ)ぎし土方掃部頭(かもんのかみ)雄重の所領である。雄重の父雄久は前田家の親類で、旧主織田信雄に仕(つか)えていた頃は、尾張犬山四万石の大名であった。しかし信雄が伊勢、尾張を秀吉に召し上げられると、土方家の禄も一万石に削(けず)られた。秀吉の死後、雄久は大老徳川家康暗殺を企(くわだ)てたとされ、改易処分となる。しかし親類の前田利長を説得し、関ヶ原の折に東軍へ味方させた功に因(よ)り、越中布市(ぬのいち)一万石の大名に復した。慶長十三年(1608)に、雄久は没した。その長男雄氏は、既(すで)に伊勢菰野(こもの)一万三千石の藩主であった為、将軍秀忠は近習であった次男雄重に、雄久の所領能登一万石を相続させた。雄重は大坂の陣で酒井忠世の組に属して戦ったので、幕閣に強い人脈を持っている。

 文明年間、時の将軍足利義政が窪田山城守昌清をこの地に置いて以来、窪田氏がここを治めて来たが、元亀二年(1571)に佐竹義重が侵攻し、窪田政盛の代で滅亡した。その後は佐竹氏の所領であったが、義重の子貞隆が岩城家を相続した事で、慶長年間に岩城家に与えられた。

 蛭田川を渡り、海道の西側窪田村に、窪田藩陣屋が置かれている。窪田藩領の中には、磐城平藩の飛地が有る。菊多浦に面し、旧勿来の関の東麓に在る関田村。鮫川と渋川の三角洲に位置し、浜街道から棚倉藩領上遠野(かどおの)を結ぶ山田道が分岐する植田村。そして植田村の西隣、仁井田村である。これらの村はその地理的重要性から、政長に与えられた。それを除(のぞ)けば菊多郡は、鮫川の南は窪田藩領、上山田より北、小山田より西は棚倉藩領、そして鮫川より北、残る村々は忠長の領分であった。

 植田を過ぎた辺りで、政長の伝令が忠長の許(もと)へ遣(つか)わされた。
「大殿より言伝(ことづ)てでござる。これより先は二万石衆の御所領にて、よくよく御観察あるべし。」
忠長は承知と答え、伝令を帰した。佐貫時代とは異なり、未知の奥州で纏(まと)まった所領を任される。戦国大名になった気分で、忠長の意気は高まった。

 渡部村で、道が分岐する。北西へ進むと、松小屋村を経て、棚倉藩領上遠野(かどおの)へ出る。別称、御斎所(ごさいしょ)街道とも呼ばれる。陸前浜街道は北東へ延び、泉田村の先、藤原川が菊多、岩崎の郡境である。川を渡って南白鳥村に入ると、愈々(いよいよ)岩崎郡内、磐城平藩七万石の領分となる。

 やがて湯本村に入る。ここは温泉が涌き出て、海内三古湯の一つに数えられる。戦国時代、武田信玄は甲斐の隠し湯で兵の傷を癒(いや)し、信じ難(がた)い回復力を以(もっ)て、勝軍(かちいくさ)に油断していた村上義清を破った例が有る。戦(いくさ)が起りし砌(みぎり)は、負傷兵の治療に用いる事が期待できた。

 やがて山道となり、そこを抜けた先、綴(つづら)村から、視界が開け始める。ここから先が飯野平であり、西へ逸(そ)れて白水村に入ると、平安後期に平泉より岩城成衡(なりひら)に嫁(とつ)いだ徳尼御前建立の、願成寺阿弥陀堂が在る。

 小島村まで来ると、磐城平城南の外堀とも言える、新川にぶつかる。徳尼御前が私財を投げ打って架けたのが始まりとされる橋を渡ると、それに由来する長橋村の木戸に至る。この先が愈々(いよいよ)、居城の城下町である。

 長橋町を東に進み、突当りを北へ折れると、研(とぎ)町である。町人達は大名行列を拝見致さんと、道脇に控えつつも、かなりの数である。

 研町の北は岩城氏時代の古鍛冶町になるので、南の材木町もしくは北の紺屋町を東へ進む。やがて薬王寺台、稲荷山に隠れていた磐城平城が、その姿を現し始める。
「何とも、巨大な城じゃ。宛(さなが)ら、戦国時代へ戻った気分ぞ。」
馬上で忠長は、嘗(かつ)て見た大坂城や、江戸城とも異なる、要塞としての大城郭を初めて見た。海内で最も堅牢と言っても、過言ではなかろう。

 紺屋町の東は堀にぶつかる。北には才槌(さいづち)門が在るが、行列は町民にその武威を示すべく、土橋を渡って一町目に入った。道幅が広くなり、城下の本町筋となる。道は東へ延び、一町目と二町目の間に、町会所が在る。一町目から五町目まで、この道は続くが、二町目と三町目の境、道の中央に御堂が在り、ここから南北へ、太い道が走っている。

 北には不明門が在り、その奥は重臣屋敷の並ぶ田町であり、更(さら)に北に、本丸三階櫓(やぐら)が望める。不明門に登って、本丸直下の城坂堀を見下ろすと、堀は蛇行して龍の如く、そして堀には天守の代りである、三階櫓(やぐら)が映って見える。恰(あたか)も龍の中に城を見る様であり、磐城平城は又の名を、龍ヶ城という。

 田町を東へ折れれば、水手外郭を経て、本丸に至る。また西へ折れれば、田町門に至る。田町門の手前を北に折れ、城坂門を潜(くぐ)れば、大手外郭から本丸へ入る事ができる。しかしこの道はかなり急で、蛇行した細い道を進まねばならない。

 田町門の西には田町会所が在り、西の外張門を潜(くぐ)ると、才槌(さいづち)門の北、才槌小路に至る。内堀に沿って北へ進むと、揚土(あげつち)長坂で西へ折れ、坂を登り切った所が揚土である。ここから直(す)ぐ北の広小路までは、家老重臣の屋敷が並び、広小路から西へは八幡小路が延び、築城の折に遷(うつ)された飯野八幡宮に至る。広小路の東は橋が架けられ、ここが大手の外張門である。

 中に入ると、六間門枡形で、北側に高さ一丈七尺余の六間門櫓(やぐら)が在る。その先には内記郭(くるわ)が広がり、北の杉平門、東の黒門に通じている。黒門の内側へ至ると、北は米倉庫が在り、南には大手外郭が広がる。大手外郭の東に、高さ一丈七尺余の追手門櫓(やぐら)が在り、その 奥は大手枡形、そして南の門を潜(くぐ)ると、大手郭(くるわ)に出る。郭(くるわ)の東に高さ二丈五尺余の中門櫓(やぐら)が在り、その先が愈々(いよいよ)、本丸である。

 本丸へ至る門は、他にも有る。北の櫛形門を出ると丹後沢の南へ出る。ここから東の、水手外郭へ下りる事ができるし、また北東の二の丸へも繋(つな)がっている。

 本丸東には、高さ三丈四尺余の、八棟櫓(やぐら)が在る。そして藩主の居所は、本丸南端に在る、高さ四丈三尺余の三階櫓(やぐら)であった。

 三階櫓では、井上惣太夫と沢村彦右衛門が出迎えていた。両名は藩主並びに重臣を、中の広間へ案内した。全員が移り終えた所で、先(ま)ず惣太夫が報告を行った。
「両君並びに重臣の御歴々には、遠路御疲れの事と存じまする。本来、先ずは新居へ移り、寛(くつろ)いで頂きたき所なれども、領民に不穏の動き有りし事を、鳥居家家老高須殿より承(うけたまわ)りし以上、不都合の段、何卒(なにとぞ)御容赦頂けまする様(よう)。」
政長は、頷(うなず)いて返す。
「其(そ)は詮(せん)無き事。本城の大普請(ふしん)は東照大権現様の遺産である。鳥居侯も苦心の末、落成されたと聞く。何時(いつ)であったか?」
「元和元年(1615)の由(よし)にござりまする。」
「すると、落成から七年か。鳥居家入部の翌年から十二年、多くの百姓は田畑を耕す暇(いとま)も無く、苦しい生活を強(し)いられて参った。それが、下高久村の騒動へ至ったのであろう。当村は兵を繰り出して鎮圧したと聞いたが、他の村にも同様の動きは有ろうか?」
「百姓も、武士の力には敵(かな)わぬ事を知った物と存じまする。その後は、然(さ)したる騒動はござりませぬ。」
「怖らく、新しく入部せし藩主の動向を、観察致して居るのであろう。徒党を組んで密談に及ぶ者も多かろうが、暫(しばら)くは村内の監視を緩(ゆる)め、年貢を昨年より少し減らしてはどうか?」
家老、安藤志摩が答える。
「確かに、今は民心を得るが肝要と存じまする。いかに巨大な城を以(もっ)てしても、領民が寄せ手の手引(てびき)を致さば、一大事に至り申す。」
他の重臣も、先(ま)ずは領民の不満を和(やわ)らげる必要有りと、これに同意した。

 続いて、政長が尋ねる。
「屋敷の割当ては?」
「然(しか)らば、御免。」
惣太夫は彦右衛門に命じ、大きな磐城平城及び城下の絵図を広げさせた。
「城の北東四軒町には、岩城家の旧臣の内、当家へ新たに召し抱える者が、既(すで)に居り申す。また、この度(たび)妻子を同行されし重臣の方々には、田町郭(くるわ)、才槌(さいづち)小路、揚土(あげつち)、広小路、杉平、桜町の各屋敷へ移られまする様、御願い申し上げまする。」
第一陣として妻子を伴って来た重臣達が、順次図面を確認する。そして、松井茂兵衛が尋ねた。
「儂(わし)は大手に近く、光栄とは存ずるが、懸念すべき事有り。」
惣太夫が承(うけたまわ)る。
「何でござろう?」
「揚土は南を才槌門に守られているといえども、古鍛冶町と細い坂で繋(つな)がって居る。万一の時は、如何(いかが)すれば良い?」
「然(しか)らば…」
惣太夫は直(す)ぐ東の、六間門を指した。
「ここに三棟の広い屋敷在り。鳥居侯の頃は、御一族が在(おわ)された由(よし)。さればこれらの屋敷には、後日千(せん)千代君等、御一門御成長の砌(みぎり)に、御入り頂く予定でござる。それまでの間、藩内が平穏となるまでは、ここを避難所と致しとう存じまする。」
惣太夫は、政長に裁可を仰(あお)いだ。
「それで良い。」
藩主の許しを得て、重臣達は納得した。

 続いて惣太夫は、二万石衆当主忠長へ向き直った。
「若殿におかれましては、菊多郡二万石の藩主として、本来なれば彼(か)の地に、陣屋を構(かま)えるべき所と存じまする。されど菊多は本城より遠く、領内不穏の上に、陣屋構築は物入りにござりますれば、暫(しば)し城下に御逗留(とうりゅう)頂きとう存じまする。」
忠長は尋ねる。
「私(わし)、及び配下の二万石衆は、何処(いずこ)に住めば良い?」
「されば若殿には、飯野八幡宮の北に高月屋敷がござりますれば、ここを府と御定め遊ばされまする様(よう)。また二万石衆の御屋敷も、この近くに。」
忠長は安藤清右衛門、大島半兵衛らに確認させた上、了承した。
居所が決まった所で、政長は皆に告げる。
「本日まで、井上、沢村両名並びに、家臣一同大儀であった。惣太夫と彦右衛門にはもう一仕事、家臣達の新居への案内を頼みたい。」
「承知仕(つかまつ)り申した。」
惣太夫並びに家臣達が礼をとると、政長は席を立った。
「御案内仕(つかまつ)る。」
惣太夫は政長を案内し、彦右衛門は忠長の前で跪(ひざまず)いた。
「では高月御屋敷へ、御案内致しまする。」
他の重臣へは、惣太夫の家臣が誘導を務める様である。忠長は腰を上げ、二万石衆を近くへ集めた。
「では、我等が新しき住まいへ参ろうぞ。」
二万石衆は行列を成して、彦右衛門の後(あと)に続いた。

 忠長率(ひき)いる二万石衆は、一旦(いったん)大手西の広小路まで戻った。そして広小路から西へ延びる、八幡小路を進む。程無く、宮ノ前へ至った。右手に大きな鳥居が在り、その奥が築城の砌(みぎり)、この地へ遷(うつ)された飯野八幡宮である。

 武頭兼番頭長谷川与五作の屋敷を北へ折れ、久保町方面へ向かう。突当りが、嘗(かつ)てこの地を治めし岩城家の先々代、常隆が眠る寺院である。岩城常隆の法号が鏡山明心大居士である事から、鏡山寺という。寺の手前で、右に細い道が分岐している。道場小路と呼ばれる由縁(ゆえん)は、西に不動院が在る為であろう。遠山家の屋敷が出張っている為に、道が食い違うが、そのまま北へ進むと、やがて十字路に出る。その右奥が、高月御屋敷であった。

 敷地は、かなり広い。城外とは言え、井上、沢村両名が、忠長の屋敷として用意してくれた事に、納得できる。二万石衆は先ずこの屋敷に入って、彦右衛門の話を聞く事にした。

 高月屋敷には、既(すで)に大分(だいぶ)家財が移されてある。広間も有り、忠長の家臣はそこへ集まった。先ず、彦右衛門が屋敷の説明をした。
「当屋敷の他に、南西の十字路に面した御屋敷、及び東の空き地は、若殿の御領分にござりますれば、接客や武芸の鍛錬所として、御使い下さりませ。」
「承知した。」
忠長は話の続きを促(うなが)す。
「加えて、当御屋敷の北は崖(がけ)であり、その北を流れる好間川を渡るには、二通りの道がござり申す。一に西の七軒町に至りて後(のち)、北上される事。然(さ)すれば、橋の北は今新田村にござりまする。」
「相(あい)(わか)った。」
「今一つ、北東の小道を下りれば、飯野家の屋敷がござり申す。更(さら)に下りられますれば、北目に出られまする。北目と七軒町は、当屋敷の北麓で繋(つな)がっておりまするが、北目普門寺と称名寺の間を北へ進まれれば、川中子村に至り申す。」
忠長は、つと疑問を抱(いだ)いた。
「飯野家とは、その様な家臣は居ったか?さては、岩城家以来の土豪であろう?」
「されば、御説明申し上げなん。」
彦右衛門の説明に依(よ)ると、鎌倉時代の宝治二年(1248)、幕府は好嶋(よしま)西庄の地頭に伊賀光宗、別称式部入道光西を派遣した。伊賀盛光の時代、後醍醐天皇の重臣北畠顕家(あきいえ)に従い、執権北条氏打倒の軍に加わる。後(のち)に足利尊氏が北朝を立てて室町幕府を開くと、これに与力して、奥州東海道検断職に任命された。岩城氏とは、鎌倉時代以来所領を巡(めぐ)り争って来た。しかし足利義持将軍以降、室町幕府は次第にその権威を失い、岩城氏の台頭と共に、伊賀氏はその家臣に成り下がったという。唯(ただ)、飯野八幡宮別当職は往古からの世襲であり、大名から宮司になった伊賀氏は、姓を飯野と改めたという。
「因(よ)って飯野織部殿は、飯野八幡宮の宮司職にござりまする。」
「承知した。源頼義公が勧請(かんじょう)せし神に仕(つか)える者なれば、失礼の無き様に致そう。」
また彦右衛門より、明朝評定が有る為、今宵(こよい)は早く休む様に勧められた。忠長は承知の旨を示し、彦右衛門を城へ戻した。

 そして忠長は、二万石衆に告げる。
「よいか。今当家は、動乱の地に在る。目下頼みとなりしは、只(ただ)巨大な城のみ。明日から、藩政について評議が行われるであろう。皆は各屋敷へ入って休み、英気を養い、知恵を出す様(よう)。」
一同は挙(こぞ)って承服し、高月屋敷を辞して行った。護衛の為、近藤惣兵衛だけが残った。

 皆が去った所で、忠長は惣兵衛に申し付ける。
「屋敷の周りを見て回る。付いて参れ。」
「はっ。」
忠長は惣兵衛と護衛を得て、屋敷を出た。
「飯野家の屋敷を、見て置こうぞ。」
北東の坂を下り、阿康院の向かいに、飯野家屋敷は在った。
「宮司の屋敷にしては、縄張が施されている様だが?」
「飯野家は室町将軍の御代まで、この地に城を構(かま)えていた由(よし)。その名残(なごり)にござりましょう。」
「成程(なるほど)のう。」
忠長達は再び坂を下り、直(す)ぐに突き当たった。
「ここを左に折れれば、北目に出ると聞いたが、今日は遠出を致すまい。右へ折れて見ようぞ。」
北目と広小路の間は、胡摩沢と呼ばれていた。

 ふと忠長は、立派に整備された参道を認めた。
「寄って見るか。」
忠長達は足軽屋敷の間を抜け、山門に至った。そこには、淵室山長源寺と書かれた、額が掛けられてある。隣で、惣兵衛が囁(ささや)く。
「此(こ)は、鳥居侯の菩提寺でござる。」
関ヶ原の前、徳川家伏見城の守将は鳥居元忠、副将が内藤家長であった。伏見勢は尽(ことごと)く討死を遂げたが、時を稼ぎ、徳川家の天下取りに多大な功績が有った。鳥居元忠の戒名は、清流院殿淵室長源大居士。また、慶長十五年(1610)に越後福嶋藩で御家騒動が有り、改易に処された当主堀忠俊は、鳥居忠政預かりとされ、昨年の暮れに没して、ここ長源寺に葬(ほうむ)られていた。これは、気ままに訪れて良い場所ではないと感じた忠長は、山門の前で合掌の上、深く一礼し、高月屋敷へ戻って行った。

 翌日、再び重臣一同が本丸に召集され、知行地並びに石高が言い渡された。組頭家老安藤志摩二千石、組頭家老上田内記並びに組頭加藤又左衛門千二百石、組頭の加藤主税(ちから)と正木主馬(しゅめ)之助は八百石、その他組頭、武頭、番頭の者は、四百石から六百石であった。二万石衆を見ると、安藤清右衛門六百石、大島半兵衛四百五十石、河角五郎左衛門四百石、近藤惣兵衛、穂鷹吉兵衛、加藤藤人の三人は三百石であった。新たに扶持(ふち)を与えられた以上、知行する村に役人を置き、治安を守り、年貢を納めさせねば成らない。それが武士の役目である。

 しかし、目下磐城平藩は、これまで築城普請(ふしん)を第一にし、領内開発を疎(おろそ)かにして来た。民心を得て、領内を平穏にする為には、長期的に領内広域を指揮できる、奉行を置く必要が有った。但(ただ)し今はまだ、磐城四郡の民情も掴(つか)めていない。先(ま)ずは城下町の取締りを行うべく、町奉行を選任した。選ばれたのは井上惣太夫、佐野太兵衛それぞれ四百石、そして沢村甚五左衛門、勘兵衛兄弟それぞれ三百石の、計四名であった。

 また、六間門内に在る内記郭(くるわ)の、三棟の屋敷の内、北西の一棟が近藤惣兵衛に与えられ、二万石衆の城内に於(お)ける仮の詰所(つめしょ)、及び万一の時の避難所とされた。

 知行地が定まると、領主は村を掌握しに、現地へ赴かねば成らない。村政を疎(おろそ)かにし、収穫量が減ると、その分身を削(けず)るか、村民の恨みを買うか、将又(はたまた)その両方を分散させるか、選ばなければ成らないからである。

 翌日から、城内で重臣の姿が疎(まば)らになった 。二万石衆も多くが菊多郡へ向かい、領内の検分及び、府に相応(ふさわ)しい所を選定しなければ成らない。側に残った重臣、穂鷹吉兵衛を従えて、忠長は登城に及んだ。

 三階櫓も、政長の他には町奉行の姿しか見えない。とは言っても、櫓(やぐら)の周りは番頭、城内要所は武頭が固めている。

 忠長の到着を聞いて、町奉行は中央を空(あ)け、両脇に控(ひか)えた。忠長は父の正面に置かれた地図の前で、静かに腰を下ろした。
「父上に、身内の話を致しとうござりまする。」
「急ぎの話か?」
「町作りに係わりまする。折(おり)良く、町奉行が揃(そろ)って居る模様にて。」
「申して見よ。」
「佐貫善昌寺、御遷座の儀にござりまする。」
政長に促(うなが)され、惣太夫が答える。
「されば、某(それがし)が町奉行として、言上仕(つかまつ)りまする。城の北西胡摩沢という所に、元鳥居家の菩提所、長源寺がござり申す。鳥居侯は山形の地に、長源寺を移したる由(よし)。されば、佐貫の演誉昌馨住職には、御位牌共々当山へ御移り頂き、同じ浄土宗なれば、当山を以(もっ)て禅昌寺と改めたく存じまする。」
「其(そ)は、反対じゃ。」
政長は、忠長を見据える。
「その訳(わけ)は?」
「某(それがし)より、尋ねとうござりまする。今日(こんにち)、当家が磐城平藩九万石を領せしは、一体何方(どなた)の御蔭にござりましょう?鳥居元忠公、内藤家長公の犠牲無くして、今の当家は有ったでござりましょうや?これより太平の世を築くに当たり、子孫が平和に慣れ、それが当り前と思う時が参り申そう。然(しか)るに、治に在って乱を忘れざりし事は、子々孫々に取って大事なる遺訓。それを示すに、長源寺は残すべきと心得まする。」
黙って聞き終えた政長は、四人の奉行に尋ねた。
「帯刀の言、如何(いか)に思う?」
藩公と町奉行は、当然財務の勘定もせねば成らない。寺を一つ増やせば、その分寺領を与えねば成らず、長源寺に、それだけの価値が有るかという問い掛けである。町奉行も、伏見の戦(いくさ)に因(よ)り、内藤家に御加恩が下されたことが有りし事は、存じている。惣太夫が、意見を述べた。
「子孫への教育料として、寺領を与えるは吝(やぶさ)かならず。」
他の町奉行も、これに賛同した。政長は頷(うなず)くと、奉行達に善昌寺の新規建立を命じた。

 実は政長は、内々に善昌寺を建てるに、相応(ふさわ)しき所を選定していた。それは菅(すげ)ノ沢と松ヶ岡に挟まれた、丘の上である。長源寺は城の麓(ふもと)に在り、万一敵に城を囲まれし砌(みぎり)は、これを焼き払わねば成らない。

 政長はつと立ち上がり、窓から城下を見下ろした。
「寺と言えば、不明門の真南に在る大きな寺には、一体いかなる高僧が在(おわ)されるのか?」
その問いには、惣太夫が答えた。

 寺院の名称は、涅槃(ねはん)山菩提院。袋中(たいちゅう)上人が天正十九年(1591)に、御茶町内に袋中寺を開基したのが始まりである。慶長四年(1599)に、時の領主岩城貞隆の信仰を得て、飯野平城内に築かれた道場内へ移った折に、菩提院と称し始めた。その後、菩提院は磐城平城の大手辺りに移されたが、慶長七年(1602)に鳥居忠政が入部し、築城の大普請(ふしん)が行われると、古鍛冶町へ移された。そして慶長十年(1605)、二世良穏助給が、不明門の真南へ移した。

 袋中上人は天文二十一年(1522)、岩崎郡岩ヶ岡村に於(おい)て、賀茂杢兵衛と八幡氏の間に生まれ、徳寿丸と名付けられた。永禄元年(1558)、隣の菊多郡西郷村能満寺に入り、永禄八(一五六五)(1565)に剃髪(ていはつ)して、袋中と号した。永禄十年(1567)に岩崎郡山崎村矢ノ目の如来寺に移り、また村内西方の専称寺でも学んだ。元亀二年(1571)から下野国足利学校に足を運び、自宗派に加え、他宗派とも問答に及んだ。天正四年(1576)には居を下野に移し、足利学校に入る。天正八年(1580)、楢葉郡成徳寺の招聘(しょうへい)を受け、住職となる。翌年、鎌田川に橋が架けられた時、同時に建てられた供養の塔婆に梵字を書く。この年から天正十八年(1590)まで、多くの書物を執筆する。それが領主の岩城貞隆に認められて、菩提寺の開基に至った。

 しかし政長が入部した時、袋中は領内から去っていた。慶長十一年(1606)、京に在った袋中は、明国へ渡る事を志した。しかし、朝鮮出兵で日本と明国は国交が断絶して居り、袋中は明国の冊封国である、琉球王国へ渡った。そして琉球の、先王城桂林寺に入る。慶長十四年(1609)に帰国して、筑紫善導寺に入った。その後、山城国山崎大念寺へ移る。この頃、遠州掛川藩主松平隠岐守定勝が、袋中上人に帰依した。元和二年(1616)、京都所司代板倉勝重は寺院諸法度を以(もっ)て、僧侶を厳しく監視していた。斯(か)かる中、京で名声を高める袋中も警戒され、所司代の子、周防守重宗が遣(つか)わされた。しかし問答の末、袋中は所司代に認められるに至った。そして、法林寺を起工する事になった。元和五年(1619)、袋中は洛北氷室寺に移り、また菊谷にも小庵を結んだ。そしてこの元和八年(1622)、袋中は奈良に移り、猶(なお)も健在であった。

 話を聞き終えた政長は、扇をパチリと閉じた。
「菩提寺は領民の信仰が厚い由(よし)。目に余る行い無くば、徒(いたずら)にこれを刺激せざるべし。」
町奉行は謹(つつし)んで承(うけたまわ)った。

 内藤家は所領四郡を掌握すると 共に、鳥居時代に軌道に乗せられなかった農政を、重視する構(かま)えを見せた。農民は漸(ようや)く生業(なりわい)に専心でき、また城下町の事は町奉行がよく働いてくれた御蔭で、動乱を起す事無く新年を迎える事ができた。

 元和九年(1623)四月二日、政長三女亀姫の夫、西尾嘉教(よしのり)が身罷(みまか)った。嘉教は美濃国揖斐(いび)藩二万五千石の当主であったが、嗣子(しし)無く、改易処分とされた。

 また、越前国では一大事が出来(しゅったい)した。藩主松平忠直が乱心し、手討(てうち)にされた家臣は少なからず。忠直に嫁(とつ)ぎし秀忠三女勝姫の身も危(あや)うくなったが、将軍家は猶(なお)も配慮して忠直に江戸参勤を求め、弁明の機会を与えるも、忠直は座して北ノ 庄を動かなかった。秀忠は遂(つい)に、松平忠直の隠居を命じ、豊後国府内藩へ預けられた。越前七十五万石は、勝姫の子仙千代が継ぐも、未(いま)だ元服も済んでいない幼子であった。

 将軍秀忠に取って、身内の事が一つ解決したが、もう一つ、将軍家は問題を抱(かか)えていた。それは幕府の直参が、東照大権現存命の折に指名した家光と、御台所の寵愛(ちょうあい)(いちじる)しい忠長と、どちらを三代将軍に頂くかで、割れていた事である。早目に旗幟(きし)鮮明にして置いた方が、新将軍就任の折には、主流派となる事ができる。目下優勢であったのは、行状正しく聡明と噂(うわさ)される、弟忠長であった。

 秀忠は、父東照大権現と、妻お江の方の板挟みに在った。そして二代将軍が下した決断は、将軍家を諸大名の手本とするべく、長幼の序を尊(たっと)ぶ事であった。しかし、家光の支持派は脆弱(ぜいじゃく)である。そこで秀忠は先代に倣(なら)い、大御所政治を行う事で、家光を成長させる道を選んだ。

 将軍家は代替りを朝廷に奏上し、先(ま)ずは秀忠が上洛に及んだ。そして内藤家には、新将軍家光の御供に加わる様、上意が下された。

 政長は、本丸に重臣を集めた上、台命が有った事を伝えた。先(ま)ず、家老安藤志摩が言上する。
「台命の真意が、量りかねまする。当家には、奥羽諸大名より関東を守護せしむる、大任がござり申す。今、大軍を動員して上洛に及べば、民心を失いて騒動が起き、延(ひ)いては他国の侵略に備える力をも失い申す。某(それがし)が按(あん)ずるに、幕閣は新将軍宣下に殿の臨席無くば、後日面目を失いし事を案じての、御配慮と存じまする。」
それには、家老上田内記が異を唱(とな)えた。
「其(そ)は憶測じゃ。迂闊(うかつ)に判断されては、幕閣の不興を買う怖れ、これ有り。」
喧々(けんけん)諤々(がくがく)の意見が飛び交う中、これを静めたのは、忠長であった。
「私(わし)に、一策有り。」
家臣達は黙って、忠長を見る。
「先(ま)ずは我が二万石衆が出陣に及び、当家の面目を立てて御覧に入れる。江戸にて幕閣の真意を探った上で、報告に及ばん。」
二万石衆目付家老、安藤清右衛門も申し出る。
「御本家の出陣には、仙台侯が所領を留守にするを、見届ける必要がござり申す。されば、大殿の磐城入部の役割を申し上げ、必ずや幕閣に誤解を生じさせぬ様、納得頂けるまで、説明を尽す所存にござりまする。」
二万石衆先陣の案を、重臣達は了承した。そして政長の認可を仰(あお)ぐ。
「確かに今、七万石の出陣は難しい。ここは、清右衛門に任せる。」
「ははっ。」
二万石衆は陣触れを行うべく、急ぎ席を立った。忠長も父に一礼すると、本丸広間を後(あと)にして行った。

 近藤惣兵衛に菊多郡政を預け、五百騎を編成した二万石衆は、急ぎ江戸へ向かった。途上、忠長が清右衛門に声を掛ける。
「私(わし)は、泉村に陣屋を構(かま)え、立藩に漕ぎ付けたかった。なのに何故(なにゆえ)父上は、御許しにならないのか…」
「されば、武家諸法度を御覧遊ばしませ。今年、美濃揖斐藩断絶の儀は、御存知にござりましょう? 」
「我が義弟故(ゆえ)、聞き及んで居る。」
「もし若殿が立藩致せば、磐城平藩と泉藩の嗣子(しし)は、如何(いかが)(あい)成りましょう?」
「磐城平藩は私(わし)。泉藩は万鍋であろう。」
「人の余命は、計る事能(あた)わず。」
「つまり、父上と私(わし)、万鍋の最期が重なれば、どちらかの藩が改易されると?」
「御意。若殿は磐城平藩の嗣子故(ゆえ)、おいそれと立藩するは、所領を失う怖れこれ有り。立藩は、御舎弟御成長の砌(みぎり)、分家を成すのに用いるべきかと。」
「法とは、窮屈(きゅうくつ)な物よのう。」
「東照大権現様の、遺産にござりまする。」
家康の名を出されると、忠長は弱い。渋々ながらも馬を駆(か)り、先を急いだ。

 幸か不幸か、江戸では家光が病(やまい)を得て居り、上洛は延期となった。その間、忠長は幕閣の年寄と接触し、父政長の上洛は、厳命か否(いな)かを探(さぐ)った。結果、安藤志摩が予測した通り、仙台の近くへ国替えが有った為、磐城内藤家は忠長のみの上洛で問題無い、との事であった。清右衛門は幕閣の御墨付を得て、磐城平城の政長の許(もと)へ、申し送った。

 やがて家光の病(やまい)は癒(い)え、六月二十三日に忠長は、家光公御供の軍勢に編入された。そして七月二十七日、諸大名参列の中、伏見城に於(おい)て将軍宣下が成された。三代将軍家光の誕生である。晴れて将軍と成り、幕府の実力者、土井利勝を側に置いた家光であったが、実権は依然、西の丸に移った大御所秀忠が握ったままであった。

 翌元和十年(1624)の干支(えと)は、甲子(きのえね)であった。即(すなわ)ち、干支(えと)の第一番である。村上天皇以来、甲子(かっし)改元は朝廷の慣(なら)わしであった。南北朝の混迷期でさえ、北朝後小松天皇は至徳、南朝後亀山天皇は元中と改元している。然(しか)るに、六十年前の永禄七甲子年(1564)は戦国時代の直(ただ)(なか)で、将軍足利義輝に力無く、織田信長は尾張一国の大名、そして徳川家康は、三河を統一できずにいた。あれから干支(えと)は一巡りし、天下は徳川将軍の下、平穏である。朝廷は古式に則(のっと)り、二月三十日に元号を寛永(かんえい)と改めた。

 この年四月、越前福井藩主仙千代は越後高田二十六万石へ移封となり、高田藩主であった叔父松平忠昌が、福井藩主となった。然(しか)して福井藩は、三十万石程を削(けず)られた。

 寛永二年(1625)、磐城平藩では農民の暮しが安定し、開墾(かいこん)の意欲を持つ者が現れ始めた。中でも磐城郡八茎(やぐき)村の山守衆は、銅山新田を拓(ひら)くに至った。八茎の銅山は、当村の薬師如来に詣(もう)でた岩城家家臣、横山某(なにがし)という山師が発見したと伝えられる。銅を精製する燃料が近くでは足らず、遠く上小川村戸渡の方まで木を伐採し、新田が拓かれた。しかし雨に因(よ)る土砂崩れで、銅山は閉じられる事となる。しかし後年、内藤家は水戸藩領赤沢銅山より、横山甚之丞、白井五左衛門といった技師を招聘(しょうへい)し、細々ながらも銅山を復興させる。

また一方で、湯殿権現分霊の御輿(みこし)が郡内各地を巡(めぐ)り、布教して回った。この年は丑(うし)年であり、特に湯殿権現の御利益(ごりやく)が有るとされた。御輿が休息した所には塚が築かれ、湯殿権現は大塚様とも呼ばれた。この時、下好間村にも湯殿権現が勧請(かんじょう)された。

この年、忠長に慶事が有った。側室香具姫が、男子を出産したのである。忠長はこの三男を、百助と名付けた。

 翌寛永三年(1626)三月、磐城郡玉山村金光寺で火災が有った。

 五月、三代将軍家光が江戸城南の溜池(ためいけ)に足を運んだ序(つい)でに、桜田内藤邸を訪れた。家光は明国の書家陳元贇(イン)を伴い、漢詩などを書かせた。この折、家光は政長に尋ねた。
「帯刀の姿が見えぬが。」
「はっ。今は奥州に居りまする。」
「将軍宣下の折に見掛けたが、恰(あたか)も戦国武士の如き風格を備えて居る。」
「御恥ずかしい。武骨なだけにござりまする。」
「帯刀を、近々借りたい。」
「はっ?」
「三代将軍の威信を示すべく、目下、幕府は天子様の行幸を奏請して居る。その折は、あの様な武者を置いておきたい。」
「忠長程度で宜しければ、何時でも。」
家光は、大いに笑った。
「何処(いずこ)も、父親は厳しいのう。」
寂寞(じゃくまく)の相を呈(てい)しつつ、家光は庭の葉桜に目をやった。
「そう言えば、邸の外の門は、何と言ったかのう?」
「先代家長の頃、この辺りは桜田村と申しました。その名残(なごり)で、今も桜田門と呼んで居りまする。」
「それは不都合じゃ。」
「はて?」
「ここから安芸広島藩邸や、出羽米沢藩邸の側を通り、城内へ戻る門は何と申す?」
「桜田口に通じる故(ゆえ)、桜田門。また三の丸桔梗(ききょう)門を内桜田門と呼ぶのに対し、外桜田門とも申しまする。」
「では、将軍が桜田門を守れと命じれば、そちが留守でも、配下の者は外桜田門へ駆け付けようか?」
政長は、絶句した。家光は苦笑する。
「天正の昔ならいざ知らず、寛永の昨今に至り、江戸は随分大きゅう成った。桜田門のままでは、通らぬのう。はて、この桜は何と申したか?」
「確か、虎の尾にござりまする。」
「江戸城を築きし太田道灌曰(いわ)く、千里の道を行き、無事帰るは虎のみ。また、彼(か)の門を出て出陣致すは、白虎の方角か。」
家光は暫(しば)し黙考した後、突如振り返って、政長を見る。
「虎ノ門…は如何(どう)であろう?天子様を二条城へ御迎えし、三代将軍は虎と成りて舞い戻らん。」
「素晴らしき着想と存じ奉(たてまつ)りまする。」
内藤家桜田邸の側に在る門は、何時(いつ)の頃からか、虎ノ門と呼ばれる様に成った。

 六月、将軍家光の御供に加わるべく、忠長は軍勢を率(ひき)いて、江戸に到着した。七月、家光は東国諸大名を従えて、淀城へ向かった。忠長は、磐城平藩七万石の名代も兼ねていた。先(ま)ず淀城に入ったのは、大御所率(ひき)いる先遣隊の中でも、古式の作法に通ずる金地院崇伝が示す行幸の日程を、朝廷が了承するのを待つ為であった。

 九月六日、政仁(ことひと)天皇は御所を発し、武官の束帯(そくたい)を纏(まと)った大軍に護(まも)られて、二条城へ行幸に及んだ。滞在の日取りは、後陽成天皇が天正十六年(1588)に豊臣秀吉の洛中の邸宅、聚楽第(じゅらくだい)へ行幸した時と同じ、五日間とされた。この度(たび)、邸ではなく城へ帝(みかど)を招いた事で、家光の威信は、嘗(かつ)ての豊臣秀吉に劣らぬ物と成った。皇室の持つ石高は加増され、また公家衆にも贈物(おくりもの)を振舞った。こうして、二条城行幸は三代将軍初の大事業として、成功を見た。

 続いて行幸の御礼を申し上げるべく、宮中への参内をを控(ひか)えている時に、江戸から急使が到着した。そして、大御台所(おおみだいどころ)の危篤(きとく)が告げられた。今の御台所は、将軍家光の正室、鷹司孝子姫である。そして大御台所とは大御所の正室、お江の方の事である。

 九月十五日、大御台所お江の方は、病(やまい)に斃(たお)れた。法名は崇源院殿昌誉和興仁清大禅定尼。将軍の帰国後、芝の増上寺に於(おい)て、その法要は盛大に執り行われた。

 十月、内藤家虎ノ門邸に於(おい)て、政長四男万福が誕生した。生母は側室、唐橋近隆卿の娘である。唐橋氏は、大宰府天満宮菅原道真の末裔(まつえい)であった。

 翌寛永四年(1627)は、新年を迎えて間も無く、大事件が起った。陸奥会津六十万石の藩主蒲生忠郷が、嗣子(しし)無くして病没したのである。

 武家諸法度に照らし合わせれば、改易の処分が下される所である。しかし忠郷の生母は家康の娘で、忠郷は外孫に当たる。この事から、蒲生家は減封処分で済まされた。但(ただ)し、伊予松山二十四万石への移封である。藩主は、忠郷の弟忠知が、出羽上山四万石から入る事と成った。

 城請取りに白羽の矢が立てられたのは、内藤政長であった。所領が隣接し、かつ長女は、会津藩家老蒲生郷喜に嫁(とつ)いでいる。政長は国許(もと)への帰還が許され、重臣を本丸に集めた。

 諸臣が控える中、政長と忠長は上座に着いた。そして政長より、台命を伝える。
「既(すで)に漏(も)れ聞く所と思うが、会津藩蒲生家が国替えと相成り、当家に城の請取りを命ぜられた。」
家老の安藤志摩が、弱り顔で申し上げる。
「漸(ようや)く、田畑の復旧から開墾への気運が高まりつつある中、軍勢を繰り出すは、領民に要らぬ恨(うら)みを買う怖れ、無きにしも有らず。」
折角(せっかく)手に入れた知行地が開墾されれば、その分収入が増える。幕命を全(まっと)うすれば、恩賞に与(あずか)る事も有ろうが、それは家臣内の対立を抱(かか)える蒲生家の所領を、問題無く接取できた上での話で、しかも内政を疎(おろそ)かにした分相応を、頂ける保証は無い。重臣の誰もが、乗り気ではない様子である。それを察して、忠長が申し出る。
「幕命が下されし以上、兵を出さぬ訳には参りますまい。御異存が無くば、二万石衆を出陣させまする。」
政長は、忠長に確認する。
「会津藩は六十万石ぞ。その仕置が、二万石のそちにできるか?」
「我が軍は百余騎で、真田信繁三千と戦い申した。」
「城の請取りは、戦(いくさ)ではない。伊予松山藩主加藤嘉明殿に御渡し致すまで、そちが六十万石の政(まつりごと)をせねば成らぬのだぞ。」
「政(まつりごと)なれば、安藤清右衛門、大島半兵衛、穂鷹吉兵衛らを、伴って参りまする。」
磐城平藩士に意気無く、一方で忠長が熱望する。政長は溜息を吐(つ)いて、申し渡した。
「では、幕府御目付の方々に、諮(はか)って見る事と致す。」
幕府より派遣された目付は、堀式部と跡部民部の両名であった。幕閣では、大坂の陣で活躍した忠長の評価は高く、目付達は磐城平藩の事情も勘案の上、忠長の出馬を了承した。

 斯(か)くして、忠長は二万石衆の他に磐城平藩士を幾許(いくばく)か借りて、磐城平城を発った。軍勢は大手口を出て胡摩沢に下り、北目から城下町を出て、川中子村へ入る。北隣の下平窪村で夏井川を渡り、磐城街道を進んだ。夏井川は阿武隈山地を水源とし、磐城平城の北東を流れ、東の海へ注(そそ)ぐ。川幅は広く、河の北は磐城郡、南は岩崎郡と、郡境でもある。下小川村までは平地が多く、田畑が拓(ひら)けているが、上小川村からは愈々(いよいよ)山間(やまあい)に入り、夏井川に沿って街道を進むも、人家は疎(まば)らとなる。川前村の集落を過ぎ、一里ほど進むと、漸(ようや)く安積(あさか)郡北田原井村に入る。ここからは会津藩領であり、三春城主の知行地となる。

 会津藩領は広い。仙道の中央安積郡の府は守山城であり、東の抑えに三春城が在る。仙道南の磐瀬郡には須賀川城、白河郡には小峰城、そして北方安達(あだち)郡には二本松城が在る。中山峠を越えて、耶麻(やま)郡に入ると猪苗代城が在り、西の会津盆地で漸(ようや)く、本拠若松城に至る。

 忠長は先ず三春城に入り、ここは磐城に近い故(ゆえ)、僅(わず)かな兵を残して、守山城へ移った。仙道に城が多い為、手勢の多くをここで分散させて、忠長と清右衛門は西へ向かった。猪苗代城にも多くの兵は置けず、若松城に入った時、御供は数百に減っていた。

 幕府目付立会いの下(もと)、忠長は若松城門に於(おい)て、会津藩家老蒲生郷喜から、正式に会津藩領仕置の権限を委譲された。会津郡まで峠を幾(いく)つも越え、長い行軍であったが、漸(ようや)く忠長は若松城本丸で、休む事ができた。政(まつりごと)は清右衛門に任せて置けば良い。

 そこへ、来客が有った。蒲生郷喜(さとよし)である。義兄故(ゆえ)に忠長は気さくに、郷喜を近くへ呼んだ。郷喜は忠長の前に座り、辞儀をする。
「この度(たび)は遠路会津へ御運び頂き、御疲れの事と存じまする。」
「いや、役目故(ゆえ)、致し方ござらぬ。」
「近々、当家は城下の屋敷を引き払いまする。叶(かな)いますれば、その前に御越し下さりませ。妻が帯刀殿に会いたいと、申して居りまする。」
「姉上が…江戸で最後に見たは何時(いつ)の頃であったか。まだ、祖父家長公が存命であった時じゃ。懐(なつ)かしや。是非とも御会い致さん。」
「それを聞いて、安堵(あんど)致し申した。妻の喜ぶ顔が、目に浮かびまする。」
そこへ、けたたましい足音が響いて来た。見れば、清右衛門が徒事(ただごと)ならぬ形相(ぎょうそう)である。
「若殿、一大事にござりまする。」
忠長の顔にも、緊張が走る。
「如何(いかが)致した?」
「三春城下に於(おい)て、一揆(いっき)が起りし模様。」
気色を変えて、忠長は郷喜に尋ねる。
「三春城主は、誰が務めて参られたか?」
郷喜は恐縮して答える。
「嘗(かつ)て、我が父郷成が務めし時代もござり申した。しかし当家は、藩公の下で一枚岩と成る事能(あた)わず。時の主流となりし者の裁定で、城主は幾度も変わって居り申す。」
郷喜の父蒲生郷成は、岡重政に家老の座を追われて、藤堂高虎に仕官した。そして先君蒲生秀行の正室、振姫が介入して岡氏も失脚すると、若い藩主を頂く会津藩内の力関係は、混沌(こんとん)とし始めた。

 城主がころころと変わる様では、碌(ろく)な政(まつりごと)はできぬであろう。しかもそれは、三春に限った話ではない。忠長はすっと立ち上がり、清右衛門に下知する。
「兵を百許(ばか)り借りるぞ。早目に手を打たねば、藩内各地へ飛び火致す。留守中の事は全て、清右衛門に任せる。」
「しかし、たったの百騎では…」
「若松の兵を、これ以上は割(さ)けぬ。」
忠長は直(ただ)ちに、三春へ向ける軍勢を編成した。一大事を聞き付けた、目付の堀、跡部両名も、随行する事となった。忠長の手勢は慌(あわただ)しく、若松城を出立した。峠にはまだ、雪が残っていた。

 越後街道を東へ進むと、阿武隈川と五百川の合流地点、高倉の辺りで奥州道中に至る。伊達政宗が若き頃、佐竹義重、蘆名義広と戦いし古戦場である。少し南下すると磐城街道に出るので、東へ折れる。直(す)ぐに三春城主の領分、下舞木村に至るが、百姓を敵に回している以上、領内に入れば何が起るか分からない。忠長は手前の南小泉村に野営し、兵を休ませた。

 翌朝、三春領内に入り、城山を目指した。三春領は長年の悪政に苦しんでいた所、領主交代の際、城の守りが手薄になったと知るや、領民は徒党を組んで、城中に備蓄されし、兵糧や金銀を奪う積(つも)りであった。

 漸(ようや)く城の西方まで到達した忠長は、城下の騒動に驚いた。一揆衆の数は、百や二百では済まない。遠くの村からも、百姓達が押し掛けている様である。
「如何(いかが)なされまする?」
目付の堀式部が尋ねた。
「三春城兵の数は少ない。手を拱(こまね)いていては、城を失い申す。」
忠長は直(ただ)ちに、三春城への突撃を命じた。

 百姓達は頓(ひたすら)、城門の粉砕を試(こころ)みていた。そこへ、後方から声が上がる。
「新手じゃ!」
忠長勢は一揆衆の背後へ忍び寄り、鉄砲を撃ち放った。そして狼狽(ろうばい)する百姓に、槍隊を繰り出す。太刀を持つ百姓も、これでは到底敵(かな)わない。散り散りにされた所で、忠長以下の騎馬隊が、一気に潰走させた。

 三春城を囲んでいた一揆衆は退(しりぞ)き、忠長の隊は悠然と、入城に及んだ。直(ただ)ちに忠長は本丸に入り、城代を召し出した。城代は、忠長の前で畏(かしこ)まる。
「この度(たび)は危うき所を助けて頂き、忝(かたじけの)う存じまする。」
忠長は目付を同席させた上、城代に問う。
「何が有った?」
「されば、申し上げまする。殿が三春城退去の後(のち)、近郷の肝(きも)(いり)が訪れ、蔵米の供出を求めて参り申した。」
「して、返答は?」
「これらは当家が一時預かりし物にて、加藤家入部まで、責任を持って保管すべき物と心得(こころえ)、拒否致し申した。」
「それで、一揆が起きたか?」
「はい。」
目付の方へ向き直り、忠長は確認する。
「当家が蒲生家より請取りし蔵米を、悉(ことごと)く加藤家へ御渡し致そうとして、一揆を招き申した。御両人の存念や如何(いか)に?」
(ま)ず、堀式部が答える。
「内藤家の御役目上、詮(せん)無き仕儀と心得申す。」
続いて、跡部民部が答える。
「逆に、僅(わず)かな手勢で一揆衆を追い払いし帯刀殿の御手並、見事でござった。」
目付より、三春城代の判断に誤りの無い事が確認された時、急使が報告に現れた。
「申し上げまする。一揆衆、再び徒党を組み、守山方面へ進みつつ在り!」
「しまった!」
忠長は慌(あわ)てて立ち上がった。三春とは異なり、守山は平城である。一揆衆が大挙して押し寄せれば、容易に占拠されるであろう。忠長は再び目付の同道を仰(あお)ぎ、軍勢を出動させた。

 幸い、守山の手前で、一揆勢に追い付く事ができた。騎兵は馬上より弓を放ち、接近すると槍に持ち替えて、百姓達を蹴散らした。守山城攻撃所ではなくなった一揆勢は、近くの丘に建つ大善寺へ入り、守りを固めた。
大善寺を仰ぎ見つつ、忠長は決断を下した。
「一揆勢は既(すで)に罪を犯し、赦免する事能(あた)わず。然(さ)れども、隣国領民の怨(うら)みを買うは、本意ならず。でき得る限り、召し捕(と)れ。」
忠長の号令の下、内藤勢に目付衆も加わり、大善寺への総攻撃が行われた。忠長の手勢は少数精鋭で、一揆勢の守りを次々と打ち崩し、遂(つい)には寺院を占拠した。百姓は再び散り散りとなって逃げたが、騎兵が執拗(しつよう)に追い掛け、槍で叩(たた)く。倒れた百姓を、後(あと)から続く歩兵が捕縛して行った。

 内藤勢は九十四人、目付衆は十四人を捕(とら)え、目付と吟味した上で、主謀者五人を磔(はりつけ)に処し、残りは放免した。忠長の迅速な一揆鎮圧に因(よ)り、その後会津藩民は鳴りをひそめた。

 程無く会津藩領の内、白河十万石は棚倉藩主丹羽長重に下される事となり、小峰城を明け渡した。これにて丹羽家は、白河に転封となった。

 やがて、加藤嘉明が軍勢を引き連れて、会津四十万石の藩主となった。嘉明の娘婿(むすめむこ)松下重綱は、下野烏山より二本松五万石の藩主となり、嘉明三男加藤明利は、三春三万石を立藩した。残るは幕府天領とされ、蒲生家より預かりし城を全て、新領主へ無事渡し終えた忠長は二月、江戸へ報告に赴いた。

 幕府から犒(ねぎら)いの言葉を頂き、虎ノ門邸へ戻った忠長であったが、その顔は鬱屈(うっくつ)としていた。母三宅氏が心配して、忠長に訳(わけ)を尋ねる。
「この度は、無事に台命を果され、御疲れの事でしょう。そのせいか近頃、気が晴れぬ様に見受けられまするが、どこぞ具合でも悪いのですか?」
「いえ、別して…」
「悩みが有るならば、母に話しては下さらぬか?」
忠長は、母と目を合わせられない。
「隣国の百姓を、手に掛け申した。」
「家臣は、見事な戦(いくさ)振りと誉(ほ)めていましたが。」
「あれは戦(いくさ)に非(あら)ず。兵法も武芸も無き民人を相手に、全力で戦ってしまい申した。武人として、恥ずかしき限りと存じまする。名将なれば、民を討ち果さずとも、別の道が有ったであろうに…」
三宅氏は忠長の悩みに答えられず、内々に夫政長へ、忠長の事を書き送った。

 やがて、政長は磐城を発し、江戸虎ノ門邸へ到着した。迎えに出た忠長と三宅氏に、政長は笑顔で告げる。
「上意じゃ。七女称比を、蒲生中務大輔殿に嫁がせる。」
三宅氏は、気が進まぬ様子である。政長は、三宅氏に問う。
「不服か?」
「姉が、妹の家来筋になるのは、如何(いかが)な物かと。」
縁談が纏(まと)まれば、七女は伊予松山藩主の正室、長女はその家老の妻である。
「大御所様より、儂(わし)に忠知殿の岳父となり、蒲生家を取り締まって貰(もら)いたいと、斯様(かよう)に御下命が有った。」
「大御所様の命とあらば、少々不憫(ふびん)とは存じまするが、致し方ござりませぬ。」
政長は頷(うなず)くと、忠長に目を移した。
「おお、新年早々、よく役目を果してくれたのう。隣国三春の様子なども聞きたい故(ゆえ)、奥へ参ろう。」
父に促(うなが)されて、忠長は奥の間へ移った。

 久し振りに父と二人になるも、忠長は沈んだ顔のまま、何も話さない。政長が庭を眺めつつ尋ねる。
「会津藩を仕置して見て、如何(どう)であった?」
ぼそりと、忠長は答える。
「弱き民を、殺戮(さつりく)に及びました。」
「ほう、何故(なぜ)じゃ?」
「兵が少なく、また解決策を見出せず…」
「そちは、法を犯したのか?」
「力足りず、道を違(たが)えました。」
「では、正しき道とは何ぞ?百姓の言い成りのまま城を明け渡せば不忠、百姓に打ち負かされて逃げれば惰弱、税の減免や蔵米供出を勝手に行えば、法に違える。」
「存じて居り申す。」
「然(さ)れば、何を悩む?そちが三春の民に悪政を布(し)き、一揆を誘発したのか?」
「いえ…」
政長は、ポンと忠長の肩を叩(たた)く。
「そちは強い。加えて憐憫(れんびん)の情を備えて居る。しかし惜しい事に、知恵が無い。」
「御恥ずかしゅうござりまする。」
「一揆の源を知り、これを潰(つぶ)さねば成るまい。」
「目付と吟味の上、主謀者を処刑致し申した。」
「其(そ)は、根源に非(あら)ず。事の元凶は即(すなわ)ち、蒲生家藩政の乱れである。これを絶たねば、第二、第三の犠牲が出ようぞ。」
「仰(おお)せの通り。」
忠長は、少し救われた気持になった。政長は、忠長の両肩を掴(つか)む。
「今年、称比を蒲生家に嫁がせし後は、藩主忠知殿の後見と成らん。しかし蒲生家は依然二十四万石の大藩じゃ。介入には、武勇の者が必要ぞ。御事(おこと)は、力を貸してくれようか?」
「承知、仕(つかまつ)り申した。」
今日までの不満、疑問が、一気に解決した気分に成った。忠長は笑顔を湛(たた)え、父に頷(うなず)いて見せた。

 七月五日、伊予松山藩主蒲生忠知と、磐城平藩主内藤政長七女、称比姫の婚礼が執り行われた。名君蒲生氏郷の死去以来、乱れて来た家臣団を、藩主忠知、家老郷喜の下に纏(まと)めるべく、以後政長は、松山藩政にも心を砕(くだ)かねば成らなくなった。

 一方で、丹羽長重が去った棚倉城は、この年完成を見た。そして隣国棚倉五万石を受け継いだのは、一門の内藤豊前守信照であった。信照の祖父信成は、内藤家長の義兄である。

 磐城平藩内を見ると、岩崎郡小名浜中島村熊野権現の再建、忠長が岩崎郡下三坂村稲荷神社を再建、加えて楢葉郡川前村田代新田開拓、楢葉郡手岡村からは新田町村が分立した。政長の政(まつりごと)は実を結び始め、領内随所で人口が増加しつつあった。

 翌寛永五年(1628)六月三日、忠長は長子万鍋を伴い、将軍に挨拶致すべく、登城に及んだ。 将軍の御成(おなり)が告げられると、忠長と万鍋は平伏する。程無く現れた家光は機嫌良く、忠長に告げた。
「帯刀は昨年、見事会津領を仕置したとか。藩政の方も、巧(うま)く治めていようのう?」
「畏(おそ)れながら、安積郡では寺に集いし一揆衆と戦い、蛮勇を振ってしまい申した。因(よ)って、安積の民には隣国に暴君在りと謗(そし)られぬ様、磐城平藩領内、安積に近き村の古社を、再建させた次第。治政とは、実に難しき物と存じまする。」
「奥州の政(まつりごと)は、大変じゃのう。」
「上様には、到底及びませぬ。」
家光は苦笑する。
「余は楽じゃ。大御所の案件を認可するだけで良い。」
ふと家光は、万鍋に目を移した。
「そちの名は、何と申す?」
「申し上げよ。」
父に促(うなが)され、万鍋は辞儀をした。
「内藤忠長が長男、万鍋にござりまする。」
「長男?嫡男ではないのか?」
忠長が、申し上げる。
「畏(おそ)れながら、万鍋は脇腹にて、父より世嗣の認可が下りませぬ。」
「正室に、子は居るのか?」
「娘が二人。」
「それでは、先(ま)ずこの万鍋を嗣子(しし)と定め、正室が子を上げし後(のち)、廃嫡すれば済む事ではないか。武家諸法度では、嗣子無くして死すれば改易ぞ。それとも、母親に何ぞ問題が有るのか?」
「いえ、東照大権現様の御許しを得た上で迎えし、武田家旧臣の姫にござりまする。」
「東照大権現が認めたとあらば、酒井宮内大輔にも文句は言わせぬ。この家光が、万鍋を帯刀の嗣子と認める。嗣子無くば、帯刀も存分に務めを果せまい?」
「有難き幸せ。」
忠長正室の父、酒井家次は元和四年(1618)に没して居り、現在はその長男忠勝が、出羽庄内十三万八千石の藩主と成っている。家光は、万鍋に尋ねる。
「そちは、幾つじゃ?」
「十歳に成りまする。」
「では、名を授けて進ぜよう。光長の名は、既(すで)に甥(おい)の越後高田藩主に与えてしもうたし…では頼長と致せ。源頼朝公の如き武将に、成長致す様(よう)。」
「畏(おそ)れ多き御言葉、恐懼(きょうく)して御礼(おんれい)申し上げまする。」
忠長が深々と頭を下げるのを見て、万鍋改め頼長も、これに倣(なら)った。

 二月(ふたつき)後の八月十日、西の丸で一大事件が起った。幕府年寄井上正就の嫡子正利と、大坂町奉行島田直時の娘は婚約し、目付豊島信満が仲人(なこうど)を務める筈(はず)であった。しかし家光乳母のお福は正就に、徳川中納言忠長の附家老、鳥居成次の娘を勧めた。成次は、将軍弟忠長の所領、駿河、甲斐、遠江五十五万石の治政を司(つかさど)る身分である。斯(か)くして正就はお福の勧めに従い、島田家との縁組を一方的に破談にした。面目を失った信満は、警固の付かぬ殿中に於(おい)て、正就を斬り殺した。それを見た青木忠精が、信満を後ろから取り抑えたが、信満は自害に及び、刀は信満共々忠精をも貫いて、併(あわ)せて三名が死亡した。武家諸法度では、豊島家一族悉(ことごと)くが罪に問われる筈(はず)であったが、武士の面目を失わせる法度に問題有りとして、信満の嫡子継重を切腹させる事で、決着させる事となった。遺恨(いこん)に因(よ)り殺害された井上正就は、思えば忠長初陣の大坂冬の陣で、忠長が所属した部隊の組頭であった。

 この年、磐城郡上小川村に於(おい)て、山番の喜平次が三反歩を開墾した。これに金三郎も加わり、細石(ささらいし)新田が拓かれた。

 明けて寛永六年(1629)(うるう)二月二日、将軍家光は疱瘡(ほうそう)を患(わずら)った。大人が罹(かか)れば二人に一人が死ぬと言われる、感染病である。乳母(うば)のお福は、伊勢神宮へ詣(もう)でた。嘗(かつ)て家光元服前、江戸城中は悉(ことごと)く弟国千代忠長に靡(なび)き、家臣は礼をとらず、配膳係も粗末な物を出すに及び、お福は家光病弱故(ゆえ)に御伊勢参りをすると称して、途中駿府の家康を訪れ、廃嫡されぬ様(よう)に働き掛けた事も有った。しかしこの時、頼むべきは神のみで、お福は生涯の薬断(だ)ちを誓い、家光公病魔平癒を祈願した。

 一方忠長も、二月二十三日に磐城郡白岩村鹿島大明神を再建し、将軍の御恢復(かいふく)を祈願した。家光は一月半の闘病の末、全快するに至った。

 この頃、幕府の度(たび)重なる朝廷の締め付けに嫌気が差した政仁(ことひと)天皇は、退位を望んでいた。しかし、帝(みかど)には皇子が在(おわ)されず、因(よ)って将軍の妹である中宮和(まさ)子の産みし、興子(おきこ)内親王の即位を願い出て来た。女帝は皇后時代を除(のぞ)き、婚姻が許されず、故(ゆえ)に女帝の子が即位した例は無い。幕府は、朝廷との溝をどう埋めるか、苦慮していた。

 上方(かみがた)の情勢が不穏の折、七月に忠長へ台命が下され、大坂城加番を仰(おお)せ付けられた。加番とは、常駐する常番に加わり、城の警固に当たる役目である。また、この役に就(つ)くと合力米が下される。忠長の所領菊多郡内は、既(すで)に大方が田畑であり、これ以上の開墾は望めない。近年は大善寺一揆の影響も有って、社殿の再建に力を注(そそ)いで来た為、二万石領の財政は、厳しさを増している。忠長はもう一仕事致さんと、謹(つつし)んで幕命を承(うけたまわ)り、真田信繁と戦って以来の、大坂の地へ赴いた。時の大坂城代は、阿部備中守正次である。武蔵岩槻八万六千石の藩主にして、幕府年寄の職を退(しりぞ)いて間も無かった。豊臣家滅亡と共に焼け落ちた大坂城は、元和五年(1619)から再建が始まり、この年遂(つい)に完成を見た。豊臣時代よりは狭い物の、西国大名に徳川の武威を示すに足る、荘厳かつ堅牢な造りであった。

 八月、将軍家光は麻布で鷹狩を催(もよお)し、翌日政長が登城して、獲物の雁(かり)を頂いた。東照大権現に倣(なら)い、家光も鷹狩を好み、軍事調練、民情の視察を行った。鷹狩は武家社会に於(おい)て重要な催事であり、大名が将軍の獲物の料理を頂くには、厳粛な作法が有る。

 やがて御膳が下げられ、政長が謹(つつし)んで御礼の言葉を申し上げる。その折、家光から質問が成された。
「そちは、江戸に幾(いく)つ屋敷を持って居る?」
「一ヶ所にござりまする。されど先代の時、東照大権現様が御自(おんみずか)ら縄張(なわばり)された、誉(ほま)れ高き虎ノ門邸にござりまする。」
「建てた時の、内藤家の石高は?」
「二万石にござり申した。」
「では、今は?」
「某(それがし)が七万石、倅(せがれ)忠長が二万石にござりまする。」
「それでは、手狭(てぜま)であろう。昨日、麻布の六本木に良い屋敷が在った。それを、そちに遣(つか)わす。」
「御鷹の雁(かり)に加え、御屋敷まで賜り、過分なる御配慮と、伏して御礼(おんれい)申し上げ奉(たてまつ)りまする。」
以降、内藤家は虎ノ門を上屋敷、麻布六本木を下屋敷とした。

 それから程無く、将軍家光は宮中の様子を探らせ、かつ帝(みかど)の御退位叡慮を翻(ひるがえ)すべく、乳母(うば)のお福を上洛させた。女性の方が、事が荒立たぬと考えての人選である。斯(か)くしてお福は、将軍名代として公家に帝(みかど)への謁見(えっけん)を願い出たが、無位の者は拝謁(はいえつ)(かな)わぬと、断(ことわ)られた。そこで、昔世話になった、遠縁の三条西家へ取り成しを頼み、当主実条(さねえだ)の妹と成る事ができた。三条西家の者であれば、藤原氏として位を頂く事ができる。そして十月十日、お福は政仁(ことひと)天皇に謁見し、春日局(かすがのつぼね)の称号を賜った。しかし、ここでも幕府の強硬なやり方に、朝廷は不満を抱(いだ)いた。

 遂(つい)に政仁(ことひと)天皇は禁中並公家諸法度に背(そむ)き、幕府の許可無く退位の宣旨(せんじ)を発し、後水尾(ごみずのお)上皇と称した。また、中宮和(まさ)子にも東福門院の称号を与えた。十二月二十二日、興子(おきこ)内親王は践祚(せんそ)するも、幕府の支援無く、即位の大礼を行う事はできなかった。

 この年、磐城郡上小川村で、百石取り与力小野主膳與左衛門が江田の新田を開発。同村では山守の與五左衛門、弥十郎、久左衛門が内倉に新田を拓(ひら)いた。他に、楢葉郡浅見川村箒平新田、北迫村七廻新田、上川内村銭神新田も開拓された。

 翌寛永七年(1630)の夏、将軍家光は溜池御覧の後、再び内藤家虎ノ門上屋敷を訪れた。そして、政長に黄金三十枚を下された。
「此(こ)は、勿体(もったい)無い。」
恐縮する政長に、家光は笑って返す。
「白髪(しらが)が増えて居るぞ。これからも苦労を掛ける故(ゆえ)、納めて置け。」
「ははっ。」
(にわか)に、家光は真顔となった。
「女帝即位の儀、そちはどう思う?」
「畏(かしこ)くも宮中の事に、某(それがし)如きが口を出せませぬ。」
「構(かま)わぬ。申して見よ。」
「されば、若(も)しも話となりまするが。」
「うむ。」
「内親王様御即位の後、和(まさ)子様に皇子誕生遊ばされれば、徳川家にも皇室にも、幸いな事と存じまする。」
「確かに、若(も)しも話じゃな。」
家光は少し黙考した後、再び政長に尋ねる。
「話は変わるのだが、蒲生家の事は存じて居るか?」
「はっ。再び御家騒動を起しかねぬ様子であるとか…」
「そちは藩主の岳父なれば、厳しく取り締まってはくれぬか?」
「畏(おそ)れながら、某(それがし)の所領は奥州、蒲生家の所領は四国故(ゆえ)、接触できる場は江戸の藩邸しかござり申さず。老臣達を江戸で折檻(せっかん)しても、当家の手の届かぬ松山へ戻られては 、旧(もと)の木阿弥(もくあみ)にござりまする。当家と致しましては、藩主忠知殿に助言する他、手立てはござりませぬ。」
「確かに。蒲生家をそちに任せ様(よう)と思って居ったが、大御所は少(ち)と遠くへ飛ばし過ぎたか。」
家光は暫(しば)し虎ノ門で休息した後、江戸城へ戻って行った。

 その後、将軍妹東福門院が懐妊したとの報(しら)せが、江戸城に達した。大御所秀忠は、この辺りが潮時であろうと考え、宮中に新帝即位を賀する使者を発した。斯(か)くして、八歳の興子天皇即位の大礼が、九月十二日に執り行われた。前(さき)の女帝は宝亀元年(770)に退位した称徳天皇で、実に八五九年振りの椿事(ちんじ)であった。

 一方、伊予松山藩では老臣間の確執が一層と深まり、藩主蒲生忠知、家老蒲生郷喜を以(もっ)てしても、手に負えなく成りつつ在った。

 磐城平藩では、磐城郡上小川村内倉新田の開発に、柳内久左衛門も加わり、地蔵堂が建立された。

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