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第六節 道山居士
寛永八年(1631)五月、幕府から駿河大納言徳川忠長に、領内の甲斐府中城に於(おい)て、病気療養が命ぜられた。しかしこれは立前で、実際の所は、蟄居(ちっきょ)謹慎である。理由は、殺生禁制の寺域で狩りを行った事、家臣を然(さ)したる理由も無く手討(てうち)にした事などで、乱行を重ねしは、心を病(や)んだ故(ゆえ)とされた。将軍家光は、越後松平忠輝、越前松平忠直の前例が有り、徳川忠長も改易に処さねば、法を曲げる物であると主張した。
しかしこの頃、大御所秀忠は病(やまい)を得ていた。体が衰(おとろ)えている所へ、次男が改易に処されて心をも病(や)むは、憂慮されるべき事であった。因(よ)って家光は父秀忠を憚(はばか)って、弟忠長を謹慎処分に留(とど)めたのである。
この年、内藤忠長は二年間の大坂加番を務め上げ、江戸へ帰還した。忠長は、心身共に充実していた。加番役を務めるからには、西国大大名が大挙して押し寄せ様(よう)とも、祖父家長の如く、死守する気概が必要である。兵馬の調練にも力が入り、自(おの)ずと武将としての血が騒(さわ)いだ。
今一つ、大坂城加番の役を拝命するのは、譜代大名である。忠長は立藩には至らぬも、この役に就(つ)いた事で大名として扱われ、またその自覚も涵養(かんよう)された。
二年振りに迎えてくれた父母は、忠長の成長に気付き、自信を付けさせるも増長せぬ様(よう)、誉(ほ)めてくれた。
また忠長から見て、弟達も随分と大きく成長した様に映った。千(せん)千代は元服して、右馬介(うまのすけ)政重と名を改めていた。側室唐橋氏の産みし万福も、健やかに育っている。二人を見て思い出されるのは、共に大坂夏の陣を戦いし、次弟左兵衛尉(さひょうえのじょう)政次であった。在世であれば、どれ程頼みの武将に育っていたか。しかし将来、忠長を補佐する身内は、この二人である。忠長は、弟達に相撲を誘った。
「どれ、二人がどれだけ大きゅうなったか、私(わし)が調べて進ぜよう。」
庭へ出て、忠長は上衣(うわぎ)を脱いだ。
「では、先(ま)ずは政重が。」
元服しただけ有って、大人の力を持っている。しかし、久しく軍事訓練を重ねて来た、忠長の敵ではなかった。柔(やわら)を使い崩した上で、上手投げが決まった。
「次は、万福の番にござりまする。」
万福はまだ六歳で、大人と子供の差が有る。忠長は万福に攻めるだけ攻めさせ、気合が入った所で負けてやった。
「それでは、政重の立場がござりませぬ。」
三兄弟の微笑(ほほえ)ましい様子を、親達は笑って眺(なが)めていた。
一方で、磐城平藩領の開発も進んでいた。楢葉郡上桶売村北方に小白井(おじろい)新田が拓(ひら)かれ、同郡上川内村では持藤新田が開墾された。
*
明けて寛永九年(1632)の正月は、大御所秀忠が重病の為、諸大名は新年を賀するよりも、大御所の御見舞を、将軍家光に申し上げた。秀忠は最期を悟り、家光を呼んで遺言した。公事は、三代将軍の御代に、幕藩体制を確立させる事。そして私事は、正室崇源院の眠る芝増上寺へ葬(ほうむ)る事と、遺品を諸大名に配る事であった。
一月二十四日、二代将軍秀忠は薨去(こうきょ)した。朝廷は興子天皇外祖父の訃報(ふほう)に接し、正一位を贈(おく)ると共に、台徳院殿と諡(おくりな)した。葬儀は遺言通り、芝の増上寺で行われ、秀忠は台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士と号した。この時、次男徳川忠長は幕命に因(よ)り、参列する事は叶(かな)わなかった。
二月十四日、政長は将軍家光に謁見し、台徳院殿の遺品白銀一万両を拝領した。
浄土宗増上寺は以後、将軍家の菩提寺となり、本末帳が幕府に提出された。これを受け、幕府は他の寺院にも、本末帳の提出を求めた。
再び、大御所は不在となり、幕府の頂点は将軍家光唯(ただ)一人となった。家光は年寄森川重俊の後任に、側近の松平伊豆守信綱を昇格させた。また、年寄に様々な呼称が有るは不都合として、「老中」に統一させた。加えて、有事の折の臨時職として大老を設(もう)け、近江彦根藩主井伊直孝を任命した。
台徳院殿の死後、家光は在府の諸大名を江戸城に召集し、申し渡した。
「東照大権現並びに台徳院殿は、諸侯の力を借りて将軍と成った。しかしこの家光は生まれながらの将軍であり、誰にも遠慮はせぬ。この儀に不服有らば、直(ただ)ちに江戸を引き払い、戦(いくさ)の仕度をするが良い。」
諸侯が騒(ざわ)つく中、陸奥仙台藩主伊達政宗が進み出る。
「それでこそ、我等が征夷大将軍にござりまする。幕府に弓引く者有らば、この政宗が真っ先に、討ち滅(ほろ)ぼして御覧に入れまする。」
政宗が諸侯に目を移すと、諸大名は悉(ことごと)く平伏した。政長は、仙台侯が既(すで)に幕府の忠臣となった事を知り、胸を撫(な)で下ろした。
さて、三代将軍は二条城行幸を成功させたが、これには先代台徳院殿が御膳立てをしている。台徳院殿薨去(こうきょ)の後は、伊達政宗に演出させ、家光の威厳を高めるべく計画した。だが、やはり外様有力大名を一つは潰(つぶ)して置かねば、諸大名は震え上がらぬと思われ、幕閣で謀議が成された。
この年、再び家光が、虎ノ門内藤邸を訪れた。これには、老中稲葉丹後守正勝も随行していた。正勝は春日局の子で、幼き頃から家光の小姓となった人物であり、同じく小姓を務め、猶(なお)かつ年長であった松平信綱に先んじて、老中職に就(つ)いていた。
客間に通され、腰を下ろすと、家光は政長に尋ねた。
「過日の儀、そちはどう思った?」
将軍の口から過日と仰(おお)せられるは、即(すなわ)ち生まれながらの将軍であると、諸大名に布告した時であろうと察し、政長は答える。
「某(それがし)の見た所、隣の大名は震え上がって居り申した。」
「果してそうかな?」
「伊達陸奥守殿も、婿(むこ)に在(あら)せられた忠輝殿改易後、如何(いか)なる反応を示して来るか、油断が成りませなんだ。しかし、真っ先に上様への忠義を申し出られ、最早(もはや)往年の野心は無き物と心得まする。他に、戦国大名の気概を持つ者は、既(すで)に少のう成ってござりまする。」
家光は、少し首を捻(ひね)った。
「戦国大名が減りしは、安心とは申せども、別の火種を持って居る。例えば蒲生家じゃ。藩主が家中を纏(まと)められず、騒動を起す例は少なからず。」
「某(それがし)の力及ばざるは、申し訳(わけ)無き限り。」
正勝が政長に向かい、確認する。
「蒲生家の騒動は、近々幕府の名に於(おい)て、沙汰を下し申す。御異存無きや?」
「台命とあらば、謹(つつし)んで承服致しまする。」
正勝が承(うけたまわ)ると、再び家光が尋ねた。
「あちこちの藩で御家騒動が起るは、将軍に威光が無いからではないのか?」
「滅相(めっそう)もない。上様の御威光有って、藩は戦(いくさ)を起さず。因(よ)って、御家騒動に力を割(さ)けるのでござりまする。」
「では、全国で騒動が起きても、平和の証(あかし)故(ゆえ)、看過せよと?」
「それは…」
政長が言葉に詰まった所で、再び正勝が口を開いた。
「これ以降は、内々の話にござる。」
政長は承服し、人払いをさせた。それを見届けた上で、正勝が言葉を継ぐ。
「肥後国熊本藩加藤家に於(おい)て、久しく御家騒動有り。中には豊臣恩顧の老臣多く、駿河大納言殿を頂き、幕府の転覆を謀(はか)らんと、土井利勝殿に檄文(げきぶん)が届き申した。」
「其(そ)は、忌々(ゆゆ)しき事。」
「因(よ)って幕府は、熊本藩の改易を決め申した。」
家光は、政長を見詰める。
「城の請取りは、正勝に任せる。しかしこの正勝、戦(いくさ)の経験が無い。場合に因(よ)っては、熊本藩と合戦に及ぶやも知れぬ。故(ゆえ)にそちには、正勝の副将を頼みたい。できれば、帯刀も参陣すれば心強いが。」
「上意とあらば、全軍を挙げて、肥後へ赴きまする。但(ただ)…」
「政宗は江戸に留め置く。また磐城に有事出来(しゅったい)致さば、直(ただ)ちに水戸権中納言を援軍に遣(つか)わす。」
「さればこの政長、一命を賭(と)して、斯(か)かる大任を全(まっと)う致しまする。」
「確(しか)と、頼んだぞ。今後の事は、この正勝と良う打ち合わせる事。」
政長は承知の旨(むね)を申し上げると、正勝へ向き直り、互いに辞儀を交した。
五月二十二日、肥後熊本藩主加藤忠広は、参勤の為に江戸へ向かっていたが、品川宿で江戸入りを差し止められた。そして池上本門寺に移された所で、稲葉正勝が改易の上意を申し渡し、藩主忠広の身柄は、出羽庄内藩主酒井忠勝に預けられた。
六月、内藤政長は磐城平藩政を筆頭家老安藤志摩に任せ、次席家老上田外記以下、組頭を悉(ことごと)く引き連れ、出陣した。また、忠長も二万石衆を率(ひき)い、磐城平藩九万石の総力を挙げて、江戸へ赴いた。
六月十八日、熊本へ赴く前に、将軍家光に拝謁(はいえつ)した。登城に及ぶは、政長の一族悉(ことごと)く。長男忠長、三男政重、四男万福、忠長長男頼長、忠長次男千之助、忠長三男百助の面々である。万福は側室の子故(ゆえ)、初めての将軍謁見(えっけん)であった。
御座の間に於(おい)て、老中酒井忠世から、下賜の物が披露(ひろう)された。政長には黄金百枚に帷子(かたびら)、反物。忠長にも、金二十枝(し)に帷子(かたびら)と反物五つ。また、初の目通りが許された万福には、太刀と反物五つが下された。
政長が当主として、将軍に御礼を申し上げる。
「この度は斯(か)かる下され物を御用意頂き、感謝の言葉も見当りませぬ。」
「熊本藩の改易は、将軍の沽券(こけん)に係わる。ゆめゆめ油断の無き様(よう)。」
「ははっ。」
続いて家光は、三男政重に目を移した。
「そちが右馬介(うまのすけ)か?」
「はい。」
「そちにも出陣を命じた。初陣なれば、よく父や兄の命令を聞くのだぞ。」
「確(しか)と、承りました。」
家光は重ねて政長に、稲葉正勝補佐の件も、宜(よろ)しく頼んだ。
虎ノ門に戻ってから、政長は忠長に尋ねた。
「政重の出陣を上様に願い出たのは、御事(おこと)であろう?」
忠長は、知らぬ顔をする。
「上様の覚えが宜(よろ)しかった様(よう)で。政重は果報者にござりまするな。」
政重が台命を帯びし今となっては、忠長を詮索しても仕方が無かった。
「政次の様に、そちには預けぬぞ。儂(わし)の手許(てもと)に置く。」
「御随意に。」
近くで話を聞いていたのか、ひょっこり政重が姿を現した。
「父上、先手はこの政重に。」
「たわけ!」
父の雷を物ともせず、政重は忠長の眴(めくば)せを受け、一揖(いちゆう)して去って行った。鼻歌が遠ざかって行く。
「ああいうのが、一番危ない。」
政長は眉間(みけん)の皺(しわ)を深くした。
「では、やはりこの忠長が後見を。」
「それは、もっと危ない。」
政長は深く、溜息(ためいき)を吐(つ)いた。
城請取りは、本城熊本を小田原八万五千石稲葉正勝、脇城八代を内藤政長が担当し、監吏には朝倉仁衛門と、曽我久左衛門が任命された。斯(か)くして六月二十日、稲葉、内藤の軍勢は、江戸を進発した。政長は合戦に備え、拝領した鉄砲二十挺(ちょう)を加え、部隊を編成し直した。二万石衆家老安藤清右衛門は、本家家老安藤志摩の不在に因(よ)り、一丸となった内藤勢の中で、家老の権限が与えられた。先手右御旗は荒井六右衛門、左御旗は富田平左衛門が務める。政重は、磐城平藩士一万石衆の大将と成った。
肥後熊本藩は五十二万石とされているが、戦(いくさ)が終って開墾される様になり、実質七十三万千八百石とも言われる。藩祖加藤清正は、豊臣秀吉が織田信長の足軽大将であった時から仕え、存命の時は、豊臣秀頼の忠臣であった。藩主加藤忠広は清正の三男であったが、兄二人が早世した為、家督を相続した。忠広の嫡子光正は悪戯(いたずら)を好み、家臣広瀬清兵衛に討幕の企(くわだ)てを持ち掛けた。清兵衛を臆病者と見て、その諫(いさ)める様を楽しんでいたのである。しかし、忠広の代から家中は乱れ始め、憂慮した清兵衛は、幕府の実力者土井利勝に会い、万一光正の悪ふざけが外へ漏れても、加藤家に異心無き事を説明した。利勝は念の為にと、光正の悪さを詳細に確認し、光正直筆の謀叛状と、江戸城焼討(やきうち)の図面を入手した。そしてこれが、加藤家謀叛の決定的証拠にされてしまったのである。幕府はこれに加え、民を苦しめる悪政を布(し)きし数ヶ条を以(もっ)て、忠広に流刑を申し渡した。
この度忠広が江戸へ参勤に及ぶ前、既(すで)に一部処分の通告が有った。家臣の中には、幕府はこれを好機と熊本藩を取り潰(つぶ)す積(つも)りであり、なれば城を枕に一戦(ひといくさ)仕(つかまつ)らんと、申す者がいた。しかし三万石の御親類加藤右馬允(うまのじょう)正方が、申し分を唱(とな)えずに合戦に及ぶは、謀叛を認めるに等しき行いで、後世に汚名を残さぬ為には、先(ま)ず江戸にて、申し開きを致すべしと主張した。忠広は正方の意見を尤(もっと)もと考え、参勤に及んだ所で、斯(か)かる仕儀と成った。因(よ)って、藩士の中には改易を拒否し、籠城に及ぶ者が出る事が想定された。
七月二十日、稲葉、内藤勢は肥後国内に入った。街道に沿って進めば、手前に熊本城、奥に十余里進めば、八代城が在る。八代城主で家老の加藤正方は、自らの主張に因(よ)り藩滅亡の危機に晒(さら)され、面目を失っているであろう。故(ゆえ)に、徹底抗戦に及ぶ怖れが有る。
熊本城を前にして、稲葉正勝は軍議を開いた。そこで、正勝は政長に告げる。
「熊本城入城の先手だが、左馬介殿に御願いしたい。」
「承知。」
「そこで、もし熊本城並びに八代城が手向かい致した時だが…」
正勝は困り顔で政長に目を遣(や)ったが、政長は恰(あたか)も眠っているが如く、目を閉じて動じない。正勝はやや、語気を強めた。
「斯(か)かる仕儀と相(あい)成った場合、貴殿に良策はござらぬか?」
「この政長は老年故(ゆえ)、近頃は思慮も浅うなり申した。ただ、愚策が一つ有り申す。」
「御聞かせ願いたい。」
「聞く所、加藤家は家中が乱れて久しい由(よし)。因(よ)って、熊本と八代は連携できぬ物と存ずる。故(ゆえ)に、日取りを決めて、貴殿は熊本、当家は八代に入城致さん。なれば、一方の藩士が籠城に及ぶとも、片方は手に入り申そう。一城を取れば、国は半分に割れ、手向かい致す者の中に混乱が生じ申す。後(あと)は当家の手勢を以(もっ)てすれば、充分でござる。」
「妙案でござる。」
監吏は両名共に賛同し、正勝は政長の案を採(と)る事に決した。
斯(か)くして内藤勢は先発し、熊本城下を素通りして、八代城へ向かった。肥後国内の中央へ踏み込み、最早(もはや)内藤家に逃(のが)れる所は無し。加藤清正が相手ならば、決して取れぬ策であった。忠長は、敵中直中(ただなか)の恐怖感を、久し振りに楽しんでいた。その一方で、逐一(ちくいち)物見を放つのを忘れない。
「あれは、学んで置け。」
政長は政重に馬を並べ、そう呟(つぶや)いた。
熊本と八代が一枚岩となって内藤勢に押し寄せれば、主力を奥州より伴ったといえども、壊滅したであろう。しかし、それは有り得ぬと断定した政長の情勢分析は的確であった上に、家臣団が屈強揃(ぞろ)いであるという、確固たる自信を備えていた。
結果、熊本藩家老加藤正方は、慇懃(いんぎん)な応対で両城を明け渡した。予定通り、同日に稲葉正勝は熊本城、そして内藤政長は八代城に入った。
程無く、熊本藩領は在番の稲葉民部少輔、有馬左衛門、佐々木下右門太夫へ引き渡され、その旨(むね)早馬を以(もっ)て、八月三日に江戸へ伝えられた。八月の内に内藤勢は肥後より撤収し、九月三日に江戸へ到着した。
翌四日、内藤家当主政長、長男忠長、三男政重、家老上田甚右衛門、安藤清右衛門が登城し、黒書院に於(おい)て、将軍家光の目通りが許された。そして、熊本藩が神妙に改易の上意に従った事を報告した。当主以下五名には、将軍より恩賞が下賜された。忠長の褒美には、鉄砲二挺(ちょう)が含まれていた。家光が、忠長を真の武士(もののふ)と認めての事であろう。大任を果した政長は十月七日、磐城への帰国が認められた。
熊本を失った加藤忠広は、出羽庄内へ流刑に処されたが、改易に臨(のぞ)みて家中が神妙に従った事から、その罪が酌量(しゃくりょう)された。忠広は出羽国庄内平野の丸岡に一万石を賜り、僅(わず)かな家臣と共に移り住んだ。
この事件は、台徳院殿亡(な)き後も、三代将軍家光に大大名を取り潰(つぶ)す力が有る事を、海内諸侯に知らしめた。斯(か)くして自信を得た家光は、次の標的を実弟の駿河大納言忠長に定めた。
十月二十日、駿河府中五十五万石藩主徳川忠長は、数々の不行状、及び加藤光正謀叛の企(くわだ)てに加わりし罪に因(よ)り、附家老朝倉宣正、鳥居成次共々改易に処され、忠長の身柄は上野高崎藩主、安藤右京亮(うきょうのすけ)重長に預けられた。駿河、甲斐、遠江の所領は、幕府の天領とされた。また駿河国久能山東照宮には、東照大権現が万一江戸が落城した時に備えて、埋蔵金を遺(のこ)していたのだが、家光はこれらを悉(ことごと)く、江戸城の御金蔵に移した。
駿河大納言の改易を終えた後の十一月二十八日、政長は再び江戸へ召し出された。黒書院で家光に謁見した所、家光は大層(たいそう)上機嫌であった。
「左馬介、度々の参勤、大儀である。老身には応(こた)えたか?」
「いえ、台命とあらば、老骨に鞭(むち)打ってでも、江戸へ馳(は)せ参じまする。」
「殊勝なる物言い、嬉しく思うぞ。さて、此度(こたび)呼び出したは他でもない。熊本藩接取の大役を見事果せし、恩賞についてじゃ。宮中に奏上致した故(ゆえ)、近々そちに位の昇進が有る。虎ノ門で、吉報を待つが良い。」
「此(こ)は、望外の喜びと存じまする。」
天正十六年(1588)四月、時の天下人豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくだい)を徳川家康が訪れた折、御供した政長は、従五位下に叙せられた事が有った。そして加藤忠広改易に功績有った政長は、年の瀬も押し迫った十二月二十八日、従四位下に昇進した。
寛永年間に入り、毎年磐城平藩では新田の開拓が行われて来たが、この年は大軍を肥後に派遣した為、開墾を行う余裕は無かった。
*
寛永十年(1633)の年賀拝礼に江戸城へ登った政長は、将軍家光に対し、位昇進の御礼を申し上げた。
幾(いく)ら肥後接取の恩賞とはいえ、朝廷に奏上の上で昇進が有った以上、答礼をしない訳には行かない。しかし、天下の将軍相手に、下手(へた)な物を献上する訳にも行かない。政長が松の廊下をうろうろしていると、折良く老中の酒井忠世が通り掛かった。
「雅楽頭(うたのかみ)殿。」
「おお、左馬介殿。昨年は御活躍でござったな。」
「御蔭様で、位を賜られた。そこでじゃ、雅楽頭殿に御願いの儀がござる。」
「はて、何でござろう?」
「上様に御礼を致したいが、この田舎(いなか)者には何を差し上げて良い物か、さっぱり見当がつき申さず…」
忠世は、声を上げて笑った。
「肥後一国を相手にした剛の者が、斯様(かよう)な事で悩(なや)まれるとは。」
「笑い事ではござらぬ。」
「されば、助言仕(つかまつ)る。もう直(す)ぐ、芝の増上寺に於(おい)て、台徳院殿様の御仏殿が落成致し申す。」
「あっ!」
政長が勘付いたのを察して、忠世は辞儀をする。
「では、某(それがし)はこれにて失礼致す。」
「御助言、忝(かたじけな)い。」
政長も頭を下げて、忠世に謝意を示した。
虎ノ門に戻った政長は、直(ただ)ちに国家老安藤志摩へ、遣(つか)いを出した。その内容は、直(す)ぐに石灯籠を用意する様、申し付ける物であった。
一月二十四日、一周忌に合わせて、二代将軍台徳院殿を祀(まつ)る御仏殿が完成した。その折、政長と忠長は一基ずつ、石灯籠を献上した。政長の灯籠には、
「奥州磐城平城主
従四位下内藤左馬介藤原政長」
と彫(ほ)られた。忠長は従五位下の位に叙せられているが、城持ちではない為に、どの様に刻まれたかは不明である。惜しい事に、芝増上寺は昭和二十年(1945)に二度の爆撃を受け、荘厳な御仏殿は破壊されてしまった。
内藤家に、慶事が一つ有った。政長八女で唐橋氏の産みし菊姫が、祝言を上げたのである。嫁(とつ)ぎ先は、信濃高遠三万石の藩主、保科肥後守正之である。保科家は戦国時代、武田家の家臣であった。
十一月、磐城平城内記郭(くるわ)の邸に於(おい)て、忠長の三弟政重が、重病に臥(ふ)した。高月屋敷の忠長は、藩政の間を見ては、暫々(しばしば)見舞に訪れた。
十一日、忠長が再び右馬介屋敷を訪れると、政重の様子がおかしかった。呼吸が荒い。
「政重!」
忠長は、病床に在る弟の手を掴(つか)む。
「兄上…」
「そうじゃ、忠長じゃ。確(しっか)り致せ。」
「兄上、御願いの儀が…」
「何じゃ?申して見よ。」
「我が倅(せがれ)は幼少なれば、我が所領二千石を相続させるは、問題でござりましょう?」
「そちの子なれば、我が甥(おい)ぞ。何も心配致すな。」
「有難し。加えてもう一つ…」
「何でも良い。」
忠長の手に、力が籠(こも)る。
「昨年、肥後へ赴きし砌(みぎり)、父上が用いられし青貝柄の御持槍が、何時(いつ)までも忘れられませぬ。叶(かな)うなら、あれを持って戦場(いくさば)に赴きとうござりました。」
忠長は、側に控(ひか)える家臣に告げる。
「あの槍なれば、三階櫓に在るであろう。急ぎ持って参れ。」
家臣は承(うけたまわ)ると、急ぎ本丸へ向かい、程無く戻って来た。忠長は、角切りの折(へ)ぎの上に、内藤家家紋下がり藤の布を被(かぶ)せ、その上に槍を乗せた。
「どうじゃ?」
政重は、涙を流した。
「これを持って、兄上と共に戦いたかった。しかし、それは最早(もはや)叶(かな)い申さず。父上に、宜(よろ)しく御伝え下さりませ。」
政重は、家臣へ顔を向ける。
「角切りに下がり藤、これを当家の家紋と致せ。また、青貝柄の槍は家宝と致す。」
そう言い遺(のこ)して、政重は事切れた。
「政重、先に逝(ゆ)くな!」
忠長の叫びも虚(むな)しく、政重は永久(とわ)の眠りに就(つ)いた。
忠長は政重の屋敷に留まり、弟葬儀の采配(さいはい)を取った。政重の葬儀は、内藤家菩提所の善昌寺にて執り行われ、忠長が喪主を務めた。政重は享年二十歳。法名は洞院殿峰与全伯大禅定門。
事後報告となったが、忠長は江戸の父政長に弟の死を伝えた折、遺領の二千石をその幼子に相続させると共に、愛用の槍を与える事を願い出た。江戸で訃報(ふほう)を受けた政長は、哀(かな)しみに暮れながら、政重最期の望みを叶(かな)えてやった。
この年も、磐城平藩領で新田開発の報告は無かった。肥後遠征は、藩の百姓に大きな負担を与えていたのである。
十二月、徳川忠長が流刑に処された上州高崎の屋敷は、周囲に竹矢来(やらい)が巡(めぐ)らされ、死罪を申し渡されし重罪の者を、収監している有様であった。甲府で謹慎を言い渡されたにも拘(かかわ)らず、親類や幕府に要求を続けた弟に、将軍が釘(くぎ)を刺したのである。
この兄弟は、生い立つ環境が余りにも違い過ぎた。兄家光は生後間も無く、父母から遠ざけられ、廃嫡に脅(おび)えながら育ち、乳母春日局や少ない忠臣の力を借りて、やっと将軍に成れたのである。一方で弟忠長は、父母の愛を受けて育ち、多くの家臣からは、立派な三代将軍に成るであろうと、持ち上げられて来た。それが一転、家光の将軍就任、母崇源院死去、そして二人を繋(つな)ぐ最後の人物、父台徳院殿の薨去(こうきょ)を経て、兄弟が共存できる環境が失われた。兄は弟を知らず、弟は兄を知らず。懲(こ)らしめの積(つも)りで家光が行った事を、忠長は遂(つい)に死罪を命ぜられる日が迫ったと、誤解した。十二月六日、監視の者が離れた隙(すき)を見て、大納言忠長は脇差(わきざし)を抜き、自ら果てたのであった。
訃報(ふほう)は江戸へ伝えられ、家光は怒った。
「忠長は、最期まで余に背(そむ)いたか!」
しかし、これ以上弟を罰する事はできない。これまでの憎しみが強い分、また失った心の穴も大きかった。憎けれど、兄弟がいた事がどれだけ幸せであったか、失って家光は初めて解(わか)った。
悲嘆(ひたん)に暮れる家光を見兼ねて、老中土井利勝が将軍の耳に入れた。
「畏(おそ)れながら上様には、今一人弟君が在(おわ)されまする。」
「偽(いつわ)りではあるまいな?」
突然の話に、家光は驚いた。
「台徳院殿様の御内意に因(よ)り、今まで伏せられて参り申した。」
利勝は小声で、仔細(しさい)を家光に説明した。
*
明けて寛永十一年(1634)正月、新年を賀するべく、諸大名が打ち揃(そろ)って、将軍に謁見した。最前列は尾張徳川義直、紀伊徳川頼宣、水戸松平頼房、以下は石高順に加賀前田家、薩摩島津家と続く。二年前と異なるのは、加藤忠広の姿が無い事である。肥後五十四万石は、豊前小倉藩主細川忠興に与えられた。しかし忠興は八代九万五千石を貰(もら)って隠居し、三男忠利が熊本四十四万石を領して、家督を相続していた。小倉時代は四十万石であったので、席次はそれ程上がっていない。
席順に諸侯が挨拶(あいさつ)を申し上げ様(よう)とした所、家光は大きな声で、小姓に尋ねた。
「将軍の弟が、何故(なにゆえ)後列に座って居るのか?」
それを受けて土井利勝が席を立ち、後方へ赴いた。
「肥後守殿、前へ。」
利勝が前列への移動を勧めたのは、昨年政長の婿(むこ)になったばかりの、保科正之であった。
保科正之の母於静(おしず)は、二代将軍秀忠の夭折(ようせつ)した長男を生みし側室、志乃(しの)の方に仕(つか)えていた。その縁で秀忠に見初(みそ)められ、やがて身籠(みごも)った。既(すで)に家光、忠長は生まれていたが、秀忠は正室お江の方を憚(はばか)り、土井利勝に命じて、内々に処置させた。そして於静は兄の実家へ戻され、慶長十六年(1611)五月七日、男子が生まれた。将軍の子を市中で育てるのも問題であったが、万一お江の方の耳に達すれば、容易(たやす)く処分されてしまう怖れが有る。そこで土井利勝の脳裏(のうり)を過(よぎ)ったのは、武田信玄の次女、見性院であった。早速(さっそく)田安門内の邸を訪れ、事情を説明すると、見性院は養子として預りたいと、申し出てくれた。嘗(かつ)て、家康の五男信吉を養子とし、武田家を再興させた事が有ったが、信吉は子を儲(もう)けずに身罷(みまか)り、武田家は断絶していた。そこで此度(こたび)は秀忠の子を養子に迎え、将来武田家を再興させ様(よう)と考えたのである。於静と赤児(あかご)は見性院邸へ移され、秀忠の隠し子は幸松(こうまつ)と命名された。
しかし、幸松の事はお江の方の知る 所となった。将軍の子なれば、是非(ぜひ)会って見たいと催促(さいそく)されたが、登城させれば、済(な)し崩しにお江の方へ取り上げられ、幸松の身に如何(いか)なる不幸が降り注(そそ)ぐか、分かった物ではない。秀忠がお江の方に内密にと、仰(おお)せであった以上は、何としてでも、登城を阻止(そし)しなければ成らない。言葉を濁(にご)して鄭重(ていちょう)に断(ことわ)るも、催促の口調は次第に厳しくなって行った。相手は天下の御台所(みだいどころ)故(ゆえ)、見性院が庇(かば)うにも限度が有る。已(や)むなく見性院は、幸松を江戸の外へ避難させた方が良いと、考えるに至った。
しかし、誰に預けるべきか。見性院が選んだ人物は、信濃高遠二万五千石の藩主、保科正光であった。正光は徳川の世となりし今も、嘗(かつ)ての旧恩を忘れず、毎年見性院の許(もと)へ挨拶(あいさつ)に訪れる。加えて実子も無く、他家より養子を迎えているが、これは如何(どう)にか成るであろう。見性院は土井利勝を通じ、幸松を保科正光の養子とする事を勧めた。他藩の所領へ移ってしまえば、幾(いく)ら御台所といえども、手が出せなくなる。利勝が正光を召し出し、事情を説明すると、正光は謹(つつし)んで承(うけたまわ)った。斯(か)くして幸松と母於静は、城下の高遠藩邸へ移され、程無く信州へ去って行った。時の将軍秀忠は、保科家の所領を三万石へ加増してやった。これが、秀忠が幸(さち)薄き我が子にしてやれる、精一杯の事であった。
寛永八年(1631)、保科正光の死去に伴い、幸松こと保科正之は、信濃高遠藩主と成った。正之の兄徳川忠長は、母から弟の話を聞いて居り、駿河藩主時代に、自分より不幸な者がいると、親しく対面した事も有った。因(よ)って中には、保科正之が将軍家光の弟である事を知る者も、少なからず居た。
正之は、謙虚で控(ひか)え目な性格であった。これは、生い立った環境のせいかも知れない。老中達が席の移動を勧めても、正之はその場を動かない。
「肥後守殿、前へ移られよ。」
「不肖正之、有難くも三万石の大名として、この場に座すを無上の喜びと存じまする。家督を相続して日も浅い故(ゆえ)、上様の近くへ進めば、無作法が露呈致しましょう。」
諸大名は肥後改易を受けて、将軍の機嫌を損(そこ)ねるのを恐れていた。特に外様の前田利常、島津家久らは、席を立って正之の後ろへ移った。他の大名もこれに倣(なら)い、広間は徳川一門を除(のぞ)いてがらんと空(あ)き、諸侯は廊下へ食(は)み出た。流石(さすが)にこれ以上の遠慮は申し訳(わけ)無いと思った正之は、水戸頼房の隣へ移り、諸大名も広間へ戻って来た。
家光は、忠長とは正反対の正之を、快く感じた。一方で政長は、譜代小大名同士の縁組の筈(はず)が、偉(えら)い男を婿(むこ)にした物だと、呆然(ぼうぜん)としていた。以後、家光は暫々(しばしば)正之を招き、弟として親しく接した。しかし正之は、一譜代大名の分を越える事無く、神妙さを保った。
六月、将軍家光は興子天皇の即位を祝うべく、上洛に及ぶに当たり、諸大名に号令を掛けた。内藤忠長も将軍の御供に加わり、総勢三十万を超える大軍が整えられた。一方、政長は江戸城留守居役を仰(おお)せ付かり、御黒印を賜った。共に江戸城を預かるは、出羽庄内酒井忠勝、下野宇都宮奥平忠昌、出羽山形鳥居忠政である。十四日、家光は四将に対し、留守中の事は老中酒井忠世と相談する事、謀叛人は合議の上で成敗し、私事を挟(はさ)まぬ事、火事は担当の者に任せるも、大火が有れば陣頭指揮を執る事、などを含めた覚書(おぼえがき)を残して、上洛に及んだ。
七月十八日、家光は参内して姪(めい)の帝(みかど)に践祚(せんそ)を賀し奉(たてまつ)り、上は宮中から下は庶民に至るまで、下され物を用意した。京洛の民は、御上(おかみ)より銀を賜るは稀有(けう)の事と喜んだ。また、後水尾上皇の機嫌を取るべく、二代将軍が紫衣(しえ)勅許(ちょっきょ)事件で処罰した沢庵(たくあん)和尚らを赦免した。上洛を成功させた家光は、江戸到着後、江戸の民にも銀を振舞った。
江戸帰府後、家光は日光東照社の大改築を命じた。三代将軍が天下に威信をかけて行う大普請(ふしん)故(ゆえ)、費用は全て将軍家が負担する事となった。これらの莫大な財源は、駿河藩改易の後に江戸へ移された、久能山の埋蔵金であったと考えられる。
さて、政長の八女菊姫は良き夫を得たが、七女称比姫には非運が待っていた。蒲生家は老臣の対立が根強く、藩政が乱れるのを見兼ねて、遂(つい)に幕府が介入し、老臣多数を追放した。この時、政長長女の夫蒲生郷喜には、嘗(かつ)て関ヶ原の折に石田三成に仕(つか)え、奮戦した事の有る、蒲生郷舎(さといえ)という弟がいた。この郷舎も内紛に係ったとして追放され、昨年漸(ようや)く、蒲生家は藩主忠知の下に纏(まと)まるかと思われた。
しかし八月十八日、忠知は病(やまい)を得て亡くなった。称比姫が輿(こし)入れしてから、僅(わず)かに七年であった。忠知に、男子はいない。先代忠郷逝去の折には、東照大権現の外孫である事が考慮され、弟忠知に減封の上で御家の存続が許された。武家諸法度に照らし合わせ、加えて久しく御家騒動に因(よ)り、幕閣を悩ませ続けた事を考えれば、断絶も已(や)むなき所であろう。だがこの時、称比姫は懐妊していた。政長は娘の為に、忠知の男子が生まれた暁(あかつき)には、蒲生家の存続が認められる事を、幕府重臣達へ嘆願して回った。
苦労が重なり、老齢も相俟(あいま)って、政長はとうとう倒れてしまった。忠長は本家七万石を安藤志摩、直属の菊多二万石を安藤清右衛門に任せ、藩主の名代を務めるべく、虎ノ門邸に詰める事となった。
病床の父に、忠長は語り掛ける。
「少しは御歳を御考え下され。御体を壊されては、一大事にござりまするぞ。」
政長は、不安を湛(たた)えつつ答える。
「称比の子が、将来如何(いか)程(ほど)の大名と成れるか、今が正念場ぞ。この大事な時に、病(やまい)を得るとは…何とも口惜しい。」
「今は、緩(ゆる)りと御休み下さりませ。某(それがし)が、時を稼いで置き申す。」
「御事(おこと)は口下手(べた)じゃ。武家諸法度を立てつつ、蒲生家を存続させる落し所を、見極めねば成らぬ。」
「某(それがし)も、姉上や妹の幸せを願って居り申す。」
「親心とは、比べ物にならぬ。」
程無く、政長が寝息を立て始めたので、忠長は静かに退室して行った。
その後、政長の容態(ようだい)は悪化する一方であった。幕閣では、政長の嘆願が止(や)んだと思っていた所、十月に入り、重病に罹(かか)っている事が伝えられた。そして政長の様々な噂(うわさ)は、やがて将軍家光の耳にも達した。徳川三代に仕(つか)えし功臣なれば、家光は直(ただ)ちに、三浦志摩守正次と朽木民部少輔稙綱を、虎ノ門邸へ見舞に遣(つか)わした。
正次と稙綱の来訪を聞き、政長は失礼の無き様(よう)、家臣に案内させた。家老の加藤又左衛門政次に案内され、二人は政長の寝所へ通された。忠長も幕府使者の到着を聞き、同席する事にした。
将軍御使者の来訪故(ゆえ)、寝ている訳にも行かず、政長は無理に起き上がろうとした。それを見た正次、稙綱の両名は、慌(あわ)てて駆け寄る。
「暫(しばら)く。御見舞故(ゆえ)、楽になされませ。」
「痛み入り申す。」
嗄(しわが)れた声で答えた政長は、横になって、大きく息をした。稙綱は側に座り、声を掛ける。
「上様は、左馬介殿の御容態を、甚(いた)く心配なされて在(おわ)しまする。」
「勿体(もったい)無い。」
続いて、稙綱の隣に腰掛けた正次が、政長に尋ねる。
「何ぞ、上様に申し上げたき儀はござらぬか?我等より御伝え致す。」
「其(そ)は、有難き事。今政長の心に懸かりしは、蒲生家の仕置のみ。我が外孫の行く末なれば、呉々(くれぐれ)も宜しく御頼み申し上げたく…」
「確(しか)と、上様に申し上げ申す。」
正次の返答を聞き、政長は少し安心した様子であった。
長話は、弱った政長の身体に障(さわ)る様(よう)である。正次と稙綱は、そろそろ城に戻ると言うので、忠長が見送りに出る事にした。
廊下を歩きながら、正次が確認する。
「大分、御悪い様(よう)で。夏の上様御上洛の砌(みぎり)は、無事江戸城留守居を務められ…」
つと、正次は沈黙した。実は家光の上洛中、江戸城西の丸が焼け落ちる、火災が有った。三十万の大軍を用意した、一大催事の裏で起った事故(ゆえ)、幕府は穏便に事を処理した。留守居の最高責任者酒井忠世は、上野寛永寺に移って謹慎している。同じく留守居の政長及び、酒井忠勝、奥平忠昌、鳥居忠政に御咎(とが)めは無かった物の、西の丸の不始末は、幕府に蒲生家存続を願い出る政長に取って、大きな負い目となっていた事であろう。
「それでは、左馬介殿には呉々(くれぐれ)も御自愛下さる様(よう)。」
三浦正次と朽木稙綱は、忠長と辞儀を交して、江戸城へ引き揚げて行った。
忠長が見送りに出ている間、政長は加藤又左衛門を召し出した。
「志摩を、急ぎ呼び寄せよ。直(じか)に申し渡すべき事が有る。」
「はっ。しかし、国許(もと)の政(まつりごと)は誰に?」
「安藤清右衛門で良かろう。」
「承知致し申した。」
又左衛門は急ぎ書翰(しょかん)を認(したた)め、磐城平城へ早馬を発した。
十日近く経ち、安藤志摩が江戸虎ノ門邸へ到着した。急ぎ政長の寝所へ通された志摩は、主君の窶(やつ)れ果てた姿に驚いたが、それは胸に仕舞い、静かに座礼をとった。
「志摩、只今到着致しましてござりまする。」
「おお、近う。」
「はっ。」
志摩は枕許(まくらもと)近くへ進み、再び座す。
「どうやら、御疲れの御様子。」
政長は、床(とこ)の中で苦笑する。
「直(じき)に、楽になろう。」
政長は周りの者に、人払いを命じた。
典医や重臣の足音が遠ざかった後、政長は志摩に尋ねた。
「どうじゃ、藩内の様子は?」
「はっ。楢葉郡上川内村に、高田崎新田が拓かれ申した。」
「儂(わし)が入部してから、幾(いく)つの新田ができた?」
「確認できた数は、十二ヶ所にござりまする。」
「百姓の中には、隠田(かくしだ)をする者もいようのう。しかし、厳しく監視しすぎても、開墾の意欲を失う怖れが有る。」
「その辺りは、心得て居りまする。」
「うむ。忠長は、その辺りに疎(うと)い。儂(わし)に代って、そちが教えてやってくれ。」
「某(それがし)の力の及ぶ限り、尽力致しまする。」
その後、政長は筆頭家老安藤志摩に、数ヶ条の遺言をした。
長く話し、疲れが出た様子であったが、政長は志摩に、忠長を呼ぶ様に命じた。志摩は承(うけたまわ)り、政長の許(もと)を辞した。
程無く、志摩に伴われて、忠長が姿を現した。
「おお、これへ…」
父に勧められ、忠長は側に腰を下ろした。志摩は後方に控(ひか)える。政長は呻(うめ)く様な声で、忠長に尋ねる。
「蒲生家の儀、如何(いかが)相(あい)成った?」
「上様より御恩情有り。松山は伊予大洲藩加藤泰興殿の預地(あずけち)とされ、郷喜殿の知行地も残され申した。これならば、称比が男子を儲(もう)け、成長の暁(あかつき)には、御家の再興も叶(かな)い申そう。称比が子は東照大権現様の曾孫(ひまご)なれば、御公儀も無下には致しますまい。」
「良うやった。」
「殆(ほとん)どは、父上の御力添(ぞ)えに因(よ)る物にござりまする。」
「後は、男(お)の子が生まれるのを、願うばかりじゃ。」
こればかりは天からの授(さず)かり物で、人の力の及ばぬ所である。ふと、政長は話を変えた。
「忠長、そちは幾(いく)つであったか?」
「四十三にござりまする。」
「そうか。そちが生まれし時、儂(わし)は東照大権現様に従い、肥前国にいた。ここで赤児(あかご)のそちを見れぬは、口惜(お)しかったぞ。あれから、随分と時が流れた物じゃのう。」
「今では、父上には多くの孫が居りまするぞ。」
「酒井氏が娘二人、香具姫は何と男三人に娘一人か。香具姫の事は、もう少し早く認めてやるべきであった…」
「もう、昔の事にござりまする。」
「さて、そちに最後の頼みが有る。」
「最後と仰(おお)せられず、何度でも御申し付け下さりませ。」
「そちには、大分歳の離れた弟が、一人居るのう?」
「はっ。万福は九つにござりまする。」
「当初、儂(わし)は政重と万福に一万石ずつを分与し、内藤三家を立てる積(つも)りであった。しかし政重は先立ち、その子はまだ稚児(ややこ)じゃ。そこで、御事(おこと)の二万石を、万福に譲(ゆず)ってはくれぬか?」
忠長が父政長の遺領を相続すれば、磐城平藩は九万石となる。この石高は、幕府老中や若年寄に匹敵する。そして席次が急に上がれば、幕府の有力者から、要らぬ妬(ねた)みを買う怖れが有る。その辺りを、政長はよく言い含めた。
「承知仕(つかまつ)り申した。」
「上様より任されし奥州四郡を、宜しく頼むぞ。」
「ははっ。」
忠長が辞儀から直り、頭を上げると、何やら父の様子がおかしい。
「急ぎ典医を!」
志摩は急いで立ち上がり、医師を呼びに行った。
その後、政長は昏睡(こんすい)状態に陥(おちい)った。忠長の母三宅氏や、弟万福の母唐橋氏も付き添(そ)い、頻(しき)りに声を掛ける。しかし、政長は応(こた)えなかった。
つと、忠長は表へ、志摩を呼び出した。
「私(わし)が話す前、父上はそちと長話をしていたと聞いたが?」
「御遺言が、ござり申した。」
「何故(なぜ)、私(わし)を呼ばぬ?」
思わず、忠長は声を荒(あら)立てた。
「御人払いを、大殿は命ぜられました。」
「自惚(うぬぼ)れるでない!人払いと言われるも、そち一人が先に遺言を聞くなど、僭越(せんえつ)とは思わなんだか?私(わし)を同席させる位の配慮は、有って然(しか)るべきであろう。」
「畏(おそ)れながら、若殿とは直(じか)に話し難い事もござり申す。」
「御遺言ぞ!斯(か)かる発想、非常識とは思わなんだか?」
忠長からして見れば、今後藩主を相続した折、自らの主張を、志摩しか聞いていない先代の御遺言を楯(たて)に、反対される事が案じられた。
「覚えて置け。」
忠長は志摩を睨(にら)んだ後、父の看病に戻って行った。
十月十七日、遂(つい)に磐城平藩主内藤左馬介政長は、江戸虎ノ門邸に於(おい)て逝去した。享年六十七歳。嘗(かつ)て同邸で亡くなった次男政次は、藩邸に近い西久保町の天徳寺に葬(ほうむ)られたが、藩主の菩提所は磐城平城下の善昌寺である。忠長は父の死を幕府に届け出、帰国の許可を願い出た。これを受け、幕府からは老中松平信綱が、将軍名代として弔問(ちょうもん)に訪れた。
父の遺体を荼毘(だび)に付し、帰国の仕度を進めつつあった二十日、将軍家から再び松平信綱が遣(つか)わされ、香典として白銀二十枚を賜った。
愈々(いよいよ)江戸を出立する日になり、忠長は志摩を召し出した。
「御召(おめし)にござりましょうか?」
目の前で座礼をとる志摩に、忠長は申し渡す。
「そちには今日から、江戸藩邸の家老職を命ずる。」
「何を仰(おお)せられまする?」
余りに意外な話に、志摩は驚きの色を隠し切れない。
「せめて、大殿の御葬儀には、参列致しとう存じまする。」
「其(そ)は、皆同じじゃ。しかし、江戸を藩士悉(ことごと)く引き払う訳にも参るまい?」
「しかし…」
「私(わし)の命には、従えぬか?」
「滅相(めっそう)もない。」
「では、江戸の留守は志摩に任せる。」
忠長は有無を言わせず、志摩を磐城から遠ざけた。悲嘆(ひたん)に暮れる志摩を顧(かえり)みず、忠長は主立つ重臣を伴って、帰国の途についた。
身内の中で同道させたのは、亡き政長の正室三宅氏と側室唐橋氏、そして四男万福に、忠長嫡男頼長である。幕府は諸大名の謀叛を防ぐべく、武家諸法度で大名妻子の江戸滞在を義務付けている。因(よ)って、忠長の妻子は頼長を除(のぞ)き、江戸に残した。
磐城平城に入った忠長は、直(ただ)ちに藩主政長の葬儀を、善昌寺に於(おい)て執り行った。昨年、弟政重を亡くしているので、二年続けての葬儀である。政長の法名は悟真院殿従四位下左典厩少令養誉推安道山大居士。永禄十一年(1568)に三河国亀井戸に生まれる。父は上総国佐貫藩二万石の祖内藤家長、母は嘗(かつ)ての三河矢矧(やはぎ)城主島田弾正が家臣、鍋田彦右衛門の娘である。男女の双子として生まれ来(きた)るも、風習で双子は不吉とされ、母は徳川家康の侍女とされた。また、同じ日に生まれた娘は八十(やそ)姫と名付けられるも、程無く剃髪(ていはつ)し、三河国菅生総持寺の住職と成って、芳薫と号した。政長は一人内藤家に残され、天正十二年(1584)、羽柴秀吉を相手に尾張小幡城攻めの先陣を切り、十七歳で初陣を飾る。磐城平藩内藤家の祖と成り、在世の頃、領内に数多(あまた)の新田を拓(ひら)く。また、松の植樹を奨励し、後年育った松並木は、平野を貫通する街道を大風から守り、人々の通行を容易にした。また海辺の物は、近郷の田畑家屋を潮風から守った。それらの松並木は、政長の法名から、「道山林」と呼ばれる様になる。多くの者は、故人の偉業を惜しみ、落涙(らくるい)した。