第七節 泉藩成立

 父の法要を終えた後、忠長は一族を率(ひき)いて、内記郭(くるわ)に入った。六間門の内には三棟の屋敷が在り、北西の物は忠長家臣、近藤惣兵衛が入っている。忠長はその隣、北東の屋敷に、一先(ひとま)ず弟の万福と、その母唐橋氏を入れた。然(しか)る後(のち)、忠長は通路を挟んで南側、最も広い屋敷に、母三宅氏を案内した。

 三宅氏が入った屋敷の主は、昨年まで三男の政重であった。今は、その妻と幼子のみが残されている。幼子の名は、父政重の幼名と同じ千(せん)千代であった。義妹に当たる政重室に案内されて、忠長と三宅氏は、奥へ通された。

 奥の間では、漸(ようや)く歩行ができる様になった童(わらべ)が、侍女と遊んでいた。忠長は、母に告げる。
「あれが、千(せん)千代にござりまする。」
「おお、政重と瓜(うり)二つではないかえ。」
三宅氏は声を震わせながら、孫に歩み寄る。侍女は脇に控え、千(せん)千代は辺りをきょろきょろ見渡した後、側まで来た祖母に目を止めた。三宅氏はそっと、千(せん)千代を抱き締める。
「妾(わらわ)は、御ばば様じゃ…」
「ばばさま?」
「おお、もう言葉が話せるのか。賢い子じゃ。」
忠長は、母の後ろに歩み寄って告げる。
「千(せん)千代は家老と同じ、二千石の領主にござりまする。政重の家臣をそのまま相続させまする故(ゆえ)、御安心を。」
「宜しく、頼みまする。」
三宅氏の言葉と同時に、政重室も頭を下げた。

 母三宅氏には、江戸に戻るまでの間、政重の旧邸に留まってもらう事になった。続いて忠長は、弟万福の許(もと)へ足を運んだ。

 万福には、岡忠左衛門という、四百石の家臣が付き従っていた。忠左衛門に案内されて屋敷に上がると、万福とその生母唐橋氏が、奥に控えていた。忠長は上座に腰を下ろし、忠左衛門は万福の後方に座して、礼をとった。

 忠長は、万福を見詰める。
「葬儀の時の落着きの良さは、感心であった。母上の教育が良いのであろうな。」
「忝(かたじけの)う存じまする。」
「うむ。して、今後の万福が処遇を申し渡す。」
万福は良く解っていない様(よう)であるが、唐橋氏と忠左衛門は、固唾(かたず)を呑(の)んで忠長の言葉を待つ。
「父上の御遺命である。万福は私(わし)の菊多郡内二万石を相続し、立藩致すべし。」
「有難う存じまする。」
唐橋氏と忠左衛門が深く頭を下げるので、万福もこれに倣(なら)った。
「岡忠左衛門。」
「はっ。」
「そちは菊多へ赴き、城下町を築くに相応(ふさわ)しき所を見定め、陣屋構築の仕度(したく)を致せ。」
「承知仕(つかまつ)り申した。」
「そして唐橋殿。」
「はい。」
「万福と共に、江戸へ戻って貰(もら)いたい。上様に万福立藩の許可を、仰(あお)がねば成らぬ故(ゆえ)。」
「承(うけたまわ)りました。」
「最後に万福。」
「はい。」
「そちには先(ま)ず、兄政重が肥後出陣の折に付き従った、一万石衆を家臣として遣(つか)わす。文武の修業を怠(おこた)らず、立派な藩主と成る様(よう)、精進(しょうじん)致せ。」
「承知仕(つかまつ)りました。」
「委細は、安藤清右衛門に尋ねよ。」
万福、唐橋氏、忠左衛門は、揃(そろ)って承服の意を示した。

 その日、忠長は嫡子頼長と共に、高月屋敷へ戻って来た。
「次に江戸から戻る時は、もうここに泊る事も有るまい。思えばここが、私(わし)が初めて賜った城であった。」
ふと忠長は、随行の大島半兵衛に命ずる。
「杉平の志摩が屋敷は、如何(いかが)(あい)成った?江戸家老を命じた故(ゆえ)、妻子を国許(もと)に残しては、不都合であろう。」
「では、様子を見て参りまする。未(いま)だに残り居られる様(よう)であれば、殿の江戸御参勤に合わせ、随行させまするか?」
「そうしてくれ。」
「承知。」
半兵衛は踵(きびす)を返し、杉平方面へ戻って行った。

 高月屋敷に入った忠長は、直(す)ぐ様(さま)横になった。
「家督を相続致すは、家を興(おこ)すよりも、或(あ)る意味しんどいのう。」
近くに腰を下ろした頼長は、不思議な顔で父に尋ねる。
「然様(さよう)にござりまするか?」
忠長は頼長に目をやる。
「そちは、幾(いく)つになった?」
「十六にござりまする。」
「では、磐城平藩嗣子(しし)の儀も、御公儀へ届け出ねば成るまい。私(わし)に万一の事有らば、藩政を宜しく頼むぞ。加えて、この度(たび)立藩致す万福は、年下といえども、そちの叔父である。敬意を払いつつも、確(しか)と後見あるべし。」
「其(そ)は、少々厄介(やっかい)なる仰(おお)せ。」
親子は、顔を見合せて笑った。

 忠長は体を起し、真顔となって頼長に申し渡す。
「以後、言動には注意を払う様(よう)。肥後熊本藩加藤忠広は、嫡子光正の悪戯(いたずら)に因(よ)り、所領を召し上げられた。」
「承知致しましてござりまする。」
「そちには藩嗣子として、守役を付けねば成るまい。」
「大島半兵衛は、如何(いかが)(あい)成りまする?」
「今後、二万石衆の主立つ者は、重臣の列に加える。半兵衛には別の大役が有る故(ゆえ)…そうじゃ、松賀大学に任せると致そう。」
「松賀とは?」
「歴(れっき)とした三河武士の子じゃ。一門には、上方出身の者も居るそうじゃが。組頭の上田内膳が重用して居る。実務に長(た)けし者なれば、能(よ)くそちを指南致すであろう。」
そこへ、半兵衛が足音を響かせて戻って来た。
「殿!」
「騒々(そうぞう)しい。静かに致せ。」
「これは、御無礼を…」
半兵衛は膝(ひざ)を突いて、申し上げる。
「安藤志摩殿の御屋敷、御不在にござりまする。」
「手際(てぎわ)の良い事じゃ。さっさと妻子を江戸へ呼び寄せたか。」
「それが、尋常ならず。」
「何?」
「家財悉(ことごと)く運び出され、御屋敷は蛻(もぬけ)の殻(から)にござりまする。」
安藤志摩は江戸詰めを仰(おお)せ付かったとはいえ、藩内に二千石の知行地を与えられている。因(よ)って、家臣にその領地を治めさせるべく、屋敷は必要な筈(はず)である。
「よもや…」
不安顔の半兵衛を、忠長が制する。
「臍(へそ)を曲げただけであろう。江戸へ戻ったら、こっぴどく叱(しか)り付けてくれるわ。」
志摩が、先代政長の死後間も無く、江戸家老へ配置換えが成された事は、半兵衛も存じている。
「志摩の件は、口に致すな。そちは下がって休め。」
「ははっ。」
半兵衛は座礼をとり、高月屋敷を辞して行った。

 江戸に戻る前、忠長は本丸三階櫓(やぐら)に入り、重臣を召集して、藩政の様子を報告させた。領内に於(おい)て、特にこれと言った問題は無く、一方で、磐城郡上小川村の又右衛門が、三反一畝二十六歩を開墾した事などが伝えられた。この新田は後(のち)に拡大して、福岡村として独立する。

 国家老は安藤清右衛門と定め、他の家臣は今まで通り、知行地を治める様(よう)に申し渡した。また、近々弟万福を立藩させる話も添え、忠長直属であった二万石衆には、知行地の転換が有る事も含めて置いた。

 忠長の話が終ると、清右衛門が進み出て言上する。
「次回御帰国の折には、藩公として三階櫓へ入られまする様(よう)、御待ち申し上げて居りまする。」
忠長は頷(うなず)くと、家臣に江戸参勤を下知した。

 六間門では、母三宅氏の他、弟万福とその母唐橋氏が、既(すで)に出立の用意を終えていた。三宅氏は、暫(しばら)く孫千(せん)千代と共に暮らせて、幸せな時を過ごせた物の、名残(なごり)が尽きぬ様子である。忠長と頼長の行列が到着すると、親族三人はそれぞれの輿(こし)に乗り、行列の中に加わった。父の葬儀、藩の仕置を無事に終えた忠長は、愈々(いよいよ)家督相続の認可を幕府より頂くべく、江戸を目指して、進発の号令を発した。

 数日を経て江戸虎ノ門邸に到着すると、忠長は直(ただ)ちに、家老達を召集した。程無く、上田外記、上田甚右衛門、加藤又左衛門が参上した。
「志摩が最後か。」
忠長が舌打ちすると、最も年長の外記が進み出て、言上する。
「畏(おそ)れながら安藤志摩殿、六本木の下屋敷へ赴くと申されし後(のち)、行方が知れませぬ。」
「何?」
「目下、行方を探して居りまする。」
「志摩の妻子は、如何(いかが)致した?」
「はて、国許(もと)に在(おわ)されませぬか?」
「何と、ここには来て居らぬと申すか?」
「はっ…」
「これは…出奔(しゅっぽん)致したな。直(す)ぐに、志摩の部屋を捜索致せ。」
「ははっ。」
家老達は承(うけたまわ)り、志摩の居間へ入って、机や箪笥(たんす)の中の書類を、念入りに調べた。やがて、外記が一通の書状を持って、忠長の許(もと)へ現れた。
「無念にござりまする…」
外記から受け取った書状には、出奔届と書かれてあった。

 忠長は、書状を打ち広げて、目を通す。冒頭、出奔という不忠を働いた詫(わ)びが記(しる)されてあった。その後、元正朝の「三世一身の法」、聖武朝の「墾田永年私財法」等を按(あん)ずるに、開墾地より直(す)ぐ様(さま)年貢を求めては、領民の新田開拓意欲が削(そ)がれる事。また、戦国時代初期の英雄北条早雲が税率を四公六民と低く定め、また不幸にも病(やまい)を得て税を納められぬ者に、食料や薬を供出してやる事で、民は安心して、生業(なりわい)に勤(いそ)しむ事ができた。因(よ)って人口が増え、関東一の勢力に伸(の)し上ったという事例にも、触れていた。故(ゆえ)に忠長には法を整備し、必要となる職を設置して、先代政長の時に拓(ひら)いた新田が、更(さら)に増える事を願い上げた。最後に、天正七年(1579)九月十五日に、最初の主君徳川信康を失い、その後内藤家二代に渡って仕(つか)える事が叶(かな)うも、久しく仕えた内藤家に、骨を埋(う)められぬは無念至極と、書き綴(つづ)られてあった。

 読み終えた後、忠長は天を仰(あお)いだ。
「父上が重用せし有能な家臣を、私(わし)は用いる事すらできなんだ。何と器(うつわ)の小さき事よ。」
外記が、忠長に申し出る。
「主君を見限るは、大罪にござりまする。直(ただ)ちに追手を差し向け申そう。」
「無用じゃ。」
「はっ?」
「志摩が家族を伴い逐電(ちくでん)してから、大分(だいぶ)日数が経っておる。追跡は容易ではあるまい。また、私(わし)には家督相続と、弟万福を立藩させる仕事が有る。人を割く余裕が無い上、相続直前に筆頭家老に逃げられたとあっては、物笑いの種じゃ。志摩は、隠居を命じた後、故国三河へ帰った事にして置く様(よう)。」
「承知致し申した。」
後年安藤志摩は、備後福山十万石藩主、水野日向守勝成に仕(つか)えたという。水野家は、東照大権現の生母、於大(おだい)の方の実家である。福山藩は、西に浅野家と毛利家、東に池田家という外様大大名に挟(はさ)まれ、武家諸法度の例外として、築城が認められていた。西国大名に逆心起らば、福山は山陽道を堅守しなければ成らない。勝成は、有能な士を求めていた。

 十一月、内藤忠長に磐城平藩七万石の相続が認められた。また、弟万福にも、二万石の立藩が許可されたが、幼君故(ゆえ)に、先(ま)ずは忠長が後見する事。加えて、早急に陣屋の所在地を定め、藩の名称を決める事が求められた。

 二十二日、忠長は家督相続許可に対し、御礼の品を将軍に献上するべく、登城に及んだ。この時、将軍家光への目通りが許された。謁見の間で忠長が控えていると、程無く御成(おなり)が告げられる。忠長や幕臣が平伏する中、家光は上段に腰を据(す)える。
「帯刀、面(おもて)を上げよ。」
「はっ。」
家光は、穏やかな目をしている。
「少し昔の事だが、余が将軍に成ったばかりの頃、大御所の指図(さしず)に従うだけで、鬱屈(うっくつ)していた時も有った。しかしいざ大御所を失って見ると、天下の重責は悉(ことごと)くこの家光に伸(の)し掛かって参る。そして父の偉大さと、父を失った哀(かな)しさに、打ち拉(ひし)がれる時が参る。この度(たび)は左馬介の逝去、将軍としても悔(く)やまれる。また同時に、そちの悲しみも解(わか)る積(つも)りじゃ。」
「勿体(もったい)無き御言葉。」
「しかし、じゃ。そちは今後、磐城内藤家の当主として、誰に気兼ねする必要も無く、存分に藩政の指揮を執る事ができる。奥州海道の抑えを、宜しく頼むぞ。」
「確(しか)と、肝に銘(めい)じましてござりまする。」
そして家光は忠長を見詰めながら黙考し、やがて口を開いた。
「そちの名には、不吉な物が有る。」
「はっ?」
「余の弟忠長は、乱行の末、自害に及んだ。そちを気さくに名で呼ぼうにも、どうにも気が咎(とが)める。」
「はあ…」
「家督を相続したこの機に、名を改めては如何(どう)か?」
側に控えていた、松平信綱が言上する。
「畏(おそ)れながら、帯刀殿は台徳院殿様の偏諱(へんき)を頂戴(ちょうだい)致して居りまする。今と成って、上様の偏諱を与えるは、如何(いかが)な物かと。」
「うむ。しかし…」
家光は再び考え込んだ。
「では、忠興は如何(どう)か?忠義の忠に、再興の興じゃ。これならば、台徳院殿の偏諱を残せるであろう。」
今度は、忠長が申し上げる。
「畏(おそ)れながら、その名は既(すで)に、肥後八代細川家の、御隠居が用いて居りまするが。」
それには、信綱が答えた。
「細川忠興殿の偏諱は、旧主織田信忠殿より頂戴せし物なれば、別儀と存じ申す。加えて出家されし今は、三斎宗立と号して居られる由(よし)。御懸念には及びますまい。」
三斎宗立こと細川忠興は、嘗(かつ)て千利休に学び、茶道三斎流の祖と成った。
「されば、有難く頂戴致しまする。」
家光は、満足顔で頷(うなず)く。
「内藤忠興、そちは父の跡を継ぐのを待たず、武功を挙げて家を興した。東照大権現に仕えたが如く、これからも家光を輔(たす)けてくれ。」
「ははっ。承知仕(つかまつ)りましてござりまする。」
磐城平藩二代目藩主と成った忠長は、この日を以(もっ)て内藤帯刀忠興と称した。

 虎ノ門上屋敷に戻った忠興は、藩主として初めて、重臣一同を広間に召集した。冒頭、上田外記より御祝いの言葉が有った。
「この度は恙(つつが)無く御相続の儀、祝着(しゅうちゃく)至極(しごく)に存じ奉(たてまつ)りまする。」
「うむ。この後(のち)は先代政長公と同じ様(よう)、この忠興に力を貸してくれ。」
「元より承知。」
外記の言葉を受け、重臣一同は悉(ことごと)く忠興に平伏した。

 この場で、忠興は急ぎの案件を取り決めた。
「目下、国家老は安藤清右衛門一人が務めて居る。安藤志摩が抜けた今、上田外記を国家老に任じ、清右衛門と相(あい)(はか)りて、藩政を滞(とどこお)り無く致す様(よう)。」
「確(しか)と、承(うけたまわ)り申した。」
「上田甚右衛門と加藤又左衛門には、引き続き江戸家老を申し付ける。家老に進みて日の浅い又左衛門は、甚右衛門から学ぶ様(よう)に。」
両家老は、揃(そろ)って承った。

 続いて忠興は、万福立藩について話した。
「山田三郎四郎、岡本治左衛門、渡部庄兵衛、前へ。」
共に三百石取りの、万福の重臣である。
「三名は家老岡忠左衛門を助け、速(すみ)やかに立藩致す様(よう)。猶(なお)、所領の目録を授(さず)ける故(ゆえ)、当家六本木下屋敷内を仮の藩邸とし、知行地を定めよ。」
三名は挙(こぞ)って承服し、又左衛門から目録を押し戴(いただ)いた。

 四弟万福に与えられし所領は、全て陸奥国菊多郡内に在り、村名は下記の通り。本谷、滝尻、甘露寺、玉崎、泉、下川、泉田、昼野、渡部、洞、松小屋、黒須野、小浜、岩間。加えて、御斎所(ごさいしょしょ)街道に繋(つな)がる中釜戸村周辺や、菊多浦北部植田村の辺りは、追って調整する事とした。

 数日後、虎ノ門上屋敷に於(おい)て、藩主忠興が烏帽子(えぼし)親を務め、弟万福元服の儀を執り行った。万福には父政長の一字を与え、内藤政晴と名乗らせた。

 その後、菊多郡の岡忠左衛門より、城下町を拓(ひら)くに最も相応(ふさわ)しき所は、泉村との報(しら)せが有った。これを磐城平藩が了承し、その上で幕府に、陸奥国泉藩二万石を立てる申請を行った。後日、幕府より内藤政晴に従五位下兵部少輔叙任が許され、政晴は正式に泉二万石の藩主と成った。父の側室であった唐橋氏は、六本木の泉藩仮の藩邸に在って、藩祖政晴生母として、充分な御化粧料を得て暮らす事ができた。

 程無く年が明けて寛永十二年(1635)、忠興は藩主として初めて、磐城へ赴いた。奥州海道の入口近くに在る関田村が、最初に踏んだ所領である。この周辺は殆(ほとん)どが、窪田藩領である。藩祖土方雄重は寛永五年(1628)に逝去し、今では忠興甥(おい)の土方河内守雄次が、二代藩主として治めている。雄次は寺社再建の他にも、用水路の整備を進め、新田開発を精力的に行っている。これに因(よ)り酒井村の石高は、一千石に達した。他に窪田、大高両村も、一千石を超えている。窪田藩は西に山在り、東に海在り、農地は拓(ひら)かれ、豊穣(ほうじょう)の地であった。

 鮫川を渡って植田村に入ると、この辺りは磐城平藩領である。そして浜街道を逸(そ)れて、東田村から坂を上り、黒須野村へ下って来ると、そこはもう泉藩領である。釜戸川を渡った先、道の左手に広がる泉村の平地に、新たな城下町が築かれる予定である。
「早く、泉藩の町を見たいのう。」
「御尤(もっと)も。」
忠興の言葉に頷(うなず)いたのは、組頭宿屋求馬である。宿屋家は政長の妹を娶(めと)り、内藤家の親類であった。

 やがて磐城平城追手門に到着した忠興は、安藤清右衛門、上田外記両家老の出迎えを受けた。
「無事の御帰国、恭悦(きょうえつ)の極みと存じ奉(たてまつ)りまする。」
「両名共、御苦労である。」
「先(ま)ずは、本丸に御入りの上、御休息を。」
「そう致す。」
追手門の内側、大手郭(くるわ)で護衛の兵は役を解(と)かれ、武頭の指示で各々(おのおの)の屋敷へ帰って行った。忠興はそのまま本丸三階櫓(やぐら)に入り、久し振りの城下を見下ろした。

 翌日、忠興は三階櫓に在国の重臣を集め、新体制の下(もと)、治政の方針を評議した。
「私(わし)の代となっても、政(まつりごと)の根本は変わらぬ。 新田を増やし、領民を増やし、延(ひ)いては藩を豊かにする事である。一方で、奥羽諸大名に逆心起りし砌(みぎり)は、この磐城平城を死守し、関東を守護致さねば成らぬ。」
そして忠興は、町奉行沢村勘兵衛に命じて、藩領の地図を持って来させた。先ずは、七万石領内の村々を把握して置かねば成らない。

磐城平藩領七万石の村は、凡(およ)そ下記の通りである。
  菊多郡十七ヶ村(泉藩と調整中)
関田、植田、左糠、塩田、東坂、石塚、添野、後田、高倉、仁井田、下山田、上山田、大津、小津、林崎、小山田、井上
  岩崎郡湯本地方二十七ヶ村(一部泉藩)
中釜戸、上釜戸、下藤原、中藤原、上藤原、南白鳥、北白鳥、熊野堂、下湯長谷、上湯長谷、下船尾、上船尾、水野谷、関、湯本 、綴、白水、内町、宮、高野、高坂、御厩、小島、御台境、下好間、中好間、上好間
  岩崎郡小名地方十一ヶ村
西町、中町、中島、米野、下神白、上神白、岡小名、大原、相子島、住吉、野田
  岩崎郡矢田地方二十二ヶ村
上蔵持、下蔵持、御代、船尾、久保、岩出、林城、金成、飯田、走熊、米田、三沢、下矢田、上矢田、松久須根、上山口、下山口、小泉、吉野谷、上荒川、下荒川、谷川瀬
  岩崎郡豊間地方十八ヶ村
永崎、中之作、江名、豊間、薄磯、沼ノ内、神谷作、下高久、上高久、中山、藤間、下大越、上大越、荒田目、山崎、菅波、北白土、南白土
  岩崎郡合戸地方二十三ヶ村
川中子、今新田、小谷作、愛谷、赤井、北好間、榊小屋、大利、合戸、渡戸、中寺、下市萱、上 市萱、下永井、上永井、差塩、上三坂、中三坂、下三坂、西小川、三島、高萩、塩田
  岩崎郡城下五ヶ村
長橋、十五町目、久保町、北目、町分
  磐城郡小川地方十三ヶ村
鯨岡、大室、幕ノ内、四ッ波、中塩、下平窪、中平窪、西平窪、上平窪、下小川、上平、柴原、上小川
  磐城郡神(かべ)(や)地方十八ヶ村
鎌田、塩、上神谷、中神谷、上片寄、下片寄、下神谷、泉崎、原高野、細谷、馬目、大森、絹谷、名木、北神谷、水品、狐塚、塩木
  磐城郡四倉地方十四ヶ村
仁井田、四倉、戸田、長友、中島、白岩、玉山、山田小湊、薬王寺、下柳生、上柳生、駒込、八茎、山小屋
  楢葉郡久(ひさ)地方十ヶ村
田之網、小山田、久之浜、小久、大久、金ヶ沢、末続、折木、浅見川、北迫
  楢葉郡富岡地方十九ヶ村
木戸山田、前原、下小塙、上小塙、大谷、北田、井出、下繁岡、上繁岡、波倉、毛萱、下郡山、上郡山、仏浜、本町、小浜、小良ヶ浜、手岡、大菅
  楢葉郡川内地方五ヶ村
川前、下桶売、上桶売、小白井、上川内、下川内

 総計すると、四郡併(あわ)せて百八十九ヶ村を有している。菊多時代とは、桁(けた)違いの多さであった。忠興は地図を睨(にら)みながら、家臣に聞こえる様に呟(つぶや)く。
「これは、父上入部の時よりも、増えていようのう。」
安藤清右衛門が答える。
「確かに、鳥居侯より請取りし頃よりも、各村は田畑を広げて居り申す。中には、新たな村として分立せし物も有り。」
「この地図は、書き加えられし所が多く、読み辛(づら)い。代官は、新しく纏(まと)められし帳面を持って、年貢を納めさせて居るのであろう?」
「さて…目下藩内は開墾が盛んなれば、石高の変動も日進月歩にござりまする。」
「これは、総検地の必要が有る。」
家臣達が、騒(ざわ)めいた。清右衛門が、皆を代表する様に言上する。
「検地は、百姓の開拓意気を削(そ)ぐ怖れ、これ有り。」
忠興は笑みを湛(たた)える。
「直(ただ)ちに、とは申して居らぬ。粗方(あらかた)開墾された村を見定めし度(たび)に、少しずつ行う様(よう)。藩主が正しき領内の石高を把握せず、困窮(こんきゅう)する事態に陥(おちい)った時、税を一律に引き上げては、隠田(かくしだ)した者だけが得をするではないか。それでは良き政(まつりごと)とは言えぬ。」
「確かに殿の御言葉、御尤(もっと)も至極と存じまする。上田殿は如何(いか)に?」
清右衛門は外記にも確認する。
「異存はござらねど、開墾を終えたか、見極めの基準が必要と存じまする。」
忠興は少し考えた後、答えた。
「前年との、収穫量との比率と致そう。具体的な数は、両家老に任せる。加えて申し渡すが、隠田(かくしだ)の罪科として徴収する量は、当分の間、国家老の裁量に任せる。百姓の対応を見て行く内に、適度な目安を見定められよう。」
重臣達は、挙(こぞ)って新主忠興の命に従った。

 漸(ようや)く藩の全権を掌握し、領内の治政に力を注(そそ)ごうと意気込んだ忠興であったが、不運にもこの年、外様大名にのみ課せられていた参勤交代が、譜代大名にも義務付けられた。三代将軍家光は、全国の大名を従えるのに、不公平が有っては示しがつかぬと考えていた。因(よ)って武家諸法度に、全ての大名は二年間の内、少なくとも一年以上の江戸滞在義務を書き加えた。これで、全国大名の半数以上が、常に江戸にいる事となる。更(さら)には、遠国の外様大名に取って、頻繁(ひんぱん)なる帰国を行えば、大きな出費を要する事になる。大名は藩財政の為に、国家老に領内の管理を任せる様(よう)にもなる。因(よ)って、大名は藩政から遠ざかり、謀叛を起す力を削(そ)ぎ取る狙(ねら)いが、幕府には有った。

 忠興から見れば、長い年月をかけて領内を巡検し、検地を推し進めたい所であったが、それは武家諸法度の改定に因(よ)り、不可能となった。

 加えて、内藤家に今一つ、不幸な報(しら)せが有った。忠興の妹で、夫蒲生忠知に先立たれた称比姫が、女子を出産した。忠知が東照大権現の外孫故(ゆえ)、残されていた御家再興の望みが、これで完全に絶(た)たれた。伊予松山城には、伊勢桑名藩主久松松平定行が、十五万石で入る事となった。

 それでも、一部の蒲生旧臣は、称比姫の娘に、将来婿(むこ)養子を迎える可能性に縋(すが)った。しかし、忠知の姫は三歳で身罷(みまか)った。最早(もはや)蒲生家の再興は不可能だと悟った称比姫は、髪を下ろした。そして正寿院と号し、麻布百姓町の屋敷に入って、夫と娘の御霊(みたま)を弔(とむら)った。

 父の遺言を果せず、親族の蒲生家は取り潰(つぶ)され、一方で法は忠興の行動を縛(しば)り付ける。めでたく磐城平藩主と成った忠興だが、幸先(さいさき)が悪く、その治世が案じられた。

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