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第八節 富岡岩城氏
内藤政長が、江戸虎ノ門磐城平藩邸に於(おい)て逝去する二月(ふたつき)半前の、寛永十一年(1634)八月四日、奥州海道北部、相馬中村藩領行方(なめかた)郡鳩原に於(おい)て、御家再興に尽力し続けて来た、一人の女性が亡くなった。戦国時代、岩城家の重臣白土隆朝の娘として生まれ、富岡岩城氏に嫁(とつ)ぎ、時代の波に翻弄され続けた、地方豪族の話である。
大永四年(1524)は後柏原朝の御宇で、室町将軍は十二代足利義晴である。時の岩城地方を治めていたのは、飯野平城主岩城左京亮(さきょうのすけ)常隆であった。その長男民部大輔由隆は跡継ぎで、次男舟尾隆相は菊多郡領主、三男隆道は菊多郡植田城主、四男隆時は楢葉郡富岡城主である。更(さら)に姫が二人居り、一人は隣国三春城主田村氏に嫁ぎ、もう一人は家臣中山隆道に嫁いでいた。
岩城常隆は、嫡孫左京大夫重隆の長女を、北隣の相馬家を仲介して、奥州探題伊達晴宗に嫁がせる事を約束した。しかし家臣白土次郎は、遠く離れた伊達氏よりも、近隣の白川結城氏と盟約を結ぶべきと考え、伊達家との縁組を一方的に破談とした。
これで面目を失ったのは、仲介した相馬讃岐守顕胤(あきたね)である。まだ十七歳の若さであったが、兵三百を集めて富岡城へ攻め寄せ、守将富岡玄蕃(げんば)は討死した。
富岡城で暫(しば)し休息した相馬勢は、再び南下を開始し、遂(つい)には岩城領の奥深く侵入して、白土城を攻撃した。常隆は薬王寺、恵日寺を仲介して和睦を申し出た所、顕胤は重隆長女を前(さき)の約束の通り、伊達家へ嫁がせる様(よう)通達した。常隆はこれを受け入れ、姫を乗せた輿(こし)を、四倉太夫坂の蕨(わらび)平へ送り、それを顕胤が請け取って、和議が成立した。
相馬勢は岩城郡から撤収するも、楢葉郡内富岡、木戸の両城は、占拠されたままであった。顕胤は弟三郎に、楢葉郡を任せた。三郎の母は、会津黒川城主蘆名盛舜(もりきよ)の娘で、先代相馬盛胤の正室である。しかし三郎は幼少故(ゆえ)に、鈴木八郎を与力として付けられた。岩城重隆の長女は、顕胤が伊達家へ引き渡し、これで相馬家の面目が立った。
享禄三年(1530)九月二十六日、岩城常隆は八十歳で逝去した。法名は可山繁公大居士。臨終の時、四男隆時に遺言が有った。大永合戦の折、楢葉郡を失いしは無念である。これを相馬家から取り返す事が叶(かな)えば、本望(ほんもう)であると。
後日、相馬三郎は病(やまい)を得て、相馬堀内館へ退去して行った。その後、室原伊勢が城代を任された。
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分家の時、岩城隆時には仁井田、塩木、太夫坂、木戸、富岡の五城が与えられたが、前(さき)の戦(いくさ)で二城を失った。また父の遺言も有れば、隆時は家臣を集めて、楢葉郡奪還の計略を練(ね)っていた。隆時に従う家臣は、四倉源正昌、坂本安守、坂本守光、酒井則胤、佐藤信成、大井晴成、佐藤守永、坂本晴光である。そこへ岩城本家より、佐藤教忠が援軍として遣(つか)わされた。隆時は総勢百騎を率(ひき)いて四倉を発し、広野に至って休息を取った。そして辺りが夕闇(やみ)に包まれた頃、再び進軍を開始したのである。
この日、一人の盲人が、富岡城内を徘徊(はいかい)していた。守備兵は追い払うのも面倒で、それより警備を怠(おこた)るまいと、放置した。この男は、日が没し、頃合いを見て布を城壁から垂(た)らした。下には、岩城兵が到着していた。坂本安守の手勢で、布に掴(つか)まり、城内に侵入して門を開けると共に、合図の法螺(ほら)を鳴らした。城門の外では、佐藤教忠の兵が待機して居り、一気に夜討ちを懸(か)けた。
井出の山で合図を聞いた隆時本隊は、城の裏手に回った。先鋒は教忠の子、教種である。城を囲(かこ)まれ、城兵は混乱し、城将室原伊勢は討ち取られた。伊勢の嫡子左衛尉は生け捕りにされたが、隆時はこれを解(と)き放(はな)ち、熊川館へ落ちて行った。
勢いを得た隆時勢 は、一気に楢葉郡を抜き、標葉(しめは)郡熊川館を攻め立てた。しかし守りは固く、先陣の佐藤教種は討死した。享年十八であったという。
隆時は引き揚げを命じ、楢葉郡は再び隆時の所領に復した。本家飯野平城主岩城重隆に、楢葉郡内富岡、木戸両城の奪還を報告した隆時は、重隆より恩賞として、祖先下総守親隆が岩崎隆綱を滅(ほろ)ぼした折に、四代将軍足利義持から賜った、引両筋の紋幕を与えられた。加えて楢葉郡二万石を改めて与える旨(むね)、申し渡した。ここに岩城大和守隆時は、一郡を有する大名と成った。そして、軍功有りし佐藤教種の遺児を召し抱(かか)え、その子は後年、佐藤教家と称した。
楢葉の大名と成った隆時は、領内に氏神愛宕大権現を祀(まつ)り、浄性寺を祈願寺とし、龍台寺を菩提所と定めた。祭祀(さいし)は、家臣の佐藤、酒井、坂本、志賀、林、松本、上神谷、猪狩が執り行った。
元亀元年(1570)三月二十日、富岡岩城氏の祖隆時は、六十歳で病没した。葬儀は富岡城下の龍台寺にて執り行われた。法名は龍台寺殿貴山田公大居士。遺領を受け継いだのは、嫡子大和守隆宗であった。
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それから三十年後、関ヶ原の合戦で徳川方に味方しなかった岩城貞隆は、所領を悉(ことごと)く召し上げられた。分家の岩城隆宗もこれに同じく、慶長七年(1602)五月八日を以(もっ)て、富岡岩城氏は所領を失う事となった。
浪人となった隆宗は、御家再興を志し、天下人徳川家康の居城、京の伏見へ上った。折良く、家康が乗馬見物を望み、馬術に自信が有る者を募(つの)っていた。隆宗はこれに応募し、家康の御前で馬術の腕を見せた。
この時、家康は隆宗の馬術を随一とし、御馬代が下される事となったが、隆宗はこれを辞退した。家康は隆宗に興味を抱(いだ)き、直(じか)に目通りの上、小袖が下賜される運びとなり、隆宗は家康と対面する機会を得た。
先(ま)ず奏者成瀬正成が、隆宗の素姓(すじょう)を確認した。隆宗は委細を申し上げ、加えて神妙に、天下人の御前で、腕前を見せる機会を与えてくれた事への、感謝の気持を述べたのである。因(よ)って家康の覚えめでたく、所領が下される事となった。追って正成から通達が有り、岩城貞隆の旧領の内、高野郡内三千石が与えられた。
慶長九年(1604)五月二十日、隆宗は新たな所領、横川村押林館へ入った。隆宗は所領七ヶ村の内、竹貫(たかぬき)村の丘に館を構(かま)え、麓(ふもと)に龍台寺を建て、菩提寺と成した。竹貫は、鮫川の上流に位置し、菊多郡と白河郡小峰城を結ぶ御斎所(ごさいしょ)街道の中央に在り、東西交通の要衝である。
隆宗の妻は、白土左馬助隆朝の娘である。嫡男勘五郎隆政を産んだが、既(すで)に身罷(みまか)り、隆宗に男子はいない。他に、姫が一人いた。隆宗は下野那須の大関土佐守増友に願い出て、弟の彦恵増忠を婿(むこ)養子に迎えた。
慶長十三年(1608)、隆宗は増忠を江戸へ遣(つか)わし、家康への年始の挨拶(あいさつ)をさせた。しかし病(やまい)を押して帰国に及び、十月十日、常陸水戸に於(おい)て斃(たお)れた。法名は天斐然公。この時、隆宗の娘は増忠の子を宿していた。やがて男子が生まれ、隆宗はこの孫を庄松と名付けた。
慶長十五年(1610)九月二十六日、岩城大和守隆宗も身罷(みまか)った。法名は東禅寺殿天山道一大居士。遺(のこ)された庄松は、未(いま)だ二歳である。幕府年寄本多正信は、庄松幼少につき、家督の相続を認めず、所領の没収を通達した。隆宗が一代で興した岩城家は、再び消滅する事となった。上意を受けて慶長十八年(1613)、隆宗の妻は、家臣酒井主馬を伴い、孫庄松を連れて江戸へ移った。
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隆宗の妻は庄松と共に、江戸城大手門に立ち続けた。やがて目付衆が不審に思い、人をやって素姓(すじょう)を尋ねさせた。隆宗の妻は、嘗(かつ)て奥州竹貫三千石領主の後室であり、嫡孫庄松に相続が叶(かな)わなかった儀を申し上げた。仔細を聞いた目付二人は、上役へ申し送る旨を約束して、祖母と孫両名を大手門から追い出し、神田辺りの屋敷へ蟄居(ちっきょ)を申し付けた。
目付は、山岡五郎作と木村源太郎という名であった。後日、隆宗の妻は庄松と共に、山岡五郎作屋敷へ召し出され、木村源太郎も同席した。両人が申すには、本多正信は上意を以(もっ)て沙汰を下し、加えて女人に城を渡す事は有り得ず。但(ただ)し、格別の御慈悲を以(もっ)て、庄松を旗本に准ずる、百人扶持(ふち)とする旨が申し渡された。
隆宗の妻は、両目付の御力添えに、頓(ひたすら)感謝の意を示した。しかし、祖先所縁(ゆかり)の所領を得られぬは無念と答え、百人扶持を辞退し、江戸を去って行った。
やがて、隆宗の妻は孫庄松と共に、嘗(かつ)ての旧敵、相馬大膳亮利胤の所領へ入った。そして家老泉藤左衛門尉胤政に、目通りが許された。隆宗の妻は、幕府へ御家再興を願い出た物の、祖先の地の回復は成らず。百人扶持を捨てて、今は流浪の身故(ゆえ)、何としてでも相馬家へ庄松の仕官が叶(かな)う様(よう)、願い上げた。
追って、隆宗の妻は孫庄松と共に、藩公利胤への謁見(えっけん)が許された。利胤は、岩城貞隆は我が妹婿(むこ)であり、家柄を見ても、捨て置き難しと仰(おお)せられた。そして家老胤政に命じて、小高古城の西方、鳩原村に所領が与えられた。庄松は成長の後、岩城忠右衛門尉吉隆と名乗り、相馬中村藩士と成った。
孫の成長を見届けた隆宗後室は、寛永十一年(1634)八月四日に亡くなった。葬儀は鳩原の南隣、小谷村の豊切山円応禅寺で執り行われた。法名は花貞妙心大姉。奥州岩崎郡白土に生まれ、楢葉郡の領主に嫁(とつ)いだ姫は、子孫を江戸に留まらせず、故郷に近い奥州行方(なめかた)郡の、武士に育て上げた。