第九節 島原の乱

 人心を得る者、天下を得る。逆を言えば、人心を得られずば、天下を得られず。豊臣秀吉が天下を統一し、戦国の世を終らせるも、諸大名を従わせる為の恩賞確保に、朝鮮王国へ出兵した。一方で徳川家康は、朝鮮出兵に因(よ)る恩賞は不要と考え、関東領国の開発に、力を注(そそ)いだ。力を蓄え、朝鮮出兵に係った大名から受ける恨(うら)みを、最小限に留(とど)めた徳川家康は、慶長五年(1600)九月十五日の関ヶ原合戦に大勝し、一日で反徳川勢力を潰滅(かいめつ)させた。以降、全国の諸大名は徳川家に従った。

 豊臣秀吉が織田秀信との主従関係を逆転させるのに、関白職を用いた。一方、徳川家康が豊臣秀頼を一大名に封じ込める為に、征夷大将軍の官職を用いた。しかし、古今の例を見てみると、将軍が全国諸大名を従えた例は少ない。源頼朝を除(のぞ)けば、鎌倉幕府は執権北条氏が実権を握(にぎ)り、室町幕府に至っては、地方豪族の争いを武力で鎮(しず)めたのは、三代足利義満くらいであろうか。徳川家康は幕府を開くに当たり、子々孫々まで将軍の威光が衰(おとろ)えぬ、仕組み作りを考えた。

 一に、大名を一ヶ所の領土に久しく根付かせず、鉢(はち)植えにする事。これは、鎌倉幕府に学んだ事である。二に、幕府の意に背(そむ)く者は、その所領を召し上げる事。これも、豊臣秀吉に近い物が有る。三に、幕府天領と旗本知行地を併(あわ)せ、六百万石を超える領土を持ち、将軍が自ら動員できる兵の数として、八万騎を保有した。これこそが、豊臣秀吉以前には無かった、武家の仕組みである。

 また、徳川家が国政の頂点に君臨するに当たり、法を以(もっ)て、全ての組織を幕府の支配下に置いた。武家諸法度はその代表で、寺院諸法度、更(さら)には禁中並(ならびに)公家諸法度を制定し、朝廷は有名無実となり、加えて天皇が勅命を発する事も禁じられた。これらの法の厳正化は、二代将軍徳川秀忠の時代に推し進められた。

 徳川秀忠の孫が明正天皇として即位し、徳川家の天下は磐石(ばんじゃく)となったと思われた頃、登場するのが三代将軍徳川家光である。家光の代になると、戦国時代を知る者も、大分(だいぶ)少なくなっていた。家康は東照大権現として祀(まつ)られて久しく、幕府の有力者は武将というよりも、文官の才に長(た)けた者が増えて来る。

 秀忠の死に因(よ)り 、徳川を姓とする尾張、紀伊の二藩は、家臣とは言え、将軍の叔父と成った。また東照大権現の遺命に因(よ)り、将軍を立てられるのは徳川御三家、即(すなわ)ち将軍家光、尾張義直、紀伊頼宣の嫡流のみとされている。家光は将軍でありながら、尾張、紀伊という、気を遣(つか)わねば成らぬ勢力が存在した。故(ゆえ)に将軍の威信を一層高めるべく、肥後熊本藩加藤忠広、駿河府中藩徳川忠長、伊予松山藩蒲生忠知と、大大名を続け様(ざま)に取り潰(つぶ)した。

 加えて武家諸法度に参勤交代を定め、藩主を帰国させ難(にく)くした。藩主が領国と疎遠となれば、国許(もと)で戦(いくさ)仕度(じたく)をして、幕府に弓引く事もできなくなる。しかし、これらの政策は一方で、地方行政を腐敗させた。民の恨(うら)みが藩主へ向けられるだけで済むのであれば、幕府の思惑(おもわく)通りである。しかし、諸国には主君が改易され、浪人となった者の数が十万を超えていた。それらの者は、再び動乱が起るのを待ち望んでいる。

 寛永十三年(1636)四月、一年半に及んだ日光東照社の大改築が完了した。ここは徳川家の祖、家康が祀(まつ)られている所である。建築技術は当代の名工を選(よ)りすぐり、後世まで称(たた)えられる程の物である。三代将軍家光が、その力を誇示するべく築き直された社殿は、日光東照宮と称される様(よう)になった。

 五月二十四日、陸奥仙台藩主伊達政宗が薨去(こうきょ)した。十八歳で名門伊達家を継ぎ、近隣の包囲網を打ち破(やぶ)って、二百万石の戦国大名と成った。しかし直後、母に毒を盛られ、豊臣秀吉に命を懸(か)けて降(くだ)り、生国出羽米沢より奥の、陸奥仙台六十万石に押し込められる。

 政宗は嘗(かつ)ての同盟勢力、三春城主田村清顕(きよあき)の娘愛(めご)姫を正室に迎え、嫡男忠宗を儲(もう)けていた。しかし豊臣家の時代、側室に長男秀宗が生まれていた。家康は秀宗に伊予宇和島十万石を与えて恩を売ると同時に、伊達家を東西に二分した。

 様々な苦労を乗り越え、幕藩体制の確立に与力し、仙台平野を拓(ひら)いた奥州の独眼竜は、七十歳でこの世を去った。仙台藩はその後、伊達忠宗が相続した。

 七月、江戸虎ノ門邸では、陸奥磐城平七万石藩主内藤帯刀忠興が、妹婿(むこ)である信濃高遠三万石藩主、保科肥後守正之を饗応(きょうおう)していた。
「肥後守殿は上様の覚えめでたく、この度は大出世を遂(と)げられ、同慶の至りでござる。」
忠興に注(そそ)がれた杯(さかずき)を飲み干(ほ)し、正之は返杯する。
「有難き御言葉にござる。しかし此度(こたび)の御加増は、運が良かったに過ぎ申さず。」
伊達政宗の死去から一月(ひとつき)半後、出羽山形二十万石鳥居左京亮(さきょうのすけ)忠恒(ただつね)も身罷(みまか)った。忠恒に子は無く、異母弟忠春がいた物の、兄弟仲は険悪であった。忠恒は忠春に継がせる位なら、改易に処された方が増しであると、山形藩嗣子の届け出をせず、逝去した。武家諸法度に照らし合わせれば、御家取り潰(つぶ)しなのだが、忠恒の祖父鳥居元忠は、戦国時代に徳川家康が東海の大名、今川義元の人質であった頃から仕(つか)え、徳川開幕の元勲であった。因(よ)って改易は免(まのが)れ、鳥居忠春に信濃高遠三万二千石が与えられた。そして山形二十万石は、将軍の弟である保科正之に下されたのである。
「この正之、未(いま)だ若輩者故(ゆえ)、もし伊達陸奥守殿が健在であれば、到底任に非(あら)ず。」
「御懸念(けねん)無用。保科家は武田信玄公に仕えし武門の御家柄。加えて出羽庄内藩は、酒井宮内大輔殿が治めし所領にて、万一の折は御助勢頂ける物と、拝察致し申す。」
「御助言、忝(かたじけな)い。」
酒井忠勝の妹は忠興の正室であり、磐城平と庄内は親類であった。
「しかし、鳥居家が三万石とは。伏見城で御討死(うちじに)を遂(と)げられし彦右衛門元忠様が御覧に成られたら、如何(いか)(ばか)り御嘆(なげ)き遊ばされるか。我が城下に彦右衛門様の菩提寺が残されて居る故(ゆえ)、帰国の砌(みぎり)はよくよく供養致さねば。」
磐城平城の北西、胡摩沢に在る長源寺は、磐城平藩祖鳥居忠政が入部の折(おり)、伏見に斃(たお)れた父の菩提を弔(とむら)うべく、建立した物である。
「仰(おお)せ、御尤(もっと)も。」
「思えば、庄内藩は徳川四天王の嫡流じゃ。それより大身と成られた以上、これからは気さくに御話しする事も叶(かな)いませぬな。」
「何を仰(おお)せられる。帯刀殿は我が義兄故(ゆえ)、これからも宜(よろ)しく御導きの程を。」
徳川四天王とは、戦国時代に三河を中心とした武士で特に活躍した、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政を指す。今の当主はそれぞれ、酒井宮内大輔忠勝出羽庄内十四万石藩主、本多甲斐守政朝播磨姫路十五万石藩主、榊原式部大輔忠次上野館林十万石藩主と、皆孫の代になっている。唯(ただ)、井伊侍従直孝は家祖直政の子であり、大坂の陣で武功を挙げ、今は幕府大老として将軍家光を補佐し、近江彦根三十万石の藩主でもある。
「四天王と言えば、一(ひと)騒動有ったのう。」
大老井伊直孝を虎ノ門邸に迎えた時、酒宴の席で、直孝は忠興家臣の馬場三郎兵衛を掴(つか)まえて、その酒量を尋ねた。一升はと問われれば可と答え、二升はと問われても可と答える。更(さら)に一斗はと尋ねられ、これも可と答えた所、直孝は三郎兵衛を快男子と賞した。近くに召し出された三郎兵衛は、直孝に額の傷を認められ、その訳を尋ねられた。三郎兵衛は、幼少の頃に犬を追い、転倒した時の物と答えたが、直孝はそれを信じず、重ねて尋ねた。三郎兵衛が黙して語らぬので、直孝は怒鳴(どな)った。已(や)むなく、退却戦の折に受けた傷と答えると、直孝は機嫌を直し、その戦況を仔細に尋ねた。三郎兵衛が正直に答えた所、直孝は膝(ひざ)を叩(たた)いて笑った。そして、三郎兵衛が苦戦した敵は、我が井伊家の手勢であると答えた。戦国時代、井伊家は徳川家臣、三郎兵衛は武田家臣として、戦った事が有った。直孝の、戦(いくさ)の研究熱心さが窺(うかが)える。直孝は三郎兵衛を剛の者と認め、忠興から引き抜こうとしたが、三郎兵衛はこれに応じなかった。忠興は馬場三郎兵衛を忠義の武士と賞し、一千石取りの、軍監の任に就(つ)けた。
「ともかく、肥後守殿は今後親藩に列せられる由(よし)。益々(ますます)の御活躍を期待致し申す。」
忠興は徳利を手に取り、再び正之の杯に注(そそ)いだ。
「忝(かたじけな)い。」
正之は一気に、杯を呷(あお)った。

 保科家は栄転した。そして磐城平藩の南隣、水戸松平家も将軍の覚えめでたく、日光東照宮の修築完了を受けてこの七月、徳川姓を賜(たまわ)った。徳川頼房は東照大権現の子として、尾張、紀伊と同様に、東照宮へ参拝する事が許可された。将軍の弟、駿河徳川忠長が三年前に自害し、徳川姓は御三家のみとなってなっていたが、再び四家に復する事となった。

 十二月二十九日、将軍の御召(おめし)に因(よ)り、忠興は嫡男頼長を伴い、江戸城本丸に登った。この頃の幕府中枢にいた人物を見ると、前(さきの)将軍秀忠の死後、三代将軍を補佐した大老井伊直孝は、家光の政治基盤が確立されると共に、その職を辞していた。また二年前の将軍上洛の折に、江戸留守居役を仰(おお)せ付かった老中酒井忠世は、西の丸火災という不始末の責任を取り、謹慎していた。しかし長年の功績に因(よ)り罪が許され、この三月には大老職を拝命したが、程(ほど)無く辞任した。老中職を見ると、老臣土井利勝、若狭小浜の酒井忠勝、他は松平信綱、阿部忠秋、堀田正盛と、大奥年寄春日局(かすがのつぼね)の影響力も窺(うかが)える。

 忠興と頼長が将軍家光に拝謁すると、先(ま)ず老中酒井忠勝から言葉が有った。
「この度(たび)、磐城平藩世嗣(せいし)内藤頼長に、格段の思(おぼ)し召し有り。従五位下の位に叙(じょ)し、左京亮(さきょうのすけ)に任官せしむる。」
忠興は当主として、将軍に御礼を申し上げ、頼長も深く頭を下げる。家光は頷(うなず)き、頼長に声を掛ける。
「頼長は、幾(いく)つになった?」
「十八にござりまする。」
「うむ。子は居るのか?」
「未(いま)だ居り申さず。然(さ)りながら、妻は懐妊致して居りまする。」
家光は、忠興に確認する。
「はて、頼長の妻とは?」
「されば、丹波篠山五万石藩主、松平山城守殿が姫にござりまする。」
松平忠国は、藤井松平家の当主である。
「おお、これはめでたいではないか。忠興、そちも愈々(いよいよ)孫持ちじゃのう。」
「畏(おそ)れ入り奉(たてまつ)りまする。」
家光は、視線を忠勝へやった。それを受け、忠勝は両名に申し渡す。
「頼長殿、この度(たび)めでたく官職を賜(たまわ)り、これを機に上様より、新しき名を授けられる。」
そして忠勝が広げた紙には、「義概」(よしむね)と書かれてあった。家光は、忠興に尋ねる。
「内藤家の祖は、誰であったか?」
「東照大権現様に御仕(つか)えし、初めて大名と成りしは、祖父家長にござりまする。」
「その先は?」
「清康公、広忠公、東照神君の三代に仕えし、清長にござりまする。」
「今一つ。」
「はて…」
曾祖父までは聞いた事が有ったが、四代も先となると分からない。家光はしたり顔で、忠興に説明する。

 内藤清長の父は義清といい、寛正四年(1463)一月に、三河国額田郡菅生郷に生まれる。この時、亀が井戸から産湯(うぶゆ)を汲(く)んだので、この地は亀井戸と称される様になったという。岡崎城下に、亀井町として名が残る。幼名は甚弥、甚太郎といい、成長の後(のち)に四郎左衛門と称する。松平信忠、清康に仕え、西三河を攻め取り、上野城主となる。石川伝太郎忠輔、植村新六氏明、大野清右衛門(天野貞有)、林藤助忠満と共に、岡崎五人衆と称される。三河国野場村の土豪から上野城主になった砌(みぎり)、名を右京進と改める。大永五年(1525)二月二日、尾張清洲城主織田信秀が上野城に攻め寄せるが、一族の太郎左衛門忠成が奮戦し、これを追い払う。享禄二年(1529)五月二十八日、西三河を制圧した松平清康は、手勢八百を率(ひき)いて、東三河吉田城の牧野伝三を攻める。義清は横より敵を崩し、吉田城を攻め落す。伝三の兄、牧野信成は三尾国境近く、安祥城主を務め、弟と呼応して清康を挟み討ちにしようとするも、逆に清康は安祥城を攻め取る。享禄三年(1530)九月、清康は宇理城主熊谷備中守直盛を攻める。内藤家の太郎左衛門、善五左衛門に軍功有り。天文五年(1536)二月、松平清康が家臣に暗殺されたのを知った織田信秀は、大軍を繰り出して岡崎城へ迫った。岡崎城主松平広忠は幼少の上、城兵の数も少ない。籠城はせず、三河武士は井田郷へ打って出た。林、植村、高力等の重臣は討死し、義清も負傷したが、織田方の大軍を敗走させた。天文六年(1537)十二月二十六日に逝去し、三河国額田郡井田野西光寺に葬(ほうむ)られる。法名は善芳禅定門。二男三女有り。長男清長は家督を相続、次男忠郷は分家、長女は島田久右衛門景信に嫁(とつ)ぎ、三女は石川伯耆守数正に嫁ぐ。次女は酒井河内守重忠に嫁いだとされるが、前(さき)の大老酒井忠世の父重忠とは、年齢が合わない。

 忠興は感心して、家光の話を聞いていた。
「これは、我が祖先に斯(か)(よう)な人物が居ったとは、存じませなんだ。」
「どうじゃ、内藤家の祖は、義清殿と申せるであろう?」
「仰(おお)せの通りと存じ奉(たてまつ)りまする。」
「義概という名は、家祖義清殿に通じる。頼長には、義清殿が松平家を守り立てた様に、徳川将軍家を支えて貰(もら)いたい。」
頼長改め義概は、将軍に謝意を示す。
「この義概、祖先が岡崎城を守り抜いたが如(ごと)く、この江戸城を守り抜いて御覧に入れまする。」
「宜(よろ)しく頼むぞ。」
家光は和(にこ)やかに答えた。

 虎ノ門上屋敷に戻った忠興と義概は、重臣を集めて、めでたく義概が、藩嗣子に相応(ふさわ)しき位官を賜った事を報(しら)せた。家臣達は年の瀬に朗報有りと喜び、義概に御祝いを申し上げた。

 その夜、忠興は側室香具姫と、その子三男一女と共に、夕餉(ゆうげ)を取った。香具姫は武田信玄の家臣、小山田信茂の娘で、忠興より十歳以上も年上である。長男は世嗣(せいし)義概、次男は十六歳の千之助、三男は十歳の百助である。

 魚の身を箸(はし)で分けながら、忠興は香具姫に話す。
「そちの子は、将軍家から認められたぞ。上様は当家の系譜を御調べの上、家祖義清公の一字を賜られた。」
「まあ、それは勿体(もったい)無き事。」
香具姫の顔が、思わず綻(ほころ)ぶ。そこへ、次男千之助が割って入った。
「父上、某(それがし)も早(はや)十六にござりまする。そろそろ元服をさせて下さりませ。」
忠興は吸物(すいもの)を啜(すす)ってから答える。
「もう少し待て。元服させれば、扶持(ふち)と家臣を与えねば成らぬ。国許(もと)の年貢と、江戸の米相場を勘定せねば、分家はさせられぬ。藩領で収穫が増える事を、願って居れ。」
「はあ…政晴叔父上は某(それがし)よりも年下で、泉藩二万石の大名というに…」
忠興の眉間(みけん)に皺(しわ)が寄ったのを見て、義概が弟の背を叩(たた)く。
「何、今に父上が藩領を開拓し、そちを大名にしてくれ様(よう)ぞ。」
千之助は、米を咽(のど)に詰まらせて、噎(む)せた。忠興は深く息を吐(つ)く。
「全(まった)く、二人共勝手な事を言い居って。」
百助は、兄がこぼした米を拾い集める。
「弟の方が立派じゃ。百助、早(はよ)う大人になれ。」
「はい。」
忠興は、次男をからかった。

 千之助の願いとは関係無いが、この年領内楢葉郡下桶売村内に志田名新田、同郡下川内村内に小田代新田が拓(ひら)かれた。参勤交代で忠興は江戸詰(づ)めを義務付けられているが、国家老の安藤清右衛門と上田外記は、よく治めてくれている様である。

 年が明けて寛永十四年(1637)三月、虎ノ門上屋敷に於(おい)て義概の妻が、長男を出産した。即(すなわ)ち、内藤家の嫡孫である。早速(さっそく)義概は、父忠興の許(もと)へ報告に赴いた。
「父上に申し上げまする。」
忠興は、帳簿に目を通しながら答える。
「声で分かる。男であろう。」
「仰(おお)せの通り。」
忠興の側に控えていた江戸家老、加藤又左衛門が座礼をとる。
「おめでとうござりまする。」
忠興は家臣の手前、喜びを内に秘め、義概に申し渡す。
「祝着(しゅうちゃく)じゃ。赤児(あかご)にはそちの幼名、万菊の名を与える。」
「有難き幸せ。」
「松平氏には、追って私(わし)からも犒(ねぎら)いの言葉を掛ける故(ゆえ)、今は緩(ゆる)りと休む様(よう)、伝えて置いてくれ。」
「承知しました。」
この時代、跡継ぎの誕生は、その家臣が親族以上に喜んだかも知れない。武家諸法度に因(よ)り、嗣子無き家は所領を召し上げ、高禄を得ていた重臣すら一転、浪人に身を落すのである。才覚が有れば他家への仕官も叶(かな)うが、それはほんの一握りである。

 一方でこの年、忠興の異母妹で、出羽山形二十万石藩主保科正之の正室菊姫が、二十歳の若さで身罷(みまか)った。菊姫は正之との間に、四歳の長男幸松(こうまつ)を遺(のこ)した。

 この頃、領内岩崎郡住吉村遍照院が、将軍家光より寺領二十石の御朱印を賜った。また三月十五日、同郡愛谷村で宥性法印が、真言宗薬王寺末、慈眼寺を開創した。磐城平藩では新田開発と共に、寺院にも力を貸していたのである。寛永の武家諸法度改定で、寺領は幕府の公認が必要とされた。

 天文十二年(1543)、薩摩国種子島にポルトガル人が漂着した。領主の種子島時堯(ときたか)はこれを救助し、御礼として小銃二挺(ちょう)を受け取った。時堯は鉄匠の八板金兵衛清定に製法を学ばせ、自国での製造に成功する。種子島火縄銃の威力は、戦国大名に取って、魅力的な物であった。

 天文十八年(1549)、イスパニア(スペイン)のイエズス会宣教師、フランシスコ・デ・ザビエルが薩摩国に上陸し、西国にキリスト教を広めて回った。布教を許せば、西洋の先端技術も入って来る。西国大名の多くは、キリスト教の布教を許した。民から見ても、寺社は必ずしも救済してくれる所ではなく、死して仏様と成った後も、生前の身分で格式が分けられていた。一方、宣教師は西洋の薬で病人を治し、神の下に人は皆平等であると説(と)いた。斯(か)くしてキリスト教徒は増え、彼らは吉利支丹(きりしたん)と呼ばれた。

 豊臣秀吉が天下を統一すると、兵農 分離政策から、支配者と被支配者を、鮮明にする必要が出て来た。吉利支丹の信仰はこれに相(あい)(い)れぬ物であり、キリスト教宣教師を追放し、信者には改宗を命じた。その方針は徳川幕府にも引き継がれ、吉利支丹は公(おおやけ)に信仰の活動をする事ができず、加えて代官の悪政に因(よ)り、不満が一気に爆発した。

 十月二十五日、肥前国有馬村で吉利支丹を中心とする百姓が一揆を起し、代官の林兵左衛門を殺害した。これを切っ掛けに、一揆は肥前から肥後へ広がって行った。

 十一月十四日、肥後国天草(あまくさ)の一揆勢が本渡で富岡城兵と交戦し、城代三宅重利が討ち取られた。

 一揆勢は益田四郎時貞を盟主に頂き、肥前国高来郡島原半島の東南、原城址を拠点と成し、二万人以上の 吉利支丹門徒がこれに加わった。島原、天草の両地方は吉利支丹勢に制圧され、事態を重く見た幕府は、京都所司代板倉周防守重宗の弟、三河深溝一万五千石藩主内膳正重昌に、一揆の鎮圧を命じた。

 板倉重昌は幕府軍総大将として、西国諸大名を従え、肥前国島原半島の北、神代(こうしろ)に上陸した。一揆勢は長崎に迫(せま)る勢いであったが、幕府軍の到着に因(よ)り、守りを固める事にした。幕府軍は半島の東岸に沿って南下し、島原藩松倉重政の救援に向かった。数で優(まさ)る幕府軍を相手に、一揆勢は原城址へ退(しりぞ)いて行った。

 一揆勢とは言っても、中には佐々成政、小西行長、加藤忠広改易の折に、浪人となった者も加わっていた。彼らは兵法を身に付けて居り、原城址を城郭へ修築していた。加えて、島原藩より武具、兵糧等も奪って居り、籠城戦の仕度は整いつつあった。

 十二月十日、板倉重昌は諸大名に原城総攻撃を命じた。しかし、御書院番頭の小大名が、西国大大名を指揮するのは無理であった。大名達は各々(おのおの)の判断で動き、信仰を以(もっ)て団結する一揆勢に、各個撃破された。二十日に再び総攻撃を懸けるも、幕府軍の被害は増すばかりであった。

 島原一揆勢相手に敗報が相次ぎ、将軍家光は事態を憂慮して、老中酒井讃岐守忠勝に対策を尋ねた。忠勝も即答能(あた)わず、老中で善後策を練ると申し上げた。

 その日の夕刻、内藤忠興は若狭小浜藩邸に招かれた。忠興が邸に上がると、酒井忠勝の他に、同じく老中の堀田加賀守正盛も待っていた。忠興は腰を下ろし、両老中に挨拶をした。

 始めは、雑談であった。そして次第に、政局の話が混じって来る。忠勝は人事の話の中で、ふと板倉重昌に触れた。
「昨今島原に於(おい)て、内膳正殿が寄せ手に討死多数との由(よし)。帯刀殿はこの采配(さいはい)、如何(いかが)思われる?」
忠興は表情を変えず、淡々と答える。
「島原の儀は一揆と称すれど、相手は只(ただ)の土民に非(あら)ず。吉利支丹門徒なれば結束も固く、また浪人衆も加わりし以上、力攻めでは敵(かな)いますまい。」
大坂の陣で浪人衆と戦い、三春大善寺で一揆の鎮圧を経験した忠興は、軍略家が信仰の厚い門徒を従えた時、尋常ならざる強敵と成る事が想像できた。忠勝は重ねて尋ねる。
「では、帯刀殿が大将なれば、如何様(いかよう)に戦われる?」
「力攻めが難しい以上、兵糧攻めしか有りますまい。」
これは大坂冬の陣で、徳川家康が取った作戦に通ずる。しかしそれを聞いていた堀田正盛が、俄(にわか)に笑い出した。
「一揆を相手に兵糧攻めとは、何と卑怯(ひきょう)な事よ。」
忠興は、感情を出し易い所が有った。
「貴殿の如(ごと)き若輩者に、解(わか)る事ではござらぬ。」
正盛も、これを聞いて頭に来た。
「若ければ、即(すなわ)ち無能と申されるか。」
「大坂の陣の砌(みぎり)、貴殿は幾(いく)つであったか?」
「あの戦(いくさ)は、東照神君が大軍を動員された。」
「数を頼みに、誰にでも勝てた戦(いくさ)と申すか?」
家康自身、命辛々(からがら)であった大戦(おおいくさ)を虚仮(こけ)にされた気がして、忠興は頭に血が上った。そして無意識の内に、脇差(わきざし)に手を掛けていた。忠勝が慌てて、忠興を抑えに入る。そして、正盛を睨(にら)んだ。
「大坂の陣を冒涜(ぼうとく)致すは、神君を貶(おとし)める物言いぞ。」
正盛は渋々、忠興に頭を下げる。
「無調法を、御許し下され。」
忠興の体から、力が抜けた。
「御老中に頭を下げられては、これ以上荒立てる必要も無し。」
静かに忠興が着座したので、忠勝も自身の席へ戻った。

 忠興は冷静となり、両老中に回答する。
「島原の戦(いくさ)、この忠興が出馬に及べども、一介の小大名なれば、西国諸大名を統御する事能(あた)わず。御老中が総大将を務められれば、諸侯も上様の名代と認め申そう。」
「御助言、忝(かたじけな)い。実は松平伊豆守殿に台命が下され、島原へ遣(つか)わされる手筈(てはず)でござる。」
忠勝の言葉を聞いて、忠興は大いに笑った。
「知恵伊豆殿が出馬されるのであれば、何も心配は要りますまい。戦(いくさ)は後(あと)三月(みつき)は掛かり申そうが、上様には御懸念遊ばされませぬ様(よう)、御伝え下され。」
話が済んだ様なので、忠興は両老中と礼を交し、虎ノ門へ戻って行った。

 老中松平伊豆守信綱が、新たに幕府軍総大将を仰(おお)せ付かったという報(しら)せは、板倉重昌の許(もと)にも届いた。功を焦(あせ)った重昌は、寛永十五年(1638)一月一日に決死の総攻撃を試(こころ)み、討死を遂(と)げた。程無く松平信綱が着任し、参戦の諸大名に対し、我が命令は即(すなわ)ち上意であると、厳しく言い渡した。

 松平信綱は作戦を兵糧攻めに切り換え、諸大名には持場を固め、決して抜け駆けの無き様(よう)申し付けた。

 一月六日に長崎奉行は、キリスト教を布教させず、貿易のみを許しているオランダに、海上からの砲撃を要請した。オランダ商館長は了承し、軍艦を派遣して、島原湾から原城を攻撃させた。長崎奉行は、欧州の軍艦に攻撃されれば、吉利支丹の信仰心も弱まるであろうと考えた。しかし参戦の諸大名より、外国の力を借りるは卑怯(ひきょう)との声が強まり、信綱はオランダ軍艦を引き揚げさせた。

 嘗(かつ)て織田信長は、一向一揆の拠点、摂津石山や伊勢長島を攻略するのに、兵糧攻めを行った。松平信綱も信長と同じく、長期戦の構(かま)えを取った。一揆勢は二万を超える大軍で、加えて島原城下を略取した程度なれば、兵糧が尽きる日もそう遠くはないと、計算していたのである。

 二月、一揆勢の兵糧が尽き、海藻などを食べて飢(う)えを凌(しの)いでいるのが判(わか)った幕府軍は、二十八日に総攻撃を行う旨(むね)を、諸大名に通達した。しかし二十七日、佐賀藩鍋島勢が抜け駆けし、信綱は慌てて全軍に総攻撃を命じた。

 不落と思われた原城も、食糧、弾薬が尽きた今、抗戦する力は大幅に落ちていた。一揆勢の総帥天草四郎は討たれ、原城兵は壊滅した。こうして、幕府軍に甚大な被害を与えた島原の乱は、漸(ようや)く鎮圧に至った。

 此度(こたび)の大乱は、幕政に大きな影響を与えた。先(ま)ず、乱の原因は島原藩の悪政に因(よ)る物とされ、藩主松倉重政は改易され、島原は幕府天領となった。また吉利支丹の残党から、籠城に及んだは、ローマ法皇の援軍を待っていたとの話を聞き、幕府はイスパニアとの国交を断絶させる方針を採(と)り、鎖国政策を推し進めて行く事に成る。加えて、原城址が一揆勢の拠点とされた事に因(よ)り、諸藩に一国一城令を更(さら)に厳しく、求める事となる。

 最後の総攻撃で抜け駆けをした鍋島藩には、後日幕府より御咎(とが)めが有り、重臣を処罰する様(よう)、沙汰が下された。更(さら)に悲惨なのは全国の百姓で、吉利支丹の取締りが、猶(なお)一層(いっそう)厳しく成される事となった。

 また、此度(こたび)の乱に浪人が多数加わっていた事を受け、幕府は全国に溢(あふ)れる浪人問題にも、真剣に取り組む様になる。対策の一つとして、海外との交易を行う朱印船に乗せ、海外に移住させた。浪人は武芸の腕を以(もっ)て、移住先の村を警固する仕事をし、中には活躍して名を轟(とどろ)かせる者も有った。

 後年、幕府代官が島原藩四万三千石の検地を行った所、実高は二万石余に過ぎなかった。諸国大名はその石高に応じて、幕府より各地の普請(ふしん)が義務付けられる。これには、諸侯が討幕の力を蓄えられぬ様にする目的が有る。実高より多く幕府へ届け出れば、藩は多くの出費を求められ、その皺(しわ)寄せは藩の領民に伸(の)し掛かる。そうまでして石高を多く届け出る理由は、大名の席次、格式が、石高で決まるからである。島原藩の体面の為に、此度(こたび)の大規模な一揆を招いたとも言えるであろう。しかしこれは、島原藩に限った話ではない。有名な例として、常陸水戸徳川家は実高二十五万石であるが、尾張藩六十二万石、紀伊藩五十五万石との釣合(つりあい)を取る為に、三十五万石と届け出ている。

 逆の例もある。幕府に睨(にら)まれ勝ちな長門藩毛利家は三十六万石、陸奥仙台藩伊達家は六十二万石と届け出るも、実高はそれより多かった。多めに届け出て益々(ますます)幕府に警戒され、多額の出費を求められるよりも、少なく届け出て、力を蓄える道を選んだのである。

 磐城平藩は七万石で入部し、多くの新田を拓(ひら)いて来たが、家格は七万石のままである。即(すなわ)ち、後者に属すると言えるであろう。

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