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第十節 小川江筋
島原の乱が鎮圧された寛永十五年(1638)、一年余の江戸参勤を務めた忠興に、帰国の許しが下りた。とは言っても、大名の謀叛を防ぐ為に、妻子は江戸の藩邸に残さねば成らない。国許(もと)に帰って、藩主自ら治政を行うには、家族と離れ離れにならねば成らぬのである。
出立の前に、忠興は正室の居間を訪れた。忠興の正妻は、元越後高田十万石藩主、酒井宮内大輔家次の娘である。家次は元和四年(1618)に没し、家督を相続した宮内大輔忠勝は、今では出羽庄内十四万石の藩主である。混同し易いが、この時の出羽庄内藩主酒井忠勝と、若狭小浜藩主兼幕府老中酒井讃岐守忠勝は、別の人物である。
夫の来訪を聞き、酒井氏は下座に控(ひか)えた。上座に腰を下ろした忠興は、部屋を眺(なが)める。
「寂(さび)しくなったのう。」
酒井氏との間には、娘が二人いた。だが既(すで)に、長女は旗本で常陸志筑の領主本堂栄親(ひでちか)に嫁ぎ、次女は陸奥窪田二万石藩主、土方河内守雄次に嫁いでいる。窪田藩は二万石と言っても、内一万石は能登の飛地である。
「河内守殿は我が甥(おい)じゃ。従兄妹(いとこ)同士の婚姻故(ゆえ)、娘も大事にされて居るであろう。」
「はい。」
酒井氏は、表情を示さない。徳川四天王の家に生まれ、気の強い女性であったが、嫡子を上げられず、二人の娘も他家へ嫁ぎし今、鬱屈(うっくつ)とした日々を送っていた。それを気に掛け、帰国を前に話し相手に成りに来たのだが、鎹(かすがい)である娘が居らぬ今、忠興は話題を作るのに難儀した。
「思えば、参勤交代とは良き仕組みじゃ。戦国の世なれば、人質同様に他家へ送らねば成らぬ所を、同じ江戸の町で暮らす事ができる。」
「はい。しかし、娘と会う事は叶(かな)いませぬ。」
「うむ…」
忠興は再び言葉に詰まった。そして、妻の為に一つの案を示す。
「そうじゃ。帰国の後(のち)に、宮内大輔殿を、当邸へ招き申そう。兄妹が会うは、久し振りの事であろう?」
「有難き御配慮、痛み入りまする。」
「その内、本堂殿や土方殿も、邸に招こう。然(さ)すれば、娘達の様子を直(じか)に聞く事もできよう。」
「やたらと客を御招きに成られては、台所が困りましょう。」
「心配致すな。帰国に及べば私(わし)自ら指揮を執(と)り、藩領を開拓して、収入を増やして参る。」
「まあ 、それは頼もしき御言葉。」
漸(ようや)く酒井氏の笑顔を窺(うかが)えて、忠興は安堵する事ができた。
数日後、忠興は江戸藩邸の事を、家老加藤又左衛門に任せ、藩領磐城へ向かった。江戸の東、水戸街道に沿って進み、常陸水戸からは陸前浜街道を進んで、奥州菊多郡へ至る。
勿来(なこそ)古関の麓(ふもと)を過ぎると、忠興の甥(おい)にして娘婿(むこ)、土方雄次が治める窪田藩領に入る。往古は錦(にしき)の庄と呼ばれし平野を過ぎ、鮫川の大河を渡ると、磐城平藩菊多郡の中心、植田村に入る。ここには、戦国時代に武蔵江戸城主であった太田氏の末裔、梶原美濃守政景が守将を務めた、植田城址が在る。
植田からは渋川に沿って北上し、釜戸川が流れる渡部村から、忠興の異母弟内藤政晴が治める泉藩領に入る。街道は北へ延(の)び、藤原川を渡って南白鳥村に入った辺りから、忠興の所領、磐城平藩岩崎郡である。
南の藤原川、北の夏井川に挟まれる広域が、磐城平藩の中心、岩崎郡である。磐城平藩の名称を見ると、磐城は郡名、平は地名である。しかし忠興の時代、磐城郡は夏井川の北であり、本城磐城平は岩崎郡に属する。少々おかしな名称に思えるかも知れない。戦国時代にこの地を治めていた岩城氏は、鎌倉時代に岩城郡内好嶋(よしま)の庄の地頭を務めた。そして室町時代に入り、岩崎郡下好間村の、飯野平城を居城としたのである。関ヶ原の後、徳川譜代の鳥居忠政が入部し、飯野平の東に、新たに巨大な城を築いた。これが磐城平城である。平安時代の昔は、鳥居家十二万石の内 、菊多を除(のぞ)く岩崎、岩城、楢葉の三郡は、全て磐城郡であった。岩と磐は異体字である。鳥居家は、平安後期から久しくこの地を治めて来た岩城氏の名残(なごり)を消し去るべく、岩城氏以前の磐城の字を用いたのかも知れない。
忠興の父政長は、磐城平城請取りを務めた重臣井上惣太夫を筆頭に、佐野太兵衛、沢村甚五左衛門、勘兵衛兄弟を町奉行に任命した。町奉行はよくその職務を果し、磐城平城下は賑(にぎ)わっていた。
忠興は磐城平城に入るも、のんびりとはして居られなかった。武家諸法度に因(よ)り、国許(もと)に留まれるのは一年未満である。旅の疲れも取れ切れぬ内に、忠興は国許(もと)の重臣を本丸に召集した。
国家老安藤清右衛門、上田外記を始め、三百石取り以上の重臣多数が、天守閣の代りである三階櫓(やぐら)へ、登城に及んだ。家臣達を前に、忠興は申し渡す。
「私(わし)が此度(こたび)帰国に及びしは、藩領の開発をより一層(いっそう)、推し進める為である。」
そして、忠興は清右衛門に尋ねる。
「目下、領内開墾の進捗(しんちょく)は如何(いか)に?」
「順調と、心得まする。」
「順調とは、何石から何石へ増えた事を申すのか?」
清右衛門は、返答に詰まった。忠興は、諸臣を見渡す。
「検地無くして、領内の開発を量(はか)る事は能(あた)わず。今年は、藩領の検地を主に行う。検地と共に民情を視察し、島原藩の如き惨禍(さんか)を招く事の無き様(よう)。」
磐城平藩は七万石とされているが、実高が果してどれ程であるのか。それを知って置く必要性を、忠興は島原藩から学んでいた。万一領内に於(おい)て、浪人と門徒が結託して一揆に及べば、譜代といえども、幕府からの御咎(とが)めは免(まのが)れられぬであろう。その辺りを言い含めて、重臣達は各々の知行地で検地を行う旨(むね)、承服するに至った。
斯(か)くして、磐城平藩では領内検地が頻繁(ひんぱん)に行われる様(よう)になった。この年が寅(とら)歳であった事から、人々はこれを「寛永寅の縄(なわ)」と呼んだ。
これを受けて、領内岩崎郡と磐城郡から、多数の報告書が上がって来た。藩主忠興は文書を読みながら、町奉行沢村勘兵衛に尋ねる。
「岩崎、磐崎、岩前、磐前。これらは皆、同じ物を指して居るのか?」
「はっ。村々に拠(よ)って、書き方に違いは有れども、全て岩崎郡にござりまする。」
「これは、紛(まぎ)らわしいのう。そちは、読み難(にく)いとは思わぬか?」
「仰(おお)せの通り。」
「これは、統一した方が良かろう。そちは、どれが良いと思う?町奉行の意見を聞きたい。」
「はて…されば鳥居侯入部の折、岩城を磐城と改書なされしは、岩城家旧臣に新たな時代が来(きた)りし事を、示す物と心得まする。按(あん)ずるに、岩崎郡には嘗(かつ)て、岩城家の分流岩崎氏有り。然(さ)すれば、磐前郡が相応(ふさわ)しいかと存じまする。」
「うむ。磐城と磐前、同じ字を用いた方が、自然であろう。勘兵衛、そちより家中へ、磐前郡改書の儀、通達して置く様(よう)。」
「承知仕(つかまつ)り申した。」
岩崎郡は異体字に因(よ)り、四通りの記(しる)し方が混在して来たが、これより後(のち)、藩公提出の文書は、磐前(いわさき)郡に統一される事となった。しかし家臣同士の通達には、今まで使い慣れて来た字が使われ続けた。
検地は百姓の収入源を洗い浚(ざら)い調べ上げるので、当然百姓に取って心地(ここち)好い物ではない。中には、名主と領主が結託し、収入を低く届け出て、本来藩の米蔵に納められるべき物を、私(わたくし)する者も有る。検地は百姓ばかりでなく、不正を働く役人に取っても、不都合な物であった。
領主と百姓が共に藩公の意に背(そむ)けば、藩政は乱れ、開発の気運は衰(おとろ)えるであろう。忠興が悩んでいるのを察した勘兵衛は、藩公に言上する。
「肝要なのは、民百姓の心を得る事と存じまする。民心を得られれば、貪官(たんかん)汚吏(おり)が居ようとも、殿の御意(ぎょい)に背(そむ)く事は能(あた)いますまい。」
忠興の表情が、俄(にわか)に晴れる。
「具体的には?」
「されば、検地の目的を明らかに示す必要がござり申す。殿は開墾の進み具合を量(はか)るべく行ってござりますれば、既(すで)に開墾の功有る者を召し出し、別して賞される方法も有るかと存じまする。」
「成程(なるほど)。開墾の功労者を称(たた)えれば、他の百姓の士気も高まろう。早速(さっそく)、功績の多い者を選定致すべし。」
「心得ました。」
後日、山番の与五右衛門、孫十郎、久左衛門が忠興の御前に召し出された。山番は主に阿武隈山地の山林を管理するが、この三名は磐城郡上小川村の山奥に九年前から田畑を拓(ひら)き、内倉の集落を整備し続けて来た。忠興はその功績を認め、三人各々に三反歩の土地を賞与した。忠興は、山番でも開拓者には土地が与えられる事を示し、領民が一層(いっそう)開墾の意欲を抱(いだ)く様、期待したのである。
さて、領内の検地を頻繁(ひんぱん)に行い、並行して開墾を進めるべく、開拓者を賞したが、忠興は他にも、成すべき事は無いかと、家老並びに町奉行に尋ねた。先ず、安藤清右衛門が答える。
「殿は、来年初頭までには江戸参勤を成さねばならず、加えて天下普請や有事に備え、金銀を備蓄して置かねば成り申さず。因(よ)って、殿の御気持は良う解りまするが、時には動かぬ事も肝要かと存じまする。」
忠興は面白くない顔で、上田外記に問う。
「そちは如何(どう)思う?」
「畏(おそ)れながら、清右衛門殿に同じく。」
町奉行の井上惣太夫、佐野太兵衛も、同じく回答した。
「沢村甚五左衛門は?」
「御家老が蓄財を勧められる以上、町奉行としてはこれに従うべきかと。」
「沢村勘兵衛。」
「蓄財と仰(おお)せられまするが、領内の収入を増やす事もまた、蓄財にござりまする。」
忠興は、興味を抱(いだ)いて勘兵衛に問う。
「収入を増やす策とは?」
「先君御入部以来、阿武隈山間地に田畑が拓(ひら)かれ申したが、平地は元より田畑なれば、従来より田畑を広げる事能(あた)わず。しかし、藩領年貢の大半は、この平地から得られ申す。」
「その通りだが、米を作らず、江戸表で高値で売れる、別種の作物を作らせるのか?」
「然(さ)に非(あら)ず。旱魃(かんばつ)に遭(あ)っても、干(ひ)上がらぬ水田を作るのでござりまする。」
「確かに日照りの年、平素と変わらぬ収穫が有れば、百姓は食に困らず、また米を高値で売る事ができる。」
安藤清右衛門が、顔を顰(しか)めて告げる。
「夢物語を、殿に申し上げるではない。」
「まあ清右衛門、最後まで聞いて見ようではないか。」
「はっ。」
忠興に促(うなが)されて、勘兵衛は話を続ける。
「磐城平藩に入部して十六年、御城の北を流れる夏井川が、一度も涸(か)れるのを見た例(ためし)がござりませぬ。」
甚五左衛門が、弟の話に頷(うなず)く。
「夏井川は阿武隈山地を水源と致す。遠く安積郡より流れ来(きた)る川なれば、集める水も多し。確かに、涸(か)れる事は有るまい。」
「その水を、平野へ流し込みまする。」
「灌漑(かんがい)用水路か。」
忠興は得心した。
「御意にござりまする。」
再び、清右衛門が口を挟(はさ)んだ。
「水害の折は、如何(いかが)致す?」
「関を用いて、封(ふう)鎖(さ)致しまする。」
「大河を相手に、そう巧(うま)く行くかのう?」
同じく家老の上田外記も、冷やかな目で勘兵衛を見ている。忠興は両家老の心証など気にも留めず、話を進める。
「夏井川の何処(いずこ)から、水を取る積(つも)りか?」
「されば、磐城郡下小川村が適当かと。」
「何故(なにゆえ)か?」
「この辺りは夏井川の蛇行が大きく、水に勢いがござりまする。されば、水を取るのに都合良く、加えて確固たる関を築く事で、川の氾濫(はんらん)も防げまする。」
「うむ。灌漑(かんがい)と治水、一石二鳥じゃのう。」
「加えて下小川より水路を延(の)ばせば、磐城郡の大半を潤(うるお)す事が叶(かな)いまする。」
「これは、大普請と成るのう。」
忠興は御用人、小川半左衛門に命ずる。
「直(ただ)ちに勘兵衛と共に下小川村へ赴き、関を築くに要する予算を勘定して参れ。」
「ははっ。」
家老を抑えて指揮を執る事に、忠興は心地好さを覚えていた。
後日、半左衛門が見積書を用意して、再び評議の場が設(もう)けられた。試算を見て、清右衛門と外記は首を捻(ひね)る。
「斯様(かよう)に物入りとは、元が取れるか不安にござりまするな。」
甚五左衛門は弟を思い、家老の顔を立てる。
「御家老の御意見も、御尤(もっと)もと存じまする。そこで、先(ま)ずは関のみを築き、治水に役立つか、試して見ては如何(いかが)にござりましょうや?灌漑(かんがい)水路は、その評価を待ってからという事に。」
清右衛門は、甚五左衛門の案を受け入れた。
「確かに、あの辺りは浸食が激しく、堤(つつみ)を築く必要が有るとは思って居った。関だけならば、費用も大きく抑えられよう。外記殿は如何(いかが)か?」
「某(それがし)も、清右衛門殿に同じく。」
両家老は、忠興に言上する。
「では、沢村勘兵衛を奉行に、下小川村に関を築かせる事を、御許し下さりまする様(よう)。」
結局、家老主導で話が纏(まと)まった。
「相(あい)解(わか)った。」
計画は大幅に縮小され、忠興は機嫌を損ねながら、評議の場を去って行った。
帰宅し、関構築の図面を作成しようと下城に及ぶ途中、勘兵衛は不意に肩を掴(つか)まれた。振り返って見ると、手の主は兄の甚五左衛門であった。
「誰かと思えば、兄上とは。何ぞ御用にござりましょうや?」
「そちに忠告して置く。御家老の同意を得ずして、勝手に殿へ藩政の大事を申し上げるな。そちは上総佐貫に生まれ、先君政長公以来の家臣と思うかも知れぬが、それは違う。」
「父上は志摩国九鬼水軍より先君に引き抜かれ、因(よ)って三河武士に非(あら)ず。外様であると?」
「解(わか)って居るではないか。」
「では、兄上に御尋ね致す。兄上の禄は?」
「三百石じゃ。」
「某(それがし)も三百石にござり申す。御蔭で重臣の列に加わる事が叶(かな)い、藩政の仕置を司(つかさど)る町奉行をも任されてござる。御恩は御家老ではなく、藩公より浴(よく)せし物なれば、当然藩公の御為(おんため)に働くが筋でござりましょう。」
「そちは、危(あや)うい。大普請を藩公に申し上げるに、御家老を通さねば、家老職の面目に係る。要らぬ敵を作り、失脚し兼ねぬぞ。」
「御忠告、痛み入り申す。」
勘兵衛は兄に頭を下げ、去って行った。
斯(か)くして沢村勘兵衛は速(すみ)やかに、下小川村に関を築き始めた。勘兵衛の采配(さいはい)は見事で、年内には完成するに至った。
年の瀬も近付き、江戸参勤の仕度に追われていた忠興であったが、合間を見て、勘兵衛と共に下小川村へ視察に赴いた。
「これを見る事が叶(かな)っただけでも、帰国に及んだ甲斐(かい)が有ったという物じゃ。」
「畏(おそ)れ入りまする。しかし次回、殿が御帰国遊ばされるまでは、堤としての役目しか果せませぬが。」
「早う、用水路を開削(かいさく)致したい物じゃ。しかし勘定方の問題も有る。用人の小川半左衛門には、用水路整備の為、貯蓄を申し渡して置かねば。」
忠興は夏井川の流れを見物した後、北方に聳(そび)える二ッ箭(や)山を仰(あお)ぎ見、手を合わせた。そして山神湯殿権現に、小川江筋の完成を祈願した。
数日後、忠興は江戸参勤の為、再び藩政を国家老に託し、磐城平城を去って行った。しかし、此度(こたび)帰国の収穫は、大いに有った。一つに、領内検地が一気に進んだ事。もう一つは、領内開発に、新たな手段を見出せた事である。一方で、沢村勘兵衛という外様の家臣が、その力を遺憾(いかん)無く発揮できる仕組み作りを、考える必要が生じた。
この年は、楢葉郡上川内村に於(おい)て、子安川新田が拓(ひら)かれたとの報告が有った。また、下小川村に於(おい)て新たに関が築かれ、管理者が必要となる。関の周辺には人口が増え、後(のち)に下小川村より、関場村が分離独立した。
訃報(ふほう)も有った。出羽山形藩保科正之の長男にして、昨年病没した忠興妹が産みし幸松が、母の後(あと)を追う様に亡くなったのである。正室と嫡男を相次いで失った正之は、賀茂神社宮司藤木弘之の娘お万の方を、側室から継室に成した。お万の方は嘗(かつ)て、将軍家光の妹、東福門院の侍女であった。これにて内藤家と保科家の姻戚関係は、消滅する事となった。
一方幕閣では、人事が有った。老中筆頭の下総古河十六万石土井侍従利勝、並びに同じく老中、若狭小浜十二万石酒井讃岐守忠勝が、大老へ昇進した。また老中の欠員を埋めるべく、若年寄の武蔵岩槻五万九千石、阿部対馬守重次が登用された。
*
下小川村の関場村より、用水路を延ばす費用を工面する為に、忠興は暫(しば)し、物入りな帰国は控える事とし、江戸虎ノ門上屋敷に在って、国許(もと)からの報告を受ける事にした。
寛永十六年(1639)閏(うるう)十一月、箏(そう)曲の山住(やまずみ)勾当(こうとう)が、上洛して検校(けんぎょう)職に昇進し、上永(うえなが)と改姓して、諱(いみな)を城談(じょうだん)と称した。室町幕府は、盲人を対象とした自治組織、当道座を設(もう)けていた。京に当道職屋敷が有り、全国組織の中心として、司法、行政権を有していた。当道座に属する者は位の他に、一等官検校(けんぎょう)、二等官別当、三等官勾当(こうとう)、四等官座頭という、官職が与えられるからである。この組織は、江戸幕府にも引き継がれていた。上永検校は慶長十三年(1608)、奥州磐城平藩に生まれたと言われる。しかし生来目が見えず、当道座に入り、座頭城秀と称した。三味線(しゃみせん)の名人虎沢検校に学び、兄弟子加賀都(かがのいち)と共に大坂に於(おい)て、「古今独歩」の名声を博(はく)する。寛永十三(一六三六)年(1636)に上京し、寺尾検校城印を取立て師匠として、姓を山住と改め、勾当職に任官した。
上永検校城談は、後(のち)に肥前国諫早(いさはや) 慶巌寺の住職、玄恕(げんじょ)の許(もと)を訪れて、筑紫箏の秘曲を学んだ。後年八橋(やつはし)検校と称し、江戸で箏曲八橋流を創立する。これには内藤義概も、歌詞を作って支援した。箏曲を広く世間に広めた為、八橋検校は近世筝曲の祖と言われる。
*
寛永十七年(1640)四月、将軍家光の日光参詣につき、忠興は初石勤番を仰(おお)せ付かった。役目は、将軍が日光街道を往復するに当たり、軍勢を繰り出して初石を固め、将軍参詣の警固を行う物である。
当時、幕府は諸国に街道と関を整え、人々の往来を盛んにすると共に、関に於(おい)ては隠密(おんみつ)の取調べなどを行った。江戸を起点にする街道は多数有り。京へ上るには第一に東海道、第二に中山道である。
三代将軍は日 光詣(もう)でを頻繁(ひんぱん)に行い、日光街道が整備された。宿場町を見ると、江戸日本橋を発し、千住、草加、越ヶ谷、粕壁、杉戸、幸手、栗橋と進む。栗橋の先には利根川の流れが在り。唯一の渡し場として、関が設けられ、北国との人の出入りを監視した。続く中田、古河、野木の三宿は、下総古河藩の領分である。下野国へ入り、間々田、小山、新田、小金井、石橋、雀宮の後、北関東の要衝宇都宮に至る。その後、徳次郎、大沢、今市、鉢石を経て、日光東照宮へ辿(たど)り着く。日本橋と日光の間に在る宿場は、実に二十一ヶ所に及ぶ。
また水戸街道小金宿と我孫子宿の間に、西の日光街道へ延びる追分(おいわけ)が有り、これを日光東往還という。初石は往還の江戸川東岸に在り、その西は結城を経由して、日光街道雀宮宿へ至る。
忠興はこの時初めて、将軍家光が威信をかけて改築した、豪華絢爛(けんらん)な社殿をまのあたりにした。本殿は、奥まで立ち入れるのは将軍のみで、手前の間は徳川を姓とする尾張侯、紀伊侯、水戸侯のみ進む事ができる。他は石高順に入口近くの間で、参拝する事になる。嘗(かつ)て大坂の陣の後、目通りが叶(かな)った東照大権現であるが、随分と遠くへ行ってしまわれたと、忠興には感じられた。
*
三代将軍家光は、正室鷹司孝子姫を遠ざけ、側室を持つ事にも興味を抱(いだ)かなかった。因(よ)って乳母(うば)の春日局(かすがのつぼね)は、将軍家が断絶し、東照大権現の遺命に従い、名古屋もしくは和歌山に幕府が移される事を、強く危惧(きぐ)していた。春日局は大奥の制度を定め、将軍が興味を抱(いだ)きそうな女性を、市中からも集めた。
斯(か)くして寛永十八年(1641)八月三日、昨年の日光詣(もう)での御利益(ごりやく)有ってか、春日局が将軍に勧めた浪人の娘、お楽の方が男子を出産した。家光はこの長男に、東照神君と自身の幼名、竹千代の名を授(さず)けた。
天下の慶事を祝いに、諸大名は続々と登城に及んだ。忠興もこれに同じく、太刀など諸々(もろもろ)の品を将軍に献上した。
家光は幼少より病(やまい)を得勝ちで、加えて子もいなかったので、将軍世嗣は第一に尾張光義、第二に紀伊光貞とされていた。しかし竹千代君誕生に因(よ)り、四代将軍は家光嫡男と変更された。これにて家光は、尾張家、紀伊家に遠慮が要らなくなり、東照神君が定めし徳川御三家、即(すなわ)ち将軍家光、尾張義直、紀伊頼宣の内、将軍をその上に置いて外し、代りに水戸頼房を加えた。こうして徳川御三家は、尾張、紀伊、水戸と改められた。しかし東照神君の遺言通り、水戸家から将軍を出す事は許されぬままであった。
この年、忠興は国許(もと)の町奉行、沢村勘兵衛を江戸へ呼び寄せた。そして江戸家老加藤又左衛門、御用人飯田治左衛門を同席させて、小川関場の事を尋ねた。
「一昨年前に完成した下小川の関は、その後どうか?」
「今の所、増水時にも決壊する事無く、治水上問題はござりませぬ。」
「重畳(ちょうじょう)じゃ。して、水路を延ばす計画を聞きたい。」
「はっ。然(しか)らば…」
勘兵衛は懐(ふところ)より地図を取り出し、忠興の前に広げる。又左衛門と治左衛門は、その両脇へ移った。
「先ずは関場より下小川を縦断して西小川、上平窪と通しまする。熊野権現の南で真似井川の下を潜(くぐ)らせ、中平窪からは諏訪明神鎮座の丘の麓(ふもと)に沿って、下平窪、中塩へ通しまする。」
「ここで、新田川とぶつかるのう。」
「山裾(すそ)を通る水路には高さ有り。ここでは橋の如く、川の上を通しまする。さらに幕ノ内、鯨岡、鎌田の北を通り、ここからは幾筋かに分岐させて、神谷(かべや)地方一円を潤(うるお)しまする。」
又左衛門が、脇から尋ねる。
「これは、高い技術が必要と思われるが。」
「その辺りは、地勢を具(つぶさ)に調査の上、強固な水路を築く必要がござりまする。加えて、多数の堰(せき)を設ける事で、水の量を調節致しまする。」
家老も用人も、半信半疑の様である。忠興は、重ねて尋ねる。
「自信は、有るのだな?」
勘兵衛は畏(かしこ)まって答える。
「大自然を相手に、人智は必ずしも及び申さず。然(しか)れども、長年に渡る人の営(いとな)みは、技術を日々進歩させ申す。目下、某(それがし)は平穏な地に水路を拓(ひら)く事は能(あた)えども、動乱、天災を凌(しの)ぐ保証はござりませぬ。然(さ)れど、斯(か)かる普請(ふしん)は藩内上下を問わず豊かに致すべく、殿に御勧め申し上げし以上、不始末の暁(あかつき)には、この命を捧(ささ)げまする。」
確かに、天地動乱を経て猶(なお)、無事で有れば称賛に値し、壊れる方が自然である。忠興は腹を決めた。
「遖(あっぱれ)なる物言いじゃ。確かに城を例に挙げても、地震や大雨で破損致すが、その都度修復致す。水路も同じであろう。」
忠興は、書翰(しょかん)を又左衛門に渡す。
「藩政の新たな仕組みじゃ。江戸家老の存念を聞きたい。」
又左衛門は書翰を広げ、音読する。
「藩の民政は従来、町人は町奉行、百姓は知行主がその任に当たりしが、近年開墾が盛んに成るといえども、領分の事は知行主に任され、藩を挙げて開発に及ぶ事能(あた)わず。因(よ)って斯(か)かる弊害を取り除くべく、新たに郡(こおり)奉行を設けて、藩領開発を一手に委(ゆだ)ねさせ、一層の開墾促進に当てるべし。郡奉行には知行五百石を与え、沢村直勝をこれに任ずる。」
読み上げながら、又左衛門の額に汗が滲(にじ)む。
「これは、確かに目新しき物にござりまするな。」
従来は、藩主の下に家老職が諸事を取り決め、それに従い重臣が知行地を治めて来た。郡奉行は家老職の下に在るも、藩領全域の知行地に対し、沙汰を下す事ができる。家老は領内が平穏であればそれで良いが、郡奉行は積極的に開発を推し進めるのを、職務とする。当然、保守派が国家老を頂き、改革側の郡奉行と衝突する事が懸念された。
「国許(もと)が、承服致しましょうか?」
「まあ、急(せ)いては事を仕損ずる。勘兵衛。」
「はっ。」
「私(わし)の墨付(すみつき)を与える故(ゆえ)、帰国の後(のち)は郡奉行の就任と、五百石への加増を、家老達に願い出よ。但(ただ)し、来年までは蓄財に努める故(ゆえ)、目立った動きは致すな。大人しくして居れば、家 老達も徒(いたずら)に反対は致すまい。その間、江筋開削の計画を、より綿密(めんみつ)に練(ね)る様(よう)。」
「ははっ。」
又左衛門から任命状を受け取った勘兵衛は、地図を畳(たた)んで再び懐にしまい、一礼して去って行った。その背中を眺めながら、又左衛門は忠興に尋ねる。
「真(まこと)に、磐城郡一円を潤す水路など、作れるのでござりましょうか?」
「勘兵衛は、既(すで)に治水を成功させて居るぞ。まあ、御手並拝見と行こうではないか。」
そして忠興は、御用人飯田治左衛門に命ずる。
「小川江筋の開削は、我が威信に係る大事業である。国許(もと)に費用の蓄えは命ずるが、この江戸藩邸でも節制に努め、備蓄を致す様(よう)。」
「承知致しました。」
忠興は、勘兵衛の手腕に 期待すると共に、一郡悉(ことごと)く潤す用水路がどの様な物か、興味を抱(いだ)いていた。
この年、泉藩主にして忠興の異母弟内藤政晴が、磐前郡住吉村の住吉大明神を再建した。この流(ながれ)造(づくり)の本殿は後世まで残り、海上交通祈願の神として、久しく崇(あが)められた。
*
寛永十九年(1642)三月、内藤家虎ノ門上屋敷に上使が訪れ、三の丸御殿の普請(ふしん)を命ぜられた。同じく任に当たるのは、いずれも皆譜代大名で、越後長岡七万四千石牧野右馬允(うまのじょう)忠成、志摩鳥羽二万石内藤志摩守忠重、三河西尾三万五千石太田備中守資宗である。内藤忠重は義清の曾孫(ひまご)に当たり、忠興とは同族である。また太田資宗は当時、林羅山と共に武家の系譜「寛永諸家系図伝」を編纂(へんさん)していた。
内藤家の系譜に触れて見る。本来の姓は藤原であり、大化の改新で功績有り、天智天皇に仕えた藤原鎌足を家祖とする。藤原氏の傍流に、平将門を討ち取りし藤原秀郷有り。秀郷の子千晴は安和(あんな)の変で失脚し、その後、頼清、頼俊、行俊と続き、頼俊が近江検校(けんぎょう)職と共に、内舎人(うどねり)の官職を拝命した。内舎人は律令制の時、中務(なかつかさ)省に属して、名家の子弟から選任し、天皇の護衛や雑役を任務としたが、平安期からは、家柄の低い者に任される様になった。その子行俊は内藤検校と称し、内舎人の官職に由来する内藤を、姓として用いる様になる。即(すなわ)ち行俊が、内藤氏の祖である。その後、惟季(これすえ)、盛俊、盛家と続く。盛家は源頼朝に仕え、鎌倉幕府創立に与力する。その後、盛親、盛継、親家、家清と続き、内藤家は鎌倉時代、各地に分かれて行った。忠興の妹婿(むこ)であった、保科正之の家臣にも内藤氏有り。武田信玄二十四将と恐れられた、内藤昌豊の末裔である。
台命が下り、忠興は江戸詰めの重臣をして、御殿普請の奉行に任命した。その他に、今年は東照大権現の二十七回忌が、翌月に控えている。忠興は再び初石勤番を仰(おお)せ付かり、軍勢を整える必要も有った。
「物入りじゃのう。」
帳簿を見てぼやく忠興に、家老の加藤又左衛門が相槌(あいづち)を打つ。
「真(まこと)に。」
「江筋開削の備蓄が、大分(だいぶ)吐(は)き出されるのう。」
年内の江筋起工は、これにて困難となった。
四月十三日、家光の日光参詣の折、勤番を務める譜代大名も本陣に召されて、料理が下された。忠興が箸を取って食べ始めるも、隣に座す三河吉田藩四万五千石、水野監物忠善(ただよし)は、一向に箸を取る様子が無い。忠興は心配して、忠善に尋ねる。
「如何(いかが)された?腹の具合でも宜しからずや?食が進まぬ様に見受けられるが。」
「某(それがし)は精進物が嫌い故(ゆえ)に、進み申さず。」
然(さ)も当然の如く答えるのを見て、忠興は箸を置いた。
「よく聞かれよ。」
忠興の顳顬(こめかみ)に、血管が浮き出る。
「先年大坂の陣の砌(みぎり)、我が軍は腹を空(す)かし、竹束の陰で焼飯を食べて居った。そこへ貴殿の御父君忠元殿が現れ、飢(う)えに及びたる故(ゆえ)、無理を押して兵糧の分配を願われるので、私(わし)は已(や)むなく、兵の食べ残しを分けた。忠元殿はそれを平らげ、これで力が付いたと感謝を申されて、再び戦場(いくさば)へ赴いて行かれた。」
ここから、忠興の語気が荒くなる。
「焼飯も精進物じゃ。加えて手前に並ぶは、上様の下され物なるぞ。精進嫌いも、時を選ばれよ。」
近くの大名衆が取り成しに来たので、忠興は一言、最後に申し添えた。
「忠元殿御病中の時、御子息の事を宜しくと頼まれた故(ゆえ)、斟酌(しんしゃく)無く申し上げた。」
そう言われては、忠善も我を通す訳には行かない。渋々、箸を取った。忠興はそれを見届けると、静かに食事を取り直した。
この年、楢葉郡手岡村の郷与力、高久七左衛門が出奔(しゅっぽん)したと、富岡の加藤次郎兵衛に注進が有った。相馬藩領に逃げられては一大事と、次郎兵衛は老身を押して馬で本道を駆け、向原で七左衛門に追い付いた。互いに槍を交え、次郎兵衛は七左衛門を討ち取るも、自身も深手を負い、その場に斃(たお)れた。磐城平藩は速(すみ)やかに、次郎兵衛の子に二百石相続の手続きを行った。
また領内に於(おい)て、四年振りに新田開発の報告が有った。磐城郡上小川村高崎と、楢葉郡大久村桃木沢である。
*
寛永二十年(1643)四月、陸奥会津四十万石加藤明成が、幕府に所領の返上を願い出た。明成は家臣、領民から財を巻き上げ、家老堀主水はこれを諫(いさ)めたが、却(かえ)って職を解かれ、四年前に出奔する騒動が有った。結局、堀主水は幕府から明成に引き渡され、処刑された。以後、会津藩政は乱れ、所領返上という椿事(ちんじ)に至ったのである。
明成の父加藤嘉明は、豊臣秀吉賤(しず)ヶ岳の七本槍に数えられる、名将であった。嘉明の幕府に対する功績から、特別に一万石の大名として存続する事が許可されるが、明成はこれを断り、代りにその子明友が石見吉永一万石の藩主となり、明成は隠居となった。按ずるに、加藤家は豊臣恩顧の大名故(ゆえ)に、その締付(しめつ)けが強く、それに明成が堪(た)えられなくなった物と思われる。
斯(か)くして新たな会津藩主に抜擢されたのは、嘗(かつ)て忠興の妹婿(むこ)であった、出羽山形二十万石藩主の、保科正之であった。将軍家光は実弟正之に、会津、耶麻両郡に越後津川地方、下野塩原地方を加え、二十八万石への加増を申し渡した。
しかし正之は、水戸家の実高が二十五万石である事から、水戸家との不仲を招く事を案じ、会津郡南部及び下野国内の、併せて五万石分を辞退した。家光は弟を水戸家の上に立て、保科家の面目が立つ様にしてやりたかったのだが、正之の辞退の意思は強く、已(や)むなく会津藩は二十三万石とされた。その代りに、幕府天領とされた五万石分の預かりを、会津藩に命じた。家光は、東照大権現の眠る日光の地を、弟に任せたかったのかも知れない。また、保科正之は幕閣に於(おい)て、大老並の扱いとされる事になった。
正之の栄転に、忠興は祝いを直(じか)に述べたかったが、一大事業を前に、帰国に及んでいた。忠興は磐城平城本丸三階櫓(やぐら)に重臣を召集し、小川江筋計画を、郡奉行沢村勘兵衛に説明させた。完成までの予定は、凡(およ)そ十年。藩に前例の無い巨大事業に、家臣の中には疑念を抱く者も、少なからずいた。藩を挙げて勘兵衛に協力させるべく、忠興は国許(もと)に腰を据(す)える必要が有ったのである。
勘兵衛の計画を聞いて、家臣の一人が尋ねた。
「某(それがし)の知行地は、磐前郡に在り申す。磐前郡に江筋を通す事は、能(あた)わざるや否(いな)や?」
「然(しか)らば、可と御答え申す。」
勘兵衛にはもう一つ、別に江筋を開く計画を持っていた。しかしここで、家老の安藤清右衛門が話を区切る。
「まあ、領内を一度に切り開くは、無理な話なれば、先(ま)ずは小川、平窪の水路を見た上で、今後の話を致したく存ずる。」
御手並拝見、と言った所である。勘兵衛は郡奉行就任と共に、五百石取りとなり、武頭並の扶持を得た。出る杭(くい)は打たれる。勘兵衛を妬(ねた)む者は、その粗(あら)を探(さぐ)っている。
ともかく、忠興の全面的な後(あと)押しを得て、小川江筋は下小川村より着工される運びとなった。
九月、将軍家光の乳母春日局は、重病の床(とこ)に在った。先年家光が疱瘡(ほうそう)を得て危篤に陥(おちい)った折、春日局は伊勢神宮に詣(もう)でて、生涯の薬断(だ)ちを誓うと共に、家光の平癒を祈願した。因(よ)って、典医が処方する薬を一切口にせず、見舞に現れた家光が薬を飲む様(よう)命じても、家光の御加護が失われるとして、これを拒(こば)んだ。そして十四日、春日局は病(やまい)が悪化し、身罷(みまか)った。家光が生まれてから、その生い立ち、治政を支えて来た最大の恩人は、乳母の春日局と言えるであろう。家光は生母崇源院の死にも見せなかった涙を、春日局の為に流したという。
この頃、将軍の姪(めい)に当たる興子(おきこ)天皇が退位し、明正上皇となった。十月三日、明正院の異母弟にして後水尾(ごみずのお)院の第四皇子、紹仁(つぐひと)親王が践祚(せんそ)し、皇位に就いた。紹仁天皇の養母は将軍の妹、東福門院和子(まさこ)であるが、徳川家の血が皇室に入ったのは、一代限りとなった。
*
寛永二十一年(1644)、磐城平藩家老兼組頭千二百石、加藤又左衛門政次が死去した。これにて江戸家老は、上田甚右衛門信綱一人となった。家老職を命ずるには、一千石程度に加増してやる必要が有る。加えて、家柄や経歴も考慮される故(ゆえ)、直(ただ)ちに補填(ほてん)する事は見送られた。
五月二十四日、将軍家光に三男が生まれ、長松と名付けられた。この名は二代将軍、台徳院殿の幼名である。次男は夭折(ようせつ)の為、既(すで)に身罷(みまか)っている。長松も嫡男竹千代と同じく側室の子であるが、異母弟である。母は京の町人の娘、お夏の方であった。
七月十日、土井利勝と酒井忠勝が揃(そろ)って、大老職を辞任した。二代将軍の頃から幕閣の中枢を担(にな)って来た土井利勝は、この年に逝去した。老中を纏(まと)める大老の役目は、以後将軍の弟である保科正之が、一人で務める事となった。
十二月、将軍嫡男竹千代に、家綱の名が与えられた。また二十六日、昨年の新帝即位を受けて改元が行われ、寛永二十一年は正保(しょうほう)元年と改められた。
この年、中国大陸では王朝の交代が有った。西暦で1368年に朱元璋が即位して以来、久しく大明帝国が大陸を支配して来たが、十七代崇禎帝の時に大規模な反乱が起り、李自成が順王と称して北京へ侵攻し、紫禁城を陥落させたのである。崇禎帝は自害し、明朝は滅亡した。この時、万里の長城の東、渤海近くに在る山海関の東には、満州族の統一王朝、清(しん)が建国されていた。国号を清と改めた皇帝、愛新覚羅皇太極(ホンタイジ)率(ひき)いる八旗軍は二度、李氏朝鮮王国へ侵攻し、朝鮮王国は既(すで)に民の冊封を離れ、清に服属していた。山海関では明の名将呉三桂が、清の侵攻を防いでいたのだが、明朝滅亡を知り、清に投降した。清はこの時、七歳の幼帝福臨(フリン)を頂いていたが、叔父の摂政王多爾袞(ドルゴン)が呉三桂と共に中原へ侵攻し、李自成軍を打ち破った。北京を制圧した清国は順治帝福臨(フリン)の下、明の広大な領土を呑(の)み込んで行く。
*
正保元年は数日で終り、年が明けて正保二年(1645)となった。四月に将軍嫡子家綱元服の儀が執り行われ、二十三日には従二位権大納言に叙任された。しかし家綱はこの時、未(いま)だ五歳の幼子であった。
将軍世嗣は、江戸城西の丸を住居とするのが慣(なら)わしである。幼少故(ゆえ)に家綱の西の丸入りは日延(の)べとなったが、元服を機に見物する運びとなった。この時、老中松平信綱が上使として虎ノ門邸を訪れ、忠興に西の丸勤番を申し渡した。即(すなわ)ち、将軍嗣子の警固と、案内役である。
後日、忠興は警固の兵を西の丸へ配備し、自身は本丸に赴き、将軍家光に拝謁(はいえつ)した。隣には、嫡子家綱の姿も有る。
「麗(うるわ)しき御尊顔を拝し、恐悦至極にござりまする。また若君恙(つつが)無く御元服の段、重ねて御慶(よろこ)び申し上げまする。」
忠興が挨拶(あいさつ)申し上げた後、信綱が献上品を披露(ひろう)する。
「内藤帯刀殿より、熨斗(のし)鮑(あわび)が献上されまする。」
小姓は木箱を家光、家綱親子の前に置き、蓋(ふた)を開ける。家光は鮑(あわび)を見ながら、忠興に尋ねる。
「磐城には海が有るとか。」
「御意(ぎょい)。」
「流石(さすが)に見立てが良いのう。」
「有難う存じまする。」
今度は隣から、家綱が尋ねる。
「山の物は無いのか?」
「此度(こたび)は、持参致しませなんだ。では次回は、松茸(まつたけ)などを献上致しまする。」
家光は、機嫌良く声を掛ける。
「忠興は果報者じゃ。山海の珍味を味わう事ができる。」
「全て、上様の御恩顧に因(よ)る物にござりまする。」
「殊勝なる物言いじゃ。帯刀に杯を取らせよ。」
忠興は注(つ)がれた酒を一気に飲み干(ほ)し、四方に戻した。
「有難き幸せ。」
忠興は将軍の許(もと)を辞し、信綱と共に家綱を西の丸へ導いた。
西の丸に入り、腰を据(す)えた家綱の側に信綱が控え、御前に忠興が畏(かしこ)まる。
「若君の西の丸御成(おなり)、誠に御同慶の至りと存じ奉(たてまつ)りまする。」
傍(かたわ)らから、信綱が言上する。
「嘗て、若君の祖父君に当たられる台徳院殿様が、初めて上総国東金で鷹狩を遊ばされし折、扈従(こじゅう)せしは帯刀殿の父、左馬介政長殿にござりまする。内藤家は将軍家嫡子の世話役を務めし先例有れば、宜しく御見知り置きの程を。」
「相(あい)解(わか)った。帯刀、宜しく頼むぞ。」
「ははっ。」
「では、帯刀に歌を頼みたい。」
急な仰(おお)せに、忠興は戸惑(とまど)った。側では、信綱が笑っている。
「若君の西の丸御成(おなり)に、一番。」
両者に扇(あお)ぎ立てられ、忠興は困惑しながらも、小歌を二番歌った。
土井利勝が大老に昇進した後、老中首座は松平信綱に移った。信綱は武蔵国内の開発を進めると共に、先年島原の乱を鎮圧し、昨今は鎖国政策を推し進めている。信綱は家光が幼少の時から仕え、その信任は厚い。しかし大河内松平家は、将軍の偏諱(へんき)を与えるには、家柄が及ばない。家光が嫡子に家綱の名を与えたのには、信綱の影響が有った事を否定できない。
八月六日、忠興の異母弟にして泉二万石藩主、内藤政晴が二十歳で逝去した。訃報(ふほう)を受けて忠興は、泉藩邸へ急行した。
政晴の傍(かたわ)らには、生母唐橋近隆卿の娘が、この年生まれたばかりの政晴の長男を抱いて、哀(かな)しみに暮れていた。忠興の到着を聞き、泉藩家老岡忠左衛門が跪(ひざまず)く。
「無念にござりまする。」
忠興は弟の側に腰を下ろし、顔に被(かぶ)せてある白い布を取った。
「この戯(たわ)けが。そちはまだ二十ではないか。私(わし)の半分も生きて居らぬぞ。」
手を震わせながら、忠興は布を戻した。先代内藤政長に男子は四人有り。次男左兵衛尉政次は元和五年(1619)卒。三男右馬介政重は寛永十年(1633)卒。そして此度(こたび)、四男兵部少輔政晴が没し、忠興は弟三人全てに先立たれた。
忠興は、忠左衛門に確認する。
「泉藩家督の件は、幕府へ届け出たであろうな?」
「はい。しかし一歳の幼君に二万石の仕置は難しかろうと、幕閣より御返答有り。」
「泉藩は、私(わし)が台徳院殿様より賜りし所領なれば、転封など以(もっ)ての外(ほか)じゃ。忠左衛門!」
「ははっ。」
「虎ノ門に遣(つか)いを出せ。私(わし)は暫(しばら)く泉藩邸に居る故(ゆえ)、急用有る時は此方(こちら)へ赴く様(よう)にと。」
「承知。」
忠興は続いて、唐橋氏の方へ向き直る。
「御安心下され。泉藩は必ずや、政晴の子に相続させ申す。」
「今は、御本家のみが頼りにござりまする。宜しく、御頼み申し上げまする。」
唐橋氏は、深く頭を下げた。
後日、忠興を喪主と成し、虎ノ門に近い西久保で、葬儀を執り行った。政晴の法名は光台院殿従五位下前兵部長誉月秀了大居士。忠興はこの地に、弟の為に寺院を建立させた。三年後に落成し、月秀山栄照寺となる。
葬儀の後、忠興は政晴の子に、内藤家嫡男に代々受け継がれて来た、金一郎の名を与えた。その上で忠興は、松平信綱の邸を訪れた。御供には、泉藩家老岡忠左衛門も加えた。
客間で待っていると、やがて信綱が姿を現した。
「これは帯刀殿、家綱君西の丸御成(おなり)以来にござるな。」
信綱が腰を下ろすのを待って、忠興は返答する。
「如何(いか)にも。あの時は下手(へた)な歌を唄(うた)わされ、思い出すだけで顔から火が出る思いにござる。」
「若君は、貴殿を御気に召された御様子でござった。」
「これは、光栄の極み。」
暫(しば)し雑談した後、信綱は忠興に尋ねる。
「さて、後ろに控えし御仁は、御重臣と御見受け致すが。」
「伊豆守殿に、身分を申し上げよ。」
忠興に促(うなが)され、忠左衛門は座礼をとる。
「泉藩家老、岡忠左衛門にござりまする。」
「泉藩?藩主は確か…」
ここで、忠興が説明に入る。
「我が弟政晴は、先日果無(はかの)うなり申した。」
「おお、兵部少輔殿でござったな。これは、御悔(く)やみ申し上げる。」
信綱は頭を下げ、忠興と忠左衛門は答礼する。
「して、家督相続の儀は?兵部少輔殿に御子は在(おわ)されるのか?」
忠興が答える。
「一歳の、金一郎が居り申す。」
「一歳…」
信綱は、暫(しば)し考え込んだ。
「一歳では、藩政を司(つかさど)れますまい。」
「それは、この忠興が後見の上、家老岡忠左衛門をして、補佐に当たらせ申す。」
「しかし、夭折(ようせつ)の怖れも有り。少々難題にござりまするな。」
忠興は、頭を下げる。
「泉藩は、我が父政長の遺産にござれば、伊豆守殿には何卒(なにとぞ)、よしなに御計らいの程を。」
東照神君以来の譜代大名に頭を下げられては、信綱も無下(むげ)にする訳(わけ)には行かない。
「では、某(それがし)より上様へ御取り成し致すが、泉藩存続の事を考えますると、直(ただ)ちにとは参りますまい。」
「全て、伊豆守殿に御任せ致し申す。」
忠興は念を押して、甥(おい)金一郎の事を頼み、信綱の邸を辞して行った。
その後、忠興は泉藩邸に留まり続け、岡忠左衛門と共に泉藩政を指揮した。虎ノ門邸は、二十七歳の長男義概(よしむね)に任せた。
泉藩領は、忠興が家督相続まで領有していた、思い入れの深い土地である。菊多郡領を懐(なつ)かしむ一方で、忠興は磐城郡の、小川江筋計画も気に掛かっていた。
磐城郡内百姓の間では、小川江筋に向けられる期待が、大いに膨(ふく)らんでいた。この年、修験宗羽黒派が江筋計画の成就を祈願し、上平窪村横山に大日如来を祀(まつ)った。
また磐城平藩では、寛永十二年(1635)以来行って来た総検地が、十年を費やして、漸(ようや)く完了した。国家老安藤清右衛門と上田外記は報告の為、江戸虎ノ門邸に使者を送ったが、忠興不在に因(よ)り、泉藩邸へ向かう事になった。
程無く泉藩邸に到着した使者は、忠興に国家老からの報告書を差し出した。それを受け取った忠興は、使者に対して、虎ノ門上屋敷で休む様(よう)にと、犒(ねぎら)いの言葉を掛けた。
国許(もと)で何か一大事が出来(しゅったい)したかと思ったが、書出しに検地の事と書かれてあるのを見て安堵すると共に、期待と不安が同時に胸を過(よぎ)った。そして、仮の自室に戻って報告書を打ち広げると、どこの村が何石と、細かく記(しる)されている。最後に、藩領四郡の総石高が書かれてあった。それを見て、忠興の体は打ち震えた。磐城平藩の実高は九万石。父政長が七万石で入部してから二十三年で、藩領は二万石も増えていた。
忠興は直(ただ)ちに虎ノ門上屋敷へ人を遣(つか)わし、組頭宿屋求馬を召し出した。やがて泉藩邸に到着した求馬は、忠興居間の入口で座礼をとった。
「御呼びにござりましょうか?」
「藩の大事じゃ。近う。」
「ははっ。」
忠興は求馬を直(す)ぐ側へ招いて、申し渡す。
「国許(もと)より総検地の報告有り。総じて九万石との事。」
「おお。」
求馬の表情が、俄(にわか)に明るくなる。しかし忠興は真顔のまま、話を継ぐ。
「そちは直(ただ)ちに国許へ赴き、我が意を重臣達へ伝えよ。実高を御公儀へ届け出れば、確かに家格は上がる物の、幕府より命ぜられる普請(ふしん)が増やされ、都合が悪い。加えて、近隣諸藩に要らぬ警戒をされ兼ねぬ。」
「確かに、仰(おお)せの通り。」
「此(こ)は御公儀の信頼に係る。ゆめゆめ、当家の実高が上がりし事を、他家は勿論(もちろん)、当家の家老、組頭、奉行、用人を除(のぞ)く誰にも、悟られる事の無き様(よう)。」
「確(しか)と、承り申した。」
「万一露顕致した時に備え、この儀は密命として、文書には致さぬ。」
「承知。直(ただ)ちに国許へ帰り、御家老衆に殿の御内意を伝えまする。」
「頼んだぞ。」
「ははっ。」
求馬は一礼すると、何事も無かったかの如く、虎ノ門へ戻って行った。
*
明けて正保三年(1646)一月八日、将軍家光に四男徳松が生まれた。生母は京の八百屋の娘で、二条家の家司(けいし)本庄宗利の養女として大奥に上がった、宗子である。新年の祝いに続き、諸大名は若君誕生の御祝いを、将軍家光に申し上げた。
二月に入り、漸(ようや)く上使が泉藩邸を訪れ、沙汰を下した。これには内藤宗家の当主として、忠興が承った。幕府の裁決は、先君政晴の遺児金一郎に、そのまま相続を許す物であった。忠興は謹(つつし)んで、上使に御礼を申し上げた。
上使が城へ戻った後、忠興は金一郎とその祖母唐橋氏、加えて泉藩家老岡忠左衛門を召し出して、泉藩無事存続の儀を伝えた。金一郎は幼子故(ゆえ)によく解らない様子であったが、唐橋氏と忠左衛門は涙を湛(たた)えて喜んだ。
忠興は忠左衛門に申し渡す。
「金一郎は藩主といえども、その任を務める事能(あた)わず。元服まではそちが藩主名代として、諸事滞(とどこお)り無く果すべし。」
「畏(かしこ)まりました。」
続いて忠興は、唐橋氏の方へ向き直る。
「これにて、肩の荷が下り申した。某(それがし)は虎ノ門へ戻りまするが、金一郎の事を宜しく御頼み申す。困り事が有れば忠左衛門へ。大事に至る怖れが生じし折は、当家へ相談されよ。」
「この度は誠に、忝(かたじけの)う存じまする。」
忠興は唐橋氏に答礼し、久しく詰めていた泉藩邸を後(あと)にして行った。
めでたく泉藩は残され、加えて二万石の増収という慶事が続く忠興に、今一つ嬉しい報告が有った。磐城郡上小川村に、横田新田が拓(ひら)かれたのである。
*
翌正保四年(1647)は、特に大きな事件は無かった。十一月十三日、将軍家光が王子村で薩摩藩主島津光久の犬追物を御覧になった折、忠興は桜田御門の警固を仰(おお)せ付かった。また領内に於(おい)ては、磐前郡上船尾村の民が愛宕大権現を造営した。
*
年が明けて正保五年(1648)二月十五日、上方で何か不吉な事が有ったのか、正保(しょうほう)が消亡(しょうぼう)に通じるとの事で、改元が行われた。元号が改まり、慶安(けいあん)元年となった。
四月十七日、将軍世嗣家綱君が日光を参詣する事となり、忠興には今市口の勤番が命ぜられた。西の丸見物の折、小歌で覚えが良かったのか、今市は日光東照宮と目と鼻の先である。忠興は将軍家の信頼を損(そこ)ねぬ様(よう)、万全を期して護衛の任を務めた。
無事に今市口勤番の役を務め上げた 忠興は、幕府に帰国を願い出た。藩領の事も有るが、幼君を頂いた分家の泉藩政が乱れて居らぬか、気に掛かったのである。幕府はこれを許可し、忠興は六月十日、奥州へ下向して行った。
磐城平城へ向かう途中、菊多郡初田村で忠興は、進路を東へ取った。洞(ほら)村を過ぎた先が、泉藩二万石の陣屋が在る泉村である。忠興が陣屋を訪れると、重臣の山田三郎四郎、岡本治左衛門、渡部庄兵衛が迎えに出た。
「先年は、当家の存続に一方(ひとかた)ならぬ御尽力を賜り、恐懼(きょうく)して御礼申し上げまする。」
三郎四郎以下重臣三名は、跪(ひざまず)いて頭を下げる。忠興は頷(うなず)くと、重臣達に尋ねる。
「どうじゃ、藩政の方は?」
これに対し、治左衛門が答える。
「はっ。目下、城下町の整備に力を注(そそ)いで居りまする。御本家帯刀様より御助言を賜る事が叶(かな)えば、幸いと存じまするが。」
忠興も十二年とこの地を治めて来たので、幾(いく)らか地理に明るい。
「されば、滝尻山の上に諏訪大明神が鎮座する訳(わけ)を、存じて居るか?」
「はて…」
重臣達は皆、首を横に振った。
「ならば教えて進ぜよう。まだ戦国の世であった後奈良朝の天文年間に、滝尻を大津波が襲った為じゃ。泉は藤原川の河口に近い故(ゆえ)、いかに太平の世とは申せ、平地に陣屋を築くのは宜しくない。徐々に、釜戸川西岸の山の上にも、郭(くるわ)を築くが良かろう。」
「成程(なるほど)。」
感心する重臣達に、忠興は問う。
「所で、泉藩の氏神様は何処(いずこ)に鎮座される?」
「さて…」
これにも、答えられる者はいない。
「武士なれば、変事起りて出陣に及びし折は、氏神様の前で戦勝を祈願し、藩士の心を纏(まと)める必要が有ろう。藩祖政晴の外祖父は唐橋宰相殿。そして唐橋家の祖は菅原道真公じゃ。なれば北野天満宮を、城下に勧請(かんじょう)してはどうか?」
「妙案にござりまする。」
重臣達は皆頷(うなず)いた。そして、庄兵衛が申し出る。
「長旅で御疲れの事と存じまする。今宵(こよい)は当陣屋で、緩(ゆる)りと御寛(くつろ)ぎ下さりませ。」
「気持は有難いが、泉陣屋の主は金一郎殿じゃ。本家とは申せ、不用意に足を踏み込む事は罷(まか)り成らぬ。」
「その様(よう)な事は…」
「よいか?金一郎殿が名君と成るか否(いな)かは、全てそち達重臣の手に掛かって居る。ゆめゆめ不和を起し、家中が乱れる事の無き様(よう)。」
「ははっ。」
「では引き続き、各々が職務に邁進(まいしん)されよ。私(わし)は平でやるべき事が待って居る故(ゆえ)。」
「態々(わざわざ)御足労頂き、有難う存じまする。」
忠興は頷(うなず)くと、輿(こし)に乗り込み、浜街道へ戻って行った。
泉藩重臣達は、危(あや)うく潰(つぶ)れかかった藩の存続が叶(かな)った事で、団結心が生じている様に見受けられた。一先(ひとま)ずは安心の様であるので、忠興は愈々(いよいよ)、本領の新たな政策に専心し始めた。
沢村勘兵衛が郡奉行へ転任し、町奉行は三人となったが、それでも平の城下は、よく治まっている様に思えた。
本丸三階櫓(やぐら)に入って、重臣達から帰国の御祝いを受けた後、暫(しば)し旅の疲れを落しつつ、忠興は領内の総検地帳に目を通した。
数日後、忠興が先ず行ったのは、小川江筋の視察であった。小川の関場より、平窪の平野を貫通し、途中多くの堰(せき)が築かれて、水の流れが制御されている。既(すで)に平の北方まで開削(かいさく)が進み、少なくとも五千石以上の田畑に、旱魃(かんばつ)の心配が無くなっていた。
「見事な物じゃのう、勘兵衛。」
「畏(おそ)れ入りまする。」
視察には郡奉行沢村勘兵衛の他、家老の安藤清右衛門、上田外記も随行しているが、忠興は江筋の見事さに心を奪われ、常に勘兵衛を側に置いている。
「これが下神谷へ至れば、後(あと)どれ位の田畑を潤(うるお)せる?」
「ざっと見積もりし所、三千五百石。加えて水路を分岐させ、平野の北方を伝い仁井田川へ流さば、併(あわ)せて一万石以上となりまする。」
「一万五千石が、干(ひ)上がらなくなると申すか?」
「御意。加えて、もう一つの計画を練って居る所にござりまする。」
意外な事に、忠興は興味をひかれた。
「申して見よ。」
「されば、磐前郡内にも江筋を開くべく、上好間村に同じく関を築き、中好間から下好間、そして城下の久保町で、好間川に流しまする。これで凡(およ)そ二千石。」
「おお、城下が四方潤えば、これ程心強い事は無い。城に戻り、詳しく協議致さん。」
小川江筋の順調な仕上り様(よう)を見て、忠興の勘兵衛に寄せる信頼は、益々(ますます)強まった。
磐城平城へ立ち戻り、忠興は重臣を召し出した上で、沢村勘兵衛に好間(よしま)江筋計画を、具体的に説明させた。
「どうじゃ?」
忠興が可否を問うと、先ず家老の上田外記が言上する。
「再び、物入りとなり申しまするな。小川江筋計画が完了せぬ今、好間川で同様の普請(ふしん)を行うは、如何(いかが)な物でござろうか?」
隣で、家老安藤清右衛門も頷(うなず)く。
「加えて、勘兵衛殿は小川を担当し、今また好間の指揮を執れる者が、果して居りまするかな?」
忠興は少し考えた後、御用人小川半左衛門に尋ねる。
「勘定方の意見を聞きたい。」
「はっ。好間江筋は小川と異なり、四ヶ村のみを開削する物なれば、費用はどうにか賄(まかな)えまする。」
藩に二万石の増収が有った事に因(よ)り、開発費を捻出(ねんしゅつ)する事は可能である。
「しかし、好間の指揮を執れる者が居られるか、御家老の仰(おお)せの通りと存じまする。」
「ならば、町奉行の沢村甚五左衛門に、その役を申し渡す。」
評議の場が、俄(にわか)に騒(ざわ)つく。甚五左衛門は畏(かしこ)まって、返答に及んだ。
「誠に光栄な事とは存じまするが、某(それがし)は治水に疎(うと)く、到底その任に能(あた)わず。」
「構(かま)わぬ。そちは勘兵衛の兄なれば、分からぬ事は遠慮無(の)う、聞く事ができるであろう。」
甚五左衛門は平伏し、その後両家老の方へ向き直る。
「御家老方は、如何(いかが)思(おぼ)し召されまする?」
外記は、素(そ)っ気(け)無く答える。
「殿の御下命じゃ。儂(わし)に尋ねる必要無し。」
「右に同じく。」
清右衛門も、外記に同調した。両家老は、せっかく得られた二万石が、家中の同意無く、藩公の独断で沢村兄弟に任された事に、立腹していた。表には出さないが、甚五左衛門はそれに勘付き、家老の許可を求めたのである。
「では、小川江筋は沢村勘兵衛、好間江筋は沢村甚五左衛門に任せる事と致す。」
国許(もと)を久しく離れていた忠興は、家臣同士のいざこざを知る由(よし)も無く、その力量のみを考慮して、人選を行った。
用水路の普請(ふしん)は、南隣の土方家窪田藩でも盛んに行われた。寛永十年(1633)には五箇村用水を完成させた。その名の通り、藩の北部に当たる大島、中田、前江栗、後江栗、長子の五ヶ村を貫通する。他にも藩領南部、酒井、窪田、四沢、関田を通る酒井用水が有る。窪田藩領は陸前浜街道が通っているので、忠興は帰国、参勤の度に、これらの用水路を見ていた。
七月に入り、幕府寺社奉行の管轄である領内及び近隣の寺院に、動きが有った。十七日、磐前郡北好間村竜雲寺に御朱印が下され、北好間十四石と神谷に三十六石、併(あわ)せて五十石を賜った。また棚倉藩領菊多郡上遠野村円通寺に、三十石の朱印地が与えられた。一方、騒動も有った。磐城郡薬王寺の祐順と、下神谷村神王寺の堅存が、下神谷村花園神社の別当職を巡り、寺社奉行の裁きを仰(あお)いだ。結果、神王寺を神照寺と改称する事で、別当職を任される事となった。
十月二十四日、磐前郡大原村若宮八幡社に村内三石の御朱印が下され、加えて別当の徳蔵院には、寺中門前竹木諸役等が 免除された。他に、同郡上三坂村耕山寺にも御朱印が下された。忠興は増収分の一部を、寺領として与えた事が窺(うかが)える。
この年、磐城郡上小川村の福岡新田は発展著(いちじる)しく、福岡村として分離独立するに至った。
*
慶安二年(1649)二月、幕府は農民の生活を細(こま)かく規定する、「慶安の御触書(おふれがき)」三十二ヶ条を公布した。早起きして草を刈(か)り、昼は畑仕事、夜は縄や俵を編(あ)んで、一日中働く事。酒や茶を飲まない事。粟(あわ)、稗(ひえ)、麦などの雑穀を食べ、米を多く用いない事。衣服は麻か木綿に限る事。様々な方向から、農民の生活を拘束(こうそく)する物である。一方で本百姓が水呑(みずのみ)百姓に落ちる事が無い様、寛永二十年(1643)に「田畑永代売買禁止令」を発布したり、凶作の年は年貢の軽減を行うなど、飴(あめ)と鞭(むち)を用いている。ここに所謂(いわゆる)、「農民は生かさず殺さず」の仕組みが完成する。
江戸幕府の農民支配の機構として、村の頂点に、武士である幕府勘定奉行下の代官、もしくは藩郡奉行下の郡代が任命される。農民側、村の代表は名主(なぬし)であり、その下に名主を補佐する組頭、村政の監視を行う百姓代が置かれる。名主、組頭、百姓代は村方三役と呼ばれ、本百姓の中から選ばれ、村政を司(つかさど)る。名主は関西で庄屋、東北では肝煎(きもいり)という別称が有る。本百姓とは田畑を持ち、検地帳に登録されている者で、年貢を納める義務を課される一方、村政への参加が叶(かな)う。幕府は五人組制度を設けて、近隣凡(およ)そ五軒の本百姓を一つの組とし、組から決められた量の年貢を徴収する。因(よ)って、一軒が仕事を怠(なま)けると、残る四軒がその分、多くの税を納めねば成らないのである。本百姓は互いに監視し合う様になり、税の徴収の他、吉利支丹(きりしたん)取締りにも活用された。本百姓の下には、田畑を持たず、検地帳に記載の無い、水呑(みずのみ)百姓がいた。年貢を納める義務は無いが、村政への参加は叶(かな)わず、田畑を耕すにも小作料が発生する為、本百姓より遥(はる)かに少ない収入しか得られない。
江戸幕府の史書「徳川実記」に記録されている「慶安の御触書」だが、後(のち)の甲府藩「百姓身持之覚書」の内容がほぼ同じである事から、これが全国に広まった物を、後世「慶安の御触書」にしたのではという説が有る。甲府は久しく幕領、親藩、譜代老中と続いて来た所なので、「慶安の御触書」の保存状態が良かっただけなのか、定かではない。
一方で農民を大切にした大名として、備前岡山三十一万五千石の藩主、池田左近衛権少将光政がいる。こんな逸話(いつわ)が有る。光政が礼服を着て登城に及ぶも、紋が池田家備前蝶(ちょう)ではなかった。多くの大名は何の紋か分からぬまま素通りしたが、忠興だけは興味を持ち、
「貴殿は異様な物を好まれるのか?」
と尋ねた。光政は笑って、
「貴殿はこれを何と見る?虱(しらみ)なり。」
と答えた。
「帯刀殿は虱(しらみ)を見た事が御有りか?」
と問われたので、忠興も笑い、
「大坂の陣の折は、この者の為に甚(いた)く苦しめられ申した。」
と答えた。光政は感心して、
「貴殿はよく虱(しらみ)の紋に気付かれた。共に国家の事を語るべし。」
と返し、忠興と共に政(まつりごと)を語り合ったという。
この年の春、忠興は藩の成文法を作成した。一に「家中法度」。本来全ての直参(じきさん)は、藩主が適宜(てきぎ)人選の上、役目を与えられる物であった。しかし参勤交代の義務付けに因(よ)り、大名は国許(もと)家臣に目が届かなくなった。故(ゆえ)に組頭を以(もっ)て家臣の統率を任せ、藩主が役目を与える折には、組頭に推薦させる事とした。忠興は家臣を三組に分け、上田内膳信秋、安藤清右衛門定勝、宿屋求馬利長を頭に任命した。上田、安藤の両家は家老を輩出し、宿屋家は御一門である。嘗(かつ)て幕府草創期、本多、大久保の二大派閥に因(よ)り、幕政が乱れた事が有った。これを考慮して、組を三つに分けたのかも知れない。
また、「諸代官郷中取扱之定」を制定し、代官の職務規定を定めた。磐城平藩は領内を十三の組に分け、各組に代官を二名ずつ置いた。十三組を挙げると、下記の通りである。
富岡組 楢葉郡北部
久組 楢葉郡南部
川内組 楢葉郡西部
四倉組 磐城郡北東部
神谷組 磐城郡中央部
小川組 磐城郡北西部
豊間組 磐前郡海岸北部
小名組 磐前郡海岸南部
矢田組 磐前郡中央部
湯本組 磐前郡南西部
塩田組 磐前郡西部
合戸組 磐前郡北西部
植田組 菊多郡内
二人代官制の下に山奉行が置かれ、その下に農民代表の名主がいる。
そして三月七日、重臣の穂鷹吉兵衛、小川半左衛門、近藤惣兵衛が作成し、上田内記が纏(まと)めた、「家中御壁書」が発表された。十四ヶ条有り、年頭歳暮の事に関し、武家に一ヶ条、百姓町人に一ヶ条、城番の事、破損箇所普請(ふしん)の事、博打(ばくち)の禁止、江戸番の事、領民出入りの事、家臣引越しの事、火災の事、鳥殺生禁止の事、馬継(うまつぎ)賃金の事、犬殺生の禁止、江戸輸送米の事、奉公人の事を定めている。
藩政の指針は、この四人が細かい所を定めるが、具体的な計算をするのに、数学者も登用している。京の算盤(そろばん)研究者、毛利重能(しげよし)に師事した、今村仁兵衛知商(ともあき)である。重能の弟子、仁兵衛の記(しる)した「竪亥(じゅがい)録」と、同門高原吉種の「塵却(じんこう)記」に因(よ)り、江戸数学の基礎が築かれた。仁兵衛は河内国の出生という。寛永十六年(1639)に記した「竪亥録」は、高難度の学問書であるが、翌年に記した「因帰算歌」は、子供向けの算数入門書であった。ちなみに因は掛け算、帰は割り算を意味する。次の年には「日月会合算法」を出版し、閏(うるう)月の置き方など、暦(こよみ)の計算法を紹介した。
嘗(かつ)て幕府は諸大名に、領内の地図作成を命じた事が有った。因(よ)って測量技術を持つ人材が必要となり、忠興が幕府勘定頭の曽根吉次に相談した所、推薦されたのがこの仁兵衛であった。忠興は正保元年(1644)頃、仁兵衛を二百五十石で召し抱(かか)え、領内地図の製作に当たらせていた。仁兵衛は領内各地を移動する必要が有り、測量の後は製図の作業が有るので、屋敷を城下ではなく、磐城郡下神谷村赤沼に構(かま)えていた。
さて藩主の忠興は、昨年六月十日に江戸を出たので、武家諸法度に因(よ)り、六月九日までに江戸へ戻らねば成らなかった。藩の法を定め、加えて両江筋の開削(かいさく)に漕(こ)ぎ付け、充分な成果を得られたと満足しつつ、江戸へ戻って行った。
途中、浜街道を南下していると、街道脇に松の植樹をしている百姓の姿が目に付いた。父政長の代から始まった事だが、この年に今村仁兵衛の勧めで、再開される事となった。仁兵衛は嘗(かつ)て領内の測量に従事する傍(かたわ)ら、民情視察をも行っていた。
仁兵衛は穂鷹吉兵衛、小川半左衛門、近藤惣兵衛、上田内記と共に三月七日、先述の「諸代官郷中取扱之定」を作成している。先に代官の職務規定と簡略に紹介したが、内容を見てみると、十五ヶ条に及ぶ。荒れ地の対策、種籾(もみ)の事、苗代(なわしろ)の事田起しの事、麦毛刈取りの事、早稲(わせ)・中手(なかて)・晩稲(おくて)の事、早稲田籾納めの事、収穫の評価、晩稲の納期、秋の決算、納税管理、城中米蔵への移送、江戸送り米の事、来春耕作に備え治水の事、以上である。暦(こよみ)に精通する仁兵衛は、何月に何をするべしと、事細(こま)かく規定している。
勘兵衛に続き、仁兵衛という新たな人材の活躍に因(よ)り、忠興は領内仕置を安心して任せられると信じ、江戸へ戻って行った。
六月九日、武家諸法度規定の、大名帰国は一年以内という条項を守った事を報告しに、登城に及んだ忠興は、将軍家光に謁見し、馬代(ばだい)の金と綿二百把を献上した。
公儀への届け出も無事済み、一段落したと思われた頃、国許(もと)から急使が有った。上田外記、安藤清右衛門両家老の連署で記(しる)された書状の内容は、忠興を驚愕(きょうがく)させる物であった。郡奉行沢村勘兵衛が、先年領内総検地の折、その職権を利用して不正を働いたと、磐前郡下船尾村から報告が有ったというのである。忌々(ゆゆ)しき事態故(ゆえ)、両家老の権限で勘兵衛に蟄居(ちっきょ)を申し渡したが、藩公より厳正に処罰あるべしと、願い出ている。
参勤交代の定めに因(よ)り、忠興は向こう一年、帰国する事は許されない。加えて、訴人と勘兵衛を悉(ことごと)く江戸へ召喚(しょうかん)させる訳にも行かず、已(や)むなく忠興は宿屋求馬に命じて、事件詳細を調べさせるべく、国許(もと)へ遣(つか)わす事にした。
斯(か)くして国許での調査を終え、江戸に戻って来た求馬は、下船尾村代官、及び村方三役の訴状を持ち帰った。
忠興は訴状に目を通した後、求馬に尋ねる。
「勘兵衛の屋敷は、捜索致したか?不正を働き、私腹を肥やす者なれば、分不相応の物が見付かる筈(はず)であろう。」
「仰(おお)せの如く、家捜(やさが)しを致し申したが、屋敷内は至って質素な物で、不審な品も見付かり申さず。」
「やはり、陰謀じゃな。」
「御家老は、勘兵衛殿は商人との繋(つな)がり強く、何処(いずこ)かの商家に隠し置いている事も考え得(う)ると。」
「証拠は?」
「ござりませぬ。」
「では、処罰に及ばず。」
忠興の言に、求馬は応じない。
「如何(いかが)した?聞こえなんだか?」
求馬は畏(かしこ)まって、忠興に言上する。
「果(はた)して殿は、勘兵衛殿を御救い成されたいのか否(いな)か?」
意外な質問に、忠興は訝(いぶか)しがる。
「勿論(もちろん)、救いたいと思うが。」
「ならば、処分は国家老に御一任下さりませ。」
「何を申す?」
「勘兵衛殿は確かに、藩の事のみを考え、働く人物と存じまする。しかし斯(か)かる人物を殿が重用する余り、他を顧(かえり)みぬ事で、家中に妬(ねた)みが生じ、歯車が狂い始めまする。」
薄々(うすうす)、勘兵衛が家中で孤立している観は窺(うかが)えた。しかし讒言(ざんげん)を以(もっ)て陥(おとしい)れる所まで来ているとは、思いも寄らなかった。俄(にわか)に怒りが込み上げて来て、忠興は手に持っていた扇子(せんす)を圧(へ)し折った。
「勘兵衛を妬(ねた)む者は、郡奉行を務めるだけの才覚が有るのか?民情を知らず、人材を追いやるだけの者が務めれば、私(わし)が仮(かり)に泉藩主の力しか無くとも、平を奪い取る事ができようぞ。」
求馬は、悲しい顔で答える。
「殿、今は戦国の世に非(あら)ず。戦(いくさ)は御法度にござりまする。家臣の多くは、太平の世に馴染(なじ)んで居り申す。」
「愚(おろ)か者が!」
家臣を謗(そし)った積(つも)りであったが、よくよく考えてみると、時代の変化に気付かぬ自分の方が、愚(おろ)かであったかも知れない。
「求馬。」
忠興の声は、沈(しず)んでいた。
「ははっ。」
「そちの言を受け入れる。但(ただ)し、勘兵衛の命が救われる様、陰で動いてくれぬか?」
「承知致し申した。」
求馬は再び、国許(もと)へ向かい江戸を発(た)った。
郡奉行不始末の処罰が国家老に任された事で、家老衆の面目は立った。求馬が家老達に、情けを掛けてやる位の度量を見せてはと勧めると、両家老は、罪人には厳しい処分が必要とは言いつつも、長年の功績も考慮すると返答した。
結果、沢村勘兵衛は郡奉行を解任されただけで、知行五百石は安堵された。勘兵衛の減俸を望む声も有ったが、高禄のまま役目を与えぬ方が、人を惰弱にさせ、隙(すき)を作る事ができる。加えて隅(すみ)へ追いやれば、人柄も荒れる事であろう。勘兵衛を煙(けむ)たがる者達は、その末路まで計画し、面白がった。
勘兵衛失脚に因(よ)り、小川江筋計画は中止となった。一方で兄の甚五左衛門に咎(とが)は無く、好間江筋計画は継続が許された。郡奉行の後任には、天文地理に明るい今村仁兵衛が就任し、此度(こたび)の下船尾事件は決着を見た。
九月十六日、翌年将軍嫡子家綱君の西の丸御移しに備え、忠興は屏風(びょうぶ)三双を献上した。
十一月、忠興の次男義興が、重い病(やまい)を患(わずら)った。義興の容態(ようだい)は日に日に悪化し、遂(つい)には典医も手の施(ほどこ)し様(よう)が無くなった。生母香具姫が付きっ切りで看病している所へ、忠興が姿を現した。
「どうじゃ、具合は?」
夫の問いに、香具姫は窶(やつ)れた顔で、微(かす)かに首を振った。忠興は次男の枕許(まくらもと)に腰を下ろし、励(はげ)ます様に声を掛ける。
「御先代政長公は御臨終に際し、遺言されてのう、分家を二つ立藩させ、内藤家が断絶せぬ様にと仰(おお)せであった。そちの叔父達は不幸にして早世したが、金一郎殿の泉藩を残す事ができた。しかし御先代の遺言を果すには、そちを大名として立藩させねば成らぬ。そちに従五位下東市正を叙任させたは、立藩させる下準備ぞ。加えて、我が偏諱(へんき)を授(さず)けたのは、そちのみじゃ。早(はよ)う治して、内藤家を支える大名と成れ。」
義興は苦しみ喘(あえ)ぎながら、か細い声で父に話す。
「父上に一つ…御願いの儀が…」
「おお、何でも申せ。」
「我が一人娘、お七を宜しく頼みまする。」
「かわいい孫娘じゃ。申すに及ばず。」
「また立藩の儀は…弟政亮(まさすけ)に…」
「何を申す。政亮は家臣遠山家の養子にくれてやった。故(ゆえ)に立藩は叶(かな)わぬ。」
「何卒(なにとぞ)…」
そして、義興は意識を失った。
「義興、義興!」
懸命に呼び掛けるも、義興は目を覚まさなかった。十一月十四日、忠興の次男義興は、二十九歳で逝去した。
内藤家当主の菩提所は、磐城平城下の善昌寺である。しかし嫡流でない者は、別の寺に葬(ほうむ)る事となる。当初、忠興は日本橋の東に在る霊巌寺で、江戸藩邸で亡くなりし者を弔(とむら)う予定であった。霊巌寺には忠興の妹で、陸奥会津藩主保科正之の正室、泰教院も眠っている。しかし香具姫は、霊巌寺が無礼を働いたと訴え、一方で相模国鎌倉の光明寺が、霊験(れいげん)灼(あらたか)であると勧めるので、これを許可した。
斯(か)くして内藤義興の葬儀は、鎌倉光明寺で執り行われた。法名は天暁院殿前市令台誉普光崇安居士。忠興が義興に付けた家臣、今村新吉が殉死に及び、忠興は義興の墓の側に、新吉も葬(ほうむ)った。次男の墓前で嘆(なげ)く香具姫に、忠興は優しく声を掛ける。
「義興は果報者じゃ。殉死に及ぶ忠臣を得られたとは。」
妻を慰(なぐさ)めながら、忠興は天を仰(あお)いだ。
「弟、妹に加えて息子まで、なぜ先立って行くのか。」
内藤御三家の成立は、義興の死を以(もっ)て白紙となった。
十二月二十四日、忠興は国許(もと)に宛(あ)て、今村仁兵衛に来年も郡奉行を任せる旨(むね)、通達を下した。
*
慶安三年(1650)六月、磐城平藩では雨が降らず、各地で旱魃(かんばつ)の被害が出た。この折、失脚した沢村勘兵衛は、三森内匠(たくみ)と共に、神谷(かべや)地方の視察を行っていた。
三森氏は光高を家祖とし、文明十一年(1479)には平の東、岩城郡鎌田郷に住んでいたという。岩城の旧臣故(ゆえ)に、今では内藤家の微臣である。内匠は寛永十三年(1636)四月七日に生まれ、未だ十五歳で元服も済ませていない。しかし磐城の地理に明るく、治水に興味を持ち、この度は失脚したばかりの沢村勘兵衛に付き従う、無邪気な少年であった。
やがて神谷の北方、大野郷を視察の折、勘兵衛は泉崎村の光明寺に入り、暑さを凌(しの)いだ。観順和尚の勧めで、堂宇で休息を取りながら、勘兵衛は顔を顰(しか)める。
「いやはや、何処(いずこ)も酷(ひど)い乾枯(かんこ)な田畑よ。」
「あれでは、作物も実りますまい。」
内匠が相槌(あいづち)を打つ。そこへ和尚が、申し訳無さそうに、両人に告げる。
「本来なれば、茶の一服も差し上げるべき所なれども、この泉崎村は名に似ず、飲み水にも不自由する所なれば、何卒(なにとぞ)御容赦を。」
「いえ、百姓達の苦しむ様(さま)を見れば、水を頂くのも勿体(もったい)無い事と存じ申す。」
勘兵衛は鄭重(ていちょう)に、和尚に遠慮を申し上げた。
泉崎光明寺は、入西房真仏上人の開基という。元は平の住人であったが、建仁(けんにん)三年(1203)春に上洛して、源空(法然)上人の弟子となった。その後、善信御坊吾組と号して、承元(じょうげん)二年(1208)に親鸞(しんらん)上人に学び、浄土真宗となる。吾組聖人の孫も本山二世如信上人に学び、永仁(えいにん)二年(1294)二月十八日に寂(じゃく)する。その後、室町時代まで相続するが、十四世潤水法師の時、天正四年(1576)に織田信長が、総本山摂津国石山本願寺を攻める。潤水法師も石山に籠(こも)って戦ったが、翌年四月八日に討死(うちじに)を遂(と)げた。本願寺顕如(けんにょ)上人とその子教如上人は、潤水法師の死を悼(いた)み、神谷運隆の姉で潤水法師の妻に、夫が用いし越前下坂国清の長刀と、方便法身の尊像一幅を、形見として下された。妻は天正十六年(1588)に没した。子が居らぬ故(ゆえ)に、平與次右衛門貞繁の子を養子に貰(もら)って養育し、十五世を相続させたのが、この観順和尚であった。
勘兵衛と内匠は、観順和尚から長年に渡る水の不便を聞き、改めて小川江筋計画の必要性を認識した。
磐城平城へ戻った勘兵衛は、郡奉行今村仁兵衛と面会に及び、小川江筋計画の再開を願い出た。
「小川江筋は寛永十五年(1638)に取水の関を築き、中平窪村横山では大川の勢いに堤が崩され、万策尽きて切腹も考えた所、大日如来の御加護を得て岩を切り開き、漸(ようや)く平の北まで掘り進めて来たのでござる。」
仁兵衛は勘兵衛を見据(す)え、問い返す。
「貴殿は大日如来勧請の地に、利安寺という寺を建て、寺領五石を与えたとか?」
「普請(ふしん)の厳しさは、並大抵の事ではござらぬ 。一日に数百人もの人足を働かせねば成らぬ故(ゆえ)、費用を抑えるべく、朝五つ時に人を替え、昼夜を問わず作業をさせ申した。過酷な作業故(ゆえ)に、手を休める者が出るも、示しを付ける為には縄目の刑に処し、時には死罪を申し渡す事もござり申した。疲弊(ひへい)した人足の心だけでも救いたいと思い、故(ゆえ)に寺院を建立した次第にござる。」
仁兵衛は頷(うなず)いた。
「成程(なるほど)。人足は領内一円より集められたる由(よし)。下船尾の者から見れば、村の役に立たぬ普請(ふしん)に駆り出され、迷惑と思ったのやも知れぬ。」
「あの件は、某(それがし)の不徳の致す所。しかし水を渇望している民の為、御奉行には別して御考慮の程を。」
仁兵衛も、今年の大旱魃(かんばつ)は大いに懸念(けねん)する所であった。
「今、江筋はどこまで達してござる?」
「されば、鎌田の顕蔵主」
顕蔵主とは、下荒川村龍門寺の和尚の名であるが、和尚は鎌田村に隠居し、そこはやがて弘源寺となった。和尚は或(あ)る時、誤って岩間に落ち、水死した。以後、この地は顕蔵主渕と呼ばれる様になった。
「確かに、鎌田で途切れさせるには惜しい。しかし、某(それがし)の裁量で普請(ふしん)を再開させる事はできぬ。やはり御家老の承認を得なければ。」
相談している内に、勘兵衛は大きな過(あやま)ちを犯している事に気付いた。郡奉行の今村仁兵衛は、昨年の定書(さだめがき)等を見ても、善政を知る人物である。無理に自ら行おうとしている事を押し付ければ、自分の二の舞となり、失脚してしまうであろう。それは磐城平藩に取って、大きな損失である。
「いや、御奉行には貴重な時間を割(さ)いて頂き、忝(かたじけな)い。某(それがし)はこれにて、失礼致す。」
突然の事に、仁兵衛は目を丸くした。
「勘兵衛殿には、何ぞ良策でも思い付かれたか?」
「良策と申す程の物に非(あら)ず。殿に扶持(ふち)の返上を願い出るだけの事。加えて、領民の惨状を申し上げなん。」
去り行く勘兵衛に、仁兵衛は重ねて尋ねる。
「貴殿は武士であろう?扶持(ふち)より大事な物がござるのか?」
「されば、忠義にござる。小川江筋を計画し始めたは、先君政長公の下、町奉行を拝命していた頃でござった。江筋の草案は、実は政長公の命に因(よ)り作成されし物。某(それがし)は先君の御遺志に沿(そ)い、忠興様の治世に於(おい)て、成就させるべく努めるのみ。」
そう言い残して、勘兵衛は郡奉行の詰所(つめしょ)を去って行った。
後日、江戸虎ノ門上屋敷に、勘兵衛の書状が届けられた。内容は、勘兵衛の扶持(ふち)五百石の内、三百石を藩へ返納し、小川江筋計画の再開に宛(あ)てる旨(むね)、願い出る物であった。書状を読み終えた忠興は、来年の帰国を固く決意した。