第十一節 幼少将軍

 慶安四年(1651)三月五日、磐城平藩の北に接する外様大名、標葉(しめは)、行方(なめかた)、宇多三郡六万石藩主、相馬大膳亮義胤が逝去した。義胤に男子は無く、娘亀姫の婿(むこ)養子に上総久留里二万石藩主土屋民部少輔利直の次男、直方を迎えたいと願い出た所、老中松平信綱の認可を得るに至った。ちなみに利直は、泉藩主内藤金一郎の外祖父である。ここに平将門の正統である相馬家は残され、土屋直方は相馬忠胤と名を改めて、三代藩主に就任した。これで相馬中村藩と泉藩は、叔父と甥(おい)の関係となった。

 三月九日、忠興は上野東照宮御廟へ石燈籠(いしどうろう)二基を献上した。江戸にも東照宮が有るのは、日光参詣は物入りであるので、二代将軍の時に分霊させたのである。これは、忠興が帰国を願い出る前に打った、布石であった。

 四月、めでたく忠興に帰国の許可が下りたが、この頃、将軍家光は重篤の病(やまい)を得ていた。そして忠興は帰国の仕度を整え、将軍への挨拶(あいさつ)の許可が下りるのを待っていたのだが、家光は二十日に薨去(こうきょ)した。享年四十八歳。嫡男家綱はまだ十一歳で、家光は臨終の間際(まぎわ)、弟保科正之に家綱の事を託した。

 将軍の訃報(ふほう)を受け、江戸滞在の諸大名は弔問(ちょうもん)の為、続々と登城に及んだ。忠興もこれに同じく、江戸城に登り、控えの間で順番を待っていた。

 この時、不穏な話し声が耳に入って来た。
「家綱君は未(いま)だ御若年にござれば、四代将軍は尾張中将様にござりましょう。」
「いや、儂(わし)は家督を相続して日が浅く、到底器(うつわ)に非(あら)ず。紀伊権大納言殿が相応(ふさわ)しかろう。」
「滅相(めっそう)もない。東照大権現は徳川御三家の内、当家を最も下に置かれ申した。」
「其(そ)は昔の事。」
同じく控えの間に詰めていた諸侯が、御三家を取り囲(かこ)んで、次の将軍の話をしている。昨年五月七日、尾張権大納言義直が薨去(こうきょ)しているので、今の徳川御三家は尾張右近衛中将光義二十七歳、紀伊権大納言頼宣五十歳、水戸権中納言頼房四十九歳である。

 忠興は諸大名の前へ進み出て、強い口調で尋ねる。
「諸侯は四代将軍に、尾張侯もしくは紀伊侯を据(す)えたい由(よし)。さればこの場に於(おい)て、尾州か紀州か、はっきりと決められよ。この忠興は、程無く帰国に及び申す。国許(もと)で兵馬を整え、諸侯の推(お)される方へ、天下を切り取って差し上げなん。」
諸大名は、忠興の気迫に圧倒された。そして紀伊頼宣が、苦笑して答える。
「ほんの戯言(ざれごと)じゃ。」
「然様(さよう)、然様。」
「ははは…」
諸大名は次々と立ち上がって、去って行った。そして水戸頼房だけが、その場に残った。
「あれは戯言(ざれごと)と申すには、度が過ぎて居る。帯刀殿、よくぞ申して下された。」
「いえ。水戸侯こそ、将軍代替りの目付という大任を、東照大権現様より仰(おお)せ付かりし御方。御心中御察し致し申す。」
そこへ、小姓頭が姿を現した。
「次の御弔問、水戸権中納言様。」
頼房は立ち上がると、忠興を見詰めた。
「帯刀殿も共に。」
「はっ。」
忠興も腰を上げると、頼房と共に松の廊下を渡って行った。

 忠興と頼房は並んで、幼君家綱に御悔(くや)みを申し上げた。家綱の後見として左右に控えるは、大老保科正之と、老中首座松平信綱である。頼房は三方に、先程控えの間での忠興の機転を申し上げた。それを聞いて正之が、忠興に礼を述べる。
「流石(さすが)は大坂の陣の勇者にして、徳川三代に仕える忠臣でござる。四代家綱君にも変わらぬ忠節を、御願い致しまするぞ。」
「身に余る御言葉。家光公御薨去(こうきょ)は誠に悔(く)やまれまするが、斯(か)くなる上は家綱公に、御奉公致すのみにござりまする。」
続いて信綱が、忠興に告げる。
「されば帯刀殿には、この場にて御帰国の許可を下し申す。」
「では、家光公の御葬儀には、参列叶(かな)わぬと?」
「そこを、押して御願い致し申す。御覧の通り、家綱公は御幼少。これまで将軍代替りの折には、大御所が新将軍を後見し、諸大名に隙(すき)を見せずに済み申した。然(しか)るに此度(こたび)は、開幕以来初の非常事態。家綱公の威厳を保つには、忠臣を国許(もと)へ帰し、有事に備えさせる必要がござり申す。」
「そこまで仰(おお)せられては、承知する他はござりませぬ。江戸に万一の事有らば、直(ただ)ちに磐城へ御通報下さりませ。当家の軍勢を江戸へ急行させ、逆賊を討ち果しまする。」
「よくぞ申された。」
答えたのは、隣の水戸頼房であった。
「帯刀殿が国許を往来するには、我が水戸領を通行される筈(はず)。儂(わし)が水戸に在る折は、是非(ぜひ)とも御立ち寄り下され。常磐両国が誼(よしみ)を深めれば、水戸街道は安泰にござる。」
「御尤(もっと)も。では、御言葉に甘えまする。」
将軍相続が恙(つつが)無く済むべく差配する責務を、東照大権現に命ぜられた水戸徳川家は、天下の副将軍とも呼ばれた。水戸家から見ても忠興は、四代将軍を嫡流に継がせる為に、重要な人物であった。

 斯(か)くして忠興は、家光葬儀の前に、江戸を発って行った。その後、家光の葬儀は上野の寛永寺にて執り行われ、遺骨は日光山輪王寺へ葬(ほうむ)られた。朝廷は、東福門院の兄家光に、「大猷(ゆう)院」の諡(おくりな)をした。

 程無く幕府老中の内、堀田正盛と阿部重次が殉死に及んだ。これにて老中は、松平信綱、阿部忠秋、松平乗寿の三人のみとなった。これらを大老保科正之が纏(まと)め、幕府は家光の遺言に従い、四代将軍を家綱とする旨(むね)、朝廷へ奏上した。

 嘗(かつ)て家光は、東照大権現が定めし徳川御三家を独断で改め、尾張と紀伊を将軍家と同格から、水戸家との同格へ、格下げをした。因(よ)って、尾張、紀伊の反発が予測されたのだが、尾張は昨年代替りしたばかりであり、紀伊は兄弟順で最も下であるので、神妙に家綱に従う様(よう)であった。ただ、忠興は念を入れて、組頭宿屋求馬を江戸に遣わし、将軍宣下の前に、将軍代替りの御祝いを申し上げさせた。

 さてこの頃、幕政の問題として、諸国に溢(あふ)れる多数の浪人の事が有った。浪人達の多くは、仕官の道を求めるべく、諸大名の藩邸が在る江戸を目指した。

 前(さきの)将軍家光の容態が危(あや)ぶまれていた三月、軍学塾「張孔堂」の講師由比正雪の私邸に、丸橋忠弥らの浪人十五名が集まり、謀議を行った。丸橋忠弥は、御茶の水で丸橋道場を持つ、槍の名手である。内容は、丸橋隊が江戸城塩硝蔵を爆破させ、混乱する江戸城中に突入し、幕府要人を殺害の上、家綱を拉致(らち)し、駿府久能山へ向かう。一方で、由比隊が駿府へ先回りして久能山を制圧し、御用金を奪って挙兵に及び、同志を京、大坂でも挙兵させ、宮中や諸大名を味方に付け、一気に徳川の天下を奪うという物であった。

 七月二十二日未明、由比正雪隊が駿府へ向け出発した。翌二十三日夜、丸橋忠弥隊の浪人奥村八左衛門が、陰謀を幕府に密告し、事が露顕する。八左衛門は忠弥の門弟である一方、兄奥村権太夫は老中松平信綱の家臣であった。加えて信綱は斯(か)かる事態に備え、陰謀には軍用金が必要と見て、金貸しを営(いとな)む者に、幕府へ通報すれば褒賞金を与えると、約束していたのである。

 信綱は直(ただ)ちに同心二十四名を出動させ、御茶の水丸橋道場で忠弥を捕縛した。また北町奉行、南町奉行も出動し、塩硝奉行河原十郎兵衛を逮捕した。他にも、陰謀に加担した一味や、正雪や忠弥の一族、併(あわ)せて三十余名が獄(ごく)へ送られた。

 二十四日朝、老中は緊急の協議を行い、幕府目付駒井親直を駿府に派遣した。二十五日夕刻に親直は駿府城に入り、由比正雪一味が宿を取る梅屋へ与力を遣(つか)わし、町奉行への出頭を求めた。そして翌二十六日朝、 由比正雪と同志七名は自害に及び、二人が捕縛された。梅屋には、正雪が遺書を残したとされるが、幕府転覆計画の主謀者の物だけに、後世に遺(のこ)された物の真偽は定かではない。幕府は正雪の伯父、従弟(いとこ)までも罪に問い、此度(こたび)の事件に係りし者は、全員処刑された。

 とは、一概に言えない所が有る。由比正雪遺書の中に、同志を集めるべく、紀伊権大納言頼宣の名を使ったと書かれている。紀伊頼宣が浪人問題に関心を持っていたと言われる話が、一つ有る。

 中国大陸では、李自成により明国が滅(ほろ)ぼされ、清国が李自成を滅ぼした事で、清国が大陸を支配する大義名分を得た。というのは清国の解釈で、中には明朝の皇族を擁立して、明朝再興を計る者もいた。肥前国平戸島の鄭芝龍はその一人で、明国福建省の出身だが、台湾を拠点に海上貿易を行い、田川氏の娘を妻としていた。鄭芝龍は明朝再興の兵を挙げるも、清の八旗軍は強く、江戸幕府に援軍を要請した。そこで紀伊頼宣は、全国に溢(あふ)れる浪人を傭(やと)い、大陸へ出兵させる様(よう)進言したが、幕府の方針は鎖国であり、実現する事は無かった。斯(か)くして鄭芝龍は清に降(くだ)り、後(のち)に処刑された。次男七左衛門は日本に残り、長男鄭森は清との戦いを続けた。鄭森は明の皇族、唐王朱聿鍵(イツケン)より国姓の朱を賜り、国姓爺(こくせんや)鄭成功として名を揚げる。

 紀伊頼宣の仕置だが、昨年尾張義直が没した事で、今では徳川氏の最長老である。幕府は事を穏便(おんびん)に収め、頼宣も幕府から疑念を抱(いだ)かれぬ様(よう)、帰国を憚(はばか)る様になった。

 斯(か)くして由比正雪の乱は、着手から鎮圧まで、僅(わず)か四日で決着した。正雪の遺言書を見ると、計画の目的は政権の転覆ではなく、浪人政策の改革を物であったと、読む事ができる。

 事無きを得た幕府だが、浪人問題が遠く島原だけではなく、江戸をも危(あや)うくする物であると、強く認識させられた。新たな課題を抱(かか)えつつ、八月十八日に、家綱は江戸で将軍宣下をするに至った。また、家光三男長松には甲斐国十五万石、四男徳松には関東の内十五万石が与えられ、新将軍の力を示した。

 この年、磐前郡湯本村観音山の中腹に鎮座する温泉(ゆの)神社が焼失した。平安時代、旧磐城郡に延喜式小社七つ有り、温泉神社はその一つである。往古は湯ノ岳(だけ)の神として祀(まつ)られていたが、後(のち)に街道近くの観音山に遷(うつ)された。磐城平藩はこの格式有る神社を、観音山の東麓に再建した。

 さて、忠興は小川江筋計画の為に帰国したが、江戸で幼将軍が誕生した為、有事に備えて家中を纏(まと)めねば成らず、年内に計画を再開する事はできなかった。しかし、来年四月には参勤交代で、江戸に戻らねば成らない。因(よ)って年内に、何らかの手を打って置く必要が有った。

 十二月、忠興は家老の上田外記を三階櫓へ招いた。
「流石(さすが)に奥州の南端とは申せ、江戸より寒いのう。」
外記は小姓に命じて、火鉢を用意させた。
「某(それがし)は久しく当地に居りまする故(ゆえ)、既(すで)に慣れ申したが、殿は大変にござりまするな。」
(す)ぐに火鉢が届けられ、忠興は両手を翳(かざ)す。
「全く、昔はもう少し丈夫であったと思ったが、私(わし)ももう年かのう?」
「滅相(めっそう)もない。剣や槍を手に取られれば、忽(たちま)ちの内に若返りましょう。」
「まあ、武芸の稽古(けいこ)は江戸でもできるが、せっかく帰国に及んだ以上、藩主として何かを成して置かねば、示しが付かぬ。そちに何か、良き案は無いか?」
「今年は、漁の掟(おきて)を定め申した。」
磐城近海の漁場は、遠く紀州から漁民が黒潮に乗ってやってくる程、豊かな物であった。主な獲物は、鰹(かつお)、鰯(いわし)、鯨(くじら)である。この年、磐城平藩は領内漁民に対し、漁船の数や網の反数を定めた。大型鰹船の船株規定を見ると、四倉七艘、沼ノ内十艘、薄磯五艘、豊間十三艘、江名二十二艘、中之作六艘、小名浜十艘である。これら七つの漁村を総称して、「磐城七浜」という。小名浜は西町、中町、中島、米野の四ヶ村から成り、多くの鰯網船が許可された。この様(よう)な掟(おきて)が必要となったのは、鰹節の消費が江戸で急増し、他国船が鰹を求めて、領内に出稼ぎに来る様になった為である。浜についてもう一つ触れると、製塩は古代から行われて来たが、江戸初期に本場行徳の製塩法が伝わり、主に下高久、沼ノ内、小名浜で作られ、特に永崎産が上質と言われた。

 この年、江名浜より船株二十二、船石八十五石九斗三升八合、金三十三両五貫六百文の船年貢が納められた。小名浜から薄磯の間は中迫(せこ)浜と呼ばれ、三百石積の穀船十艘程が繋(つな)がれている。内陸の三春、二本松、会津三藩は海上輸送に、この地を利用した。荷の積(つ)み卸(おろ)しが盛んになると、江名や中之作には市街が形成され、鰹節の生産が盛んになった。
「あれは、仁兵衛がやった事じゃ。」
「家臣の功は、主君の功にござりまする。」
「郡奉行ではなく、国家老の力を見たい物じゃ。そちの目から藩内を見て、何ぞ必要な決め事は無いか?」
「はて…」
急な質問に、外記は窮(きゅう)した。
「されば、この年末に問題が生じ易きは、金の貸し借りにござりましょう。」
「家臣達は、借金する程逼迫(ひっぱく)して居るのか?」
「これは、人に因(よ)り申す。祝い事が生じれば、祝儀を弾(はず)まねば成らず。また菩提寺には、御布施(おふせ)をせねば成らず…」
「借金をしてでもか?」
「礼を欠けば、武士の面目に係りまする。」
「然様(さよう)か。確かに金の事は大事じゃ。なれば外記に、貸金の覚(おぼえ)を作成する様(よう)命ずる。」
「承知致し申した。では、重臣三人を御借り致しまする。」
「それは、任せる。」
外記は君命を帯びて、退室して行った。

 金の貸し借りは、藩の上下全てに係る。外記は上田内膳組の近藤惣兵衛、安藤清右衛門組の穂鷹吉兵衛、宿屋求馬組の小川半左衛門を登用し、家中から不満が自分に向けられぬ様(よう)、気配りをした。

 斯(か)くして十二月二十六日、貸金の覚が完成し、忠興は承認の御印判を押した。八ヶ条から成り、勢里(せり)駒貸金の事、切米取りへの事、貸金押(おさ)えの事、扶持(ふち)を離れる者の事、解雇または断絶した者の事、郷中の事、正月二十日区切りの事、貸帳済帳の事が記(しる)されてある。外記は忠興より御誉めに与(あずか)り、磐城平藩は新たな綱紀(こうき)を以(もっ)て、新年を迎える事となった。

 慶安五年(1652)、徳川幕府に前例の無き幼将軍が就任して日が浅い物の、保科正之と松平信綱の補佐宜しく、諸大名に不穏な動きは無かった。磐城平藩の北隣、相馬中村藩は外様である物の、藩主忠胤は譜代土屋家の出身である。江戸城の新年参賀も恙(つつが)無く済んだ事を聞いた忠興は、愈々(いよいよ)動きだす決意をした。

 在国の重臣は或(あ)る日、悉(ことごと)く本丸三階櫓(やぐら)に召集された。家臣達が何事かと騒(ざわ)ついていた所、小姓より忠興の御越しが告げられ、広間は俄(にわか)に静まり返る。そこへ忠興は緩(ゆっくり)と上座へ腰を据(す)え、諸臣を見渡す。
「此度(こたび)(わし)が大猷院様の御葬儀に参列もせず、帰国に及びしは、実は二つの理由が有る。一に、新将軍家綱様に不忠を働く者有らば、軍勢を繰り出して謀叛人を討つ事。しかし、その必要は無さそうじゃ。」
重臣達の中には、安堵を顔に表している者も在った。そして忠興は、強い口調で言葉を継ぐ。
「二に、一昨年大旱魃(かんばつ)の対策を講ずる事。家老に尋ねる。あの時藩は、如何(いか)なる対応を取ったのか?」
上田外記と安藤清右衛門が返答に詰まっているので、今村仁兵衛が言上する。
「畏(おそ)れながら…」
「郡(こおり)奉行が口を挟むな!民が困窮(こんきゅう)した折の、家老の存念を尋ねて居る。」
両家老は揃(そろ)って、徒(ただ)頭を下げるだけであった。忠興は家臣達を見渡し、叱責(しっせき)する様に尋ねる。
「沢村勘兵衛は知行の六割を返納し、小川江筋計画の再開を願い出て参った。今、勘兵衛に反対の者在らば、申し出て見よ。」
重臣の一人が、家老の助け船となるべく言上する。
「畏(おそ)れながら、勘兵衛殿は下船尾で不正を働きし前科がござれば、藩としてもその策を採(と)る訳には参らず。」
忠興は、その男を睨(にら)み付ける。
「大旱魃(かんばつ)の年、勘兵衛は禄を返上すると申したが、そちはその三日後に、二両の借金をしたとか?」
昨年暮れの「貸金の覚(おぼえ)」作成の折、忠興は内密に、家臣の借金履歴を調べ上げていた。
「そちが正しく、勘兵衛を不正と申すのだな?」
昨年帰国の前、忠興が徳川御三家を相手に啖呵(たんか)を切った事は、家臣の間にも伝わっていた。加えて借金の事に触れられては、重臣の多くが縮(ちぢ)み上がった。
「私(わし)は勘兵衛の小川江筋計画を、強く支持致す。反対の者は罪に問わぬ故(ゆえ)、この場に於(おい)て堂々と私(わし)を論破致すべし。」
忠興を言い負かしても、罪に問わぬとは言えど、貸帳の文面が忠興に渡っている怖れが有る以上、後日別の罪を言い渡される事も考えられる。家臣達は皆、押し黙(だま)ってしまった。
「では、江筋計画に反対は無いのだな?」
誰も返事をしない。忠興は家老へ目を向ける。
「清右衛門はどうか? 」
「御意(ぎょい)の通りに…」
「外記は?」
「右に同じく…」
忠興は満足感を胸に秘めつつ、厳しい顔で家臣に告げる。
「では沢村勘兵衛に、小川江筋の普請(ふしん)を命ずる。これは、藩主及び国家老の決定である。」
(すみ)に控えていた勘兵衛は、真っ先に畏(かしこ)まった。他の家臣も、慌(あわ)ててこれに倣(なら)う。
「以上である。用人小川半左衛門は、江筋計画を第一に勘定致すべし。」
「ははっ。」
重臣一同の承認を得た忠興は、表情を変えぬまま、広間を後(あと)にして行った。

 忠興居間の前では、三森内匠が待機していた。内匠は昨年元服し、勘兵衛との連絡に便利な者として、昨年から近くに置いていた。
「内匠、暫(しばら)くそちを、我が手元から離す事と致す。」
内匠は俯(うつむ)く。
「勘違いを致すな。勘兵衛に江筋普請を命じた故(ゆえ)、そちを勘兵衛の下に付けるのじゃ。」
「真(まこと)にござりまするか?」
(にわか)に、内匠の顔が明るくなる。
「早(はよ)う勘兵衛の許(もと)へ行って、治水を学んで参れ。」
「有難うござりまする。」
内匠は一礼して、小走りに去って行った。

 斯(か)くして二月十五日、小川江筋の普請が再開される運びとなった。忠興は二月(ふたつき)近く普請の進捗(しんちょく)を確認してから、江戸へ引き揚げて行った。

 九月十八日、新将軍の就任を受けて改元が有り、慶安五年(1652)は承応(じょうおう)元年と改められた。

 奇(く)しくも改元と同日、忠興は国許(もと)に覚書(おぼえがき)を送っていた。城中の松飾りを百姓に申し付けない事に始まり、酒その他の値段、台所扶持方の城中納めの事、蔵納めに目付を置く事、櫓(やぐら)の細工の事、買物の事、馬屋入替えの事、役鳥の事、鮎(あゆ)の事、松茸(まつたけ)の事、鮑(あわび)取りの事、組に未納の米の究明、以上十二ヶ条に及ぶ。

 また農村に対しては、来春の事を定めている。新切りを改め、村々の石高を定める事、四倉組の内に新川を掘る事、長橋表に新川を掘る事、合戸原の取水普請(ふしん)の事、組の名主に籾(もみ)百俵賜る事、以上五ヶ条である。特に新川掘りの事に関しては、四倉は小川江筋、長橋は好間江筋の支援であろう。

 参勤の忠興には十月十一日、西の丸御番の台命が下された。一方で二十四日、磐前郡大原村徳蔵院に、御朱印三石が下され、その上諸役が免除された。

 嘗(かつ)て三森内匠の祖父光隆は、夏井川に堰(せき)を築き、灌漑(かんがい)用水路を普請(ふしん)する構想を書き記(しる)して、内藤家家老に提出した。当時の藩主政長は、所領替えから日が浅く、大普請を行う事はできなかったが、町奉行沢村勘兵衛に命じて、将来用水路を引く為の用意をさせて置いた。そして忠興の代となり、時機を得たと感じた勘兵衛は、紆余曲折の末に、小川江筋と好間江筋の両計画を、藩を挙げて行う所にまで至った。

 勘兵衛の兄、沢村甚五左衛門も、政長にその才覚を見出され、外様でありながら、磐城平藩の請取り、その後町奉行を任されて来た俊英であった。甚五左衛門は好間江筋普請を命ぜられると、その才覚を発揮して、順調に工事を進めて行 った。

 上好間村大瀧に関を築き、中好間、下好間を経由して城下を潤(うるお)した所で、昨年計画が拡大して、北白土から夏井川の南を通し、河口近くまで延(の)ばす事となった。

 一方で勘兵衛は、鎌田と戸田を繋(つな)ぎ、かつ神谷(かべや)地方一円を潤す小川江筋の完成を目指し、三森内匠を従えて、磐城郡で陣頭指揮を執っていた。しかし、再び問題が発生した。下神谷と中神谷は、地下で夏井川の水流と海水がぶつかり合い、砂が堆積(たいせき)し、かつ沼の多い湿地帯であった。先(ま)ずは水を抜く作業をせねば成らず、工期は大幅に延びる事となった。

 承応二年(1653)四月三日、四代将軍家綱は日光に参詣し、忠興は御橋勤番を仰(おお)せ付かり、将軍の警固を務めた。

 六月十六 日、忠興は国許(もと)へ覚書(おぼえがき)を認(したた)めた。内容は十一ヶ条、今村仁兵衛採用の石算用の認可、物成(ものなり)の事、田方納めの算用の事、江戸送り米の事、畑方納めの事、石高換金の事、口米の事、目払い取りの禁止、定種貸しは利息無し、莚(むしろ)役の事、年貢として認めない物、以上である。

 この年、忠興の嫡男義概(よしむね)は、既(すで)に三十五歳になっていた。忠興は二十四歳で大名になり、先代政長は三十三歳で家督を相続している。しかし義概は武家諸法度に因(よ)り、江戸滞在が義務付けられていた。国許(もと)の重臣と、久しく疎遠のまま齢(よわい)を重ねて行けば、何時(いつ)の日か家督を相続した時、何もできずに、家臣の言いなりとなってしまう事が危惧(きぐ)された。

 忠興は登城に及び、保科正之や松平信綱に、大名参勤の間のみ、嗣子の帰国が許されぬ物か、相談した。確かに忠興が案ずる通り、要衝を任される譜代大名が骨抜きにされるのは、幕府としても問題が有った。

 六月二十五日、忠興は将軍家綱の御召(おめし)を受けた。脇には、大老と老中が控えている。
「上様の御成(おなり)。」
小姓が告げると、諸臣挙(こぞ)って平伏の中、家綱が入室し、腰を下ろす。
「帯刀、大儀である。」
「ははっ。上様も恙(つつが)無き御様子にて、何よりと存じ奉(たてまつ)りまする。」
挨拶が済んだ所で、大老保科正之が幕命を伝え、忠興は畏(かしこ)まる。
「内藤帯刀は幕府に対し忠勤の志厚きを認め、ここに格段の思(おぼ)し召しを以(もっ)て、嫡男左京大夫義概の帰国を差し許す物なり。」
忠興が承(うけたまわ)ると、正之は小姓頭に促(うなが)し、将軍家綱を退室させた。加えて人払いが成され、辺りが静かになった所で、松平信綱が話を切り出す。
「実は幕府より、帯刀殿に確認したき儀、これ有り。」
意外な事であったが、忠興は泰然と答える。
「承り申す。」
「今年身罷(みまか)りし、平岡石見守頼資(よりすけ)の件でござる。」
平岡頼資は慶長十二年(1607)、父頼勝の死に因(よ)り、僅(わず)か三歳にして、美濃徳野藩一万七千石を相続した。継室は内藤政長の四女竹姫であり、頼資は忠興の義弟であった。
「実は石見守、嗣子(しし)の届け無く、因(よ)って武家諸法度に照らし合わせ、改易と致す所存でござる。」
脇から、阿部忠秋が言葉を加える。
「兄弟喧嘩(げんか)が、原因の様でござる。」
頼資には男子が二人有り、長男は側室の子新十郎、次男は継室竹姫の子、即(すなわ)ち忠興の甥(おい)市十郎である。正之は幕閣を代表して、忠興に諮(はか)る。
「市十郎は帯刀殿の甥(おい)御なれば、神妙に幕命に従う様、御口添えを願いたい。然(さ)すれば、幕府としては別して、恩赦を下す事も叶(かな)い申す。」
事情を知った忠興は、この旨(むね)承った。
「されば市十郎の儀は、この忠興に御任せ願いたい。」
「では、宜しく御頼み申す。」
忠興は大老、老中の面々に辞儀をして、江戸城を去って行った。

 虎ノ門上屋敷に戻った忠興は早速(さっそく)、義概を居間へ召し出した。
「御呼びにござりましょうか?」
程無く義概が、居間の入口に現われた。
「おお、近う。」
「はっ。」
義概は中へ進み、座礼をとる。直(す)ぐに小姓が、入口に跪(ひざまず)いた。
「治部左衛門様、御越しにござりまする。」
「おお、中へ参れ。」
内藤治部左衛門英貞は、政長三男右馬介政重の嫡子であり、忠興から見れば甥(おい)、義概から見れば従弟(いとこ)に当たる。義概と英貞は、忠興の前に並んで座った。
「今日二人を召し出したは他でもない、国政を学んで貰(もら)う為じゃ。」
「国許(もと)の政(まつりごと)、にござりまするか?」
義概が尋ねる。
「そうじゃ。二人は将来、藩主と家老を務める身なれば、国許(もと)へ帰り、直(じか)に藩領を見聞する必要が有ろう。本日、そちの帰国が御公儀より許された。」
「御配慮、痛み入りまする。」
義概は、新天地を前にうずうずしているのが見て取れる。忠興も相続前を思い出し、思わず口許(もと)が綻(ほころ)ぶ。
「さて、そちは帰国の後(のち)、何を致す?」
「領内を巡察し、民情を直(じか)に観察致しとう存じまする。」
「ほう、上手(うま)く行くかのう?」
「これは異な事を。父上が江戸に在(おわ)される以上、誰に憚(はばか)る事が有りましょうや?」
「強気じゃのう。では来年江戸に戻って来るまで、そちがどれ位見聞きして来られるか、楽しみに待つ事と致そう。」
忠興は義概に帰国の仕度を命じて下がらせ、英貞のみを残した。
「さて、そちには義概の御供を命ずるが、申し付けて置く事が有る。」
「何でござりましょう?」
「当家に は上田家と安藤家という、二大勢力が居る。怖らく義概は、家老達と衝突致すであろう。一応、高月屋敷を空(あ)けて置くが、本丸三階櫓(やぐら)から追い出されぬ様(よう)、動いて欲しい。万一の時は郡奉行今村仁兵衛、もしくは組頭の宿屋求馬を頼るが良かろう。」
「承知致しました。」
退室しようとする英貞を、忠興は呼び止める。
「今一つ。」
英貞は慌(あわ)てて腰を下ろした。
「ここだけの話じゃ。他の者は勿論(もちろん)、義概に勘付かれても成らぬ。」
「はっ。」
「沢村勘兵衛には近寄らせるな。」
英貞は、よく理解できない様(よう)であるが、取り敢(あ)えず承(うけたまわ)る。
「畏(かしこ)まりました。」
「頼んだぞ。」
英貞が去った後、忠興は大きく息を吐(つ)いた。

 数日後、義概と英貞は磐城を目指し、江戸を発って行った。虎ノ門邸では母香具姫、妻松平氏、嫡男万鍋が見送りに出ていた。義概も既(すで)に、一家を構えている。家族を江戸に置いている以上、武家諸法度には抵触しない。また、家族を置いて帰国する意義を、忠興は跡継ぎに知って貰(もら)いたかった。

 忠興には直(す)ぐに、別の仕事が待っていた。美濃徳野藩邸に人を遣(つか)わし、甥(おい)平岡市十郎の側近と接触した。そして市十郎と従臣が忠興と共に登城に及べば、幕府へ取り成す旨(むね)、約束を交(かわ)した。

 七月四日、忠興は市十郎とその家臣三名を伴い、江戸城へ赴いた。そして幕府より沙汰が下され、平岡家は見苦しき御家騒動を招いた咎(とが)に因(よ)り、改易処分が申し渡された。平岡家の家臣が弁明しようとするのを忠興が遮(さえぎ)り、幕吏の言葉を待つ。続いて申し渡されたのは、平岡家歴代の忠節を考慮し、市十郎には格別に、一千石を下されるとの事であった。

 平岡市十郎は、後(のち)に元服して頼重と名乗り、山角藤兵衛定勝の娘通(みち)姫を、内藤義概の養女とした上で妻に迎え、子孫は旗本として加増を受ける事が叶(かな)った。

 七月二十日、将軍家使者が応接し、忠興に御鷹の雲雀(ひばり)二十羽が下された。
「上様も東照神君に倣(なら)い、鷹狩を以(もっ)て兵馬の調練、民情視察に励(はげ)まれし事、臣として嬉(うれ)しく存じ上げまする。」
忠興は有難く、御鷹の獲物を頂戴した。

 十一月二十日、家綱は上野を参詣し、忠興は西の丸御留守番を仰(おお)せ付かった。

 承応三年(1654)一月二十四日、二代将軍台徳院殿の二十三回忌が、増上寺にて執り行われた。忠興は上意に因(よ)り、江戸城西の丸御留守番を仰(おお)せ付かっていたが、心做(な)しか、普段より緊張していた。

 改元が有った一昨年九月は、二代将軍御台所崇源院の二十七回忌であったが、この機に乗じて、浪人別次(べつき)庄左衛門らが江戸市中に放火し、老中松平信綱を暗殺する計画が有った。幸い由比正雪の時と同じく、密告者が有ったので、未遂(みすい)のまま、計画に係った者を処刑し、事無きを得た。

 あれから一年と四ヶ月。今度は同じく増上寺に於(おい)て、台徳院殿の法要である。忠興は、別次の残党、もしくは同じ事を考える輩(やから)が現れぬのを願いながら、油断無く西の丸を固めていた。

 幸い何事も起らず、将軍家一行は江戸城へ戻って来た。

 三月三日、忠興に再び登城の上意が有り、忠興は将軍家綱に謁見(えっけん)した。この場で老中松平信綱から、台命が伝えられた。
「内藤帯刀殿には、今年の九月十五日を以(もっ)て、大坂城代の役目を命ずる。」
大坂城は幕府が西国大名に睨(にら)みを利かせる拠点であり、城代はその最高責任者である。忠興は粛然(しゅくぜん)と承(うけたまわ)った。信綱から、重ねて指示が有る。
「帯刀殿に帰国の御許しが下される。直(ただ)ちに国許(もと)にて兵馬を整え、大坂入りの仕度を整えられよ。」
嫡子義概が帰国している中、今また忠興に兵を動かす役目を与えられた事は即(すなわ)ち、幕府の信任を得ている証(あかし)である。忠興は喜びに打ち震えつつ、承服の意を示した。

 虎ノ門に戻った忠興は、江戸家老上田主計(かずえ)信利以下、江戸番の重臣達に、大坂城代就任の事を話した。
「おめでとうござりまする。」
主計が家臣を代表して御祝いを申し上げ、忠興は頷(うなず)く。
「当家は国許(もと)より主力を率(ひき)いて、遠く西国へ赴く事となる。因(よ)って国許は手薄となる故(ゆえ)、万一の事態も考えられる。江戸藩邸は国許と江戸城を繋(つな)ぐ要(かなめ)じゃ。抜かり無く、各方面への伝達を行う様(よう)。」
「畏(かしこ)まりました。」
家臣の多くは初めての遠国常駐に、戸惑(とまど)っている様子であった。

 その日の夕餉(ゆうげ)の時、忠興は母桜吟院、妻香具姫、三男遠山政亮(まさすけ)に加え、長男義概の妻松平氏、孫万鍋を前に、帰国と大坂赴任の件を話した。
「私(わし)は暫(しばら)く国許(もと)へ帰るが、五月には先に、義概が江戸へ戻って来るであろう。私(わし)が江戸へ戻るは八月、そして九月に大坂着任じゃ。留守中何か有れば、従来通り、家老の上田主計を頼る様(よう)。また政亮は、兄義概の帰国まで、一門衆の代表として、ここに居る者達を守る様。」
「承(うけたまわ)りました。」
政亮は元気に返事をした。忠興は頷(うなず)き、続いて香具姫を見る。
「義概がどれ程成長して居るか、一足先に私(わし)が見て参る。」
「ええ、成長して居ると良いのですが。」
「便(たよ)りは有るのか?」
「最初の内は、元気であると度々(たびたび)。しかしここの所、めっきりと少なくなりました。」
「羽根を伸ばして居るか、それとも苦戦して居るのか。何(いず)れにせよ、体の方は問題有るまい。」
「だと良いのですが。」
「親とは木の上に立って見ると書く。義概は磐城平藩を継ぐ身なれば、今後も折を見て帰国させ、藩主としての修業をさせねば成らぬ。例え義概が打ち拉(ひし)がれて帰って来ても、そちが甘やかしては成らぬぞ。」
「心得ました。」
父母共に息子の自立は願う所だが、その過程で不安が生じるのは、何処(いずこ)も同じであろう。斯(か)くして新緑が終り、山の木々が茂り始める頃、忠興は大坂へ率(ひき)いる軍勢を得る為、磐城へと向かった。
忠興が平に到着した頃、義概は江戸に戻る仕度に追われていた。そこへ父の帰国が伝えられ、義概は従弟(いとこ)の英貞と共に、挨拶に訪れた。
「この度は無事の御帰国、恭悦(きょうえつ)の極みと存じ上げまする。」
「おお、義概か。久しいのう。どうじゃ、国許(もと)は?」
「学ぶ事が、多々有りまする。」
「おお、重畳(ちょうじょう)じゃ。して、何を学んだ?」
「特に新田開発や、治水の事などを。」
「うむ。二つは共に藩政の柱であり、そちの代にも引き継がれる物であろう。」
義概の着眼が良かったので、忠興は内心安堵した。
「して、藩政に変りは無いか?」
「沢村甚五左衛門が、好間江筋を完成させ申した。」
「何と、遂(つい)にできたか。」
好間江筋は好間地方を貫通して平城下の長橋に至り、周辺の久保町を潤して、十五町目から町分、北白土、新川を潜(くぐ)って南白土に至り、山崎、荒田目と進んで分岐する。支流は菅波を潤し、本流は上大越、下大越に至り、夏井川及びその支流に排水される。これに因(よ)り十三ヶ村、凡(およ)そ九千石に旱(かん)(ばつ)の心配が無くなった。特に久保町、長橋、十五町目は、平の城下町に接する。
「ただ小川江筋は、後(あと)一年は掛かる見込みとの由(よし)。」
忠興の顔が、俄(にわか)に険しくなる。
「ほう。」
「勘兵衛が幾(いく)ら有能でも、家中から弾(はじ)かれて居る様(よう)なれば、已(や)むを得ますまいか?」
「勘兵衛に、会(お)うたのか?」
「幾度か、磐城郡を視察の折に。」
「そうか…」
「家中の不和は、捨て置けぬかと存じまするが。」
「何?」
「某(それがし)なれば、有能な士を潰(つぶ)す事の無き様、取り計らいまする。」
英貞は慌(あわ)てて、両者の間に割って入った。
「まあ、殿は長旅で御疲れの事と存じまする。若殿は未(いま)だ研鑽の途上なれば、御話は後日という事に。」
義概は、はっとして畏(かしこ)まった。
「これは配慮が足りず、御無礼を。」
「まあ良い。今日は好間江筋の完成という朗報で、気分が良い。下がって、帰府の仕度を続けるが良かろう。」
「ははっ。」
義概は英貞と共に、下がって行った。忠興は少し、義概の着想が気に掛かった。義概ならば、勘兵衛をどう扱うのか?しかし、義概は直(じき)に江戸へ戻る。忠興も既(すで)に六十三歳なれば、この後(のち)も幾度か義概を帰国させ、国政に触れさせる機会を得られるであろう。その都度成長を遂げてくれれば、答えもまた変わるであろう。忠興は今、敢(あ)えて義概に質(ただ)す事はしなかった。

 五月、義概は十ヶ月滞在した国許(もと)を去り、江戸へ戻って行った。そして十一日、帰府を届け出に登城した折、将軍家綱の目通りが許されて、太刀、馬代、時服五着を献上した。

 一方国許では、忠興が出兵の仕度と共に、覚書(おぼえがき)を二つ作成していた。一つは大坂御供の事で、六ヶ条から成る。もう一つは、国許人事、内政、財政の事で、十三ヶ条から成る。日付は共に七月二十三日で、留守を任せる重臣は、家老上田外記を筆頭に、穂鷹吉兵衛、近藤惣兵衛、加藤半之丞、土肥九右衛門である。

 また大軍を動員するに当たり、組頭の上田内膳に、家老職を兼帯させる事とした。

 八月、忠興は家老安藤清右衛門定久以下、組頭上田内膳信秋、安藤清右衛門定勝、宿屋求馬利長、総勢三千を伴い、磐城を発った。馬上で、清右衛門定久が忠興に尋ねる。
「殿はどうしてまた、この老い耄(ぼ)れを大坂へ伴われるのか?」
忠興は微笑を湛(たた)える。
「大坂の勝戦(かちいくさ)を知る者は、家中ではもうそち位の物であろう。他の者は皆、代替りをしてしもうた。」
「確かに。」
「冬の陣は手勢百余で井上様の下に付き、夏の陣では大名となって戦えた。そして此度(こたび)は、大坂城代ぞ。この格別な思いを共有できる家臣は、今ではもうそちだけじゃ。」
「ははは…二十騎の寄せ手の一侍大将が、もう直(す)ぐ天下の大坂城代にござりまするな。」
「うむ。それを思うと、万感胸に迫(せま)る。」
「御察し申し上げまする。」
磐城勢は粛然と、水戸街道を南下して行った。

 やがて江戸郊外で、忠興は兵を組頭に任せ、自身は家老清右衛門と共に、虎ノ門上屋敷へ向かった。

 八月二十五日、大坂出向を前に、幕府より白銀百枚、帷子(かたびら)十着、反物五つ、御紋付羽織一着、御馬一疋(ぴき)が下賜され、忠興は幕吏に対し、これら御恩情の御礼を申し上げると共に、大坂城代の役目を全(まっと)うする意気を伝えた。

 この日、忠興は江戸出発を前にして、念を押して覚書(おぼえがき)を認(したた)めた。五ヶ条有り、一に留守中国許(もと)の事は、上田外記、近藤惣兵衛、加藤半之丞、土肥九右衛門に任せる事。二に異国船発見の折は、江戸へ急使を遣(つか)わす事。三に一昨年に定めし諸法度や掟(おきて)を守り、また火の用心を怠(おこた)らぬ事。四に年貢や出費の事で、勘定は今村仁兵衛に任せていたが、留守中はよく相談の上決める事。五に目付に足軽を付けて、領内を境目まで隈(くま)無く巡回する事。以上を国許へ通達し、愈々(いよいよ)忠興の目は西へ向けられた。

 二十九日、忠興は東国の留守を嫡子義概に任せて、藩邸を去って行った。虎ノ門の外には三千の兵が待機して居り、忠興は江戸詰めの者の一部もこれに加え、磐城勢は騎兵八十九騎、雑兵三千百三十人となった。先陣は家老組頭上田内膳、旗奉行忍四郎兵衛と長尾右門、鉄砲奉行松井右近、原縫殿、布施三太夫、長谷川助之進、曽根八郎兵衛、沢村彦左衛門、弓奉行三宅四郎兵衛と上惣太夫、長柄奉行今西弥次兵衛と今泉又兵衛、持筒斎藤与左衛門、持弓頭鈴木吉之丞、持長柄奉行近藤弥一右衛門、他に部将上田多吉、近藤主水、宿屋求馬、穂鷹杢兵衛、安藤清右衛門定勝。忠興と清右衛門定久は、四十年前とは全く異なる軍勢を引き連れ、江戸の大路にその武威を示しながら、東海道へ進んで行った。

 大坂に着いたのは、九月十二日であった。城代引継ぎの三日前である。当時の大坂城代は、信濃松本七万石藩主、水野出羽守忠職(ただもと)であった。二代将軍の時、大坂城を再建しつつ、七年に渡って大坂に在り、この地に没した内藤紀伊守信正を初代とすると、水野忠職は六代目の城代で、任期は二年であった。内藤信正は、陸奥棚倉藩主内藤信照の父で、信照もまた、五代目大坂城代として、三年間務め上げている。

 三日間で家臣の屋敷、持場の交代は無事に済み、予定の九月十五日には、忠興が正式に七代目大坂城代に就任した。

 この頃、俄(にわか)に宮中で動きが有った。二十二歳の紹仁(つぐひと)天皇は退位の叡慮を下され、幕府はこれを認めて、後光明上皇となった。次の帝(みかど)に、幕府は後水尾院の第十九皇子、識仁(さとひと)親王を望んでいた。しかし未(いま)だ三歳の御若年故(ゆえ)、先帝の弟君の中で出家していない、後水尾院第八皇子良仁(ながひと)親王が、識仁(さとひと)親王御成長の時まで、繋(つな)ぎとして即位する運びとなった。十一月二十八日、良仁(ながひと)天皇践祚(せんそ)の儀が、宮中で執り行われた。

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