第十二節 大坂城代

 承応四年(1655)、忠興は家臣の斎藤与左衛門をして、年始挨拶(あいさつ)と大坂城代就任の御礼を申し上げるべく、江戸へ派遣した。この時、与左衛門は幕府から、大坂城代に在任中、近隣五万石の仕置を任す旨(むね)、申し渡された。大坂へ戻った与左衛門は台命を主君忠興に伝え、忠興は小隊を四つ編成して、五万石采地(さいち)へ派遣した。内藤家中では、正月早々に縁起が良いと、喜ぶ声が聞こえた。

 しかし、只(ただ)喜んでばかりも居られない。大坂城代は、職務が煩雑(はんざつ)である。江戸は武家の町、京は公家の町であるのに対し、大坂は商家の町である。因(よ)って、三都の中では最も金が動き、物が溢(あふ)れていた。この商業都市を纏(まと)めるのは、大坂城代ではない。幕府老中、若年寄管轄の、大坂町奉行である。また家督相続前、大坂加番を務めた時に知ったのだが、加番とは定番の加勢を務める役である。大坂城には京橋口と玉造口に定番が配備され、城代の主な持場は大手門となる。

 忠興は先(ま)ず、城代直轄の持場から、視察を始めた。豊臣家と合戦に及んだ時に比べ、敷地面積は大分(だいぶ)狭くなっている。だが、天下人の居城という豪華さは削(そ)ぎ落され、その分実戦的に造り直されたとも言える。忠興は櫓(やぐら)に登って見ては、敵ならばどう攻め立てるか、予測していた。

 当主が西に在って留守の間、跡継ぎは東で、枷(かせ)が取れた様(よう)に動き回っていた。二月十五日、義概(よしむね)に再び帰国の許しが出た。大名なれば、帰国は一年以内、江戸参勤は一年以上という法が有るが、義概は世嗣(せいし)であり、大名ではない。ただ、義概には妻子が有り、これらは皆、江戸の藩邸に残す事となる。

 出立を前に、香具姫が義概を居間に呼び寄せた。程無く、義概が姿を現す。
「母上、義概にござりまする。」
「おお、中へ入られよ。」
義概は一礼すると、母の前へ進み出て、再び腰を下ろした。
「間も無く、帰国に及びまする。」
香具姫は、不安な顔で尋ねる。
「急な事に、母は驚いています。父上には相談されましたか?」
「父上は現今西国に在(おわ)され、東下する事能(あた)いませぬ。さればこの義概、父上の目となり国許(もと)へ立ち帰って、藩主の不在中、家臣が役目を疎(おろそ)かにして居らぬか、確認して参る所存。」
「其(そ)は殊勝の事とは存じまするが、事前に母へ相談が有っても、良かったのではござりませぬか?」
「此度(こたび)の事は、万一逆心を抱(いだ)く者が藩領を侵(おか)せし事を、想定してござりまする。されば、先ずは御公儀に御願いの上、身内は後回しと致し申した。」
「兵法に適(かな)う物とは心得ますが、松平氏の産み月は晩春の由(よし)。せめて子が生まれるまで、側に付いてやっても良かったのでは?」
「大名なれば、妻子に後ろ髪を引かれては成りますまい。子は既(すで)に、弥右衛門が居りますれば、後(あと)は御頼み申しまする。」
義概の長男は元服し、弥右衛門義邦と名乗っていた。
「意思が固い様(よう)ですので、これ以上は何も申しませぬ。気を付けて行きなされ。」
「ははっ 。」
義概は辞儀をして、母の許(もと)を去って行った。

 後日、香具姫の書状が大坂の忠興に届けられた。忠興は江戸家老上田主計に宛(あ)て、義概の事は捨て置く様に伝えるべく、書状を認(したた)めた。留守中の勝手な行いは迷惑だが、勝手をする以上、その責任は本人に取らせる。そうする事で、我が子が一回り成長する事を期待した。

 四月十三日、昨年の新帝即位を受け、改元が行われた。よって承応四年は、明暦(めいれき)元年と改められた。

 五月一日、江戸の虎ノ門上屋敷に於(おい)て、松平忠国の娘が、義概の次男を出産した。しかし当主も、父親すらも不在の為、暫(しばら)くは名無しであったが、後日義概より、五郎七郎という名を授(さず)けられた。

 この月、磐城平藩に於(おい)て遂(つい)に、小川江筋が完成した。寛永十五年(1638)に、磐城郡下小川村に関場を築いてから十七年、一大事業が漸(ようや)く結実した。水門は大小十七ヶ所に築かれ、横川、仁井田川に至る三十ヶ村二万石の田畑に、夏井川の涸(か)れぬ水を入れる事が可能となった。

 めでたく大事業を成し得た沢村勘兵衛は、磐城郡内の民心を得た。しかし他の重臣達から見れば、遂(つい)に勘兵衛を泳がせる価値が失われ、折良く藩主は遠く大坂に在る。昨年に忠興が認(したた)めた覚書(おぼえがき)は、留守中の家臣を引き締め、藩内の警備を怠(おこた)りなくさせるのが目的であったが、反勘兵衛勢力に取ってこれは、格好の攻撃材料となる内容であった。

 七月、沢村勘兵衛屋敷に兵を伴った目付が現れた。留守を任されし重臣衆の名代なれば、勘兵衛は玄関に畏(かしこ)まって、沙汰(さた)を承(うけたまわ)った。
「沢村勘兵衛、右の者、先年磐城郡上平窪村に於(おい)て寺社奉行の許可無く、勝手に利安寺を建立し、かつ除地五石を認めし事、御公儀の法を破る大罪である。本来ならば直(ただ)ちに斬罪の所、長年の功績を鑑(かんが)み、西岳寺での謹慎を申し渡す。」
勘兵衛は抗(あらが)う事無く、神妙に答える。
「承り申した。」
(か)くして沢村勘兵衛は捕吏(ほり)に連行され、内藤家菩提所善昌寺の西に在る、西岳寺へと移された。

 勘兵衛は西岳寺の御堂に幽閉され、周囲には罪人監視の兵が配置された。時折、目付が詰問(きつもん)に訪れた。目付は勘兵衛を煙(けむ)たがる重臣衆を代表して、勘兵衛に自分の非を認めさせるべく責(せ)め立てるが、勘兵衛は罪に問われた事に対し、それに因(よ)って藩の米蔵に何万何千俵を納める結果となったと、細(こま)かく計算して申し上げた。余りに数字を言うので、目付は
「御主は商人か?」
と怒鳴(どな)り付けたが、勘兵衛は毅然として答える。
「されば兵法では、武具の射程、目的地までの移動距離、兵を養える日数など、勘定する事は致しませぬか?」
この目付は、戦(いくさ)経験が無い。
「戦(いくさ)は概(おおむ)ね、兵の多寡(たか)で決める物なり。」
そう言い捨てて、去って行った。

 目付が去って程無く、番人の兵が御堂の扉(とびら)を開けた。
「来客でござる。」
兵の案内で御堂に姿を現したのは、兄の甚五左衛門であった。
「やはり、こうなってしもうたか…」
勘兵衛は驚いた。
「兄上、何故(なにゆえ)斯様(かよう)な所に?某(それがし)に近付けば、兄上の御立場を危(あや)うくしてしまい申す。」
「懸念(けねん)無用じゃ。それより、一筆認(したた)めて欲しい。」
甚五左衛門は寺から文机(ふづくえ)を拝借し、御堂の中に置いた後、懐(ふところ)から取り出した書状を、文机の上に広げた。書状の文面は、久しく自身の分(ぶ)を弁(わきま)えず、家中を乱し続けて来た事を、家老の上田外記以下、国許(もと)留守居を任されし重臣達に、御詫び申し上げる内容であった。文末には、甚五左衛門の印判が押してある。
「兄上、これは?」
「一緒に、責任を取ってやる。」
「何と有難き御言葉かな。勘兵衛、心より御礼(おんれい)申し上げまする。」
「礼はよい。早(はよ)う連署致せ。」
勘兵衛は頷(うなず)き筆を取ると、兄の名の上に縦線を引いた。
「何を致す?」
勘兵衛は筆を置くと、兄の方へ向き直る。
「これでは、沢村家が絶(た)えてしまい申す。この度(たび)の謹慎処分、幸いにも兄上の係らざる事なれば、以後も御近付き下さりませぬ様(よう)。」
「勘兵衛…」
「兄上に万一の事有らば、亡(な)き父上に申し訳(わけ)が立ちますまい。」
勘兵衛なりに今後を予測し、覚悟を固めている様である。甚五左衛門は家門の事を弟に託(たく)され、これ以上どうする事もできなかった。勘兵衛は畏(かしこ)まって、兄に申し上げる。
「文机と紙を、御借り願えまするか?」
「うむ。」
「有難うござりまする。では兄上、好間江筋を宜(よろ)しく御願い致し申す。御困りの事有らば、三森内匠に御尋ね下され。」
「相(あい)(わか)った。」
(さわ)やかな表情の勘兵衛に見送られながら、甚五左衛門は重い足取りで、西岳寺を去って行った。

 この頃、桜町近くの上田外記邸では、反勘兵衛派が目付を同行して、国家老の外記に、勘兵衛に死罪を言い渡す様(よう)、願い出ていた。外記は目付に尋ねる。
「勘兵衛の言い分は?」
目付は畏(かしこ)まって言上する。
「一向に、反省の色が見え申さず。」
「然様(さよう)か。利安寺の件を見るに、諸法度では、寺領は御公儀の領域にて、諸侯の領分に非(あら)ず。藩公忠興様にすら許されぬ寺領の沙汰を、一家臣が独断で行いしは、これ即(すなわ)ち反逆に等しき行いである。儂(わし)としても、勘兵衛の死罪には賛同致す。ただ、勘兵衛処刑の後、江筋の管理をどうするかだが…」
近藤惣兵衛が具申(ぐしん)する。
「では、郡奉行今村仁兵衛殿に任せては?」
仁兵衛も武士の面目より、政(まつりごと)を大事にし過ぎる所が有る。重臣達は憎(にく)む所までは行かぬ物の、外様の分際(ぶんざい)で才覚を藩主に見込まれ、代官の上に立つ仁兵衛を、少なからず妬(ねた)んでいた。
「仁兵衛か。郡奉行なれば、藩内農政に支障を来(きた)した時、先(ま)ず責任を取らねば成るまいのう。」
(か)くして、勘兵衛を死罪に追いやった結果、国政が乱れたとしても、自分達に罪が及ばぬ事を確認し終えた後、外記は決断を下した。
その日の夕刻、大島与惣左衛門が密(ひそ)かに登城し、義概に目通りを願い出た。義概は英貞と共に今村仁兵衛を招き、藩政の様子を尋ねていた。そこへ与惣左衛門が来たとの報(しら)せを受け、義概は訝(いぶか)しがった。
「今の時刻、何の用であろう?」
与惣左衛門は安藤清右衛門の組に属し、四百石取りの重臣である。義概は興味を抱(いだ)き、与惣左衛門を通す様(よう)命じた。

 小姓に案内され、与惣左衛門は入口に畏(かしこ)まった。
「若殿様、並びに治部様、郡奉行殿には、斯(か)かる時刻に目通りを許され、恐縮の至りと存じ上げまする。」
義概は、与惣左衛門を中へ招く。
「大事な話であろう。近う。」
与惣左衛門を通すと共に、義概は小姓達に人払いを命じた。
「さて、火急の用と見受けるが、話を聞こう。」
与惣左衛門は言葉を探しながら、慎重に申し上げる。
「先程、御家老の御屋敷へ招かれし折、重臣合議の上、一つの決定が下され申した。」
「申して見よ。」
ゴクリと、与惣左衛門の咽(のど)が鳴る。
「沢村勘兵衛殿に、切腹を命ずると。」
義概は俄(にわか)に頭に血が上り、思わず怒鳴(どな)った。
「僭越(せんえつ)なり!」
仁兵衛が、義概を制する。
「若殿、御声が高うござりまする。」
「う、うむ…」
義概は不満を顔に表しながらも、黙って肘(ひじ)掛けに凭(もた)れる。仁兵衛が、話の続きを促(うなが)した。
「勘兵衛殿は前(さきの)郡奉行にして、五百石取りの大身。加えて小川江筋落成の功を挙げたばかりじゃ。切腹の理由を、御聞かせ願たい。」
「されば、小川江筋こそが切腹の理由にござり申す。斯(か)かる大事業を外様の家臣に成されては、譜代の臣は面白からず。」
「それでは、甚五左衛門殿も危(あや)ういと?」
「いや、甚五左衛門殿は御家老の面目を考慮する所有り、今の所は安心かと存じまする。しかし勘兵衛殿は、独断で事を成す傾向有り。特に慶安三年の大旱魃(かんばつ)の折、百姓救済の為に、扶持(ふち)の六割を藩に返上すると申し出た事に因(よ)り、重臣達より多大なる不興を買い申した。」
「して、切腹の罪状は?」
「勘兵衛殿が上平窪村に勝手に利安寺を建立し、除地五石を与えた事が、御公儀の諸法度を犯(おか)す物であると。」
話を聞いていた義概が、与惣左衛門に尋ねる。
「除地の件は、御公儀に露顕致したか?」
「いえ、今の所は。」
「ならば、直(ただ)ちに利安寺を打ち毀(こわ)し、証拠を消し去れ。」
「御家老も、その積(つも)りにござりまする。」
「何?」
「利安寺の存在は、藩に取っては迷惑な物。しかし重臣の方々に取っては、勘兵衛殿失脚に不可欠な物。故(ゆえ)に、勘兵衛殿切腹の後、速(すみ)やかに破却する手筈(てはず)にござりまする。」
「慮外な!斯(か)かる謀議を致した者の名を申せ。」
これには、仁兵衛が取り成しに出た。
「これ以上与惣左衛門殿より聞き出しては、せっかく若殿に御報告を申し上げた忠義者の、御命が危(あや)うく成りまする。」
仁兵衛は最後に、与惣左衛門に確認する。
「勘兵衛殿は今、何方(どちら)に?」
「西岳寺に、押し込められて居り申す。」
仁兵衛は頷(うなず)くと、義概に言上する。
「では若殿、今から善昌寺へ御参りに行かれましては?そして今宵(こよい)は高月屋敷へ御泊まりに…」
この順路を辿(たど)れば、誰にも不審がられず、西岳寺の側を通る事ができる。
「相(あい)(わか)った。」
仁兵衛は、与惣左衛門が疑われる事の無き様、配慮する。
「ここに、与惣左衛門殿知行地を含む地図がござり申す。これを持って、早々に本丸を退去されよ。後日、我らとの内通が疑われし折には、所領巡検の為、郡奉行に地図を借りに参ったと、回答あるべし。」
「此(こ)は、有難し。」
与惣左衛門は地図を受け取ると、辞儀をして下がって行った。

 暫(しばら)くして、義概は人を呼んだ。
「今宵(こよい)は久し振りに高月屋敷へ泊まり、仁兵衛の話をじっくりと聞きたい。また、途中で善昌寺に立ち寄り、家長公、政長公の昔にも触れて見たい。直(ただ)ちに手配致す様(よう)。」
家臣は承知すると、直(す)ぐに屋敷方、警固方へ伝令した。

 やがて、警固を得た義概、英貞、仁兵衛は、本丸を出て大手口に至り、広小路を西へ進んだ。陽は西の方へ沈(しず)みつつ在る。八幡小路を突き当たって南へ折れ、曲松を進むと、直(す)ぐに西岳寺にぶつかる。ここを東へ折れれば善昌寺なのだが、義概はここで輿(こし)を止めた。
「月が明るい。一句詠(よ)みたい気分じゃ。」
義概は詩を好み、風虎(ふうこ)という号を持つ俳人でもある。輿(こし)を下り、辺りの寺院を眺めていると、西岳寺の山門に、松明(たいまつ)を持った兵が立っているのを認めた。
「治部、なぜ山門に兵が居るのか?」
「様子を見て参りましょう。」
英貞は護衛を二人ばかり連れ、西岳寺山門へ向かった。そして、松明(たいまつ)の主に尋ねる。
「これ、寺の前で何をして居る?」
兵は松明(たいまつ)を翳(かざ)して英貞の顔を照らすが、誰だか分からない。
「何方(どちら)様にござりましょうか?」
衛兵二人が番兵に詰め寄る。
「無礼者!こちらに在(おわ)されるは、藩公の甥(おい)御に当たられる、内藤治部左衛門英貞様なるぞ。」
「こ、これは御無礼を。」
番兵は慌てて、膝(ひざ)を突いた。英貞は衛兵を制して、前へ進み出る。
「左京大夫様が御尋ねである。何故(なにゆえ)寺に兵が居るのかと。」
「畏(おそ)れながら申し上げまする。只今罪人を押し込め、監視致して居りまする。」
「はて、罪人とは?」
「諸法度を犯(おか)せし、沢村勘兵衛殿にござりまする。」
「何と、前(さきの)郡奉行ではないか!詳(くわ)しく説明致せ。」
「某(それがし)も、詳しくは存じ上げませぬ。御家老の御沙汰にござりまする。」
そこへ、義概と仁兵衛が姿を現した。英貞は義概の脇に控え、義概が兵に尋ねる。
「勘兵衛は当家の重臣である。また大普請の功労者なれば、何故(なにゆえ)大罪を犯したのか、儂(わし)は大坂に在(おわ)される父上に代わり、聞いて置かねば成らぬ。中へ案内せよ。」
「その儀は、御容赦(ようしゃ)下さりませ。」
「儂(わし)の命が、聞けぬと申すか?」
「滅相(めっそう)も無き事。ただ、沢村殿の罪は御公儀の法を犯す物なれば、左京様には呉々(くれぐれ)も御近付きに成されませぬ様、仰(おお)せ付かってござりまする。万一左京様が沢村殿に情けを掛けられては、御公儀より左京様に御咎(とが)めが下される怖れ有りと。」
「大袈裟(おおげさ)な。少し話を聞くだけじゃ。」
この時、英貞はつと思い出した。
「若殿、そう言えば大殿は以前に、若殿を勘兵衛殿に近付けぬ様、仰(おお)せにござり申した。」
「何、真(まこと)か?」
忠興も薄々(うすうす)気付いて居たとなれば、事は思いの外(ほか)深刻な様である。
「仁兵衛。」
「はっ。」
「儂(わし)が父上に指示を仰(あお)ぐ故(ゆえ)、勘兵衛の事をよくよく吟味して置く様(よう)。処罰はその後じゃ。」
「承(うけたまわ)りました。」
番兵も、藩嗣子と郡奉行に逆らい通す事はできない。郡奉行だけならばと、仁兵衛を中へ通してくれた。

 それを見届けた上で、義概は父へ勘兵衛の事を報告するべく、英貞と共に本丸へと引き揚げて行った。

 西岳寺に入った仁兵衛は、番兵に案内されて、御堂の前に立った。扉が開けられると、番兵が中の男に告げる。
「郡奉行様が、面会に御越しでござる。」
仁兵衛が御堂の中へ入ると共に、雲隠れの月が姿を現した。同時に、勘兵衛の顔が月光に照らされる。
「おお、勘兵衛殿…」
勘兵衛は姿勢を正し、御堂の中央に座している。仁兵衛は中へ進み、勘兵衛に正対して座した。

 思えば、仁兵衛の測量技術と勘兵衛の治水技術、言い換えれば数学と物理学の粋(すい)を集めて成した物が、小川江筋と言えるであろう。その両者が面と向かい、最初に声を発したのは、勘兵衛であった。
「思い掛けず、人物に出逢う事が叶(かな)い申した。願わくば、某(それがし)の願いを一つ、聞き届けてはくれますまいか?」
「承(うけたまわ)り申す。」
すると勘兵衛は、文机の脇から紙の束(たば)を取り、仁兵衛の前に置いた。
「某(それがし)が思うに、我が兄甚五左衛門が普請(ふしん)せし好間江筋は、まだまだ改良の余地有り。某(それがし)の案をこれに認(したた)めました故(ゆえ)、三森内匠へ届けてはくれますまいか?あの者なれば将来、必ずや磐前郡の民に役立つ物を、築いてくれ申そう。」
勘兵衛が仁兵衛に紙束(たば)を差し出した所で、番兵が声を掛けた。
「あいや、暫(しばら)く。」
番兵は仁兵衛の前に、勘兵衛の記(しる)した物を検分した。罪人に検閲(けんえつ)を行っているのだが、難解な図面と計算ばかりで、何を書いているのか、少しも理解できない。取り敢(あ)えず確認の振りだけして、御堂の入口へ戻って行った。

 仁兵衛が改めて紙束を見ると、それには勘兵衛の奥義(おうぎ)が記(しる)されてあった。
「これは、凄(すご)い。」
「江筋の完成は、城下は勿論(もちろん)の事、滑津川以北を潤(うるお)して、漸(ようや)く完成致し申す。」
この案は、磐前郡内で新たに六ヶ村、四千二百石に水路を引く物であった。
「確かに、御預かり致し申す。」
「有難し。」
そして勘兵衛は仁兵衛に、御引取り願った。罪人の自分に係り過ぎては、仁兵衛にも累(るい)を及ぼす事を懸念したのである。仁兵衛はその気配りに感謝しつつ、一礼した後、西岳寺を去って行った。

 翌日、義概は国家老の上田外記を召し出した。外記は静かに、義概の前で座礼をとる。
「若殿様には、御機嫌麗(うるわ)しゅう…」
「麗しゅうないわ。」
義概は素っ気無く答えた。
「はて、御加減でも御悪いので?」
「心が、塞(ふさ)がれて居る。そち達のせいぞ。」
「何の事にござりましょう?」
「儂(わし)に隠れて、重臣一人を危(あや)め様(よう)と企(たくら)んで居るであろう?昨日西岳寺へ立ち寄った折、番兵が居るのを訝(いぶか)しんで、聞き出したわ。」
外記は、平然と答える。
「沢村勘兵衛の儀にござりまするか?理由は御存知で?」
「うむ。」
「ならば、若殿には係りの無き事。これ以上の御詮索(せんさく)は、無用に願いまする。」
「儂(わし)に出しゃばるなと?」
「滅相(めっそう)もない。若殿の御身(おんみ)を案じての事にござりまする。」
「どういう事か?」
「大殿が大坂に在(おわ)され、且(か)つ若殿が国許(もと)に在(おわ)されし今、御公儀の法を曲げし者を処罰致さねば、これ即(すなわ)ち若殿にも罪が及ぶ怖れ有り。因(よ)って処分は、重臣の間で行うが上策。然(さ)すれば、如何(いか)なる結果になろうとも、若殿が存知上げぬ以上、御咎(とが)めは決してござりませぬ。」
義概の納得が行かぬ顔を見て、外記は躙(にじ)り寄って言上する。
「若殿の憐憫(れんびん)の情、家臣としては実に感服致す所にござりまする。しかし、重臣合議の上の裁決にござりますれば…」
勘兵衛を救うべく、義概が幾(いく)ら話せども、埒(らち)が明かない。
「もう良い。後日、父上より沙汰が下るであろう。それまで勘兵衛の儀、差し置く様(よう)。」
「大殿に?承(うけたまわ)り申した。」
急に外記は大人しくなり、すごすごと去って行った。義概は伝家の宝刀を抜いた積(つも)りで、勝ったと勘違いした。

 程無くの七月十四日、西岳寺で重臣衆立ち会いの下、目付より勘兵衛に、切腹の沙汰が下された。勘兵衛は既(すで)に、辞世の句を用意していた。
  君が為(た)め 民衆の為(た)めは 勝(かつ)(ため)の 名は末代に 菩提ともなれ
そして四方に置かれた小刀を手に取ると、介錯(かいしゃく)人が尋ねる。
「御覚悟は宜しいか?」
勘兵衛は微笑を湛(たた)える。
「志既(すで)に成る。何ぞ憾(うら)むに足らんや。」
そして腹を十文字に切り、最期の意地を示して果てた。享年四十三歳。法名は一声院刀誉利道居士。

 勘兵衛は西岳寺和尚、良祐法師に遺言を残していた。江筋計画を志すに至ったは、偏(ひとえ)に泉崎村光明寺観順法師の智徳に因(よ)る物。しかし最早(もはや)、対面する事は叶(かな)わず。願わくば、観順法師に宜しく御伝え願いたいと。

 良祐法師は勘兵衛の遺言に従い、泉崎光明寺を訪れた。そして観順和尚に事の次第を告げ、西岳寺へ戻って行った。

 観順法師は勘兵衛の死を惜しみ、光明寺で供養を行った。また近郷の多くの民も、自分の扶持を返上してまで領民の為に尽力した、稀有(けう)の武士を失った事を悔やんだ。やがて磐城郡の民は、旱魃(かんばつ)から救済してくれた沢村勘兵衛直勝を、神として祀(まつ)る様になった。しかし、罪人を公然と崇(あが)める訳には行かない。故(ゆえ)に勘兵衛の辞世の句に有る、勝為を諡(おくりな)とし、沢村勝為の名で崇拝した。

 泉崎光明寺は浄土真宗であり、踊(おどり)念仏の名残(なごり)が有る。人々は泡斎念仏を踊り、勘兵衛の霊を慰(なぐさ)めた。これは後(のち)に、「ジャンガラ念仏踊り」となった。

 勘兵衛の切腹は、義概に事後報告された。義概は憤慨(ふんがい)し、外記を呼び付けた。しかし外記は、重臣達が義概を思い、自ら手を汚した忠義の行いと説明した。そして外記は義概に、一つ忠告する。
「以後、勘兵衛の事は御触れに成られませぬ様。本件は、波風立てず事を収めるが上策にござりまする。徒(いたずら)に掘り返せば、最悪の場合、若殿の御立場も危(あや)うくなりまするぞ。願わくば、速(すみ)やかに江戸へ帰府なされませ。」
切り札は、家老の上田外記に有った。義概が勘兵衛を飽(あ)く迄(まで)(かば)うのであれば、武家諸法度を軽視する者として、忠興に廃嫡を願い出る口実ができる。英貞は、勘兵衛の亡き今となっては、重臣衆と争っても詮(せん)無き事と、義概を宥(なだ)めた。そして、生まれたばかりの次男の顔を見に行くと理由を付け、義概は国許(もと)を去って行った。

 遠く大坂城の忠興は、国許(もと)の事を気に掛ける余裕も無く、老朽化した天守閣修復の普請(ふしん)に追われていた。勘兵衛切腹の経緯(いきさつ)は後日、国家老上田外記の書状を以(もっ)て、報告された。利安寺だが、調査の結果、思いの外(ほか)民衆の信仰が厚いことが判(わか)り、一揆の勃発を危惧(きぐ)した重臣衆は、破却(はきゃく)を取り止めた。重臣達に取って利安寺の件は、勘兵衛の切腹が目的であり、徒(いたずら)に民を刺激する必要までは無かったのである。藩が穏便に処理すれば、一寺院を残す事くらいはできる。そして利安寺は、沢村勘兵衛の菩提寺となった。

 大坂城天守閣の修復はやがて完了し、西国大名に不穏な動きも無いまま、明暦二年(1656)十月十五日、忠興は二年間の大坂城代を務め上げた。後任は、美濃加納藩七万石藩主、戸田松平丹波守光重である。内藤勢が詰めていた持場、所領、屋敷は順次、戸田松平家へ引き渡され、完了と共に、忠興は久しく居城としていた大坂を離れた。

 大坂城代の加増分は、粗方(あらかた)天守閣の普請(ふしん)に使い果してしまったが、別に大きな収入が有った。家臣団の主力を西国の要衝に配置する事で、戦(いくさ)を知らぬ者達をして、緊張感を持った訓練をさせる事ができた。

 十一月には江戸へ到着し、軍勢は家老組頭上田内膳に任せ、国許(もと)へ送り返した。忠興は江戸へ登城し、将軍家綱に上方平穏の旨(むね)を報告すると共に、太刀、馬代の金、羅紗(らしゃ)十間を献上した。家綱は羅紗を手に取って眺(なが)める。
「此(こ)は、南蛮の物だな?」
「はっ。阿蘭陀(オランダ)より伝わりし物との事。大坂に流通せし品の種類は、天下一と申せましょう。」
「う~む。江戸も大坂には及ばぬか?」
「畏(おそ)れながら、大坂は商家の町、江戸は武家の町にござりまする。」
「それもそうか。」
家綱は機嫌を良くし、献上品を納めた。

 十四日には将軍家より鷹狩の獲物、雁一羽が下賜された。

 十二月、昨年大坂城普請を手掛けた内藤家家臣、太田次郎左衛門、今村庄左衛門、今西弥次兵衛、立木太左衛門に、幕府より恩賞として、時服と羽織が下された。

 年の瀬が迫った頃、忠興の許(もと)を安藤清右衛門定久が訪れた。忠興が幼少の頃より仕え、家督相続前に忠興が大名に取り立てられた時、先代政長が附(つけ)家老を任せた人物である。忠興と共に大坂の陣を戦った勇者も、今では老齢となっている。
忠興は気さくに、清右衛門を側へ招いた。
「寒いであろう。火鉢の近くへ参れ。」
「畏(おそ)れ入りまする。」
清右衛門は忠興の前へ進み出て、座礼をとった。
「本日は、殿に御願いの儀が有り、罷(まか)り越し申した。」
「遠慮は要らぬ。老骨を押して大坂の固めをしてくれたからには、相応の恩賞を取らせる。」
「されば、隠居の御許しを頂きたく存じまする。」
「何?」
忠興の表情が強張(こわば)る。
「某(それがし)の歳では、先の大坂番が最後の務めであろうと、覚悟して居り申した。」
確かに、老臣をこれ以上扱(こ)き使うは、酷(こく)とも思える。
「そちには、長生きをして貰(もら)いたい。国許(もと)に帰り、のんびりと暮らすが良かろう。」
「有難き御言葉。」
清右衛門は主君に頭を下げた後、再び姿勢を正した。
「今一つ、殿に御願いの儀が…」
「申して見よ。」
「されば、我が孫伊勢之丞の儀にござりまする。倅(せがれ)定勝は過去に不祥事有るも、孫には係りの無き事。宜しく、御頼み申し上げまする。」
組頭安藤清右衛門定勝は、先代政長の時の筆頭家老、本家の安藤志摩定次が忠興を見限って出奔(しゅっぽん)した折、行動を共にした。志摩はその後、他藩への仕官が叶(かな)った様であるが、定勝は江戸の藩邸を巡(めぐ)り歩くも、仕官する事叶(かな)わず、遂(つい)には父定久を頼り、内藤家に戻って来た過去が有った。

 内藤家は久しく、上田、安藤の両家が家老を務めて来たが、上田家は忠勤を重ねて二千石の筆頭家老になるも、安藤本家志摩は出奔に及び、分家の定勝も前科が有る身なれば、幾(いく)ら定久が忠興に信頼されているといえども、扶持(ふち)は七百石に止(とど)まっていた。組頭の安藤家、宿屋家の石高を併(あわ)せても、上田家には遠く及ばない。慶安二年(1649)に、家中法度を以(もっ)て家臣団を三つに分けた理由の一つは、国家老上田外記に権力が集まり、主君内藤家を凌(しの)ぐ力を持つのを、未然に防ぐ為でもあった。

 忠興は和(にこ)やかに、定久に告げる。
「伊勢之丞の儀は、私(わし)から義概にも話して置こう。そちの懸念には及ばぬ。」
「有難き幸せ。」
定久は深く頭(こうべ)を垂れて、忠興の許(もと)を辞して行った。ここに、忠興が若き頃に武功を挙げた時の家臣は、悉(ことごと)く代替りしてしまった。清右衛門定勝は安藤家当主と成るも、前科の有る身なれば、石高の加増は家中から、要らぬ反発を招く怖れが有る。本来千二百石は与えられるべき所だが、父の七百石を相続しただけでも、幸運であった。

 一方で、上田外記を江戸家老へ転任させ、国家老には上田内膳を宛てる事にした。

 年が明けて明暦三年(1657)、江戸城で例年行われる新年拝賀の儀も恙(つつが)無く終り、万民は今年も良い年に成る様(よう)にと、気持を新たにしていた頃であった。

 十八日未(ひつじ)の上刻、江戸城北方の本郷丸山に在る本妙寺近くで、火災が起った。陰暦正月とは言え、江戸には強い寒風が吹いて居り、風下の南東方面へ延焼して行った。

 大名火消が出動し、一旦は鎮火したのだが、燻(くすぶ)っていた炎が強風に煽(あお)られ、翌十九日に小石川、新鷹匠町、麹町から再び出火。小石川水戸藩邸下屋敷は焼け落ち、炎は勢いを増して江戸城に迫(せま)った。

 やがて火の粉(こ)は江戸城天守閣にも降り注(そそ)ぎ、二階銅窓近くから出火。富士見櫓へ燃え広がって行った。大老保科正之は、本丸が危ないと見て、将軍家綱を避難させた。

 竹橋の近くには、老中次座松平信綱の邸も在り、ここも燃えた。その西には 将軍弟、松平右馬頭(うまのかみ)綱吉、堀を挟んで西隣には、同じく松平左馬頭(さまのかみ)綱重の邸が在る。信綱は綱重、綱吉兄弟を連れて、将軍を守る保科正之に合流した。

 本丸は燃え盛(さか)り、炎は二の丸、三の丸へ広がっている。将軍家と幕臣達は、西の丸へと避難した。ここが将軍家の領分で、唯一火の手が及んでいなかった。

 しかし風向き次第では、不測の事態も起り得る。火の手から遠い大名屋敷からは、避難所として提供する申し出が有ったが、正之はこれらを全て断った。特定の大名に大きな恩を売られると、後(のち)により大きな禍(わざわい)を招く事が懸念されたからである。

 五十万人都市江戸は、僅(わず)か二日でその三分の二を焼失した。不幸にも、鎮火の翌日から雪が降り続き、焼け出された人々の命を奪って行った。

 内藤家虎ノ門上屋敷は焼失するも、六本木下屋敷まで火は及ばなかった。二十日辰(たつ)の刻、鎮火を見届けた忠興は、藩邸及び湊(みなと)の倉庫に在る米を集め、粥(かゆ)場の設置を命じた。江戸城は殆(ほとん)どが焼け落ち、市中には家財を焼失した民で溢(あふ)れている。不逞(ふてい)な行いに出る者を出さぬ為、即(すなわ)ち治安を守る為にも先(ま)ず、食糧を分配せねば成らない。

 二十日の夜、長柄五本、持槍三本、騎馬上士一人、歩行上士三人、足軽六人、中間十人を一組として、御成橋升(ます)形の外、京橋、中橋、八町堀、増上寺門前に配置し、陣幕を張り、高札を立てた。
「此処(ここ)に於(おい)て粥(かゆ)(た)かせ候(そうろ)う間、 乱(みだ)りに之(これ)無き様(よう)(たま)い申す可(べ)き者也(なり) 正月廿日 内藤帯刀」
京橋では二万六千人の死者が出、芝の増上寺も焼け落ちた。公儀の命を受け、肥前平戸六万三千石松浦肥前守重信、出羽本荘二万石六郷伊賀守政勝も加わった。幕府米蔵から供出も有って、三大名は連日、途切れさせる事無く日に二度か三度、民に粥を配る事ができた。

 二月四日、民の暮しに落着きが見え始め、粥の炊き出しは隔日となった。そして十二日を最後に、粥場は役目を終えた。

 十五日、忠興に松浦重信、六郷政勝と揃(そろ)って御召(おめし)が有り、焼け跡の残る江戸城西の丸へ登った。そして将軍家綱より、庶人に粥を給した旨(むね)、大儀であったと、御誉(ほ)めの言葉が下された。

 側に控える保科正之は、毅然と諸侯に応対しているが、将軍家の為に尽すのが精一杯で、藩邸の指図をする余裕が無かった。会津藩邸にも火災が及び、嫡子保科正頼が藩士家族の誘導に当たったが、寒空の中で父に代わって無理をし、病(やまい)を得て二月一日に亡くなっていた。まだ十八歳の若さであった。

 忠興は正之に向かい、申し出る。
「肥後守殿には、菩提所霊巌寺を焼失されたる由(よし)。また御嫡男長門守殿の事、御悔(く)やみ申し上げ申す。」
霊巌寺の在る島では、一万人近くの命が失われていた。
「忝(かたじけな)い。」
正之は答礼して返した。
「所で、肥後守殿に御願いの儀がござる。」
「はて、何でござろう?」
「我が亡き弟、政晴の菩提寺を、高輪に新たに建立する旨(むね)、泉藩に許可致し申した。そこで、肥後守殿先妻の墓を、こちらに移したく存じまする。」
正之の正室菊姫は、泉藩祖内藤政晴の同母姉である。生母唐橋氏が、二人の子の弔(とむら)いを同時にできるというのが立前であるが、菊姫もその子幸松も既(すで)に亡(な)く、今また継室藤木氏の子正頼も亡くなった。大老保科家の菩提寺に先妻の位牌が有っては、正頼の供養に訪れた藤木氏に障(さわ)りが有るであろうという、忠興なりの配慮であった。
「帯刀殿が望まれるのであれば、異存これ無く。」
正之は、忠興の申し出を甘受した。

 後(のち)に高輪には、内藤政晴の法名を取って、光台寺という寺が建立された。菊姫は保科家の菩提所を離れ、姉弟共に当山で祀(まつ)られた。泉藩主内藤金一郎は、未(いま)だ十三歳の若年である。伯母の菊姫が保科正之の正室である事を示し、泉藩が侮(あなど)られる事の無き様(よう)にする事も、忠興の目的の一つであったかも知れない。

 斯(か)くして明暦の大火と呼ばれた江戸の大火災は、凡(およ)そ大名屋敷百六十、旗本屋敷七百七十、町屋八百町、寺社三百五十、橋六十、倉庫九千を焼き、何万という人命を奪った。以後幕府は、江戸再建という課題に取り組む事となる。

 さて、四月二十日は三代将軍大猷院の七回忌である。大火の傷跡が癒(い)えぬ中であったが、火災を免(まのが)れた上野寛永寺に於(おい)て、法要が執り行われる事となった。四月七日、忠興に台命が下り、法要の間、主門御番を仰(おお)せ付かった。

 慶事も有った。慶安二年(1649)に身罷(みまか)った忠興次男、義興には七姫という娘が居り、忠興は養女として育てて来た。その婚儀が、二十七日に執り行われたのである。相手は、信濃高島藩三万二千石諏訪出雲守忠恒(ただつね)の嫡男、因幡守忠晴であった。諏訪忠恒は、大坂夏の陣で榊原康勝の軍に属し、天王寺口を戦った武士である。

 諏訪家は、信濃国一の宮諏訪大社の大祝職を歴任し、戦国時代には諏訪湖の周辺に一勢力を築いていた。しかし甲斐の武田信玄に攻められ、本家諏訪頼重は滅亡し、叔父の諏訪満隣は降伏した。程無く同族の高遠頼継が武田打倒の兵を挙げたが、満隣は武田方として戦い、高遠勢を討ち破った。斯(か)くして満隣は信玄の信頼を得るに至り、諏訪大社大祝職を任される様(よう)になった。諏訪頼重には娘が居り、武田信玄の側室となって、諏訪御料人と称された。諏訪御料人の産みし信玄の四男、勝頼は諏訪本家を相続し、その子信勝は信玄の死後、武田家を相続した。天正十年(1582)、織田信長と徳川家康の連合軍が侵攻し、満隣の長男頼豊は討死を遂(と)げた。武田軍は崩壊し、諏訪勝頼、武田信勝は自害して、平安時代から続いた甲斐武田家は滅亡した。満隣の次男頼忠は織田家に降伏したが、程無く信長が本能寺で討たれた為、隙(すき)を突いて諏訪高島城を制圧し、諏訪家再興と独立を果す。しかし直(す)ぐに徳川家康が信濃へ侵攻し、頼忠は徳川家臣として、高島城主の地位を安堵された。頼忠の子頼水は、大坂の陣の時に甲信地方の守りを任され、そして頼水の後(あと)を継いだのが、忠恒であった。因(よ)って七姫の嫁ぎ先は、諏訪大明神を祀(まつ)る宮司の、総本家である。

 五月七日、義概に帰国の許可が下りた。忠興は、義概を召し出し、確認する。
「此度(こたび)、そちの帰国を願い出、めでたく許可が下りた。さて、そちを帰国させる目的は何ぞ?」
「されば、過日の大火で商家が焼け、物資の購入が難しゅうござりますれば、江戸詰めの家臣を幾何(いくばく)か減らし、暮しが成り立つ様(よう)に致しまする。」
「他には?」
「目下、当家にはここ、六本木の下屋敷が残るのみで、江戸城からも遠く、不都合の事多々有り。虎ノ門上屋敷を速(すみ)やかに再建するべく、国許(もと)より必要な人足と材木等を送りまする。」
「うむ。そちは存ぜぬであろうが、東照大権現様が関ヶ原で勝戦(かちいくさ)を収めし翌年、即(すなわ)ち慶長六年(1601)にも、江戸で大火が有った。あの時は徳川家も豊臣家の家臣に過ぎず、虎ノ門邸は桜田村の出城として築かれし物で、類焼には至らなんだ。此度(こたび)の大火は未曾有(みぞう)の惨事なれば、そちの体験を活かし、国許(もと)を一丸と纏(まと)めるべし。」
「ははっ。」
「念を押す。勘定の事は今村仁兵衛が司(つかさど)り、国家老は上田内膳に代わったばかりじゃ。呉々(くれぐれ)も両者の間に溝(みぞ)を作るでないぞ。」
これは二年前、沢村勘兵衛の後悔を指す物であり、義概に取って苦い思い出である。忠興は義概の肩を掴(つか)んだ。
「戦(いくさ)をするに、物々しく軍勢を見せ付け、徒(ただ)正面からぶつかるは、上策とは言えぬ。相手の知らぬ間に仕度を整え、隙(すき)を見て一気に決着に及ぶべし。その為には、何が必要か?」
「はて…」
(いくさ)を経験した事の無い義概は、言葉に詰まった。忠興は溜息を吐(つ)く。
「先(ま)ずは密偵を放つ。勝負事は全て、情報の量が物を言う。大将が先頭に立って武具を取るは、最後の手段ぞ。その前に相手の動きを見極め、一方で味方の動きは悟られず、成るべく多くの選択肢を作って置く。その中で自身が望む最上の事を成せれば、戦(いくさ)は勝ちじゃ。重ねて申し置く。ゆめゆめ藩主嗣子(しし)の立場のみを武器に、自らが先頭となって事を起すべからず。万一隣国が藩領に攻め入った場合、総大将の私(わし)が不在なれば、指揮を執るはそちではなく、家老の上田内膳じゃ。そちは主家とは申せ、今は内膳の下に在ると心得よ。」
確かに、内藤家の嫡流なれば、家臣は只(ただ)その言葉に従うのみと考えるは、夢物語であった。その事を勘兵衛の事件で、義概は骨身に沁(し)みて理解した。
「承知致しました。」
「虎ノ門邸は家長公以来の遺産。必ずやそちの手で、再建させて見よ。」
「ははっ。」
(か)くして義概は、大火を知る貴重な要人として、国許(もと)へ向け発って行った。

 一方で忠興も五月二十五日、国家老上田内膳と穂鷹彦兵衛に宛てて、二十一ヶ条の覚書(おぼえがき)を通達した。主に人事、及び材木調達の事である。磐城平城の修築だけなら、小川の井土尻山の伐採で済むが、焼土となった江戸の町では材木が不足しているので、適当な所からも伐採の上、江戸へ送る様に命じた。しかし濫伐(らんばつ)をして、磐城平城普請(ふしん)の用木を失う事は決して致さぬ様にと、書き添えている。江戸は大変な事態となったが、その隙(すき)を突いて関東を狙(ねら)う大名が居らぬとも限らず、決して油断する事の無い様に、命じているのである。

 また、この非常事態を受けて、一大改革を行った。武士と言えば、主君より所領を頂き、領民から年貢を得る事で、生計を立てるのが慣わしであった。この知行渡(わたし)を改め、今年の暮れからは、藩領の年貢を一旦城内の米蔵に集め、家臣には廩米(りんまい)を支給する事とした。いわゆる知行制から、禄米制への移行である。これに因(よ)って藩政が一元化される他、家臣の加増、減俸が容易になる。立場に胡床(あぐら)をかき、領民を顧(かえり)みない家臣に取っては、迷惑千万な仕組みであるが、大火で家財を失った家臣も多く、知行地を治める余裕が無いこの時を好機と捉(とら)え、忠興は改革を断行した。

 この年は九年振りに、新田開発の報告が有った。場所は楢葉郡山田岡細戸と、同郡手岡村奈木である。虎ノ門上屋敷は焼失した物の、領内で新たな集落が形成された事は、家中に取って大きな慰(なぐさ)めになった。

 知行制への移行は藩主忠興の意向に加え、国許(もと)の事を気に掛ける余裕の無い、江戸番の家臣の支持も得て、無事に完了する事ができた。

 この頃忠興は再び、七ヶ条の覚書(おぼえがき)を認(したた)めた。一に中間に支払う給金の額。二に無断出入国の罰則。三に足軽、中間出入りの事。四に村で普請(ふしん)をするに物入りとは言っても、領民第一に判断する事。五に百姓、町人の年頭、歳暮の禁止。これは代官への贈賄(ぞうわい)を防ぐ為である。六に江戸で入り用の物は、何(いず)れも国許(もと)より送り届ける事。担当者は上田内膳組二百石、野津角右衛門である。七に本丸御門と八棟櫓(やぐら)両所の大破を受け、普請奉行に今村仁左衛門を宛て、人足や物資の事は三松仁左衛門に相談する事。以上を国許重臣へ書き送った。

 この時国許では、家老の上田内膳が任に就いて日が浅い為、久しく御用人を務めて来た土肥九左衛門に加え、穂鷹吉兵衛と三松仁右衛門が藩政の舵(かじ)を取っていた。九左衛門は六百石で、安藤清右衛門組に属する。

 年が明けて明暦四年(1658)七月二十三日、江戸の災難を受けて改元が行われ、万治(まんじ)元年となった。

 この頃になると、二代将軍台徳院殿の菩提所、芝の増上寺は再建が進み、九月には二代将軍正室崇源院の三十三回忌が執り行われた。忠興は本堂の警固を仰(おお)せ付かり、将軍家の内藤家に対する信頼の厚さが、諸侯に示された。

 十月十七日、信濃松代藩祖、真田伊豆守信之が逝去した。今の当主は弱冠二歳の、真田信房である。

 真田家を興したのは、信州佐久地方に在る真田の庄を治めていた、幸隆である。武田信玄が北佐久郡の村上義清を砥石城に攻めた時、義清は武田信玄の軍勢を返り討ちにし、宿老の板垣信方、甘利虎泰は討死を遂(と)げ、武田勢は潰走した。それから間も無く、幸隆は武田家に味方し、小勢を以(もっ)て、独力で砥石城を落した。以後、真田幸隆は武田二十四将に数えられる武功を挙げ、所領も信州北部、上州西部へと広げて行った。

 信玄の死から二年後の天正三年(1575)、長篠で武田勢は織田、徳川連合軍に大敗し、幸隆の長男信綱と次男昌輝は戦死した。そして真田家を継いだのが、三男昌幸である。昌幸は武田家滅亡後、上杉景勝、徳川家康に挟まれながらも生き延(の)び、豊臣秀吉の家臣となった。

 秀吉の死後、関ヶ原の戦(いくさ)が起り、昌幸は石田三成との縁、次男信繁は大谷吉継との縁から西軍に付き、中山道の徳川主力を足留めし、関ヶ原に遅参させる武功を立てた。一方で長男信幸は本多忠勝との縁から東軍に付き、上州沼田を抑えて、上杉景勝の牽制(けんせい)に加わった。

 戦後、勝者の家康は昌幸、信繁父子を紀州九度山に流刑に処し、信幸に昌幸の所領を与えた。この時信幸は、徳川家に歯向かった父の偏諱(へんき)を捨て、信之と名を改めた。この信之が、信濃上田九万五千石真田藩祖と成る。

 信之の長男信吉は、親類真田信綱の娘を母に持つが、側室であった為に本家を継げず、元和二(1616)年に上野沼田三万石が与えられた。しかし立藩には至らず、上田藩の家臣という扱いであった。

 元和八年(1622)、真田家に信濃松代が与えられ、この地に府を移して十三万石となる。沼田藩祖信吉は寛永十一年に没し、その長男熊之助が四歳で相続し、叔父の信政が後見人となった。信政は信之の次男で、母は本多忠勝の娘小松姫、即(すなわ)ち正室である。熊之助は寛永十五年(1638)に没し、異母弟兵吉が居た物の、庶子であるが故(ゆえ)に相続は許されず、沼田藩内五千石のみが分与された。沼田藩を相続したのは、信政であった。信政は既(すで)に埴科(はにしな)の藩主であったが、沼田二万五千石が加わった為、寛永十六年(1639)に埴科藩領一万石を、同母弟信重に与えた。信重も七千石を領していたので、埴科藩は一万七千石となった。

 明暦二年(1656)、九十一歳の信之は隠居し、松代藩は次男信政が相続した。しかし明暦四年(1658)二月五日、信政は六十二歳で逝去した。

 信政は遺言で、庶子で六男の信房を嗣子として指名した。死に臨(のぞ)んで跡継ぎを指名するのは、三代将軍の時代までは改易処分であったが、浪人問題対策の一環として、現将軍の代から緩和(かんわ)された。信房の相続自体は、武家諸法度上問題無かったのだが、身内から問題が起った。庶子に相続が許されるのであれば、自分こそが嫡流であると、沼田藩祖信吉の子、兵吉改め信利が訴え出たのである。信利の妻は土佐山内家の出身で、老中酒井忠清という人脈も持っている。真田家の相続は、幕府をも巻き込んだ騒動に発展した。信之は信政の遺言を支持し、信房を推すも、信利は遺言に祖父信之の関与は無かったとして、祖父と孫で争う事態となった。

 六月に裁定が下り、松代藩十万石は信房が相続し、祖父の信之が後見を務める事。また信利には沼田三万石を与え、独立した藩にする事で、どうにか決着する事ができた。しかし頼みの信之が、程無く九十三歳で大往生してし まったのである。残されたのは、二歳の幼子のみ。到底、自力で十万石を治める事はできない。

 内藤家六本木下屋敷に、来客が有った。嘗(かつ)ての義弟、大老保科正之である。忠興は江戸家老上田外記に命じて、鄭重に客間へ案内させた。忠興は先に客間へ入り、下座に控えた。幾(いく)ら義弟で年下とは言え、正之は石高位官で内藤家より上であり、しかも将軍家綱を補佐し、天下の政(まつりごと)を差配する身である。

 程無く正之が姿を現し、忠興は座礼をとって迎えた。正之は慌てて歩み寄る。
「帯刀殿、斯様(かよう)な事をされずとも…」
「天下の大老殿に対し、礼を欠く事はでき申さず。」
「この度(たび)は、某(それがし)より帯刀殿に御願いの儀が有り、罷(まか)り越したる次第。上下(かみしも)無く、話を致したく存ずる。」
正之が頼むので、忠興は席を移し、上座に向かい合って腰を下ろした。
「承(うけたまわ)り申す。」
正之は頷(うなず)くと、同行の重臣に手招きした。そして下座に、幼子を抱いた武士が進み出て、腰を下ろす。
「はて、どこかで見た様(よう)な…」
忠興には、ぼんやりとした記憶しか無かった。正之は武士に促(うなが)す。武士は畏(かしこ)まって言上した。
「某(それがし)は信濃松代藩士、真田信親と申しまする。」
信親は信之の甥(おい)に当たり、二千石の重臣である。言われて見て、忠興は思い出した。
「ああ、確か倅(せがれ)の婚儀で見掛けたと思うが…」
「ははっ。」
忠興の三男遠山政亮の妻は、先代信政の娘を迎えている。その婚儀の折に、面識が有った。
「では、信親殿が抱かれて居られるのは…」
「信濃松代十万石、真田家当主信房様にござりまする。」
忠興は、正之に視線を移した。
「よもや、肥後守殿の頼みとは…」
「如何(いか)にも、帯刀殿に信房の後見人と成って頂きたい。政亮殿と信房は義兄弟なれば、帯刀殿を措(お)いて適任者はござらぬ。」
信親も頭を下げる。
「若殿に有力大名の後見無くば、山内対馬守殿、酒井雅楽頭(うたのかみ)殿の後ろ楯(だて)を得た沼田藩に、本家が乗っ取られてしまいまする。」
この時、老中は松平信綱、阿部忠秋、酒井忠清の三人体制であった。忠秋は、藩邸が昨年江戸大火の火の元に近く、責任を追及されぬ様(よう)に、鳴りをひそめている。信綱は江戸再建を主導して余念が無く、忠清のみが親しい沼田藩主、真田信利を強く支持していた。正之が乗り出したのには、三人に減った老中を纏(まと)めるのが難しく、上信地方の安定の為に、忠興の力を借りたいという事情が有った。

 忠興は奥に控える、家老の上田外記に告げる。
「四代将軍に忠義を尽す会津中将様が、態々(わざわざ)足を運んで頼む以上、断る訳(わけ)にも参るまい。そち達家臣には、御公儀の御為(おんため)に力を貸して貰(もら)いたい。」
外記は、神妙に頭を下げた。
「微力を、尽させて頂きまする。」
忠興は正之と信親に、松代藩を後見する旨(むね)、承(うけたまわ)ると回答した。これで正之と信親の肩の荷は幾分(いくぶん)軽くなったが、忠興には遠く隔(へだ)てた十万石の仕置という責任が、重く伸(の)し掛かる事となった。

 忠興の所領は磐城平七万石。他に、泉藩二万石の後見も務めている。真田家松代藩は十万石。忠興は七万石の所領を以(もっ)て、十二万石分の面倒を見なければ成らなくなった。

 正之が六本木を去った後、忠興は三男政亮を召し出した。
「御呼びにござりましょうか?」
程無く姿を現した遠山政亮は、この時三十四歳である。父に促(うなが)され、政亮は入室の後、真田信親と礼を交した。それを見届けた後、忠興は政亮に命ずる
「そちを呼んだは他でもない。信濃松代藩主真田信房殿の後見を拝命致した故(ゆえ)、縁者のそちには松代藩邸に詰めて貰(もら)い、問題が起りし時は、私(わし)に報告致す様(よう)。」
忠興の三男は元服して頼直と称したが、かつて武田家と縁戚であった遠山氏の姓を冠するに当たり、藩祖政長の偏諱(へんき)が与えられ、遠山政亮と名を改めた。以後は日の目を見る事は有るまいと、覚悟していた。所が、思い掛けずも十万石目付の役を仰せ付かった。
「父上の御命令とあらば、謹(つつし)んで承(うけたまわ)りまする。」
忠興は、信親に視線を移す。
「では、遠山政亮をして、松代藩邸に詰めさせ申す。」
「御高配、忝(かたじけの)う存じまする。」
(か)くして政亮は、真田家と共に松代藩邸へ赴いて行った。

 十一月、忠興の嫡孫義邦は、久しく病(やまい)を患(わずら)っていたが、漸(ようや)く小康を得た。忠興は嫡子義概と、その妻松平氏を召し出した。そして息子夫婦に尋ねる。
「義邦は病弱じゃ。これでは家督相続の障(さわ)りとなる。そち達は父母なれば、この儀をどう思う?」
義概が、恐縮しながら返答する。
「畏(おそ)れながら、人に因(よ)り身体の頑強さには差異がござりますれば、仕方の無き事かと…」
忠興は義概を見据える。
「病弱の者に、あの広大な磐城平城の主は務まらぬ。詰(つま)りは、義邦を見捨てて廃嫡し、五郎七郎に跡を継がせると申すのだな?」
「いえ、五郎七郎は若年にて。」
「ならば、政亮を遠山家から呼び戻すか?」
父の詰問(きつもん)を受けながら、義概は必死に答えを探した。
「目下、江戸は大火の傷跡夥(おびただ)しく、療養するには障(さわ)りがござりまする。そこで、もし帰国が叶(かな)うのであれば、義邦も自然に囲まれ心が安らぎ、加えて身体を鍛える事もできまする。」
「帰国か…」
忠興は考え込んだ。義概の時は武家諸法度が厳しく、帰国の許しを得るのが難しかった為、国許(もと)の家臣と疎遠にしてしまった。同じ轍(てつ)を踏ませぬ為には、孫には若い内から、国許に触れさせて置くのが好ましい。真田家の後見を引き受けたばかりの今ならば、幕府も認可するであろう。忠興は、松平氏に確認する。
「義邦と、暫(しば)し別れる事になるが、それでも宜しいか?」
「江戸には、五郎七郎が残りまする。義父(ちち)上様には何卒(なにとぞ)、義邦の事をよしなに御願い申し上げまする。」
「相(あい)(わか)った。」
話が纏(まと)まると、忠興は席を立ち、早速(さっそく)幕閣へ働き掛け始めた。そして十一月九日、幕府は義邦の帰国療養を許可した。

 出立の日、義概と松平氏は、長男を藩邸の正門まで見送りに出た。義邦は無理に笑顔を湛(たた)え、輿(こし)に乗り込んだ。去り行く長男の輿を見送りながら、母松平氏の顔には脂汗(あぶらあせ)が滲(にじ)んでいた。

 難題は、次から次へとやってくる。国許(もと)から六本木藩邸に、本年の大凶作が伝えられた。忠興は閏(うるう)十二月三日、五ヶ条の定書(さだめがき)を認(したた)めた。一に酒米に廻(まわ)す米が足りず、酒造の規制。二に荒田の復興、並びに百姓の救済。三に、年貢を無理に取り立てた者には、罰を科する事。四に、鷹狩の場とは言え、近くの田畑を守る為に、案山子(かかし)を立てさせる事。五に食糧事情改善の為、鹿や猪の猟(りょう)を許す事。藩民の暮しを守るべく、忠興は急ぎこの五ヶ条を、国許(もと)で発効させた。

 明暦二年(1656)暮れ、大坂城代を務め上げた忠興は、将軍家綱に謁見の上、銀子五百貫目を献上する目録を差し上げていた。しかし翌月年明けの大火に因(よ)り、献上する機会を逸(いっ)していた。将軍家に偽(いつわ)り続けるのも気が咎(とが)め、かと言って、今さら献上するのはばつが悪い。

 万治二年(1659)一月十六日、忠興は武蔵川越藩邸を訪れた。藩主は老中松平信綱である。忠興は信綱と対面の上、事情を説明した。信綱は暫(しば)し考えた後、一案を示した。
「大火復興に追われし者なれば、献上も叶(かな)わず。上様もその辺りは御承知の事と存ずる。しかし帯刀殿が是非にと申されるのであれば、上様本丸御移しの折に、軽物(かるもの)を献上されては如何(いかが)でござろう?」
久しく家綱の側に在る信綱が言うからには、間違いは無いであろう。忠興は胸の痞(つか)えが下り、信綱に御礼を述べて、川越藩邸を辞して行った。

 二月九日、忠興に将軍の御召(おめし)が有った。登城すると、御座の間に案内された。座礼をとる忠興に、家綱が声を掛ける。
「大儀である。所で、そちは幾(いく)つになった?」
「はっ。今年で六十八にござりまする。」
「徳川四代に仕える身なれば、もうその様(よう)な歳か。久しく苦労を掛けるのう。」
「勿体(もったい)無き御言葉。」
「御老体に頼むは心苦しき仕儀なれど、そちに一働きして貰(もら)いたい。」
「何なりと、御申し付け下さりませ。」
「されば当年秋より、再び大坂城代として赴任してくれぬか?」
磐城平藩は昨年の凶作を受け、台所事情が厳しい。大坂城代を拝命すれば、少なくとも一万石は臨時に加増される。
「謹(つつし)んで、台命に従いまする。」
家綱の表情が、俄(にわか)に明るくなった。
「江戸藩邸再建の為、何処(いずこ)も財政が厳しい。斯(か)かる事態の中、西国大名に睨(にら)みを利かせられるのは、そち以外に居らぬ。宜しく頼み置くぞ。」
「ははっ。」
忠興には大坂赴任の為、再び帰国の許可が下りた。二月末日、御鷹の雁料理が下された。忠興は再び登城の上、御礼を申し上げると共に、国許(もと)下向の挨拶(あいさつ)を述べた。三月、忠興は番兵を整える為、江戸を発った。

 江戸の留守を預かる義概の妻松平氏は、この頃体調を崩し勝ちで、信心深くなって いた。慶安二年(1649)に義概の弟義興が亡くなった時、鎌倉光明寺へ葬(ほうむ)られた。藩主とその正室なれば、磐城平城下の善昌寺に葬られるのであろうが、松平氏は藩嗣子の正妻に過ぎない。死ねば、怖らく光明寺に葬られるであろう。そう考えた松平氏は、夫義概に光明寺への寄進を願い出た。義概も、妻が健康を害し、その上気分も塞(ふさ)がれているのを気に掛けていた。そして三月二十一日、妻の望み通り、光明寺への寄進を百五十石から、二百石に加増した。

 また義概は、藩嗣子として精力的に動き始める。二十六日には将軍家綱に謁見し、太刀と馬代を献上した。

 一方で磐城平城に到着した忠興は、四月末日に六ヶ条の覚書(おぼえがき)を認(したた)めた。内容は大坂赴任者の選定と、家臣の扶持(ふち)の件である。

 そして家臣団を震撼(しんかん)させたのは、五月十八日の覚書(おぼえがき)である。忠興は国許(もと)を留守にしていた間、法を犯した者や、職務を疎(おろそ)かにした者、都合十六名を解雇した。前回の大坂城代の折、家臣に遠慮し過ぎて、沢村勘兵衛を失ってしまった。此度(こたび)、讒訴(ざんそ)に因(よ)って郡奉行今村仁兵衛までも失っては、藩政に大きな齟齬(そご)をきたすであろう。禄米制を採用し、怠惰(たいだ)な家臣を処分し易くなったが、その分禄米支給の任に当たる仁兵衛を快く思わぬ者は、怖らく少なくはないであろう。

 この頃、藩政の中心には、近藤惣兵衛と穂鷹吉兵衛を登用していた。忠興は藩士の解雇だけではなく、五人の代官を交代させた。そして一部の代官の任期は、忠興の大坂赴任中に限られる。

 六月一日に忠興が印判を押した覚書(おぼえがき)は、代官人事の他に二つ有る。一つは十三ヶ条から成り、村政の事、勘定の事、鉄を売る事、浜の事、作事奉行の交代、下士の僉議(せんぎ)、私用の移動に公費を用いる事の禁止、同じく伝馬の使用も禁止、破損した手船の補充、横目の選任、等である。

 もう一つの覚書(おぼえがき)は七ヶ条から成る。一に肴(さかな)類の買入れは、相場を念入りに調べ上げた上、高値の時は次の船を待つ事。但(ただ)し振舞い物、進物は例外。相伴(しょうばん)の者に出す食事の制限。酒の制限。但し大般若(だいはんにゃ)経会(きょうえ)と、毎月十七日斎の節に参詣する者は例外の事。塩、魚、鳥、味噌、 酒、酢物、醤油、油には役人四人、薪炭は二人を置き、目付差配の下に取り扱う事。主殿部屋は荒木左右衛門に申し付く事。以上、台所の事を細(こま)かく定めている。

 また藩内の覚書(おぼえがき)は他にも、今村庄左衛門、大嶋与惣左衛門、土肥久左衛門が起草し、近藤惣兵衛、穂鷹彦兵衛の認可を仰(あお)いだ物が、複数有る。磐城平藩にも老中松平信綱の意向を受け、吉利支丹(きりしたん)門徒の取締りを強化する旨(むね)が、随所に見られる。十九日には高札が老朽化して読み辛(づら)い為、新しく立て直す様に通達された。

 この六月、忠興は政務に一区切りをつけると、高月屋敷で療養している嫡孫、義邦を訪ねた。祖父の来訪を受け、義邦は守役と共に迎えに出た。
「御じじ様、御久しゅうござりまする。」
孫が思いの外(ほか)元気なので、忠興は笑顔で頷(うなず)く。
「体の具合はどうじゃ?」
「磐城は気候も良く、空気も澄んで居りますれば、江戸よりも体が軽く感じられまする。」
「そうか。何よりじゃ。」
「御じじ様、中へ御入り下さりませ。」
「うむ。」
孫に促(うなが)され、忠興は久し振りに高月屋敷へ上がった。

 茶を啜(すす)りながら、忠興は暫(しば)し、孫の国許(もと)滞在で感じた事を聞いていた。
「そうか。暫々(しばしば)城下を散策して居るか。」
「はい。しかし城が余りに巨大故(ゆえ)、見飽(あ)きる事がござりませぬ。」
「それは良い事じゃ。何(いず)れそちはこの城の主と成る身じゃ。隈(くま)無く観察し、備えの弱き所を探して見よ。この着眼は、武将なれば欠く事のできぬ物ぞ。」
「承知致しました。」
忠興はふと、昔話をした。
「先代政長公の頃、私(わし)は此処(ここ)高月屋敷に住み、菊多郡の所領を治めて居った。あの時は、三十一歳であったか。そちは今年、幾(いく)つになった?」
「二十三にござりまする。」
「おお、私(わし)が大坂で初陣を飾った歳か。ならば丁度(ちょうど)良い。そちに廩米(りんまい)一千石を与える。これは家老格の扶持(ふち)じゃ。先(ま)ずは家老にでも成った積りで、改めるべき所が有れば、意見でもして見よ。但(ただ)し、決定権は家老に有る事を忘れるな。」
「ははっ。有難き幸せ。」
内藤家当主は戦国時代から忠興まで、功績を挙げる事に因(よ)って徐々に、所領を拡大して来た。今では、藩嗣子(しし)は江戸の部屋住みが一般であるが、家督相続と共に大身となり、段階を踏む事が無い。忠興は義邦に、先(ま)ず一千石取りの立場を知って貰(もら)い、段階を経て加増して、将来七万石の藩主を相続した時に、多くの家臣の立場が解る人物に、育って欲しかった。

 八月五日、忠興は五ヶ条の覚書(おぼえがき)を認(したた)めた。一に国境警備の強化。特に浦番の者が異国船を発見した時は、平へ急使を送り、平の判断で使者又は飛脚を、江戸藩邸へ遣(つか)わす事。二に城内及び城下の警備。特に辻には番所を設置する事。三に留守の事は隆為に任せるが、納所(なっしょ)及び村政の事は今村仁兵衛、今村長左衛門を中心に、月番の者とよく相談する事。四に法度の厳守。違反者は大坂へ通報すべきだが、場合に因(よ)っては 先(ま)ず国許(もと)で相談する事。五に、城下火消番の事。

 国許で家臣の取締りと、軍勢の仕度(したく)を終えた忠興は、愈々(いよいよ)大坂へ赴くべく、磐城平城を発した。八月下旬に江戸へ到着し、忠興はここでも二十三日、七ヶ条の覚書(おぼえがき)を認(したた)めた。一に加藤大力、内藤伊織の両名を、組に属さぬ番頭に登用する事。二人は元上田内膳組で、大力は五百石、伊織は四百石取りである。二に掛田次左衛門、直井三左衛門を金奉行に任ずる事。三に小蔵賄(まかな)い左兵衛の加増。四に買物御入二名、肴賄い二名、小蔵賄い一名に算用不届きが有り、よく詮議する事。五に、以後算用不届きへの厳重注意。六に、城詰めの川崎藤兵衛が、屋敷遠く不都合なれば、新たな屋敷を手配する事。但(ただ)し、身分相応の坪数にする事。七に役人宿の費用。

 八月二十五日、忠興は大坂赴任の挨拶(あいさつ)に、江戸城へ登った。この折、幕府から白銀百枚、時服十着、紋付羽織一着、馬一疋(ぴき)が下賜された。

 準備万端整い、江戸出発を目前にしていた頃、病(やまい)に臥していた義概の妻松平氏が、二十七日に亡くなった。忠興は松平氏の遺体に合掌した後、側に控える義概に申し渡した。
「本来ならば、当主である私(わし)が喪主と成り、法要を営(いとな)まねば成らぬ。しかし台命を得し今、それは罷(まか)り成らぬ。」
義概は、妻の看病に疲れた顔で言上する。
「存じて居りまする。妻の葬儀は、この義概が執り行いまする。」
「頼むぞ。」
「ははっ。」
松平氏の葬儀は、忠興次男義興と同じ、相模鎌倉光明寺で執り行われる事となった。翌二十八日、義概は妻の棺(ひつぎ)と共に、先発して鎌倉へ向かった。

 忠興の軍勢が江戸を発ったのは、その翌日二十九日であった。副将は家老に昇格したばかりの、安藤清右衛門である。引き連れる面々は、概(おおむ)ね前(さき)の赴任と同じであった。

 同日、鎌倉光明寺で法要が営まれた。松平山城守忠国の娘で義概の妻は、法名を黄梅院という。義概は忙しかった。大火で焼失した江戸城本丸が再建され、将軍家綱が移られるという。九月一日、義概は父の名代として登城し、用意していた屏風(びょうぶ)三双を献上した。

 忠興の軍勢は、東海道を西へ進んでいた。この年、幕府は道中奉行を設置した。役割は、東海道、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中の管理整備である。これらの道は以後、五街道と称される様になった。

 磐城平藩も先代政長以来、領内の街道整備に力を注(そそ)いで来た。藩内には、水戸から平城下を経由して仙台に至る陸前浜街道の他、六つの街道が有る。他郡へ通じる道は二つ有り、一つは平から小川を経由して、安積郡三春城に至る磐城街道。もう一つは菊多郡内で陸前浜街道と分岐し、菊多郡上遠野(かどおの)、高野郡を経て白河郡小峰城に至る、御斎所(ごさいしょ)街道である。郡内主要道は四つ有り、片浜道は城下から高久(たかく)を経て、浜伝いに江名浜へ至る。小名浜道は城下から矢田を経て、小名浜四村に至る。三坂道は城下から好間、合戸を経て、三倉古城の在る上三坂村に至る。三倉館は戦国時代、三春城主田村氏に備える、岩城氏の防衛拠点であった。天正年間、城主の三坂越前守芳信は田村清顕と戦い、その子孫は保科正之に仕えたという。以上が磐前郡内であるのに対し、菊多郡内の山田道は、植田古城と上遠野古城を結ぶ。即(すなわ)ち、陸前浜街道と御斎所街道を繋(つな)ぐ役割を果す。

 街道整備は、軍勢の移動を有利にするという欠点が有る物の、平時に於(おい)ては人の往来、物流を盛んにする。地方と平、平と浜が結ばれる事で、人々は多種の物産に触れる事ができ、経済も活性化する。平城下町が栄えれば、町民のみならず、士農工商全てを豊かにする事ができる。東海道を進みながら、忠興はふと、そんな事を考えていた。

 九月十二日、忠興の軍勢は大坂に到着した。前任者は前回と同じ、水野出羽守忠職(ただもと)である。因(よ)って前と同じ手筈(てはず)で、引継ぎは順調に完了した。

 程無く、江戸藩邸からの急使も、大坂城に到着した。急使に依(よ)れば、去る五日、浅宮(あさのみや)が修復を終えた本丸大奥に入り、御台所(みだいどころ)を称したという。浅宮は伏見宮貞清親王の第三王女で、大火の有った明暦三年(1657)に、将軍家綱の許(もと)へ輿(こし)入れしたが、焼け残った西の丸に入り、御台所就任は日延(の)べとなっていた。

 伏見宮家は南北朝の昔より、親王世襲が認められた、皇族の名家である。貞清親王が、実に十代目の当主であった。将軍家と伏見宮家の婚姻は、天下の慶事と言える。忠興は家臣今村八郎右衛門を急ぎ江戸へ遣(つか)わし、御台様御祝儀として、銀五枚を献上させた。

 十月五日、堅宥が磐前郡上船尾村内に新義真言宗智山派薬王寺末、勝蔵院を開創した。またこの年、同郡中三坂村宝積寺が公清代に分派した。

 年が明けて万治三年(1660)、年始の挨拶には、松井茂兵衛が忠興の名代として、江戸に登城した。

 二月二十一日、義概に帰国が許可され、小袖五着、羽織一着が下賜された。忠興は大坂に在り、義邦は磐城で療養中である。斯(か)かる折に義概の帰国が認められたは、幕府が内藤家を信頼し、磐城平藩を重視している事が窺(うかが)える。

 三月十三日、稲葉美濃守正則、阿部豊後守忠秋、松平伊豆守信綱、酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清四老中の連署で、大坂城に通達が有った。内容は、大坂近辺では鳥を撃つのに、鉄砲を用いる事を禁ずる物である。これは私用は勿論(もちろん)、貴人に料理を振舞う場合にも適用される。宛名(あてな)を見ると、城代内藤忠興の他、城将保科弾正忠正貞、安部摂津守信盛、松平隼人正重継、曾我又左衛門の名が見える。

 鉄砲に因(よ)る不祥事が有ったのか定かではないが、大坂城代忠興は五月に、扇子十本を納めた箱を献上している。

 六月十八日の大坂は、雷雲が立ち籠(こ)めていた。忠興が通常の政務を終え、夕餉(ゆうげ)を取っていた。そこへ突如、大爆音が城中に響き渡り、忠興は箸を置いた。
「誰ぞ在る?」
番頭の一人が、急ぎ駆け付けて来た。忠興は番頭が跪(ひざまず)くと同時に、大声で命じる。
「何事か、急ぎ確認せよ!」
「はっ。」
番頭は承(うけたまわ)ると、慌(あわ)てて音源の方へ駆けて行った。時を確認すると、酉(とり)の下刻である。

 やがて、鉄砲奉行松井右近が現れた。
「申し上げまする!」
「如何(いかが)した?」
「青屋口煙硝蔵へ落雷。大爆発を起し、炎上してござりまする。」
煙硝蔵には二万千九百八十五貫六百匁(もんめ)の火薬と、三万六千六百八十挺(ちょう)の火縄銃が納められて居り、落雷に因(よ)り引火した。蔵には他に、銀玉大小四十三万千七十九の軍用金も保管されて居り、それら全てが、大量の火薬と共に消し飛んだ。
「煙硝蔵、木端(こっぱ)微塵(みじん)!」
「青屋口御多門、大破!」
「御多門橋、崩落!」
「青屋口石垣、崩落!」
「本丸御殿、小破!」
次々と、伝令が駆け付ける。
「散乱した鉄砲玉に引火、玉造御薬蔵爆破!」
「山里丸大破!」
「御多門小屋、全て倒壊!」
「市正曲輪(くるわ)、御加番衆の小屋、残らず倒壊!」
忠興は只(ただ)、消火に努める様(よう)、命ずる事しかできなかった。

 被害は更(さら)に増え、役人屋敷、与力、同心町が大方損壊し、町屋も千四百八軒が破損した。少なくとも二、三人の死亡も報告され、大坂城の被害の甚大さが、次第に明らかになった。土岐山城守頼行家臣は四、五人が死亡、負傷者多数。岩城伊予守重隆家臣は二十人死亡、八十人負傷。小笠原土佐守貞信家臣は四十余人負傷。保科正貞、安部信盛邸も大破した。

 消火の後、前者に加えて城代忠興、本多豊前守正貫、中根日向守正勝を含め、定番衆、加番衆は仮小屋を建て、そこへ移った。

 翌十九日、忠興は城将と連署の上、上記の被害を四老中へ報告し、検分の使者を遣(つか)わす旨(むね)、願い出る書状を認(したた)め、江戸へ急使を送った。使者が江戸に到着したのは、二十三日であった。

 後日、江戸より使者が大坂へ上り、城の状況を確認した。大坂城に保管されていた、大量の火縄銃、及び軍用金は失われ、青屋口は堀が残るのみで、無慚(むざん)な有様である。幕吏は険しい表情で調査を終えると、次に大坂町奉行所へ足を運んだ。

 大坂城兵も多くが死傷し、城の守りは手薄になっている。もしも今、西国大大名が攻め寄せれば、大坂は一溜(ひとたま)りも無く、京の二条城まで危(あや)うくなるであろう。忠興は大坂城代として、城と運命を共にする覚悟で居るが、案じられるのは、残される子や孫である。

 七月九日、陸奥仙台藩主伊達綱宗が政(まつりごと)を顧(かえり)みず、放蕩(ほうとう)を止(や)める気配が無いとの理由で、家老一関(いちのせき)藩主伊達宗勝、姻族の備前岡山藩主池田光政、筑後柳川藩主立花忠茂、丹後宮津藩主京極高国は、幕府に綱宗の隠居と、その子亀千代への家督相続を願い出た。以前も家老と三大名が、老中酒井忠清に綱宗の事を相談した事が有り、その経緯から十八日、幕府は綱宗に隠居を命じ、亀千代の相続が認められた。

 寛永十三年(1636)、仙台藩祖伊達政宗が薨去すると、陸奥少将忠宗が二代藩主となった。忠宗は家臣をよく纏(まと)め、藩政にも積極的であった。寛永十四年には、父政宗を祀(まつ)る瑞鳳殿も建立した。忠宗の政策で特記する物と言えば、農民重視の買米制である。買米制とは、藩内の余剰米を藩が買い上げ、江戸へ送って売り、金に換える物である。普通は藩に損失が出ぬ様(よう)、売価を確認した上で、米の持ち主に支払うのであるが、忠宗は農民から米を買う時点で、金を支払った。農民は不払いを蒙(こうむ)る事が無く、藩が必ず金にしてくれるので、「御恵金」と呼ばれて、農民の暮しに活力を与えた。これは新田開発に繋(つな)がり、藩が高値で米を売れなくとも、一概に損とはならなかった。

 忠宗の母愛(めご)姫は、戦国時代の三春城主、田村清顕(きよあき)の娘である。清顕に男子が無く、愛姫を政宗に嫁がせる時、次男が生まれたら、田村家が養子に貰(もら)うと約束した。しかし政宗の子が成長する前に清顕は没し、田村家は断絶した。田村家は平安時代桓武朝の時、奥州に勢力を広げた征夷大将軍、坂上田村麻呂を家祖とする。将軍を輩出した田村家が失われた事を惜しんだ忠宗は子の宗良に田村姓を与え、母の実家を再興させた。

 さて、守成の名君忠宗は、嫡男光宗に三代目を継がせる筈(はず)であった。しかし父に先立ち、正保二年(1645)に光宗は身罷(みまか)った。忠宗は六十まで生き、万治元年(1658)七月十二日に逝去した。跡を継いだのは、側室貝姫の産みし六男、綱宗であった。

 貝姫の姉は、良仁(ながひと)天皇の生母櫛笥(くしげ)隆子であり、帝(みかど)と綱宗は従兄弟(いとこ)の関係である。皇室との繋(つな)がりの有る綱宗が、放蕩を尽すのも忌々(ゆゆ)しき仕儀だが、勝手な振(ふる)(まい)が過ぎ、挙兵に及べば一大事である。陸前浜街道を南下すれば、関東を守る磐城平藩主は、大坂に在って身動きがとれない。

 綱宗隠居には、遠く大坂城落雷事件の影響が無いとは言えない。時に綱宗二十一歳、亀千代は二歳であった。仙台藩は初めて幼君を頂く事となり、大叔父で一関藩主伊達宗勝、伯父の田村宗良らを後見人とし、四代目の時代に入った。

 八月、大坂城の忠興に、国許(もと)から使者が遣(つか)わされ、水害に因(よ)る凶作を報告した。これで、二年続けてである。二十二日、忠興は昨年と同様、米の確保と救民の覚書(おぼえがき)を認(したた)めた。

 忠興は筆を置くと、頭を抱(かか)えた。六月の落雷爆破事故は、在任の忠興と、前任の水野忠職の責任とされ、両者に大坂城修復が命ぜられたのである。両家の担当は、本丸御座の間、御書院、土蔵、塀(へい)、及び天守である。
「金が、足りぬ…」
主君の苦悩を見兼ねて、清右衛門が申し出る。
「大坂商人から、借りては如何(いかが)にござりましょう?」
「利息が掛かる。返済に要する時と、利息となる額を、そちは勘定できるか?」
目下、修復費用には数千両は掛かるであろうと、見積りが上がって来ている。何十万石という大藩ならいざ知らず、七万石の磐城平藩が商人から借りては、利息を返すのに追われるであろう。忠興も早(はや)老齢なれば、その付けを義概、義邦の代へ押し付ける事となる。
「大名が、商人に頭が上がらぬ様では、家長公、政長公に顔向けができぬ。」
忠興は藩の備蓄を切り崩し、大坂城普請(ふしん)を行った。仙台藩主の隠居事件は、不幸中の幸いであった。磐城平城の軍用金を粗方(あらかた)、大坂へ回す事ができる。

 藩の金蔵は底を突き始め、大坂近郊の加増だけでは、軍勢及び普請の人足を養えなくなった。秋に入り、大坂城代の交代が行われた。後任者も前回と同じく、戸田光重である。引継ぎを済ませると、忠興は普請奉行を残して、軍勢を引き揚げさせた。三千を超える兵を国許(もと)へ帰すだけでも、出費を大幅に削減できる。

 忠興が上方に在った時、磐城平藩預かりとされていた、山名兵庫が死亡した。十月十八日、老中から検死を遣(つか)わすに及ばぬ通達が有ったが、二十日に松堂院、及び二十三日に日甚寺より、病死に相違無い旨(むね)、報告させた。兵庫には左兵衛という子がいたが、幕府は左兵衛を赦免し、同族の山名主殿に引き渡される運びとなった。

 十一月九日、忠興は江戸に到着し、大坂土産の猩々(しょうじょう)十間、太刀の目録、馬代の金を、将軍家綱に献上した。忠興は家綱に、頭を深く垂れて詫びる。
「当家の不始末にて、幕府の要地大坂城を損壊せしめたる段、伏して御詫び申し上げまする。」
事情を聞いた家綱は、同情を寄せる面持ちで答える。
「落雷なれば、致し方無し。壊れた物は、また作り直せば良い。宜しく頼むぞ。」
「ははっ。」
下城する忠興の足取りは、重かった。

 明暦の大火後、再建された虎ノ門上屋敷に戻った忠興は、家老安藤清右衛門に命じて、軍勢を磐城へ引き揚げさせた。その日の夜、忠興は金策で悩み続け、やがて屋敷の蔵へ向かった。管理の者に錠を開けさせ、明かりを持って中に入る。そして、奥に保管されている木箱の前に立ち、暫(しばら)く見詰めていた。

 数日後、忠興は虎ノ門の直(す)ぐ東に在る、信州松代藩上屋敷を訪れた。当主真田信房は若年故(ゆえ)に、重臣真田信親が応対した。忠興は信房の後見人であり、派遣している三男遠山政亮も、程無く姿を現した。

 客間に案内され、腰を下ろすと、忠興には茶が出された。信親が、先ず忠興に挨拶を申し上げる。
「無事に大坂よりの御帰還、恐悦(きょうえつ)至極(しごく)に存じまする。」
忠興は手に持った茶碗を眺(なが)めながら、苦笑する。
「無事、という訳ではなかったが…」
大坂落雷の件は、松代藩にも伝わっていた。信親は慌てて、言葉を継ぐ。
「雷は、不運の事と存じまする。」
忠興は視線を、茶碗から信親に移す。
「所で、信房殿は御健勝か?」
これには、政亮が答えた。
「御健(すこ)やかに、過ごされて在(おわ)しまする。」
身内の判断なので、忠興は素直に頷(うなず)いた。そして、信親に尋ねる。
「この政亮は、少しは信房殿の御役に立てて居ようか?」
「政亮殿は帯刀侯の御名代として、よく重臣達を纏(まと)めてくれまする。」
「そうか、何よりじゃ。」
忠興は茶を飲み干(ほ)すと、同行する家臣に合図した。家臣はそれを受け、忠興の前に包(つつ)みを置き、被(かぶ)せてある布を取り去る。そして、木箱が現れた。

 家臣が再び後方へ下がると、忠興は信親に話を切り出した。
「実を申せば、本日の来訪は、松代藩に御願いを致す為でござる。」
「はて、御願いの儀とは?」
忠興は箱を開け、信親の前へ進める。
「これを、受け取って貰(もら)いたい。」
「これは、もしや…」
箱の中に納められていたのは、内藤家の家宝、「鍋屋肩衝(かたつき)」の茶壺であった。
「御存知の通り、当家の金蔵は空(から)となり、加えて大坂普請(ふしん)の台命を帯びて居り申す。資金捻出(ねんしゅつ)の為、これを買い取って貰いたい。」
信親は暫(しばら)く茶壺を見詰めていたが、やがてその口を開いた。
「暫(しば)し、御待ち下され。」
そう言い残して、席を外した。

 待つ間、忠興は政亮と雑談した。壁に耳有り。他家藩邸にいる以上、下手(へた)な事は口に出せない。

 暫(しばら)くして信親が、松代藩重臣衆を従えて戻って来た。再び忠興に正対して着座した信親は、松代藩を代表して申し上げる。
「御待たせ致し、失礼致し申した。重臣合議の結果、当家より磐城平藩に、一千両を以(もっ)て支援致し申す。」
「有難し。」
忠興は頭を下げた。
「但(ただ)し、条件がござる。」
「承(うけたまわ)る。」
「家宝は、御持ち帰り願いたい。」
「これでは、一千両の価値は無いと?」
「然(さ)に非(あら)ず。当家は帯刀侯の後見の下(もと)、藩の存続が認められ、大きな借りがござり申す。これを機に幾何(いくばく)かの借りを返し、肩の荷を軽くしたいというのが、当家の総意でござる。」
忠興は商人に借りを作りたくない為に、已(や)むなく武家を頼った。そして真田家も又、内藤家に已(や)むなく作った借りを返すべく、大金を用意してくれる。借りを作っても、気にも留めぬ者がいる世の中に在って、真田家の気風は忠興に取って、心地の好い物であった。
「しかし、ただで金を受け取る訳にも参りますまい。」
「確かに、千両は大金なれば、差し上げる訳には参りませぬ。信房君御成長まで、気長に御返済下さりませ。当家は武家なれば、利息は掛かり申さず。」
忠興は手を突いて、頭を下げた。

 真田家より千両が手に入った。流石(さすが)は六文銭の御家柄と、感心している余裕は忠興に無かった。千両で普請(ふしん)の継続は叶(かな)う物の、完了させる為には足らない。忠興は幕閣の要人に面会し、普請の持場を減らして貰(もら)う様、嘆願して回った。

 努力の甲斐(かい)有って、幕府より持場を四分の三に減らす旨(むね)、許可が下りた。二年続けての凶作と、千両の借金をした事が、考慮された様(よう)である。これで大坂城普請(ふしん)の費用は、賄(まかな)える様になった。

 十一月十五日、金に苦労した忠興は、通貨の改定を行った。藩内で流通する貨幣を、江戸と同じ九十六文に統一させた。

 この月は、江戸回米の覚書(おぼえがき)が作成された。七ヶ条有り、一に磐城の浜で江戸米を積むに当たり、運賃の定め。二に江戸回米計量の事。三に江戸到着後、十四日を過ぎた米の事。四に江戸川岸で、支払いに当たる責任者。五に米の売り方と担当者。六に米の売上げ金の事。半分を老中に差し上げると有るが、大坂城普請の持場を減らすべく、頼むのに用いたのであろうか?七に船が破損し、廃(すた)り米の事。江戸組は木屋理兵衛と柏屋宇左衛門、磐城組は四倉村徳兵衛と一町目甚左衛門が拝命し、銘々(めいめい)手形を以(もっ)て運送する事とされた。

 国許(もと)の凶作は不幸であったが、その分江戸では米の価格が上がり、高値で売れた様である。この年、江戸に送られた米は、二万七千六百三俵との記録が有る。

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