![]() |
![]() |
![]() |
第十三節 世代交代
新年を迎え、万治四年(1661)となった。昨年は大坂城代赴任中に落雷、爆破が有り、不幸の年であったが、今年は正月から朗報が有った。勘定方が、江戸に送られて来た米四千六百三俵の内、半分は米蔵に入れ、残る二千三百俵を売った所、千両程になった。
目下、藩の金蔵は大坂城普請(ふしん)の為に空(から)となり、他国が攻めて来た時に備える軍資金は、皆無である。武家の役割を果す為に、先ずは貯蓄が必要であるが、同時に真田家より借りた千両も、返済して行かねば成らない。
軍資金を得る為には、国許(もと)の兵糧を切り崩さねば成らない。しかし米蔵の蓄(たくわ)えは、飢饉(ききん)の時に領民を救う為、不可欠の物である。金か米か、どちらを残すかで、忠興は悩(なや)んだ。
三月二十二日、忠興は磐城平城内米蔵に納められている内の半分を、四月から十月までの間に、江戸浅草の蔵へ送る様、国許(もと)に通達した。米価が高騰しているこの機を逸(いっ)すれば、返済金を貯(たくわ)えるのに、数年を要するかも知れない。備蓄米だけが有り、金欠の状態で戦(いくさ)をしても、雑兵に忠誠心無く、容易に崩れて役に立たぬ事は、大坂の陣での教訓である。それよりも早期に真田家へ完済すれば、真田家との信頼関係を保ち、貯金をする事ができる。少しでも貯金ができれば、僅(わず)かな兵を動かす事もできる。その辺りの兵法を実戦で身に付けた者は、忠興の他にはもう、大分(だいぶ)少なくなっている。
四月二十五日、元号が寛文(かんぶん)と改められた。昨年の大坂城爆破を受けてと思われたが、理由は禁裏で火災が有った為であるという。
五月二十五日、十二年に渡り郡(こおり)奉行を務め、領内開発及び財政に辣腕(らつわん)をふるって来た今村仁兵衛、並びに今村長左衛門を、寺社奉行に昇進させた。藩政への影響は遥かに郡奉行の方が大きいのだが、職の上下では寺社奉行の方が上である。忠興も既(すで)に古稀(こき)である。何時(いつ)までも仁兵衛に頼っていては、後進が育たない。因(よ)って仁兵衛には、郡奉行と比べると閑職とも言える寺社奉行へ移って貰(もら)い、後任者が大きな過(あやま)ちを犯した時に、助言してくれる事を期待した。
七月、吉利支丹(きりしたん)取締りの強化が幕府より命ぜられ、忠興は四日に三ヶ条の覚書(おぼえがき)を認(したた)めた。一に、元号が寛文に改められた事に因(よ)り、高札を書き直す事。二に、家臣及び領民を念入りに調べ上げ、不審者は穿鑿(せんさく)する事。三に、町人と農民は五人組を定め、庄屋と町年寄は油断無く取り調べる事。他所(よそ)者を捕えた場合、庄屋または町年寄は穿鑿(せんさく)の上、定めに従い刑罰を科する事。
七月二十九日、水戸徳川頼房が薨去(こうきょ)した。頼房は御三家の兄弟順を考慮し、尾張光義、紀伊光貞より年下の、三男光圀(みつくに)を跡継ぎと定めた。長男頼重は不運にも家督を継げず、寛永十九年(1642)に東讃岐十二万石が与えられ、高松藩松平家を興した。
八月十五日には、作成に今村仁兵衛も加わった、三ヶ条の覚書(おぼえがき)が出された。一に吉利支丹(きりしたん)改めの為、五人組帳を提出する事。他領に在る者も残らず記(しる)し、今後他領へ出る者には、一年に金一分の出役を徴収する。子供を年季に出すのも同じく、二月始めに支払う事。二に、村を出る者は名主頭所の五人組帳に記し、役金を納める事。名主は何時(いつつ)誰が何年何処(どこ)へ年季に行く為に出役金を取ったのか、今村長左衛門へ書付けを遣(つか)わし、出判(でばん)を貰(もら)う事。扶持(ふち)人、町人、寺門前の者は町奉行より、同様に出判を貰う事。三に江戸藩邸の奉公人からは、出役金を取らぬ事。
期日、金額の細(こま)かい指示は、如何(いか)にも仁兵衛らしい。寺社奉行と言えば、寺院や神社に関する役目という印象を持ち易いが、この時代は寧(むし)ろ、吉利支丹(きりしたん)の取締りの方が重要であった観が有る。
秋に入り、忠興は江戸家老上田外記を同席の上、義概(よしむね)を召し出した。
「御呼びにござりましょうか?」
義概は四十三歳。忠興の大坂赴任中は藩主代行を務め、貫禄も備わって来た。
「おお、近う。」
父に招かれ、義概は御前に腰を下ろした。
「そちを召し出したは他でもない。そちの縁組についてじゃ。そちは黄梅院亡き後、側室も居らぬであろう?」
「妻は、一人居れば充分にござり申す。男子も二人居れば、充分かと。」
忠興は首を傾(かし)げた。
「そうとは言えぬ。義邦は体が弱く、療養中じゃ。また五郎七郎も七歳なれば、夭折(ようせつ)の可能性が無いとは申せぬ。加えて藩主相続後に妻が居らぬは、何かと不都合じゃ。」
「はあ…」
「そこで、そちに継室を迎えるべく、外記と布施三太夫に探させた。」
布施三太夫は上田内膳組の、三百石取りである。義概は、溜息を吐(つ)いて尋ねる。
「何処(いずこ)の姫君にござりましょうか?」
「名門三条家、実秀公の姫君じゃ。」
三条家は藤原師輔(もろすけ)の子、閑院公季(きんすえ)の流れで、保元、平治の乱の頃、実行が興した家である。実秀は大火の年に従一位に叙せられ、昨年には左大臣へ昇進した。正(まさ)に、朝廷の実力者である。
「公家にござりまするか?」
「うむ。伊達家が皇族と繋(つな)がるのであれば、当家は左大臣家じゃ。既(すで)に、御公儀の許可も得て居る。」
「なれば、謹(つつし)んで御受け致しまする。」
「詳(くわ)しい事は、外記か三太夫に聞け。」
「ははっ。」
斯(か)くして十一月、布施三太夫が三条家の姫君を迎えるべく、上洛した。
十二月二十五日の覚書(おぼえがき)三ヶ条を見ると、二番目に奥様御普請切組みの奉行に赤井喜兵衛を任じ、委細は仁兵衛より長左衛門へ申し付く事と有る。三条家姫君を迎えるに当たり、内藤家では今村仁兵衛の力も借りて、改築をした様である。
仁兵衛が寺社奉行に就任したこの年、領内の神社を見ると、磐城郡四倉村諏訪神社が社殿を改築した。また浄土宗総録所は、磐前郡山崎村専称寺のみを檀林に指定した。檀林とは、仏教の学問所である。また菊多郡内、棚倉藩領上遠野(かどおの)村円通寺も、檀林の指定を受けた。
新田開発を見ると、楢葉郡大久村蓬莱新田が拓(ひら)かれた。
また藩政にも、大きな動きが有った。この年から、家臣に支払う年貢は、百石当たり三十五俵を、藩が借り上げる事となった。言い換えれば、武士は年貢という税を取るが、藩が家臣の俸禄米から、更(さら)に税を取るという物である。大坂城修築で、米蔵の備蓄の多くを江戸で売り払い、加えて三条家姫君を義概の継室に迎え入れるのも、物入りである。忠興は家臣の収入の一部を藩に回す事で、財政の健全化を計った。
*
寛文二年(1662)三月六日、老中松平伊豆守信綱が六十七歳で逝去した。武蔵羽生(はにゅう)の代官大河内久綱の長男に生まれ、六歳で大志を抱き、他家への養子縁組を願い出る。徳川家勘定頭松平正綱の養子となり、二代将軍秀忠の覚えめでたく、側小姓に登用される。学問に熱心であった信綱は九歳の時、生まれたばかりの、家光の小姓に命ぜられる。家光は幼少の頃、素行が悪く、母親は弟忠長を偏愛する様になり、家光支持派が少ない中、信綱は家光を支え続けた。十六歳で元服し、幼名長四郎から信綱と改める。家光が正式に三代将軍と認められた二十八歳の時、小姓組番頭に昇進する。同年、家光の将軍宣下に随行し、従五位下伊豆守に叙任される。三十二歳で相模国内に一万石を賜り、大名となる。三代将軍の側近「六人衆」の一人に数えられ、三十八歳で老中職を拝命し、幕政に参与。同年、武蔵忍(おし)三万石の藩主となる。三代将軍の治世に行った幕藩体制の確立、即(すなわ)ち大名が国許(もと)で倒幕の力を蓄えるのを防ぐ「参勤交代」、大名が海外と交易して財を得たり、西洋の新兵器を購入するのを防ぐ「鎖国」。これらの重要政策を、信綱は推し進めた。四十三歳の時、島原の乱が勃発。信綱は幕府軍総大将を拝命して、鎮圧に成功。老中首座となる。四十四歳で武蔵川越六万石藩主に加増転封。幕閣に在って卓抜した知識を持ち、幕政の難問を解決して行く信綱は、「知恵伊豆(出ず)」と称される様になった。家光の晩年、老中が政務をよく処理してくれるので、将軍の力量を発揮する事は無くなっていた。五十六歳の時、三代将軍家光薨去(こうきょ)。直後に由比正雪の乱が起るも、未然にこれを防ぐ。家光の死を受けて、久しく苦楽を共にした、老中二人が殉死した。信綱は遺言で家綱の事を託されて居り、忠義の道として、四代将軍を支える事を選んだ。五十八歳の時、老中首座を退き、次座となる。六十二歳の時、明暦の大火が起る。以後、焼土となった江戸の再建に努める。玉川上水の開削(かいさく)には、陣頭指揮を執った。また川越藩政でも、城下町の開発、川越街道の整備、野火止用水の開削を行った。酒を飲まず、趣味も持たず、問答のみを好んだと言われる信綱は、三代家光の幕権強化、四代家綱の守成を支え、江戸幕府の歴史にその名を残した。死後、岩槻の平林寺に埋葬された。
信綱の死去に因(よ)り、老中は阿部忠秋、酒井忠清、稲葉正則の三人となった。それを支える若年寄は、久世広久と土屋数直である。
六月十三日、義概に帰国の許可が下りた。そして将軍家より、時服五着、羽織一着が下賜された。邸に戻った 義概は、継室三条氏と共に忠興の許(もと)を訪れ、報告する。
「只今、戻りましてござりまする。無事、帰国が許される運びと相(あい)成り申した。」
「其(そ)は、重畳(ちょうじょう)じゃ。」
忠興は視線を、昨年輿(こし)入れしたばかりの、三条氏へ移す。
「武家の慣(ならい)にて、藩主は幕府の許可を得て、一年以内の帰国が叶(かな)いまするが、妻子には江戸滞在が義務付けられて居り申す。因(よ)って一年程、義概と離れて暮らす事となり申す。御理解頂けまするかな?」
三条氏は、合点(がてん)が行かぬ顔である。
「何故(なにゆえ)にござりましょうか?」
「大名が幕府に謀反を起すのを、防ぐ為でござる。」
「では、妾(わらわ)は人質と?」
忠興は苦笑する。
「然(さ)に非(あら)ず、然(さ)に非(あら)ず。幕府が警戒されるは、遠国外様大名にて、我ら譜代の大名は、範を垂れる為に行うのでござる。」
三条氏は、猶(なお)も首を傾(かし)げる。
「義父(ちち)上様は、大名妻子を江戸に残すと仰(おお)せられました。」
「如何(いか)にも。」
「夫は、大名の子ではありませぬのか?」
左大臣の娘だけあって、ずけずけと尋ねて来る。義概は諫(いさ)め様(よう)としたが、忠興が制する。
「私(わし)は見ての通り、老い耄(ぼ)れにござる。国許(もと)の事は、そろそろ若い息子に任さねば成らぬ。その辺りは、御公儀も御承知の事。」
義概は躙(にじ)り出て言上する。
「昨年は米が高値で売れ、財政に持ち直しの兆(きざ)し有り。その分、藩の米蔵が寂しゅうござりますれば、猶(なお)一層、新田開発の気運が高まる様(よう)、努めて参りまする。」
「宜しく頼むぞ。」
「ははっ。」
義概は妻を伴って、父の許(もと)を辞して行った。
九月に入り、幕府より通達が成された。内容は、猟師以外の庶人から、鉄砲を取り上げる事である。忠興は直(す)ぐに国許へ遣(つか)いを出し、藩領で鉄砲の召し上げを行い、完了の証文(しょうもん)を提出する様(よう)申し付けた。
十一月三日、忠興は江戸城黒書院で将軍家綱に謁見し、饗応(きょうおう)を受けた。料理は御鷹の鶴である。鷹狩に於(おい)て鶴は、最上の獲物とされる。忠興は斯(か)かる栄誉に浴したる段、将軍に御礼申し上げた。
この年、国許(もと)では新たに、二ヶ所の新田が拓(ひら)かれた。楢葉郡下川内村の毛戸と、糠塚である。磐城平藩は再び、人口が増加しつつあった。
*
寛文三年(1663)一月二十六日、良仁(ながひと)天皇は譲位し、後西(ごさい)上皇と成った。新帝は幕府の後押しを受ける識仁(さとひと)親王で、後水尾(ごみずのお)院の第十九皇子である。識仁(さとひと)天皇は十歳であったが、幼帝を頂く方が、幕府には都合が良かった。
三月、三代将軍大猷院の十三回忌を前に、上野寛永寺公海の取り成し等を得て、伊豆大島に流されていた武田信正が赦免され、江戸に戻った。公海は、家康の死後、東照大権現の神号を提案した、天海大僧正の門弟である。
信正は、武田信玄の曾孫である。天正十年(1582)、織田、徳川連合軍に攻められ、甲斐武田家は滅亡した。戦国時代の英雄、武田信玄には七人の子が居り、長男義信は守役飯富虎昌と共に父の追放を画策して失敗、自害して果てた。次男竜芳は幼くして目が見えず、長延寺の実了に預けられる。三男信之は夭折(ようせつ)し、四男勝頼は諏訪家を、五男盛信は仁科家を、六男信貞は葛山家を、それぞれ相続した。七男は信清という。
武田家滅亡の時、諏訪勝頼の子信勝が当主であったが、実質武田家を纏(まと)めていたのは勝頼であった。しかし信長、家康に切り崩され、仁科盛信と葛山信貞は討死、諏訪勝頼と武田信勝も自害した。竜芳は父信玄が征服した信濃国小県(ちいさがた)郡の海野家を継ぎ、海野信親という俗名を持っていた為か、武田家滅亡の年に死亡している。信玄の子では信清だけが、姉の嫁ぎ先である上杉景勝を頼り、生き延びた。
因(よ)って武田家は信清が継ぎ、上杉の家臣として存続すると思いきや、信長の死後に甲信地方へ勢力を伸ばした家康に、武田の名跡は利用される事となる。信玄の次女、後(のち)の見性院を妻に迎えていた穴山梅雪は、信玄の死後、一門衆として、駿河国を任されていた。しかし武田家滅亡の時に徳川家へ味方し、生き残った。梅雪は信長に随行して上洛し、本能寺の変に巻き込まれて、最期を遂げる。梅雪と見性院には勝千代という子が居り、家康は信玄の外孫に当たる勝千代に武田家を継がせる事で、武田旧臣を傘下へ組み込んだ。しかし勝千代は、天正十五年(1587)に十六歳で没してしまった。そこで家康は、武田家所縁(ゆかり)の母を持つ五男、万千代丸を勝千代の養子とし、武田信吉と名乗らせた。しかし信吉も慶長八年(1603)、二十一歳で病死した。
武田家の系統は、他にも存続していた。竜芳こと海野信親は、穴山梅雪の娘を娶(めと)り、信道という子を儲(もう)けていた。信道は嘗(かつ)て父が預けられた、実了の養子となり、出家して顕了道快と号した。武田家滅亡の折には、信州安曇(あずみ)郡へ逃れて助かり、その後甲府で家康に謁見し、慶長八年(1603)に長延寺住職を相続する。しかし武田家重臣、大久保長安と繋(つな)がりを持っていた事が災(わざわ)いした。慶長十八年(1613)に長安が没すると、生前不正を働いていた証(あかし)となる、莫大な遺産が押収された。当時は大久保派と本多派が激しく対立し、本多方はこれらの財を、武田家再興の軍資金であると訴えた。信道とその子信正は、松平康元に預けられた後、元和元年(1615)に伊豆大島へ流された。信道は寛永二十年(1643)、彼(か)の地で没している。
信正は十四歳で父に連座し、伊豆大島で四十八年の歳月を過ごして来た。齢(よわい)も既(すで)に六十四歳である。家康の存命中に流刑に処せられ、戻って来たら四代将軍の御代(みよ)であった。江戸の町も大きく様変りし、宛(さなが)ら浦島太郎と同じ境遇である。
前将軍の十三回忌を終えた後、忠興は保科正之に呼び止められた。
「帯刀殿、少し御話致したき儀がござる。別院まで御越し願えませぬか?」
「宜しゅうござる。」
何事かと思いながらも、導師公海の案内も有り、忠興は黙したまま、二人の後に付いて行った。
案内された部屋では、一人の老人が落ち着かぬ様子で、座していた。老人とは言っても、忠興よりはやや若い。正之と公海に促(うなが)され、忠興は老人の正面に座した。両名は二人の脇に、並んで腰を下ろす。
先ず公海が、忠興に老人を紹介した。
「こちらは武田信玄入道の曾孫、武田信正殿にござりまする。」
正之が補足する。
「嘗(かつ)て、大久保長安の事件で流刑と相(あい)成り申したが、この度(たび)大猷院様の御法会に因(よ)り、赦免され申した。信玄公御次男の系統にござる。」
忠興は漠然であるが、老人の素姓(すじょう)を理解した。続いて公海は、信正に忠興を紹介する。
「こちらは内藤帯刀殿。奥方は小山田信茂殿の御息女でござりまする。」
漸(ようや)く知った名を聞き、信正は安堵の表情で、忠興に頭を下げる。
「武田信正にござる。」
忠興も答礼して返した。
挨拶が済んだ所で、正之が話を切り出した。
「本日は某(それがし)、武田家旧臣保科家当主として、帯刀殿に御願いの儀がござる。」
「承(うけたまわ)り申す。」
「信正殿は武田家の正統とは申せ、久しく流刑に処せられし故(ゆえ)に、直(ただ)ちに所領を与える事は、幕府の面目に係り申す。因(よ)って、先ずは帯刀殿の縁者とし、内藤家で養って頂きたい。武田家には後日、幕府より然(しか)るべき地位を与え申す。」
正之は保科正光の養子となるまで、信玄の次女見性院に育てられた。見性院は正之に、将来武田家を継ぐ者として養育したが、果せなかった。そして今、正之は養母見性院に代わって、忠興に頭を下げている。その心境を理解できる人物は、最早(もはや)忠興しか残っていなかった。
「謹(つつし)んで、御引き受け致しまする。」
忠興は正之の胸中を察し、頭を下げた。
内藤家にも、武田家所縁(ゆかり)の家臣は多い。特に妻の香具姫は、武田二十四将小山田家の出身である。後日、忠興は信正に、香具姫との間に儲(もう)けた娘を嫁がせた。以後、武田信正は忠興の婿(むこ)として、内藤家が養う事となった。
四月二十日は大猷院の命日である。将軍家綱は父の眠る日光に参詣し、忠興は留守中、西の丸御番を仰(おお)せ付かった。
六月、義概は一年の帰国を終え、江戸に参勤する筈(はず)であった。所が、出立を前にして瘡(そう)に罹(かか)り、延期を願い出る使者が、江戸へ遣(つか)わされた。
参勤交代は、天下安寧を旨(むね)とする武家諸法度の、根幹である。忠興は国許(もと)からの使者を同行の上、登城に及び、義概の参勤が困難である事を、幕府に届け出た。
公儀の回答は、法は曲げられぬ物の、事情が詮(せん)無き故(ゆえ)に、参勤を強(し)いる事はしないという物であった。その代り、義概の病状確認は必要とされ、浅野長沢を検分に遣わし、針医山本市之丞が同行する事となった。忠興は御詫びと御礼を申し上げ、江戸城を辞して行った。
浅野長沢が磐城から戻った所、義概の病(やまい)は重く、年内の帰国は難しいと報告した。これを受けて公儀は、義概に国許(もと)での療養を命じた。幕府が柔軟に対応してくれて、忠興は一先ず安心した物の、嫡子と嫡孫が揃(そろ)って、国許で療養中である事は、当主として、また父親や祖父として、大いに懸念された。
この年は、磐城郡八茎(やぐき)村沼原に新田が拓(ひら)かれたと、報告が有った。義概は病(やまい)を得ている物の、国家老上田内膳が、よく治めている様である。
またこの年、忠興は藩の支出を節約する為、義概が援助していた箏(そう)曲家、上永検校(けんぎょう)こと八橋検校の扶持(ふち)を打ち切った。
*
寛文四年(1664)五月二十二日、将軍家綱の御召(おめし)を受けて、忠興は登城の上、謁見した。家綱は和(にこ)やかに、忠興に尋ねる。
「帯刀は徳川家に仕えて、何年になる?」
突飛(とっぴ)な質問に、忠興は苦笑する。
「はて、生まれながらに、徳川家の禄を食(は)んでござりまするが。強(し)いて申し上げますれば、元服したのが台徳院殿様将軍就任の御供をした、慶長十年(1605)。あれからもう、六十年近くが経ちまする。」
「おお、帯刀の元服は、将軍職が徳川家の世襲となったのと、同時であったか。」
「東照大権現様、並びに台徳院殿様の御引立てに因(よ)る物と、感謝致して居りまする。」
「久しく徳川家に忠節を尽してくれた帯刀に、御礼がしたい。細(ささ)やかではあるが、所領の朱印を与える。」
「此(こ)は、望外の御沙汰と存じまする。」
「これからも、徳川家の為に忠義を尽してくれ。」
「ははっ。」
忠興は朱印状を押し戴(いただ)き、重ねて御礼を申し上げた。
それから四日後の二十六日、台命が下され、忠興は日光東照宮の修復を仰(おお)せ付かった。先日の御召(おめし)は、この為であった事を知り、忠興は信綱亡き後(あと)の老中のやり方が、少々小賢(こざか)しくなった事を心配した。
とは言え、日光東照宮は三代将軍が威信をかけて築き上げた物で、その普請(ふしん)を任されるのは、誠に名誉な事である。東照神君の恩顧に報いる為にも、藩を挙げて取り組む事とした。
忠興は虎ノ門上屋敷広間に、江戸番の重臣を召集した。そして、厳粛に話し始める。
「この度、御公儀より日光東照宮の修復を仰せ付かった。来年は、東照神君の五十回忌である。斯(か)かる折に、将軍家の祖廟(そびょう)を普請(ふしん)致すは、上様が当家に寄せる信頼の厚さを、示す物である。誰ぞ、栄誉有る普請奉行を務めるに、相応(ふさわ)しき者は居らぬか?」
家臣達は、近くの者と話を始めた。やがて宿屋求馬組三百石、沢村彦左衛門が申し出る。
「畏(おそ)れながら申し上げまする。大坂城の時とは異なり、神君五十回忌を前にした東照宮の普請は、一家臣に任せる物に非(あら)ず。御家老、上田外記様を推挙致しまする。」
これには、多くの重臣が賛同した。忠興は外記に諮(はか)る。
「誠に畏(おそ)れ多き事なれども、藩の為に身命を擲(なげう)ち、奉公致しまする。」
「うむ。私(わし)も外記を措(お)いて、他に適任者は居らぬと思っていた。では外記に、普請奉行を申し渡す。」
「ははっ。」
斯(か)くして江戸家老外記が、日光東照宮の修築に当たる事となった。
六月、義概は漸(ようや)く恢復(かいふく)し、江戸に戻って来た。虎ノ門に到着した義概は、先ず父忠興に目通りした。程無く姿を現した息子に、忠興は声を掛ける。
「二年振りじゃのう。体の方は、もう良いのか?」
義概は、恐縮して答える。
「御心配を御掛けし、申し訳ござりませぬ。御蔭様にて腫物(はれもの)も治り、参勤する事が叶(かな)い申した。」
「それは良かった。所で、義邦の方はどうじゃ?」
「相変わらずの病弱にて…」
「まだ、良くなっては居らぬのか?」
「はい。」
「まあ良い。国許(もと)の話を聞かせよ。」
「はっ。先年完成を見た小川江筋にござりまするが、その後三森治右衛門と申す者が、改良を行ったとの由(よし)。」
治右衛門は、亡き沢村勘兵衛の遺志を受け継いだ、三森内匠である。鎌田村の蔵主淵は難所であったが、この地の開削に成功し、鯨岡と上神谷間に、新たな水路を拓(ひら)いた。また、大室、名木にも水路を延ばし、これにて小川江筋の改良は完成した。
「そうか、あの小僧が成し遂げたか。」
下小川村に取水の関を築いてから二十六年。沢村勘兵衛直勝、三森治右衛門光豊という人材を得た事に因(よ)り、この大事業は忠興の代で完成を見た。忠興は、万感の思いであった。
「今一つ、申し上げるべき事が。」
義概は、表情を曇(くも)らせて申し上げた。
「どうやら次は、良からぬ話の様(よう)じゃのう。」
「はっ。薬王寺と専称寺が、一年半に渡り争い、未(いま)だに和解する兆(きざ)しこれ無く。」
「あの件は、幕府寺社奉行の裁(さば)きを仰いだのではなかったか?」
磐前郡山崎村梅福山報恩院専称寺は浄土宗で、京都知恩院の末寺である。応永二年(1395)、良就証賢の創立に係る。寺領七十石にして、檀林の指定を受ける。磐城郡薬王寺(やこうじ)村延寿山教王院薬王寺は真言宗で、京都無量寿院の末寺である。徳一大師が八茎(やぐき)岳に薬師堂を安置したのが始まりと伝わる。末寺は百六十二に及び、寺領五十石、八町歩の除地山林を有する。磐城平藩内では、二大寺院と言えるであろう。
寛文二年(1662)冬、薬王寺で法会が有った。参詣者多数が集(つど)い、その中に徳一大師の墓前で用を足す者がいた。薬王寺の者がその者を咎(とが)めると、専称寺の僧であると言う。円智以下、三、四人が専称寺へ押し掛け、専称寺に謝罪を求めた。専称寺は、多くの僧を抱(かか)えているとは言え、斯様(かよう)な悪行に及ぶ者を出したは申し訳無いと、謝罪の上で饗応(きょうおう)した。住職良厭も、円智に挨拶するべく、顔を出した。
これで話が纏(まと)まるかと思いきや、帰り道で今度は円智らが、酒に酔って専称寺開山の墓前、及び塔婆に用を足してしまった。今度は専称寺が薬王寺に、謝罪を求める使者を立てた。薬王寺が円智を召し出して確認すると、円智は事実無根と回答した。専称寺も、はいそうですかと帰る訳には行かない。卒都婆(そとば)を穢(けが)すとは、僧として有るまじき行いと糾弾(きゅうだん)すると、円智も反論する。話は次第に、卒都婆の文字に対する宗論となり、話し合いで和解はできなくなった。専称寺と薬王寺は、共に相手の非を、藩の寺社奉行今村仁兵衛、今村長左衛門に訴え出た。両奉行は、専称寺及び薬王寺が共に、幕府より朱印地を与えられている寺院であり、加えて宗論が絡(から)む話となれば、当方では裁(さば)き難(がた)しとして、幕府寺社奉行へ差し出した。これを受け、奉行加々瓜甲斐守は、薬王寺住職堅雄、専称寺住職良厭の両名を召し出し、対決させた。結果、薬王寺は東照大権現が定めし寺院諸法度の内、他宗へ法論を仕掛ける事を禁ずる条項に抵触したとされ、円智の袈裟衣(けさぎぬ)を召し上げる事、即(すなわ)ち薬王寺側の敗訴として、裁(さば)きを下した。
忠興が報告を受けたのは、ここまでであった。義概は頭を下げて答える。
「我が身の、不徳の致す所にござりまする。」
「詰(つま)り?」
「当家は、浄土宗にござりまする。」
「三河武士なれば、殆(ほとん)どがそうであろう。台徳院殿様が眠る芝の増上寺も、浄土宗じゃ。」
「されば、某(それがし)は国許(もと)で由緒の有る浄土宗寺院、即(すなわ)ち専称寺の良厭和尚を、幾度か城へ招き、法話を聞いた事がござり申した。それ故(ゆえ)薬王寺は、某(それがし)が専称寺を贔屓(ひいき)にするので、寺社奉行に頼み込んだと邪推に及んだ由(よし)。」
「それで、薬王寺は納得して居らぬと?」
「はっ。」
「薬王寺には目下、不穏な動きが有るのか?」
「それが…」
義概が口籠(くちごも)った時、脇から従臣が声を発した。
「畏(おそ)れながら、大殿様に申し上げたき儀、これ有り。」
「そちは確か…」
「若殿様の小姓頭、加えて上田内膳様の組に属せし、松賀族(やから)之助と申しまする。」
「おお、そうであった。話を聞かせよ。」
「誠に申し上げ難き事にござりまするが、薬王寺が若殿様を調伏(ちょうぶく)したとの通報がござり申した。」
「調伏じゃと?」
「若殿様が久しく病(やまい)を得て居られたのも、その所為(せい)かと。」
「証拠は有るのか?」
「目下、密告のみにござりまする。」
「ふむ…」
忠興は腕組みして考え込んだ。証拠も無く、藩内の古刹(こさつ)を処罰する訳には行かないが、藩嗣子(しし)を呪詛(じゅそ)するという話は、到底捨て置けぬ物である。
「義概、そちは明日にでも参勤の届け出を致すべく、登城致すであろう?」
「はっ。その積(つも)りにござりまする。」
「私(わし)も参る。寺社奉行に掛け合い、策を講ずる。」
「ははっ。」
忠興は、宗教という問題を新たに抱(かか)え、溜息(ためいき)を吐(つ)いた。
翌日、忠興と義概は揃(そろ)って登城し、将軍に江戸参勤の挨拶(あいさつ)を行った。側には老中の他、寺社奉行加々瓜甲斐守も同席している。先ず家綱より、義概の体調を気遣う言葉が掛けられた。義概は御礼と共に、恙(つつが)無き旨(むね)を申し上げた。
義概の将軍に対する挨拶が済んだ所で、忠興は本題に入った。
「本日、御老中並びに寺社奉行に申し上げたき儀は、他でもござらぬ。甲斐守殿の裁定に義概の関与が有ったとして、敗訴せし薬王寺が義概を調伏していると、通報がござり申した。」
家臣の不祥事は即(すなわ)ち主君の過失であり、藩に処分が言い渡される事も有る。しかし寺領に限っては幕府の領分で、藩が手出しをできぬ分、忠興は幕府に要求する事ができる。
「当家は義概をして、次の藩主を相続せしむる事、家中の一致を得て定めてござりまする。その身を調伏するとは忌々(ゆゆ)しき事態。御公儀には何卒(なにとぞ)、念を入れて御調べ下さりまする様(よう)、御願い申し上げまする。」
寺社奉行は、事が磐城平藩嗣子(しし)の命に係ると言われ、迂闊(うかつ)な返答はできない。老中阿部忠秋から、一案が示された。
「調伏となれば、寺院の内外で行われているか、判(わか)り兼ねる。寺社奉行より帯刀殿に、寺領への立入りと、取調べの許可を与えては如何(いかが)か?」
加々瓜甲斐守は、異存無しと答えた。しかし忠興が、難色を示す。
「某(それがし)は目下、日光東照宮の修復を仰(おお)せ付かって居り、帰国に及べば、日光の普請(ふしん)に影響が出かねませぬ。」
老中は再び談合し、今度は酒井忠清が提案した。
「なれば、左京大夫殿に再度の帰国を差し許す。当人である左京殿が、一年の内に証拠を見付けられなければ、薬王寺は無実である。しかし証拠が挙がれば、寺社奉行より相応の処罰を致す。」
病(やまい)を得て二年も国許(もと)に在った義概に、再度帰国の許可を与えたは、三代将軍の御代(みよ)には考えられぬ、異例の措置(そち)であった。四代将軍の時代に入り、諸大名を締め付ける法は、次第に緩和(かんわ)されつつあった。
「帯刀殿、左京殿、異存はござらぬか?」
稲葉正則が確認し、忠興と義概は揃(そろ)って平伏した。
七月一日、将軍家は忠興に御鷹の雲雀(ひばり)を下賜した。同時に、義概の帰国の許可が、正式に伝えられた。義概は継室三条氏を娶(めと)ってから、生活を共にする時は殆(ほとん)ど無く、直(す)ぐ様(さま)国許(もと)へ取って返した。
それから間も無く、幕府より本院並びに法皇御所へ、初鮭を献上する事となった。江戸近くで鮭が取れる川を持つのは、磐城平藩と水戸藩である。幕府は忠興と徳川光圀に、献上品の鮭を用意する様に命じた。斯(か)くして十六日、常磐地方の鮭が、本院御所と法皇御所へ届けられた。本院とは上皇、法皇が複数いる場合、第一の人を指すので、一の院とも呼ばれる。当時は明正院、後西院の父、後水尾院の事である。
十九日、幕府の面目を立たせてくれた忠興に、鶴の料理が下された。忠興は翌日、御礼を申し上げるべく、登城した。
一方で帰国した義概は、家臣に命じて、薬王寺が自分を呪詛(じゅそ)していた証拠を、必死に探していた。そして夏も終りに近付いた頃、鞠訊(きくじん)していた円智らが口を割り、立願文に加え、大きな菅(すげ)人形の首を押収した。義概はこれらの物を寺社奉行へ差し出し、調伏(ちょうぶく)の証(あかし)とした。寺社奉行は前代未聞の悪僧として、円智及び正誉に死罪を申し渡した。九月十二日、円智と正誉は処刑され、三日間梟首(きょうしゅ)させられた。これにて専称寺と薬王寺の諍(いさか)いは、一応の決着を見た。
しかし、薬王寺を悪と判断するには、当時の社会の仕組みを考えると、一概に肯定できない。義概はここ十年、父忠興に代わって帰国し、三代藩主に近い立場に在る。当時の藩主は、県知事、一人制の県議員、一人制の最高裁判官を兼務するのに等しい権力を持ち、加えて自白に証拠能力が認められている。拷問(ごうもん)も合法であり、苦痛に堪(た)え切れなくなった円智と正誉が、獄吏(ごくり)の言われるままに、義概を呪(のろ)う立願文を認(したた)め、呪詛(じゅそ)の道具を作成したとも考えられる。
死人に口無し。真相は為政者に取って不都合な物であれば、闇(やみ)に葬(ほうむ)り去られる。ただ、当事件を勘案するに、円智は他人の領域へ足を踏み込み過ぎた。専称寺が謝罪した時に、過去の恨(うら)みを解消できていれば、後日不幸を招く事は無かったであろう。
さて、磐城郡を代表する大寺院が悪事を働いていたと公表され、多くの檀家が信仰心を失うのも、不都合が有った。全国に広がる隠れ吉利支丹(きりしたん)が、仏教を見限った者を取り込む怖れが有るからである。九月二十五日、幕府より吉利支丹門徒改めの強化が言い渡された。久しく国許(もと)を義概に任せ切りにしていた忠興は、自ら国許を視察する必要有りと考え、義概と交代で、久し振りに帰国する事にした。
十月九日、磐城平藩が行っていた、日光東照宮の修復が、無事に完了した。幕府は上田外記を江戸城に召し出し、恩賞として白銀、時服を下賜した。
十一月五日、縁組が決まった。義概の長女は早世していたが、次女ふじ姫が、但馬出石(いずし)藩五万石小出修理亮(しゅうりのすけ)吉重の嫡男、備前守英安に輿(こし)入れする事となった。
十一月二十九日には人事が有った。宿屋求馬組三百石沢村彦左衛門、上田内膳組三百石布施三太夫の両名を、組頭へ登用した。小隊長から中隊長への昇進である。
この年の藩政を見ると、楢葉郡北迫村が人口増加を受けて、東西二村に分立した。海の下北迫村、山の上北迫村の成立である。
*
寛文五年(1665)四月十七日。この日は徳川将軍家初代、東照大権現の五十回忌である。上野寛永寺に於(おい)て、大法要が営まれた。忠興は帰国中に因(よ)り参列叶(かな)わず、名代を遣(つか)わし、太刀の目録と馬代の銀を献上した。
夏、領内の巡検、及び在国家臣の様子を確認し終えた忠興は、帰国を前に、高月屋敷で療養している、嫡孫義邦を見舞った。義邦はこの暑さで体調を崩し、床(とこ)に臥(ふ)せったままであった。忠興は孫を寝かせたまま、枕許(まくらもと)に腰を下ろし、額に滲(にじ)む汗を拭(ぬぐ)ってやる。
「申し訳ござりませぬ。」
義邦は悲しい顔で言う。
「何の。直(じき)に秋風が吹き、涼しく成ろう。然(さ)すれば、体の方も良くなろうて。」
「はい…」
「じじはもう直(す)ぐ、江戸へ戻る。その前に、そちに申して置く事が有ると気付いた。」
「何でござりましょう?」
「武士の、本分についてじゃ。」
「本分…にござりまするか?」
「武士とはそもそも、将軍家より任されし所領の民を、守るべき存在じゃ。戦(いくさ)に負ければ、領国の民は勝者の兵に因(よ)り掠奪(りゃくだつ)され、殺されても文句は言えぬ。じじが若い頃までは、それが武家の慣(なら)わしであった。」
「元和(げんな)偃武(えんぶ)の、前にござりましょう。」
「然様(さよう)。東照大権現様は武家諸法度を定め、以後戦(いくさ)は御法度となった。しかしじゃ、戦(いくさ)の無い世の中に慣れ、武士の本分を忘れては、先人たちの築きし平和な世を、守り抜く事が果してできようか?私(わし)より前の当主は、任された城に拠(よ)って、領内及び近隣を警戒するは、常(つね)であった。今は禁制となって居るが、不幸中の幸いとして、そちは藩主を継ぐ身でありながら、久しく国許(もと)の滞在が許されて居る。そちには、武士の本分を弁(わきま)えた、藩主に成って貰(もら)いたい。」
「有難き御言葉を、賜りました。」
義邦の目から、涙がこぼれる。
「泣く程の事ではあるまい。」
「まだ御見限りでない事が、嬉(うれ)しいのでござりまする。」
「見限る?」
「この歳にして、妻も位官もござりませぬ。」
「それは、もう少しして、私(わし)が隠居するのを待て。義概に家督を譲れば、そちは晴れて藩の世嗣(せいし)じゃ。婚儀も叙任も、一遍(いっぺん)にやって参るぞ。それまでに、体を治して置け。」
「はい。」
屋敷を去る時、忠興は義邦の窶(やつ)れ様(よう)が気に掛かった。そして典医には、念入りに義邦の事を頼み置き、数日後、忠興は江戸へ参勤に上った。
七月二十一日、将軍家綱が江戸の外で御馬上覧を行い、忠興は留守中、西の丸と大手の固めを仰(おお)せ付かった。
八月下旬、国許(もと)からの急使が、虎ノ門 藩邸に駆け込んで来た。程無く、義概が使者を伴って、忠興と香具姫に目通りした。
「父上と母上に、報告がござりまする。」
香具姫は、義概の悲愴な面持ちに、いやな予感がした。
「どうしたのです?」
義概は一瞬息を詰まらせたが、緩(ゆっくり)と話し始めた。
「義邦が、国許で身罷(みまか)った由(よし)にござりまする。」
使者は、深く頭を下げて報告する。
「去る十七日、義邦様、御屋敷にて息を引き取られましてござりまする。」
香具姫は、驚きの余り言葉を失った。忠興が確認する。
「病死に、相違有るまいな?」
「御典医が確認致しました。病(やまい)を得て、御亡くなりにござりまする。」
「相(あい)解(わか)った。」
大きな声を上げて、香具姫は泣き出した。
「どうして、孫が先立って行くのか。義邦殿は、まだ二十九ではないか。」
忠興は立ち上がり、義概に尋ねる。
「義邦の葬儀は、何処(いずこ)で執り行う?」
「国許で儚(はかの)うなりました故(ゆえ)、善昌寺が相応(ふさわ)しいかと。」
「待て。」
忠興は一旦、天を仰(あお)いだ。そして思慮の上、義概に申し渡す。
「善昌寺は、内藤家の菩提寺に非(あら)ず。」
「はっ?」
義概ばかりでなく、香具姫や使者も、耳を疑った。忠興は説明する。
「我が弟政重は先代の御意志故に別儀とし、弟政次に加えて我が次男義興も、善昌寺には葬(ほうむ)らなんだ。当山は即(すなわ)ち、磐城平藩主の墓所である。」
香具姫が目を赤くして、夫に訴える。
「御無体な。義邦殿は殿の嫡孫にござりませぬか。」
忠興は、首を横に振る。
「嫡孫は只今を以(もっ)て、義邦に非(あら)ず。五郎七郎じゃ。そうであろう、義概?」
「は…はっ。」
「義邦は善昌寺近く、西岳寺へ葬(ほうむ)ってやれ。義概、喪主を任せる故(ゆえ)、御公儀に帰国の許可を仰(あお)げ。」
「承知致しました。」
一礼して、義概は去って行った。
使者にも犒(ねぎら)いの言葉を掛けて、下がらせた。再び二人きりになった所で、忠興は香具姫に告げる。
「非情な夫と、思ったであろう。しかし義概の手前、敢(あ)えて苦衷(くちゅう)を呈する訳には参らなんだ。そなたなら、弁(わきま)えてくれようのう?」
香具姫は袖で涙を拭(ぬぐ)ってから、気を持ち直して答える。
「身内が亡くなれども、大将なれば衝動的に動いては成らぬ。そう、義概殿に示したかったのでござりましょう。」
「解(わか)ってくれていたか。」
「八幡原で御舎弟典厩信繁様を亡くされた信玄公も、戦(いくさ)の最中(さなか)では涙を流せなかったとか。」
「川中島か。しかし武田家に限らず、名将と呼ばれし者は、身内の訃報(ふほう)を受けても悲しみを顕(あらわ)にせず、他家は勿論(もちろん)、家臣にも隙(すき)を見せぬ物じゃ。涙を許されるは、主君の死のみ。しかし、そちが泣いてくれて良かった。祖父母が揃(そろ)って涙せぬは、義邦の不幸じゃ。」
「はい。」
後日、帰国した義概は、西岳寺に於(おい)て長子義邦の葬儀を執り行った。当山は、小川江筋を拓(ひら)いた、沢村勘兵衛の墓所である。義邦の法名は増秋院殿上興縁直実道居士。忠興は、久しく国許(もと)に在った義邦に、大きな期待を寄せていた。余人には顕(あらわ)にせぬが、その哀(かな)しみを暗に示すべく、法名に自身の一字を入れさせた。
この年、藩領の磐前郡上好間村内に、沼平新田が拓(ひら)かれた。
*
寛文六年(1666)六月五日、忠興は老中土屋但馬守数直に宛て、三ヶ条の覚書(おぼえがき)を提出した。一に、磐城拝領の地は本田と新田を残さず書き付け、先年酒井忠清、阿部忠秋、稲葉正則、久世広之、松平信綱に提出した事。二に、磐城平藩七万石は、幕府より御計らい頂き、嗣子(しし)義概をして奉公仕(つかまつ)るべく、御願いする事。これは即(すなわ)ち、隠居願いである。三に、次男政亮にも相応の身分御奉公が叶(かな)うべく、新田二万石を分与の上、立藩を請願する事。公文書故(ゆえ)に、次男義興亡き今、三男政亮を次男と記している。七十五歳となった忠興は、遂(つい)に隠居を決断した。七十五という年齢は、徳川家康の没年である。
六月十三日、義概が江戸に帰府し、将軍家綱に謁見の上、馬代の銀を献上した。この折、家綱や老中より隠居の話が成され、幕府の意向としては、忠興に今暫(しば)し、藩主の座に留まって欲しいとの事であった。義概は立ち帰り、父忠興にその旨(むね)を報告した。義概としても、自分の留守中に、勝手に話を進められるのは、気持の良い物ではない。特に、弟政亮に二万石を分与するという話は、慎重を期する物である。義概は相続自体、吝(やぶさ)かではない物の、相続分を考えると、同意できない所が有った。そして台命という事で、忠興の隠居話は立消えとなった。
この年、幕命を受けて磐城平藩は、宗門改(あらため)を強化した。御用掛加藤伊兵衛に目付一名を加え、領民の祖先の檀那寺を調べさせ、宗門人別帳を作成した。目的は勿論(もちろん)、吉利支丹(きりしたん)門徒の取締りである。
十一月に入り、国許(もと)から年貢の減収が報告された。民を第一に考える、沢村勘兵衛の如き人物は、そうざらに現れる者ではなく、また今村仁兵衛の如く、算用に長(た)けた人材も、簡単に育つ者ではない。荒田を回復させる方針が、上がって来ないのはもどかしいが、今は我慢の時と考え、八日に忠興は、米の緊縮を申し渡した。即(すなわ)ち、米の節約、酒造は例年の半額に限る事、新規酒屋の禁止である。
九日、忠興は黄鷹を、将軍家綱に献上した。
年の瀬の十二月二十八日、忠興は久米儀左衛門を召し出した。儀左衛門は宿屋求馬組二百五十石である。そして、藩内で諸事売買を行うにつき、来年から藩札を使用できる様(よう)、申し渡した。全国で使用できる銭は便利である物の、他領との往来が制限される幕藩体制下では、御用商人が多額の取引を領外と行う事で、藩内に流通する貨幣の量が変動する。これに因(よ)り、領内で貨幣が過剰になったり、不足したりする度(たび)に、貨幣の価値が変動してしまう。それを防ぐ為の、藩札の発行であった。
この年、楢葉郡折木村では人口が増加し、東南の浜辺に夕筋村が分立した。また、同郡下桶売村高部新田、並びに磐前郡合戸村入藪新田が拓(ひら)かれた。
*
寛文七年(1667)一月十一日、磐城平城内広間に張り紙が成された。十七ヶ条が記(しる)され、一に文武、忠孝、礼儀を大切にし、武勇と智謀が備わるべく精進する事。二に、身分相応の武具を大切にし、無用な道具を好まぬ事。三に普段着と出仕の衣服は、同じ素材である事。来客の時は、衣服を改める事。但(ただ)し、江戸番の者は藩邸の指示に従う事。四に、喧嘩(けんか)や口論の禁止。違反者は両成敗。一方的な理不尽ならば、片方は赦免。喧嘩に加わった者は、当人と同罪。五に、訴訟の時は組頭を通して、奉行へ通達する事。もし組頭の許可が得られない時は、直(じか)に奉行へ申し上げる事。もし組頭、奉行が贔屓(ひいき)の沙汰を下した場合は、目付か近習に申し上げる事。六に 、知行所務は年貢の他に、非法を以(もっ)て百姓を悩(なや)ませては成らない。七に、養子相続は父の存命中に届け出る事。遺言と称して、故人の意向が曲げられぬ様(よう)にする為である。八に、全ての家臣は、上役の下知に従う事。余所(よそ)の組頭の下知を受けても、直属の組頭の下知に従う事。用所、作業等の役人を仰(おお)せ付かった時は、担当奉行の指図を仰(あお)ぐ事。上役や奉行が、私事を挟んで道理に背(そむ)いた時は、目付に報告する事。九に、組頭が役人を選出する時は、よくよく吟味致し、贔屓(ひいき)や不公平の無き事。十に火災の時は、別紙に定めた法を守る事。十一に、処刑の時は討手(うって)の他、その場に入らぬ事。家中や若党に、その罪を伝えた上で、刑を執行する事。もし処刑を免(まのが)れた者が有る時は、その理由を家老に説明する事。陪臣が直参に無礼を働かぬ様(よう)、常によく指導する事。十二に、婚儀は家老の内意を得た上で、分限を超えた物は慎(つつし)む事。十三に、振回しの為に一汁三菜、酒は三献まで。珍客や祝言が有っても、度を過ぎて乱酔しない事。十四に、博奕(ばくち)並びに長時間の酒宴、遊興の類(たぐい)は、逃れざる罪である。十五に、障(さわ)りの有る者は、一切召し抱(かか)えては成らない。十六に、余所(よそ)者を一泊させるだけでも、家老に申し上げるべく、組に報告する事。十七に、万事誓約を成し、徒党を組む事を禁ずる。
以上が、忠興が磐城平藩士に求めた物である。豊臣家が滅亡してから、既(すで)に五十年以上が経ち、全国武士の大半が、戦(いくさ)を知らぬ世代に入っている。忠興は大坂の陣の生き残りとして、戦国武士の規律を、家臣達に示した。この時、忠興は遂(つい)に徳川家康の没年よりも、年上になってしまった。七十六歳の忠興は、隠居の前に成すべき事を、必死に模索していた。
二月三日、久米儀左衛門が国許(もと)にて、藩札の御触れを出した。
一方で義概は、四月二十日に家綱が上野寛永寺に参詣した折、その御供を仰せ付かった。そして六月二十三日には、帰国の許可が下りた。義概はここ何年も久しく、帰国が許されている。幕府の信頼が厚い事は、大いに結構である。出立の前に、忠興は義概を召し出し、正月に掲(かか)げた壁書(かべがき)が、確(しか)と守られているか確認する様(よう)、申し渡した。
正月に武士の壁書を定めた忠興は九月十八日、今度は百姓、町人の覚書(おぼえがき)を認(したた)めた。六ヶ条有り、一に郷中並びに町中では、徒(いたずら)者が出ぬ様(よう)に常々評議する様、先年書付(かきつけ)を以(もっ)て通達したが、この旨(むね)今度は五人組にて、絶(た)えず評議する事。二に吉利支丹(きりしたん)門徒、奉行や代官に背(そむ)く者、博奕(ばくち)をする者、徒党を組む者、田畑を耕(たがや)さぬ者、浪人を抱(かか)え置く者、家職をせぬ者、用も無く市に立つ者、分限を守らぬ者、日々大酒を呑(の)む者、人改めで取り乱す者、他所(よそ)で夜泊(よどま)り、日泊りする者、濁酒(どぶろく)を造る者、新たに寺社を建てる者、無断で出家に及ぶ者、見馴れぬ者と寄合(よりあい)する者。月に一度、上記の者が居らぬか、庄屋並びに町頭方で寄合する事。評議の上で発覚の時は、直(ただ)ちに百姓は代官衆、町人は町奉行へ届け出る事。隠匿(いんとく)する者が有れば、その五人組は言うに及ばず、名主や町頭にも不正の罪が及ぶ事。三に、第二条に触れる者を五人組の内で隠し、それを報告した者には、村内外または町内外に係らず、罪の軽重に応じた褒美を与える事。四に、火付け、殺人、他藩の者を入国させた者を知れば、密(ひそ)かに報告する事。罪人が身内であっても、通報者は罪が免(まのが)れ、褒美が下される。五に盗人が出たら、捕まえる事。但(ただ)し、尾行して犯人の居場所を通報しても、褒美が下される。六に火災の時、火元近くの者は、先ず火消道具を町中へ投げ出す事。その上で、予(かね)て定めの通り、火消しの持場につく事。遠方の者は、急ぎ駆け付ける事。風下四、五軒を壊す所、風が強ければ人を集め、十軒を壊して、延焼を防ぐ事。もし雨が降って、類焼せずに済んだ家まで壊した時は、元通りに建て直す事。以上が、農工商への法六ヶ条である。
藩には士農工商以外にも、人は存在する。士の上とも下とも言えぬ、寺社である。町村への令達と同日の九月十八日、忠興は寺社にも覚書(おぼえがき)を認(したた)めた。禁制十三ヶ条に加え、付記二ヶ条。宗門改め。奉行は勿論(もちろん)、本寺の下知に背く事。博奕(ばくち)者の類(たぐい)への宿貸し。何事にも依(よ)らず、徒党を組む事。境内に女性を置く事。無断で浪人を抱(かか)え置く事。家職をせぬ者。人改めで取り乱す事。諸勧進(かんじん)の札を持たぬ者への宿貸し。新たな寺社の建立。無断で出家をした者を弟子にする事。見馴れぬ者と寄り合う事。門前で濁酒(どぶろく)を造る事。追記として、他藩の者を引き入れ、用も無く市に立ち、酔狂する事。他所(よそ)へ夜泊り、日泊りする事。もし上記の者が出た時は、寺社方五人組が月に一度寄り合い、家内門前で互いに究明する事。違反者が発覚すれば、奉行か本寺へ報告する事。組の内に違反者が居るのを隠し立てし、他より通報が有れば、本人は言うに及ばず、組の者にも罪が及ぶ事。門前の事は、同門同族であったとしても、密(ひそ)かに奉行へ通報すれば、罪を許し、褒美が下される。
厳しい法は、人々の暮しを窮屈(きゅうくつ)にする。しかし藩内の綱紀が緩(ゆる)めば、悪人が跋扈(ばっこ)し、一揆や御家騒動に繋(つな)がりかねない。次の義概の代も藩が磐石である為には、法は不可欠の物であり、人の恨(うら)みを買う制作者は、老い先の短い自分で良い。先代が暴君と思われる分、跡継ぎは名君と称される。そういう思いが、忠興には有ったかも知れない。
十月二十七日、大手の西方に在る曲輪(くるわ)の土手が崩れ落ちた。ここには、久しく家老職に在る上田外記の屋敷が有るので、外記曲輪と呼ばれている。義概は急ぎ、国家老上田内膳らに、石垣の修復を命じた。久しく年貢の減少を被(こうむ)って来た磐城平藩には、痛い出費となった。
十一月十五日、幕府より台命が下り、義概三女梅姫を、和泉岸和田五万三千石に嫁がせる事となった。岸和田藩主は岡部内膳正行隆。そして梅姫の相手は藩主の長男、美濃守宣就である。岸和田藩には、先代美濃守宣勝が健在であった。宣勝は岡部家岸和田藩祖で、三代将軍家光にその才覚を認められ、紀伊徳川頼宣に睨(にら)みを利かせる為、岸和田に移封されたという話も有る。この宣勝ですら、忠興よりも五つ年下で、既(すで)に隠居の身であった。
忠興も、再び隠居を考える歳であった。十二月二十二日、久米与兵衛、久米八右衛門に命じて、領民の吉利支丹(きりしたん)、及び人別改(にんべつあらため)を行わせた。人別改とは即(すなわ)ち、戸籍調査である。先代政長と共に、奥州に入部したのが四十五年前。そして政長より磐城平藩七万石を相続したのが、三十三年前である。自分の代で藩の人口をどれだけ増やせたか。それは即(すなわ)ち、藩をどれだけ豊かにしたかを量る、一つの物差しとなる。
十二月二十八日、勅使が江戸へ下向し、忠興も登城に及んだ。この日、忠興は従四位下に叙せられた。通常、七万石の譜代大名なれば、従五位下が相当である。しかし先代政長は、二代将軍台徳院殿薨去(こうきょ)の年、三代将軍家光の武威を示すべく、肥後七十三万石加藤忠広の所領に乗り込み、無事に改易処分を完了させた事で、従四位下に叙せられた。忠興もまた、奥州外様大名の抑えとして、久しく奥州四郡を治め、また二度の大坂城代拝命に因(よ)り、西国大名の抑えも務めた。その功績に報いる為の、幕府からの恩賞であった。
一つの逸話が有る。忠興に位階昇進が伝えられた時、家臣より具申が有った。
「折角(せっかく)の機会にござりますれば、受領(ずりょう)名も頂戴(ちょうだい)なされませ。」
忠興は冷笑して答える。
「加賀の寸壌尺地も持たぬ加賀守(かがのかみ)有り。また、未(いま)だ出羽の山河を見た事も無き出羽守(でわのかみ)有り。余はこれを嘲笑して参った。今、強(し)いて受領名を望むのであれば、磐城守(いわきのかみ)とでも申すか?」
勿論(もちろん)、磐城守という官職は無い。忠興という人物は、有職故実(ゆうそくこじつ)の物には関心が無く、頓(ひたすら)に実を求めた。
この年は、忠興が勇退する為に、多くの事を成して来た。その内の一つに、忠興は家臣が武士の本分を忘れる事の無き様(よう)、馬の飼育を命じている。軍使以上には飼料三百五十石、以下には金子を与えた。忠興は最後に、家臣達に恩を売ると共に訓戒し、よく義概を支える様(よう)に望んだのであろう。
*
寛文八年(1668)一月二十六日、忠興は旧臘(ろう)の位階昇進の御礼に登城し、太刀目録と馬代の金を献上した。次に登城するのは、六月に義概が戻った後、隠居願いを申し出る時であろうと、忠興は考えつつ藩邸に戻った。
しかし二月一日、虎ノ門近くで火災が起り、火は磐城平藩上屋敷に迫(せま)った。忠興は番頭に命じ、六本木下屋敷への非難を命じた。女子供に家財を優先して逃がし、江戸番の兵は火消しに努めるも、火の手は大きく成す術(すべ)を失い、遂(つい)には虎ノ門から撤退した。十一年前の明暦の大火の時と同じく、再び虎ノ門上屋敷は焼け落ちた。
悲劇は、それで終りではなかった。六本木下屋敷は寛永六年(1629)、先代政長が大猷院より賜った物である。当時は将軍が鷹狩をしていた、長閑(のどか)な所であったが、明暦の大火後は、この辺りにまで江戸の町が拡大して来た。
二月四日、今度は六本木にも火の手が及び、磐城平藩士は必死の消火を行った。下屋敷は明暦の大火で被害が及ばず、あの時は手狭(てぜま)となった物の、藩士家族を避難収容できた。しかしこの下屋敷も、遂(つい)には焼失してしまった。
二月上旬は春といえども、まだ寒い日が残る。忠興は馬廻(うままわり)の一隊を率(ひき)いて、南へ走った。三田には、分家の泉藩邸が在った。
泉藩二代目当主の金一郎は、既(すで)に二十四歳となっていた。元服も済ませ、従五位下内藤右近大夫政親と名乗り、忠興の後見を離れている。
三田の藩邸で、忠興は政親に面会を求めた。本家当主の来訪に、泉藩士は客間へ案内しようとしたが、忠興は火急の用と告げて、入口に留まった。程無く、政親が駆け付けて来た。
「伯父上、その御姿は?」
「虎ノ門も、六本木も、共に焼失してしもうた。磐城平藩士には、今や雨露(つゆ)を凌(しの)ぐ所無し。願わくば貴藩邸の一室を、当家に御貸し願いたい。」
忠興は、磐城平藩士を代表して、頭を下げた。慌(あわ)てて、政親がその手を取る。
「伯父上、御止(や)め下され。」
政親は向き直り、泉藩士に申し渡す。
「御本家は、当家立藩の恩人である。皆は急ぎ、御本家支援の持場を決めよ。」
家臣達は急ぎ、大所帯収容の仕度に取り掛かった。
「伯父上、先ずは御家中の方々をここへ。」
「忝(かたじけな)い。」
忠興は踵(きびす)を返して、六本木方面へ戻って行った。
馬上で、忠興は政親の成長を嬉しく思っていた。四弟政晴の死後、生後間も無い赤児(あかご)を二代藩主に据(す)えるべく、幕閣に働き掛けて骨を折った。しかし今、江戸藩邸を悉(ことごと)く失ってみると、分家を存続させた意義が解(わか)る。亡父政長は、下手(へた)に石高を増やして席次を上げ、他の大名に妬(ねた)まれない様(よう)にと説明して、泉藩を分家させたが、別の方向で先見の明が有った様(よう)である。また政長は、組頭内藤英貞の父、即(すなわ)ち忠興の三弟政重も立藩させる積りであったが、政長より先に儚(はかな)くなってしまった。この火災を受けて忠興は、もう一つ分家が必要であると、確信する様になった。
六本木を焼き出された藩士達は、三田の泉藩邸に避難した。泉藩士も出動し、誘導の他に、荷駄の運搬も手伝ってくれた。しかし、忠興には払拭(ふっしょく)できない心配が、一つ有った。母桜吟院は高齢で体も衰(おとろ)え、度々(たびたび)の避難で疲れ切っている。政重が立藩していれば、血の繋(つな)がった当主に任せられるのだが、泉藩は桜吟院の子孫ではない。
泉藩邸に移った後、忠興は三田を拠点にして、虎ノ門、六本木両藩邸の再建に取り掛かった。加えて、藩士で江戸に屋敷を持つ者には、当面の間、他の藩士も仮住(かりずま)いさせる様に命じた。
三月十五日、江戸藩邸の火災に因(よ)り藩財政は逼迫(ひっぱく)し、忠興は倹約令を出した。内容は、衣類は絹紬(けんちゅう)木綿(もめん)を着用し、熨斗(のし)目の小袖に七夕八朔の白帷子(かたびら)を用いぬ事。足軽、若党の衣類を木綿に限る。訳(わけ)有って、持て成す時は、組頭用人に断った上で、一汁三菜と香の物、酒三献と軽い肴(さかな)一種にする事。不時の寄合が有った時には、一汁一菜にし、高価な魚や鳥は用いず、濃茶を飲んでは成らない。家屋を建てるに当たっては、分限に応じて質素に造る事。祝言の場合、蒔絵(まきえ)の手道具や縫箔(ぬいはく)の小袖を新調しては成らず、御祝儀や御返しは、樽肴一種、或(ある)いは樽代百足を超えては成らない。音信や贈答の一切を禁ずる。正月鏡餅、五節句の樽肴、破魔弓、羽子板、甲雛は、親類の間でも贈っては成らない。葬礼は野辺で行わず、檀那寺(だんなでら)客殿で執り行う事。その折、親類の他は寺に入るべからず。以上の禁制が、藩士に通達された。
十一年前の明暦の大火以来、幕府は多額の出費を伴いつつ、江戸の町を再建して来た。故(ゆえ)に、徳川三代が蓄えて来た莫大な金も、四代家綱の頃から枯渇(こかつ)し始めた。そしてこの年、幕府も倹約令を出した。大火の前は豪華絢爛(けんらん)な大名屋敷が並んでいたが、以後は質素な物に造り替えて行った。
倹約令から六日後の三月二十一日、泉藩邸に避難していた忠興の母は、高齢に加えて避難生活で体が弱り果て、掠(かす)れた声で忠興を呼んだ。母が重篤と聞いて駆け付けた忠興は、枕許(まくらもと)に膝(ひざ)を突き、母の手を取る。
「母上、忠興が参りました。」
「おお、忠興殿。最期に一つ、頼みがござりまする。」
忠興の、母の手を掴(つか)む両手に、力が入る。
「弱気な事を仰(おお)せられずに、何なりと御申し付け下さりませ。」
「もし妾(わらわ)が死ねば、何処(いずこ)へ葬(ほうむ)る?」
「その時は勿論(もちろん)、父上の正室として、国許(もと)の善昌寺へ。」
「西久保の、天徳寺にしてはくれまいか?」
「何を仰(おお)せられまする。母上は藩祖の妻にござりまするぞ。」
「忠興殿には、義概殿も政亮殿も居る。また政重にも、英貞殿が居る。しかし天徳寺に一人眠る政次は、妾(わらわ)の他に、供養してやる者が居らぬ。妾(わらわ)が天徳寺に入れば、義概殿の子孫も、政次を忘れずに弔(とむら)い続けるであろう。あそこは、虎ノ門から近い。御家中の倹約にもなりまする。」
「母上…」
「忠興殿、そなたがこの年まで当主を務められ、誠に嬉(うれ)しく思いまする。御蔭で、誰に気兼ねする事無く、長寿を全(まっと)うする事が叶(かな)いました。三人の兄弟では、そなたが一番の孝行者じゃ。」
それが、桜吟院の最期の言葉であった。七十年以上、数多(あまた)の人の死を見て来た忠興であったが、母の死に臨(のぞ)むは、格別の思いが有った。深く頭を下げ、忠興は人に涙を見せぬよう努めた。
忠興は母の遺言に従い、共に大坂の陣を戦った、次弟政次の眠る天徳寺に於(おい)て、母の葬儀を執り行った。三宅康貞の娘の法名は、桜吟院殿善覚峰栄春大姉。
藩主が生母の葬儀を質素に行った事で、家中倹約令の良き見本となった。しかし忠興は、母の為に何かしてやれる事が無いか、考える様(よう)になった。
桜吟院の死から一月(ひとつき)が経とうとする四月二十日、忠興は月命日に合わせて、思い切った命令を下した。寛文元年(1661)より磐城平藩では、家臣の俸禄百石につき、米三十五俵を名目上借り上げ、藩の税収に加えて来た。忠興は藩の米蔵を開き、七年間借り上げて来た米の半分を、金に替えて家臣に返したのである。藩の蓄えは無くなったが、持ち主が藩士に変わったに過ぎない。倹約令が有る限り、藩士も浪費ができず、有事への備えとする事ができる。こうして忠興は、家臣に母桜吟院の存在を有難く思わせる事で、最後の孝行を成した。
六月は、義概が江戸参勤に及ぶ予定であった。しかし、虎ノ門、六本木の両藩邸が再建されぬ内は、江戸番の藩士を増員させるのは難しい。忠興は幕府に事情を説明し、義概の参勤延期が認可された。
六月二十八日、義概三女梅姫が、和泉岸和田藩嗣子岡部宣就に輿(こし)入れを済ませ、忠興は登城して、幕府に御礼を申し上げた。
忠興は藩政の危機を受けて、当面の間、隠居は延期する事とした。そして八月二十三日に、人事を行った。二百五十石島田七郎兵衛を町奉行に任命し、寺社奉行三百五十石今村長左衛門には、百五十石猪狩新五郎の役目の責任者へ転任させた。
十月十一日、四年前に下された台命に従い、今度は義概次女ふじ姫が、但馬出石藩嗣子小出英安に嫁いで行った。他の娘は皆夭折(ようせつ)しているので、義概は最後に残った次女を見送る為、江戸に参勤した。これで義概が先妻との間に儲(もう)けた姫は二人共嫁ぎ、男子は十四歳の次男五郎七郎のみが残った。継室三条氏との間に、まだ子供はいなかった。
この年は二月から、火災に因(よ)り不吉な始まりとなったが、一方で義概の姫二人が共に輿(こし)入れし、慶事も有った。そして収穫の秋が過ぎ、国許(もと)で一つの事件が起った。
菊多郡と磐前郡の境は、ほぼ藤原川を以(もっ)て成している。これは別称を玉川といい、野田の玉川は平安期、歌人の枕詞(まくらことば)にも用いられた。磐前郡野田村の東に、往古武内宿禰(たけのうちのすくね)が勧請(かんじょう)したという住吉大明神が鎮座し、住吉村には小名浜道と陸前浜街道を繋(つな)ぐ、脇道が通っていた。この住吉村は、数日雨が続くと藤原川が溢(あふ)れ出し、度々(たびたび)水害を齎(もたら)して来た。故(ゆえ)にほぼ毎年、稲は川の光に浸(つ)かって立腐(たちぐさ)れし、飢饉(ききん)が起る事頻繁(ひんぱん)であった。それでも、農民は年貢を課せられた。米が作れぬのであれば、金を納めなければ成らない。検分の役人も、人の心を持っていれば、同情せずにはいられない惨状であった。
嘗(かつ)て磐城平藩には、沢村勘兵衛という、治水に熟達した郡(こおり)奉行がいた。しかし讒訴(ざんそ)に因(よ)って職を追われ、その後は一藩士として小川江筋計画を推し進めたが、粗方(あらかた)成し遂げた頃に切腹を申し渡され、既(すで)にこの世を去っている。
沢村勘兵衛の後任者として郡奉行を仰(おお)せ付かったのは、数学者今村仁兵衛であった。仁兵衛は住吉村民の暮し向きを視察して唖然(あぜん)とするも、直(ただ)ちに救済の措置(そち)を取らねば成らなかった。しかし、民を苦しめる根源、藤原川の流れを御(ぎょ)するのは、不可能であった。
万策尽きた仁兵衛は、最後の手段として再検地を行った。この折に、縄延(なわの)べを使ったのである。詰(つま)り、農民が納めても、生活が成り立つ量まで年貢を減らすべく、田畑の面積を本来より少なく登録し直した。勿論(もちろん)、違法行為である。仁兵衛は郡奉行を十二年間務め、この間、住吉村民は生計を立て直す事ができた。
仁兵衛は河内国の出身で、数学者として名を上げ、その才覚を見込まれて、忠興に召し抱(かか)えられた。そして成果を上げ、奉行職を歴任する様になった。すると、戦国時代の三河武士以来仕え続けて来た譜代の藩士は、外様の学者が自分の上に立つのが、面白くない。仁兵衛を妬(ねた)む者は、その粗(あら)を探し求めた。
そして発覚したのが、住吉村の縄延べである。仁兵衛を快く思わぬ者は、住吉村の民一人を買収し、藩に密告させた。縄延べは、藩民を救済する措置とは言え、藩の石高を減らす事になる。即(すなわ)ち、内藤家の家格を下げる大罪である。重臣合議の結果、仁兵衛は申し開きの場すら与えられず、切腹どころか、磔刑(たっけい)に処される事と決まった。
十一月六日、仁兵衛は住吉村南方の三本松という、小高い丘へ連行された。重罪人が処刑されるというので、多くの人々が見物に訪れた。磔(はりつけ)の台に上がった仁兵衛が辺りを見渡すと、四方には荒田が広がっていた。最期に仁兵衛は、住吉村の民に幸(さち)有る事を願い、別れを告げた。そして従容(しょうよう)と目を閉じ、直後に刑が執行された。
住吉村の民の多くが、慟哭(どうこく)を始めた。大罪人の死を悲しむのも罪に問えるのだが、余りに多くの民が嘆き悲しむので、刑吏もこれを看過したという。
以後、十一月六日は義人の命日として、仁兵衛に助けられた民は田仕事を休み、仁兵衛の霊を祀(まつ)ったと言われる。
仁兵衛の足跡を見ると、磐前郡豊間村諏訪大明神の棟札(むなふだ)に、その名が記されている。また楢葉郡木戸川上流に在る川内村内の堰(せき)は、仁兵衛の尽力に因(よ)る物で、村民は今村堰と呼んでいたと伝わる。水害を防ぐ堤の役目を果す上に、百二十町歩の灌漑(かんがい)にも用いられた。鎮守の社(やしろ)には、仁兵衛が幣帛(へいはく)を奉納したという。仁兵衛の享年は明らかでなく、四十二とも五十ともいう。
沢村勘兵衛は、先代政長から仕え、素姓(すじょう)も戦国時代にその名を轟(とどろ)かせた、九鬼水軍の出身である。訴人が何とか死罪にと望んだ上でも、武士の尊厳を保つ切腹が申し渡される程度に、最も重い罪にはならなかった。しかし今村仁兵衛は、忠興が幕府勘定方の推挙で家臣に加えた者で、他の家臣から、軽視されていたのかも知れない。折悪く、この年は江戸藩邸の火災を受けて、倹約令が出された。藩主が倹約を命ずる中、奉行が違法に税を軽くしていた事は、多くの藩士に恨(うら)まれた事であろう。
忠興が藩主と成って、最初に郡奉行に登用したのが沢村勘兵衛、次が今村仁兵衛であった。共に民から義人と崇(あが)められ、奥州四郡の開拓に多大な功績を遺(のこ)すも、時は江戸時代。その生殺与奪の権限を有するのは、登用した藩主忠興ではなく、江戸参勤中の留守を預かる、国家老であった。
しかし、忠興も飾り物の藩主ではない。国許(もと)で事件が起ると、直(す)ぐに江戸藩邸に情報が入る様(よう)、人を配置していた。仁兵衛が処刑された事を報(しら)せる使者が到着した時、藩邸は慶事に沸(わ)いていた、義概の継室三条氏が、懐妊したのである。めでたく男子を上げれば、内藤家に左大臣の外孫が誕生する事となる。
使者が到着すると、忠興は人払いして報告を聞き、犒(ねぎら)いの言葉を掛けて下がらせた。続いて忠興は、義概を居間に召し出した。国許(もと)から使者が到着し、直後に御召(おめし)が有るは、国許で事件が起った証(あかし)であると、義概は察する様になっていた。座礼をとり、父の居間へ入った義概は、忠興に尋ねる。
「また国許で、事件が出来(しゅったい)したのでござりまするか?」
「うむ。寺社奉行今村仁兵衛が縄延(なわの)べを致し、処刑された。」
これには、流石(さすが)に義概も驚いた。
「二十年近くも奉行を務めし者を、国家老が藩主の認可も得ずに、殺害したのでござりまするか?」
「尋常ならざる物言いだが、まあそういう事じゃ。」
「父上が重用せし家臣を無断で処刑致すは、藩主を侮(あなど)る所業にござりまする。これは、見過ごせぬ仕儀と存じまするが。」
忠興は、溜息を吐(つ)いた。
「そちの思慮は、浅い。」
「はっ?」
「仁兵衛が法度を破りしは、藩民を救済する為じゃ。民を救うか、法を守るか、二つに一つ。そちなら、どちらを選ぶ?」
「民無くして、国は成り立ちませぬ。」
「では、御公儀より普請(ふしん)を命ぜられ、藩民より重税を取る必要に迫(せま)られれば、如何(いかん)とする?御公儀に対し、藩民の為と断(ことわ)るのか?」
「それは…」
「国許(もと)の重臣達は、藩主の名に傷が付かぬ様(よう)、自ら手を汚してくれた。そうとは申せぬか?」
「言われて見れば、その通りかと。」
忠興は扇子(せんす)を手に取り、首筋をトントンと叩(たた)く。
「今のは、国家老の申し分じゃ。丸め込まれてどうする。」
言葉に窮(きゅう)し、義概は頭を下げる。
「申し訳、ござりませぬ。」
「しかし、最初に民を選んだは、誉(ほ)めて遣(つか)わす。民の心を得られねば、戦(いくさ)に勝てぬ。武士の役割は、そこに在る。」
「では、仁兵衛の件は?」
「家臣に侮(あなど)られず、また民にも恨(うら)まれず。この二つを両立できるのであれば、そちを帰国させても良い。」
「必ずや、藩主の威厳を保ち、また民情を探(さぐ)って参りまする。」
「しかし、そちの妻は身重(みおも)ぞ。側に居てやらずとも、良いのか?」
「藩が、第一にござりまする。」
忠興は進み出て、息子の肩を掴(つか)んだ。
「善(よ)くぞ申した。しかし、呉々(くれぐれ)も家臣達との間に、要らぬ溝を作るでないぞ。」
「心得ました。」
「妻子は、私(わし)に任せよ。」
斯(か)くして忠興は、再び嫡子義概の帰国を、幕府に願い出た。
義概は継室三条氏の居間を訪れ、帰国の件を話した。
「近日、儂(わし)は帰国致す。江戸へ戻るは、来年の夏頃であろう。そなたは左大臣家の姫なれば、父上も母上も、無事の出産を願って居られる。来年は、子の顔を見せてくれ。」
「はい。殿も道中御無事で。」
三条氏は公家出身のせいか、体が余り丈夫ではなかった。それが義概に取って、唯一の気掛りであった。そして数日後、幕府より帰国の許可が下り、義概は虎ノ門藩邸を発って行った。
この年、楢葉郡井出村立石、同郡下桶売村萩の両新田が拓(ひら)かれた。以後、忠興が在世の間は、毎年新田開発の報告が成される様(よう)になる。当時の郡奉行が優秀であったと言えるが、その基礎を築いたのは、今村仁兵衛であろう。
*
寛文九年(1669)、新年祝賀の儀も恙(つつが)無く終り、やがて季節が春から夏へ移ろう頃、虎ノ門藩邸で産声(うぶごえ)が上がった。四月二十四日、義概の妻三条氏は、男子を出産した。
忠興は朗報を受けて立ち上がった物の、男子禁制の産屋(うぶや)へ行く訳にも行かず、居間の中をうろうろしていた。側に居た香具姫は、その姿がおかしくて笑う。
「殿、初孫ではござりませぬ。」
「義概に、三男が生まれたのだぞ。義邦は既(すで)に儚(はかの)うなって居る故(ゆえ)、実質は第二子じゃ。母子共に、健(すこ)やかであってくれれば良いが。」
やがて、侍女が赤児(あかご)を抱いて、姿を現した。
「大殿様、若君にござりまする。」
「おお、これへ。」
忠興は侍女から孫を受け取ると、その顔を覗(のぞ)き込んだ。
「義概よりも、少し私(わし)に似て居らぬか?面相に、気品が有る。」
「まあ。」
香具姫は、平素無骨な夫の口から冗談(じょうだん)が出て、とても滑稽(こっけい)に感じられた。そして、夫に尋ねる。
「名は、何と致しましょう?」
「其(そ)は、既(すで)に考えてある。当家の家紋下がり藤から取って、藤丸じゃ。」
「良い名ですこと。」
藤丸を香具姫に預けた後、忠興は侍女に告げる。
「三条氏には、良くやったと伝えてくれ。」
「それが…」
「どうした?まさか 難産であったのか?」
「姫様は、御体が弱うござりました。加えて初産にて、体力の消耗著(いちじる)しく、意識を失われたままにござりまする。」
「典医は、何と申して居る?」
「先(ま)ずは体力を回復させねば成りませぬ故(ゆえ)、少なくとも数日は、御休みに成られた方が良いと。」
「そうか。犒(ねぎら)いの言葉は、姫の体が回復した後に致そう。大儀であった。」
侍女は頭を下げると、香具姫より藤丸を受け取り、その場を辞して行った。
「大事無ければ良いが。」
「本当に。」
男子誕生の喜びも、三条氏が体を壊した事で、一気に吹き飛んでしまった。
その後、三条氏は意識を取り戻しはした物の、体は衰弱したままで、床(とこ)上げをする事はできなかった。そして五月下旬、義概は江戸参勤に戻って来た。
虎ノ門藩邸に到着した義概は、先ず父母から妻の様子を聞いた上で、妻の寝室を訪れた。
「若殿様、御到着にござりまする。」
侍女の声を聞くも、三条氏は入口の方へ、顔を向ける事しかできなかった。程無く入室して来た義概は、真っ先に妻の手を取った。
「此度(こたび)は、よくぞ男子を産んでくれた。そして子を導くは、母親の大切な役割ぞ。そなたには、早う良くなって貰(もら)わねば。」
「申し訳、ござりませぬ。」
「男子を挙げた褒美じゃ。幾(いく)らでも休むが良い。早く治す事が先決ぞ。」
「有難うござりまする。」
義概は頷(うなず)くと、側に控える乳母(うば)が抱く赤児(あかご)に、目を移した。それを受け、乳母は赤児を差し出す。
「藤丸様にござりまする。」
義概は藤丸を受け取ると、その目を見詰める。
「そちは、左大臣の孫ぞ。将来、如何(いか)なる人物に育ってくれようか?」
父が子をあやす姿は、微笑(ほほえ)ましかった。加えて三条氏は、夫が江戸へ戻って来てくれて、大いに安心する事ができた。
二十八日、義概は登城し、江戸参勤を幕府に届け出ると共に、時服五着を献上した。下城後、義概は藩邸に戻ると、人払いの上で父忠興に、国許(もと)の様子を伝えた。今村仁兵衛の死後も、百姓に動乱の兆(きざ)しが無かった事は、一先ず安心できると言える。しかし義概が危惧(きぐ)したのは、家臣団の力関係に、不均衡が生じている事であった。
内藤家は代々、上田、安藤の両家が家老職を世襲して来た。忠興は家臣を三組に分け、それぞれ上田内膳信秋、安藤清右衛門定勝、そして従弟(いとこ)の宿屋求馬利長に、家臣を統制させた。しかし俸禄を見ると、上田内膳は上田家惣領として、二千石を有している。安藤家は、先代政長の時に惣領志摩が二千石を有していたが、志摩と分家の定勝が、忠興を見限って出奔した。定勝の父定久が久しく忠興の家老を務めたので、出戻った定勝は、家老職に就(つ)けたが、安藤家の扶持(ふち)は分家時代とほぼ変わらぬ、七百石に止(とど)まっていた。宿屋求馬は組頭に過ぎず、五百石である。内藤家家臣の扶持を見ると、第二が安藤清右衛門なので、筆頭の上田内膳と比べると、三分の一程度に過ぎない。
加えて、内膳の後任には、既(すで)に五百石取りである上田主計(かずえ)信利が内定している。一方で安藤清右衛門は隠居を申し出るも、忠興はそれを受理できずにいた。大坂の陣を共に戦い、菊多二万石時代には筆頭重臣を務めてくれた先代清右衛門定久が、隠居の時に孫の伊勢之丞の事を頼んでいた。本来なれば伊勢之丞に七百石を相続させ、安藤家の惣領とするべき所であるが、それでは今のままで、上田家の独走を抑えられない。
思案の末に忠興は、甥(おい)の内藤治部左衛門英貞と、寛永年間に家老を輩出した加藤又左衛門、この両名を用いて、家臣団の再編成を検討した。
八月下旬、義概の妻三条氏は産後に体調を崩したまま、久しく病床に在ったが、回復の兆(きざ)しが無い所か、益々(ますます)悪くなっていた。義概は政務の間を見ては、看病に訪れていたが、ある時三条氏が、か細い声で義概を呼んだ。義概は三条氏を見詰め、優しく尋ねる。
「如何(いかが)した?何でも申してみよ。」
三条氏は苦しみに顔を歪(ゆが)めながら、掠(かす)れた声を出す。
「藤丸を、宜しく頼みまする。」
義概は頷(うなず)く。
「勿論(もちろん)じゃ。三条家所縁(ゆかり)の武士として、必ずや大名にしてやる積(つも)りぞ。」
しかし、三条氏は返事をしない。様子がおかしいと感じた義概は、急ぎ典医を呼び寄せた。
八月二十九日、三条氏は一歳の藤丸を残して、身罷(みまか)った。義概は父母に、継室三条氏の死去を報告した。その折、義概は忠興に尋ねる。
「昨年、父上は御ばば様を、西久保の天徳寺に葬(ほうむ)られました。では我が妻は、何処(いずこ)の寺を墓所と致しましょう?」
「母上の墓所を天徳寺と致したは、遺言有っての事じゃ。そちの妻は左大臣の姫君故(ゆえ)、国許(もと)の善昌寺に葬(ほうむ)るが良かろう。」
義概は、疑問を抱いた。それに気付いた忠興は、義概に尋ねる。
「不服か?」
「いえ。ただ、善昌寺は内藤家当主の菩提所。されば、某(それがし)の跡継ぎは、藤丸と御決めにござりましょうか?」
「善昌寺を選んだ理由は、三条氏がそちの妻であり、かつ左大臣家の姫君故(ゆえ)のみである。跡目の事は、今は何とも申せず。人の寿命は、量(はか)り難(がた)し。」
「某(それがし)が、父上に先立つ可能性もござりまする。されば三条氏は、当主の妻とは成り申さず。」
忠興は肘(ひじ)掛けに凭(もた)れあがら、義概に尋ねる。
「そちは幾(いく)つになった?」
「五十一にござりまする。」
「私(わし)は七十八じゃ。頃合じゃな。」
「はっ?」
「来年、私(わし)は隠居致す。そちは要らぬ心配をせずに、善昌寺へ行って参れ。」
義概は返答に困りながらも、取り敢(あ)えず妻の喪主を承(うけたまわ)った。斯(か)くして義概は、妻の遺骨を善昌寺に納めるべく、帰国して行った。三条実秀の娘の法名は、廓法院殿然誉秋悟円性大禅尼。
四年前は、唐突に隠居話を持ち出し、叶(かな)わなかった。因(よ)って此度(こたび)は、義概も含めた家中合議の上、隠居願いを提出しようと、忠興は考えた。
この頃、江戸と京では枡(ます)の容積が異なり、交易をする上で大きな支障となっていた。そこで幕府は、京枡を以(もっ)て統一する事とし、諸藩へ通達した。これを受けて十二月、磐城枡も京枡と同じ大きさに改める事となった。
この年、楢葉郡上川内村粉原に新田が拓(ひら)かれた。また、磐城郡上小川村民の請願を受け、同郡鎌田村太慶寺を引く事となった。
*
寛文十年(1670)、義概の江戸参勤を待ってから、忠興は家臣に対して正式に、今年中に家督を長男義概に譲る旨(むね)、通達した。忠興が藩主を相続した寛永十一年(1634)から三十六年、また忠興が一万石に取り立てられた慶長二十年(1615)から実に五十五年、忠興は大名として、家臣達を統率して来た。今となっては、先代政長を知る者も少なくなっている。多くの者が初めて経験する藩主の交代に、家中は動揺の色を隠せなかった。
六月十八日、義概は父忠興に覚書(おぼえがき)を認(したた)めた。内容は、弟遠山政亮に新田一万石を与えて立藩させるよりも、古田六千九百二十九石六斗三升一合に、新田三千七十石六斗三升一合を併(あわ)せ、纏(まと)まった所領一万石を与えた方が良い事。老中に届け出た村名が一致すれば問題は無く、飛地が多くては、人馬の往来に難儀が生ずるであろう事。
分家とは言え他藩となる以上、義概としても度々(たびたび)領内を通行されては、備えに支障を来(きた)す事を危惧(きぐ)したのであろう。
八月二十三日、忠興は藩主として最後を飾るべく、鳥居忠政の時代より藩民に課せられて来た、小物成や諸役十六種を、税の対象から外した。幕府にも隠居願いを提出し、後は許可が下りるのを待つばかりとなった。
十一月六日、神尾若狭守が将軍家の使者として、虎ノ門上屋敷へ遣(つか)わされて来た。忠興は遂(つい)に隠居が認められたと思ったが、若狭守の用向きは、御鷹の雁を下賜する事であった。
客間に若狭守を迎え、下座に控える忠興は、御礼を申し上げる中で、一言申し添えた。
「これが、上様より頂く、最後の鷹狩の獲物となりますれば、有難く頂戴(ちょうだい)仕(つかまつ)りまする。」
若狭守は忠興に尋ねる。
「御見受けしたところ、帯刀殿はまだまだ御壮健の由(よし)。隠居は少々早いのではござりますまいか?上様も、東照神君の頃より仕(つか)えし忠臣が去られる事を、甚(いた)く惜しまれて在(おわ)され申す。」
将軍使者の目的は、忠興の慰留であった。
「有難き御言葉とは存じまするが、某(それがし)の目の黒い内に、愚息に藩主の責務を担(にな)わせ、鍛えて置かねば成りませぬ。」
「然様(さよう)にござるか。」
若狭守は忠興の真意を確認した上で、役目を熟(こな)し、城へ引き揚げて行った。
愈々(いよいよ)隠居が認められる運びと成ると、忠興は長男義概の相続と同時に、三男遠山政亮に一万石を分与し、立藩させる話を詰め始めた。内藤家から見れば、二年前の様に、再び虎ノ門、六本木両藩邸を失った場合、同腹の弟政亮に、援助を要請できる。また幕府に取っても、役目を課せる藩が増える事は、結構な事であった。
十二月三日、遂(つい)に幕府の使者が、虎ノ門上屋敷に遣(つか)わされて来た。客間では忠興を先頭に、嫡男義概、三男遠山政亮、首席家老上田主計らが控える。上座に立った使者は、幕府の意向を記した書翰(しょかん)を読み上げた。内容は、忠興の隠居を許し、磐城平藩七万石を嫡男義概に相続せしむる事。また忠興の治世に拓(ひら)かれた新田一万石を、三男遠山政亮に分与し、立藩を認める通達であった。忠興以下内藤家の者達は、平伏して承(うけたまわ)った。
数日後、忠興は信濃松代藩主真田信房を伴い、江戸城本丸に登った。忠興は、信房が二歳の頃から後見を務めて来た。そして信房は今、十四歳に成長していた。忠興が七十九歳まで隠居を認められなかった理由の一つは、松代藩後見人を務めていたからであろう。
将軍謁見の間で、忠興と信房は並んで座し、老中臨席の下、家綱の到着を待った。当時の老中の顔触れは、 首座が相模小田原藩九万五千石稲葉美濃守正則、下総関宿藩五万石久世大和守広之、常陸土浦藩四万五千石土屋但馬守数直、三河中島藩一万五千石板倉内膳正重矩(しげのり)の四人体制である。特に板倉重矩は、父重昌が寛永十四年(1637)に勃発した島原の乱で敗死し、加えて低い石高でありながら、京都所司代等を歴任して来た苦労人である。この四老中を纏(まと)める大老は、上野厩橋(まやばし)藩十万石酒井雅楽頭忠清と、近江彦根三十万石井伊掃部頭直澄の二名である。井伊家は先代の直孝以来、長幼の序よりも人物で、世嗣(せいし)を決める家風が有った。直孝も直澄も、長男ではない。それは徳川譜代の中でも抜きん出て多い、三十万石という所領を、京の近くで任される責任に係っているのかも知れない。将軍の叔父、陸奥会津藩の保科正之は、昨年家督を三男正経に譲り、既(すで)に隠居していた。
将軍の御成(おなり)が告げられると、諸臣は挙(こぞ)って平伏する。程無く家綱が現れ、上段に腰を下ろす。
「大儀である。面(おもて)を上げよ。」
忠興と信房は礼から直り、姿勢を正す。先ず忠興から、家綱に挨拶を申し上げる。
「過日は隠居をお許し頂き、御礼(おんれい)申し上げまする。」
「うむ。帯刀には久しく苦労を掛けた。これからは、緩(ゆる)りと余生を送るが良かろう。」
「有難き御言葉。しかし隠居の前に一つ、やり残した事がござり申した。」
「ほう、何じゃ?」
忠興の眴(めくば)せを合図に、稲葉正則が言上する。
「某(それがし)より、申し上げまする。帯刀殿が隠居されるに当たり、信州松代藩真田家はその後見を離れ、藩主伊豆守信房殿自(みずか)らの、藩政の取り仕切りを御認め下さりまする様(よう)。」
家綱は、忠興の横に座る信房に、視線を移した。
「伊豆守か。将来が楽しみな官職じゃな。」
家綱に取って伊豆守と言えば、幼少の頃を支えてくれた、松平信綱である。
「信房殿は、幾(いく)つになられた?」
「十四にござりまする。」
「そうか。余が将軍家を継いだは、十一の時であった。そろそろ、後見を離れても良いであろう。」
「有難き幸せ。」
忠興と信房は、揃(そろ)って頭を下げた。
続いて、忠興は一つ提案をした。
「畏(おそ)れながら、信房殿が正真正銘の松代藩主と成るに当たり、新しき名を頂戴(ちょうだい)できればと存じまする。」
家綱は、忠興に問い返す。
「余以上に、帯刀の方が信房殿を存じて居ろう。伊豆守の門出(かどで)に相応(ふさわ)しき名を、疾(と)うに秘めて居るのではないか?申して見よ。」
「はっ。真田家の祖、幸隆殿の一字を取り、幸道(ゆきみち)は如何(いかが)にござりましょう?」
幸の字は、関ヶ原の戦(いくさ)に駆け付ける筈(はず)であった徳川秀忠軍を、上田城に足留めさせた、真田昌幸に通じるとして、父と袂(たもと)を分った長男信之が、捨てた字であった。信之以来、真田家は信の一字を用いて来たが、最初に用いたのは、長篠の合戦で討死した昌幸の兄、信綱である。久世広之が、首を捻(ひね)った。
「東照大権現様に逆らった者の名を用いるは、如何(いかが)な物かと。」
忠興は説明する。
「実を申せば、同族の沼田藩に、危(あや)うき兆候有り。」
沼田藩は、松代藩祖信之の長男、信吉を藩祖とする。信吉は側室の子であった為、正室の子である弟の信政が、松代藩を相続した。しかし信政の死後、庶子に生まれた信房が三代藩主となった事で、嫡子相続でないならば、沼田藩こそが本家であると、藩主信利は主張した。
「沼田城を松代城に劣らぬ物に築き直したり、また領内検地をやり直し、松代藩より多い石高に水増ししたり。」
沼田藩が一外様大名であれば、騒動が起った後に取り潰(つぶ)せば良い。しかし真田信利は、大老酒井忠清と昵懇(じっこん)である。老中も、不用意に手を出す事はできない。
「そこで沼田藩には、藩祖信之殿以来の御家の嫡流である事を認め、面目を立たせまする。しかし松代藩の立場が失われぬ様(よう)、戦国時代に真田家を立てた、幸隆殿の名を頂き申す。」
「妙案じゃ。」
先ず、土屋数直が賛同した。他の老中も同意し、板倉重矩が家綱に言上する。
「老中としましては、帯刀殿の申し分、御尤(もっと)もと存じまする。」
それを受けて、家綱は頷(うなず)いた。
「うむ。では真田伊豆守に、幸道の名を与える。」
「有難き幸せと、存じ奉(たてまつ)りまする。」
信房改め真田幸道は、将軍に御礼を申し上げた。
人の真意は量り難し。忠興が幼き頃に武名を轟(とどろ)かせた真田昌幸。そして武田家当主は忠興の娘婿(むこ)信正であるが、武田家嫡流の名跡を残したのは、その父信道である。真田昌幸も、武田信道も、徳川家に処罰された者である。しかしこの時代は未(いま)だ、戦国時代の気風が幾(いく)らか残っていた。忠興は幸道に、武将としての器量が備わる事を願い、この名を選んだのかも知れない。
ともかく、忠興の隠居と同時に、松代藩真田家は独立する事となった。久しく松代藩との橋渡しを務めていた、真田幸道の義兄遠山政亮は、立藩する為に松代藩邸から、虎ノ門上屋敷へ引き揚げた。
忠興が松代藩真田家の後見の任を終らせていた頃、十二月三日付(づけ)で磐城平藩主と成った義概は、新体制の人事を行っていた。筆頭家老は先代と同じく上田主計(かずえ)を用い、二千石を任せた。一方で、先代の上田外記は七百石となって、家老職を退(しりぞ)いた。そして上田家と双璧を成して来た安藤家は、前(さき)の家老清右衛門が嘗(かつ)て出奔(しゅっぽん)に及んだ咎(とが)を考慮し、惣領七百石の地位は、分家の安藤平八に相続させた。また、安藤平八を上田組に編入させ、三河以来の旧勢力を、ここへ押し込めた。強大な上田家が独走せぬ様(よう)、一族も登用した。忠興の従弟(いとこ)である宿屋求馬五百石は留任させ、加えて義概の従弟(いとこ)である、内藤治部左衛門英貞にも、一組を任せた。英貞には同族で五百石の正木新五左衛門の他、安藤清右衛門の嫡男、伊勢之丞に百五十石を与え、麾下(きか)に加えた。寛永年間に家老を輩出し、藩祖政長の代には、家中第三位の石高を誇った加藤又左衛門五百石にも、同じく一組を任せた。しかし、家中を最も驚かせた人事は、小姓頭三百五十石松賀族(やから)之助概純(むねずみ)を、一千石次席家老兼組頭に昇進させた事である。
義概は家中を、上田主計、松賀族之助、内藤治部左衛門、宿屋求馬、加藤又左衛門の五組に分割した。そして自身に次ぐ力を持つ家老、上田主計を牽制(けんせい)する為に、松賀族之助を登用したのである。忠興が奉行に登用した今村長左衛門三百五十石は、族之助の組に編入された。
新人事を受けて、忠興は上田主計、松賀族之助両家老を召し出し、新藩主義概に忠義を尽す様(よう)、訓辞した。最後に忠興は、一つ釘(くぎ)を刺して置いた。
「族之助。」
「はっ。」
「当家には、そちよりも家格が高く、多くの功績を挙げた家臣が多々居る。それを押し退(の)けて出世した以上、多くの者に妬(ねた)まれるであろう。ゆめゆめ増長など致し、家中の不和を招く事の無き様(よう)。」
「仰(おお)せの儀、確(しか)と肝に銘じましてござりまする。」
忠興は家老達を下がらせた後、独(ひと)り溜息を吐(つ)いた。次席家老は、順当であれば安藤伊勢之丞、もしくは久しく組頭を務めた、宿屋求馬かと思っていた。所が、義概は寵臣松賀族之助を抜擢(ばってき)した。これに因(よ)って、家中に新しき風が入るか、将又(はたまた)波瀾を呼び込むか、予測がつかなかった。隠居して気が楽になるかと思ったが、そうでもない様(よう)である。
十二月十八日、忠興は長男義概、三男政亮、孫五郎七郎、更(さら)には上田主計、松賀族之助両家老と共に登城した。そして将軍家綱に、隠居御礼として太刀、馬代の銀、小袖五着、国光の太刀の代金二十五枚、御葉茶壺を献上した。義概は家督御礼として、太刀目録、黄金二十枚、小袖五着を献上した。
続いて遠山政亮が進み出て、分地の御礼として、太刀目録、黄金五枚、小袖三着を献上した。家綱は献上品を前にして、政亮に尋ねる。
「政亮の位官は?」
「畏(おそ)れながら一藩士にござりますれば、主殿頭(とのものかみ)と称すれども、無位無官にござりまする。」
「大名に成るのであれば、それは不都合じゃ。」
脇から、老中稲葉正則が言上する。
「遠山政亮殿、並びに左京大夫殿の御嫡男五郎七郎殿、近日中に勅使の下向が有り、叙任される運びにござりまする。」
「おお、それは良かった。」
家綱は頷(うなず)き、視線を政亮に移す。
「所で、新たな藩の名称は何と申す?」
「陸奥国磐前郡湯本村に陣屋を置き、湯本藩と致す所存にござりまする。」
「湯本とは、温泉が出るのか?」
「御意(ぎょい)にござりまする。」
「余も、浸(つ)かってみたいのう。」
忠興が苦笑して、脇から口を出す。
「畏(おそ)れながら、湯本は平安の頃より続く古湯なれども、当家の入部以降は、専(もっぱ)ら負傷者の治療に用いて参り申した。上様に御越しなされては、誠に栄誉な事ではござりまするが、勿体(もったい)無くて以後、兵に用いさせる事ができませぬ。」
「そうか。磐城は関東守護の要衝じゃ。政亮、温泉を大事に致せ。」
「ははっ。」
政亮の次は、新たに磐城平藩世嗣(せいし)として届け出された五郎七郎で、これが初めての御目見えである。ぎこちない所作で、太刀、馬代の銀、小袖五着を献上した。家綱は五郎七郎に尋ねる。
「五郎七郎は、幾(いく)つになった?」
「十六にござりまする。」
「では、叙任と共に元服じゃな。確(しっか)りと、文武の道に励(はげ)む様(よう)。」
「畏(かしこ)まりました。」
最後に磐城平藩家老、上田主計と松賀族之助も、太刀と馬代の銀を献上した。また新藩主である義概と政亮は、御台所(みだいどころ)の他、近臣等にも献上品を用意した。
退室するに当たり、忠興は最後に一言、将軍に申し上げた。
「某(それがし)は台徳院殿様の将軍宣下に随行して元服し、東照大権現様の下で大坂の陣を戦い、大猷院様の御代(みよ)で家督を継ぎ、上様の代で隠居する運びとなり申した。徳川四代に仕える事が叶(かな)い、これに過ぐる喜びはござりませぬ。」
「うむ。そちの如き忠臣に恵まれたは、将軍家の幸いであった。体を労(いたわ)り、長生きをしてくれ。」
「永らく、御世話になり申した。」
それが主君に掛ける最後の言葉と覚悟して、忠興は頭を下げた。江戸城を去る時、怖らくはこれが見収めであろうと、万感の思いが込み上げて来た。廊下で擦(す)れ違う者達も、二度と会う事は無いであろうと、忠興は丁寧に辞儀をした。
虎ノ門上屋敷に戻り、隠居生活が始まった忠興であったが、一方で新藩主義概には、幕府若年寄の管轄である、江戸中定火消(じょうびけし)の役が与えられた。
年の瀬の十二月二十八日、勅使の下向が有り、湯本藩主遠山政亮に、従五位下主殿頭(とのものかみ)の位官が与えられた。また、磐城平藩世嗣(せいし)五郎七郎も元服し、義英の名が与えられて、同時に従五位下下野守に叙任した。
これにて、磐城平藩祖内藤政長が構想していた内藤三藩は、その子忠興の手に因(よ)り、磐城平藩七万石内藤義概、泉藩二万石内藤政親、湯本藩一万石遠山政亮という形で、成立するに至った。
忠興最後の治世であったこの年、藩内では楢葉郡大谷村黒石に、新田が拓(ひら)かれた。領内には未(いま)だ手付かずの地が残り、新田開発は義概の代に引き継がれる事となった。