第十四節 諸行無常

 寛文十一年(1671)一月七日、湯本藩主遠山政亮(まさすけ)と磐城平藩嗣子内藤義英(よしひで)が、昨年叙任の御礼に登城し、馬代の銀を将軍家綱に献上した。

 十日、紀伊五十五万石藩祖、徳川頼宣が薨去(こうきょ)した。これにて徳川御三家は、尾張光義、紀伊光貞、水戸光圀と、全て二代目となった。これで徳川家康の実子で健在なのは、六男の松平忠輝のみとなった。しかし忠輝は元和二年(1616)に改易されたまま、赦免される事は無かった。そして忠興孫娘の嫁ぎ先である、諏訪家に預けられたまま、信濃国諏訪高島城に幽閉されていた。

 隠居生活が始まった忠興であったが、思い掛けず、登城する機会が有った。長年の忠勤に報いるべく、将軍家綱より年始の贈物(おくりもの)が下されたので、二月二十八日に登城し、御礼として馬代の銀を献上した。

 三月二十七日、大老酒井忠清邸に於(おい)て、仙台藩伊達家奉行の原田甲斐宗輔が、伊達安芸宗重と柴田外記朝意を斬殺し、蜂屋六郎左衛門可広と共に討たれる事件が起った。

 万治三年(1660)に陸奥仙台六十二万石藩主であった伊達綱宗は、不行状を理由に、幕府より隠居処分を言い渡された。そして綱宗の子、幼少の伊達綱基が、四代藩主に就任した。綱宗隠居事件に介入した親族の、筑後柳川藩主立花忠茂は、奉行奥山大学常辰に、幼君綱基の補佐を任せようと考えていた。しかし奥山大学は、綱宗の叔父で一関(いちのせき)藩主伊達宗勝、綱宗の兄で岩沼藩主田村宗良らの後見人と、対立する様(よう)になる。結果、奥山大学は失脚し、伊達宗勝が仙台藩の実権を握る様(よう)になった。そして宗勝は、藩主を補佐する奉行よりも、強い権力を目付に与え、自身の思い通りに藩政を動かし始めたのである。これに加担し、宗勝の専横に与力したのが、奉行の原田甲斐であった。しかし、仙台藩役職の序列は乱れ、宗勝派と反宗勝派が対立する様になった。

 その後、涌谷伊達宗重と、登米伊達宗倫が、所領問題を起した。裁定を下したのは、目付の今村善太夫安長、横山弥次郎右衛門元時らである。結果、宗重に不利な藩の決定が成され、宗重は不満が残る物の、渋々承服した。しかし後(のち)に、目付が宗勝に近い宗倫を贔屓(ひいき)にしたと、宗重の耳に入った。宗重は、宗勝に協力して奥山大学を失脚させた過去が有り、裏切られたと感じたのであろう。反宗勝派の筆頭と成り、幕府に宗勝の無法を訴え出た。

 この寛文十一年(1671)一月二十五日、反宗勝派の奉行柴田外記が、先発して江戸へ向かった。三月七日、老中板倉重矩邸に於(おい)て、老中土屋数直も同席し、伊達宗重と柴田外記に対し、宗勝派奉行の原田甲斐を対決させる事となった。両派は共に、飽(あ)く迄(まで)藩士の諍(いさか)いであり、藩主綱基に咎(とが)が及ばぬ事を確認した上で、論戦を始めた。しかし柴田外記と原田甲斐の証言が食い違い、後日証人を加え、再度審議する運びとなった。

 そして三月二十七日、大老酒井忠清が乗り出し、場所を酒井邸へ移し、全老中に臨席させ、大目付も同席して、再び審問が始まった。その時、控えの間にいた原田甲斐が、突然伊達宗重を斬り殺した。そして老中が詰める間へ押し入り、査問を受けていた柴田外記に斬り付けた。柴田外記を守るべく、同じく仙台藩士の蜂屋六郎左衛門が応戦した。老中の前で斬り合うという非常事態に、酒井家の家臣は判別の付かぬまま、柴田と蜂屋、原田の三名に襲い掛かった。結果、伊達宗重と原田甲斐は即死、柴田外記はその日の内に死亡し、重体となった蜂屋六郎左衛門も、翌日に息絶えた。

 証人四名が死亡し、また大老邸、老中の前で斬り合いが起った事を重く見た幕府は、仙台藩重臣の多くを処罰した。特に、刃傷(にんじょう)沙汰を起した原田甲斐が支持した伊達宗勝は、一関藩改易という処分を受けた。しかし藩主の綱基は、十三歳という若年が考慮され、処分は免(まのが)れた。

 伊達宗重派からは事件後、聴取りが成されたが、宗勝派を代表する原田甲斐は死亡し、真相は闇(やみ)のままである。唯(ただ)言える事は、老中全員と大目付を前に下手な証言をしては、仙台藩自体が危うくなる怖れが、有ったという事である。

 磐城平藩の役割は、北方大大名から関東を守る事である。一月の下旬に仙台藩内訌(ないこう)の最初の査問が有り、二月下旬に忠興が登城、そして三月下旬に事件は起きた。磐城平藩の代替りを受け、幕府が仙台藩の力を削(そ)ぎ落した。そう捉(とら)える事もできるであろう。

 五月、義概(よしむね)が後援している箏(そう)曲八橋流の祖、八橋検校(けんぎょう)が、幕府公認で全国盲人の司法、行政権を握る当道職屋敷の、十老に就任した。職屋敷の頂点に立つのが惣検校であり、十老はその補佐に当たる重役である。以後、奥州岩城所縁(ゆかり)の箏曲家は地位も得て、活動を広げて行く事となる。

 六月七日、義概は老中方を藩邸に招き、家督相続の御礼として、饗応(きょうおう)した。五十三歳の義概は、長い藩嗣子(しし)という修業時代を終え、新たな時代を切り開こうとしていた。

 四日後の十一日、義概に帰国の許可が下りた。藩主としては、初の帰国である。義概は新藩主が暗君だと思われぬ様、念を入れて、道中の制を定めた。十三ヶ条有る。一に、道中で喧嘩(けんか)口論の禁止。二に、宿所近くで火事が有った場合、弓、鉄砲、足軽、中間、長柄の各隊は、予(かね)て申し付けた通り、将が纏(まと)めた上で、本陣に馳(は)せ参ずる事。供回りは勿論(もちろん)本陣に詰めるべき所であるが、火の元が宿に近い時は、消火に努める事。三に、押買いと狼藉(ろうぜき)の禁止。四に、竹木や垣といった囲いを、伐採する事の禁止。加えて、田畑を荒らさぬ事。五に、賭け事の禁止。六に、酒色を好む事も禁止。七に、脇道へ入らぬ事。八に、木銭、旅籠(はたご)銭、舟銭、総じて買物の代金は、定めの通り、滞(とどこお)り無く速(すみ)やかに支払う事。九に、馬継(うまつぎ)で理不尽に乗りかえぬ事。但(ただ)し、宿と当人が相対である場合は例外。十に、船渡しの時も隊列を乱さぬ事。本陣の荷物以外は、先着順に乗り込む事。この件に関しては、舟割奉行の指図に任せる。十一に、用も無いのに他の組の宿へ出入りせぬ事。但(ただ)し、組頭や用人を訪ねるのは例外。十二に、宿の入口に立ち、大声で雑談せぬ事。十三に、宿の善(よ)し悪(あ)しを論ぜず、宿札の通りに従う事。義概は厳正な法を以(もっ)て兵を統率し、帰国の途に着いた。

 めでたく磐城平藩内藤家三代目当主として、磐城平城に入った義概は、七月から次々と令達を発した。

 九月の覚書(おぼえがき)は三ヶ条。一に花火に関する禁制。二に、念仏踊りや百堂参りは悪くないが、大勢で派手にやらぬ事。三に、神事祭礼の相撲は問題無いが、侍が無用に勧進相撲、辻相撲を行わぬ事。

 十三日の覚書(おぼえがき)は二ヶ条。一に村政の事、加えて納所(なっしょ)の米、籾(もみ)、金は全て、家老松賀族(やから)之助に任せる。一年毎(ごと)に郷中の総高帳面を作成し、族之助に提出する事。二に、代官、納所、払方が入用の金、米、籾は、族之助が渡す事。郷中で入用の分は、重ねて帳面に記し、請取り差引きする事。

 忠興は国政を国家老に任せ、沢村勘兵衛や今村仁兵衛といった、有能な人材を失った。義概は旧勢力の上田主計ではなく、自身が認めた松賀族之助に国政を任せる事で、父の轍(てつ)を踏むまいと考えたのであろう。ともかく、この日を以(もっ)て松賀族之助は、藩主義概に次ぐ権力を手中にした。

 十四日の覚書(おぼえがき)は、家老、用人、近習、御咄(はなし)衆に対し、村や町からの音信を禁じた。これは即(すなわ)ち、贈収賄(ぞうしゅうわい)の禁止である。

 十八日、磐城平藩は初鮭(ざけ)を、幕府に献上した。その評判が良かったせいか、二十三日に鮭が上がる川沿いの村に、令達が有った。幕府献上の一番鮭を採った者には金一枚、二番の者は三両三分、三番の者には二両二分、四番は二両一分、そして五番の者には二両を、褒美として与えるという物である。これは、鮭漁の奨励である。

 八月一日、九ヶ条の覚書(おぼえがき)が出された。一に、先弓、鉄砲、足軽を二十人で一組とし、他に杖突き一名を加える。二に、弓二十張、靫(うつぼ)二十穂、矢二百筋を渡す事。三に、各組には筒二十挺と、玉三匁(もんめ)五分も渡す事。四に、矢箱と玉薬箱が必要の時は、役人の手前で受け取り、これを担(かつ)いで中間又は中間頭が持ち出す事。五に、鉄砲の稽古は四月一日から七月末日まで、油断無く行う事。古い玉薬は役人が隊長の断りを得て、受け取る事。六に、弓の稽古は平素から油断無く行う事。一年毎(ごと)に韘(ゆがけ)一指、弦五筋、的矢二手を受け取り、古い弓は追って役人が受け取って、劣化を吟味した上で、別の弓を用意する事。七に、足軽が新たに組に加わる時は、組頭に扇子箱三本、杖突きへは二本入りを持参し、その他の贈物(おくりもの)は厳禁。八に、新規配属足軽への振舞(ふるまい)、並びに理由無き御供への振舞も厳禁。九に、弓や鉄砲が破損せぬ様に、隊長は注意させる事。以上は、磐城平藩士の編成と、武芸の奨励である。

 翌二日、今度は「御持筒足軽江戸番磐城に於(おい)て相勤めの覚(おぼえ)」が出された。十五ヶ条有り、一に持筒足軽各組を二十五人とし、他に小頭一人を加える。江戸詰めの折は二十五人の中から、部屋頭一人を任命する。二に、二十五人の内 、八人は弓、足軽、軽卒とする。三に、鉄砲持ちは六匁(もんめ)どふらんに丸藤金の御紋付き。四に、持弓には塗木靫(うつぼ)一穂を宛(あて)がう。五に、玉薬箱と矢箱は、必要な時に役人より受け取り、中間又は中間頭が担(かつ)ぎ出す事。六に、鉄砲の稽古は四月一日から七月末日まで、懈怠(けたい)無く行う事。玉薬は隊長の判断で受け取る。十匁(もんめ)以上撃つ時は、隊長の許可を得て、役人にその必要性を説明する事。七に、巻藁(まきわら)弓一張を宛(あて)がい、追って毎年弦五筋、韘(ゆがけ)一指、的矢二手を渡す。隊長に断った上で、役人から受け取る。弓が破損していた場合、吟味の上で役人が重ねて支給する。弓や鉄砲を壊さぬ様、隊長は注意する事。八に、江戸と磐城の寝ずの番について、人数はその時の定め次第とする。九に、磐城は毎夜七人に番をさせるが、時に依(よ)って増減有り。江戸の夜回りは、以前の通り。十に、江戸と磐城の炊事役人の数は、その時の定め次第。十一に、磐城で出駕(しゅつが)の折、持筒役人の数は時に依る。十二に、参勤下向の時は、前々の通りに御供を務める事。十三に、磐城平城大手裏門玄関前、及び櫛形門右四ヶ所の番を勤める人数は、その時次第。また江戸藩邸等の番を勤める人数は、江戸の事情に依り、増員も可。十四に、江戸常駐の番は十五人とし、半年で交代。十五に、普請(ふしん)、飛脚、家中の貸人、小奉行等の役を免ずる。但(ただ)し、常駐の足軽や、普請が頻繁な時の小奉行は除(のぞ)く。急を要する事が発生した時には、例外として役を命ずるが、 違背しない事。その後は役を免ずる。以上、藩士の勤めに関する覚書(おぼえがき)である。

 八月二十三日、今度は奉公の品について令達した。御指長柄、並長柄、中間に対し、それぞれ三ヶ条有る。御指長柄は一に、馬口取、挟(はさみ)箱、弁当、駕籠(かご)手伝い、水汲み、(もう一項目)、掃除、肥(こえ)出し、女中の供をする時の包袋持ち、普請(ふしん)場での川の水汲み、以上の役を免除する。二に、幕府番所に詰める者は、馬糞取りと長柄担(かつ)ぎの役を免除する。三に、家中貸人に遣(つか)わした時は、道具、挟(はさみ)箱、馬口取り、草履(ぞうり)取りの役を免除する。並長柄は一に、全て普請その他の役は以前の通り勤める事。但(ただ)し、肥出しや、女中の供をする時の包袋持ち、飯炊(た)き、水汲みの役は免除する。二に、普請の場では土壁を立て、必要な水汲みもする事。三に、家中貸人に遣(つか)わす時は、草履取りの役を免除する。中間は一に、普請、荷物持ち、掃除、水汲みは行う事。但(ただ)し、肥出しは免除する。二に、家中並びに歩行貸人の時、挟(はさみ)箱、沓(くつ)、合羽(かっぱ)、笠(かさ)、草履持ち、女中の供をする時の包袋持ちをする事。小使(こづかい)も中間と同じく、諸事を勤める事。但(ただ)し、武兵衛は前に草履取りが免除されて居り、小使を勤める事。三に、小使と中間共に、移動が申し渡された時は、江戸と磐城の間、荷物持ちをし、雑用もする事。以上、藩士の中でも、御指長柄、並長柄、中間の役割を、明確に定めている。

 八月二十六日、家臣全員に鳥殺生を 禁じた。但(ただ)し、川魚を採るのは可。加えて、郷中御鷹犬の役も免除となった。目的は、御鷹餌飼(えが)いの為である。

 翌二十七日、磐城を強風豪雨が襲い、城が破損した。

 九月十日、御幟(し)の役目は筒持ちと同じであったが、今後は足軽に同じとされた。

 翌十一日、城破損箇所の調査を終え、修復が始まる。

 十九日、御番所の制が定められた。大手侍御番所には二名を置き、交代で夜も番をする事。番所に詰める者は念入りに掃除をし、番所に在る鉄砲、弓、どふらん、靫(うつぼ)、長柄、幕その他諸道具の管理をする事。油と灯心(とうしん)を受け取り、日が暮れれば火を点(とも)し、御番衆の寝具を取り出す。番の侍は如何(いか)なる下知にも従える様(よう)、下馬して筵(むしろ)の上に茣蓙(ござ)を敷き、朝夕の指図を受けて出し入れする。裏御門侍御番所と広門御番も、大手と同じ。その後、覚書(おぼえがき)が二つ続く。一つ目は三ヶ条有り、一に六間門番所は昼夜二人制で、隔番とする。二に、桜町出口張御番所も昼夜二人制で隔番。三に、坂下門番所も昼夜隔番。二つ目は四ヶ条有り、一に大手張御番所は足軽二人を置き、昼夜隔番とする。二に、仕切御門番所は足軽二人を置き、昼夜隔番。三に、裏御門に通じる中御門番所も、足軽一人で昼夜隔番。四に裏御門の外張御番所は、足軽二人で昼夜隔番。以上が、番兵の役目と人数である。

 磐城平藩内藤家三代目当主義概は、嗣子(しし)と成ったのが寛永十三年(1636)で、相続したのが寛文十年(1670)である。久しく三代当主と しての修業を重ね、承応二年(1653)からはほぼ毎年、父忠興に代わって帰国し、藩の問題点を探して来た。そして家督を継ぎ、藩主と成って半年後に帰国する直前から、頓(ひたすら)に法を定めて来た。先代忠興の時は、武家諸法度に因(よ)る大名の締付けが強く、大名の帰国は物入りである上に、幕府に要らぬ警戒をされる怖れが有った。開幕の功臣、大久保忠隣や本多正純の例も有り、譜代大名といえども、例外ではなかった。そこで忠興は、四代将軍の御代(みよ)になってから、嫡男義概を帰国させる事にした。大名は江戸に常駐し、跡継ぎに藩主代行の修業をさせる、一石二鳥の策である。その結果、義概は父の代まで続いて来た、三河以来の重臣に因(よ)る合議体制を崩し、藩主が定めた多くの法の下、藩主が選んだ家老が政(まつりごと)を行うという仕組みを作り、藩主の権力を強大な物とした。旧体制の重臣としては、隠居の忠興に改革を反対して欲しかったであろう。しかし、忠興は既(すで)に八十歳であり、下手(へた)に義概の勘気を蒙(こうむ)っては、身を滅(ほろ)ぼす怖れが有った。

 十一月十四日、湯本藩主遠山政亮と磐城平藩嗣子内藤義英が揃(そろ)って登城し、白鳥の料理を頂いた。政亮も義英も、漸(ようや)く大名家の扱いをされる様(よう)になった。

 義概の独裁体制に移行し始めたこの年、磐前郡上好間村大畑に、新田が拓(ひら)かれた。

 寛文十二年(1672)四月二十二日、加藤又左衛門組百五十石猪狩新五郎と、上田主計組百石川名勘助が、楢葉郡富岡組、久組、川内組、磐城郡小川組、玉山組、磐前郡合戸組の代官衆に、山方村々の支配に関する覚書(おぼえがき)五ヶ条を令達した。一に樅(もみ)、榧(かや)、槻(つき)、山漆(うるし)、栗、桂、樫、杉、松は田木の分で、正月に令達した通り、乱りに伐採しない事。二に、一条以外の雑木も薪炭にするので、本木を倒して枝を取り、残りを拾わぬ事。本木と共に割って、取って置く事。本木を薪炭にしない時は、枝のみを切り、本木を切らぬ事。三に、鉄銅屋の銅山炭と商売用の物には、生木を伐採し、特別に本木と末(うら)木の両方を薪炭にする事。四に、椚(くぬぎ)、柏(かしわ)の皮を剥(は)ぐには及ばない。但(ただ)し、御用炭の為にむざむざ本木を伐採せぬ事。五に、山焼きについては以前の通り、堅く村々に一切の禁止を申し付ける。但(ただ)し、焼かねば刈(か)る事が叶(かな)わぬ山は、指図を仰(あお)いだ上で火の番を置き、野火漏(も)れが起らぬ様に厳命する。以上であるが、ここまで山林資源の保護を命ずるのは、昨年の磐城平城を損壊させた風雨に因(よ)り、領内各地で木材が必要になっていた所為(せい)かも知れない。

 昨年、義概が藩主として初めて帰国するに当たり、道中の制を定めたが、今度は初めての江戸参勤を前に、家臣が江戸に詰める折、召し連れる人数を定めた。四月二十四日の物で、石高に応じて分けている。百石以上は三人、百五十石以上は四人、二百石以上は五人、二百五十石以上は七人、三百石以上は八人、四百石以上は九人、五百石以上は十人、六百石以上は十一人、七百石以上は十二人、八百石以上は十三人、一千石以上は十五人である。また、身分や役目の人数も、細(こま)かく規定している。一千石以上は同じ扱いなので、二千石の上田主計と一千石の松賀族之助は、共に若党七名と、草履(ぞうり)中間八名、併(あわ)せて十五名を率(ひき)いる事となる。

 寛文元年(1661)、先代忠興は明暦の大火、大坂城代在任中の落雷爆破を受けて、家臣から百石につき、米三十五俵を借り上げた事が有った。災難は、何時(いつ)降り懸(かか)って来るか分からない。六月五日、義概は家臣から高百石につき、金二両の舫(もや)い金を集める法を定めた。藩士個人としては、収入が減らされる訳であるが、藩の勘定方としては、不慮の普請(ふしん)や出陣の時、年貢を上げずに済む。詰(つま)り、義概が領民から恨(うら)まれずに済む訳である。また藩士に取っても、藩に貯蓄金が有れば、突然財産を借り上げられずに済む。

 多くの法を定めて、三代当主の力を国許(もと)で示した義概は、六月に江戸へ参勤し、二十二日に参府の届け出をした。その折、将軍に太刀、馬代の金、綿百把を献上し、御台所(みだいどころ)には銀五枚を進上、女中には銀三枚ずつを遣(つか)わした。

 七月二十三日、昨年の鮭漁奨励を受けて、磐城平藩より将軍に、初鮭が献上された。

 十月六日、参勤の義概に、西の丸大手番が命ぜられた。

 十二月十八日、陸奥会津藩保科正之が逝去した。幕閣の勧めのまま、従三位左近衛大将へ昇進していれば、薨去(こうきょ)というべき所である。幼将軍家綱の叔父として、その治世を支え、三代家光の武断政治から、文治政治への転換を行った。浪人を増やさぬ為、末期(まつご)養子の禁を緩和し、人材が失われぬ様、殉死を禁止し、藩政に支障を来(きた)す、大名証人制度の見直しを行った。明暦の大火後は、天守閣を再建せず、その費用を江戸の再建に宛(あ)てた。藩政では、領民の年金保障の他、凶作に備えて社倉を設(もう)けた。寛文八年(1668)には「会津家訓十五箇条」を制定し、第一条では藩士に対し、藩主よりも将軍に忠誠を誓う様(よう)に記している。四代将軍の元老として、松平姓、三つ葉葵の紋の使用が認められるも、これを辞退した。その謹厳実直さは、稀有(けう)とも言える。遺骨は三田の藩邸より国許(もと)へ送られ、奥州耶麻郡の独立峰、磐梯山に神式で葬(ほうむ)られた。三年後、正之の墓所に土津(はにつ)神社が建立される。

 この年、国許では磐前郡下三坂村で、専称寺十五世竜頓加残が、浄土宗名越派浄心寺を開創した。また同郡北好間村猪鼻、同郡中寺村吉平に、新田が拓(ひら)かれた。

 寛文十三年(1673)八月一日、義概は登城し、八朔(はっさく)の祝儀として、太刀目録を将軍に献上した。将軍家綱は昨年、叔父正之を失った時、甚(いた)く哀(かな)しんでいたが、あれから時も経ち、逆に義概を気遣ってくれた。
「左京大夫の母は、容態が芳(かんば)しくないと聞いたが。」
「はっ。何分(なにぶん)高齢の身なれば、已(や)むなき仕儀かと。」
「幾(いく)つじゃ?」
「九十を超えて居りまする。」
「大した者じゃ。しかし、幾(いく)らでも、母には長生きして貰(もら)いたい物よのう。」
「上様の御言葉、母が聞けば、嘸(さぞ)や喜ぶ事でござりましょう。」
忠興の側室香具姫は、この時床(とこ)に臥せっていた。

 隠居の身である忠興は、香具姫の側に在って、看病していた。香具姫は夫に向かい、掠(かす)れた声で語り掛ける。
「夫より先に身罷(みまか)れば、剃髪(ていはつ)せずに済みまするな。」
忠興は苦笑する。
「嘗(かつ)て薙刀(なぎなた)で私(わし)を追い回した女丈夫が、気弱な事を申すな。」
「覚えて居りませぬ。酒井殿と御間違いでは?」
「いや、土方大八を連れて暮れ六つに、他の女子の所へ通おうとした時、そちは武装して現れ、私(わし)は這々(ほうほう)の体(てい)で逃げ回った。途中、廊下に控えていた大八を置き去りにした所、そちは私(わし)と誤(あやま)って、大八に手傷を負わせたではないか。その後、大八は軽傷で済んだが、そちは私(わし)に向かい、大八が深手を負っていれば、自害して果てたと。また御詫びとして、大八に二百石を遣(つか)わす様(よう)、御願いして参ったのう。いや、二百石を与えねば、私(わし)を殺して自害すると言い放った。あれは脅(おど)しじゃ。」
「とんと覚えがござりませぬ。殿、嘘(うそ)を周りに広めて下さりまするな。」
「そうじゃ。大八に聞けばはっきり致す。」
「大八はもう居りませぬ。何時(いつ)の話にござりまするか?」
九十代の香具姫が嫉妬(しっと)したしたとなれば、半世紀以上も昔の事である。忠興は返答できず、話を変えた。
「そう言えば、霊巌寺の事も有ったのう。そちが参詣の折、境内で角力(すもう)が催され、事も有ろうに、当家の墓石の上に桟敷(さじき)を掛け、その上で見物する者が有ったとか。そちは改葬を住職に求めたが、聞き入れられず、石屋の太右衛門に頼み、墓石はそのまま、脇から棺(ひつぎ)を取り出し、鎌倉光明寺へ移したとか。」
「内藤家の墓石の上で角力(すもう)見物など、無礼にも程が有りまする。」
「その通りじゃ。御蔭で義興を、光明寺へ葬る事ができた。」
香具姫は一息吐(つ)くと、忠興を見詰めた。
「殿に、確認したき儀がござりまする。」
「何じゃ?」
「妾(わらわ)の墓所は、何処(いずこ)にござりましょう?」
「さて、先の事は分からぬ。」
弱々しい力で、香具姫は忠興の袖を掴(つか)んだ。
「妾(わらわ)の歳では、そう遠くはござりませぬ。教えて下さりませ。」
忠興は優しく、袖を掴(つか)んでいた香具姫の手を取った。
「義概の正室松平氏は光明寺、そして継室三条氏は善昌寺じゃ。そちは藩主の生母なれば、どちらが相応(ふさわ)しいか、正直迷って居る。」
「ならば、光明寺に。」
忠興は微笑(ほほえ)んだ。
「そちが見込んだ寺であるからのう。」
「いいえ。」
香具姫は微(かす)かに、首を振った。
「今となっては、五年前に亡くなられた、義母(はは)上様の気持が解りまする。光明寺に眠るは、義興と松平氏のみ。二人は義姉弟故(ゆえ)、血の繋(つな)がりが無く、義邦も亡き今となっては、妾(わらわ)が入ってやらねば、義概殿の子孫はやがて、供養しなくなる事でしょう。」
「待て。藩嗣子義英は松平氏の子ぞ。心配は無用じゃ。」
「義英殿は五歳で母を亡くしました。よく覚えては居りますまい。また、義概殿の跡継ぎには、少し心配する所が有りまする。」
「何じゃ?」
「弟の藤丸は、三条左大臣様の外孫なれば、将来義英殿と争う事が無ければ良いのですが…」
「祖父家長公と、棚倉藩内藤家の祖信成公。また父政長公と元長叔父上、そして私(わし)と泉藩祖政晴、更(さら)には義概と政亮。内藤家は、家督争いとは無縁じゃ。それでも心配ならば義概に、義英と藤丸が争う事態を招けば、御先祖の祟(たた)りが有ると、脅(おど)しを掛けて置くぞ。」
「まあ。」
香具姫は笑みを湛(たた)えた。
「暫(しば)し休め。」
忠興は、香具姫の蒲団(ふとん)を整えてやった。
「もう、夏も終りにござりまする。」
「うむ。庭の木の葉も、もう直(じき)色付き始めるであろう。」
妻の額(ひたい)に、汗が滲(にじ)んでいるのに気付き、忠興は再び拭(ぬぐ)ってやった。

 義概が下城して来ると、忠興は隠居部屋へ、藩主を招いた。程無く義概が姿を現し、忠興は近くへ来る様(よう)、手招きした。義概が着座すると、忠興は城内の様子を訪ねる。
「上様は、恙(つつが)無いか?」
「はっ。逆に、母上の事を心配して頂けました。」
「そうか。有難い事じゃ。他には?」
「無事に、献上品を御納め下さりました。」
忠興は焦(じ)れて、単刀直入に尋ねる。
「帰国届けの件については、問われなんだか?」
去る六月二十一日、義概は幕府に帰国願を提出し、許可が下りていたが、母香具姫が病(やまい)を得た為、日延(の)べとしていた。
「いえ、孝養を尽す様(よう)にと、仰(おお)せにござりました。」
「何方(どなた)が仰せられたのか?」
「上様にござりまする。」
「然様(さよう)か。ならば問題は有るまい。」
武将割拠の時代を経験した忠興の価値観では、国許(もと)の仕置は御家の大事に係る事で、母の看病とは天秤(てんびん)には掛けられぬ、重い物であった。しかし、世の中が平和になり、大名といえども家族を選べる様になったとすれば、喜ばしい事である。但(ただ)し、平和に慣れ過ぎて、大名が国政を軽んずる様になれば、問題である。身内よりも忠臣を選ぶ。それが、徳川家康が残した薫陶であった。

 忠興は、重ねて確認する。
「帰国願いは、どう処理されて居る?」
「この秋までは、母の様子を見た上で、保留されて居りまする。」
「香具の事は私(わし)に任せ、帰国しても良いのだぞ。」
「御ばば様は某(それがし)の帰国中に身罷(みまか)り、葬儀に参列する事が叶(かな)い申さず。せめて母上位は、長男として、また藩主として、最期まで孝行致したく存じまする。」
忠興は息を吐(つ)き、目線を下げた。
「そうであったな。そちの思う様(よう)に致せ。」
「はっ。それではこれにて。」
義概は辞儀をして、去って行った。その背中を見詰めつつ、忠興は少し、後悔の念を覚えた。義概には藩主としての教育をさせるべく、毎年の様に帰国させて来た。当時、藩主忠興の命令は絶対であり、義概も渋々(しぶしぶ)従った事であろう。そして、亡き妻の看病に専念する事叶(かな)わず、加えて祖母の死に目に会えなかった。生母の死は、一生に一度しか無い。今回は全て、義概の気の済む様(よう)にやらせてやろうと、忠興は思った。

 八月六日、香具姫は遂(つい)に、死出の旅についた。武田信玄の五男、仁科盛信の娘に生まれる。天正十年(1582)、父盛信は討死し、主家武田氏も滅亡した。信玄の五女信松尼に連れられ、甲斐東部の要害岩殿山城に逃れるも、城主小山田出羽守信茂は織田方に内通し、武蔵八王子へ落ち延びる。小山田信茂父子は、不忠の輩(やから)として処刑されたが、信茂の孫左近太夫は生き延び、その計らいで小山田信茂の養女となる。身分を得て、徳川将軍家に上臈(じょうろう)として召し抱えられる。その後、上総国佐貫内藤家嫡男忠興の側室となる。輿(こし)入れの時には、祖父武田信玄の兜(かぶと)を、形見として持参した。武田家滅亡の折に、失われていたかも知れない幼き命は、その後九十一年の生涯を歩み、磐城平藩主と湯本藩主を遺(のこ)した。

 八日、幕府より格別の計らい有り、内藤家は打ち揃(そろ)って相模鎌倉へ赴き、光明寺に於(おい)て葬儀を執り行った。香具姫の法名は天光院殿照誉玄心月山大姉。祖父法性院機山信玄の字が用いられた。

 天光院の孫、即(すなわ)ち義概の三男は藤丸という。また、天光院の養父小山田信茂の幼名は、藤乙丸である。天光院は藤丸に、小山田氏再興の希望を抱いていたのかも知れない。

 二十一日、母の供養を終えた義概は、六月より日延べとなっていた帰国の仕度を終え、国許(もと)へ発って行った。

 九月二十一日、禁裏で火災が有ったとの理由で、元号が延宝(えんぽう)と改められた。識仁(さとひと)天皇即位以来、初の改元であり、寛文十三年(1673)は延宝元年となった。

 忠興は、孤独であった。昨年、妻の天光院を亡くし、同じ天正生まれの者が、周りからいなくなったからである。忠興は延宝二年(1674)、八十三歳になっていた。天正年間は、激動の時代であった。元年(1573)、畿内に台頭した織田信長が、越前の朝倉義景、北近江の浅井長政といった包囲網を攻め滅ぼし、遂(つい)には室町幕府の将軍足利義昭を追放して、安土(あづち)時代に入った。文禄に改元された二十年(1592)は、忠興の生まれた年である。信長は十年前に京の本能寺で、家臣の明智光秀に討たれ、再び混沌(こんとん)とした戦国時代を統一したのは、関白豊臣秀吉であった。既(すで)に桃山時代へ移ろい、徳川家康の居城江戸は、開発に着手して間も無い頃で、忠興が隠居生活を送っている虎ノ門藩邸は、溜池の辺(ほとり)に築かれた、南の出城であった。この年、太閤秀吉は海外に敵を求め、朝鮮王国へ出兵した。

 当時の内藤家当主は祖父家長で、上総佐貫二万石の城主であった。父政長は大番組二番頭として、家康に随行して肥前に在った。秀吉が肥前名護屋城に在って、朝鮮征服の指揮を執り、家康は所領替えを理由に出兵を断った物の、代わりに家康自身は側に詰めて、顧問を務める事となったからである。故(ゆえ)に、父の顔を知らずに幼少期を過ごした。そして不在の父に代わって忠興を教育したのが、祖父の家長であった。家康が徳川を姓としたのは、東海の名門今川氏を滅(ほろ)ぼし、三河、遠江二ヶ国の大名と成った頃で、それまでは松平元康と名乗っていた。永禄三年(1560)、桶狭間(おけはざま)で今川義元が小勢の織田信長に討たれると、大黒柱を失った今川勢は三河より撤退し、久しく今川家代官の支配を受けていた、松平家の居城岡崎を、元康は請(うけ)取る事ができた。漸(ようや)く松平家が三河岡崎城主の地位を取り戻した頃から、家長は元康に仕え、軍功を挙げて来た。そして元康が徳川家康と改名した折に、家長にもその一字が与えられた。家長は生粋(きっすい)の三河武士であり、忠興は上総の領主の家に生まれるも、祖父より三河武士としての教育を受けて来た。その祖父家長は、慶長五年(1600)に京の伏見城副将を務め、石田三成が中心となって組織された西軍を相手に、討死を遂(と)げた。

 この時、父政長も一隊を率(ひき)いて、徳川と対立する奥州会津の上杉景勝を討伐すべく、下野へ出陣していた。ここで伏見落城の報を受けた家康は、東軍を組織して、東海道を西へ向かった。一方で政長は、徳川秀忠率(ひき)いる中山道軍に加わるも、信州上田城主真田昌幸に足留めされ、関ヶ原の大戦(おおいくさ)に遅参した。

 関ヶ原で勝利した家康は、主君豊臣秀頼を凌(しの)ぐ力を持ち、慶長八年(1603)に征夷大将軍に任官して、江戸に幕府を開いた。そして江戸幕府将軍職が、徳川家世襲の物である事を全国に知らしめるべく、慶長十年(1605)に三男秀忠を上洛させ、二代将軍に任官させると共に、家康自身は大御所と称した。この時、忠興は秀忠の将軍宣下に随行し、元服して忠長の名を頂くと同時に、帯刀の位官を賜った。

 慶長十九年(1614)、徳川家の専横を快く思わぬ豊臣家は、浪人を大坂城に集めた。戦(いくさ)の気運が高まりつつある一方で、内藤家には改易に処した里見家の旧領、安房の仕置が任されていた。忠興は大坂出陣を父に熱望し、二十騎の小勢を得て、大坂へ馳(は)せ参じた。しかし、家康の参謀である本多正信に、安房へ帰る様(よう)に言い渡された。忠興はそれでも諦(あきら)めずに、出陣を願い続けていた所、それが家康の耳に達し、出陣が許可されるに至った。大坂冬の陣では、然(さ)したる軍功を挙げる事はできなかったが、その心意気を認められ、家康より一万石の大名に取り立てて貰(もら)えた。

 翌年(1615)、大坂夏の陣が有った。大坂城は裸にされ、豊臣方は野戦に打って出た。伊達政宗の隊を突破し、真田信繁、毛利勝永隊が家康本陣まで突入して来た。忠興は一万石の家臣を率(ひき)いて参戦し、味方が潰走する中、奮闘して持場を死守した。あの時は、次弟政次が一緒であった。結果、大坂方は力尽き、豊臣家は滅亡した。そして翌元和二年(1616)、徳川家を興した家康は身罷(みまか)った。

 二代将軍の御代(みよ)となり、元和八年(1622)に国替えが有った。父政長は奥州四郡七万石、忠興は菊多郡内二万石への加増であった。

 三代家光の時代となった寛永四年(1627)、陸奥会津藩蒲生家六十万石が改易され、忠興が三春城を接取した所、一揆が起って、百姓を相手に戦う、苦(にが)い経験をした。

 寛永九年(1632)、大御所秀忠の死後間も無く、将軍家光は肥後熊本の大藩、加藤忠広を改易処分とした。忠興は父政長、三弟政重と共に出陣し、無事に八代城を請(うけ)取った。

 寛永十一年(1634)、父政長が逝去。忠興は内藤家当主を相続した。忠長から忠興と名を改めたのは、この時である。父政長の遺言に従い、異母弟政晴に自身の二万石を分与し、泉藩を成立させた。そして翌年(1635)、磐城平藩主の初仕事として、領内総検地に着手した。この年、武家諸法度に参勤交代が明記され、譜代大名といえども、例外ではなくなった。

 忠興が他の大名と比べて特異な点は、父政長の積極的な支持無く初陣に臨(のぞ)み、自ら武功を挙げて、大名家の嫡男で在りつつも、独立した大名となった事である。因(よ)って、久しく太平を楽しむ四代将軍の御代(みよ)、戦国時代を勝ち抜いた、三河武士の精神を受け継ぐ忠興の価値観は、疾(と)うに時代遅れとなっていたかも知れない。しかし、自らの手で領土を切り開いて来た忠興から見れば、親の遺領を受け継いで育った大名に、戦(いくさ)で負ける気はしなかった。勿論(もちろん)、戦(いくさ)は武家諸法度で禁じられているが、謀略は可能である。

 磐城平藩に取って最大の脅威は、やはり仙台藩伊達家である。磐城平城の縄張(なわばり)を見ても、武家屋敷を北方に置き、北からの襲来に備えている。偶然か否(いな)か、忠興が大坂城代在任中、落雷で煙硝蔵が爆発し、修復の為に、財政破綻(はたん)の危機に瀕(ひん)した直後、伊達綱宗に隠居処分が申し渡された。また、忠興が義概に家督を譲った直後、仙台藩奉行原田甲斐が大老酒井忠清邸で刃傷(にんじょう)沙汰を起し、仙台藩の実力者、一関藩主伊達宗勝が改易処分を受けている。

 忠興の隠居後、磐城平藩主と成った義概は、御多分に洩(も)れず、藩嗣子として育つも、戦(いくさ)の経験が無く、父の高齢を理由に相続した。自分なりに、この息子に大名の器量が備わる様(よう)、教育して来た積(つも)りであるが、自分の若い頃と比べ、苦労不足の観は否(いな)めない。それでも藩政に積極的な所が見られるので、忠興は今の所、口を挟(はさ)まずにいる。

 六月中旬、その義概が参勤の為、江戸藩邸に戻って来た。そして十八日に登城し、将軍家綱に馬代の金と綿百把を献上した。

 七月十八日、義概は西の丸大手番を仰(おお)せ付かった。その頃からか、忠興は体に異変を感じ始めていた。そして、下城して来た義概を、隠居部屋へ呼び寄せた。
「義概にござりまする。」
やがて姿を現した義概は、西の丸に番兵を詰めさせる準備に追われる中で、座礼にも焦(あせ)りが感じられる。
「おお、忙しい中、態々(わざわざ)済まなんだが、一つ、そちの許しを得て置きたくてのう。」
「はて、何にござりましょうか?」
「家宝鍋屋肩衝(かたつき)を、真田幸道殿に譲りたいのだが。」
「家宝を?何故(なにゆえ)にござりまするか?」
「あれは二度目の大坂城代を務めていた、万治三年(1660)の事じゃ。そちも覚えて居ろう?大坂城青屋口の煙硝蔵に雷が落ち、大爆発を起した。私(わし)は修復を仰せ付けられ、資金を調達するべく、方々へ頼んで回った。その時、当時後見を務めていた松代藩真田家に、家宝を金にして欲しいと頼んだのじゃ。」
「その話は、承(うけたまわ)って居りまする。真田家は家宝を受け取らず、一千両を支援してくれたと。」
「うむ。御蔭で普請(ふしん)は滞(とどこお)り無く済み、後年真田家に完済する事ができた。」
「ならば、貸し借りは無いのでは?」
「真田家は、無利子で貸してくれたのだぞ。商人から借りて居ったら、その後返済に何年要するか、判(わか)った物ではない。」
「確かに、仰(おお)せの通り。」
「私(わし)の最後の頼みじゃ。冥土(めいど)まで、借りを作ったまま、参りたくはなくてのう。」
義概は息を吐(つ)いた。
「父上の、心の重荷と成られて居るのであらば、軽く成されませ。」
「では、真田家に譲っても良いと?」
「父上の御気持が、それで楽になるのであれば。」
「有難し。」
忠興は頭を下げた。
「御止(や)め下され。では、某(それがし)は務めに戻りまする故(ゆえ)、これにて。」
義概が下がった後、忠興は藩邸の蔵へ赴(おもむ)いた。そして箱を一つ、居間へ持ち帰った。

 忠興は箱の中から茶壺を取り出し、瑕疵(かし)が無いか確認した。
「明暦三年(1657)、寛文八年(1668)と避難させたが、善(よ)くぞ無事でいてくれたのう。」
鍋屋肩衝の茶壺。太閤豊臣秀吉が朝鮮王国へ出兵した時、唐の六代皇帝玄宗の后(きさき)、楊貴妃が用いた油瓶と聞いた武将が、豊臣家に献上した。秀吉はこれを和泉国の鍋師に、茶器として下賜した。そして鍋師から忠興の手に渡り、家宝としたのである。

 思い出の品であるが、武士の信頼は何物にも替え難(がた)い。翌十九日、忠興は重臣に命じて、これを松代藩主真田幸道に届けさせた。幾度か、松代藩の遠慮を受けて、日延(の)べとされて来たが、此度(こたび)ばかりは忠興たっての頼みとあって、松代藩は受け取ってくれた。幸道は、二歳の時から後見を務めて来たので、忠興に取っては子も同然である。その幸道も、今では十八歳に成長していた。忠興は自分の年齢と体調を考え、幸道に形見を残して置きたかったのかも知れない。

 忠興にはもう一つ、約束が残っていた。正保二年(1645)、当時は将軍家嗣子であった家綱が、初めて西の丸に足を運ばれるに当たり、忠興は勤番を仰(おお)せ付かり、熨斗(のし)(あわび)を献上した。将軍家光より、流石(さすが)は山海の珍味に富む、磐城平藩主の見立てであると、御誉めの言葉に与(あずか)った折、幼き家綱より、次は山の物をと所望された事が有った。

 秋も深まった九月、忠興は国許(もと)より、極上の松茸三十本を届けさせ、十日に義概を登城させて、それを献上した。

 程無く下城した義概は、忠興の許(もと)へ報告に訪れた。忠興は義概を招き、身を乗り出す。
「如何(いかが)であった?」
義概は苦笑して答える。
「上様は幼き頃の話故(ゆえ)、覚えて居らぬと仰(おお)せにござり申した。」
「然様(さよう)か。」
忠興は、体の力が抜けた。がっくりする父を宥(なだ)める様に、義概は話を継ぐ。
「重ねて上様は、父上の律儀(りちぎ)さを御誉(ほ)めに成られ、明日、久し振りに顔が見たいと、斯様(かよう)に仰せでござり申した。」
急な話に、忠興は困惑した。
「突然仰せられても、手ぶらでは参れぬ。」
「心得て居りまする。」
義概は老中稲葉正則に接触し、将軍が所望する物を聞いていた。そして、折井の作である、海松と鋤(すき)の蒔絵(まきえ)を施した、海松鋤小鼓(こつづみ)を用意してあった。

 それを聞いて安心した忠興は、翌日の九月十一日に将軍家綱に謁見(えっけん)し、暫(しばら)く隠居暮しの様子などを語った。

 成すべき事を全て成し遂(と)げ、気が抜けてしまった所為(せい)か、十月に入って忠興は、病(やまい)に倒れた。これから冬の寒さは、厳しさを増して行く。忠興の病状は、日に日に重くなって行った。

 親族から、相(あい)次いで見舞の使者が遣(つか)わされて来た。信濃松代藩真田家、陸奥窪田藩土方家、上総苅谷藩堀家、信濃高島藩諏訪家、但馬出石藩小出家、和泉岸和田藩岡部家、常陸志筑旗本本堂家、美濃徳野旗本平岡家などである。忠興は病(やまい)の為に応対する事が叶(かな)わなかったが、藩主義概や、江戸家老上田主計らが、代わって持て成した。

 数日後、湯本藩主遠山政亮は、父を見舞うべく、自ら虎ノ門藩邸へ足を運んだ。門衛は承ると、義概に指示を仰(あお)ごうとしたが、その時義概は父の看病の為、隠居部屋にいた。
「申し上げまする。」
「何か?」
義概が答えた。
「主殿頭(とのものかみ)様、御越しにござりまする。」
「解った。直(す)ぐに参る。」
「待て。」
忠興が義概を呼び止めた。
「政亮には、申して置く事が有る。此処(ここ)へ呼び、そちも同席せよ。」
「はっ。」
間も無く政亮が訪れ、入口で座礼をとった。
「只今(ただいま)参上仕(つかまつ)りました。父上の御加減が良くなるべく、磐前郡より滋養の有る食材を取り寄せて参りました。」
「おお、大儀であった。近う参れ。」
「ははっ。」
政亮は一礼すると、兄義概の側まで進み出た。忠興は息子達を見詰め、尋ねる。
「そち達は、将来磐城平藩を脅(おびや)かすは、どの藩と考える?」
(ま)ず、兄義概が答える。
「一に仙台藩伊達家、二に久保田藩佐竹家と存じまする。」
「共に北方の大名だが、その理由は?」
「外様大名の中で、奥羽に抜きん出た勢力を持つのは、伊達家六十二万石。第二は佐竹家二十一万石。」
「盛岡藩南部家は二十万石。そして米沢藩上杉家は十五万石ぞ。これは如何(どう)考える?」
「南部家は伊達家と度々(たびたび)所領を巡って争い、連合する事は無き物と存じまする。また、上杉家は財政状況が厳しい様(よう)で、戦(いくさ)をする資金が足りますまい。加えて申せば、奥羽の南は当家の他、棚倉藩内藤家、会津藩保科家、庄内藩酒井家と、強固な防衛線を張って居る上に、後方には水戸徳川家在り。奥羽外様大名を敵に回しても、然(さ)したる心配はござりませぬ。」
「そうか。では政亮の意見は?」
「はっ。万が一の話と断り置き致しますれば、西国大大名かと。薩摩藩島津家、佐賀藩鍋島家、長門藩毛利家、土佐藩山内家等が大挙して押し寄せれば、天下は大乱と成りましょう。」
「うむ。万が一を想定するのは、大名として大切な事である。」
「有難う存じまする。」
忠興は一息吐(つ)くと、息子二人に告げた。
「私(わし)ならば、中村藩相馬家か、三春藩秋田家じゃ。隣国外様小大名故(ゆえ)、盲点となり易いが、背後に大物が付けば、磐城平藩七万石位なら、隙(すき)を突いて奪う事が可能であろう。」
これには、義概が反論する。
「畏(おそ)れながら、仮(かり)に三春藩と中村藩が密かに戦(いくさ)仕度を整え、不意打を行ったとしても、高々二千騎程度。親類の泉藩、湯本藩、窪田藩の援軍が有れば、棚倉藩や水戸藩の支援が無くとも、押し戻せまする。」
「不意打なれば、磐城平城を占拠される怖れが有る。加えて、敵は勢いに乗って南下して参るぞ。湯本、泉、窪田に、体勢を立て直すに足る拠点が有るか?その間に、伊達家は緩(ゆっくり)と、磐城平城に入る事ができる。」
「それは…」
「政亮の、仮の話もして置く。西国大名が箱根の山を越え、江戸城が落ちた後、敵は南より攻めて参る。南の備えは、何処(いずこ)に置く?」
途方も無い話で、義概は返答に窮(きゅう)した。忠興は、視線を政亮に移す。
「湯本藩主に、意見すべき所が有る。遺言として聞く様(よう)。」
「ははっ。」
「湯本藩は湯本の町を開発する要有れども、城下町と致すに及ばず。それよりも、万一磐城平城の陥落、もしくは南に敵を迎えた時に備え、山の上に曲輪(くるわ)を築き、陣屋を移すべし。その為に帰国し、領内に適当な場所を見付けよ。」
「確(しか)と、承知致しました。」
並の大名は、一藩に一つの城しか持てない。加えて三万石未満の小大名は、城持ちを許されず、陣屋を築くしか無い。忠興が、弟や三男を分家させた理由の一つは、本城を支援する陣屋を、必要とした為とも考えられる。斯(か)くして湯本藩は、陣屋を別の場所へ移す事となった。そして藩主政亮は、父の助言に従う旨(むね)を申し上げて、虎ノ門を去って行った。

 再び、忠興の側には義概だけが残った。忠興は、義概に尋ねる。
「私(わし)が死ねば、何処(いずこ)に葬られるのか?」
「父上は家長公、政長公に続く内藤家の当主。申し上げるまでも無く、善昌寺にござりまする。」
「それは困る。善昌寺の格式を下げてしまう故(ゆえ)のう。」
「はっ?」
「善昌寺は家長公の為に、当時所領であった上総佐貫の高田村に建立した物を、父上が磐城へ国替えの折、現地に遷(うつ)したのじゃ。今、当山で祀(まつ)られているのは四人。家長公、政長公、弟政重、そしてそちの継室廓法院じゃ。」
「存じて居りまする。」
「家長公は、東照大権現様が三河国の一勢力に過ぎぬ頃から仕(つか)え、数々の武功を挙げ、最後は太閤秀吉公の亡き後、反徳川勢力を挙兵に踏み切らせるべく、伏見城で囮(おとり)となられた。毛利輝元、宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義久らが大軍で押し寄せるも、伏見城は寡勢(かぜい)ながら、十日以上も持ち堪(こた)え、西軍を足留めした。結果、西軍は伊勢、美濃を攻略するのが精一杯で、東軍主力の所領、東海甲信へ進む事は叶(かな)わなんだ。故(ゆえ)に、戦場(いくさば)は美濃となり、東軍は関ヶ原に於(おい)て西軍に大勝利を収め、徳川家は全国諸大名に号令を掛ける力を得て、江戸に幕府を開いた。」
「はい。家長公は、幕府創立の功臣と申せましょう。」
「うむ。そして、次の政長公も人物であった。鳥居忠政殿が磐城平藩を立てた頃、領内に巨大な城を築く様(よう)、台命が下された。そして磐城平城を築き上げた物の、領民は生業(なりわい)に専念する事叶(かな)わず、久しく普請(ふしん)に駆り出された事で、怨(うら)みは積(つも)りに積っていた。遂(つい)には百姓が暴動を起し、斯(か)かる不穏な情勢の中、当家は磐城平藩へ移封となった。政長公はその治世、善政に努め続け、領内は開発され、民の暮しも平穏を取り戻した。特に、父上が防風、防潮の為に植えさせた松を、民は法名から道山林と呼んで居るとか。」
「はっ。御じじ様は若き頃、江戸で御目に掛かり申した。仁と勇を備えた、大きな背中を覚えて居りまする。」
「そして廓法院の御実家は、位官では上様より上に在る。また政重は、立藩直前の死であった。」
「はい。しかし御話を承(うけたまわ)れども、合点(がてん)が参りませぬ。父上が善昌寺に入られて、何故(なにゆえ)格式が下がるのか。父上もまた、徳川四代を支えし、功臣ではござりませぬか?」
「私(わし)は、暗君である。」
「はっ?」
「父上の治世を支えし人材、安藤志摩と感情的に対立し、見限られた。更(さら)には、沢村勘兵衛、今村仁兵衛といった人物も、登用するだけで、守る事はできなんだ。」
「それは、重臣達の責任にござりまする。」
「私(わし)が名君であると申すなら、民に慕(した)われる理由は何ぞ?」
「新田開発と、江筋の開削(かいさく)にござりまする。今年は楢葉郡折木村亀ヶ崎、上北迫村二本椚の二箇所に新田が拓(ひら)かれたと、報告がござり申した。加えて三月より三森治右衛門が、好間江筋の改良を始めましてござりまする。」
「おお、あの小僧が…勘兵衛の遺志を受け継いで居ったか。しかし今そちが挙げた二つは 、共に私(わし)の功績ではない。新田開発は父上の代に始まった物じゃ。百姓の為にも、そちの代も引き続き励(はげ)む様(よう)。」
「承知致しました。」
「治右衛門の江筋改良だが、私(わし)の愚行を繰り返し、犠牲にしてくれるな。」
「御任せ下さりませ。藩政の仕置は、家老松賀族(やから)之助を通し、重臣共に口は出させませぬ。」
「それも、少し気掛りじゃ。」
「何が、にござりましょう?」
「族之助は小身の出でありながら、そちの後(うし)ろ楯(だて)のみを頼りに、強大な権力を持って居る。そちの次の家督を巡って、怖らくは騒動が起らぬとも申せぬ。義英は長子、藤丸は左大臣の外孫。共に嗣子(しし)としては申し分無く、族之助を快く思わぬ重臣達は、族之助が推(お)さぬ方を、世嗣(よつぎ)として守り立てるであろう。」
「某(それがし)は、藩主を相続してまだ四年。当分、隠居する積(つも)りはござりませぬぞ。」
「ふふ。風虎先生よ。そちは名君として、民に慕われるべく努めよ。そちの菩提寺は、善昌寺でも鎌倉光明寺でも、好きな方を任せる。だが私(わし)の菩提所は、光明寺にして貰(もら)えぬか?あそこには香具や、義興も居る。」
「そこまで望まれるのであれば、仰(おお)せの通りに。」
「うむ。」
その時、家臣が現れ、義概の指示を仰(あお)いだ。忠興は義概に告げる。
「そちは西の丸大手番であったな。行くが良かろう。」
「はっ。」
義概は辞儀をすると、家臣と共に隠居部屋を去って行った。

 独(ひと)り残った忠興は、懐かしい名前を聞いて、昔を思い出した。十六歳で忠興に仕えた三森治右衛門、この年三十九歳になっていた。好間江筋改良工事とは、好間地方から城南を経由し、夏井川河口近くへ流す用水路を延(の)ばし、取水の関を城の北方愛谷村に築き、下高久村滑津川まで引く物である。水量の多い夏井川から水を取り、城東の町分村を通して、藤間村と下高久村にも、枯渇する事の無い水を引く事ができる様になる。これが後(のち)の、愛谷江筋である。

 忠興の治世、沢村勘兵衛直勝、今村仁兵衛知商、三森治右衛門光豊という人材を得た。共に、百姓の暮しの向上に直結する事業を成すも、勘兵衛は切腹、仁兵衛は磔(はりつけ)という最期を遂(と)げた。怖らく、百姓は忠興を怨(うら)み、一方で勘兵衛や仁兵衛、ひょっとすると治右衛門も、神として崇(あが)められるであろう。江筋を開いた勘兵衛や治右衛門は、数百年後の人々にも恩恵を齎(もたら)し、未来永劫(えいごう)、歴史にその名が残るであろう。その分、勘兵衛を死に追い遣(や)った忠興は、暗君の謗(そし)りを受け、善昌寺に葬られては、父や祖父にも迷惑がかかる。そういう思いが、有ったのかも知れない。

 忠興は、いつの間にか眠っていた。義概が再び、隠居部屋へ足を運んだ時、中から呻(うめ)き声が聞こえた。
「赤に白抜きの六文銭は、真田信繁の旗。そして突撃して参るのは、毛利勝永。相手に不足は無し。鉄砲隊、前へ。」
忠興の蒲団(ふとん)が、開(はだ)けた。義概はそっと、蒲団を掛け直してやった。義概と一緒に、祖父の看病に訪れた義英が、不思議そうに尋ねる。
「父上、御じじ様は、どの様(よう)な夢を見て居られるのですか?魘(うな)されている訳(わけ)でも無し。」
「戦(いくさ)の夢を、見て御出(おい)でじゃ。」
「戦(いくさ)は、御法度にござりましょう?御じじ様は法度を犯して、戦(いくさ)をしたのでござりまするか?」
「武家諸法度が制定されたのは、元和元年(1615)の事。御じじ様は天下平定の、最後の大戦(おおいくさ)を戦われたのじゃ。」
「相手は、誰にござりまするか?」
「前(さきの)右大臣にして大坂城主、豊臣秀頼殿じゃ。」
「真田信繁とは、松代藩主にござりまするか?」
「いや、松代藩祖真田信之殿の、弟に当たる。兄の信之殿は徳川家に付き、弟の信繁殿は豊臣家に味方した。」
「兄弟で、戦ったのでござりまするか?」
義概は、義英の両肩を掴(つか)んだ。
「御じじ様達、先人の苦労が有った故(ゆえ)に、我等後世の者は、平和な世を過ごす事ができる。それを忘れず、間違っても弟藤丸と、戦(いくさ)をしては成らぬぞ。」
「解(わか)りました。」
義英は素直に頷(うなず)いた。そして、父に告げる。
「御じじ様が、笑って居られまする。」
「どれ。」
義概が父の方へ振り返ると、忠興の表情は実に安らかであった。そして、異変に気付いた。
「息をして居らぬ。典医を!」
従臣は急ぎ、典医を呼び寄せた。典医は慌てて駆け付け、忠興の瞳孔や脈を確認する。そして謹(つつし)んで、義概に申し上げた。
「御老公、御逝去遊ばされました。」
皆、俄(にわか)には信じられなかったが、やがて義英が祖父を呼び、泣き叫(さけ)んだ。家臣も嗚咽(おえつ)を始め、その中で義概は一人父に向かい、静かに合掌した。

 時に延宝二年(1674)十月十三日。享年八十三歳であった。義概は登城し、幕府に父忠興の死を届け出た。

 翌十四日、幕府より虎ノ門藩邸に弔問の使者が遣(つか)わされ、同時に義概の西の丸御番の役を解く旨(むね)、通達を受けた。

 懇意(こんい)の大名からの弔問が相次ぐ中、義概は父の望みに沿うべく、鎌倉光明寺に使者を立てて、葬儀の段取りを行った。

 斯(か)くして忠興を乗せた棺(ひつぎ)は、虎ノ門上屋敷を発し、義概は義英と藤丸、そして江戸詰めの重臣達と共に、相模国鎌倉へ向かった。内藤家の菩提所光明寺は、鶴岡八幡宮の南東、三浦半島に近い、由比ヶ浜の東に在る。ここで十七日、内藤忠興の法要が営まれた。法名は高岳院殿従四位下円誉月心長山大居士。

 御焼香の時、導師が念仏を唱える中、義概は父の声が聞こえた気がした。
「偶(たま)には顔を見せ、国許(もと)の話を聞かせよ。」
鎌倉は磐城と逆の方角であり、参詣するのに帰国、参勤の手続きが要らない。地理的条件から、義概には自(おの)ずと、そう思えただけかも知れない。

 忠興が父政長と共に奥州へ入部した折、磐城平藩は七万石であった。その前の藩主鳥居忠政が、二十年間の治世で拓(ひら)いた新田は五千石。内、四千三百十石は磐城平藩領、残る六百九十石は、泉藩領や窪田藩領とされた。忠興が隠居するに当たり、寛文六年(1666)六月に作成された文書に依ると、磐城平藩七万石本田は、田方高四万八千六百八十四石四斗五升、面積三千六百七十八町七反九畝二十一歩。畠方は二万九十三石二斗六升七合、面積二千九十二町八反九畝七歩。百姓の本屋は四千六百十九軒、男女人口は三万七千七百四十一人。年貢は六割七厘一毛で、地租である本途(ほんと)物成(ものなり)に対し、雑税である小物成は、一両を二石五斗に換算すると、九百九十一両三分。また新田は、田方高一万百十八石一斗八升一合、面積八百九十二町二反三畝十四歩。畠方は高九千九百二十五石三升六合、面積千百九十二町一反六畝十七歩。百姓の本屋は千二百九十五軒、男女人口は九千九百二十六人。年貢は三割五分五厘五毛。本途物成を換金すると、本田は金四千八百八十両銭五百十二文、新田は金千四百十一両二分銭八百二十三文。

 戦国時代の年貢は、凡(およ)そ五割。六割や七割取ると、農民が他国へ流出する怖れが有った。江戸幕府の方針は、農民は生かさず殺さず。太平の世が到来し、農民の出入りが厳しく監視される中、磐城平藩の年貢は六割である。一方、新田に対しての税は、三割五分と軽い。これは戦国の世を開いた北条早雲が、農民を自国へ流入させる為、四割と設定した比率よりも軽い。内藤家の磐城入部から、忠興最初の隠居願いが提出されるまでの四十四年間、磐城平藩は楢葉、磐城、磐前、菊多の四郡に、少なくとも一万六千石の新田を拓(ひら)き、新田の人口は総人口の二割強に上る。

 新たな収入を開発する者には、格別低い税という優遇措置をとり、領内の総生産量、並びに人口を増加させる。一見、税を軽減させれば、藩の収入は減ると思われる。しかし長い目で見れば、領内の田畑は絶えず拡大し、税率が低くとも、藩の総収入は増加する。開発者である農民の暮しは豊かになり、人が増えれば町人の仕事も増える。藩全体が、成長の歯車となって噛(か)み合い、回り続ける。

 しかし、得てして歯車は狂い易い。旱魃(かんばつ)、洪水などの天災は、容赦無く人々の営みを打ち壊す。歯車を回し続ける為、忠興は有能な郡(こおり)奉行を登用した。防災対策の他、打つ手の無い天災時には、税の減免。忠興自身、江戸が焼土となった折は、即座に粥(かゆ)場を設置している。

 国の根本は民である。しかし為政者は時として、行政組織を守る為に、民に重税を課さねば、財政が成り立たぬ時が有る。忠興は財政破綻(はたん)の危機に瀕(ひん)するも、人柄を信頼され、松代藩から一千両の支援を得た。高い利息が掛からずに済んだ為、再び歯車を修理し直し、早急に財政を再建して、松代藩の信頼も得た。

 内藤忠興は自身の努力で大名と成り、戦国武将が集う最後の大戦(おおいくさ)、大坂夏の陣で奮戦した。忠興が死去した延宝二年(1674)、この戦(いくさ)に加わった武将で存命な人物に、徳川家康の六男、松平忠輝がいる。しかし忠輝は、元和二年(1616)に改易されて以来、生涯幽閉されたままであった。大坂の戦(いくさ)の布陣図を眺(なが)めながら、他に存命の武将がいないか探した所、大坂冬の陣で城の東、上杉景勝隊の南に、戸田氏信という武将が出陣している。当時の戸田家当主氏鉄は、近江国膳所城を固めて居り、嫡男氏信が代理として、出陣したと思われる。美濃大垣十万石藩主戸田采女正氏信は、忠興よりも七歳若く、大坂冬の陣では十六歳であった。しかし今の所、戦功の史料が見当たらず、また大名と成ったのは慶安四年(1651)である。

 元和(げんな)偃武(えんぶ)の直前、慶長二十年(1615)に武功を立てて大名と成り、大坂夏の陣で激戦を繰り広げ、江戸の北方鎮護と成り、平和な世を築いた内藤忠興こそ、最後の戦国武将と言えるであろう。

第十三節

最後の戦国武将 目次

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