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第四十四節 相馬家再興
時は流れ、文治五年(1189)七月。陸奥国岩城郡飯野郷の南端、私(きさい)郷より浜街道の隘路(あいろ)を抜け、上綴(かみつづら)より本道を北に逸(そ)れると、大根川(新川)の対岸に上高坂の邑(ゆう)が広がる。そこから大根川(新川)沿いに上流へ向かうと、やがて両岸に小山が連なる様に成る。上高坂の入口より十町ばかり西へ進むと、意外にも、四方を丘に囲まれた僅(わず)かな盆地に、一大伽藍(がらん)が姿を現す。この地は白水(しらみず)と称され、奥州でも有数の仏教都邑(とゆう)と成って居た。
寺院中央の大道(だいどう)を進むと、北方に大きな池が広がり、白や桃色の蓮(はす)の花が、色鮮(あざ)やかに咲き誇って居る。その光景は宛(さなが)ら、浄土が現世に現れたかの如くである。
白水阿弥陀堂
池には朱色の太鼓橋が架けられ、中島へと渡れる様に成って居る。島には一棟の阿弥陀堂が建ち、当寺院の本尊を安置して居た。
内陣中央には、二尺八寸程の木造阿弥陀如来坐像が在り、両脇には左脇侍観音菩薩、右脇侍勢至菩薩が立つ。更(さら)に三尊を守護するべく、前方左右には持国天と多聞天が屹立(きつりつ)する。
来迎(らいごう)印を結び、十二重の蓮(はす)に結跏趺坐(けっかふざ)する阿弥陀如来を前に、薄暗い堂宇の中、一人の武士が合掌して居る。そして呪文を唱(とな)える様な口調で、仏像に問い掛けて居た。
「今、当家は空前絶後の難局に面してござりまする。鎌倉が奥羽征討の軍を挙(あ)げ、海道に向けられし軍勢だけでも、数万に上るとの由(よし)。盟主である平泉は、二年前に大黒柱で在られた秀衡(ひでひら)将軍を失い、岩城へ援軍を送る余裕も無いとの事。もし御祖母(ばば)様が御存命で在らせられたら、この清隆に何と仰せられた事でござりましょう?」
御祖母(ばば)様とは、奥州藤原氏三代秀衡の妹であり、時の岩城平家当主成衡(なりひら)に嫁(とつ)いだ徳姫の事である。夫成衡の没後、剃髪(ていはつ)して徳尼(とくに)御前と称される様に成り、亡夫の冥福(めいふく)を祈るべく、永暦元年(1160)、ここ白水の地に大伽藍(がらん)を建造した。
徳尼(とくに)御前は奥羽最大の勢力である、兄の鎮守府将軍藤原秀衡(ひでひら)を後ろ楯に、成衡(なりひら)没後も岩城家中に強い影響力を持って居た。成衡には子が居らず、後継者は御前の意向も有り、成衡の弟忠清の子、清隆が選ばれた。清隆は好嶋庄(よしまのしょう)地頭職を継いで飯野平に入り、又大伯父が任官した常陸平家棟梁の証(あかし)、常陸大掾(だいじょう)にも任ぜられた。
清隆の後見として岩城家を纏(まと)めて来た徳尼(とくに)御前は、先年病(やまい)に斃(たお)れた。最早家中の大事は、己の決断に因(よ)り対処しなければ成らない。
阿弥陀堂に籠(こも)りながら、清隆は若き頃、徳尼(とくに)御前より聞かされた、一つの話を思い出して居た。それは元服の時に賜(たまわ)った、己(おの)が名の由来であった。清の字は、父忠清の偏諱(へんき)である。そして隆の一字は、徳尼御前が夫成衡(なりひら)より聞いた、ある人物から取った物であるという。岩城家発祥の地の近く、玉川の辺(ほとり)岩崎を治める叔父忠隆も、同じ字を与えられた。特に岩城地方において、由来と成る人物の評判は高いという。平政隆。家祖則道の前に、岩城に君臨した人物である。
未だ武士と農民の区別が曖昧(あいまい)であった、律令体制の残る時代、政隆は腐敗する貴族の政(まつりごと)に嫌気が差す地方の貧しき民を、巧(たく)みに纏(まと)め上げ、東国でも指折りの武士団へと組織し、その先頭に立って悪政と戦ったという。
清隆はここで、武士の団結という物に考えが至った。平泉の当主藤原泰衡(やすひら)は、主戦派の実弟忠衡(ただひら)を暗殺し、又当代随一の軍略家、無敗を誇る九郎判官(ほうがん)をも殺害した。そして家中が乱れたまま、鎌倉方の大軍を迎え様として居る。一方鎌倉の総大将源頼朝は、木曽義仲や平宗盛といった大勢力と戦いつつも、本拠鎌倉を武家の政府として整備し、諸国武士の統率に成功して居る。
武家の棟梁の使命は、配下の武士団をよく統御する事であると思いが至った時、阿弥陀堂に駆け込んで来る物が在った。
「兄上、急ぎ館に御戻りを。岩崎の叔父上より伝令が参り、鎌倉方海道方面寄せ手の大将は、千葉常胤(つねたね)。何万という大軍が、既(すで)に常陸北部を制圧し、菊多近くにまで迫って居る由(よし)にござりまする。」
清隆は静かに立ち上がり、微笑(ほほえ)んだ。
「師隆(もろたか)、御苦労であった。直ぐに戻る。」
自身に満ちた顔で、清隆は郎党を引き連れ、居館の在る飯野平へと引き揚げて行った。
白河法皇の始めた院政は、後に崇徳(すとく)上皇と後白河天皇の対立を招き、保元元年(1156)に戦(いくさ)へと発展した。この戦(いくさ)に加担し、勝利した伊勢平氏清盛と河内源氏義朝は、後白河帝の下、一気に勢力を拡大した。
その後、院の近臣の対立が激化。それに源義朝、平清盛が加わり、平治元年(1159)に再び戦(いくさ)が勃発した。帝(みかど)を擁した清盛は、中央で唯一対抗し得る武力を持つ、頼信以来の河内源氏を打倒し、朝廷内部で突出した武力を持つ勢力と成った。やがては娘を帝に嫁がせ、太政大臣にまで昇り詰め、院の近臣は疎(おろ)か、後白河法皇をも凌(しの)ぐ力を持ち、国政を執り始めた。院政の終結である。
しかし奢(おご)れる平家も久しからず。治承四年(1180)、義朝の子頼朝が伊豆で、その従弟(いとこ)義仲も信州木曽で兵を挙げた。源平合戦の再燃である。清盛の死後、平家の力は急速に衰えた。奥羽を除(のぞ)く全国を捲(ま)き込んだ大乱は、文治元年(1185)、壇ノ浦の合戦において平家が滅亡した事で終りを告げ、源頼朝が関東以西の全土を統一した。
そして文治五年(1189)七月、頼朝は海内統一最後の大戦(おおいくさ)の為に、本拠鎌倉に諸将を召集。二十万を超える大軍を動員し、奥羽へと出陣させた。鎌倉勢は三手に分かれ、頼朝率いる本隊は仙道を進み白河関(しらかわのせき)へ、比企能員(ひきよしかず)率いる一隊は越後より出羽念珠関(ねずがせき)へ、そして千葉常胤(つねたね)率いる一隊は海道を進み、岩城へと迫(せま)って居た。
千葉常胤(つねたね)は、長元の乱で降伏した平常将(つねまさ)の嫡流である。頼朝旗揚げから間も無く麾下(きか)に加わり、今では鎌倉の重臣と成って居た。常胤率いる海道軍の中には、かつて平将門が掲(かか)げて居た、繋(つな)ぎ馬の旗が翻(ひるがえ)って居る。将門の死後、常陸国信太郡浮島に逃れた信田将国の子孫師国(もろくに)が、宗主千葉氏と共に頼朝に従って軍功を挙げ、相馬家の名誉を回復させて居たのである。常胤の子師胤(もろたね)は相馬師国の養子と成り、此度相馬勢を率いて、海道軍に加わって居たのであった。
やがて奈古曽関(なこそのせき)を越えて菊多庄に入った海道軍の前に、岩城清隆の使者が現れた。清隆は平泉を見限り、鎌倉に従う事を決断したのである。岩城氏が降伏すれば、その支配下に在る行方(なめかた)郡まで、何の抵抗も受けずに進軍する事が出来る。大将常胤は、岩城氏の降伏を快く受け容(い)れた。
岩城郡北方の首邑(しゅゆう)が広がる飯野平。浜街道に沿って南からこの地に入るには、川幅の広い大根川(新川)を渡河しなければ成らないが、幸いにも立派な橋が架けて在る。鎌倉勢は悠々と橋を渡り、北東へと進軍して行く。
かつての領主岩城成衡(なりひら)が没した後、その妻徳尼(とくに)御前は館を出て、この橋より少し上流の西岸、高萩という所に庵(いおり)を編(あ)み、そこへ移った。その後度々、川が氾濫(はんらん)して橋が流され、街道が寸断された。それに因(よ)り、生活に苦しむ民人の姿を目(ま)の当りにした御前は、私財の宋銭三百貫を供出し、容易には流されぬ長橋を築かせた。近郷の民は御前の徳に感謝し、「尼子」、「長橋」、「御台境」等の地名を残した。徳尼御前の死後、その守り本尊は、橋を見下ろす丘の上に建つ、小島山地蔵院、別称満蔵寺に移されたという。
鎌倉方の大軍は岩城清隆の軍勢を吸収すると、宮城野で総大将頼朝の本隊と合流するべく、先を急いだ。夏井川を渡り、その後、好嶋庄(よしまのしょう)東部に広がる平野を横断すると、やがて玉造(たまつくり)郷に至り、海に出る。
千葉常胤率いる数万の大軍が湊(みなと)町を過ぎて行くと、程無く邑(ゆう)を貫流する境川の上流より、砂塵(さじん)が巻き起った。この辺りは道が狭く、軍勢は縦に伸び切って居る。もし平泉に味方する勢力の襲撃を受ければ、少々の犠牲では済まされない。鎌倉方に緊張が走った。
所が、謎の一団は距離を置いて停止し、中から将と思(おぼ)しき者が一騎、白旗を掲(かか)げて駆け寄って来る。その武者は鎌倉勢の前で下馬すると、応対に出て来た将に尋ねた。
「旗印を拝見致しまするに、下総国相馬郡の将、相馬師胤(もろたね)様の軍と御見受け致す。我等は奥州に移り住みし、相馬家旧臣、小湊(こみなと)一族の者。将門公以来の相馬家が再興されたと聞き、御仕え致したく存じ、馳(は)せ参じた次第にござりまする。」
相馬家の将は馬上より問う。
「貴殿が、当家の旧臣であるという証(あかし)はござろうか?」
「はっ。これに。」
武者は一振りの脇差(わきざし)を手に取り、差し出す。将は確かに受け取ると、軍勢の中へと消えて行った。
間も無く、別の将が先程の脇差を携(たずさ)え、武士の前に駒を進めて来た。そして、脇差と武士を交互に見ながら告げる。
「儂(わし)は、相馬師国(もろくに)様が一族衆の、筆頭を務める者である。貴殿は何故(なにゆえ)当地に住し、又これを有するのか?」
武士は粛然と答える。
「かつて冷泉(れいぜい)朝の御宇(ぎょう)、奥州の賊徒を征伐して当国岩城を賜(たまわ)った平政氏公は、常州筑波郡に身を潜(ひそ)めておわした将門公の姫君を伴い、岩城の山中に匿(かくま)われ申した。我が祖は将門公の命、即(すなわ)ち五月姫様の警護を全(まっと)うすべく、共にこの地へ移り住んだのでござりまする。その小刀(こだち)は、我が祖先が将門公より賜(たまわ)りし、当家の家宝にござりまする。」
しかし、相馬の将は脇差を見詰めて訝(いぶか)しむ。
「貴殿が所有するは、この小刀(こだち)のみか?」
「はっ。先刻、某(それがし)は病床の兄より家宝の大小の内小刀を賜(たまわ)り、手勢を集め、駆け付けた次第にござりまする。それを旧主に御覧戴ければ、必ずや帰参が認められるであろうと承り申した故。」
漸(ようや)く、将は得心した面持ちと成り、脇差を武士に返した。
「そうか。大刀は貴殿の兄上の元に在るか。確かにその小刀は、かつて将門公が御佩(は)きになられ、一族衆に下賜されし物である。只、今一つ確認したき事が有る。貴殿は岩城清隆殿の臣ではござらぬのか?」
武士は脇差を納めると、真顔と成って言上する。
「いえ、当家は平政氏公の子孫に仕えは致し申したが、則道殿が興せし岩城家の支配下に入った事はござりませぬ。五月姫様は既(すで)に亡く、将門公直系で岩城の領主と成られた御一族も、御冷泉(ごれいぜい)朝の御宇に岩城を去られ申した。最早我等に岩城に留まる謂(いわ)れは無く、願わくば旧主相馬家に仕え、軍勢の端(はし)に御加え戴きたく存じまする。」
将は深く頷(うなず)いた。
「其方(そなた)の申す事、我が家伝と違(たが)わぬ物なり。斯(か)かる北国の地で旧臣と巡り逢(あ)えたは、吉兆に他ならぬ。我が軍に加わり、相馬家の御役に立つが善(よ)い。」
「ははっ。恭悦(きょうえつ)至極(しごく)に存じ奉(たてまつ)りまする。」
武士は深く頭を下げると、配下を纏(まと)め、相馬勢に合流した。
それから半月後、仙道の鎌倉本隊は伊達(だて)と刈田(かった)の境、阿津賀志(あつかし)山において平泉の主力を撃破し、名取にて海道軍と合流を果した。八月二十二日には、藤原泰衡(やすひら)の拠点である平泉を制圧。九月三日、鎌倉の先鋒隊が磐手郡厨川(くりやがわ)に入り、同日、泰衡は譜代の臣である河田次郎の裏切りに遭(あ)い、津軽へ落ちる途中で殺害された。奥州藤原氏はここに滅亡し、源頼朝は海内全州を統一した。
神妙に降伏した岩城清隆は、頼朝より本領好嶋庄地頭職を安堵され、その跡を継いだ師隆(もろたか)は、常陸大掾(だいじょう)に任官した。その子孫は慶長六年(1601)に至るまで、岩城の領主で在り続けた。
又、千葉常胤の麾下(きか)で軍功が有った相馬師胤(もろたね)は、遠祖将門が治めて居た下総国相馬郡の支配を確たる物とした上に、陸奥国行方(なめかた)郡の地頭職を拝命した。これが後に、建武年間に勃発した南北朝の争乱で、相馬郡を奪われた相馬氏が、奥州で生き残る道と成ったのである。
建久三年(1192)、源頼朝は征夷大将軍を拝命した。これまで律令制の下に行われて来た、朝廷に因(よ)る全国支配の体制は既(すで)に消滅し、新たに鎌倉の将軍を頂く幕府が、諸国の守護を纏(まと)める時代と成ったのである。武士の時代は以後久しく、明治元年(1868)に太政官(だじょうかん)が設立され、三年後に廃藩置県が断行されるまで存続した。
第三章 完