第四十三節 源氏と藤原氏

 天喜四年(1056)は、陸奥守兼鎮守府将軍源頼義の任期が、満了する年であった。後任には公卿の高階経重が内定し、陸奥には再び平穏な日々が訪れ様として居た。

 頼義は鎮守府将軍最後の務めとして、安倍領内の奥深く、胆沢(いさわ)鎮守府に軍を進め、視察を行った。安倍頼時は頼義に従順であり、何事も無く、胆沢の視察は終った。

 安倍氏に反逆の動きが無く、平穏無事に任期が終るのであれば、陸奥国府の官吏や近隣豪族としては、一先ず胸を撫(な)で下ろす所である。多賀城への帰途、源氏軍に加わる豪族の表情は様々であった。多くは、源氏と安倍氏の大戦(おおいくさ)に発展せず、安堵する者。又、源氏が去った後、再び安倍頼時が勢力を伸ばすのではと案ずる者。皆、異なる思惑(おもわく)を抱(かか)えて居る様である。

 源氏軍が多賀城へ戻る途中、一大事件が出来した。阿久利河に夜営した時の事、何処(いずこ)の者とも知れぬ一隊が、源氏軍の部将藤原光貞、元貞兄弟の幕営に、夜討ちを懸(か)けたのである。光貞は敵が去ると、直ちに総大将頼義の元へ駆け付け、安倍貞任(さだとう)の為業(しわざ)であると報告した。

 以前、貞任(さだとう)が光貞の父説貞(ときさだ)の元を訪れ、娘を妻にと所望(しょもう)した事が有った。その折、光貞は両家の格式の違いから、断った経緯(いきさつ)が有った。それ故怨(うら)みを買い、自軍だけが襲われたと、説明したのである。

 事情を聞いた頼義は、一先ず多賀城へ軍を引き揚げ、その上で、衣川館の安倍頼時に使者を送った。使者の口上は、安倍貞任(さだとう)に謀叛の疑い是(これ)有り。直ちにその身柄を、国府へ引き渡す事を命ずる物であった。

 この時既(すで)に、安倍貞任(さだとう)の詮議(せんぎ)は終って居た。藤原光貞の証言を以(もっ)て証拠充分とし、処刑が確定して居たのである。ここに初めて、安倍頼時は源頼義の命に背(そむ)いた。

 斯(こ)う成ってしまった以上、最早安倍一族は再び朝賊に落ち、征討の対象と成るのは、火を見るよりも明らかであった。座して討たれるのを待つよりはと、頼時は領内六郡より大軍を召集し、領内十二柵を占領下に置いた。ここに、源頼義と安倍頼時の全面戦争が勃発したのであった。

 源氏軍は要衝衣川関(ころもがわのせき)を攻めるも、隘路(あいろ)険阻(けんそ)の地の利は安倍方に有り。攻め倦(あぐ)んで居る内に、源氏方に流言蜚語(ひご)が飛び交(か)い始めた。安倍頼時の女婿(じょせい)である平永衡(ながひら)が源氏方に加わるは、好機を見て裏切る為であるというのである。間も無く、永衡と四人の郎党は処刑された。

 この報に驚いたのは、同じく安倍頼時の女婿(じょせい)で在りながら、源氏方に加わって居た藤原経清であった。経清は、明日は我が身と案じ、一計を巡(めぐ)らせた。安倍方の別動隊が迂廻(うかい)して、多賀城の奇襲を目論(もくろ)んで居るとの噂(うわさ)を流し、頼義に一時退却を促(うなが)したのである。この混乱に乗じて、妻子を安倍領内へと脱出させ、自らは源氏軍の殿軍(しんがり)を引き受けて、一気に安倍の陣営へ駆け込んでしまったのであった。

 経清にして遣(や)られた頼義は、歯噛(はが)みして悔(くや)しがりながらも、次の手を思案した。十二月、陸奥が再び非常事態に入ったとの報が朝廷に届き、頼義は陸奥守重任(ちょうにん)の許可を得る事が出来た。そして、陸奥の北東端に位置する下北の領主安倍富忠を籠絡(ろうらく)し、南北から挟み討ちにする策に出たのである。

 富忠は頼時の同族である。頼時は話せば解る相手と考え、翌天喜五年(1057)九月、二千騎を伴い、下北へと向かった。しかし富忠には、既(すで)に話し合いに応ずる気は無かった。頼時勢に奇襲を仕掛け、頼時は罠(わな)に陥(おちい)った。二日に渡る戦(いくさ)を経て、漸(ようや)く富忠領を脱する事が出来、衣川を目指して引き揚げて行った。

 途中、安倍頼時軍の敗残兵を、丘の上より見下ろす老人が居た。老農夫は鎌を置いて草地に腰を下ろすと、暫(しばら)く飽(あ)きずに軍旅を眺めて居た。
「あれでは、総大将の頼時殿も無事では済むまい。万一の事有って、貞任(さだとう)殿が家督を継ぐ事態とも成れば、弟御宗任(むねとう)殿の外祖父、清原光頼殿との関係は疎遠(そえん)と成る。愈々(いよいよ)奥州北部も、新たな局面を迎える事と成ろうか。」
そう呟(つぶや)いた老人は、ふと正面に聳(そび)える岩鷲山(岩手山)へ視線を移した。
「殿、近い将来、源氏軍が磐手にまで押し寄せて来るやも知れませぬ。磐城は今、何(ど)の様に成って居るのか。」
岩鷲山(岩手山)を崇拝するこの老人は、かつて平政隆の重臣に名を連ねた、広瀬十郎であった。

 襤褸々々(ぼろぼろ)の姿を晒(さら)したまま、安倍頼時の軍勢は厨川柵(くりやがわのき)を過ぎ、やがて磐井郡内に築かれた鳥海柵(とりみのき)へ入った。ここは頼時の子、弥三郎家任(いえとう)の居城である。頼時が受けた矢傷は深刻であり、衣川に辿(たど)り着く事無く、この地で頼時は身罷(みまか)った。

 それから二ヶ月後の十一月、陸奥には他国に先んじて冬が訪れ、既(すで)に雪が降り始めて居た。頼義は安倍家の大黒柱頼時の死を、密偵を通じて確認すると、直ちに安倍討伐の軍を起した。

 頼義は軍勢を率いて、安倍軍四千騎が駐留する黄海(きのみ)へと出陣した物の、ここで三つの誤算が生じて居る事に気が付いた。一つは兵糧が不足し、千八百騎しか動員出来なかった事。二つ目は、意外にも新当主の安倍貞任(さだとう)が、家中をよく纏(まと)めて居た事。そして三つ目は、吹雪(ふぶき)に遭(あ)い、寒さに慣れた安倍勢に、地の利が生じた事。これ等の計算違いに因(よ)り、源氏方は返り討ちに遭(あ)い、壊滅的な打撃を受けた。宿将が次々と討たれ、総大将頼義率いる本隊も、勢いに乗った安倍勢の追撃を受ける事と成った。

 危機が差し迫(せま)った時、源氏の御曹司八幡太郎義家が、麾下(きか)の六騎と共に踏み留まり、剛弓を放って敵が怯(ひる)んだ所へ斬り込みを懸(か)け、血路を開いた。

 斯(か)くして、頼義父子は無事に多賀城へ帰還する事が出来たが、最早独力で安倍氏と戦う力を喪失して居た。

 十二月、頼義は国解(こくげ)を認(したた)めて太政官に提出し、朝廷に援軍を請(こ)う他に手は無かった。太政官も陸奥国府軍が蝦夷(えみし)に敗れた事を重く受け取め、出羽守源兼長に代えて、源斉頼(なりより)を新たに派遣する事に決めた。斉頼は清和源氏経基の曾孫(そうそん)で、満政の孫、忠隆の子である。頼義とは又従兄弟(またいとこ)の関係であった。しかし、これだけの増援では未だ、安倍氏が固める六郡十二柵を攻略するには、不充分である。頼義は焦燥(しょうそう)に駆られながら、次の策を練(ね)らねば成らなかった。

 翌天喜六年(1058)八月二十九日、元号が康平(こうへい)と改められた。朝廷が海内の安寧を祈願して行われた物とも思われるが、陸奥では国府の威光が著(いちじる)しく衰(おとろ)えて居た。

 安倍一族の将藤原経清は、国府に近い宮城野の中にまで軍勢を繰り出し、税を徴収した。その際に、陸奥国司が押印(おういん)した赤符を徴税令書とせず、印の無い白符を用いる旨(むね)を、農民に通達したのである。遂(つい)に安倍氏は、倭(やまと)の朝廷が定めた律令体制から、完全に脱却する道を選んだのであった。

 やがて、安倍家の徴税者は、北方の磐手郡にも現れた。徴税の主任である武士は、自ら厨川(くりやがわ)近郷の村々を歩き、その目でこの年の収穫高を調べて回った。

 日高見(北上)川に濁川が合流する狼峠山の麓(ふもと)の村まで来た時、道端(みちばた)に精気を失い座り込む、老人の姿が在った。その体躯(たいく)は見事に鍛え上げられ、只の農夫とも思えない。武士は兵を止め、馬を下りて、老人の元へ歩み寄った。
「もし御老人、斯様(かよう)な処に座り込まれて、如何(いかが)された?」
老人は虚(うつ)ろな目を武士に向ける。
「我が主君が身罷(みまか)られ申した。」
「おお、其(そ)は残念な事よ。して、貴殿の御主君とは?」
「閑院太政大臣公季(きんすえ)様が姫君、玉綾御前様にござる。」
武士の顔が一瞬、引き攣(つ)った。
「確かその御方は、磐城郡大領平政隆殿の御内室。」
「はい。政隆様は数年前に亡くなられ、岩鷲山(岩手山)中に葬(ほうむ)り申した。そして今日、御方様の亡骸(なきがら)を、御遺言に因(よ)り、東の高嶺(たかね)に埋葬して参り申した。御夫君の姿が見える様にと、仰(おお)せでござった故。」
それを聞いて、武士は唸(うな)った。
「何とも遖(あっぱれ)な心意気じゃ。政隆殿は死後も磐手と磐城を望み、御内室は節操を守り通された。」
武士は静かに、両山に向かい合掌した。

 やがてゆっくりと直ると、武士は老人に向かい、尋ねる。
「貴殿はもしや、磐城家の広瀬殿では?」
老人は黙したまま、顔を横に背(そむ)けた。武士は尚も食い下がる。
「某(それがし)は藤原経清様が家臣にて、貴殿とは幾度か、席を同じうした事がござる。」
「昔、その様な時が有ったやも知れませぬ。しかし今や、某(それがし)は一介(いっかい)の農夫にて。」
丁寧に辞儀をすると、広瀬十郎はゆっくりと、村へ向かい歩み始めた。その背中に、経清の臣が言葉を投げ掛ける。
「貴殿に磐城へ戻る気がござらぬので在らば、当家に仕えては如何(いかが)か?今や奥州は戦雲に包まれ、貴殿の如き熟練の将を必要としてござる。」
十郎は足を止め、武士の方を振り返った。
「二君に仕えず。」
老人は一言武士に返すと、静かに森の中へと消えて行った。

 その後、広瀬十郎の消息を知る者は居ない。只、磐手郡内には一つの口伝が残された。日高見(北上)川の西岸に聳える岩鷲山(岩手山)には磐城惣領が眠り、東岸の高嶺(たかね)にはその内室が葬られた。故に東の嶽山は姫ヶ嶽、又は姫神山と称される様に成った。両山は夫婦の山であり、其々(それぞれ)岩鷲山大明神と姫ノ宮が祀(まつ)られたという。

 政隆が奥州北部へ率いた軍勢は、沼宮(ぬまく)館を焼き払った後、津軽を経由して、無事に磐城へ帰還する事が出来た。しかし多くの将兵の中で、政隆の死を直に確認出来たのは、極(ごく)一部の者だけである。多くの者はその死を信ずる事が出来ず、後に津軽相馬館に引き揚げて来たに違い無いと、儚(はかな)い希望を語り合った。

 国府多賀城で源頼義が打つ手を欠き、身動きする事が叶(かな)わぬ間、南方では少々、勢力図の変化が生じて居た。

 磐城郡は大領平政隆が没し、権大領(ごんのだいりょう)平政保(まさやす)は不在のままであった。国府軍が敗れて非常事態に置かれた陸奥に在って、郡政が纏(まと)まらぬ様では、不慮の事態に陥(おちい)り兼ねない。仍(よっ)て、磐城郡少領を任されて居た平則道は、非常手段に打って出た。

 石清水八幡宮と皇族に手を回し、好嶋(よしま)、菊多両庄の地頭職を求めたのである。しかし、これは磐城家中において、主君平政保の力を削(そ)ぐ謀叛と見る者も現れた。やがて、則道派と政保派は衝突し、磐城は内戦状態に陥(おちい)ったのであった。

 この戦(いくさ)に勝利したのは、朝廷より正式な官職を戴き、現地で戦(いくさ)を指揮した則道であった。則道は戦(いくさ)が泥沼化し、国力の低下と近隣勢力からの介入が行われる事を懸念(けねん)し、降伏の意思を示す豪族を早々と、自軍に吸収して行った。一部、京の政保を頼って逃亡する者も在ったが、旧主政隆が残した軍団の殆(ほとん)どは、則道の下に纏(まと)まる事と成ったのである。

 しかし、政保が急を聞いて下向に及ぶ事が有れば、折角(せっかく)落着きを見た郡政に、再び乱れが生じてしまう。則道は一計を案じ、政保に宛(あ)てて書状を認(したた)めた。内容は、則道が兵を起したのは飽(あ)く迄(まで)、非常時に磐城を纏(まと)める為であり、惣領政保不在の間、一時的に政(まつりごと)を預かって居るに過ぎないと説明した。加えて、陸奥では国府軍の敗北で秩序が乱れ、下向の折は呉々(くれぐれ)も慎重にと、申し添えた。

 この書状を見て政保(まさやす)は安堵したのか、磐城奪回に向けて動く事は無かった。この間、則道は海道諸郡に勢力を伸ばし、「海道小太郎」と称される様になった。

 則道の台頭に因(よ)り、磐城豪族の勢力図も大きく変わった。かつて、平政氏の時代に重要された近藤、斎藤、佐藤、江藤の四氏は村岡重頼以来、雌伏(しふく)の時を送って居た。その子孫は、やがて則道の興した家に仕え、磐城判官政氏の時代に四家が興隆して居た事を偲(しの)び、「四家」(しけ)を姓としたと言う。

 一方、同じく雌伏(しふく)の時を過ごして居た陸奥守源頼義は康平五年(1062)、漸(ようや)く反撃の好機を得た。出羽国仙北三郡の長(おさ)、清原氏を味方に加えるべく交渉を続けて来たが、遂(つい)に源氏方に加わる事を承諾したのである。当主清原光頼は、仮にも安倍宗任(むねとう)の外祖父であり、参戦には消極的であった。しかし義弟武則が中心と成り、宗任が継げなかった安倍氏に義理立てするは不利と、強く主張した。やがて抑え切れなく成った光頼は、遂(つい)には武則に対して、出陣の許可を下すに至った。

 清原武則は、岩城則道の実弟である。(註:則道は中世岩城氏の祖である為、ここから磐城の字を岩城と改める)かつて実父平安忠が出羽権守(ごんのかみ)に就任した折、出羽支配を有利に進める為、有力豪族清原光方の元へ養子に出された。しかし清原家には、既(すで)に嫡男光頼が居た為、殆(ほとん)ど人質に近い扱いを受けて来た。武則も長い雌伏(しふく)の時を過ごし、今漸(ようや)く、仙北三郡一万騎の総大将に成ったのである。

 七月、清原一万騎は栗駒山南麓を迂回(うかい)し、源氏軍が駐屯する営岡(たむろがおか)において合流を果した。安倍宗任(むねとう)の一族清原氏が敵に回った事で、安倍の家中に動揺が走った。源氏軍三千騎に清原の大軍を加えた国府軍は、安倍氏の城柵を次々と撃破した。衣川の難所も破られ、安倍貞任(さだとう)は遂(つい)に、磐手郡厨川柵(くりやがわのき)へと追い詰められた。

 九月十五日の夕刻、源氏、清原連合軍は総攻撃を開始した。そして三日目の十七日、遂(つい)に厨川柵(くりやがわのき)は落城し、当主安倍貞任(さだとう)は斬死(きりじに)した。一族も悉(ことごと)く捕えられ、その殆(ほとん)どが処刑された。藤原経清も虜(とりこ)と成って斬殺されたが、その妻は戦利品として清原武則の嫡男、武貞の元へと送られた。この時、経清の子も武貞の養子と成る事で、命を救われる事と成った。

 また、安倍の嫡流では安倍宗任(むねとう)のみ、清原の血を引く故に死罪を免(まのが)れ、伊予国へ流された。後年、源義家が信を置く家臣と成る。

 ここに漸(ようや)く、永承六年(1051)の鬼切部(おにきりべ)合戦に端を発する、「前九年の役」と呼ばれた長い戦(いくさ)は終結した。しかし、折角(せっかく)の勝利にも拘(かかわ)らず、源頼義は陸奥に地盤を築く事は叶(かな)わなかった。頼義に残された任期は残す所四ヶ月程であり、加えて手を組んだ清原氏の勢力は、余りにも強大であった。

 翌康平六年(1063)二月の行賞で、頼義は正四以下伊予守に叙任され、嫡子義家は従五以下出羽守、次子義綱も左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)に任ぜられた。源氏は義家が一部の兵を纏(まと)めて出羽国府に入った他は、悉(ことごと)く他国へと移されたのである。

 代わって奥羽最大の勢力に成長したのは、清原家当主光頼ではなく、源氏軍と共に戦った功績に因(よ)り従五位下鎮守府将軍を拝命した、義弟武則であった。武則は、安倍貞任(さだとう)の旧領奥六郡を制圧すると共に、次第に兄光頼が治める仙北三郡の支配権をも獲得し、誰もが清原家の惣領として認める力を備えて行った。

 一方の奥州南部では、海道諸郡が岩城則道の実質支配化に入り、平安忠流常陸平家隆盛の時代と成った。

 岩城則道、清原武則兄弟の台頭とは裏腹に、凋落(ちょうらく)する氏族も在った。治暦四年(1068)四月十九日、藤原道長最後の外孫である帝(みかど)が崩御した。享年四十四歳。これを受けて皇太弟尊仁(たかひと)親王が践祚(せんそ)。先帝は御冷泉(ごれいぜい)天皇と諡(おくりな)された。

 第七十一代新帝の外祖父は、第六十七代三条院であり、帝(みかど)の歳も既(すで)に三十五である。遂(つい)に藤原摂関家は、帝(みかど)の外戚(がいせき)として、政(まつりごと)を独占する力を失う事と成った。新帝は、村上源氏内大臣師房(もろふさ)や、権大納言藤原能長(よしなが)を登用。宇多院以来の、藤原氏を外戚としない帝に因(よ)る、親政を開始した。

 翌治暦五年(1069)四月十三日には元号を延久と改め、手始めに荘園整理令を発布した。これは記録荘園券契所を設置し、従来と比して厳しく公正に、荘園の調査を実施した物である。藤原摂関家を本家とする荘園を幾(いく)つも、違法として運営を中止させた。これに因(よ)り、摂関家の力を削(そ)ぐと共に、皇室の財源補強が行われる事と成った。

 この時摂関家では、太政大臣頼通(よりみち)と関白教通(のりみち)の仲が険悪と成り、対抗する手を打てずに居たのである。他方、備中介に追い遣(や)られて居た閑院藤原実季(さねすえ)は、亡き姉滋野井御息所の夫で、義兄に当たる人物が帝(みかど)と成り、一気に運が開けた。この年、左近衛中将、蔵人頭(くろうどのとう)と、左京大夫を兼帯する事と成ったのである。

 親政の影響は奥州にも及んだ。征夷の完遂(かんすい)を目指した帝は、陸奥守源頼俊に勅命を発し、国府軍を北上させた。途中、藤原基通が国司の印鑰(いんやく)と正倉(しょうそう)の鍵(かぎ)を持って逃亡する事件が発生するも、下野国において国守源義家の元へ出頭。基通は逮捕(たいほ)され、一応の解決を見た。

 国府軍は清原勢を加え、津軽下北両半島へと兵を向けた。清原勢の総大将は、武則の跡を継いだ貞衡(さだひら)である。延久二年(1070)十二月二十六日付の報告書で、国司頼俊は本州全土が倭(やまと)の支配下に入った旨(むね)の戦果を奏上した。

 翌年、国府軍の副将を務めた清原貞衡(さだひら)は、晴れて鎮守府将軍の大命を拝し、清原家当主の地位を固める事に成功した。この後朝廷は、久慈(くじ)郡と糠部(ぬかのぶ)郡を新たに設置した。

 延久四年(1072)、尊仁天皇(たかひと)は退位して後三条上皇と成り、十二月八日、皇太子貞仁(さだひと)親王が第七十二代の天皇に即位した。後三条院は、かつての宇多院の如く、上皇の立場から政(まつりごと)を行う、院政を始め様と考えたのである。

 これに因(よ)り、一時は陽の当たらぬ所へ追い遣(や)られて居た閑院藤原実季(さねすえ)は、遂(つい)に帝の外戚(がいせき)と成るに至った。

 翌延久五年(1073)五月七日、親政から院政への移行を実現させ様として居た後三条院は、病(やまい)を得て齢(よわい)四十で薨(みまか)った。延久年間に多くの業績を残した後三条院の政(まつりごと)は終り、貞仁(さだひと)天皇の新たな時代が到来した。帝の叔父である閑院実季(さねすえ)は、この年従三位へと昇り、検非違使(けびいし)別当と左兵衛督(さひょうえのかみ)に任ぜられた。

 年が改まり延久六年(1074)二月二日、藤原道長の名跡を継ぎ、藤原摂関家の全盛期を過ごした太政大臣頼通(よりみち)が、八十三歳の生涯を全(まっと)うした。

 八月二十三日、新帝の即位後初の改元が行われ、元号は承保(じょうほう)と改められた。この年、閑院実季(さねすえ)は正三位権中納言に叙任され、遂(つい)に念願であった、太政官における発言力を回復させた。

 翌承保二年(1075)九月二十五日、摂関家の重鎮であった関白太政大臣教通(のりみち)も薨去(こうきょ)した。太政大臣は空位と成り、関白職には故頼通の嫡男、左大臣師実(もろざね)が就任した。師実に久しく仕えて来た平政保は、長い雌伏(しふく)の末、正五位下民部大輔に叙任された。家祖平良将以来、最も高位高官に就(つ)いた事に成る。一方で、閑院実季(さねすえ)はこの年も昇進が有り、正二位右衛門督(うえもんのかみ)に就任した。

 一方東国においては、朝廷の気付かぬ所で、官位は低くとも大きな勢力が育って居た。この年七月十三日に逝去した源頼義の跡を継ぎ、源氏の棟梁と成った源義家の元に纏(まと)まる坂東武士団。加えて、奥州最大の勢力に伸し上がった清原貞衡(さだひら)である。又、海道を制圧した岩城則道も、今や平政保を凌(しの)ぐ力を、地方で備えて居た。

 東国に再び大きな戦雲が巻き起ったのは、それから八年後の事であった。奥羽九郡の覇者清原貞衡(さだひら)は既(すで)に亡く、長男真衡(さねひら)が家督を継いで居た。しかし真衡には中々跡継ぎが生まれず、ある時、祖父武則の本家である常陸平家泰貞の子、小太郎成衡(なりひら)を養子に迎える事に決めた。だが成衡は、真衡とは血族とはいっても、清原の血縁ではない。真衡には義弟清衡(きよひら)と異母弟家衡(いえひら)が居り、家中は俄(にわか)に不穏な雲行きと成って行った。斯(か)かる状況下、真衡は独断で、成衡の養子縁組を断行したのである。

 加えて、常陸国筑波郡の多気致幹(むねもと)に使者を送り、その孫娘を養子成衡の嫁に迎えたい旨(むね)を伝え、これも実現する運びと成った。その娘は、源頼義と致幹の息女の間に生まれた経緯(いきさつ)が有り、真衡に取っては、常陸平家と河内源氏、双方と縁戚に成る狙(ねら)いが有った。

 斯(か)くして清原家では、当主真衡(さねひら)の養子を夫婦で迎える祝賀の席が設けられ、奥羽各地より祝福を申し上げる使者が、続々と訪れた。この中に、嘗て清原武則の下で前九年の役を戦った、吉彦秀武(きみこのひでたけ)という武将が居た。武則の娘を娶(めと)り、真衡の義理の叔父に当たる、一族の重鎮である。

 秀武は献上品の砂金を持参して真衡(さねひら)に謁見(えっけん)するも、真衡は奈良法師との囲碁に興じ、秀武を無視し続けた。秀武は臣下と雖(いえど)も、清原家興隆の功臣であり、且(か)つ真衡の叔父である。その無礼に堪(た)え兼ね、進物(しんもつ)を投げ捨て、出羽の所領へ引き揚げてしまった。

 そして秀武は、真衡(さねひら)打討の兵を挙(あ)げた。これを受け、真衡は直ちに兵を纏(まと)めて出羽に向かったが、秀武に呼応して、弟の清衡(きよひら)、家衡(いえひら)が叛旗(はんき)を翻(ひるがえ)した。真衡は急報を受けて本城に戻り、清衡と家衡の軍を追い払いはした物の、ここに清原家は真っ二つに割れてしまい、奥羽は再び戦雲に包まれる事と成った。

 斯(か)かる折の永保三年(1083)秋、河内源氏の棟梁源義家が陸奥守に就任し、多賀城に赴任して来た。真衡(さねひら)はこの報に接すると、直ちに多賀城へと向かい、三日三晩の饗応(きょうおう)で義家を持て成した。その上で、義家に奥羽の情勢を告げたのである。

 真衡(さねひら)の養女は母が違えど、義家の妹に当たる。義家は陸奥守の責務として、又真衡の親類として、清原家中の反乱勢力を鎮圧する動きに出た。思惑(おもわく)通り、真衡は源氏の支援を得て、家中の反抗勢力の掃討(そうとう)に移る事が出来た。源氏の参戦に因(よ)り兵力が増強された真衡軍は、守りを盤石としつつ、大軍を出羽へ向け、反乱の首魁(しゅかい)である吉彦秀武の所領へと向かった。

 しかし、ここで事態が急変した。出羽陣中において真衡(さねひら)は、俄(にわか)に病(やまい)に斃(たお)れ、帰らぬ人と成ったのである。真衡の死が奥羽に広まって間も無く、清衡(きよひら)と家衡(いえひら)の両名は源氏の陣営に出頭し、謝罪を申し上げた。ここに、反真衡勢力は矛(ほこ)を納め、清原家の内紛は終結した。

 戦後処理で義家は、強大な清原の勢力を分割するべく、奥六郡を三郡ずつ、清衡(きよひら)と家衡(いえひら)に分け与えた。そして真衡(さねひら)の養子成衡(なりひら)には、義家が下野国塩谷郡内に持つ所領を与え、妹と共に陸奥を退去させた。その後成衡は、常陸の豪族中郡頼経に討たれたという噂(うわさ)が流れ、その消息を絶った。

 義家の清原分割策は、恒久平和には繋(つな)がらなかった。清衡(きよひら)が拝領した三郡、胆沢(いさわ)、江刺(えさし)、和賀(わが)の地は、鎮守府の周辺であり、清原領内では最も拓(ひら)けた地方であった。一方、家衡(いえひら)が拝領した稗貫(ひえぬき)、紫波(しわ)、磐手(いわて)の三郡は北方に位置し、清衡領と比べれば未開の地である。義家は清衡を兄として立てたのかも知れないが、ここに又、清原内部の複雑な事情が有った。

 清衡(きよひら)と家衡(いえひら)の母は安倍頼時の娘で、前九年の役の最中、藤原経清の子、清衡を儲(もう)けた。しかし厨川柵(くりやがわのき)落城後は清原貞衡(さだひら)の後妻とされ、弟家衡が生まれたのである。清衡は清原の血を引いては居らず、それ故に、嫡流意識を持つ家衡は不満を抱(いだ)いた。

 応徳二年(1085)、遂(つい)に家衡(いえひら)は兵を挙(あ)げ、清衡(きよひら)の居館、江刺(えさし)郡豊田を急襲しした。清衡の妻子は討たれたが、清衡自身は何とか逃げ延び、多賀城に弟家衡の反逆を訴え出た。ここに陸奥守義家は家衡を賊軍と断じ、清衡への支援を約束した。これに対し、家衡は清原古来の所領である出羽仙北へと移り、叔父清原武衡(たけひら)の援軍を得て、金沢と沼の、両柵の防備を固めた。

 この頃都では、一つの訃報(ふほう)が宮中を駆け巡って居た。先帝とその生母陽明門院は、帝(みかど)の異母弟実仁(さねひと)親王を皇太弟に立て、更(さら)には次の継嗣(けいし)に、これ又異母弟の輔仁(すけひと)親王が推挙されて居た。しかしこの年、皇太弟実仁(さねひと)親王が病死したのである。

 翌応徳三年(1086)十一月、先帝の意向である輔仁(すけひと)親王の立皇太弟を無視し、帝は八歳の実子善仁(たるひと)親王を、皇太子に立てる勅命を発した。そして直後の二十六日、帝は譲位を行い、白河上皇と成った。国政の実権は白河院が握ったままであり、ここに院が政(まつりごと)を行う、院政が始まる事と成った。

 同じ頃、奥羽の冬山の中を、国府軍は敗残兵の如くさ迷って居た。家衡(いえひら)居城の沼柵(ぬまのき)まで攻め込みながら、攻め倦(あぐ)ねて居る内に、冬将軍が到来したのである。源氏方の兵糧は欠乏し、撤退の間にも多くの兵が斃(たお)れた。朝廷は義家に対し、清原の内訌(ないこう)は飽(あ)く迄(まで)私闘であり、勝手に介入した陸奥守に、支援は行わない事を通告して居たのである。

 年が明けて応徳四年(1087)。この年は改元が行われ、四月七日に元号は寛治(かんじ)と改められた。

 昨年大敗を喫(きっ)した事で、国府多賀城の義家は慎重に成って居た。夏に成っても動かず、やがて秋の風情(ふぜい)が漂(ただよ)い始める八月、義家に朗報が入った。弟の新羅三郎義光が、援軍を引き連れて参陣しに来たのである。しかも、朝廷が出陣の許可を下さない為、官職を辞して来たという。

 弟の勇気有る行動に励(はげ)まされた義家は、九月に入って軍勢を出羽に向けた。此度は吉彦秀武も援軍に加わり、金沢柵に籠(こも)る家衡(いえひら)軍は、孤立無援の状況に置かれる事と成った。

 しかし、金沢柵(かなざわのき)の守りは固い。そこで秀武は兵糧攻めを進言し、その策が採られた。斯(か)くして十一月十四日、金沢柵より火の手が上った。源氏方は直ちに突入し、混乱極(きわ)まる城柵を制圧した。

 下男(げなん)に扮(ふん)して脱出を試みた家衡(いえひら)、近くの沼辺に潜(ひそ)んで居た叔父武衡(たけひら)は共に捕えられ、賊軍の将として処刑された。故真衡(さねひら)が源氏を清原家中の諍(いさか)いに捲(ま)き込んでから四年。後に「後三年の役」と呼ばれた戦(いくさ)は終りを迎え、陸奥六郡と出羽三郡の覇者に君臨したのは、義家と共に戦った清原清衡(きよはらのきよひら)であった。義家は戦(いくさ)の為に任期の大半を使い果し、此度も源氏の地盤を陸奥に築く事は叶(かな)わなかった。

 寛治二年(1088)正月、土豪の内紛に介入して官物(かんもつ)の納付を滞(とどこお)らせた咎(とが)に因(よ)り、源義家は陸奥守を罷免(ひめん)された。桜の季節、義家は配下の坂東武者を故郷へ帰すべく、海道を南へ進んだ。途中、常陸との国境に在る奈古曽関(なこそのせき)を通り掛かった折、義家は三十一(みそひと)文字を残した。
  吹く風を 勿来(なこそ)の関と 思えども 道も狭(せ)に散る 山桜哉(かな)
その後、朝廷から義家に恩賞が下される事は無く、配下の武士を動員する為に要した戦費は、義家が私財を投じて賄(まかな)った。この事から、坂東武者は朝廷よりも、源氏の棟梁を信頼する様に成ったという。

 兄義家とは異なり、弟の義光は戦(いくさ)から五年後の寛治六年(1092)、従五位下刑部大丞(ぎょうぶだいじょう)へと昇進した。しかしこの頃、奥州菊多庄(きくたのしょう)を巡り、修理大夫藤原顕季(あきすえ)と諍(いさか)いを起して居た。顕季は昨年没した閑院大納言実季(さねすえ)の猶子(ゆうし)で、白河院の近臣として勢力を振(ふる)って居た。菊多庄は、則道が先君政隆の伝(つて)で院に寄進して居たが、院より委(ゆだ)ねられた荘園支配の権限を巡り、衝突したのである。

 義光等武士に取って、所領は命である。白河院は武家の暴走を案じ、顕季(あきすえ)を諭(さと)して譲らせる事で、本件を決着させ、義光は菊多庄の支配権を獲得した。

 源氏の棟梁義家が嘉承元年(1106)に没すると、忽(たちま)ち後継者を巡る争いが勃発した。義家の嫡孫為義は未熟であり、後見人義忠、従弟(いとこ)の義明が次々と殺害され、義光は惣領家の争いから身を引き、菊多庄の西方、久慈川の上流に位置する依上(よりがみ)郷へ移った。義光は河内源氏棟梁の座を狙(ねら)うのを諦(あきら)める代わりに、この地で覇権を目指す事にしたのである。

 この頃の逢隈(阿武隈)地方には、既(すで)に石川源氏という有力な勢力が存在した。前九年の役で源頼義の麾下(きか)、大和源氏柳瀬流の当主源頼遠が戦死するも、その子有光が指揮権を継承し、源氏方の勝利に貢献した。戦後、恩賞として有光は従五位下安芸守に叙任し、奥州仙道七郡の内、六十六郷を賜(たまわ)ったのであった。有光は白河郡より分立した石川庄に入り、やがて杜(やしろ)川へ北須川が合流する辺りの丘陵地に三蘆(みよし)城を築き、居城と成した。

 石川源氏の台頭に因(よ)り、かつて磐城郡司平政道の下で大老を務めた高野氏は、その勢力下に組み込まれて行き、姿を消して行った。

 北に石川源氏、東に岩城平氏、西に逢隈(阿武隈)の連山と接する依上(よりがみ)城の源義光は、勢力拡大の道を、南の常州佐竹庄(さたけのしょう)へと見出(みいだ)した。この地を治める守山氏の祖勝秋は、平政隆の伯父である。義光は、妻の実家と同族である筑波の大掾(だいじょう)平氏を通じて、守山氏を孤立させた上で、久慈川下流へと軍を進めた。

 やがて守山氏を滅ぼし、佐竹庄を制圧した義光の子孫は、後に常陸国最大の勢力を築いた。又義光の子義清は、那珂川の河口近く、武田の地まで進出したが、子の不行状から甲斐国へと流され、後年子孫は甲信地方の雄と成った。

 一方で、奥州北部を制圧した清原清衡(きよひら)は、京の公卿に接近し、自由に軍事行動を起す為に必要な陸奥押領使(おうりょうし)の官職と、実父経清の姓藤原を、奥州の砂金を以(もっ)て買い取った。ここに奥州藤原氏の祖と成った清衡は、京で直(じか)に目にした浄土様式の寺院に心を打たれ、長治二年(1105)、本拠とした平泉の地に中尊寺を建立した。

 又、清衡は遠交近攻策の一環として、奥州南部最大の勢力であり、清原氏の同族である岩城則道を重視し、娘を岩城家へ嫁がせた。

 奥州は前九年、後三年の役(えき)を経て、新たな武士団が台頭した。かつて奥州最大の勢力と謳(うた)われた磐城判官政氏の子孫は、摂関政治から院政、やがて訪れる武家政権の濁流の中に呑(の)み込まれ、何時(いつ)しか歴史の渦(うず)の中へと消えって行った。

 只、磐城判官政氏が再興した鳥見野原の古社が、社記「鏡ヶ丘由来記」を残し、かつて政氏の一族が磐城を治めて居た事実を、後世へと伝えた。

 

愛宕神社(旧鳥見野社)

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