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第四十二節 磐手の山神
奥州津軽は雪に埋もれたまま、永承六年(1051)の正月を迎えた。昨秋に米穀の徴税が出来た為に、兵糧には幾許(いくばく)かの余裕が有る。しかし、陸奥国は依然緊張状態に在り、兵を解(と)く訳には行かない。と成ると、兵糧(ひょうろう)も今の備蓄では満足とは言えず、新年の宴(うたげ)も自ずと、些細(ささい)な物と成った。
新春と雖(いえど)も、相馬館から見える景色は、一面の雪原である。道は雪に閉ざされ、秋田城とは粗(ほぼ)遮断(しゃだん)されたに等しい状況であった。
津軽において、磐城勢が雪の中に埋もれて居る間にも、春は徐々に北上して居た。やがて宮城野の雪が融(と)け、奥州山脈の枯木から嫩芽(どんが)が萌(も)え始めた頃、出羽国最上方面より、続々と軍旅が雪山へ入って行った。
この時、陸奥国府軍は国守藤原登任(なりとう)を総大将に戴き、安倍頼良領の直ぐ南に位置する伊治(これはる)城に二千の軍を進め、安倍方を大いに警戒させて居た。奥羽山脈を進む軍勢は、伊治城軍の別動隊であり、秋田城介平繁茂率いる出羽軍であった。秋田、由利(ゆり)、飽海(あくみ)、最上(もがみ)と、進路に当たる諸郡より兵を徴発し、その数は優に三千を超して居た。
出羽軍は、羽州最上郡と奥州玉造郡の国境である立花峠を越え、栗駒山中を踏破して、一気に安倍頼良の本拠、衣川を急襲する積りであった。しかし、出羽軍の隠密行軍は安倍方に察知されて居り、峠の先、荒雄岳の麓(ふもと)鬼切部(おにきりべ)にて、伏兵に遭(あ)った。
奇襲を仕掛ける筈(はず)が、逆に待ち伏せに遭(あ)い、出羽軍は数で優(まさ)りながらも、激しく混乱した。安倍勢は、地の利を活かした巧(たく)みな陣形で出羽軍を浮足立たせ、遂(つい)には潰走(かいそう)させるに至った。
大将平繁茂は捕虜と成り、安倍軍は余勢を駆って、一気に伊治城へ迫(せま)った。ここが落ちれば、国府多賀城も危(あや)うく成る。安倍軍の先鋒隊は、鬼切部(おにきりべ)の合戦に勝利して士気が高まり、伊治城外に陣を張って、陸奥国府軍を強く威圧した。加えて、友軍の将として頼みにして居た平繁茂が敵の虜(とりこ)と成った事で、国守登任(なりとう)の戦略は破綻(はたん)して居た。伊具の平永衡(ながひら)は安倍頼良の女婿(じょせい)であり、頼みと成るのが亘理(わたり)の藤原経清だけでは、頼良の本隊が到着すれば一溜(ひとたま)りも無い。
登任(なりとう)は已(や)むなく、平永衡(ながひら)を通じて和睦(わぼく)の措置を執り、時を稼(かせ)いで居る間に、朝廷に援軍を請(こ)う事にした。安倍頼良は戦(いくさ)を挑まれたが為に返り討ちにしただけであり、国府や朝廷と全面的に争う積りは無い。平繁茂の身柄を伊治城に引き渡し、軍勢も所領の内へと撤収させた。
事は、登任(なりとう)の思惑(おもわく)通りには運ばなかった。陸奥守の報告を受け、関白頼通は直ちに左近衛府において仗議(じょうぎ)を召集した。迂闊(うかつ)に戦端を開き敗北した咎(とが)に因(よ)り、登任には更迭(こうてつ)の処分が下される事と成った。又、新任の国司が赴任するまでの間、亘理郡司藤原経清に陸奥権守(ごんのかみ)を兼帯させ、安倍氏との間を平静に取り持つ様命じた。
一方で、津軽の相馬館に留まって居た磐城平家の将兵には、消沈した空気が漂(ただよ)って居た。秋田城と連絡が取れる様に成ってから、次々と悪い報せばかりが入って来る。平繁茂は安倍方の虜(とりこ)と成った身を恥(は)じ、再び秋田城に戻り、兵馬を整える事は無かった。ここに秋田城統轄(とうかつ)権は、出羽守へと移って行った。又、国司代行を仰せ付かった藤原経清は、平永衡(ながひら)と連携して、宮城野に展開して居た国府軍を解散させた。安倍頼良の周囲で大軍を動員したままで居るのは、政隆一人に成ってしまったのである。
相馬館では度々、磐城へ引き揚げるべきか如何(どう)かが話し合われた。ここにおいて政隆は、嫡子政保(まさやす)の主君藤原師実(もろざね)、延(ひ)いては関白家という人脈を通じて、安倍頼良に先んじて朝廷の意向を察知し、動くという方針を採る事にした。
幸い、交易税に手を出さぬ磐城軍に対し、安倍方は徒(いたずら)に戦(いくさ)を仕掛けるのを控えて居る様である。朝廷が文官を遣(つか)わして、平和裡(り)の解決を望むのであれば、直ちに撤退の命を下す。逆に、朝廷の威光を陸奥に遍(あまね)く示すべく、武家の棟梁を派遣して来るのであれば、話は変わって来る。大軍を津軽に留めて置けば、後任の陸奥守より更(さら)なる徴兵を求められずに済み、徒(いたずら)に兵を失うのを避ける事が出来る。
秋の除目(じもく)と並行して、朝廷は遂(つい)に陸奥守の後任を決定した。当人事を逸(いち)早く津軽へ報せたのは、関白家に仕える政保ではなく、政隆の主家に当たる、閑院藤原実季(さねすえ)であった。実季は司召(つかさめし)の除目(じもく)において、侍従の職を拝命した。閑院藤原家再興の希望である。
実季は己の人脈を活(い)かして入手した情報を、閑院殿で預かる政隆の子を通じ、奥州へ送ったのであった。実季の書翰(しょかん)が津軽に届いたのは冬の入り。秋田城まで退(ひ)くか如何(どう)かの判断を下す、ぎりぎりの季節であった。
ともあれ、今後の行動予定に選択肢が増えたは、良い事であった。政隆は閑院家より書状が遣(つか)わされた事を大層喜び、直ぐに使者を評定の広間へ呼ぶ様に命じた。
国府軍が瓦解(がかい)した今、何時(いつ)までも安倍氏の縄張(なわばり)である津軽に軍を留め置けば、頼良を不快にさせるだけで、何(いず)れ窮地(きゅうち)に追い遣(や)られてしまうと危惧(きぐ)する将が、多く居た。彼等の求めに応じ、撤退か残留かを決する軍議が開かれ様とした時に、使者は広間に通されて来たのである。
その使者を見て、磐城家諸将は愕然(がくぜん)とし、言葉を失った。唯一政隆だけが、低い声を発する。
「何故(なにゆえ)、其方(そなた)がここに?」
政隆の前で座礼を執ったのは、妻の玉綾御前であった。
御前は神妙に、夫に返答する。
「閑院家の遣(つか)いにござりまする。誰にでも任せられる物ではござりませぬ。主な重臣方は殿に御供し、岩ヶ岡の則道殿は郡政を預かる身でござりまする。仍(よっ)て、私が参った次第にござりまする。」
政隆の語気が荒く成る。
「女子(おなご)の来る処ではない。郡政は政保(まさやす)が執り、則道を遣(よこ)せば良いではないか。」
「政保は師実(もろざね)様の後援で官職を賜(たまわ)り、磐城へ戻る事が叶(かな)いませぬ。」
「何と。」
政隆は大きく息を吐(つ)いた。今こそ、政保を磐城武士団の後継者として認めさせる好機であったのに、それを棒に振ってしまった事に落胆を覚えた。
「仕方が有るまい。して、実季(さねすえ)様からは何と?」
御前は木箱の紐(ひも)を解き、中に納められて在った書翰(しょかん)を差し出した。
政隆はじっくりと書翰(しょかん)に目を通し、やがてそれを膝(ひざ)の上に置くと、真顔で諸将を見渡した。
「閑院侍従様からの、確かな報せである。藤原登任(なりとう)殿の後任に、朝廷は源頼義殿を宛(あ)てた由(よし)。」
諸将は騒(ざわ)つき、互いに顔を見合わせる。河内源氏の棟梁源頼義といえば、二十年前に房総で勃発した平忠常の乱鎮圧に軍功有り、三年前に逝去した先代頼信の跡を継いだ武家である。その勢力は坂東南部に広がり、坂東だけでも数千の兵を召集する力が有ると見られて居る。未だ家督を継いで日は浅いが、当代随一の武士団との名声も聞こえる。朝廷は飽(あ)く迄(まで)武力を以(もっ)て、蝦夷(えみし)にその威光を示そうとして居る事が窺(うかが)えた。
河内源氏は頼信の代で、伊勢平氏を凌(しの)ぐ海内一の武力を得た。それを以(もっ)て頼義が安倍氏を討てば、東国の覇者と成るのも夢ではない。又、長元の乱を戦った兵(つわもの)であるならば、それ位の野心は有るであろう。
政隆の腹は決まった。もう一年津軽で越冬し、奥州の情勢を見極(みきわ)める事としたのである。河内源氏の棟梁が着任するのであれば、安倍頼良も下手(へた)に軍事行動を起す事は出来ない。そういう認識の下で、諸将は津軽残留に同意した。
北国の冬は早々と遣(や)って来る。道は雪に閉ざされ、身動きが執れなく成る。そう成る前に、玉綾御前を磐城へ帰して置きたかった。しかし時既(すで)に遅く、その日の夜半から津軽は猛烈な吹雪に見舞われ、漸(ようや)く晴れ間が見えた時には、辺りは一面深雪(みゆき)に覆(おお)われて居た。斯(こ)う成れば、最早輿(こし)での通行は不可能であり、徒(かち)でも秋田城へ向かうのは危険である。已(や)むなく政隆は、玉綾御前を津軽に留める事にした。しかし御前に取っては、誰も身寄りの無い磐城に独り居るよりも、頼みと成る夫の側に居る方が、遙(はる)かに安心して過ごせるのであった。
年が改まり永承七年(1052)、関白藤原頼通は摂関家長者の威信を世に知らしめる為、一大建造物を落成させた。亡父道長より譲り受けた宇治河畔(かはん)の別荘を寺院に建て替え、朝日山平等院と成したのである。特に注目を集めるたは、阿字池の中島に建立中の阿弥陀堂である。当代建造技術の粋(すい)を集める御堂は、翌年完成を見、後に鳳凰堂と呼ばれる様に成った。
頼通が平等院を建立した背景には、この年が愈々(いよいよ)、仏法滅亡の末法(まっぽう)初年に当たった事が関係する。仏の救いが得られなく成る事を人々は怖れ、権力者は死後に浄土へ赴く事への願望から、現世に浄土を創り出す事を試みた。道長の法成寺(ほうじょうじ)や、頼通の平等院はその代表であり、末法思想は浄土様式という、新たな仏教文化を生み出した。
斯(か)かる末法初年の春、安倍頼良追討の使命を帯びて源頼義は、陸奥国府多賀城に向けて京を進発した。
*
源頼義は本拠河内の武士団を核として下向するも、態々(わざわざ)本道の東山道ではなく、東海道を進んだ。坂東南部には、平忠常の乱の折に服属させた武士団が、数多く居る。坂東武者は勇敢で、東国の気候にも馴染(なじ)んで居る。頼義はここで、二千騎に上る武者を集めた。相模鎌倉の平良正流景成や、先の戦(いくさ)で先代頼信に投降した下総千葉の常将(つねまさ)等、坂東でも一地方の雄と言える武士が麾下(きか)に加わった。大軍を擁する源氏軍は、揚々(ようよう)と常陸国へ足を踏み入れた。
平国香、貞盛の時代、常陸は高望流桓武平氏の本家であり、泰貞の代と成った今も、一部家臣の間には、その矜恃(きょうじ)が残って居た。故に、源氏が平氏の分家を従えて、常陸を威圧するのを苦々(にがにが)しく見て居た。一方で、筑波を拠点とする繁盛流分家の大掾(だいじょう)重幹(しげもと)は、下総豊田(とよだ)の三男政幹(まさもと)を、源氏方に従軍させた。
源氏の大軍が通行するのを、徒(やだ)黙って見過ごすだけの泰貞を、頼むに足らずと見る者も現れた。叔父の平国妙(くにたえ)は、独断で手勢を集めて、源氏軍に馳(は)せ参じてしまった。
頼義はこのまま海道を北上し、磐城氏をも威圧して進もうと考えて居た。しかし国妙(くにたえ)より、磐城勢が粗方(あらかた)津軽へ出払って居る事を知ると、進路を久慈川に採り、仙道を経由して多賀城へ向かった。
源氏の大軍が陸奥国府に入った時には、暦(こよみ)は五月に入って居た。頼義は権守(ごんのかみ)藤原経清より国司の印鑰(いんやく)を受け取ると、直ちに自軍を陸奥国府軍に編入し、安倍頼良討伐に向け、軍勢の配備を進めた。
愈々(いよいよ)再び、奥州に戦端が開かれると思われた矢先、京から多賀城に勅使が到着した。それは、安倍頼良に大赦(たいしゃ)を与え、頼義に討伐を禁ずる物であった。
帝(みかど)の祖母、上東門院彰子(しょうし)が病(やまい)に倒れ、平癒祈願の為に発せられた恩赦(おんしゃ)であった。これを受けて安倍頼良は国府に出頭し、頼義に恭順の意を示した。それに際し、陸奥守と同音の名である事を畏(おそ)れ多いとし、安倍頼時と名を改めた。
ここに源氏軍は、安倍氏討伐の大義名分を完全に失ったのであった。
安倍頼時が恭順に動いた事は、津軽の政隆に取って追い風と成った。磐城平家が朝廷より統治を託された郡は四つ。津軽郡の大半の豪族が服従を示して居る今、漸(ようや)く三郡を抑えたと言えるであろう。そして残る磐手郡は、現在安倍頼時の私領と成って居る。安倍宗家を直接刺激するのは危(あや)ういと考え、これまでは兵を進めるのを躊躇(ためら)って居た。しかし、源氏が当代随一の兵力を擁して多賀城に在る今、磐手進出の千載一遇の好機と思われた。
政隆は二千の軍を纏(まと)め、安倍忠季(ただすえ)に相馬館を返還すると、新天地を求めて行軍を開始した。津軽平野の東南より山道に踏み込み、平川に沿って進む。大分上流まで来ると、川は二股に分かれ、道も両川に沿って分かれて居た。
里人が通り掛かったので道を尋ねると、西へ延びる道は矢立峠を越え、出羽国秋田城へ通ずるという。又、東の道は坂梨峠を越え、鹿角(かづの)地方を経由して、磐手郡厨川柵(くりやがわのき)へ至るとの事である。
政隆は軍勢を止め、馬を下りて後方の輿(こし)へ歩み寄った。輿(こし)が下ろされ、中から玉綾御前が簾(すだれ)を上げ、不安な面持ちで政隆を見上げる。
「何事にござりましょう?」
兵や侍女の手前、御前は動揺を見せずに、沈着と尋ねた。政隆は思い悩んで来た事を、御前に明かす。
「これが、最後の機会やも知れぬ。女子(おなご)衆にはここより、秋田城を経て磐城へと帰って貰(もら)う。」
御前は不可思議に思い、夫を見詰(みつ)めた。
「はて、何故(なにゆえ)でござりましょう?政保(まさやす)殿の居らぬ磐城に戻ったとて、陸奥守様の人質(ひとじち)に成りに行くに等しく、それならば行動を共にした方が良いと仰(おお)せられたのは、殿ではござりませぬか。」
政隆は、辛(つら)い表情を御前に向ける。
「確かに、津軽に暫(しば)し其方(そなた)を置いて居る内に、そう思える様にも成った。だがそれは、安倍氏が陸奥守殿を怖れ、恭順を続けて居ればの話じゃ。もし源氏と安倍氏が戦(いくさ)を始め、再び安倍方が勝利する様な事態とも成れば、悲惨な目に遭(あ)わせてしまうやも知れぬ。」
御前は黙って頷(うなず)くと、政隆に一言返した。
「殿、御耳を。」
「む。何か?」
政隆は耳を御前の口元に近付ける。御前は微笑(ほほえ)みながら囁(ささや)いた。
「御前様は、胸を患(わずら)って居るのでしょう。そのままでは、長生きは出来ませぬ。妾(わらわ)が家臣に気取られぬ様、御前様を助けまする。」
政隆は苦笑した。誰にも悟られぬ様に秘めて居た事を、見抜かれて居たからである。
「確かに、戦(いくさ)慣れした二千の精兵が在れば、安倍殿も手出しは出来まい。では、皆で参ると致すか。」
政隆は御前の磐手随行を認可する旨(むね)を、朗(ほが)らかに告げた。確かに、男手だけの中に居ては、病(やまい)に倒れるまでの時は短いであろう。しかし、御前が家臣に悟られぬ様に看病してくれるのであれば、幾許(いくばく)かの時は稼げる。その間、平和裡(り)に磐手の郡政を掌握すれば、磐城平家は朝命を果した事に成る他、次男や三男に分家させる所領をも得られる。政隆は生涯最後の大仕事の為に、御前の助力を得る事にした。
磐城勢は一纏(ひとまとま)りのまま坂梨峠を越え、先ずは鹿角地方の制圧に動いた。これで安倍方が厨川柵(くりやがわのき)より兵を繰り出して来ても、津軽に退(ひ)いて、体勢を立て直す事が可能である。
しかし、安倍頼時は恭順の姿勢を崩さず、兵を繰り出して来る事は無かった。政隆は鹿角に在って、暫(しば)し磐手郡の中心、厨川(くりやがわ)の様子を調べさせた。幾度か、厨川柵(くりやがわのき)に郡政奉還を求める使者を送っては見た物の、安倍方は城主不在を理由に、回答を示して来る事は無かった。その際に、厨川柵を任されて居るのが、安倍頼時の嫡男貞任(さだとう)である事が判(わか)った。蛮勇との噂(うわさ)を聞いて居り、政隆は話し合いで解決する事が困難である事を覚悟した。
翌年早々の一月十一日、改元が行われ、天喜元年(1053)と成った。春の除目(じもく)では、陸奥守源頼義に鎮守府将軍の兼帯が命ぜられた。これに因(よ)り頼義は、安倍領の粗(ほぼ)中央に位置する胆沢(いさわ)鎮守府へ、軍を派遣出来る様に成った。頼義が兵を率いて安倍領を堂々と通行する間も、安倍頼時は従順を保って居た。
頼時の神妙な態度に因(よ)り、国府軍の中からは次第に、頼時を朝敵と見做(みな)す気運が鎮まって行った。陸奥の平和を願って居た亘理(わたり)権大夫藤原経清は、今を機と見て安倍氏との婚姻を陸奥守に願い出て、受理される運びと成った。
頼義の鎮守府将軍就任に続き、此度は前(さきの)権守(ごんのかみ)経清の婚儀である。陸奥国府には慶事が続き、官吏や兵達の心も、徐々に融解して行った。
一方の京では、摂関家を揺るがす慶事が出来して居た。今上天皇の他、最早皇族に摂関家を外祖父とする者は居ない。もし帝に万一の事有らば、関白頼通や右大臣教通は、新帝の外戚(がいせき)に取って代られる怖れが有る。
天喜元年(1053)六月十九日、帝(みかど)の弟尊仁(たかひと)親王に男子が誕生し、貞仁(さだひと)親王と名付けられた。生母は滋野井(しげのい)御息所茂子(もし)である。茂子は閑院家の先代公成(きんなり)の娘であり、関白頼通の弟、権大納言能信(よしのぶ)の養女として、尊仁(たかひと)親王の后(きさき)に上がって居た。
今上天皇には未だ皇子がおわさず、このままでは、次の帝(みかど)は亡き三条院の外孫、尊仁(たかひと)親王が最有力の候補と成る。しかしそれに因(よ)り、摂関家から敵視される事が多く成る事は想像が付き、故にこれまで、誰も后(きさき)を差し出す公卿は現れなかった。斯(か)かる中、能信(よしのぶ)は兄頼通の意向に逆らうのを承知の上で、妻祉子(しし)の実家である閑院家より養女を迎え、永承元年(1046)に親王の后(きさき)としたのであった。
これに因(よ)り、能信(よしのぶ)と閑院実季(さねすえ)は、摂関家の覚えを悪くし、能信は権大納言より上位への昇進が無く成り、実季の昇進も遅々(ちち)とする様に成った。然(さ)れども両者には、帝(みかど)の外戚(がいせき)と成る望みが生まれたのである。
兎(と)も角(かく)、内裏(だいり)にも奥州にも、争いの火種が消えずに燻(くすぶ)り続ける中、奥羽山脈の奥地に進出して居た磐城軍は、ゆっくりと日高見(北上)川の上流に向かい、山道を下って居た。この時、安倍頼時が陸奥守源頼義に恭順の意を示す為に、厨川柵(くりやがわのき)も常駐する兵の数を減らして居たのである。
政隆は特に、頼義と機密を通じて居た訳では無いが、磐手郡進出の絶好の機会と捉(とら)え、軍を進めた。差し当り、政隆が館を構えて府としたのは、厨川(くりやがわ)よりも遥かに北方の、沼宮(ぬまく)という処であった。多くの沢が合流して、漸(ようや)く日高見(北上)川を形成する処であったが、平地が少なく、大軍を養う事は難しい。しかし周囲は丘陵地と沢に囲まれ、いざと成れば沢伝いの道を辿(たど)り、津軽へ引き揚げる事が出来る。
沼宮(ぬまく)館に居を移した政隆は、次々と周囲の諸豪族を招いて誼(よしみ)を深め、岩鷲山(岩手山)の麓(ふもと)辺りまで勢力を伸ばした。安倍頼時が国府に睨(にら)まれて身動きが取れぬ今、大軍を擁し、且(か)つ朝廷より正式な任官を受けた政隆に、諸豪族は次々と服属して行った。
*
沼宮(ぬまく)は津軽より南に在れど、高地に在る為に、冬の厳しさでは引けを取らない。既(すで)に齢(よわい)四十路(よそじ)の半(なか)ばに在る政隆の病(や)んだ胸に、奥羽山脈の冷気は容赦無く負荷を加えた。
ある冬天の夜、政隆は自室に在って、文机(ふづくえ)に積まれた書類に目を通して居た。漸(ようや)く、近隣の豪族達は安倍氏にではなく、郡司政隆に税を納める様に成って来た。それ自体は非常に喜ばしい事なのだが、源頼義が任期を終えて都へ引き揚げて了えば、今は従順な豪族達が、掌(てのひら)を返した様に安倍氏に付く事も考えられる。頼義が多賀城に在って睨(にら)みを利かせて居る間に、政隆は出来得る限り、津軽と磐手両郡の支配体制を固めて置く必要が有った。
陽が落ちると、次第に冷え込みが厳しく成る。明かりが遠いので、燭台(しょくだい)を文机(ふづくえ)に寄せ様と立ち上がった瞬間、政隆は激しく咳(せ)き込んで、その場へ臥(ふ)した。急に、体に力が入らなく成った。見れば、目の前に落した帳簿が、血に染まって居る。
暫(しばら)く静寂の中で、政隆は独り冷たい床(ゆか)に横たわって居た。意識は有るのだが、上手(うま)く声が出せない。無理をすると、余計に咳(せ)き込むだけであった。
半時程が過ぎ、人の足音が近付いて来た。玉綾御前が、薬湯(やくとう)を煎(せん)じて運んで来たのである。政隆の居間の前に着き、中へ目を遣(や)った途端、御前は一瞬、我が目を疑った。そして次の瞬間、御前の悲鳴が館中に響き渡った。
直ちに郎党達が駆け付け、政隆は寝所(しんじょ)へと運ばれた。総大将が倒れた事は、直ぐに諸臣の知る所と成り、家中は浮足(うきあし)立った。
玉綾御前は騒ぎを鎮(しず)めるべく、諸臣を広間に集め、事後策を講じる事にした。召集を受けた臣達は皆、右も左も分からぬ山奥で指揮官を失った事に、少なからず動揺を覚えて居る様であった。
彼等を安堵させる為にも、御前は気丈(きじょう)に振舞わねば成らなかった。凛然(りんぜん)たる面持ちで家臣達の前に立ち、己の考えを述べる。
「皆が知る通り、殿は病(やまい)が悪化して、御倒れになりました。今は静かに御休みになられておわしまするが、急ぎ、然(しか)るべき治療を行う必要が有りまする。只、この辺りには見知りの薬師(くすし)が居らぬ為、誰ぞ健脚な者に、山を越えて秋田城に赴いて貰(もら)い、医師の派遣を御願いせねば成りませぬ。」
これを受けて、直ぐに二人の男が立ち上がった。共に小柄ではあるが、逞(たくま)しい体躯(たいく)をして居る。
「我等は磐城郡小高郷の者にて、兵役の無い時には初中後(しょちゅうご)、山の中で暮らす者でござりまする。山歩きには自信がござれば、是非(ぜひ)にも我等に御任せ下さりまする様。」
御前は微笑を湛(たた)えて、二人を前列へ召した。跪(ひざまず)く屈強の兵(つわもの)の片方に、御前は用意して置いた書状を渡した。
「妾(わらわ)より、出羽介殿に宛(あ)てた書翰(しょかん)です。これを持って、急ぎ秋田城へ向かって下され。」
書状を押し戴くと、二人は足早に広間を後にして行った。
足音が遠ざかり、再び広間が静まり返った所で、御前はもう一つの案を話し始める。
「残念ながら、今の殿に政(まつりごと)を担(にな)わせては、御命を縮(ちぢ)めてしまいまする。仍(よっ)て、津軽に在る副大将の広瀬殿を至急呼び寄せ、殿が静養されておわす間の、代行と致したく存じまする。」
沼宮(ぬまく)館に在って、政隆の側近くに仕える者でも、広瀬十郎に並ぶ功績と経験を、有する者は居ない。家臣達に異議は無く、御前は直ちに重臣の一人を、津軽に向けて進発させた。
郡司の妻としての裁量で打てる手は、これ位の物である。御前は家臣を広間より解散させ、自身は夫の看病へと向かった。
御前は懸命に、病臥(びょうが)の夫の世話に努めた。しかし奥羽北部の厳しい寒さは、政隆の体をどんどん蝕(むしば)んで行く。急ぎ医師に因(よ)る治療が必要ではあるが、既(すで)に深い雪が山肌を覆(おお)って居る。幾(いく)ら健脚で山に通じた男と雖(いえど)も、果して無事に、秋田城へ辿(たど)り着く事が出来るか如何(どう)か。
政隆の容態は日に日に悪化し、衰弱は極(きわ)みに達した。ある日の朝、政隆は珍しく調子が良い様で、床(とこ)に在りながらもさっぱりとした表情を湛(たた)え、傍(かたわ)らの御前に声を掛けた。
「家臣達に伝える事が有る。書き取って欲しい。」
掠(かす)れた声ではあったが、御前はこれを復調の兆(きざ)しと見て喜んだ。
「只今、仕度を致しまする。」
御前は文机(ふづくえ)を置き、静かに墨(すみ)を磨(す)り始めた。
やがて用意が整うと、政隆は空(くう)を見詰(みつ)めながら話し始めた。
「儂(わし)が死んだ後、津軽は安倍忠季(ただすえ)殿、磐手は安倍貞任(さだとう)殿を権大領(ごんのだいりょう)に推薦し、磐城全軍は来春雪融(ど)けを待って、本領へ引き揚げる事。」
しかし、御前の手は動かなかった。只悲しい顔をして、夫を見詰める。
「弱気な事を仰(おお)せられまするな。」
政隆はゆっくりと、御前の方へ首を向ける。
「我が身体じゃ。最早これまでである事は判(わか)って居る。今、話せる内に遺言を残して置かねば、我が兵三千の不幸に繋(つな)がる。其方(そな)の励ましは嬉しいが、家臣達の為に、書いてくれい。」
「はい。」
御前は袖(そで)で、目頭(めがしら)をそっと押(おさ)えた。
政隆は次第に呼吸が荒く成り、喘(あえ)ぐ様に成った。
「軍勢を撤退させた後、この地に何も残さずば、今日までの遠征が全て無と成ってしまう。故に儂(わし)の遺骨を住吉の偏照院に持ち帰るのではなく、我が勢力が最も及んだ先、岩鷲山(岩手山)に葬(ほうむ)る事。」
御前は視界が涙で濁(にご)りながらも、懸命に夫の遺言を代書した。
全てを語り終えると、政隆は大きく息を吐(つ)いた。丁度(ちょうど)その時、慌(あわただ)しく廊下を渡って居る者が在る。深雪(みゆき)の峠を越え、津軽より遣(や)って来た広瀬十郎であった。
十郎は政隆の余りの衰弱振りに愕然(がくぜん)とし、ゆっくりと枕元に膝(ひざ)を突いた。
「殿、よもやこれ程まで御悪く成られておわしたとは。」
政隆は十郎を見詰め、力無く笑う。
「よく来てくれた。其方(そなた)が居れば、儂(わし)も心強い。」
十郎の目から見ても、最早政隆が長くはない事は見て取れる。無念の涙が、留処(とめど)無く流れた。
遺言書をより確かな物とする為に、政隆は御前の支えを得て上体を起し、震える手で筆を取って、文末に己の署名をした後、十郎に磐手郡司の印を押して貰(もら)った。
己が成せる事は、これで全て成したと思った政隆は、再び横になって大きな息を三度吐(つ)いた。やがて、その口から微(かす)かな声が発せられる。
「巨費を投じ、大軍を擁して北の果てまで来ては見た物の、この地に残す物が我が躯(むくろ)のみとは、何とも情け無い話じゃ。長元の戦(いくさ)の折、源頼信殿は嫡子頼義殿を伴(ともな)った。此度陸奥守として奥州の平定に当たられて居る頼義殿も又、嫡子義家殿を同行なされて居る。惜しむらくは、この場に政保(まさやす)が居らぬ事じゃ。政保が儂(わし)に代わって指揮を執ってくれるのであれば、軍勢を留め、我が魂も磐城へ還(かえ)る事が叶(かな)うというに。」
御前も十郎も、掛ける言葉が見付からなかった。今、政隆が命を賭して磐手に在るは、国家に尽さんとする忠節の他、我が子三人共に、武士として生きる道を残さんが為であった。所領が有れば、地方で生き抜き、あわよくば国司と渡り合える力を得られる。しかし子等は、太政大臣の外孫たる誇りと京文化への憧憬(どうけい)からか、京での立身出世を望む傾向が有った。そして、父が軍勢を動員して北国で苦闘する中、誰も助けと成るべく駆け付けてくれる子が居なかったは、政隆に取って大きな悔恨(かいこん)事であった。
その夜、俄(にわか)に突風が吹き始め、沼宮(ぬまく)の邑(ゆう)は冬の嵐に見舞われた。吹雪は三日三晩も館を揺るがし続け、四日目の朝、漸(ようや)く陽光が雲間から射(さ)し込んだ。
館の者は久々の晴れ間の中、屋外に出て、積った雪の処理を始めた。しかし、誰の顔にも明るさが見られず、館中が沈んだ観が有る。
雪掻(か)きに多くの者が駆り出される中、郎党二人が門を出て、胸までの高さの雪を掻(か)き別けつつ、村外れの寺院へと向かった。
やがて、郎党は和尚を伴い、今し方踏み固めて来た道を辿(たど)り、沼宮(ぬまく)館へと戻って来た。館の庭に積った雪はある程度取り除(のぞ)かれて居り、和尚の到着と共に、男達は衣服を整え、粛然と広間に集まった。
広間には棺(ひつぎ)が置かれ、その中には安らかな表情を湛(たた)える、政隆が横たわって居る。傍(かたわ)らでは、泣き尽した顔の玉綾御前が、喪主として控えて居る。葬儀の手配は、広瀬十郎を主に行われた。
間も無く、和尚の読経(どっきょう)と共に焼香が行われた。参列したのは、館に詰める下男(げなん)等を含めて二百名程である。
平政隆は、父の代で潰(つい)えた家を再興し、初陣で逆徒を討ち果し、南部奥州を平定した。他方、二国の守(かみ)を務めて善政を施(ほどこ)し、婢(ひ)に落された母親を救い出して教養を尽し、祖父の御霊(みたま)を祖国へ奉還した。更(さら)には、倭(やまと)の支配が未だ及ばぬ北部奥州へ出兵し、その版図(はんと)を拡大するに至った。故人の功績は、当代の英雄と称しても遜色は無い。斯(か)かる大人物が、雪に閉ざされた辺境の地で、僅(わず)かな家臣に看取(みと)られて逝去した事に、家中の誰もが、無念の感情が起るのを禁じ得なかった。式場は、人々の慟哭(どうこく)に包まれた。
やがて葬儀も終り、政隆の棺(ひつぎ)は荼毘(だび)に付された。遺骨が納められた壺を玉綾御前が受け取ると、館内に設けられた安置室へと向かって行った。
奥州北部は零下の日々が続いて居る。凍(い)て付く大地を穿(うが)つのは困難であり、埋葬は翌春の撤兵前に執り行う事と決した。
*
磐手の春は遅い。雪融(ど)けと共に梢(こずえ)が萌(も)え出すので、春の息吹(いぶき)を感じ始めたと思う内に、一気に気節が移り変わる。久しく大雪を齎(もたら)し続けた寒気団は北の彼方(かなた)へと去り、日毎(ごと)に雪は厚みを失って行く。人が村々を往来する様に成れば、再び道が整えられ、交通も容易と成る。
漸(ようや)く磐手の地にも、南方の暖かな風が届く様に成った頃、沼宮(ぬまく)館より、二百を数える白装束(しろしょうぞく)の一団と僧侶が列を成し、日高見(北上)川沿いの道を南下して居た。
一団は高峰岩鷲山(岩手山)に分け入り、悪路を頓(ひたすら)登って行く。やがて南方に視界が開けた所で歩みを止め、男達は雪の消えた日当たりの良い平地に穴を掘り、そこに玉綾御前が夫の骨壺を納めた。穴は再び埋め返されて塚と成し、侍女達が持参した花を献じた。
暫(しば)し僧侶の読経が山に谺(こだま)した後、白装束(しろしょうぞく)の者等は順次塚の前で一礼を捧(ささ)げ、その後は粛々と、山を下りて行った。
山中に塚がひっそりと残されたが、そこからは磐手郡の中心、多賀城より北に延(の)びる街道の終点厨川柵(くりやがわのき)が、一望の下(もと)に見渡せた。
平政隆の遺言の一つ、岩鷲山(岩手山)への埋葬は、これにて完了した。沼宮(ぬまく)館へ戻った一団は、直ちに津軽へ撤収するべく、荷を纏(まと)め始める。やがて荷駄(にだ)が出来上がり、広瀬十郎は先ず、輸送隊と女子(おなご)衆、更(さら)には護衛兵五十騎を付け、先行する様に命じた。
しかし、列は動かなかった。十郎が訝(いぶか)しがって原因を調べに行くと、何やら女子(おなご)衆の所で騒ぎが起きて居た。
「如何(いかが)致した?」
十郎が歩み寄って問うと、老女の一人が懇願(こんがん)する様に答える。
「広瀬殿、御方様が輿(こし)に乗って下さりませぬ。」
「何?」
十郎は、御前の為に用意した輿(こし)の方へ歩を進めた。
輿(こし)の側では、侍女達の切なる声が聞こえて来る。
「御方様。斯様(かよう)な地に独り留まられても、到底生きて行ける物ではござりませぬ。御方様に万一の事有らば、私達は亡君に対し奉(たてまつ)り、申し訳が立ちませぬ。何卒(なにとぞ)、御輿(おこし)に御乗り下さりまする様。」
侍女が必死に訴える脇から、広瀬十郎が姿を現した。そして御前の姿を見て、愕然(がくぜん)とした。後ろ髪を落し、夫の喪に服する用意をして居たのである。
御前は十郎の姿を認めると、凛乎(りんこ)として告げる。
「夫独りの御霊(みたま)を残し、去る事は出来ませぬ。妾(わらわ)はこれより尼寺に入り剃髪(ていはつ)し、この地で終生亡夫の霊を弔(とむら)って参りまする。広瀬殿には、皆が無事故国へ還れる様、宜しく御頼み申しまする。」
御前の視線と共に、説得に万策尽きた女中達の、助けを求める眼指(まなざし)が、十郎に向けられる。十郎は、亡君政隆が葬(ほうむ)られた南方の空を眺めた後、御前に言上する。
「御方様が仰せられた御言葉は、誠実の至りと存じ上げ、只々感服を覚える次第にござりまする。されども、ここに御方様独りを残し、その御身体に万一の事有らば、某(それがし)は不忠の者として、冥府(めいふ)で殿に見(まみ)える事は能(あた)わなく成り申す。」
御前は、その場にへたり込んでしまった。
「妾(わらわ)は口惜しい。殿が命を懸けて獲得して来た物を、今悉(ことごと)く失おうとして居まする。殿は最期の意地で、墓所を岩鷲山(岩手山)に定められましたが、これでは程無く塚は朽ち果て、殿の御志も虚(むな)しゅう成りましょう。」
十郎は、己の心とも被(かぶ)さる御前の胸中を聞き、暫(しば)し言葉を失った。
やがて、十郎は大きく息を吐(つ)くと、次将格の武者を呼んだ。直ぐに駆け付けて来た次将に対し、十郎は命ずる。
「御方様が未だ、殿が亡くなられた当地に未練を残されておわされる御様子じゃ。仍(よっ)て、我等後発隊の者で御連れ致す故、貴殿方は先に、津軽へ引き揚げよ。」
次将は御前の姿に同情を覚え、承服する。
「承知。但(ただ)し、広瀬殿の隊は殿軍(しんがり)と成りまする。呉々(くれぐれ)も御気を付け下され。」
「うむ。」
一礼し、次将は直ぐに隊列へと戻って行った。そして女子(おなご)衆、荷駄(にだ)隊が順次進発し、その場に残ったのは十郎と玉綾御前、そして輿(こし)が一梃(ちょう)であった。
その日は、殆(ほとん)どの家財等が運び出され、がらんとした館で、夜露(よつゆ)を凌(しの)ぐ事と成った。明日の全軍撤退の折には、政隆が最後の府と成したこの館も、灰燼(かいじん)に帰する事と成る。夫に所縁(ゆかり)の物が、又一つ消えて行く。それを思うと、御前は中々寝付けずに居た。
何も無い広い寝所の簾(すだれ)の外には、篝火(かがりび)が焚(た)かれ、兵が何人か警固に就(つ)いて居る。既(すで)に女中達は全員津軽へと引き揚げ、残されて居るのは兵のみであった。
御前は簾(すだれ)の内より、兵に声を掛けた。
「誰ぞ在る?」
「はっ。」
側を守る兵が、直ぐに畏(かしこ)まる。
「広瀬殿を呼んで来てはくれぬか。」
「ははっ。少々御待ちを。」
兵は急ぎ、闇(やみ)の中へと駆けて行った。
間も無く、廊下を踏み鳴らす音が響いて来て、簾(すだれ)の外に十郎が平伏した。
「御召(おめし)にござりましょうや?」
御前は簾(すだれ)の側へ躙(にじ)り寄り、十郎だけに聞こえる様、小声で話し始める。
「やはり妾(わらわ)は明日、皆と共に磐城へは戻れませぬ。夫が最期を迎えたこの遺領に留まり、菩提(ぼだい)を弔(とむら)わねば成りませぬ。その為に、明日の夜明けと共に、尼寺に移りまする。」
十郎の声が、抑えつつも荒く成る。
「其(そ)は成りませぬ。御方様に無事磐城へ御戻り戴かねば、若殿も嘸(さぞ)かし心配なされる事でござりましょう。」
「政保(まさやす)の事ですか。なれば尚更(なおさら)の事です。抑々(そもそも)、政保が磐城に戻り、速やかに武士団を纏(まと)める様な気概が有れば、殿の負担も大分軽く成って居た事でしょう。政保は目下、京での栄進にのみ心を奪われ、所領の民を慈(いつく)しむ心に欠けて居りまする。これでは、殿の跡目を継いでも、領民や家中が困るだけ。磐手に残るは、寧(むし)ろ母が出来得る最後の教育なのです。」
十郎は御前の深慮に感じ込り、漸(ようや)くその意向を尊重する事にした。
「解り申した。されども、某(それがし)より一つだけ、条件がござりまする。」
「はて、何でござりましょう?」
「流石(さすが)に、御方様一人を残して行く訳には参りませぬ。某(それがし)の選びし武士を一人御供に付け、尼寺の近くにでも住まわせて下さりませ。」
「しかし、無理遣(や)り妾(わらわ)に付き合わせては、不便(ふびん)と存じまする。」
「熱望する者より選びまする故、御安心を。では、某(それがし)は明日の手配が残って居りまする故、これにて失礼致しまする。」
十郎は深く座礼を執ると、再び足音を響かせて去って行った。その足取りは、先程より些(いささ)か軽く成って居る様に感じられた。
雲井より俄(にわか)に月が姿を現すと、急に辺りが明るく成った。御前は月光を簾(すだれ)越しに浴びながら、夫も賛同してくれて居る様な気持に成った。
翌朝早々、館に残って居た御前と将兵達は、僅(わず)かな荷を持ち出して、館門の外に出た。未だ夜が明けきらぬ中、十郎は兵を御前の前に整列させ、白い息を吐(は)きながら、今後の方針を述べる。
「これより館を焼き払い、津軽に留まる者と合流し、磐城へと引き揚げる。」
それを聞いた兵達は、漸(ようや)く故郷へ帰る事が叶(かな)うという安堵感から、思わず表情が緩(ゆる)んだ。十郎は将の中から、最も年長で経験を積んで来た者を選び、命ずる。
「兵は貴殿が纏(まと)め、磐城より殿が率いて参った三千騎を、必ずや全員無事に、故郷へ帰す様。」
「あいや暫(しばら)く。」
将は納得の行かぬ顔で、十郎に尋ねる。
「斯(か)かる任務は、広瀬殿を措(お)いて適任者は居りますまい。広瀬殿は、共に引き揚げられませぬのか?」
十郎の顔が、俄(にわか)に険しく成った。そして、全軍に説明する様に答える。
「実を申せば、儂(わし)は御方様を奉じて、厨川柵(くりやがわのき)へ入る予定じゃ。」
兵達の顔に疑問が生じた。しかし皆黙したまま、十郎を見詰めて居る。
「厨川(くりやがわ)には今、儂(わし)と旧知の者が陸奥守様の命を得て、視察団を伴い逗留(とうりゅう)して居る。密かに使者を遣(つか)わした所、多賀城まで御送りして下さる由(よし)。御方様に残雪の峠を越えて戴くには、道が余りにも険しい。仍(よっ)て無事に御戻り戴く為に、儂(わし)は御方様の警固と先達(せんだち)を務め、南へと向かう。」
郎等の一人が、驚いた顔で問う。
「たった、御二方だけで行かれる御積りにござりまするか?」
十郎は深く頷(うなず)く。
「然様(さよう)。兵を伴えば、安倍方より有らぬ嫌疑を掛けられる。此(こ)は、国府方より仰(おお)せ付かった事じゃ。」
未だ治安の整わぬ奥州北部で、何が安全で何が危険か等、誰も断定は出来ない。皆、不安な面持ちを湛(たた)えながらも、十郎の判断に委(ゆだ)ねる事とした。
十郎は、後事を託した将の肩を叩いて思いを伝えた後、御前の荷を背負い、南へと歩き始めた。袴(はかま)姿で旅仕度を整えて居た御前は、輿(こし)担(かつ)ぎを申し出る者に対し、安倍方を警戒させぬ為と遠慮した上で、最後まで残った将兵に向かい、丁寧な辞儀をした。そしてゆっくりと頭を上げると、十郎を追って歩み出す。御前を見送る将兵は、皆旅の無事を祈り、威儀を正して居た。
二人が日高見(北上)川に沿って半里近く進んだ所で、俄(にわか)に北の空に黒煙が昇り始めた。平政隆が最後に居城とした館が、炎に包まれたのである。
僅(わず)かばかりの間、御前と十郎は足を止めて、朦々(もうもう)と立ち昇る煙を眺めて居た。そして、先に沼宮(みやく)を背に進み始めたのは、玉綾御前であった。御前は微笑を湛(たた)えながら、後ろから付いて来る十郎に告げる。
「十郎殿も妾(わらわ)と同じ。殿の側に居たかったのですね。」
十郎は照れながら答える。
「この老骨は、殿の御側に仕えなければ、斯様(かよう)に充実した生涯を送る事は叶(かな)いませなんだ故。」
御前は空を見上げる。
「妾(わらわ)も同じ。殿がおわさなければ、十代の身空で、命を落して居たやも知れませぬ。」
互いに同じ想いを残して居る事を知り合った二人は、その後黙したまま、黒煙棚引(たなび)く天を背に、頓(ひたすら)泥濘(ぬかる)み道を歩いて行った。
やがて二人が辿(たど)り着いた処は、岩鷲山(岩手山)の東麓、日高見(北上)川の東岸に位置する村落の外れに在る、尼寺の山門であった。玉綾御前はここで得度(とくど)し、終生夫の菩提(ぼだい)を弔(とむら)う事を誓った。又、広瀬十郎は寺境の外れに荒屋(あばらや)を建て、尼寺の善意で村内の寺田を借り受け、農耕に勤(いそし)み始めた。