第四十一節 津軽進出

 新たな年を迎え、永承五年(1050)と成った。磐城平家は例年通り、新年祝賀の儀を住吉館にて執り行った。その折、家臣達が昨年とは違う印象を受けたのは、主君政隆と北の方玉綾御前の、表情の明るさである。昨年は子達が去って行った寂しさから、二人共、何処(どこ)と無く鬱(ふさ)いで居る観が有った。しかし今年は、以前の精気を取り戻したかの如く、生き生きとして見えた。

 玉綾御前は、昨年の海道巡察が思いの外、良い気分転換に成った様で、あれ以来、夫政隆との会話が増えて居た。一方政隆は、平則道という家臣、藤原経清という盟友を得て、活力を取り戻す事が出来た。

 宴(うたげ)が酣(たけなわ)と成った後、政隆は厠(かわや)に立つ様に広間を出て、途中則道を伴った。則道は他の磐城家臣と酒を酌(く)み交して居たが、主君に呼ばれ、辞儀をして席を外した。

 梅花の咲き乱れる新春の候とはいっても、未だ時折小雪が降り、冬の名残(なごり)が有る。氷の様に冷たい回廊を歩いて居るのだが、酒が回って居る所為(せい)か、心地好い涼しさに感じられる。

 月下に輝く庭の雪中梅に目を遣(や)りながら、政隆は後ろから付いて来る則道に尋ねる。
「斯(こ)うして、二人で話をするのも久し振りぞ。如何(どう)じゃ、所領の方は?」
外の寒風に晒(さら)され、則道は大分酔(よ)いが醒(さ)めて来た様である。
「はっ。元より治安も良き処にて、然程(さほど)の苦労はござりませなんだ。斯様(かよう)な地を御任せ下された殿の御厚情に、深く感謝を申し上げまする。」
軽く、政隆は笑い声を上げた。
「ふふふ、今年は玉川西岸に大きな水害が無かったからのう。祖父政氏公以来、三代に渡り領主を悩ませ続ける川じゃ。心して置く様。」
「はっ。」
則道が一揖(いちゆう)した所で、政隆は歩みを止めた。そして、近くの誰も居らぬ部屋へ踏み入る。則道も政隆に従い、中へ入って行った。

 そこは宴(うたげ)の間より大分離れ、宵(よい)の静寂に包(つつ)まれて居た。政隆と則道はその静けさを打ち消さぬ様、ゆっくりと腰を下ろす。

 一息吐(つ)いて、政隆から声を掛けた。
「実は、其方(そなた)の率直な意見を聞いて見たくて、誰も居らぬ処まで誘ったのじゃ。」
「はて、何の事でござりましょう?」
「其方(そなた)の知る三人の人物に就(つ)いて、その為人(ひととなり)を尋ねたい。常陸の平泰貞殿、出羽の清原武則殿、そして当国伊具郡の平永衡(ながひら)殿、以上の三名じゃ。」
(いず)れも、則道の実弟である。則道は頭を抱(かか)えて暫(しば)し黙考した後、政隆に言上した。
「某(それがし)は長兄であり、早い内から菊多に遣(つか)わされて居た為、弟達の幼き頃しか存じませぬ。」
「それで構(かま)わぬ。聞かせてくれ。」
「はっ。」
則道は空(くう)を見詰め、童(わらべ)の頃を思い起した。
「先ずは次弟泰貞にござりまするが、幼き頃より父の寵愛(ちょうあい)を一身に受け、家臣の大半から父の存命中より、父の意向に沿って支持を受けて参り申した。順風満帆の青年期を過ごして来た為か、事が荒立つのを嫌い、他者の揉(も)め事には傍観を決め込む質(たち)がござりまする。」
「成程(なるほど)、面倒な事は避けて通るか。」
「して、清原の武則にござりまするが、此(こ)は忍耐と機智に富んだ男でござり申す。もしも義兄光頼殿が重用すれば、清原は遠からぬ日に、出羽に勢力を拡大する事でござりましょう。しかし、今は後ろ楯であった父安忠も亡くなり、大人しくして居る物と思われまする。」
「ふむ。」
政隆は腕組みをして、息を漏らした。
「又、十郎永衡(ながひら)に関しましは、これも知恵が働き、身軽な男にござりまする。只、幼少の頃より少々、軽率な所がござり申した。」
(しば)し政隆は三人の人物像を考察し、今後如何(どう)接して行くか、方針を定めて居た。

 やがて、政隆はすっと立ち上がり、則道に告げる。
「久々に其方(そなた)の話を聞き、実に有意義であった。酔(よ)いも大分醒(さ)めて参った事であるし、広間に戻って飲み直すと致そう。」
「ははっ。」
則道も直ちに腰を上げ、政隆に付いて回廊へ出た。

 天を見上げると、雲居が切れて、満天の星空である。
「今年も穏やかで、平和な年に成れば良いがのう。」
政隆の言に、則道は静かに応じた。

 そして奥州に遅い春が訪れた頃、仙道を新任の陸奥守が北上して居た。名は藤原登任(なりとう)。齢(よわい)は既(すで)に六十三の老境に入って居り、中国の能登、上国の出雲、大国の大和の国司を歴任し、中央では主殿頭(とのものかみ)をも務めた。この度は従四位下に昇り、再びの大国受領(ずりょう)の就任であった。登任の出自は、藤原不比等(ふひと)の長子武智麻呂(むちまろ)が興した南家である。登任より六代前の祖先三守(ただもり)は、従二位右大臣にまで昇ったが、その子孫からは卿に列せられる者は出ず、地方の国司等に就(つ)いて来た。

 新国司の着任を祝いに、磐城平家からも使者を遣(つか)わした。政隆が選んだ人物は、在庁官人平永衡(ながひら)の兄、平則道である。無事に挨拶を済ませて戻って来た則道は、報告の為に住吉館へ入った。

 直ちに本丸へと通され、評定の間において諸臣が居並ぶ中、上座の政隆より、中へ入る様に告げられた。則道は一礼して広間の中央へと進み出る。そして再び座礼を執り、政隆に言上した。
「只今、国府多賀城より戻りましてござりまする。」
正隆は労を犒(ねぎら)い、則道に尋ねる。
「して、首尾は如何(いかが)であった?」
「はっ。殿の国府への忠節を、陸奥守様は大層称(たた)えておわしました。」
「ほう。進物(しんもつ)の方も、御気に召して戴けたか。」
「それが。」
則道の表情が翳(かげ)り、言葉が濁(にご)る。
「如何(いかが)致した?」
重臣筆頭の広瀬十郎が、強張(こわば)った顔で質(ただ)した。
「実は当家の前に、安倍頼良殿が陸奥守様に謁見(えっけん)され申した。その時に安倍家は、砂金を山と積んで献上したのでござりまする。これには陸奥守様も度肝を抜かれた御様子で、その直後に献上した当家の進物(しんもつ)は、すっかり霞(かす)んでしまい申した。」
「何と。」
十郎は溜息(ためいき)を吐(つ)いた。他の家臣達も、呆(あき)れた顔をして居る。

 政隆は落着きを保ったまま述べる。
「昔は当家の領内でも砂金が採れたが、今では粗方(あらかた)採掘し尽してしもうた。安倍家はその抜きん出た財力を以(もっ)て、国府の覚えをめでたくしたか。」
則道は少々黙考した後、政隆に言上する。
「いえ、一概にそうとは申せませぬ。」
「何?」
政隆の鋭い眼指(まなざし)を受けつつ、則道は己が感じた事を述べる。
「此(こ)は、在庁官人平永衡(ながひら)に直(じか)に会って聞いた話にござりまするが、陸奥守様は表面上、安倍氏が献上せし砂金を喜んで御納めになられ申した。されども心底では、金山を有する豊かな郡を、蝦夷(えみし)の族長如きが私する事に、腹を据(す)え兼ねて居られる御様子。」
「しかし、戦(いくさ)慣れせぬ国府勢の一千や二千を繰り出した所で、屈服させられる物でもあるまい。安倍は五万を超す蝦夷(えみし)軍を集められると聞くが。」
「はい。それ故永衡は今、出羽の叔父に接触を試みてござりまする。」
「はて、清原光方殿の弟御か?」
「いえ、秋田城介平繁茂にござりまする。国府多賀城、秋田城、胆沢鎮守府の三軍が安倍の衣川館を陥(おとしい)れ、頼良殿の助命と引替えに、金山を没収する策にござりまする。」
則道の報告に、思わず政隆の口から息が漏れる。
「此度の国司様は、些(いささ)か戦(いくさ)好きで軽率な様じゃ。無事に済めば良いが。」
そして政隆は、則道に犒(ねぎら)いの言葉を掛け、岩ヶ岡に戻って休む様に告げた。

 則道が去った後、政隆は暫(しば)し、頭を抱(かか)えて考え込んで居た。

 その後陸奥守登任(なりとう)は、伊具の平永衡(ながひら)に加えて亘理(わたり)の藤原経清も、国府に迎えて重用した。登任は北方の安倍氏に対する前に、宮城野の南端、逢隈(阿武隈)川の下流域を抑える策に出た。伊具と亘理を味方に付けた国府は、更(さら)に念を入れて、その背後に勢力を持つ磐城平家にも、使者を遣(つか)わした。

 国府からの使者が住吉館へ向かう時、先ずは楢葉郷長がそれを察知し、早馬を飛ばす。これに因(よ)り、住吉館は使節の来訪を前以(もっ)て知り、充分な用意を整え、威儀を正して使者を迎える事が出来た。しかし此度、政隆に取って意外であったのは、正使に亘理(わたり)郡司藤原経清を任じて居た事であった。

 政隆は館内広間に経清を通し、評定衆の主たる者を同席させ、国府の意向を聞く事にした。

 経清は家督を継いで間も無いというのに、堂々たる気風を漂(ただよ)わせて居る。挨拶の後政隆に座礼を執り、用向きを話し始めた。
「本日は、陸奥守藤原登任(なりとう)様の御言葉を伝えるべく、参上仕(つかまつ)り申した。」
政隆はゆっくりと立ち上がり、経清の側へ歩み寄る。そして、静かに上座を譲った。
「陸奥守様の御言葉を申し上げられるのであれば、彼方(あちら)へ。」
経清は頷(うなず)くと、粛々と上座へ歩を進める。そして上座に立ち、懐より陸奥守の命令書を取り出した所で、磐城家一同は平伏した。

 経清は、よく通る声でそれを読み上げる。
「磐手郡大領平政隆に命ずる。胆沢(いさわ)の豪族安倍頼良が、貴殿の任地の政(まつりごと)を私(わたくし)して居るとの報せ、是(これ)有り。直ちに軍勢を整えた上で当地に入り、郡政を回復させるべし。」
政隆の顔が、俄(にわか)に青ざめた。北方の揉(も)め事故、大人しくして居れば捲(ま)き込まれる事は無いと踏んで居たが、考えが甘かった事に気付かされた。登任(なりとう)が本気で安倍氏に戦(いくさ)を仕掛けるのであれば、信を置く伊具、亘理の軍勢も駆り出す事と成る。然(さ)すれば、両郡の背後に位置する磐城平家を放って置く筈(はず)も無く、郡司職を拝命する磐手に派遣し、安倍氏の包囲網に加えれば、一石二鳥である。

 政隆は歯噛(はが)みしたが、後の祭である。謹んで拝命しなければ、安倍氏と共謀する朝敵の疑いを掛けられ兼ねない。
「確(しか)と、承り申した。」
憮然(ぶぜん)と、政隆は頭(こうべ)を垂れた。

 経清は命令書を政隆に渡す際、一言付け加えた。
「仙北の清原光頼殿は、秋田城介殿の誘いにも、頑(がん)として応じませぬ。磐手へは、津軽より入るしかござりますまい。」
ふと、政隆の胸に一つの志が生じた。祖父政氏ですら成し得なかった津軽支配。加えて、朝命に因(よ)り軍を磐手へ進める事で、安倍氏との新たな関係も構築出来る。しかしその結末は、多賀城と秋田城連合軍の戦況に因(よ)り、乾(けん)とも坤(こん)とも成り得る、危うい物であった。

 しかし行かねば、徒(いたずら)に国司の不興を買い、磐城平家の立場を悪くするだけである。政隆は意を決した。

 正使経清が役目を終え、国府多賀城へ戻って行った後、政隆は直ちに大館(おおだて)本丸に入って評定を開き、諸臣が居並ぶ前で、己の考えを打ち明けた。
「儂(わし)は国府の命を受け、これを千載一遇の好機と考えて居る。直ちに国府軍と共に兵を挙げ、秋田城を経て、先ずは津軽を抑え様と思う。」
それに対し、広瀬十郎が尋ねる。
「殿は、武力を以(もっ)て事を成しては、民心を得られず。戦(いくさ)で荒廃した地しか得られぬと、予々(かねがね)(おお)せにござり申した。此度の御決断は、如何(いか)なる理由に因(よ)る物にござりましょうや?」
政隆は十郎を見据(みす)える。
「津軽は早八十年余、当家が郡司職を拝命して来た。しかし、実質は未だ朝威が及ばず、津軽安倍一族が宗家頼良の武力を背景に、政(まつりごと)を私(わたくし)して居る。最果ての地故、今まで手出しが憚(はばか)られて来たが、今ならば公然と、出羽に軍を進める事が出来る。戦(いくさ)は不毛であるが、武威を以(もっ)て戦わずに服属させる事が叶(かな)えば、秩序が整えられ、以後は余計な戦(いくさ)をせずに済むであろう。」
安倍頼良が南に敵を抱(かか)えて動けぬ今、津軽安倍氏に兵を回す余裕は無い。後は、出羽仙北の清原氏が中立で居てくれれば、津軽は磐城勢の前に屈服する他は無いであろう。

 斯(か)くして評定は、磐城軍派兵を決定した。戦わずして津軽を降伏させる為にも、兵力は三千は必要と算定。そして評定衆より、最後の詰めの話が出された。
「三千の大軍とも成ると、軍を統制する上で、副大将が必要と成りまする。又、留守は何方(どなた)に御任せなさる御所存にござりましょうや?」
政隆は諸臣を見渡した後、それに答える。
「先ず、出陣部隊の副大将には、百戦錬磨の広瀬十郎を宛(あ)てる。又、留守は京より嫡子政保(まさやす)を呼び寄せてこれに任せ、有事の際には伊達郡や、常陸国佐竹庄の支援を得る事と致す。」
常州佐竹庄の地頭は政隆の従弟(いとこ)であり、信が置ける。又、副大将の選任にも、誰も異存は無かった。

 議題が全て決すると、政隆は副大将広瀬十郎に戦(いくさ)仕度を命じ、自身は本丸の対屋(たいのや)、玉綾御前の元へと向かった。

 急な来訪に、御前は驚いた様子であった。政隆は侍女を下がらせると、部屋の隅(すみ)に置いて在った文机(ふづくえ)を持ち出し、中央に置いて座した。
「筆と紙を。」
普段と異なり、何処(どこ)と無く表情に翳(かげ)りの有る夫を案じながら、御前は書き物の用意を整えた。墨を擦(す)る間、政隆は穏やかに語り掛ける。
「実は、津軽へ行く事と成った。そして留守を任せる為、政保をここへ呼び戻す。」
「まあ、それは。所で津軽とは、何処(いずこ)に在るのでござりましょうか?」
「出羽よりも、更(さら)に北じゃ。祖父政氏公以来、当家の所領でもある。」
それを聞いて、御前は安堵した。そして、成長した息子が戻って来てくれる事が、この上無く嬉しかった。

 政隆は先ず、倅(せがれ)政保に宛(あ)てて書状を認(したた)め、続いて、世話に成って居る関白家の家司(けいし)にも、息子を呼び戻す理由と、今日(こんにち)までの礼を書き添えた。二通の書状を眺め、御前の目は希望に輝いて居た。

 軍需物資、特に兵糧の調達が難航し、出発の用意が整った時には、既(すで)に夏も終りに近付いて居た。秋に入れば、食糧も幾(いく)らかは保存が利く様に成る。政隆は今こそ好機と考え、全軍を住吉へ集結させた。

 しかし、更(さら)なる問題が一つ発生して居た。留守を任せる積りであった長子政保から、未だ何の返答も届いて居なかったのである。

 出陣を前に玉綾御前は、夫政隆が具足を纏(まと)うのを手伝って居た。幾(いく)ら朝廷より賜(たまわ)った所領へ向かうだけとはいっても、武装し、三千もの大軍が召集されれば、否(いや)でも物々しい雰囲気を帯びる。御前の手は、不安な気持で震えて居た。

 甲冑(かっちゅう)を身に付けた政隆は、傍らに置いておいた桐箱を、御前に手渡した。
「これは?」
戸惑いの表情を湛(たた)え、御前は尋ねた。政隆は柔和(にゅうわ)な眼指(まなざし)で答える。
「磐城郡大領の任官状じゃ。政保(まさやす)が戻って参ったら、預けて置いてくれい。」
「はい。承知致しました。」
政隆は笑顔で御前から太刀(たち)と兜(かぶと)を受け取ると、颯爽(さっそう)と対屋(たいのや)を後にして行く。
「御気を付け下さりませ。」
後方より、御前の悲し気な声が聞こえた。

 やがて、全軍が集結する大門前の曲輪(くるわ)に到着した政隆は、諸将を前に、此度遠征の目的を告げた。
「目下陸奥守様は、北上地方に勢力を広げる安倍氏の動きに、疑いの目を掛けられておわされる。その一族は今日尚、当家が郡司職を拝命する津軽、磐手の二郡を抑えて居る。今こそ、朝廷に対し奉(たてまつ)り忠義の志を示す為にも、我が軍勢を以(もっ)て両郡を平定せねば成らぬ。」
三千騎は一斉に応ずる声を上げ、怒号の如く館内に響き渡った。

 続いて、政隆は守将の話に移った。
「出陣を前に残念ながら、郡政を任せて置く予定であった嫡子政保(まさやす)が、未だ到着して居らぬ。そこで、暫定的な郡司を残して置く。」
諸将を見渡した上で、政隆はその者を呼ぶ。
「岩ヶ岡の平則道、前に出よ。」
意外な顔をして、則道は政隆の前に駆け寄り、跪(ひざまず)いた。政隆は則道を見据(みす)え、申し渡す。
「留守は其方(そなた)に任せる。ここに其方(そなた)を権少領(ごんのしょうりょう)に推薦する書翰(しょかん)を与える故、然(しか)るべき手続きを行う様。加えて、政保の到着後はこの補佐に当たる事。」
則道は平伏し、恭(うやうや)しく書翰(しょかん)を押し戴いた。
「では、其方(そなた)の軍勢は岩ヶ岡へ引き揚げるが良い。」
「はっ。」
主君の命に従い、則道は直ちに百騎ばかりの手勢を整え、一足先に住吉を去って行った。

 それを見送った後、政隆は己の愛馬に跨(またが)り、全軍の前に進み出て、号令を下した。
「出陣!」
総大将の命を受け、出陣太鼓が鳴る。法螺貝(ほらがい)が吹かれ、隊列の順に行軍を始める。その動きは整然とし、よく訓練された部隊である事が窺(うかが)えた。治に在って乱を忘れず。磐城勢は、かつて政氏が当地を制圧した時の様な、精強さを取り戻して居た。

 陸奥守の命令書を奉じ、政隆には奥羽の地で大軍を動かす大義を得た。堂々たる行軍は長蛇の列を成し、浜街道を北上して行った。

 磐城勢の先ず目指す地は、津軽である。磐城を発った軍旅は海道に沿って頓(ひたすら)進み、藤原経清の所領である亘理(わたり)を通過。逢隈(阿武隈)川を渡って名取に出た処で西に折れ、蔵王の北方から奥羽山脈を横断し、出羽国に入った。最上川に沿って街道を行くと、河口付近で出羽柵(でわのき)、出羽国府へと至る。

 ここ庄内平野は、実りの秋を迎えて居た。磐城も今頃は、農民達が収穫に忙殺される季節である。しかし大事な男手は、領主の命に因(よ)り、多くが駆り出されて居る。政隆は領民に対し、申し訳無い気持を覚えて居た。

 しかし駆り出された兵達は、将の指揮の下に黙々と進んで行く。出羽富士鳥海の西麓を北上し、由利柵を過ぎると、雄物川の河口近くの北岸に、街道の終点秋田城が在る。

 津軽を抑え、仙北清原氏を牽制(けんせい)する為には、秋田城との連携は不可欠である。又情報を得る為にも、政隆は一旦、秋田城へ立ち寄る事にした。

 秋田城は北方蝦夷(えみし)の南下を防ぐ為に、出羽国秋田郡に置かれた城塞で、かつては秋田城司(つかさ)という官職の者が指揮を執って居た。しかし後にこの役目は出羽介が兼帯する様に成り、城主の名称も出羽城介と変化した。

 今この地位に在る者は、常陸平家泰貞の叔父繁茂である。繁茂は歴戦の兵(つわもの)であり、その武名は広く轟(とどろ)いて居た。老いて尚、出羽に確固たる勢力を築く野心を抱(いだ)き、陸奥守登任(なりとう)と結んで、安倍氏の所領を狙(ねら)う一人である。

 磐城政隆が三千騎を率いて到着した報せは、直ちに繁茂の元へ達した。城介(じょうのすけ)繁茂は歓喜し、鄭重に迎える様に下知した。

 秋田城は、軍事色を多分に帯びた府である。新たに三千騎を収容するのにも支障の無い、広大な敷地を有して居た。先ずは城内の一郭に案内され、食事が用意された。

 磐城兵達は鎧(よろい)を脱ぎ、漸(ようや)く寛(くつろ)ぐ事が許された。手配の指揮を執った者は平貞成といい、繁茂の嫡男である。政隆は大将として全軍を代表し、貞成に御礼の言葉を述べた。
「秋田城介殿の御厚情に、感謝を申し上げまする。」
貞成は気さくに笑って答える。
「何を仰せられる。磐城殿とは安忠伯父以来の盟友でござれば、当然の事と存じまする。所で、父繁茂が政庁において、磐城殿の御越しを御待ちして居り申す。」
「おお、では早速参ると致そう。」
政隆は広瀬十郎を伴い、貞成の後に続いた。

 政庁の広間では、繁茂とその主立つ将が、豪勢な料理を用意して待って居た。
「御連れ致しました。」
貞成は一礼して入ると、賓客二名を紹介する。
「磐城軍総大将の平政隆様、そして副大将を務めまする広瀬十郎殿にござりまする。」
政隆と十郎は、広間の中程まで進むと、座礼を執って繁茂に礼を述べる。
「磐城の平政隆にござる。この度は、鄭重なる御迎え、痛み入り申す。」
繁茂が上機嫌で答える。
「何の何の。友軍を支援するは当然の事にござる。ささ、然様(さよう)な処に畏(かしこ)まらずに、此方(こちら)へ参られよ。」
繁茂は己の右隣の席を、政隆に進めた。政隆は好意に甘えてそこへ着座し、十郎は直ぐ下(しも)の、右手筆頭の席が宛(あて)がわれた。最後に貞成が左手筆頭の席に着いた所で、繁茂は手をパンパンと鳴らし、女中達が酒等を運んで来る。

 上座から順に酒が注(つ)がれ、繁茂は安倍氏に対する必勝を誓い、皆で一斉に杯を呷(あお)った。上座の繁茂と政隆が返杯して盟約を交した所で、政隆は繁茂に提案した。
「幸い、この場には繁茂殿の重臣方が揃(そろ)って居られる様子。酒が回る前に、兵事に就(つ)いて相談して置きたき事がござる。又念の為に、女子衆にも遠慮して貰(もら)いたい。」
政隆の武名も、繁茂に劣(おと)る物ではない。繁茂は承諾して女中達を下げ、広間は静まり返った。

 先ず、政隆は詫びを申し述べた。
「折角(せっかく)の御持て成しを台無しにしてしまった様で、申し訳ござらぬ。」
「いやいや。今、この城は五千騎を超す兵で満ちてござる。津軽安倍氏や仙北清原氏が警戒し、何かしらの牽制(けんせい)策を打って来るやも知れぬ。先に兵事を詰めて置くとは、流石(さすが)は磐城殿。事を成すに必要な慎重さかと存ずる。」
政隆は恐縮の意を示すと、繁茂の方に体を向けて本題に入った。
「先ずは、その清原氏の事にござる。聞けば当主光頼殿と安倍頼良とは、久しく誼(よしみ)を深めて居る間柄とか。此度の戦(いくさ)、清原の参戦は是(ぜ)が非(ひ)でも防がねば成りませぬ。」
「うむ。敵に回せば手強(てごわ)く、味方に付いたにせよ、何時(いつ)寝首を掻(か)きに来るか分からぬ。しかし、貴殿が津軽を抑え、我が軍が伊治(これはる)城まで出張れば、清原を南北に挟んだ事に成る。斯(こ)う成れば、迂闊(うかつ)には動けまいて。」
「確かに。」
政隆は一応頷(うなず)くも、双方共に負けが許されぬこの戦(いくさ)を、相当厳しい物と捉(とら)えた。

 続いて、貞成より質問が有った。
「磐城殿はこの先、陸路を行かれる御積りにござりましょうや?」
「うむ。その積りで居りまするが。」
隣で繁茂が、首を横に振った。そして政隆に助言する。
「秋田郡と奥州津軽郡との間には、白神産地が深い森を成し、人馬の通行を難しくして居り申す。又、丘陵が海岸近くまで迫り出し、海伝いの道も細うござる。故に陸路を辿(たど)られるのであらば、幾(いく)ら貴殿が大軍を擁して居ようと、津軽の寡兵(かへい)に食い止められてしまい申す。」
(じ)れる様に、副大将の広瀬十郎が尋ねる。
「では、如何(いかが)すれば良いのでござりましょうや?」
十郎の正面に座す貞成が、笑みを湛(たた)えて答える。
「秋田城より更(さら)に北へ向かうと、十里程の処に米代川と云う大河が流れ、南岸には渟代柵(ぬしろのき)、そして河口北岸には野代営がござり申す。野代営には軍船十余艘が繋(つな)いでござれば、これを御貸し致しまする故、海路を御採りなされ。」 「おお、水軍が使えまするか。」
十郎は安堵した顔で答えた。

 繁茂は政隆に向かい、真顔で告げる。
「秋田城には、充分な兵糧の備蓄がござれば、この一部を、友軍の磐城殿に進呈致そう。又、歴代の城介(じょうのすけ)が作成して来た、津軽郡の地図もござる故に、これも御貸し致そう。後は磐城殿の才覚を以(もっ)て、津軽を奪還されよ。」
「はっ。重ね重ねの御配慮、痛み入り申す。」
政隆が礼を述べた所で、繁茂は俄(にわか)に破顔した。
「軍議は一先ずここまでじゃ。今日は、南部奥州の英傑と酒を酌(く)み交すのを、楽しみにして居り申した。」
「では、これからは誼(よしみ)を深めまするか。」
繁茂はにこりと頷(うなず)くと、再び女中を召し出し、新しい料理と酒を用意させた。

 その夜、政隆と繁茂は遅く迄、互いの戦(いくさ)経験を語り合って居た。

 秋田城では二日程兵を休ませ、その後野代営へと向かう予定である。磐城からの長い行軍を経て、兵達は疲れて居た。もう少し休ませて置きたい所ではあるが、秋田城は安倍、清原の所領に近い。緊迫した状況下、両勢力が秋田城に増援が有った事を知り、そのまま何の手も打たぬ筈(はず)は無い。仍(よっ)て政隆は、急ぎ出立せねば成らなかった。

 大門の櫓(やぐら)に、繁茂は見送りに出てくれた。
「次は、厨川柵(くりやがわのき)で会おうぞ。」
繁茂の別れ際(ぎわ)の言葉であった。政隆は腕を上げて応じた物の、内心少し不安が有った。繁茂には少々、自信過剰な所が有る様に思えたからである。厨川柵(くりやがわのき)は、日高見(北上)川に沿って胆沢(いさわ)鎮守府より遙(はる)かに北方、磐手郡内の、安倍頼良の持つ所領の北端に在る。ここが落ちるという事は即(すなわ)ち、安倍氏の全面敗北を意味して居た。

 その日の内に、磐城勢は米代川を渡り、野代営へと入った。秋田城介繁茂の書状を持って居た為、当地の軍船を容易に借りる事が出来た。出航は翌日とし、その日の晩は津軽方に気取られぬ様、篝火(かがりび)の数を少なくした。

 翌朝、磐城勢は出陣した。先ずは、広瀬十郎率いる陸上部隊が先行して海岸沿いを北上し、遅れて政隆率いる水軍が出航した。

 水軍は、須郷岬の辺りで広瀬隊を追い抜いた。ここから愈々(いよいよ)、津軽郡沖へと入って行く。

 間も無く小さな漁村に、五十騎程の小部隊が駐屯して居るのを発見した。この辺りは白神岳の裾野(すその)が海岸近くまで延びて居り、確かに陸を進んで居たならば、この様な小部隊にすら、容易に足留めされて居たであろう。

 政隆は繁茂に感謝の念を覚えつつ、船団を津軽兵の陣へと向けた。津軽方は浜辺にも楯を置き、その陰で弓兵が矢を番(つが)えて居る。これに対し、磐城方の船団も矢戦(やいくさ)の陣形に変化した。

 政隆の乗る司令船は、最も前に出た。そして弓の射程に入る直前、政隆は船首に立ち、大声で浜に向かい叫ぶ。
「我こそは津軽郡大領、平政隆なり!陸奥守様の命を受け、津軽郡の視察に参った。大人しく通せば善(よ)し。もしも妨害に及ぶのであらば、朝敵と見做(みな)し、殲滅(せんめつ)致す。」
(にわか)に、浜の陣では響動(どよ)めきが起った。磐城船団は弓矢を構えたまま、船脚を落さずに陣へ迫って行く。

 突然、津軽の陣より白旗が揚がり、将と思(おぼ)しき武者が波打際(なみうちぎわ)まで出て来た。
「我等少領様の命に因(よ)り、郡境を守備して居ただけにて、大領様に手向かいする積りは、毛頭ござりませぬ。」
政隆は語気を強めたまま命ずる。
「では、皆武器を捨てよ。」
磐城の水軍は五百を超すのに対し、津軽方はその十分の一である。皆、続々と得物(えもの)を浜に放り投げた。
磐城勢は悠々と、郡境の陣を占拠する事が出来た。

 やがて、陸路を行く広瀬勢が追い付いて来た。隘路(あいろ)の為、歩兵や騎兵ばかりでは足留めをされたであろうが、水軍が有った故に、無傷で通過する事が出来た。

 この陣は秋田城から見れば、邪魔物以外の何物でもない。政隆は十郎に破却を命ずると、再び船に乗り込み、更(さら)に北へ向かうべく出航した。

 白神山地の大自然が、長年秋田城の北進を阻(はば)んで来た。それ故に、津軽は陸奥国に編入されたが、陸奥守すらも、遠く目の届かぬ土地であった。当地の豪族は朝廷の体面を保ちながら、その実倭(やまと)からは独立した統治を行って来た。

 かつて平政氏が津軽を訪れた折は、この地の有力者を少領に任じ、名目上の朝廷支配の形を取って和平へと導き、又交易を以て共栄を図った。しかし、国府が安倍氏の持つ富を狙(ねら)って緊張が高まる今、政隆に取っては津軽の真の統治者と成る、又と無い機会である。

 政隆は秋田城より拝借した地図を見ながら、腕組みして居た。津軽郡の府相馬は東の方角に在るが、白神山地より発する追良瀬川や赤石川が南北に流れ、嶮峻(けんしゅん)な山河の地勢に因(よ)り、荷駄(にだ)の運搬が困難である。仍(よっ)て一旦岩木山の北麓まで行き、そこから南下する他に道は無い。しかし遠回りをして居る間に、安倍頼良や清原光頼が援軍を出して来れば、厄介(やっかい)な事に成る。政隆の心は焦(じ)れたが、他に如何(どう)し様も無かった。

 総大将政隆の率いる軍勢は僅(わず)かに五百余であり、残りの二千五百は、後続の広瀬隊に編入されて居る。海は穏やかであり、海上に障害は無かったが、水軍だけを先行させる訳には行かなかった。

 津軽勢を戦わずして服従させるには、津軽郡司の肩書ではなく、先方を威圧する大軍が必要であった。それ故政隆は、陸の広瀬勢と歩調を合わせ、海沿いの出城を一つ一つ占領して行った。

 艫作(へなし)崎を回り、桝形山を東に仰(あお)ぎ見つつ、大戸瀬(おおどせ)崎を過ぎた。赤石川河口より一里余先、中村川の河口部に比較的大きな漁村が発展して居たので、政隆は近くの浜に船団を接岸させた。

 広瀬隊を待つ間、政隆は家臣に命じ、付近の情報を集めさせた。それに依れば、岩木山北方では未だ戦(いくさ)仕度をする豪族の動きは無く、遮(さえぎ)る者は居ないとの事である。政隆は一先ず胸を撫(な)で下ろした。やがて広瀬隊が合流して来ると、政隆は十郎等を呼び、今後採るべき進路を相談した。

 郡衙までの道は二つ有り、一つは岩木山東麓の平野を通り、岩木川に沿って南下する道。此方(こちら)は道がなだらかではあるが、軍勢の姿を隠す所が無い。一方で西麓の道は、少々山道ではあるが、万一襲撃を受けた場合に、地勢を利用して防戦出来るという。

 将の多くは、安全策として西麓の道を推した。
「我等は地の利を得ず、なれば山道を辿(たど)って一気に郡衙(ぐんが)へ迫り、先ずは本郡最大勢力である津軽安倍氏の居城を抑え、諸豪族を威圧するのが上策かと思われ申す。」
しかし、政隆の目は別の所を見て居た。
「最も望ましいのは、我が軍の武威を以(もっ)て、戦わずして津軽の豪族を服属させる事である。その為には、平野部を堂々と通行して、磐城勢の胆力を見せ付ける事が必要である。同時に多くの豪族が、その威容を目にする事と成ろう。」
この策は、政隆当初の目的を単純に実行する事であるが、いざと成ると多くの不安を伴う物である。もし、既(すで)に国府軍と安倍軍が全面戦争に突入して居り、千を超える援軍が派遣されて居るならば、味方は平野部の中央で、敵の包囲に陥(おちい)る事と成る。

 不安な面持ちで沈黙する諸将を鼓舞するべく、副大将の広瀬十郎が声を上げた。
「儂(わし)は秋田城に入った折、城介(じょうのすけ)殿の家臣の方から聞いたのだが、安倍方は下手(へた)に戦(いくさ)を起して朝敵と成るのを怖れ、軍勢を所領境に置く事さえ憚(はばか)って居るそうな。加えて、秋田城と安倍領の間で大軍を擁する清原氏の動きも、予断を許さず。安倍頼良が津軽にまで派兵をして居る事は、無い物と断ぜられる。皆、堂々と参ろうぞ。」
安倍本家の軍勢が来て居なければ、恐れる物は無い。諸将は挙(こぞ)って立ち上がった。

 湊(みなと)の軍船には秋田城の水夫(かこ)、加えて護衛の兵二百騎ばかりを残し、本隊は東へ進み、岩木山東麓へと出た。三千もの大軍が整然と、津軽平野を南進して行く。先陣には、「津軽郡大領平政隆御巡検」の旗が掲(かか)げて在る。岩木山の東南に至っても、襲って来る勢力は皆無であった。十郎の情報分析は正しかったと言える。

 やがて、津軽平野の中央を貫流する大河が、西へと折れて、軍勢の行く手を遮(さえぎ)る。対岸に敵勢が居る訳でも無し、政隆は浅瀬を探させ、そこから一気に渡河した。

 秋田城の地図を見ると、相馬川という支流が南へ延び、作沢川と三角洲を成す先の丘に、津軽の府たる相馬館が在る。政隆は使者を送り、郡内巡察の拠点としたい旨(むね)を通告に行かせた。

 程無く、津軽の豪族と思(おぼ)しき男が、四名の従者を伴い、使者と共に政隆の陣へ姿を現した。政隆は馬上に在って待機し、そこへ使者と津軽の男達が通されて来る。

 先ず、軍使が跪(ひざまず)いて報告をした。
「只今、戻りましてござりまする。館主の安倍忠季(ただすえ)殿は、是非(ぜひ)にも殿を御出迎え致したいと仰せ下され、ここまで御越しにござりまする。」
政隆は報告に頷(うなず)くと、犒(ねぎら)いの言葉を掛けて下がらせた。そして残る五人の内の一人、手前に跪(ひざまず)く男に尋ねる。
「貴殿が、郡司代の安倍忠季殿か?」
男は畏(かしこ)まり、低い声で答える。
「はっ。本日は大領様御自ら御越し下さり、光栄の至りと存じ奉(たてまつ)りまする。粗末な館ではござりまするが、何卒(なにとぞ)御寛(くつろ)ぎ下さり、旅の疲れを癒(いや)して戴きとう存じまする。」
政隆は馬を下り、忠季の前へ歩み寄って、手を差し伸べる。
「御立ち在れ。斯様(かよう)に鄭重なる御出迎え、痛み入る。共に参りましょうぞ。」
「はっ。」
忠季は立ち上がり、馬に跨(またが)った。そして中軍政隆の横に入り、馬を並べて相馬館に入って行った。

 流石(さすが)に三千騎が入れば、館は兵馬でごった返す。その日は辛(かろ)うじて、全ての曲輪(くるわ)に兵を詰め込み、対処した。相馬館は、磐城勢に占拠されたも同然である。

 政隆は本丸に入り、北に聳(そび)える津軽富士を仰ぎ見て居た。そこへ、広瀬十郎と安倍忠季(ただすえ)が駆け寄って来る。
「殿、全軍を館内に収容致し申した。今日はこれにて、何とか凌(しの)げまする。」
十郎の報告に頷(うなず)いた政隆は、忠季に向かって苦笑した。
「いやいや、飛んだ御迷惑を御掛けしてしまい申した。」
忠季は恐縮して答える。
「此方(こちら)こそ、満足の行く御迎えも出来ず、御恥ずかしき限りと存じまする。相馬川北岸の丘に、非常時に備えた館がござりますれば、明朝は軍勢の半数を、そこへ御移しして戴く事と相(あい)成り申した。」
「然様(さよう)にござるか。」
報告を聞き終えると、政隆は再び本丸の北の端、景色の開けた所に立ち、北方を望む。

 ふと、政隆は忠季(ただすえ)に尋ねた。
「津軽の平野を横断して居る折、片時も我が心より離れずに居たあの高嶺(たかね)。名は何というのか?」
政隆の視線の先には、津軽平野の西端に聳える一際(ひときわ)高い独立峰が在り、紅葉して見事な錦色を呈して居る。忠季は和(にこ)やかに答える。
「あれは岩木山と申しまする。昔、平政氏様が郡内巡検に御越しになられた時、大層御気に召された様で、本領の郡名を取って付けられたそうにござりまする。」
「何と、御祖父(じじ)様が岩木山と名付けたと?」
政隆は余りの驚きに、大きな声を発した。忠季は微笑しながら話を接ぐ。
「加えまして、当地の相馬という名称。これも政氏様が、祖先の地より取って付けられし名と承って居りまする。」
政隆は直ぐに閃(ひらめ)いた。それは怖らく、平良将、将門の代に所領として居た、下総国相馬郡の事であろう。

 祖先が、府や津軽富士に磐城平家所縁(ゆかり)の名称を付けて居た事は、政隆に取って大きな感動であった。津軽の地が、急に身近に感じられる様に成った。

 翌日、磐城軍の半数が、近隣の館へと移って行った。それでも、長年津軽郡政を担(にな)って来た津軽安倍氏の府、相馬には磐城勢が犇(ひしめ)き、政隆は郡政の実権を獲得して居た。

 安倍忠季(ただすえ)より岩木山、相馬館の話を聞いた翌日、政隆は近郷に住む仏師を招聘(しょうへい)し、一つの依頼をした。それは武家の未婚の姫の、木造一体の作成であった。

 仏師が承って戻ると、今度は政隆自身が手勢を伴い、岩木山東南の麓を訪れた。そして少し登り、視界が開ける処を見付けると、そこに祠(ほこら)を建てる様に命じた。

 その後暫(しばら)く相馬館には、政隆に服属を申し出る豪族達の来訪が相次いだ。三千の大軍を率い、本郡の最大勢力である津軽安倍氏が服従した事で、政隆の力が諸豪族に認められたのである。

 やがて来客が途絶える様に成った頃、木像と祠(ほこら)が完成した。政隆は、岩木山の大権現を祀(まつ)る神官と協議の上、二千の兵を動員して、相馬館から岩木山の間を固め、御祭神鎮座の儀を厳粛に執り行った。神官と政隆は二百騎の兵を伴い、木像を輿(こし)に乗せて奉じ、岩木山の祠(ほこら)へと納めた。幣帛(へいはく)が供えられ、神官の御祓(おはら)いが済むと、政隆は参列する将兵に申し伝えた。
「御祭神は、我が姉上万珠姫である。姉上は十七の時、命を賭して、儂(わし)を海賊の元から逃がしてくれた。それだけではなく、姉上の護符は三年後の村岡征討の折、村岡重頼の前に突風を起し、官軍を勝利へと導いた。本日、姉上の御霊(みたま)を津軽へ移し、我が軍は神仏の御加護を得られる事と成った。」
遠い北端の地へ遣(や)って来た兵達は、無事に家族の元へ帰る為にも、神仏に縋(すが)りたいという気持が強まって居た。政隆の成した事は、彼等の願いにも沿う事であった。

 又、政隆は別に、先の事も考えて居た。この先国府軍が、安倍軍に敗れて撤退した場合、政隆の軍だけが、安倍領の最深部に取り残される事と成る。不幸にして、磐城勢が津軽の地から居なく成ったとしても、政隆が津軽に在った証(あかし)を、残して置きたいと願ったのである。

 その後、政隆は二千騎を伴い、初めて津軽に上陸した湊(みなと)町へと向かった。津軽平野の西方は山地であり、海へ出る道はここ以外には無い。もう直ぐ北国の未知なる冬を迎える。万一に備え、国府と湊(みなと)を繋(つな)ぐ道だけは、抑えて置かねば成らなかった。

 中村川河口の湊(みなと)町に着いた頃、既(すで)に陽は西の方へ沈もうとして居た。政隆は将に幕営の設置を命ずる一方、自身は僅(わず)かな護衛を伴い、町の様子を見に向かった。

 朝廷の支配が完全に及ばぬ北端の地でありながら、津軽の湊(みなと)には大小の商船が数多寄港し、活況を呈して居た。政隆は武装を解き、商人の中に入って、何故(なぜ)遥々(はるばる)遠方より、津軽との交易を望むのかを尋ねて回った。

 話を聞く内に、その理由が明らかに成って来た。先ず、この湊(みなと)には各地の珍品が集まる。安倍頼良は一族の治める奥六郡や津軽郡、下北地方、加えて義兄清原光頼が支配する仙北三郡を軸(じく)に、巨大交易網を確立して居た。それが更(さら)に北の渡島(北海道)にも広がり、西方より多くの商人が北国の産物を求めて、遣(や)って来る様に成ったのである。

 加えて、交易に掛かる税が、他国よりも少なく決められて居た。これは、津軽が陸奥守の支配下に無い為に、成せる事である。

 交易で得られた富は、陸奥国府に入る事は無く、安倍一族に分配される。これこそが、金山の私有と並び、安倍頼良が陸奥国府を凌(しの)ぐ財力を持つ所以(ゆえん)であった。

 この交易税を抑えてこそ、完全に津軽を制圧したと言える。しかし国府軍が編成され、宮城野の城柵に配備されたと雖(いえど)も、実際の戦闘に発展したとの報は、未だ入って居ない。政隆は、勇み足で自軍が安倍一族の矢面に立つ事を案じ、暫(しば)しの間、交易税には手を付けぬ方が良いと考えた。

 政隆は衛兵と共に幕営に戻り、床(とこ)に就(つ)いた。その夜は穏やかであり、見張りの者を除(のぞ)き、兵達はゆっくりと休む事が出来た。

 しかし翌朝、俄(にわか)に雲が起り、突風が吹き荒(すさ)んだ。突然の天候の変化に兵達は、何と難儀な処であろうと愚痴(ぐち)を零(こぼ)しながら、飛ばされぬ様に帷幕(いばく)を撤収した。

 政隆が軍勢の転進を命ずるべく、整列を終えた兵の前に歩を進めた時、ふと、湊(みなと)に大型の商船が入港して来るのが見えた。政隆は何処(いずこ)の船籍か興味を抱(いだ)き、兵に調査を命じた。その間にも、強風は益々(ますます)猛威を振って来る。軍勢は風を凌(しの)ぐ為に、絶壁の陰へと移動した。

 間も無く、強風に飛ばされぬ様に堪(こら)えながら、湊(みなと)から兵が戻って来た。
「申し上げまする。あの船は、丹後より参った商船にござりまする。」
「何、丹後とな?」
政隆は驚いた顔で、南方の岩木山を仰いだ。
「道理で。招かざる者が来たが為に、岩木山の神が御怒りになられたのじゃ。」
岩木山に祀(まつ)った姉万珠に取って、丹後は辛酸の地である。それ故、丹後から来た者を追い帰そうとして居るのであろうと、政隆は考えた。

 これより後、丹後から来た船が津軽の湊(みなと)に入ると、天候は決まって荒れ始めたという。津軽の者はこの現象を、「丹後日和」(たんごびより)と呼ぶ様に成った。

 津軽は、既(すで)に冬の入りに差し掛かって居た。岩木山の西麓を辿(たど)って相馬館に戻る途中、この冬初めての雪が降り始め、磐城兵は寒さに震えて居る。

 これから津軽は長く、雪に閉ざされる事と成る。厳しい冬を乗り越えた先、雪融(ど)けと共に何が起るか、流石(さすが)に政隆も予測が着かない。次第に厚みを増して来る雪の山道を、慎重に進みながら政隆は、妻一人を残して来た本領磐城の事を、気に掛けて居た。

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