第四十節 海道巡察

 斯(か)かる時代、天下の政(まつりごと)を最も悩ませたのは、全国に急増して居る荘園であった。地方から国庫に納められるべき税の多くが、有力貴族や寺院の私財と成ってしまった為、税収は激減し、国家財政破綻(はたん)の危機に陥(おちい)ったのである。

 永観二年(984)に時の花山朝が発令して以来、久しく扱われて来なかった荘園整理令が、後朱雀朝の長久元年(1040)、後冷泉朝の寛徳二年(1045)と、相次いで発令される様に成った。藤原道長が最盛期を築く財源と成った荘園は、既(すで)に天下の安定を崩し兼ねぬ程に膨張し、頼通の代には負の遺産として、重く伸し掛かって居た。

 地方豪族に取って荘園は、国家の束縛から逃れる為にも、都合の良い物であった。財政危機に因(よ)り、国庫からの俸禄が減少に転ずると、貴族は荘園からの収入が頼みと成る。しかしそれは、目先の収入の為に朝廷の権威を削(そ)ぎ取って行くという、悪循環への道であった。

 私領と成った処では、土地の所有権を巡る争いが起った時に、公的な裁き無しで解決を図らねば成らない。特に多くの大乱を経験して来た東国では、所領を守る為に、武士の組織化が進んで行った。そして将門とは異なり、朝廷の下で坂東の諸豪族を束(たば)ね得る力を持ったのが、先の忠常が引き起した長元の乱を平定した、源頼信である。

 長元の乱の後に美濃守を拝命した頼信は、閑院実成が失脚した長元九年(1036)に相模守に任ぜられ、相州に坂東を抑える足掛りを築いた。そして永承二年(1047)、頼信は従四位上河内守に昇進し、東国に多大な影響力を持つ、河内武士団の棟梁と成るに至った。しかし翌永承三年(1048)四月十七日、齢(よわい)八十一にして逝去した。

 河内源氏の名跡を継いだのは、嫡男の頼義である。丁度(ちょうど)還暦の歳に成って居た。平忠常が乱を起し、追討使平直方が派遣されて間も無い時に、相模守を拝命した。そして、甲斐守頼信に正式に忠常追討の朝命が下ると、父と共に乱の平定に出陣し、武勲を挙げた。既(すで)に多くの経験を積み、大戦(おおいくさ)をも経験して来た新たな当主を戴き、河内源氏の統率は尚も盤石であった。

 一方で同じ頃、常陸府中において平安忠も身罷(みまか)った。常陸平家は安忠の遺言に因(よ)り、次男泰貞が跡を継ぐ事と成った。しかし、泰貞が後継に選ばれた理由は、父の覚えがめでたかったというだけであり、家臣団を心服させる様な功績を挙げて居た訳でも無い。当然、弟達から長兄則道への同情が生じ、そこから不満が噴出した。

 常陸府中が若き主君を迎えて混乱が生じて居る時、弟に家督を攫(さら)われた則道は、磐城郡住吉館を訪ねて居た。初めて顔を合わせて以来、政隆という人物に魅力を感じ、暫々(しばしば)足を運ぶ様に成って居たのである。

 しかし、この日の政隆には朗(ほが)らかさが無かった。先ずは則道が亡父の御悔(くや)みから始まり、引き続き菊多の様子、一族郎党の動静等に話が及ぶ。これ等は、御家の大事に係る極秘事項である。が、則道は今後、弟の世話に成って細々と暮らして行く他に道は無いのか、藁(わら)にも縋(すが)る心境で、己の感ずるままに、政隆に語り続けた。

 黙って話を聞いて居た政隆は、やがて則道が全てを語り終えると、哀しい目を向けて返した。
「則道殿、磐城に移り住む気はござらぬか?」
意外な申し出に、則道は当惑の色を隠せない。
「其(そ)は、政隆様の家臣に加わるという事にござりまするか?」
「まあ、そういう事じゃ。」
則道に、多少の警戒心が生じた。思えば、他人である政隆に、多くを語り過ぎたのかも知れない。これで政隆が野心を起し、則道を旗頭に常陸府中を制圧する積りであるならば、斯様(かよう)な話に乗る気は無い。特に弟に怨(うら)みを抱(いだ)いて来た訳ではなく、兄弟が殺し合う等は、不孝の極(きわ)みと考えて居た。

 不賛同と疑惑の目を向けられた政隆は、則道の為人(ひととなり)を理解してか、些(いささ)か安堵した気持に成った。そして、己の考えを伝える。
「貴殿は、菊多の小さな屋敷でひっそりと暮らして居たいのであろうが、其(そ)は叶(かな)わぬ事じゃ。」
むっとした顔で、則道は反論する。
「何故(なにゆえ)にござりましょう?某(それがし)と弟は、喧嘩(けんか)こそはした事も有り申したが、家督を巡る諍(いさか)いはした事がござりませぬ。弟が、大人しく山中に引き込んで居る兄に刃(やいば)を向けるとは、到底思えませぬ。」
「うむ。儂(わし)も常陸府中で会った事が有るが、貴殿の申される通りの人物と御見受けする。」
あっさりと政隆が同意するので、則道は話の向け先を見失った。
「では、何故(なにゆえ)弟との間を裂(さ)く様な事を仰(おお)せられる?」
政隆は一息吐(つ)いて、則道を見据(みす)える。
「代替りの時とは、野心を抱(いだ)いた者が己の身を立てる為に、何をし出かすか分からぬ物じゃ。仮に、貴殿を暗殺した上で、謀叛の疑いが有ったが為に討ち取ったと申さば、泰貞殿もその者を賞さぬ訳には行くまい。」
「しかし、根も葉も無き事を、弟が鵜呑(うの)みにするとは。」
政隆は、鋭い視線を則道に向けた。
「貴殿は今、我が館に来て居る。それで充分なのじゃ。謀叛の協力を得る為に会談した等と、何とでも申せる物ぞ。」
則道は憮然(ぶぜん)として項垂(うなだ)れた。

 力強く則道の肩を叩き、政隆は笑顔を見せる。
「まあ、暫(しばら)くは菊多郡衙(ぐんが)にて、大人しゅうして居るが良かろう。後の事は儂(わし)に任せて置けば、万事穏便(おんびん)に解決致す。」
全身の力が抜けた様に前傾し、則道は頭を下げる。
「宜しく、御願い申し上げまする。」
「うむ。」
則道の苦衷(くちゅう)を察し、政隆は深く頷(うなず)いた。

 菊多へ引き揚げる則道を城門まで見送った後、政隆は再び本丸へと戻って行く。その表情は城門に居た時と比べ、随分と陰気に成って居た。恰(あたか)も階梯(かいてい)を昇るだけで、精気が奪われて行くかの如くである。

 今、政隆の心を占めて居る物は、寂莫(じゃくまく)であった。母と妻、そして五人の子を伴い、磐城へ戻って来た頃は、対屋(たいのや)は何時(いつ)も賑(にぎ)やかであり、それが政隆に元気をくれた。しかし今そこに残るのは、妻の玉綾御前だけであり、当然往時の如き賑(にぎ)やかさは、望むべくも無い。

 先年、政隆の母信夫御前は、住吉館において天寿を全(まっと)うした。視力と足の不自由さは有ったが、その晩年は至極(しごく)幸せであったと、嫁や孫達に言い遺(のこ)して逝(い)った。佐渡の寒村で端女(はしため)として終ると思って居た身が、家を再興した息子に助けられ、亡夫の城において、孫に囲まれながら息を引き取ったのである。信夫御前の最期の顔は、実に安らかであった。

 その後間も無く、政隆の子等は成人の門辺(かどべ)に来て居た。政隆は嫡男太郎に政保(まさやす)という名を与え、元服の儀を執り行った。跡継ぎが成人し、これで次の代も安泰であると思って居た矢先、政保は突然、上洛の願望を父に打ち明けた。政保が述べるには、京に在って進んだ学問を修め、又広く交流して人脈を得、位官を賜(たまわ)れば、将来磐城平家の為にも成ると言うのである。政隆は、我が子が若くして志を抱いて居た事を喜び、一つ二つ注意はした物の、結局は政保の望みを叶(かな)えて遣(や)った。しかし、手配した行き先は、妻の実家である閑院殿ではなかった。旧来の誼(よしみ)を通じ、関白頼通の邸に入る事が出来たのである。ここで政保の主(あるじ)と成ったのは、未だ十歳にも満たない関白家の御曹司、師実(もろざね)であった。

 その後、弟達も相次いで京を目指し、妹達は京の貴族の家に輿(こし)入れして行った。皆、祖父が太政大臣にまで昇った事を誇りに、京に憧(あこが)れを抱(いだ)いて居た様である。

 子供達が皆磐城を去ってから、政隆の心はぽっかりと穴が空いた風(ふう)であった。それは怖らく、玉綾御前も同じであろう。二人で向かい合って食事を取る時も、次第に口数が少なく成って行った。

 斯(か)かる折、政隆の心の空虚を埋めてくれたのが、菊多郡司則道であった。父安忠の遺命に因(よ)り跡を継げず、家中より疎(うと)まれて居るその境遇は、村岡政権の傀儡(かいらい)で在った、当時の己と重なる物が有った。あの時は大村信澄等、多くの者の忠義に因(よ)り、生き延びる事が出来た。そして今、此度は己が則道を助けて遣(や)りたいと、思う様に成って居たのである。

 政隆は常陸府中の泰貞に宛(あ)てて、一通の書状を送った。それは則道を、磐城郡衙(ぐんが)に戴きたいという旨(むね)の内容であった。

 しかし、常陸方の対応は慎重であった。特に泰貞には、兄を差し置いて当主の座に着いた事を気に掛け、磐城家の後ろ楯を得て常陸領を奪回に来るのでは、という懸念が生じて居た。一方で、則道を磐城家に遣(や)ってしまえば、目の上の瘤(こぶ)が無く成り、泰貞の下に家中が結束するという提言も有った。そう成れば、磐城家が手出しする隙(すき)も無く成るであろう。

 泰貞は、飼い殺しか追放の何(いず)れかの道を辿(たど)らねば成らぬ兄に対し、幾許(いくばく)か同情の念も抱(いだ)いて居た。そこで拾う神が有るのであればと、遂(つい)に意を決するに至った。磐城家に対し、先日要望の件を認める使者を遣(つか)わした。一方で兄則道には、磐城に行くか行かぬかは自由である意の書状を送った。

 斯(か)くして則道の磐城移住は、磐城と常陸両家の合意の上、ひっそりと行われた。則道に付き従う郎党は、父安忠の命で付けられた、僅(わず)かな人数である。鳥見野原を抜けて郡境を越える時、誰もが都落ちの様な、湿(しめ)っぽい顔をして居た。斯(か)かる中、山道を進みながら、則道は元気な声を発する。
「菊多に居ては、郷長以下の扱いに甘んずる所であった。しかし、磐城家は南部奥州の雄。大老の処遇を得られれば、郡司に匹敵する力が得られようぞ。」
その言葉に、則道の郎党等は奮起した。そして力強く、磐城の地を踏み締めた。

 則道の一行は先ず、南の玄関口滝尻館に入った。そこで磐城家の案内人を得て、住吉館へと向かったのである。

 御巡検道を玉川に沿って北上すると、やがて住吉の邑が見えて来る。村岡征伐で焦土と化したのが二十六年前。そして、郡司政隆がこの地へ帰還して来たのが、十三年前であった。あれから随分と復興が進み、今では郡衙(ぐんが)とするに相応(ふさわ)しい賑(にぎ)わいを、取り戻しつつ在った。永承四年(1049)春の頃である。

 本城住吉に到着すると、一行は厳かに城内へと通され、案内を得て休息の間に入った。何が起るか分からぬ緊張感を覚えつつ、待つ事一時(いっとき)、漸(ようや)く則道に本丸へ御召(おめし)が掛かった。

 この回廊は、かつて幾度も通った事が有った。しかしそれは、飽(あ)く迄(まで)常陸平家の御曹司として、客の立場で訪れた物である。此度は事情が異なり、磐城家の末席に加わる事を、政隆が諸臣に布告する御披露目(おひろめ)の席と成ろう。遠くに湯ノ岳を眺めながら、則道の脚は微(かす)かに震えて居た。

 本丸に通された則道は、政隆の許しを得て、ゆっくりと広間の入口へ進み、静かな物腰で座礼を執った。
「平安忠が子、則道にござりまする。」
その後、暫(しば)し沈黙が続いた。則道の胸中に、不安が膨(ふく)らんで来る。それを打破したのは、政隆の声であった。
「天慶(てんぎょう)以来久しく、当家と坂東南部の良文流諸家は、常陸貞盛流、繁盛流両家との対立を続けて参った。しかし時は流れ、長元の乱に勝利した河内源氏は、乱に係った坂東の豪族を悉(ことごと)く麾下(きか)に組み入れ、今では天下一の武士団に成長しつつ在る。最早、将門公と貞盛公の対立の時代は過ぎた。これより先は、当家と常陸家が共に手を携(たずさ)え、源氏に併呑(へいどん)されぬ様に努めねば成らぬ。そして今日、慶(よろこ)ばしくも繁盛公の嫡流則道殿が、当家に身を投じて下された。此(こ)は常磐両国の友好の証(あかし)なり。皆、則道殿を宜しく頼むぞ。」
「ははっ。」
磐城家の重臣達は政隆に向かい、一斉に平伏した。

 磐城家も、時代の流れと共に大きく変わって居た。かつて重臣の主座に居た鵜沼、望月は既(すで)に亡くなって居り、丹後の三庄太夫の館に押し入って武功を挙げた四将も高齢と成って、評定衆から外れて隠棲(いんせい)して居た。

 最古参の広瀬十郎が、広間の中央に二畳程の大地図を広げて、下座に目を遣(や)る。
「則道殿、ここへ進まれよ。」
(うなが)されて則道は、地図の前まで進み出て、再び腰を下ろした。

 政隆は扇子を取り出し、地図を指す。
「則道殿に、幾許(いくばく)かの所領を任せたい。そこで、岩ヶ岡という場所を選定したのだが、如何(いかが)か?」
十郎は地図の中程を指差し、岩ヶ岡の位置を示す。それは住吉から見て西方、玉川を渡り、本城より半里も離れて居なかった。謀叛を企(たくら)めば、住吉で兵を集める前に、城に到達出来る位置である。則道は、政隆が如何(いか)に己を信頼してくれて居るかを察し、俄(にわか)に目頭が熱く成るのを覚えた。

 政隆は則道に言葉を接ぐ。
「ここ丸部(わにべ)郷を貫流する玉川は、度々氾濫(はんらん)を起し、近郷の民を苦しめる。川の西岸の治水は、其方(そなた)に任せたぞ。」
「ははっ。精一杯、相(あい)努めまする。」
則道は床板に額(ひたい)を押し当て、深く政隆に謝意を示した。磐城の中枢を、所領として賜(たまわ)った事に対する応えである。

 斯(か)くして永承四年(1049)四月、平則道は岩ヶ岡の地に館を構え、当地に入った。その後、近江国比叡山の東麓に鎮座する日吉山王を勧請(かんじょう)し、後作という地に社(やしろ)を建て、日吉山王大権現と称した。この後、後作は山王作と改称され、又、権現は則道家の氏神として、社地五反歩が付された。一方で、当地に在った御堂を改修し、高照寺を復興させた。

 則道は、神仏の加護を得て岩ヶ岡の邑(ゆう)を発展させ、新たな国造りに着手したのであった。

 この年、政隆は住吉を離れ、領内の巡察を行った。則道を目と鼻の先に残したまま、居城を離れる。もしこれで留守の間に何事も起らねば、古参の家臣達も、新参の則道を信頼する様に成るであろう。

 随行者の中には、折角(せっかく)復興させた住吉の御城が、則道に奪われはしないかと、ハラハラして居る者も在る。しかし、政隆には確たる自信が有った。その根拠は、則道は新たな所領を抑える事に手一杯で、迚(とて)も兵を起す余裕など無い事。巡察には玉綾御前も伴って居り、住吉を落しても、人質を得られない事。此度の巡察地である郡北部は、村岡征討以来の忠臣が多く、変事が起れば、政隆は直ちに纏(まと)まった兵を集め、長友館に拠(よ)る事が出来る事。寧(むし)ろ、不心得者が居れば、炙(あぶ)り出す良い機会であると考えて居た。

 今では、郡北部の玉造、片依、飯野の三郷には、石清水八幡社を本家とする、広大な荘園が広がって居る。現今政隆が荘官の地位を得て、郡内支配の体制を確固たる物として居た。当地は、磐城平家の府である滝尻や住吉から離れて居り、開発が幾分遅れて居る。しかし、肥沃(ひよく)な土地の中を浜街道が貫通して居り、磐城の更(さら)なる発展を期待させる地でもあった。

 されども、当地に拠点を移すには、大きな問題が有った。住吉方面より浜街道に出て北上すると、飯野平において大根川(新川)と夏井川、二つの川を渡らねば、それより先へは進めない。雨季の増水で橋が流された場合、北部は住吉や滝尻から隔絶される怖れが有ったのである。

 今、磐城平家当主の一族たる臣は誰も居ない。唯一の望みであった子供達は皆、都に憧(あこが)れて上洛してしまった。責めて嫡男政保が住吉を固めて居てくれるのであれば、自身は好嶋庄(よしまのしょう)に移り、北方開拓の指揮を執れるのにと、政隆は歯噛(はが)みした。

 好嶋庄を抜けると、後は頓(ひたすら)沿岸部を北へ進む。やがて一行は玉造郷を過ぎ、白田郷の浅見川に至った。河口近くに、海原を背に見事な松が立って居るのが目に留まり、政隆は従者の列を止めて歩み寄った。間近で見ると、更(さら)に惚(ほ)れ惚(ぼ)れとする枝の調和である。政隆は暫(しば)し心を奪われた様に見詰めて居たが、ふと、手を幹(みき)へと伸ばした。
「成りませぬ!」
突然、大きな声を上げる者が在った。見れば浜の方に、漁民の娘と思(おぼ)しき者が立って居た。

 驚いた政隆は、自然と一歩、松より身を退(ひ)いて居た。そしてその脇を、数名の兵が駆け抜けて行く。
「無礼者!」
兵は漁民の娘を取り抑え様としたが、間一髪、政隆の声が間に合った。
「止(よ)さぬか。退け!」
主君の厳命を受け、兵達は直ちに隊列へと戻って行く。

 そして政隆は、ゆっくりと娘の元へ歩み寄って行った。行列を見れば、身分の有る者である事は、直ぐに察しが付く。娘はその場に平伏した。
「善(よ)い善(よ)い。楽にせよ。」
政隆が柔和(にゅうわ)に告げるので、娘は些(いささ)か安堵を覚え、ゆっくりと立ち上がった。

 政隆は松を見遣(や)り、娘に尋ねる。
「あの松には、何ぞ謂(いわ)れが有るのか?」
おどおどしながら、娘は答える。
「はい。迂闊(うかつ)に御触れになられては、大蛇の祟(たた)りが及ぶ事を案じ、御注意申し上げました。」
「大蛇とな?」
「もう三十年以上も昔の事でござりまするが、住吉の若殿様が村岡家に攻められ、信夫(しのぶ)へ落ちて行かれた後、一年程の事でございます。浅見川の辺(ほとり)に、一人の女性が倒れて居りました。村人が見付けた時は、既(すで)に息絶(た)えて居りました故、そのまま埋葬する事に成りました。その時古老の幾人かが、かつて住吉の御所へ仕えに行った、小笹(こざさ)という者に似て居ると仰せになりました。しかしその方の親兄弟も既(すで)に亡(な)く、村人達は身元不明のまま、松の傍らに葬(ほうむ)ったのでございます。」
ここから愈々(いよいよ)、娘の顔に脅(おび)えが生じ始めた。
「それから間も無く、塚の傍らに立つその松に、大蛇が絡(から)み付いて居座る様に成ったのでございます。村人は、あの女性が蛇(へび)に化けて現れたと恐れ、以来塚に近付く者は居なく成り、歳月を経て、塚も風化してしまいました。その後、大蛇も何時(いつ)の間にか姿を消し、村人の心も漸(ようや)く落着きを取り戻しました。しかし未だにこの松に近寄れば、大蛇の祟(たた)りが有ると恐れられて居るのでございます。」
「然様(さよう)であったか。」
政隆は大きく息を吐(つ)き、松を見上げた。

 手招きをして、政隆は十郎を側へと呼んだ。急ぎ駆け付けた十郎に、政隆は語り始める。
「正に時は一致する。かつて、越後沖で人買いに攫(さら)われ様として居た儂(わし)と姉上を、若き頃に小笹(こざさ)と名乗って居た侍女頭は荒海に飛び込み、命懸けで助け様としてくれたのじゃ。その時は波に呑(の)まれてしまったと思って居たのだが、命は助かり、後に故郷に辿(たど)り着く事が出来たのであろう。」
懐かしい名を聞き、つと政隆の目頭が熱く成った。
「小笹は侍女頭と成り、姥竹(うばたけ)と改名した。姥竹は信夫が村岡の手に落ちた後も、最後まで儂(わし)や母上、姉上と行動を共にしてくれた、忠節の者である。仍(よっ)てその精神を称(たた)えるべく、白田郷長には塚と松の保存を命ずる。」
十郎は主君の意向を承ると、直ちに郷長の館へ駒を飛ばした。

 政隆は見事な松の樹勢を、暫(しば)し観賞して居た。玉綾御前も輿(こし)を下り、夫の傍(かたわ)らに立つ。
「殿は立派な方に囲まれて、御育ちになられたのですね。」
その言葉は政隆の心の芯(しん)に響き、心底よりの笑顔を、妻に返して見せた。五人の子を悉(ことごと)く手放した夫婦の心に、久し振りの潤(うるお)いが戻った様であった。

 やがて十郎が戻って来ると、政隆一行は再び、北へ向かい進み始めた。先程の漁村の娘は見送りながらも、松の木が気に掛かって居る様である。地元の民に姥竹(うばたけ)の名が語り継がれる事、それが政隆の願いであった。

 後に、この地には姥竹を祀(まつ)る、「姥獄権現堂」が建てられた。又、松の木は「奥州日の出の松」と称され、久しく下浅見の名所と成った。

(先代)奥州日の出の松

 政隆の浜街道巡察は、遠く行方(なめかた)郡まで達した。もう一箇所、政隆が郡司を拝命して居る伊達郡を飛地としない為には、逢隈(阿武隈)山中の奥深く、新田川、真野川上流域をも抑えて置かねば成らぬからである。

 その北方に位置する宇多郡より先は、祖父政氏の代とは異なり、愈々(いよいよ)磐城平家の力が及ばなく成って来る。郡の中心仲村郷は昔、村岡重頼が磐城氏に取って代って居た頃、北方の拠点が置かれて居た時も有った。しかし、広大な地を支配した村岡氏もやがては滅び、その旧領は諸勢力に分割された。宇多郡の北隣に位置する亘理(わたり)郡には、下総国より、かつての戦友藤原正頼が入った。宇多郡はその後、磐城平氏と亘理藤原氏の、緩衝地帯としての性質を帯びたのである。

 亘理(わたり)に正頼は既(すで)に亡く、嫡子頼遠が跡を継いで居る。しかし最近は病(やまい)を得て、政務は専(もっぱ)ら、子の経清に任せて居ると聞いた。政隆は領内北部の平静の為にも、一度亘理を訪ねて置こうと考えた。

 宇多郡はその沿岸部に、松川浦という風光明媚な内海を擁し、そこへと注ぐ宇多川、小泉川に挟まれた街道沿いに、主邑(しゅゆう)仲村郷が位置する。南北両川は天然の堀の役割を果し、東には松川浦、西には逢隈(阿武隈)山地が広がる。

 かつて村岡重頼は陸奥国府軍の南下に備え、この地に中村関(なかむらのせき)を築いた。しかし村岡本隊殲滅(せんめつ)後、残党は霧散(むさん)し、官軍の手に因(よ)り関は破却された。今宇多郡司は、磐城にも亘理にも属さず、往古の如く、独立した政(まつりごと)を執って居る。

 仲村郷の北は然(さ)したる要衝も無く、小規模な川を幾(いく)つか渡って行くと、愈々(いよいよ)亘理(わたり)郡に入る。亘理郡は、逢隈(阿武隈)川河口南岸に位置する。広大で肥沃(ひよく)な平野を擁し、逢隈(阿武隈)山地より流れて来る水が、そこに潤(うるお)いを与えて居る。初めて入った亘理の地であったが、実際に己の目で見てみると、想像以上の豊かさを誇って居る様に、政隆には感じられた。

 郡司藤原頼遠の館は、平野部の西方、丘陵地帯の裾(すそ)に築かれて居た。政隆は先頭と成って館へ駒を進め、門衛に取り次ぎを頼む。門衛は、南部奥州の雄磐城平家の突然の来訪に驚いた様子であったが、供の者も然(さ)したる数ではなく、政隆の口調が友好的であるので、無下に撥(は)ね付ける訳にも行かない。
「少々御待ちを。」
一人が館内へ、早足で報告に行った。

 間も無く、二人の屈強な郎党を従えた若者が、開門を命じて政隆の前へ進み出た。若者は政隆に一礼し、己の素姓を名乗る。
「某(それがし)、亘理郡司藤原頼遠が嫡男、経清と申しまする。」
その凛乎(りんこ)とした様に、政隆は心地好さを感じた。剛柔、併(あわ)せ持った観が有る。
「磐城より参り申した、平政隆にござる。本日は浜街道を旅し、亘理にまで足を運び申した故、是非この機会に御父上に御挨拶を申し上げたく、立ち寄った次第。」
「然様(さよう)にござりまするか。しかし生憎(あいにく)、父は病(やまい)の床(とこ)に臥(ふ)して居りまして。」
「御悪いのでござろうか?」
「些(いささ)か。」
政隆は一息吐(つ)いて、経清に提案する。
「本日某(それがし)が参ったは、正頼殿以来疎遠(そえん)と成りつつ在る亘理(わたり)藤原家との誼(よしみ)を、取り戻す事が目的でござった。仍(よっ)て、経清殿と少々話をしたいのでござるが。」
「はっ。某(それがし)で宜しければ。」
経清は鄭重に、政隆と、輿(こし)から下りた玉綾御前を、客間へと案内した。

 政隆は海道随一の大豪族であり、又、玉綾御前は太政大臣の娘である。館の者は大いに気を配り、二人を迎えて居る様子であった。

 客間に着いた後、政隆は経清に対し、政(まつりごと)の話はしなかった。経清は陸奥国府に出仕した経験が有る。そこで、未だ見ぬ逢隈(阿武隈)川以北に広がる、宮城野の事を尋ねた。多くの歌枕(うたまくら)の地を持つ彼(か)の地の話を聞くのは、御前に取っても趣(おもむき)深い事である。政隆夫妻より一世代程前の人物、能因法師は、奥州行脚(あんぎゃ)の後、陸奥の自然が織り成す風雅を、著作に因(よ)り京に伝えて居た。それに触れる機会が有った御前は、心底楽しく、陸奥の雅(みやび)の話に加わって居た。

 和(なご)やかな話に時を忘れて居ると、不意に客間に向かう足音が聞こえて来た。
「いやいや、出迎えも致さず、申し訳ござらぬ。」
現れたのは、既(すで)に五十を過ぎて居ると思(おぼ)しき老人であった。髪には白い物が混じり、時折咳(せ)き込んで居る。
「亘理郡大領を務める、藤原頼遠にござる。」
「磐城郡大領、平政隆にござる。」
両者は丁寧に座礼を執った。

 頭を上げた後、頼遠は叱(しか)る様に経清に質(ただ)す。
「磐城平家の御当主が御越しになられたというに、何故(なにゆえ)(わし)に報告せぬ?」
そこへ、政隆が宥(なだ)める様に間に入る。
「いや、大した用件が有った訳では無かったのでござる。近くまで立ち寄った故、頼遠殿に御挨拶をと思っただけにて。されど、御病気と承った故に、代りに経清殿から面白き話を伺(うかが)って居た次第。何卒(なにとぞ)、経清殿を御咎(とが)め下さりませぬ様。」
「そういう事でござりましたか。」
頼遠の語気は穏やかと成り、館の者に茶を持って来る様に命じた。

 病(やまい)を押して、出て来てくれた頼遠に敬意を表するべく、政隆は経清相手の時とは異なった、政(まつりごと)の性質を帯びた話に触れる。
「亘理(わたり)の地は、逢隈(阿武隈)川を渡ればもう、国府の在る宮城野でござる。近頃、国府の人事で台頭して来た者の話等は、聞かれませぬかな?」
頼遠としても、政隆に話して置きたい事が有った様である。身を乗り出して、嗄(しわが)れ声で話し始めた。
「貴殿は、亘理の西方、逢隈(阿武隈)山中に位置する、伊具の郡司を御存知か?」
「いえ。ここの所、伊達の方は家臣に任せて居りまする故。」
「政隆殿は伊達と磐城の領主なれば、強(あなが)ち無縁とは申せますまい。名を平永衡(ながひら)と申し、陸奥国府に在庁官人として出仕し始めた由(よし)にござる。」
政隆は驚愕(きょうがく)した。
「在庁官人とは、国府と国内豪族の橋渡しが出来る程の大物を選ぶ筈(はず)。」
頼遠は茶を啜(すす)って答える。
「それが、中々の人脈を持った男でのう。常陸平家泰貞殿の弟御に当たるばかりか、出羽仙北三郡を支配する清原家に養子入りされた、武則殿の弟御でもある。加えて陸奥北方の雄、安倍頼良殿の婿(むこ)でもあるそうな。」
平永衡は伊具郡を所領に持ち、伊具十郎とも称される。伊具は、伊達関(いだてのせき)と多賀城を結ぶ街道から外れた、逢隈(阿武隈)山地北方に在る。その殆(ほとん)どが山間部である為、税収も多くは見込めず、伊具郡司の肩書だけでは、群雄割拠する陸奥の在庁官人等は、到底務まろう筈(はず)も無い。しかし永衡は、血縁の有力者に巧(たく)みに働き掛け、遂(つい)には本家の平泰貞、養子に行った兄清原武則、岳父安倍頼良と、強豪三家との繋(つな)がりを持つ事に成功したのである。

 ここで政隆は、磐城に残して来た平則道に思いが至った。則道は、永衡の長兄である。この後則道を磐城平家の大老に昇進させれば、永衡を通じて安倍氏に接触し、己が拝命した責務を、より一層果せるのではあるまいかと考えた。それは即(すなわ)ち、粗(ほぼ)放棄して居たに等しい、津軽、磐手両郡大領としての務めである。政隆は彼(か)の地の統治を朝廷から任される身で在りながら、安倍氏との諍(いさか)いを避けるべく、これまで触れずに置いて居た。そして、公務を果せずに居る己に対し、歯噛(はが)みする時も有った。

 次第に、頼遠の咳(せき)が悪化して居た。政隆は頼遠の体調を考え、そろそろ御暇(おいとま)する旨(むね)を申し出た。頼遠は、奥州南部にその名が轟(とどろ)き渡る磐城政隆と話が出来、至極(しごく)満足気であった。

 客間を立つ時、頼遠は政隆に告げた。
「来年は陸奥守の交代が行われる。その前に、儂(わし)は隠居を願い出る積りでござる。今後何か有った時には、倅(せがれ)経清に話して下され。最後に磐城の英雄と政を語る事が叶(かな)い、思い残す事はござらぬ。」
政隆は返す言葉も見当たらず、頼遠に座礼を執る。頼遠も礼を返した後、傍(かたわ)らの経清に申し渡した。
「磐城殿を御見送りせよ。」
経清は承り、政隆と玉綾御前を案内した。

 亘理館の門前まで、経清は見送りに出てくれた。御前が輿(こし)に乗り、出発の準備が整うと、経清は別れの言葉を告げた。
「長元の乱終結の後、東国には大きな戦(いくさ)も起きては居りませぬ。この平和が久しく続く様、御互い相(あい)努めましょうぞ。」
政隆は経清の両肩を掴(つか)み、真顔で返す。
「今から二十六年前、磐城で大戦(おおいくさ)がござった。田畑は荒らされ、町は焼かれ、多くの良民が流浪の憂(う)き目に遭(お)うた。その傷跡は今も癒(い)えぬ。貴殿の時代には、斯(か)かる不幸が二度と起らぬ様にせねばのう。」
「はっ。必ずや。」
経清は、粛然と頭(こうべ)を垂れた。

 藤原頼遠の館を北限に、政隆の海道巡察は帰路に入った。住吉を出てから、三十里は来たであろうか。かつて村岡重頼がこの地を抑えて居たという事は、祖父政氏は一代にして、北方三十里にまで勢力を伸ばした事に成る。祖父が成した事の偉大さを、政隆は沁(し)み沁(じ)みと感じて居た。

 此度の巡察は政隆に取って、大いに有意義な物と成った。亘理(わたり)藤原家との関係を再構築し、藤原経清、平永衡(ながひら)という、二人の人物を知る事が出来たからである。

 宇多郷の北方、地蔵川を渡った辺りで、雪が舞い込んで来た。逢隈(阿武隈)山地の西方、即(すなわ)ち伊具や伊達より飛んで来たのであろう。既(すで)に暦(こよみ)は霜月(十一月)に入って居る。仙道北部は雪に閉ざされる頃であり、海道諸郡にも間も無く、本格的な冬が訪れる。

 政隆は南西の灰色の空を見上げ、都に居る五人の子供達に思いを馳(は)せた。健康を維持し、大殿(おとど)の君によく仕えて居るのか。不安は尽きる事が無い。そして、更(さら)に政隆の胸を突くのは、嫡子政保(まさやす)は何時(いつ)に成ったら都での修行を終え、本領磐城に戻って来るのか、という事であった。

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