第三十九節 磐城帰還

 東海道諸国は平穏であった。下総国を過ぎたが、忠常の乱に因(よ)る荒廃は、特に見受けられない。尤(もっと)も、忠常が戦場(いくさば)としたのは房総半島一帯であり、街道まで大きな戦火は及ばなかったと聞いて居る。しかも、彼から五年近くが経ち、復興も成されて居る筈(はず)である。

 それにしても、坂東南部の豪族達は、大分大人しく成った観が有る。怖らくは、群雄割拠の情勢から、一気に彼等を纏(まと)める勢力が現れたからであろう。元甲斐守源頼信。平良文流の内、武蔵と相模の一族は皆、朝命に従い頼信に与(くみ)した。又、忠常の子等は敗軍の将として、頼信に臣従せねば成らぬ立場に在る。

 常陸国内海(霞ケ浦)の辺(ほとり)まで来ると、ここも昔日(せきじつ)の面影(おもかげ)は無く、民人(たみびと)達は穏やかに、野良仕事に勤(いそ)しんで居る。かつてこの辺りは、長年対立を続けて来た平忠常と平維幹(これもと)の勢力境であり、坂東で最も緊張した処であった。維幹は以前、当時常陸介であった源頼信と連合し、忠常を降伏させた事が有る。長元の乱以前より源氏とは縁が有り、維幹の跡を継いだ為幹(ためもと)は、最早忠常の遺児達を警戒する必要も無かった。

 坂東八州の大半が、頼信を畏怖して纏(まと)まって居る状況は、磐城の武士団を率いる身にして見れば、不気味な物が有る。しかしそれに因(よ)って、多くの民人(たみびと)が安寧の内に暮らせるのであれば、それはそれで良い事であるとも思えた。

 遠くに望める内海(霞ケ浦)を横目に、政隆は一人の人物を思い起して居た。信太郡の信田頼望(しだのよりもち)。かつて村岡重頼征討の折、共に戦った友であった。長元の乱を終えた後の消息は聞かない。唯、無事で在る事を祈るばかりであった。

 常陸府中に入ると、政隆一行は街道を外れた。是非にも、会って置きたい人物が居たからである。それは菊多権大領(ごんのだいりょう)、平安忠であった。磐城を本拠に、内政に本腰を入れるに当たり、隣郡菊多との友好は、絶対不可欠の物であった為である。

 母と妻子を先に宿へと送り、政隆は十郎と一部の郎党を率い、安忠の邸を訪れた。折良く、安忠は在宅であった。先方は快く、政隆一行を迎えてくれた。

 政隆と十郎が案内された間では、安忠が若者と談笑して居た。そして一行の足音に気付くと、安忠は話を止(や)めて振り返った。
「おお、これは政隆殿。この十余年の間に、見違える程に立派に成られましたな。」
「御久しゅうござる。磐城への帰国の途上、かつての戦友の顔が懐かしゅう成り、立ち寄らせて戴き申した。」
「ははは、斯様(かよう)な顔で宜しければ、何時(いつ)でも見に来て下され。」
安忠の前に政隆が腰を下ろし、その後方に十郎も座した。

 安忠は十郎の顔を窺(うかが)い、尋ねる。
「はて、何時(いつ)ぞや見た覚えの有る御顔にござるな。」
政隆が代って答える。
「村岡重頼が我が本陣に押し寄せた折、馬廻(うままわり)組に在って、重頼の突入を食い止めし者にござる。」
安忠は膝(ひざ)を叩いて、目を輝かせた。
「おお、そうじゃ。あの時の兵(つわもの)じゃ。あれは大手柄であった。今では大分、出世したであろう?」
恐縮しながら、十郎は答える。
「我が殿は常に某(それがし)を側へ置いて下さり、難問が生じた折には、度々重要な御役目を、申し付けて下さりまする。」
「おお、其(そ)は重畳(ちょうじょう)な事じゃ。のう?」
安忠は傍らの若者に振った。若者は静かに同意を示す。

 はっとした顔を見せた後、安忠は苦笑いをして、その若者を紹介した。
「いや、これは申し遅れ申した。この者は我が次男にて、平太夫泰貞と申しまする。」
泰貞は座礼を執り、政隆も同様にして返した。
「磐城の政隆にござる。泰貞殿の名は、常陸平家を興隆させし、貞盛公に通ずる。嘸(さぞ)や父上の御期待も、大きい事でござろう。」
それを受けて、脇から安忠が笑い声を上げた。
「如何(いか)にも、政隆殿が御察しになられた通り。泰貞は何(いず)れ当家を継ぐ者にござれば、今後ともよしなに御願い申す。」
政隆は一応頷(うなず)いては見せた物の、些(いささ)か腑(ふ)に落ちぬ面持ちで、安忠に尋ねる。
「はて、泰貞殿は御次男と聞き申したが?」
安忠の表情から、笑みが消えた。
「確かに。これとは別に、我が長男に小太郎則道という者が居り申す。しかし、愚鈍(ぐどん)にして武士の棟梁たる器(うつわ)に非(あら)ず。されども、当家の長男たる事実は動かし難し。故に、菊多郡少領(しょうりょう)に任じ、経験を積ませて居る所にござる。」
「しかし、菊多はその大半が荘園にて、郡衙(ぐんが)領は猫の額(ひたい)程。御長男の教育には、少々役不足なのでは?」
「いやいや。あの程度の才覚では、菊多郡司ですら満足に務まるか如何(どう)か。まあ、彼奴(あやつ)の話はこれ位にして、治安(じあん)の戦(いくさ)の昔語りでも致しましょうぞ。泰貞には未だ戦(いくさ)経験がござらぬ故、脇で聞いて居るだけでも、身に付く物がござろうて。」
「まあ、黴(かび)の生えた話に、退屈されねば良いのでござるが。」
安忠は再び、膝(ひざ)を叩いて笑った。

 その日、政隆は夕刻まで安忠邸で話に花を咲かせ、互いに気分良く別れる事が出来た。一先ず、隣国安忠との間は平穏を保つ事が出来るであろう。安忠は勢力を菊多に伸ばしたと雖(いえど)も、常陸府中に程近い佐竹庄には、政隆の伯父守山勝秋も在り、迂闊(うかつ)に手出しは出来ない。それよりも安忠は、坂東南部に強い影響力を持つに至った、源頼信に警戒の目を向けて居る様である。

 宿への帰路、暮れの空に輝き始めた一等星を見上げながら、政隆は十郎に尋ねた。
「安忠殿が菊多に遣(つか)わした則道と申す者、其方(そなた)は如何(どう)思う?」
「はっ。安忠様の話通りの者で在らば、磐城領の南方は安泰かと。」
「うむ。しかし、何処(どこ)か気に成る。今日見た様子では、泰貞殿が抜きん出て英明だとも思われぬ。一度会って見て、人物を観察して置きたいと思うのだが。」
「御意。」
菊多の地はかつて、政隆が討ち果した村岡氏が、久しく治めて居た処である。政隆に怨(うら)みを抱(いだ)く者が、郡司則道を動かす可能性は否(いな)めなかった。

 翌朝、常陸府中を発った政隆等一行は、再び海道を北上し、遂(つい)に奈古曽関(なこそのせき)西方の山道で、陸奥国へ入った。しかし、今やここ菊多郡は、磐城平家の所領ではない。逆賊村岡重頼討伐の恩賞として、正式に常陸平家安忠に下賜された地である。

 菊多浦に注(そそ)ぐ蛭田川を渡ると、眼前に広がる平野は錦庄(にしきのしょう)である。ここで政隆は軍勢を止め、馬を下りて、母御前と玉綾姫の輿(こし)に向かった。

 政隆は、母御前の前に跪(ひざまず)いて申し上げる。
「母上、漸(ようや)く奥州に入り、磐城までは後少しにござりまする。」
信夫御前は簾(すだれ)を上げる。
「はい。懐かしい故国の風を感じまする。よもや、生きて再び故国の地を踏む事が叶(かな)うとは。これに過ぐる喜びは有りませぬ。」
涙を拭(ぬぐ)いながら、御前は噎(むせ)び声で答えた。

 母の喜ぶ姿に、自身も嬉しさを覚えつつ、政隆は今後の事を申し上げる。
「錦庄を抜け、鳥見野原を越えれば、愈々(いよいよ)我が所領、滝尻に入りまする。館では、我が臣玉村尭冬(たかふゆ)が迎える仕度を整えて居りまする故、一足先に彼(か)の地で御休み戴きまする様。私は少々、寄る所がござりまする故。」
そして政隆は、傍らの十郎に命ずる。
「母上や妻子の護衛は、其方(そなた)に任せる。無事、滝尻館に御連れする様。」
「はっ。」
しかし母御前は、不安な面持ちを湛(たた)えて尋ねる。
「政隆殿は、共に参らぬのですか?」
「御心配召されまするな、母上。常陸平家安忠殿の御長男が、菊多郡司を任されて居るというので、挨拶をして置くだけにござりまする。」
「そうですか。確かに菊多と誼(よしみ)を深めた方が、磐城は平和で居られまする。」
母御前が安堵してくれたので、政隆は心置きなく出発する事が出来た。政隆は五騎ばかりを供に付け、北西に向かい駆けて行った。

 大高村西方の丘にはかつて、菊多郡衙(ぐんが)が置かれて居た。しかし、常陸平貞盛の襲来に備え、祖父政氏は信の置ける重臣に汐谷城を与えて、菊多郡の政庁を移転させた。

 その後、汐谷城は戦火に焼け落ち、新たに郡司に就任した安忠は、かつての郡衙跡に屋敷を建て、これを府としたのであった。

 門前に辿(たど)り着いた政隆等が見た物は、凡(およ)そ府と呼ぶには頼り無い、小規模で、守りも脆弱(ぜいじゃく)な屋敷であった。これでは、盗賊の一団にですら落され兼ねない。しかし別の見方をすれば、近隣勢力もこれなら、安心を覚えるであろう。加えて菊多の郡衙領を考慮すれば、確かにこれだけの建物が有れば、政(まつりごと)に支障は無い様に思える。

 但(ただ)しそれは飽(あ)く迄(まで)、常陸平家の一家臣が治める場合である。長男がこの扱いでは、常陸家の格自体を貶(おとし)めやしないか、政隆には案じられた。

 ともあれ、郡衙の門を叩いて見た。中から衛兵が来訪者の素姓を質(ただ)して来る。身形(みなり)の整った者が磐城郡司と答えれば、流石(さすが)に門の中へと通してくれた。

 菊多郡主政と名乗る者が現れ、菊多郡司の元へと取り次いでくれた。政隆は兵を門の側に留め、一人奥へと進んで行く。しかし郡衙は狭く、大門より既(すで)に、郡司の間を窺(うかが)う事が出来た。

 主政が菊多郡司に政隆の訪問を告げると、郡司は主政を下がらせ、政隆のみを中へ勧めた。中は精々(せいぜい)六畳程であろうか。郡司の間とは思えぬ程、簡素な造りである。その中では一人の若者が座し、政隆が入室すると共に座礼を執った。
「菊多権大領(ごんのだいりょう)平安忠が長子、菊多少領則道にござりまする。」
政隆も直ぐに腰を下ろし、礼を返す。
「磐城大領、平政隆にござる。」
則道は表情を和(やわ)らげる事も無く、淡々と語り掛ける。
「磐城家の御当主に態々(わざわざ)足を御運び戴き、恐縮に存じまする。」
笑みを湛(たた)えて、政隆は返す。
「いやいや。都より本領に戻る途中に、少し寄らせて戴いただけの事。当家としても、菊多との誼(よしみ)は重要と考えてござれば。」
「確かに、今はかつての様に、両家が啀(いが)み合う時代ではござりますまい。我が父は、坂東に広がる源氏の影響力を懸念し、一方で磐城様は久し振りの御帰国故、領内の取り纏(まと)めに忙殺される事でござりましょう。」
「ほう、菊多の御長男は中々聡明な様じゃ。」
則道は苦笑する。
「ふふふ、聡明な長男で在らば、斯様(かよう)な僻地(へきち)に飛ばされて居りましょうや。菊多郡少領を拝命したとは申せども、郡衙領は極(ごく)(わず)か。大半は荘園であり、実質支配するのは父にござりまする。やがては、弟泰貞に受け継がれる事でござりましょう。」
怪訝(けげん)な面持ちで、政隆は問う。
「はて、安忠殿も勿体(もったい)無い事をされる御仁じゃ。聞けば、男(おのこ)は沢山居られるとか。成長を見極(みきわ)めぬまま、跡継ぎを決めてしまうとは。」
政隆の言を聞いて居る内、則道は次第に、心底の悲しみを呈する様に成った。
「私は、未だ増(ま)しな方にござりまする。父が出羽権守(ごんのかみ)として任地に在った時、父は出羽の強豪清原光方殿に、弟武則を養子として差し出し、権力を保つ為の道具となされ申した。」
元慶二年(878)、出羽国秋田城下において、蝦夷(えみし)が蜂起した。時の摂政藤原基経は、藤原保則(やすのり)を出羽権守に、小野春風(はるかぜ)を鎮守将軍に其々(それぞれ)任命し、二年懸(がかり)で漸(ようや)く平定に至った。この時、保則の補佐として出羽権掾(ごんのじょう)を拝命したのが、清原令望(よしもち)であった。清原氏は天武天皇を祖とし、出羽守房則の子深養父(ふかやぶ)は、中古三十六歌仙の一人に数えられる歌人である。この系統から次第に勢力を出羽の地に広げ、山本、平鹿(ひらが)、雄勝(おがち)、即(すなわ)ち仙北三郡を支配するに至ったのが光方である。その兵力は一万を超えると謂(い)われ、出羽国府や秋田城に取っては、看過する事の出来ぬ勢力と成って居た。安忠は出羽権守の時、三男武則を養子に出す事で融和を図り、一方で、出羽国内における発言力を強めたのであった。

 あの頃は武則も、出羽国司の子として扱われたが、光方には光頼という歴(れっき)とした嫡男が居る。則道は、安忠が出羽を去った後の、弟武則の処遇を案じて居る様であった。

 政隆は則道の肩を叩いて告げる。
「確かに、菊多の郡衙領は狭い。則道殿も仕事が少なく、嘸(さぞ)かし退屈されて居る事でござろう。宜しければ、何時(いつ)でも当家を訪ねに来て下され。」
「はっ。有難うござりまする。」
然して二人は互いに辞儀をして、政隆は磐城へと帰って行った。見送りに出た則道は、ぼんやりと国衙門に佇(たたず)んで居る。眼前の人物が未だ二十に満たぬ頃、父安忠も単独では手を出せずに居た強敵村岡氏を倒し、丹後守に就(つ)いてからは強硬な手段を以(もっ)て、政(まつりごと)を掌握したと聞き及んで居る。それが、何の力も持たぬ己に対して、優しく接してくれた事に、則道は不可思議な感じと、仄(ほの)かな感激を覚えて居た。

 鮫川を渡り、鳥見野の台地を越えると、愈々(いよいよ)磐城の南の要(かなめ)、滝尻館が見えて来る。久しい平和は、再び繁栄を齎(もたら)してくれて居る様である。釜戸川には荷船が接岸し、館に膨大な量の積荷を運び込んで居る。政隆は意気揚々と、館に向けて駒を進めた。

 城門に辿(たど)り着くと、門衛からの報告を受け、館主の玉村尭冬(たかふゆ)が迎えに出て来た。玉村は、政隆の前に進み出て礼を執る。
「長旅、嘸(さぞ)や御疲れに成られた事と存じまする。信夫御前様や奥方様、若君に姫君は、既(すで)に館内にて御寛(くつろ)ぎ戴いてござりまする。殿も緩(ゆる)りと御休み下さりませ。」
「うむ。明日は住吉へ発たねば成らぬ故な。」
政隆は玉村の案内を得て、館奥へと入って行った。

 信夫御前と玉綾姫には其々(それぞれ)、隣り合った広い居間が手配されて居た。五人の子は、母の玉綾姫と同室である。

 政隆は自分の間に荷を置くと、妻子を連れて母御前の間を訪れた。母に向かい座礼を執った後、政隆は言上する。
「今宵(こよい)はここ滝尻に泊まり、明日朝には住吉へ向けて出発致しまする。」
母御前は、感慨深い表情を湛(たた)える。
「愈々(いよいよ)、住吉館に着くのですね。あれから二十年。長い歳月でした。」
確かに、大村信澄等の助けを得て住吉を脱出してから、様々な事が有った。そして、今の政隆が在る為には欠かす事の出来ぬ人の顔も、同時に思い起される。
「母上、この滝尻館内には、以前姉上の遺品を持ち帰り、埋葬した塚がござりまする。今日の内に、姉上に御会いして置きませぬか?」
「おお、そうでしたか。万珠の魂も丹後の山奥より、故国へと戻って居る事でしょう。是非とも、娘に会いとう存じまする。案内して給(たも)れ。」
母御前は膝(ひざ)立ちと成って、何か掴(つか)まる物を手で探(さぐ)る。政隆はその手を取って、優しく告げた。
「某(それがし)に御掴(つか)まり下され。姉上の元へ案内致しまする。」
政隆は母を背負い、廊下へ出た。そして、妻や子達にも付いて来る様に言い渡す。侍女二人が下の子二人を抱き、玉綾姫は上の子三人を連れて、政隆の後を追った。

 政隆が向かった先は、館の東外郭であった。そこにひっそりと、万珠姫の塚が築かれて在る。政隆は近くの兵に筵(むしろ)の用意を命じ、塚の前に敷かせた。そこへ母御前を下ろすと、御前は手を伸ばして、塚の存在を確認する。

 再び、政隆は母の手を取って誘導する。
「母上、姉上に手向(たむ)けて遣(や)って下され。」
火傷(やけど)をせぬ様に、母御前に香を掴(つか)ませ、用意した炭の前へと導いた。香が焚(た)かれると、煙と共に香木の薫(かおり)が立ち昇る。政隆は、妻や子にも焼香を勧めた。

 朦々(もうもう)と煙が立つ側で、信夫御前は黙したまま、苦悶の表情で合掌を続けて居る。怖らくは、越後国直江浜にて、己の判断が誤ったが為に、人買いの手に落ちてしまった事を、頓(ひたすら)娘に詫びて居るのであろう。

 後ろでは太郎達も、祖母の真似(まね)をして手を合わせて居る。政隆は子等に向かい、静かに告げる。
「ここに眠るは父の姉上、即(すなわ)ち其方(そなた)達の伯母上に当たる。昔、伯母上の犠牲が無くば、父は奴隷のまま命を落し、其方(そなた)等も生まれて来なかったであろう。恩と縁の深き御方の墓故、将来は其方(そなた)達の手で、確(しっか)りと守ってくれ。」
「はい、父上。」
太郎は解った様な、解らない様な表情で答えた。但(ただ)、今まで見た事の無い祖母の表情に、戸惑いを覚えて居る様でも在った。

 翌朝、政隆一行は出立の用意を整え、滝尻館大門に集まった。見送りに出た館主玉村に向かい、政隆は告げる。
「住吉に着き、落ち着いた後、郡内の主な豪族を召集し、今後の郡政に就(つ)いて審議すべく、評定を行おうと思う。その積りで居ってくれ。」
「はっ。我等磐城平家の臣は、政隆様の元に纏(まと)まる日を待ち望んで居り申した。御呼びが掛からば、真っ先に駆け付けて御覧に入れまする。」
「うむ、頼もしき言葉じゃ。では、暫(しば)しの別れぞ。」
政隆はそう言い残して馬に跨(またが)り、号令を掛けた。
「これより本城住吉へ参る。出発。」
政隆は列の先頭を進み、大門を潜(くぐ)って行く。
その後方を、後続の郎党が整然と付いて来た。

 滝尻館を出ると、御巡検道が玉川の西岸に沿い、住吉へと延びて居る。政隆は故郷を目の前に、胸を膨(ふく)らませた。

 住吉館、別称玉川城。祖父政氏が磐城郡中央部への進出の為に築いた城で、磐城平家三代に渡る居城である。しかし、政隆が城主の座に在ったのは、村岡重頼が父政道を暗殺してから、大村信澄の協力を得て城を脱出するまでの、僅(わず)かな間であった。あれから二十年。三十を過ぎ、国守の経験を積んで成長した政隆は今再び、祖父以来の居城を仰いで居る。

 城門では、鵜沼昌直や望月国茂、その他大勢の重臣達が、迎えに出て居るのが見えた。先頭を行く政隆は、胸を張って堂々と、大門へ駒を進める。

 出迎えの者達の前に辿(たど)り着く直前、家臣筆頭の鵜沼は大きな声で告げた。
「殿の御帰還である。」
それを受け、道の両端に控える家臣達は、一斉に平伏した。

 突然の事に驚駭(きょうがい)を覚えたが、それを余人に悟られぬ様に努め、政隆は鵜沼の前で馬を止めた。鵜沼は静かに頭を下げた後、粛々と話し始める。
「逆臣村岡の乱以来、多くの者は今日という日が訪れる事を、如何(いか)ばかり待ち焦(こ)がれた事でござりましょう。父君政道様、又村岡の犠牲と成った大村殿も、泉下で御喜びの事と存じまする。」
政隆は二度、首を縦に振った。
「村岡の悪政時代を生き抜いてくれた其方(そなた)達には、これまで多くの苦労を掛けて参った。しかし私が帰国した以上、その苦労を多少なりとも、分ち合いたいと思う。」
覚悟を固めた顔で、政隆は鵜沼を見詰めた。そして、粛然と城門を潜(くぐ)って行った。

 住吉館は、村岡討伐の折に戦火に懸(か)かったが、その後は立派に復興を果して居た。城内を大館(おおだて)、小館(こだて)に隔(へだ)てた縄張(なわばり)は以前のままで在り、小供の頃に遠くを眺めた景色が、在り在りと脳裏(のうり)に蘇(よみがえ)って来る。只、父政道が贅(ぜい)を尽して改装し、住吉御所と呼ばれた面影(おもかげ)は無く、質素な館に再建されて居た。民が窮乏(きゅうぼう)する中、領主だけが贅沢(ぜいたく)をしつつ民を従わせるには、強圧的な姿勢で臨(のぞ)まなければ成らない。しかしその虚勢は、天災や動乱が起れば、一気に瓦解(がかい)する。

 政隆は大きな志を抱(いだ)いて居た。それは祖父政氏すら成し得なかった、奥州の恒久和平の実現である。政氏の代、磐城平家は磐城と信夫(しのぶ)を拠点に逢隈(阿武隈)一帯を抑え、その勢力は海道六郡、仙道五郡に及び、兵力は二万を数えた。しかし今の政隆に残された力は、磐城より行方(なめかた)に至る海道四郡と、信夫より分割成立した伊達郡、加えて未だ磐城平家の支配力が及ばぬ北端の地、津軽と磐手である。兵力は精々(せいぜい)五千であり、祖父の時代に比べて大きく衰退した。それでも尚、政隆の心は将来に向かい、燃え盛(さか)って居た。温かい故郷の歓迎、即(すなわ)ち昔から変わらぬ山河の佳景(かけい)、風土や民俗、復興に尽力した民や忠臣達の足跡が、政隆に活力を与えてくれるのであった。

 大館本丸の北側に、新たに対屋(たいのや)が築かれて居た。侍女の案内を得て、母や妻子は其方(そちら)へと移って行く。一方政隆は、鵜沼の案内で城主の間へと入った。小供の頃、父の急死を受けて、訳の解らぬまま移された処である。あの頃は、村岡重頼の傀儡(かいらい)君主で在ったが、今は違う。己の信念と有能な家臣を得て、堂々と城主の座に着いた。

 数日後、政隆は住吉館において初の評定を開くべく、領内の重臣達を召集した。鵜沼、望月といった重鎮に加え、滝尻より玉村、石森より舟越、長友より大野、楢葉より広野が馳せ参じ、広瀬十郎も近習として上席に加わった。郡内に山積する様々な問題の報告が成され、ここに政隆の新たなる試練が始まった。

 評定が一段落すると、政隆は諸臣を連れて、城下に復興した偏照院へと向かった。本堂において、磐城家中と寺院方が対面し、筑前安楽寺より持ち帰った、家祖政氏の位牌を納める。政隆以下家臣一同は、位牌に向かって平伏した後、全身全霊を捧(ささ)げて郡政に当たり、往古の繁栄を取り戻す事を誓った。

 政隆が故国磐城で新たな暮しを始めた頃、京では大事が起って居た。帝(みかど)の病(やまい)が悪化し、薬師(くすし)も手の施(ほどこ)し様が無く成って居たのである。死期を察した帝は最期の力を振り絞(しぼ)り、皇太弟敦良(あつなが)親王に皇位を譲る勅命を、病床より発した。そして間も無くの、四月十七日に薨(みまか)ったのであった。藤原摂関家の最盛期を築いた道長と頼通、両政権の支柱で在った天皇が、ここに崩御した。同日、敦良親王は直ちに践祚(せんそ)、六十九代目の帝位に就(つ)いた。先帝は、後一条上皇と称された。

 後一条院崩御の後、暗雲が立ち籠(こ)めたのは閑院家であった。日向守政隆という武将が東国に去り、持駒を失った大宰権帥(だざいごんのそち)実成は、安楽寺との対立を深めて居た。以前、政氏の位牌返還の問題に関し、権力を以(もっ)て強引に解決させた所から、溝が生じて居た。それに加えて、国衙領を統轄(とうかつ)する大宰府と、私領を持つ安楽寺で、土地の支配を巡る争いを引き起した。

 既(すで)に、大宰府と安楽寺との間の亀裂は、抜き差しならぬ物へと発展して居り、安楽寺は不輸不入の権を楯に、朝廷に対し大宰権帥を弾劾(だんがい)した。荘園は、多くの有力貴族や寺院に取っては、守るべき私有財産である。朝廷は大宰権帥実成に対し、九州支配にはもう少しの注意が必要である旨(むね)を訓告し、九州の平静を望んだ。

 翌長元十年(1037)四月二十一日、新帝即位を受けて改元が取り行われた。元号は長暦(ちょうりゃく)と改められ、平忠常の乱勃発に因(よ)り不穏であった時代が、改まる事を願った。

 秋に成ると、京官を任命する司召(つかさめし)の除目(じもく)が執り行われる。この年の人事で最も注目されたのが、右大臣職であった。久しくこの官職に就(つ)いて居た小野宮藤原実資(さねすけ)は、既(すで)に齢(よわい)八十二で在り、隠居を願い出て居た。

 結果は案の定、内大臣教通が昇進した。そして内大臣には、権大納言頼宗が就任した。藤原頼宗も、関白頼通の弟である。

 これにて、左右内府の上位三職は、藤原頼通兄弟に因(よ)り占(し)められる事と成った。

 明けて長暦二年(1038)、再び大宰府と安楽寺の対立が再燃した。安楽寺は既(すで)に水面下で、上方(かみがた)の有力寺院を味方に付けて居た。閑院実成は安楽寺の政略に抗する事能(あた)わず、大宰権帥並びに中納言の職を解任された。閑院家は遂(つい)に、太政官における発言力を、完全に失ってしまったのである。

 閑院家失脚は直ちに、磐城の政隆の元にも伝えられた。かつて、下野の豪族であった藤原千春は、当時仕えて居た右大臣源高明失脚の巻き添えと成り、その地位を失った。当然、住吉館においても他人事では済まされず、様々な憶測が噂(うわさ)と成って飛び交(か)った。

 ある日、玉綾姫が血相を変えて、城主の間へ渡って来た。政隆は望月、広瀬と共に、地図を眺めながら、開墾の計画を話し合って居た。しかし姫の突然の来訪に因(よ)り、ピタリと話が止(や)んだ。

 姫は座礼を執り、息を切らせながら申し上げる。
「御願いの儀が有り、罷(まか)り越しました。」
政隆は、扇子でトントンと肩を叩いて答える。
「其(そ)は、京の実成義兄(あに)上の事か?」
「然様(さよう)にござりまする。」
「実成様の失脚は、確かに残念な事である。しかしこれで、閑院家並びに当家が潰(つい)える事は無い。」
意外な面持ちで、姫は夫を見詰めた。政隆は笑みを湛(たた)えて言葉を接ぐ。
「摂関家が本気で閑院家を潰(つぶ)しに懸(か)かるのであれば、公成(きんなり)様にも罪を問い、連座させる筈(はず)である。しかし、閑院家は摂関家との関係が悪い訳でもなく、皇子(みこ)の外祖父と成り、脅威(きょうい)の存在と成って居る訳でもない。此度の事は、安楽寺を鎮(しず)めさせる為の、一時的な方便じゃ。」
そして政隆は、目を空(くう)に向ける。
「しかし、安楽寺が絡(から)んだと成ると、当家にも責任は有る。仍(よっ)て目下、関白家と右大臣家に繋(つな)がりを持つ方々に手を回し、成るべく早く、実成様の復帰が実現する様、働き掛けて居る。」
姫は目に涙を溜め、頭を下げると共に、それが零(こぼ)れ落ちた。
「既(すで)に御配慮を戴いて居たにも拘(かかわ)らず、御無礼を申し上げました。」
政隆は姫の側へ歩み寄り、肩にそっと手を乗せる。
「善(よ)い善(よ)い。兄を心配するは当然の事じゃ。これで、安心してくれるかな?」
「はい。」
姫は重ねて座礼を執った。

 水面下において政隆は、常陸の平安忠を通じて関白頼通と、又下総の平常将(つねまさ)を通じて右大臣教通と、其々(それぞれ)連絡を取り合って居た。奥州の名産や貴重な砂金までも献上し、実成の早期赦免が実現する様、動いて居たのである。

 その甲斐有ってか、先ずは公成が従二位中納言に叙され、安楽寺に角が立たぬ様、閑院家の地位が保障された。そして二年後の長暦四年(1040)、漸(ようや)く実成は許され、正二位の復帰を果した。

 この年は改元が行われ、十一月十日、元号が長久(ちょうきゅう)と改められた。

 閑院家の復興は、束(つか)の間に過ぎなかった。長久四年(1043)六月二十四日、滋野井別当公成が、四十五歳で病(やまい)に斃(たお)れた。ここに再び閑院家は、太政官における発言力を失った。

 翌長久五年(1044)十一月二十四日には再び改元が有り、寛徳(かんとく)元年と改められた。その頃、帝は肩の腫瘍(しゅよう)が悪化し、日に日に症状は悪く成る一方で在った。

 改元から一月足らずの十二月二十二日、閑院家当主の実成も遂(つい)に身罷(みまか)った。享年七十。後に遺(のこ)された公成の子実季(さねすえ)は、未だ十一歳である。閑院家当主は遂(つい)に無位無官と成ってしまった。

 年が明けた許りの寛徳二年(1045)一月十六日、帝は皇太子親仁(ちかひと)親王に譲位する旨の勅命を発し、後朱雀上皇と成った。二日後に出家するも、同日の内に崩御した。四月八日、皇太子即位の御大典が宮中で執り行われた。新帝の生母は藤原道長の娘嬉子(きし)であり、関白頼通は今後も、帝の伯父として権力を振(ふる)う事が出来た。しかし、道長の遺産もここまでである。頼通が次の帝の代でも外戚で在りたいのであれば、娘に皇子(みこ)を産ませなければ成らない。しかし、関白頼通にも右大臣教通にも、未だ皇子(みこ)の外祖父と成る兆(きざ)しすら無かった。

 翌寛徳三年(1046)四月十四日、新帝践祚(せんそ)を受けて改元が行われ、元号は永承(えいしょう)と改められた。又この年は、十二歳に成った閑院藤原実季に従五位下の位が与えられ、貴族の仲間入りを果すに至った。

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