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第三十八節 祖父の位牌
平安京を南に出ると、鳥羽の南に山城国府、与等(よど)津が在り、ここから船で川を下れば、一気に摂津国府に至る。後は頓(ひたすら)、陸路を西へと進む旅である。
京と大宰府を結ぶ山陽道は、律令体制下では最上位の大路である。唐土(もろこし)からの玄関口に当たる博多津と都を結ぶ、重要な街道で在った。かつてこの道を辿(たど)り、幾(いく)つもの大陸文化が京へ齎(もたら)された。
九州の入口である筑前まで、凡(およ)そ百里の行程である。政隆は母の健康に配慮し、ゆっくりと進んだ。
山陽道は九十年も昔、藤原純友が大乱を引き起した影は微塵(みじん)も見られず、泰平であった。しかし、何処(いずこ)も寺社や貴族の荘園ばかりで、国家財政の柱と成る税収が案じられた。
長門国(ながとのくに)の西端、国府下関からは船に乗り、海峡を渡って豊前国(ぶぜんのくに)社崎に上陸する。一行は皆、初めて九州の地を踏んだ。
社崎の次の駅家(うまや)は、同国到津である。ここより街道は三路に分かれ、その内大路は西へと延び、筑前国博多津を経由して大宰府に入る。又、二つの小路が在り、一つは南西に延び、真っ直ぐ大宰府へと向かう道。そしてもう一つは、南隣の豊後国(ぶんごのくに)を経て、任地日向へと至る道である。
政隆はここで休息を入れ、馬から下りて、母御前の乗る輿(こし)の前へと進んだ。直ぐ側に下ろされた輿(こし)から、玉綾姫も下りて来る。侍女に母御前の輿(こし)の簾(すだれ)を上げさせ、その前に政隆夫妻は跪(ひざまず)いた。
「休息ですか?」
御前は長旅の疲れを隠す様に、笑顔を湛(たた)える。政隆はそれを察知し、思う所を母と妻に相談した。
「ここより南へ進めば、日向へは最も近道と成りまする。しかし、祖父様の遺霊(いれい)を磐城へ御遷(うつ)しする為には、大宰府近くの安楽寺に、掛け合わねば成りませぬ。そこで、私は数名の供を連れて安楽寺へと向かいまするが、母上を含め他の者は、真っ直ぐ日向へ向かって戴きとう存じまする。」
玉綾姫は戸惑(とまど)い、信夫御前の顔を窺(うかが)った。御前は安堵した様子で、政隆に答える。
「それが良いでしょう。幼児(おさなご)の事は妾(わらわ)や姫に任せ、政隆殿は己の成すべき事を果しなされ。」
「はっ。」
政隆は母に一礼すると、早速立ち上がって、騎兵二人に供を命じた。そして、家族を護送する郎党の中から将を定め、母や妻子の事を宜しく頼んだ。然(しか)る後、日向国府に先行した広瀬十郎宛(あて)に認(したた)めて置いた書翰(しょかん)を渡し、国衙(こくが)門で面倒が起らぬ様、手を打った。
斯(か)くして、政隆と御供二騎は休憩(きゅうけい)もそこそこに、大宰府への最短路を選び、駆けて行った。
政隆は到津駅より鏡山駅を経て筑前国に入り、鋼別駅を過ぎた。冷水峠を越えると、その先には筑紫野(ちくしの)が広がる。その平野の中に、西国最上級の行政機関である、大宰府が置かれて居た。大宰府は九州に加え、壱岐(いき)や対馬(つしま)をも管轄(かんかつ)し、加えて韓国(からくに)や唐土(もろこし)に対する外交、軍事防衛を担当して居る。別称を鎮西府(ちんぜいふ)ともいった。中央で一の人の座を巡り、政争に敗れた者が度々、当機関の長である権帥(ごんのそち)に左遷されて来た。因(ちな)みに政隆の祖父政氏は、かつて一族の陰謀に因(よ)り謀叛人とされ、当地に配流と成った。
その後、磐城平家の臣が冤罪(えんざい)である事を晴らしたにも拘(かかわ)らず、朝廷は政氏帰国の許可を下さなかった。政隆が時の右大臣公季(きんすえ)に仕えた頃、漸(ようや)く許される運びと成ったが、既(すで)にその時、祖父政氏は病(やまい)に没して居た。この事は、今でも磐城平家の悔恨(かいこん)事と成って居る。
延喜元年(901)、左大臣藤原時平の讒言(ざんげん)に因(よ)り右大臣の職を追われた菅原道真(すがわらのみちざね)は、大宰権帥(だざいごんのそち)に任ぜられ、二年後にこの地に没した。道真の亡骸(なきがら)は、太宰府の外郭を流れる御笠川東岸の寺に埋葬された。その寺が、安楽寺である。
漸(ようや)く政隆等がこの地に辿(たど)り着くと、立派な社殿が建って居た。道真追放後、都に天変地異が相次いだのを道真の祟(たた)りと恐れ、延喜十五年(915)に勅命に因(よ)り建てられた、天満宮である。この辺りは北野神社の境内であり、安楽寺はその隣であった。
流石(さすが)に大宰府の長官(かみ)を葬(ほうむ)った寺だけ有り、伽藍(がらん)の荘厳さが、その格式を示して居る様である。安楽寺は大宰府と強い繋(つな)がりを持つ一方、近隣に荘園を拡大し、西国の一大勢力と成って居た。
政隆は山門を叩き、出て来た寺僧に日向守である事を告げた上で、住持への取り成しを頼んだ。僧は供の少なさを訝(いぶか)しみ、来訪の目的を尋ねた。それを受けて、政隆は堂々と答える。
「当山に冤罪(えんざい)に因(よ)り流されし我が祖父、かつての陸奥大掾(だいじょう)政氏の霊廟(れいびょう)を、当家の本領へ遷(うつ)したく存じ、住持にその旨相談致したく、罷(まか)り越した次第。」
「少々御待ちを。」
未だ年若いその僧は、よく解らぬ様子で、住持のおわす塔頭(たっちゅう)へと去って行った。
待つ事暫(しば)し、先程の僧が戻って来た。僧は不愛想(ぶあいそう)に言い渡す。
「住持様は現在上方におわし、代りに話が出来る者も居りませぬ。御引取りを。」
政隆が言葉を接ぐ暇(いとま)も無く、僧は直ぐに山門を閉ざし、鎖(じょう)をして去って行った。責めて祖父の墓参り位はして置きたいと思ったが、その後幾ら門を叩けども、中より返答は無い。無念の気持で、政隆は安楽寺を後にした。
次に政隆等が向かった先は、御笠川の西岸に広がる大宰府であった。大宰府は日向国府の上層機関に当たる。故に挨拶をして置いて、損は無いであろうと考えた。更(さら)にもう一つ、安楽寺に対し、大宰府から取り成して貰(もら)えぬ物か、頼む目的も有った。
日向守の任官状を見せると、大宰府へは簡単に入る事が出来た。供と別れて客間で待って居ると、やがて下次官の少弐(しょうに)と、上判官の大監(だいげん)が姿を現した。位では、日向守は大宰大監と同格である。
政隆は先ず挨拶代りに、絹十反を進呈した。少弐(しょうに)と大監(だいげん)は、政隆を話の解る相手と見て、大宰府と九州各国府の役割、慣習等を教えてくれた。その中には賄賂(わいろ)とも取れる物が有り、政隆は不快感を覚えた。しかしそれを圧(お)し殺して、政隆は機嫌を良くした両者に尋ねる。
「実は本日、私は大宰府の高官方に挨拶を申し上げる他に、安楽寺に眠る祖父の霊を、生国である陸奥へ遷(うつ)したく、御願いに参った次第にござりまする。しかし、安楽寺は住持が不在の為、一切対応は出来ぬと仰せられ、墓参もさせて貰(もら)えませぬ。如何(いかが)した物か分からず、途方に暮れて居る所でござりまする。」
政隆の話を聞き、二人は凡(おおよそ)見当の付いた顔をして、大監(だいげん)が政隆に説明を始めた。
「日向守殿、安楽寺と雖(いえど)も、只要望を出されただけでは、面白う無いのやも知れませぬ。詰(つま)りは。」
大監(だいげん)はそこで話を区切ったが、政隆は納得した顔で頷(うな)いた。
「成程。長年供養(くよう)をして戴(いただ)いたというのに、先ず御布施(おふせ)を包(つつ)む事もしなかったは、先方より信心の浅き者と映(うつ)ったやも知れませぬ。」
大監(だいげん)は感心した面持ちで、政隆に告げる。
「よくぞ気付かれた。寺社を相手に致すは、先に信心の篤(あつ)き所を見せる事が肝要にござる。」
政隆は眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せ、更(さら)に荷の中から反物を一つ取り出した。
「此(こ)は、権帥(ごんのそち)様に献上する積りであった、極上の絹の反物にござりまする。権帥様には後日、日向国府より御送り致しまする故、本日はこれを以(も)ちまして、御二方に安楽寺への取り成しを御願い申し上げたく、存じ奉(たてまつ)りまする。」
少弐(しょうに)はその反物を手に取って眺めると、笑顔で政隆に告げた。
「御易い御用じゃ。では、これより安楽寺へ届けて参る故に、ここで吉報を待って居なされ。」
「はっ。」
政隆が頭を下げると、少弐(しょうに)と大監(だいげん)は余裕の表情で、客間を発って行った。
半時程が過ぎ、少弐(しょうに)と大監(だいげん)が戻って来た。太宰府の次官(すけ)が赴いた以上、安楽寺も無下に突っ撥(ぱ)ねる事は出来まいと、政隆は期待して居た。
しかし、戻って来た二人の表情は暗かった。そして再び席に着くと、少弐(しょうに)は政隆より預かった絹の反物を取り出し、確認する。
「此(こ)は当初の目的の通り、権帥(ごんのそち)様に献上致す。それで宜しいかな?」
政隆は慌(あわ)てた。
「其(そ)は、如何(いか)なる事にござりまする?安楽寺は某(それがし)に対し、恨(うら)みでも抱(いだ)いて居るのでござりましょうや?」
宥(なだ)める様に、大監(だいげん)が答える。
「貴殿は、今から九十年前に起りし、天慶(てんぎょう)の乱を御存知在るか?」
意外な問い掛けに、政隆の怒気が燻(くすぶ)った。
「確か、坂東の平将門と瀬戸内の藤原純友が、東西で引き起した反乱にござりましょう?」
「うむ。そして乱の折、藤原純友は大宰府へ攻め込み、官衙(かんが)に火を放って、多くの財物を奪った。その悪行の汚名は、今も消えては居らぬ。そして罪の重さは、平将門も同じである。」
大監(だいげん)は鋭い視線を政隆に向け、確認する。
「貴殿の祖父に当たる平政氏という者、将門と所縁(ゆかり)が有るのではござらぬか?」
厳しい口調に、政隆はたじろいだ。そして大監(だいげん)は、更(さら)に言葉を接ぐ。
「将門に所縁(ゆかり)が有り、謀叛の嫌疑を掛けられた者と在っては、誰も係りたくはないと考えるのは、当然でござる。仍(よっ)て我等も、この件に係る事は遠慮させて戴く。忠告致すが、今後貴殿もこの事を口にせぬ方が、御身(おんみ)の為であろう。」
そう言い残し、少弐(しょうに)と大監(だいげん)は客間を去って行った。
後(あと)に独り残された政隆は、呆然(ぼうぜん)と客間の天井(てんじょう)を見上げて居た。その目からは涙が溢(あふ)れ、頬(ほお)を伝って居る。中納言に仕えて居る自身ですら、斯様(かよう)な仕打ちを受けるのであるから、奥州の豪族に過ぎなかった祖父は、何(どれ)程辛(つら)い目に遭(あ)わされたのかと。それを思う度に、政隆の心は痛むのであった。
無念の心情で、政隆は大宰府を発った。朝倉山の南麓を、東南へと進んで行く。広瀬駅より筑後川に沿って東へ進むと、やがて豊後国に入り、石井駅に至る。その後は上流の玖珠川を伝って山間(やまあい)に入り、水分(みずわけ)峠を越えると、木線(ゆふ)岳南麓の由布駅に出る。そこから山を下り瀬戸内に出た処に、大分(おおきた)団と豊後国府が置かれて居た。
ここで、政隆の家族や郎党が近回りをした街道に合流する。北へ進めば山陽道に戻り、南へ行けば目的地日向である。大野川に沿って南下し、三重駅からは九州山地へと踏み入って行く。小野駅を過ぎると、その先は愈々(いよいよ)日向との国境であった。
日向国は臼杵(うすき)郡四郷、児湯(こゆ)郡八郷、諸県(もろがた)郡八郷、宮崎(みやざき)郡四郷、那珂(なか)郡四郷の全五郡から成る。北の玄関口は臼杵(うすき)郡長井駅で、南へ県(あがた)駅まで下りて来ると、後は起伏の少ない海岸線の道であった。眼前に広がるは、土佐国より更(さら)に南の、大海原(おおうなばら)である。
日向灘(なだ)に面する海岸はなだらかであり、この辺りに広がる平野は日向の中心、児湯(こゆ)郡と成る。一宮(いちのみや)都濃(つの)社、都濃(つの)の官有牧場、飛去駅を過ぎて行くと、一ッ瀬川の先に漸(ようや)く、国府の邑(ゆう)が見えた。国府から先は更(さら)に二本の街道が延び、諸県(もろがた)郡を経て大隅国(おおすみのくに)、肥後国(ひごのくに)とを結んで居た。
政隆一行が国府大門へ辿(たど)り着くと、政隆の郎党が門へ駆け寄り、門衛に国守の着任を告げると共に、任官状を提示した。門衛は畏(かしこ)まり、門を開けると同時に、一人が政庁へ走った。
国守と郎党が中に入ると、目の前には政庁前の広場が広がる。規模は丹後国府とそう変わらなかったが、内部は整然とした観が有り、久しく政(まつりごと)が無難に熟(こな)されて来た様に感じられた。
やがて政庁の扉が開き、中から十名程の男達が、此方(こちら)に駆けて来た。よく見れば、先頭を走って居るのは広瀬十郎である。
政隆は馬を止めて飛び降りた。二人の郎党もそれに倣(なら)う。十郎は政隆の前に跪(ひざまず)いた。
「出迎えも致さず、申し訳ござりませぬ。」
「善(よ)い善(よ)い。寄り道をした上、供も僅(わず)かと在っては、私の到着を知る術(すべ)も有るまい。」
やや遅れて、政隆より一回り年長の官吏達が、続々と駆け付けて礼を執る。その中で、先頭に控える者を十郎が紹介する。
「此方(こちら)は、当国の介の殿にござりまする。」
日向介に、政隆も礼を執って返した。互いに頭を上げた後、日向介は笑顔を向ける。
「国府(こう)の殿、遠路遥々(はるばる)御越しになられ、嘸(さぞ)や御疲れにござりましょう。既(すで)に御家族の皆様方は宿所に入られておわしまする故、国府(こう)の殿も、先ずは御休みになられるのが宜しいかと存じまする。政務の事始めに関しましては、広瀬殿を通じて御連絡致しまする。」
「うむ。気配り、有難く存じ申す。」
政隆は介に犒(ねぎら)いの言葉を掛けると、十郎の案内を得て、母や妻子の待つ宿所へと向かって行った。
後れて到着した政隆と再会して、信夫御前や玉綾姫、子供達は大いに安心した様子であった。新たな生活の始まりの日、政隆は家族で夕餉(ゆうげ)の膳を囲み、束(つか)の間の団欒(だんらん)を味わった。
二日後、日向国府政庁において政隆は百官を召集。日向介より国府の印鑰(いんやく)を渡され、ここに正式に、日向守の職権を掌握した。
*
日向国には大規模な武士団は存在せず、宇佐八幡や摂関家等の荘園が散在して居た。特に目立つ勢力といえば、大隅国近くの摂関家領島津庄である。しかし、本家に当たる関白頼通や、その弟に当たる内大臣教通より認められての国司就任であるので、不輸不入を守れば、問題は起らぬ物と思われる。人よりも、この国で政隆を悩ませた物は、大型大風に因(よ)る天災であった。陸奥や丹後とは異なり、海上で発達した大風が、衰える前に遣(や)って来る。ここで政隆は、南国の水害対策を学ばねば成らなかった。
もう一つ、政隆には懸案(けんあん)が有った。幾度も使者を送れども、安楽寺は応じてくれなかったのである。遂(つい)には位を持つ重臣、広瀬十郎を遣(つか)わせては見た物の、丸(まる)で埒(らち)が明かない。大宰府も、この件には係りたくない様子であり、政隆は九州に赴任した主な目的を果せずに、鬱屈(うっくつ)とした日々を過ごした。
気候、風土において、上方(かみがた)や東国とは勝手の異なる南西の地に在って、政隆は如何(どう)にか、秋の税収を無事に終える事が出来た。
しかし、丹後時代の如く政(まつりごと)に専心する為には、やはり安楽寺との交渉を成功させる必要が有る。責めて、話し合いの緒(いとぐち)だけでも見出せればと、政隆は思案に暮れて居た。
ある夜、政隆は居間でまんじりと文机(ふづくえ)に向かって居たかと思うと、悲愴な面持ちで筆を執り始めた。書き始めは日向の政(まつりごと)であり、初年は無事に乗り切った旨(むね)の報告である。そして後半、政隆は己の胸中の煩悶(はんもん)を吐露(とろ)した。祖父である元陸奥大掾(だいじょう)政氏は、前(さきの)太政大臣公季(きんすえ)より帰国の許しを得たにも拘(かかわ)らず、安楽寺は頑(がん)として、祖父の御霊(みたま)を本領へ還(かえ)す事を許して下さらない。政隆が悩みを告げ様とする宛名(あてな)は、閑院家の主君、中納言実成であった。
年が明けて長元六年(1033)、新年祝賀の儀は介に指揮を執らせ、滞(とどこお)り無く終える事が出来た。日向の春の訪れは、京よりも遥(はる)かに早い。抑々(そもそも)冬が暖かく、暑い夏を乗り切れれば、強(あなが)ち悪い処とも思えない。この温暖な気候は、水稲(すいとう)の栽培に適して居た。冷害の心配は無く、稲の生育が早い。
春の農事が盛んに成った頃、政隆の元に一通の書翰(しょかん)が届けられて来た。差出人は閑院実成である。国守の間で封を解き、独り目を通す。それを読み終えた政隆は、心底より晴れ晴れとした顔に成って居た。
此度の除目(じもく)で実成は、前(さきの)大宰権帥(だざいごんのそち)の任期が切れた為、その後任を拝命したという。大宰府の長官(かみ)は帥(そち)であるが、皇族が形式的に任官して居るに過ぎない。事実上、実成が就任した権帥(ごんのそち)が、大宰府を指揮する立場に在った。又、実成は中納言との兼帯である為、太政官での地位を失った訳ではない。
既(すで)に実成が筑前に下向して居る事を知った政隆は、広瀬十郎を大宰府へ派遣し、己への心遣いに感謝する旨(むね)の書状を持たせた。
実成としても、父公季の命に叛(そむ)く者を、放置しては置けなかった。自ら筑前大宰府へ赴任し、中納言と大宰権帥(ごんのそち)双方の職権を有して、政庁対岸の安楽寺へと足を運んだ。
結果、安楽寺は政隆に対し、漸(ようや)く返答の使者を遣(よこ)した。使いの僧が申すには、政氏が没して既(すで)に十七年の歳月が過ぎ、遺骨や遺品等は失われてしまって居るので、位牌を渡す事しか出来ぬと言う。僧は布に包んだまま、位牌を政隆に差し出した。
厳粛に受け取り、包みを解(と)いた政隆は、中を見て愕然(がくぜん)とした。政氏の出自が「秦始皇後胤」と記されて在ったのである。不満を顕(あらわ)に、政隆は僧を睨(にら)み付けた。しかし僧は落ち着いて、政隆に語り始める。
「国家反逆の罪は、九族に及ぶと申しまする。確かに政氏殿は天下に功績有り、奥州四郡の大領(だいりょう)と成られました。しかし、長保元年(999)に謀叛の疑いが晴れた後、時の一の人道長公は、政氏殿を流刑に処されました。当山と致しましては、此(こ)は将門殿の罪が、未だ中央において燻(くすぶ)って居る事を案じ、自出を改めて記し、無用の被害が無き様に配慮したのでござりまする。此度は、権帥(ごんのそち)様が責任を持って下さると仰せられました故、院外に持ち出す事が叶(かな)いました。」
僧の長い釈明を聞き終えた政隆は、ぼそりと答える。
「大儀。」
やれやれという顔をして、僧は日向国府を去って行った。
誰かがこの話を聞いて居たのか、政隆が将門直系の子孫である事は、忽(たちま)ち国府中に広まった。一方で、政隆が大宰権帥(ごんのそち)の直参であり、内大臣の推挙を得た事も周知と成って居る。官吏達は政隆の機嫌を損ねる事が無い様に気を配りつつも、何処(どこ)が余所余所(よそよそ)しく成った。
丹後守の頃は、掾(じょう)が支え、三国太郎という友も得られた。しかし此処日向では、斯(か)かる人物の協力を得る事は無かった。無難に努めを果し、四年間の歳月が瞬(またた)く間に過ぎた。
長元九年(1036)春、後任の日向守より発せられた解由状(げゆじょう)を受け取ると、政隆は国府印鑰(いんやく)を介に託し、日向国を後にした。この四年間、信夫御前は都の喧騒(けんそう)を離れ、緩(ゆる)りと過ごす事が出来た様で、それが政隆に取っては救いの一つであった。又、玉綾姫は一男一女を儲(もう)け、これで磐城平家の子女は、男三人女二人の大所帯と成って居た。帰国の警固をする郎党達は、この後本領磐城に戻れる嬉しさと、磐城平家安泰の慶(よろこ)びで、笑顔が溢(あふ)れて居る。そして政隆の胸中では、祖父の位牌だけでも持ち帰る事が叶(かな)い、磐城平家当主としての役目を果し得たと満足する一方で、その祖父ですら知らない天慶(てんぎょう)の乱を理由に、人々が心を開いてくれなかった事を悲しんだ。
天慶(てんぎょう)の乱とは何であったのか。遠祖将門は、皇位簒奪(さんだつ)を己(おの)が野心の為だけに画作したのか。政隆は未だ、答えを見出す事が出来なかった。今日(こんにち)までの経験から見れば、公卿から民に至るまで殆(ほとん)どの人間は、天皇の権威に弱い。朝威とは即(すなわ)ち、帝(みかど)の威光である。しかし、それは親政期を除(のぞ)き、時の権力者に利用されて来た物である。権力者に付く者は帝の威光を楯に、己(おの)が野望を遂(と)げんと努める。心有る者がそれを止め様とすれば、帝威を嵩(かさ)にかけた反撃を受ける。
平忠常の乱が良い参考に成った。忠常は武力を以(もっ)て、帝威を楯に貪(むさぼ)る受領(ずりょう)と戦った。受領(ずりょう)は、私闘ではなく反乱であると報告し、それが認められれば追討使が派遣される。追討使も帝威を以(もっ)て、敵の協力者を引き離し、孤立する策を取る。
真の天下安寧、即(すなわ)ち天下万民の住み良い国家を築く為には、確かに新たな指導者と、新たな体制が必要であろう。故に、天慶の乱が起ったのだと思われる。しかし、幾(いく)ら天皇の末裔であり、巫(めかんなぎ)より託宣が有ったとしても、自称したばかりの帝(みかど)は、皇紀年間が浅く、朝威に太刀打ち出来する事は能(あた)わず。
忠常は上総介の身分のまま乱を起すも、結果的には降伏に至った。戦(いくさ)の前に上総国には二万二千九百八十余町の公定田が有ったが、乱が集結して三年後、長元七年(1034)に上総介藤原辰時が行った報告に依れば、僅(わず)か十八町余に激減して居たという。
戦(いくさ)は最終的に、民に幸せを齎(もたら)す物では無い。現行体制より、緩(ゆる)やかに軌道を変えて行く他は無いと、政隆は考える様に成った。
退任に際し、本来ならば大宰府に立ち寄って、世話に成った権帥(ごんのそち)実成に礼を申しげる所だが、既(すで)に急用有って、帰京に及んだとの通知を受けて居る。政隆は今後、郡司の務めに専念する積りであり、再び九州の地を踏む事は無いであろうと考えた末に、真っ直ぐ山陽道へ出て、上洛の途に付いた。
都に一行が到着したのは、もう春も終りの三月であった。京人(きょうびと)が平和に日々の暮しを営んで居るのを見ると、安堵を覚える。しかし三条大路を過ぎて、愈々(いよいよ)大内裏(おおだいり)が近付くに連れて、公卿の邸の様子が、普段とは異なる様に感じられた。
閑院殿に到着した政隆は、家司(けいし)に家族と郎党の宿所の手配を頼むと共に、実成への謁見(えっけん)を願い出た。しかし、今日は中納言の務めに追われ、帰りは深夜に成るという。そこへ、左兵衛督(さひょうえのかみ)公成(きんなり)が姿を現した。
「おお、叔父上ではござらぬか。無事、日向より戻られたか。」
政隆も笑顔を湛(たた)え、公成に礼を執る。
「公成様も御健勝の御様子にて、何よりにござりまする。又、昨年は若君様御誕生の由(よし)。謹んで、御祝いを申し上げまする。」
公成は照れながら礼を返した。そして、己(おの)が居間へと案内する。
公成は戸籍上、父実成の弟である故、今は独立して邸を構え、妻子を養って居る。しかし実成の跡継ぎである事には変りは無く、何(いず)れは閑院家の当主に成る身であった。
ここで、政隆は西国の情勢を話し、公成は都の近況を伝えた。平穏に四年間を過ごした政隆の話で、役に立つ物といえば精々(せいぜい)、大宰府と九州各国との関係、加えて大宰府の勢力図位(くらい)の物であった。一方公成の話は、実成の急な上洛の理由に繋(つな)がる物であり、政隆を驚かせた。
「内々の話にござるが、実は帝(みかど)の御加減が案じられて居る。」
「何と。では万一の時には?」
「うむ。帝の弟君敦良(あつなが)親王が、皇嗣(こうし)として践祚(せんそ)される。敦良親王には、関白様の妹御嬉子(きし)様が儲(もう)けられた親仁(ちかひと)親王がおわす故、暫(しば)くは頼通様が帝の伯父として、摂関の地位を保つでござろう。」
「確かに。されども、肝心の関白様や内府様の姫君からは、未だ親王は誕生されて居られぬ御様子。」
「ふふふ、それが光明やも知れぬ。もし、摂関家の姫が誰も皇子(みこ)を生まなんだら。」
公成と政隆は、顔を見合せて笑った。
「新しい世に、移り変わる時やも知れませぬな。」
閑院家雌伏(しふく)の終りの時が、必ず訪れる。そう信じながら、二人の話は止(や)む事が成かった。
陽がどっぷり暮れて後、漸(ようや)く実成が邸へ引き揚げて来た。そして公成と政隆が来て居る事を聞くと、疲れた顔が急に明るく成った。夕餉(ゆうげ)を掻(か)き込み、実成は早々に二人を召し出した。
所が、実成の元に姿を現したのは、三人であった。政隆が、妻の玉綾姫を伴って来たのである。実成は懐かしそうに、妹夫妻を迎えた。
実成の前に三人が並んで座すと、先ずは中央の政隆から、挨拶を申し上げた。
「日向赴任の砌(みぎり)、権帥(ごんのそち)様には色々と御世話に成り、御蔭を以(も)ちまして、祖父の位牌を持ち帰る事が叶(かな)い申した。一族郎党を代表し、御礼(おんれい)申し上げまする。」
破顔して、実成は答える。
「其(そ)は重畳(ちょうじょう)じゃ。其方(そなた)が日向守で在ったが為、儂(わし)も随分と遣(や)り易い所が有った。その礼とでも思ってくれ。」
「過分の御言葉、嬉しく存じまする。」
政隆は深く頭を下げ、謝意を表す。そして、真顔に成って礼より直ると、愈々(いよいよ)本題を話し始めた。
「本日は、実成様に別れを告げに参りました。」
実成は息を吐(つ)き、落胆の色を示す。
「そうか。奥州へ還(かえ)るか。」
「はっ。奥州四郡の郡司職は、先代の大殿(おとど)より賜(たまわ)りし大事な遺産。何時(いつ)までも、家臣任せにして置く訳には参りませぬ。関白家に仕える常陸の安忠殿、内大臣家に仕える下総の常将殿。両家に遅れを取らぬ様、某(それがし)も奥州の地盤を固めて参りまする。」
実成は俯(うつむ)き、額を抑えた。
「そうか、行くか。儂の大宰権帥(だざいごんのそち)の任期は後(あと)二年残って居るし、奥州と九州では会う事も無かろう。寂しく成るのう。」
政隆は湿(しめ)っぽい空気を払拭(ふっしょく)すべく、笑顔を湛(たた)える。
「実成様。今日は妻を連れて参りました。会うのは、久し振りにござりましょう。」
「うむ。」
実成は、視線を妹へと移す。
「玉綾、其方(そなた)の人を見る目は大した物じゃ。父上が拾って来られた身窄(みすぼ)らしい小僧は、今では当家に取って最も頼りと成る、武士の棟梁に成長した。其方(そなた)は五人の子宝にも恵まれ、今後は賢母を志し、政隆殿の支えと成ってくれ。又、奥州は寒さの厳しい処と聞く。子の健康には気遣い、其方(そなた)自身も風邪など拗(こじ)らせぬ様にのう。」
玉綾姫は粛々と、兄実成に座礼を執った。
「斯様(かよう)な御言葉を賜(たまわ)り、嬉しき限りにござりまする。今、政隆殿の妻で在るは、兄上の御蔭でもござりまする。奥州に移り住んだ後も、決して兄上や閑院家の皆を忘れる事はござりませぬ。」
「そうか。」
実成の顔に、穏やかな笑みが戻った。
政隆等が奥州へ下向してしまえば、この次は何時(いつ)会えるか判(わか)らない。兄妹は名残(なごり)が尽きず、積る話を遅くまで語り合って居た。
翌朝、政隆は大内裏(おおだいり)に登庁し、中務省の南に在る勘解由使(かげゆし)の詰所(つめしょ)に赴いた。勘解由使(かげゆし)は令外官(りょうげのかん)の一つである。国司交代の際に、後任者が前任者に対して発行する、事務を滞(とどこお)り無く引き継いだ事を示す文書、解由(げゆ)状を審査し、不正が行われて居ないかを、ここで確認する。
政隆は、後任の日向守より受け取った解由(げゆ)状を提出し、沙汰を待つ。後日、問題無しとの審査結果が示され、ここに漸(ようや)く、国司の務めは完了と成る。
報告を終え、閑院殿の客間を後にする勘解由使(かげゆし)判官(ほうがん)の背を見詰めながら、再び世話に成る事は当分有るまいと、政隆は思った。
国司任期満了の手続きも無事に終り、世話に成った閑院殿の家司(けいし)にも別れを告げ、政隆の一行は愈々(いよいよ)、本領磐城へ戻る時を迎えた。輿(こし)が三梃(ちょう)用意され、信夫御前と玉綾姫は下の幼児を一人ずつ伴って、乗る事と成った。残りの一つには上の三人の子供を乗せ、年長の太郎が面倒を見る。先頭では政隆が騎乗し、輿(こし)の側には警固隊長の広瀬十郎が付いた。付き従う郎党は二十名。皆、故国に還(かえ)られる事を懐(なつ)かしむ顔をして居る。
「出発。」
政隆は号令と共に鐙(あぶみ)を蹴り、駒を進めた。それに従い、後続の者が粛然と列を成す。閑院家の者達は皆、温かく見送ってくれて居る。当主の実成や御曹司公成は、参内(さんだい)して不在であったが、閑院殿の門前で手を振ってくれる者達とは、政隆が閑院家に仕えた十六年間、苦楽を共にして来た絆(きずな)が有った。
晩春の暖かな風が、俄(にわか)に二条大路を吹き抜けて行った。