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第三十七節 長元の乱
平忠常は下総介、上総介を歴任し、その勢力は常陸国内海(霞ケ浦)の南から、房総半島一帯に広がって居た。その武力の強大さ故に、下総国の在庁官人を務めるまでに成った。これは、国府の政(まつりごと)を輔(たす)けるべく、地方の有力豪族が任官した事務職である。
地方武士団の棟梁の務めは、所領の内に住む民を守る事である。忠常も父忠頼の遺領を受け継いで以降、家祖良文以来の善政を心懸(が)け、武士団の結束を、より強固な物として来た。しかしそれは同時に、民から多くの年貢を搾(しぼ)り取り、私財を成そうと考える国司との対立を生んだ。そして時には兵を以(もっ)て、国司に抗(あらが)う事件が起った。忠常は民を護り、所領を拡大して来たが、その結果、安房国府焼討という事態を招いてしまったのである。
年が明けて万寿五年(1028)、安房国で発生した一大事は都へと報告され、朝廷では審議が成された。一国の府を焼くという行為は、平将門の先例を鑑(かんが)みても、天下への反逆である。朝議では、追討使(ついぶし)の派遣を求める声が強まって居た。
正月は、愈々(いよいよ)四年の任期を満了する政隆に取って、最後の祝いの行事であった。由良の太郎を始め、国内各地の豪族達が別れを惜しむべく、丹後国府を訪れて居た。
政隆が三庄太夫を追放する前と比べ、国衙(こくが)領も荘園も、収入が格段に増大した。税制や治安等、有らゆる面で善良な民人が過ごし易い国と成り、それは人口の流入にも、巧(うま)く対策を取った為であろう。
豪族達は政隆が去るのを惜しむ一方で、新国司の赴任に不安を抱(いだ)き、宴(うたげ)の場で団結を誓い合って居た。
二月に入り峠の雪が融(と)けた頃、新たに県召(あがためし)にて丹後守に任官した者が、丹後国府へ着任して来た。政隆は政庁の一室で任官状を確認した後、広間に百官を召集して、皆の前で国守の印章を新任の守に譲り渡した。
この瞬間、政隆は丹後守の任を終えた。思い返せば、長く、充実した四年間であった。政隆は、粛然と政庁を辞して宿所へ戻ると、迎えに出た玉綾姫に、帰洛の準備を命じた。姫は承ると、一言添(そ)えた。
「四年間、御苦労様にござりました。」
政隆は照れながら、黙って頷(うなず)いた。
二日後、荷を纏(まと)めた磐城平家の一行は、遂(つい)に国府を去る時を迎えて居た。多くの荷駄が並び、輿(こし)が二つ用意されて居る。一つには信夫御前が乗り、もう一つには玉綾姫が、赤児(あかご)の太郎を抱いて乗り込んだ。
警固の兵を纏(まと)めるのは広瀬十郎であり、仕度が整った旨(むね)の報告を申し上げる。それを受けて、当主の政隆が出立の命を下した。
国府の大門が軋(きし)みながらゆっくりと開かれ、磐城の一行は粛々と、京へ向かって進発した。
途中、街道の両脇には、近郷の民が政隆を見送るべく控えて居た。一行がその中を通行すると、所々から声が上がり始める。
「国守様、我等を置いて行かないで下さりませ。」
政隆の胸は次第に熱く成り、やがて馬を止めて、沿道の者達に語り始めた。
「私はこれより丹後を去るが、私の政(まつりごと)を支えてくれた多くの者は、この後も国内に残る。何も心配は要らぬ。只、万一国守が周りの意見に耳を借さず、暴政を続ける様な事が有らば、由良の三国太郎殿を通じ、閑院藤原家に土地を寄進致すが良い。」
政隆の声を聞き、多くの者は安堵の表情を浮かべて居たが、中には別れを悲しみ、嗚咽(おえつ)する者も在った。政隆は、民が己を斯様(かよう)なまでに慕(した)ってくれる事を心底嬉しく思い、不意に涙が溢(あふ)れ出そうに成った。それをぐっと堪(こら)え、胸を張って、再び駒を進める。丹後は政隆に取って、終生忘れ得ぬ土地と成った。
磐城平家の一行は山陰道を進み、雪解け道の泥濘(ぬかる)みに閉口しながらも、三日後には山城国へと入った。目指すは、二条大路に面した閑院殿である。四年前に都を発った時に比べると、家族は母と妻、そして長男が加わり、随分賑(にぎ)やかに成っての凱旋であった。
閑院殿に到着した政隆は、家司(けいし)より鄭重な応対を受け、当主公季(きんすえ)の居間近くの部屋へと案内され、そこで公季の戻りを待つ事と成った。太政大臣公季は陣座(じんのざ)に列席して居り、帰りは夕刻に成るという。母や妻子、家臣達には、先に宿所を手配して戴き、先に休んで貰(もら)う事と成った。唯(ただ)政隆だけは、丹後の国政から解放された今、坂東の情勢が日に日に緊迫して居るとの報告を受けて居り、一刻も早く、朝廷の動向を知って置きたかったのである。
その日の戌(いぬ)の刻、陽は疾(と)うに暮れ、暗闇の中、公季を乗せた牛車(ぎっしゃ)が閑院殿に入って来た。今日の仗議(じょうぎ)は、かなり長引いた様である。
亥(い)の刻に差し掛ろうかという時に成り、漸(ようや)く政隆に御召(おめし)が有った。政隆は長旅の疲れを覚えて居たが、急ぎ公季の居間へと向かった。
部屋の入り口で座礼を執り、到着の挨拶を申し述べる政隆に、公季は直ぐ中へ入る様に告げた。嗄(しゃが)れ、疲れた様な声である。齢(よわい)は既(すで)に七十三。三年振りに目にした主君は、随分と老(ふ)け込んだ様子であった。
公季は政隆に、静かに語り掛ける。
「久しいのう。丹後では随分と活躍して居ったとの事。色々と、気を揉(も)めたわい。」
「申し訳、ござりませぬ。」
政隆はすっと、頭を下げた。
「しかし最早、其方(そなた)に如何(どう)斯(こ)う申す理由も無い。丹後の話等をゆっくりと聞きたい所ではあるが、此度、帰京後直ぐに儂(わし)との面会を望んだは、何ぞ大事を告げに参ったのであろう。怖らくは、坂東の事と推察するが。」
「御明察の通りにござりまする。坂東の情勢を調べさせて居た家臣に依れば、下総の平忠常殿が安房国府を焼討にし、安房守殿は討たれたとの事。その報は、既(すで)に都へも入って居りましょう?」
「うむ。今日の仗議(じょうぎ)も、忠常を如何(どう)処罰させるかで揉(も)めてのう。」
「何(ど)の様な決議と、相(あい)成りましょうや?」
「うむ。内府教通(のりみち)殿は、何とか穏便に事を治める事を望んで居る様じゃが、右府実資(さねすけ)殿が強硬に討伐を主張してのう。関白殿も迷われて居る様子であった。只、偉大な父を失って間も無い故、己の力を誇示したい素振(そぶ)りも見受けられる。その為には、右府殿の主張に従い成功させるが、最も早道じゃ。」
「右府様は追討使(ついぶし)の候補を、具体的に御示しになられたのでござりまするか?」
「うむ。前(さきの)出羽権守平安忠殿を推(お)して居った。土豪との繋(つな)がりを持つ出羽と、本領常陸の兵を併(あわ)せれば、充分な兵力に成ると。更(さら)には、誼(よしみ)の深い下野藤原氏も加えれば、平将門と雖(いえど)も、勝つ事能(あた)わずとも申して居った。」
政隆はそれを聞き、冷汗が頬(ほお)を伝った。
「大殿(おとど)、もしも右府様の意見が通らば、一大事にござりまするぞ。」
公季は首を傾(かし)げて問う。
「其(そ)は如何(どう)いう事じゃ?」
「先ず、安忠殿が追討使を拝命して、首尾良く忠常殿を討った場合にござりまする。忠常一族の、武蔵や相模の豪族達にもその罪を問い、追放するか軍門に降すなりの処置を行えば、坂東八州の内六州は、安忠殿の勢力下に組み込まれまする。此(こ)は、かつての平将門に劣らぬ勢力にござりまする。菊多を割譲した当家には、六州の武士団に抗する術(すべ)は無く、やがてはこれに呑(の)み込まれて行く事でありましょう。」
顎鬚(あごひげ)を撫(な)でながら、公季は唸(うな)る。そして政隆は更(さら)に深刻な顔で話を接いだ。
「加えまするに、忠常殿は内府様に、安忠殿は関白様に御仕えしてござりまする。もし安忠殿が坂東武者の棟梁と成れば、内府様の力は弱まり、関白様の地位は盤石の物と成りましょう。」
公季は大きく息を吐(つ)いた。
「儂(わし)は長い間、道長殿独裁の下で忍従を続けて参った。確かに、其方(そなた)が申す通りの事態と成れば、実成(さねなり)や公成(きんなり)の代には、当家は没落の道を辿(たど)るやも知れぬ。」
疲れた顔を呈しながら、公季は政隆に尋ねる。
「如何(いかが)した物か?」
政隆は畏(かしこ)まって言上する。
「某(それがし)、奥州磐城の臣に命じ、忠常殿の周辺を調べさせて居り申した。そして三代に渡り仕え、信の置ける家臣に因(よ)り、此度の安房国府焼討は、安房守殿との私怨(しえん)に因(よ)る物にて、朝廷への逆心は露(つゆ)程も無しという、下総方の証言を得て居りまする。仍(よっ)て大殿(おとど)に置かれましては、内府様、右府様を説得された上で、関白様に穏便なる解決を求めて戴きとう存じまする。呉々(くれぐれ)も、追討使(ついぶし)の派遣が決定される事が有りませぬ様。」
「うむ。忠常に謀叛の心が無いのであれば、少々の咎(とが)めは有るであろうが、追討使を派遣させる程の事も有るまい。よし、先ずは内府殿と話し合って見るとしよう。」
先の見通しが立った事で、公季の表情は晴れた。申し上ぐべき事を全て述べた政隆は、夜も深まった事であるし、公季の元を辞する事とした。
「それでは某(それがし)は、これにて失礼致しまする。明日は洛中にて自邸を探し、見つかり次第、其方(そちら)に移りまする。」
「然様(さよう)か。斯(か)かる折、其方(そなた)に都に居て貰(もら)うは心強い。何か有れば直ぐ、当家に駆け付けてくれ。」
「はっ。」
一礼して下がろうとした時、公季はもう一言加えた。
「玉綾が上洛前に、男(おのこ)を上げたそうじゃな。儂(わし)の孫じゃ。大事に育てよ。」
「はっ。必ずや。」
政隆は深く頭(こうべ)を垂れて、下がって行った。
この日から、京での新しい生活が始まる事と成った。幸い、義兄の中納言実成が妹夫婦の為に、六波羅に屋敷を購入して居てくれたので、翌日、政隆は家族と家臣を伴い、その屋敷へと移って行った。六波羅は六条大路の延長上、東京極大路の外に在り、賀茂川の東岸に位置する。新居への荷の搬入、片付けが終った時には、陽は既(すで)に嵐山の上で朱(あけ)の光を放って居た。夕餉(ゆうげ)の仕度が始まった頃、近くの寺より鐘の音が響いて来た。直ぐ側に、市聖(いちのひじり)空也上人が建立した、六波羅蜜寺が在る。鐘が成り止み、夜の静寂が訪れた後、政隆は家族揃(そろ)って膳を囲み、京の食材に舌鼓を打った。
政隆の官職から丹後守は外れた物の、奥州四郡の郡司職には未だ就(つ)いて居る。奥州の国元より送られて来る財と、丹後守時代に少々の貯(たくわ)えも出来たので、暫(しばら)くは京での暮しに困る事は無い。今後政隆が成すべきは、独自の情報経路より入手した事を閑院家に伝え、忠常が大乱を起すのを、未然に防ぐ事であった。
*
二月二十一日、右衛門少尉(うえもんのしょうじょう)平直方が、前(さきの)上総介平忠常の追討使(ついぶし)を拝命した。これに因(よ)り朝廷は、忠常を正式に逆賊と見做(みな)した事に成る。直方という人物は、平貞盛の子維将(これまさ)の孫に当たる。維将はかつて左衛門府の尉(じょう)を経て、後には肥前守をも務めた武士であった。この子維時(これとき)も右衛門府の尉(じょう)を務め、十年程前には常陸介に任官して居た。官軍の将を務めるに相応(ふさわ)しい武門の出で、此度は老齢の維時ではなく、身体の充実して居る年齢の、子の直方に白羽の矢が立った。
しかし、直ぐに軍勢が整えられた訳ではなかった。朝議の中では依然、慎重論、穏健論を唱(とな)える者が多く、纏(まとま)りを欠く状態であったのである。特に忠常の私君である内大臣教通、加えて太政大臣公季が派兵に同意せず、朝議が膠着(こうちゃく)したまま時は流れた。
六月五日、仗議の場に於て、平忠常並びに其の子常将を追討す可きか否かの審議が行われたが、派兵を決定するには至らなかった。其の代り、此度の事案を精査する担当官が選定された。以下の十一名である。
右大臣 藤原実資(さねすけ)
内大臣 藤原教通(のりみち)
権大納言 藤原能信(よしのぶ)
中納言 源道方(みちかた)
参議 藤原公成(きんなり)
中宮大夫 藤原斉信(なりのぶ)
春宮権大夫 源師房(もろふさ)
左衛門督 藤原兼隆(かねたか)
左兵衛督 藤原経通(つねみち)
右兵衛督 源頼任(よりとう)
左近衛中将 藤原資平(すけひら)
この中で、左兵衛督(さひょうえのかみ)経通と左中将資平の両名は共に、右大臣実資の弟懐平(かねひら)の子である。又、閑院家からは太政大臣公季の孫で、二年前に左近衛中将より参議に昇進して居た、公成が選ばれた。
閑院家としては、当主公季の意向の下、右府実資と内府教通を説得し、穏便に事を収める方針である。教通に取って忠常は、東国における重要な私兵であった。故にそれを失う事は望む所ではなく、すんなりと公成の意見に同調した。
しかし、問題は右府実資であった。実資は強硬な主戦論者であり、頑(がん)として、忠常追討の意志を曲げなかった。十一名の担当者の足並が揃(そろ)わぬまま、二十一日に左近衛府陣座(じんのざ)において、再び評議が執り行われた。
流石(さすが)に道長とは遠縁で在りながら、右大臣にまで昇り詰めた実資は、老獪(ろうかい)であった。評議前の根回しと強固な弁論で、巧(たく)みに評議を主導した。
しかし、穏健派も一方的に圧(お)されて居た訳ではなかった。追討使(ついぶし)に、検非違使(けびいし)を兼帯して居る平直方を宛(あ)てる事を認める一方で、自派の意向が及ぶ左衛門少志(しょうさかん)中原成道を、追討使に加える事に成功したのである。
ここに仗議(じょうぎ)は、東海東山両道諸国に忠常追討の太政官府発給を決定した。そして有事の際、即(すなわ)ち忠常方が反撃に出た折の対処として、関白に坂東へ下向して戴き、視察と官軍の鼓舞を行う事が提案された。だが右大臣実資は、諸国より速やかな報告を得られれば、関白下向の必要無しと、これを却下した。
七月十三日、上総介犬養為政(いぬかいのためまさ)の使者が入京した。使節は大内裏の東、二条大路と中御門大路の間を走る路沿いに在る、小野宮邸を訪れた。かつて小野宮惟喬(これたか)親王の邸宅であったので、そう呼ばれて居るが、今は右大臣実資の邸である。
この日、犬養為政の使者は右大臣家に、馬二疋(ひき)と布四百反を献上した。上総国は現在、平忠常が大半を占領して居る。犬養は果して、忠常の裏交渉を行いに来たのか。忠常追討を最も強く訴えて来ただけに、実資の疑念は深まった。
そして翌々日の十五日、再び小野宮を訪れる者が在った。男は上総介為政の厩舎人(うまやとねり)、伴(ともの)友成と名乗った。小野宮ではこの男を迎え入れ、忠常方が何を申し出て来るのかと気構えた。しかし友成は忠常の使者ではなかった。友成が申すには、上総の国人は最早、悉(ことごと)くが忠常の命に従い、上総介為政の下知は通らぬとの事。又、忠常の郎党が国司館に押し入って乱暴を働いた為、為政の妻子が難を逃れるべく、近々京へ入る事を報告した。
ここに至り実資は、上総介は忠常に従属したのではなく、抗戦の為の支援を求めて居た事を知った。怖らく先の使者は顔繋(つな)ぎであったのであろうが、上総国内が俄(にわか)に緊迫して来た為に、伴友成を派遣して来たのであろう。実資は早急なる追討使(ついぶし)の派兵が必要であると、改めて感じさせられた。
しかし、上総介への援軍は手遅れであった。館を軍勢に包囲された為政は、忠常に上総国の印鑰(いんやく)を差し出し、既(すで)に降伏して居たのである。
一方の朝廷では、追討使(ついぶし)の平直方と中原成道の作成した九ヶ条の申請(しんせい)に対し、仗議(じょうぎ)は僅(わず)かに、三ヶ条のみを認可した。これに不満を抱いた為か二十五日、中原成道は突如、瘡(そう)を患(わずら)ったとの理由で出仕しなく成った。この日は改元が行われ、万寿五年(1028)は長元(ちょうげん)元年と改められた。
八月一日、検非違使(けびいし)庁は忠常の郎党が京に入ったとの情報を入手し、捜査の末に一人の不審者を捕縛(ほばく)した。男は忠常郎党の従者である事が判(わか)り、検非違使(けびいし)庁は更(さら)に大掛りな調査を展開した。
四日、内偵の結果、運勢法師と明通朝臣(あそん)の元に居る客人に、疑いが掛けられた。運勢法師は自ら男を捕え、明通朝臣の邸にも検非違使(けびいし)が踏み込み、二人の逮捕者が出た。衣服を改めると、計四通の書状を所持して居た。内三通には宛名(あてな)が記されて居り、内大臣教通、先の司召(つかさめし)の除目(じもく)で中納言に昇進して居た源師房(もろふさ)、そして関白頼通に宛(あ)てられた物であった。
検非違使(けびいし)庁は直ちに、この事を関白頼通に報告した。頼通は右衛門督(うえもんのかみ)源頼任(よりとう)に命じ、自邸へ四通の書状を届けさせた。
関白邸において、頼通自らが書状を調べる事と成った。先ずは自身に宛(あ)てられた一通を、頼任に読ませた。内容は、追討使(ついぶし)の派遣が理に適(かな)わぬ旨(むね)を、訴える物であった。それだけ聞くと、頼通は頼任(よりとう)に命じて、残り三通の文面は検(あらた)めずに、検非違使(けびいし)庁へ送り返した。
此度の動乱は、関白左大臣の座を狙(ねら)う弟教通が仕組んだ物ではと疑いもしたが、己宛(あて)の書状を読むと、如何(どう)やらそうではないらしい。下手(へた)に踏み込んで教通との間に溝を作っては、閑院家や小野宮家に付け入る隙(すき)を与える事と成る。頼通は慎重に、今後の動向を見極める事とした。
一方、右大臣実資は、甥(おい)の左兵衛督(さひょうえのかみ)経通が検非違使(けびいし)別当を務めて居るので、これを通じて、独自に情報を集め得て居た。特に、忠常より教通に宛(あ)てられた書状には関心を持ち、文面を密かに調べさせた。しかしこれにも関白宛(あて)と同様、追討使(ついぶし)が派遣されない事を請(こ)い願う内容に過ぎなかった。只、連絡先を上総国夷隅(いすみ)郡の丘に指定して居た事が判明した。上総介の家臣より、忠常はこの辺りの山城に、郎党二、三十騎を従えて楯籠(たてこも)って居るとの報せを得て居た。賊の所在と数に確信を帯びた事で実資は、この程度の勢力であれば、容易に討ち果す事が出来るであろうと考えた。
翌五日、遂(つい)に追討使(ついぶし)が京を出発した。その兵力は僅(わず)かに二百余と、中央より派遣するにしては小規模な軍勢であった。かつて、万を数える大軍を率いて遠征に出た坂上田村麻呂の官職は征夷大将軍であったが、此度平直方は右衛門少尉(うえもんのしょうじょう)、中原成道は左衛門少志(さえもんのしょうさかん)と、精々(せいぜい)小隊か中隊の将の位官である。現今忠常の本営には三十騎程度しか居らぬ故、兵が不足する事態に成れば、現地で募兵すれば事足りるという、朝廷の判断であった。
しかし、中原成道は美濃国まで来て、軍勢を止めてしまった。そして齢(よわい)八十に成る老母の病(やまい)を案じ、使者を京へ遣(つか)わした。十六日、使者が都に到着。そして翌十七日、検非違使(けびいし)別当藤原経通は、成道母の容態が小康を得た事を報せる使者を送った。
追討使(ついぶし)は出発の当初から、両将の足並が揃(そろ)わぬ有様であった。平直方が所属する検非違使(けびいし)庁の長官経通は、斯(か)かる事態を案じて居た。一方で、成道が時間稼ぎをしてくれて居る間、政隆は巧(うま)く事態を収拾する策を模索し、本領磐城と頻繁(ひんぱん)に連絡を取り合って居た。
東国に下向した追討使から何の戦果も報告されぬまま、長元元年(1028)は暮れて行った。他方、伊勢国内において、平維衡(これひら)の郎党が濫妨(らんぼう)を働くという事件が発生した。長徳四年(998)以来、伊勢の覇権を目指す維衡と平致経(むねつね)の争いは、未だに尾を引いて居たのである。
年が明けて長元二年(1029)正月、京人(きょうびと)が迎えた新年は、何処(どこ)と無く暗い物であった。国家の柱石であった藤原道長を失った直後に勃発した坂東の動乱は、一年以上を経た今も尚、解決を見ずに居る。市中では、関白頼通の力量を疑う声も、微(かす)かながら聞こえる様に成った。
業(ごう)を煮やした右大臣実資は二月一日、新たな太政官符の草案を提出した。それは従来通り、東海東山両道諸国及び追討使(ついぶし)平直方に、忠常追討を命じるに加えて、北陸道諸国にも同様の命を下す物であった。この草案は採択され、五日には太政官符発給に至った。これに因(よ)り、山城国より東に位置する全州が、忠常追討及びその支援の責を負う事と成った。
そして凡(およ)そ半月を経た二十三日、上総介を犬養為政(いぬかいのためまさ)に代わって拝命した平維時(これとき)が、軍勢を整えて京を発った。朝廷は追討使直方を支援するべく、実父の維時を援軍に差し向けたのである。
しかし、それでも追討使(ついぶし)より朗報が齎(もたら)される事も無く、六月八日には追討使を交代させるべきか、詮議(せんぎ)が行われた。関白家は、平直方とは比べ物に成らぬ勢力を持つ、武士の棟梁を臣として居た。一人は、伊勢と常陸両国に影響力を持つ平維衡(これひら)である。しかし昨年、伊勢国において郎党が濫妨(らんぼう)を犯した事が問題と成り、此度は人選から外される事と成った。もう一人は、かつて常陸介在任中に忠常を降伏させた実績を持つ、源頼信である。折良く甲斐守に任官して居り、坂東出兵にも都合が良かった。
所が、頼信派遣に難色を示す声が上がった。縦(よし)んば頼信が首尾良く乱を平定した折には、頼信が坂東の地に、忠常とは比較に成らの程の勢力を築き兼ねない。もし将来、斯(か)かる大勢力が反乱を起した時、天下を揺るがす大事と成る事が危惧(きぐ)されたのである。結局、平直方の更迭(こうてつ)は見送られる事と成った。
追討使とは別に、検非違使(けびいし)庁は都の警戒を強めて居た。そして十三日、京の忠常郎党の屋敷を突き止め、押し入ったのである。
右大臣実資の心は、日に日に焦(じ)れて行った。そして、七月一日から翌二日に行われる石清水八幡宮奉幣(ほうへい)に就(つ)いて話し合われた時、忠常調伏(ちょうぶく)を八幡宮に行って貰(もら)うべきと、帝(みかど)に奏上した。
秋が過ぎ、冬の寒空が都に訪れ始めた頃、六波羅の屋敷で政隆は、日々鬱々(うつうつ)と暮らして居た。磐城の家臣を通した、忠常方との接触も効果は無かった。加えて都では、忠常との関係を疑われた者は、次々と検非違使(けびいし)の厳しい取調べに遭(あ)って居た為、身動きが取れずに居たのである。
屋敷内にて、これまで磐城より送られて来た書翰(しょかん)に目を通して居ると、広瀬十郎が突然緊迫した面持ちで、姿を現した。
「何事か?」
政隆が尋ねるのと粗(ほぼ)時を同じく為て、十郎は答える。
「只今、閑院家より御使者が御越しになられました。太政大臣公季様、御倒れになられた由(よし)にござりまする。」
即座に政隆は書翰(しょかん)を仕舞い、十郎に下知する。
「急ぎ閑院殿へ参る。玉綾と太郎にも、急ぎ仕度をする様伝えよ。」
「はっ。」
十郎は早足で去って行った。独りに成った政隆は、悔しい想いを滲(にじ)ませながら、壁を一、二度叩いた。
政隆は束帯(そくたい)を纏(まと)い庭へと下り、家臣に馬を曳(ひ)いて来させた。一方で十郎は、玉綾姫が用いる輿(こし)を庭へ運び出す。程無く姫も仕度を終え、太郎を抱いた侍女を伴い、廊下を渡って来た。姫はかなり動揺して居る様子であり、震える声で政隆に尋ねる。
「殿、父上が御倒れになられたとか。」
政隆も、焦(あせ)りを顕(あらわ)にして答える。
「使者がそう告げて参った。兎(と)も角(かく)、急ぎ閑院家へ向かわねば成らぬ。直ぐに輿(こし)に乗るが良い。」
「はい。」
玉綾姫は十郎達が用意した輿(こし)に乗ると、侍女から太郎を受け取った。
十郎が万事準備が整った旨を報告し、政隆は出立の号令を下した。輿(こし)担(かつ)ぎと侍女、それに警固として十郎も随行し、政隆一行は慌(あわただ)しく六波羅を発った。
閑院家に到着すると、門衛は直ぐに中へ通してくれた。そして政隆と、太郎を抱いた玉綾姫だけが邸内へと上がり、案内を得て公季の寝所に向かった。
その間は、やけに静かであった。たった今、薬師(くすし)が診察を終えたばかりの様である。公季は意識が有り、実成の妻に抱き起され、薬を飲み始めた。
実成はすっと立ち上がり、入口で佇(たたず)む政隆等の元へ歩み寄る。そして、小声で告げた。
「もう、長くは無い様じゃ。最後の別れと覚悟し、話をするが良い。」
唐突な言葉に、政隆は何も答えられぬまま、ゆっくりと公季の枕元へ進んで行った。
公季は薬を飲み終え、再び床(とこ)に横になった。前に見えた時と比べ、急に老(ふ)け込み、痩(や)せ衰えた様である。政隆は懸命に、掛ける言葉を探して居た。
実成の内室が、公季に囁(ささや)く。
「政隆殿と玉綾姫が、御見舞に来て下さりました。」
内室が枕元より下がってくれたので、政隆は一揖(いちゆう)してそこへ座した。玉綾姫も太郎を胸に抱き、政隆の隣に座る。そして、窶(やつ)れた父の姿に涙を浮かべながら、噎(むせ)ぶのを堪(こら)えて呼び掛ける。
「父上様、父上様。玉綾にござりまする。政隆殿と共に、太郎を連れて参りました。」
その切なる声に、公季は虚(うつ)ろな目を向けた。
「おお、善(よ)く来てくれた。」
嗄(しわが)れた声を出すのも辛(つら)い様子で、公季は大きく息を吐(つ)いた。
「太郎。」
公季は孫の名を呼び、震える手を差し伸べる。玉綾姫は、父の細く皺(しわ)だらけの手を取り、膝(ひざ)の上の太郎の手と合わせた。公季は呟(つぶや)く様に言う。
「可愛(かわい)い孫の、行く末を見届けられずに逝(ゆ)くのは、心残りじゃのう。」
「何を弱気な事を仰せられまする。」
漸(ようや)く、政隆の口から声が発せられた。公季は視線を政隆に向けて、言い渡す。
「儂(わし)の死後、当家の太政官における発言力は、一気に失墜するのであろう。しかし、幸いにも当家には、奥州武士団の棟梁が付いて居る。嫡子実成は、中納言の地位に留まっては居るが、加えて其方(そなた)が外から支えてくれれば、当家は安泰であろう。」
政隆は公季に正対し、深く頭を下げた。
「丹後の奴隷であった某(それがし)が今日(こんにち)在るのは、大殿(おとど)の御蔭にござりまする。その御恩、生涯忘れる事はござりませぬ。」
公季はそれを聞いて安堵の表情を湛(たた)え、続いて実成を側に召した。
「太郎は外戚とは申せ、村上帝御親政を輔(たす)けた右大臣師輔(もろすけ)公の曾孫(ひまご)に当たる。将来は、然(しか)るべき官位に就(つ)かねばのう。」
「御任せ下さりませ。」
実成は素直に答えた。
公季は、末娘の生んだ幼児の手を、暫(しば)し握り続けて居た。その眼指は、かつて見られなかった程に、悲し気であった。
十月十七日、太政大臣藤原公季は死出の旅路に付いた。朝廷は公季の功績を称(たた)え、正一位甲斐公を贈(おく)り、仁義公と諡(おくりな)した。太政官の最高位である太政大臣は後任が置かれず、関白左大臣藤原頼通は、正真正銘の一の人と成ったのである。
仁義公の葬儀は盛大に執り行われ、太政官の高官や各省の長官(かみ)の殆(ほとん)どが参列した。遺族の末席に加わって居た政隆は、これを閑院家最後の栄華にするまいと、固く誓って居た。
*
年の暮れも近付いて来た十二月五日、坂東の追討使(ついぶし)平直方と上総介平維時(これとき)より、戦況を報告する解状(げじょう)が京へ送られて来た。左近衛府陣座(じんのざ)に集まった公卿は、坂東からの報告を受けた後、一つの詮議(せんぎ)を行った。維時、直方父子は真面目(まじめ)に任務を遂行して居る様であるが、中原成道に不満が出たのである。未だに何の報告も成さぬは、任務不行届きと評価され、七日に成道は、追討使と検非違使(けびいし)の両職を罷免(ひめん)された。
翌長元三年(1030)三月、忠常は安房国に攻め入った。安房守藤原光業(みつなり)は降伏し、国司の印鑰(いんやく)を忠常に差し出して、都へと逃げ帰った。印鑰(いんやく)を手に入れれば、物資の調達は容易と成る。長引く戦(いくさ)で、忠常の勢力下に在る下総、上総は疲弊(ひへい)し、忠常は新たに安房国を補給地としたのであった。
二十七日に京へ到着した光業(みつなり)は、直ぐに忠常の安房侵略を朝廷へ報告した。仗議(じょうぎ)は直ちに後任の安房守の人選を行い、結果は平正輔(まさすけ)を宛(あ)てる事で一致した。正輔は、道長四天皇の一人であった平維衡(これひら)の子である。維衡は既(すで)に高齢であり、二年前に郎党が伊勢で濫妨(らんぼう)を働くという不祥事も有った為、子の正輔が推(お)される事と成った。正輔は寛仁三年(1019)、平致経(むねつね)と伊勢の所領を争い、戦(いくさ)の経験も有る。
正輔は非常事態の安房国府に赴く条件として、戦費五百石を請求した。朝廷は財政難からこれを拒否し様とするも、他に安房守を任せられる人物は見当たらなかった。
二十九日、関白頼通は已(や)むなく正輔の要求を飲み、正式に安房守に任命した。正輔は意気揚々都を発ち、本拠地伊勢国へと向かった。ここで軍勢を整え、軍船に乗って、海より安房国を目指そうとしたのである。しかし、長年伊勢の所領を争って来た平致経(むねつね)が立ち開(はだか)かった。正輔は伊勢の所領を守る事に追われ、任地へ赴く事が出来なく成った。
一方、坂東で苦戦を強(し)いられて居た追討使(ついぶし)平直方は、京へ解状(げじょう)を送り、各国に更(さら)なる協力を命ずる太政官符の発給を求めた。しかし朝廷は、忠常の本営には僅(わず)かな兵しか居ないという情報を得て居た為、この要求は却下される事と成った。
五月二十日、再び直方より京へ解状が送られて来た。それに依れば、忠常は突如として得度(とくど)し、名を常安(じょうあん)と号したという。
六月二十三日、追討使平直方、上総守平維時(これとき)、武蔵守平致方(むねかた)より、戦況を伝える解状(げじょう)が、京の右大弁源経頼の元へと届けられた。その内容は、直ちに仗議(じょうぎ)において諮(はか)られる事と成った。これに因(よ)り、追討使(ついぶし)が坂東に下向して二年近く経つというのに、未だに忠常の居場所を突き止めて居ない事が判明した。忠常は巧(たく)みに、朝廷に僅(わず)かな兵しか擁して居ないと思わせて油断させ、地の利を活かして追討軍を翻弄(ほんろう)し、長期に渡り戦(いくさ)を継続して来たのであった。
その後二カ月余を経ても、坂東の乱が平定される兆しは見られなかった。九月二日、仗議(じょうぎ)は遂(つい)に平直方に無勲功の烙印(らくいん)を押し、追討使(ついぶし)を解任した。直方に京への召還を命ずる一方、朝廷は坂東諸国の守(かみ)に加え、甲斐守源頼信に対し、忠常追討の朝命を発した。
六日、朝廷は切札であった源頼信を召し出し、忠常追討を命じた。頼信は承服の旨(むね)を言上し、直ちに坂東へ下向した。その折、忠常の子が京で僧と成って居たので、その者を同道させた。
年が明けて長元四年(1031)、季節が春から雨季へと移る頃の四月二十五日、追討使(ついぶし)を拝命して僅(わず)かに半年余の源頼信は、忠常降伏を都へ報告した。その書翰(しょかん)に依れば、頼信の軍勢が忠常の楯籠(たてこも)る砦に押し寄せた途端、一戦も交えぬまま、忠常は二人の子と三人の郎党を伴い、頼信の陣へ出頭して、降伏を申し出たという。解状(げじょう)の中で頼信は、翌五月中に忠常を伴い、上洛する事を述べて居た。
この頃、忠常の体は病(やまい)に侵されて居た。上洛の軍旅は遅々として進まず、六月初旬、漸(ようや)く美濃国に入った。
六月七日、美濃国大野郡より発せられた書翰(しょかん)が、朝廷に届けられた。内容は、頼信が忠常を降伏させた旨(むね)を記して在ったが、加えて五月二十八日より、忠常の病(やまい)が悪化した事を含んで居た。
十二日、美濃守より右大弁藤原経任の元へ、書翰(しょかん)が届けられた。今日六日に美濃国厚美郡内において、常安事平忠常が病没し、美濃守が検死を行った上で、首を斬り落したと認(したた)められて在った。朝賊忠常病死の報せは、直ぐに朝廷内へと広まって行った。
十四日の仗議(じょうぎ)では、頼信が持ち帰る忠常の首を、梟首(きょうしゅ)すべきかが審議された。忠常は、朝廷が任命した国司を殺害し、国政を私(わたくし)した天下の大罪人である。将門の時も、その首は京人(きょうびと)通行の場に晒(さら)された。その酷(むご)さは、万人に罪の重さを知らしめ、斯(か)かる過(あやま)ちを二度と起さぬ様、恐怖心を植え付ける狙(ねら)いが有る。しかし一方で、忠常の首を辱(はずかし)める事をすれば、その遺児常将(つねまさ)、常親(つねちか)兄弟の恨(うら)みを買い、再び反乱を起す事も考えられた。
翌々日の十五日、源頼信の軍勢が京に凱旋して来た。頼信は宮中に上り、坂東の大乱が平定された事を報告し、忠常の首を差し出した。頼信の退廷後、その首は晒(さら)される事無く、忠常の従類(じゅうるい)へ還(かえ)される事と成った。坂東の武士に、要らぬ恨(うら)みを買う事を避ける判断であった。
但(ただ)し、その後仗議(じょうぎ)において、忠常の遺児である常将、常親兄弟の事が問題と成った。降伏を表明したのは飽(あ)く迄(まで)、病没した忠常のみである。右大臣実資(さねすけ)を中心とする主戦派は、二人の追討を、仗議(じょうぎ)の場で提議した。
右大弁源経頼は、東国が戦災から復興した後に、討ち果して置くべきと主張した。一方で左大弁藤原重尹(しげただ)は、当主忠常は既(すで)に首と成って帰降し、二人の子も忠常の意に従う動きを見せて居り、追討の必要無しと主張した。
更(さら)に反戦論を後押ししたのは、左兵衛督(さひょうえのかみ)に就任して居た閑院藤原公成であった。常安入道に従い、二人の子等も降伏する積りであったが、父は上洛の途上で没してしまった。罪人でも、父母の死の際にはその霊を弔(とむら)うべく暇が出る。なのに、此度追討の直接の対象とは成って居ない二人に対し、斯(か)かる折に罪を問うのは不当である。公成はこの様に訴えた。
閑院家には平政隆が在り、磐城武士団を通じて、検非違使(けびいし)よりも多くの情報が入って来て居た。故に公成の弁には憶測が少なく、新たな報告に基づいた意見を述べる事が出来た。
詮議(せんぎ)の結果は、公成の提唱に沿う物であった。二人の子は追討に及ばず、逆に長子常将を武蔵国押領使(おうりょうし)、次子常親を安房国押領使に、其々(それぞれ)任ずる事に決したのである。これは、坂東の勢力図を徒(いたずら)に変えて、新たな大乱の口火と成るよりは、朝廷の恩を受けた二人の遺児に忠常の遺領を分け与えた方が、坂東の安泰に繋(つな)がるという、政隆の意見であった。それが主家の公成を通じ、忠常の私君である内府教通(のりみち)をも動かして、実現に至ったのである。
その日の夕刻、閑院殿に詰めて居た政隆の元を訪れる者が在った。左兵衛督(さひょうえのかみ)公成と、左兵衛大尉(さひょうえのだいじょう)に就任して居た坂上広高である。広高は公成と政隆の間の連絡を取り持ち、政隆が入手した情報を用い、公成が仗議(じょうぎ)の場で意見を通し易く成る様、よく補佐してくれた。
政隆は両人の来訪を知ると、読んで居た書物を部屋の隅(すみ)に片付け、その場に畏(かしこ)まった。間も無く、公成と広高が入室し、政隆の側にどかりと腰を下ろした。
公成は大きく息を吐(つ)き、政隆を見据(みす)える。
「今日で、全てが解決した。」
そう告げると、公成は笑みを浮かべて言葉を接ぐ。
「忠常が遺児には御咎(とが)め無し。それ所か、武州、房州の押領使(おうりょうし)にして遣(や)ったわ。」
政隆は安堵の表情を湛(たた)え、公成に礼を申し上げる。
「公成様は、仗議(じょうぎ)で立派に御意見を通されました。坂東の武士達に代わって、御礼(おんれい)申し上げまする。公成様の今日の御成長振りを御覧になられたならば、亡き公季の大殿(おとど)も、如何(いか)許(ばか)り喜ばれた事か。」
「うむ。」
広高も政隆に同調し、空を見上げた。
雨季の入口ではあったが、雲居より満月がその姿を現し、地上に淡い光を注いで居る。政隆も天を仰ぎ、やがて呟(つぶや)く様に語り始めた。
「常将殿が武蔵、そして常親殿が安房に残された事で、良文流平家は更(さら)に、勢力を分割される事と成り申した。されども、相武二州の勢力は依然健在にて、常陸の安忠殿や、下野の頼行殿との均衡が、俄(にわか)に崩れる心配はござりますまい。」
公成は頷(うなず)く。
「うむ。小規模な武士団が牽制(けんせい)し合ってくれれば、国司は武士を御(ぎょ)し易く成り、朝廷の威光も増すという物じゃ。」
しかし、政隆の顔に笑みは無い。
「朝廷の威光を笠に着て、新たな勢力が台頭して来るやも知れませぬぞ。」
広高の眉(まゆ)が、ぴくりと動いた。
「其(そ)は、如何(いか)なる意味か?」
公成も気に掛かった様で、政隆を見詰めて居る。二人の視線を受けながら、政隆は月を愛(め)でつつ話し始めた。
「最後に追討を命ぜられた、甲斐守頼信殿。忠常の一族故に、朝賊とされるのを怖れて居た相武二国の勢力を、巧(たく)みに自軍へと組み込み申した。名を挙げれば、相模西部の常遠(つねとお)殿、三浦の為次(ためつぐ)殿、鎌倉の景成(かげなり)殿、武蔵は秩父の武基(たけもと)殿、豊島の武常(たけつね)殿。加えて、此度の戦(いくさ)で降伏した忠常殿の子や家臣達、更(さら)にはかつての戦友であった常陸筑波の為幹(ためもと)殿。これ等を纏(まと)め上げれば、頼信殿は坂東の大半を支配する事が叶(かな)い、その力は忠常殿の比ではござりますまい。」
それを聞いた公成の顔からは、戦勝に浮かれた様子が一遍(いっぺん)に吹き飛んで居た。
「うむ。確かに此度の戦(いくさ)、伊勢の平維衡(これひら)、正輔(まさすけ)父子を追い抜き、源氏が海内一の武力を持つ切っ掛けに成り兼ねぬ。そうさせぬ為にも、今後頼信の任地は、東国にせぬ方が良いであろう。畿内付近であれば、朝廷も目が届き易く、源家も不満は有るまい。」
この後頼信は美濃守に任ぜられ、畿内を拠点に武士団を拡大させて行った。
*
この年に鎮圧された平忠常の乱は、俗に「長元の乱」と呼ばれた。藤原道長薨去(こうきょ)の直後に発生し、三年半の長きに及んだ為、関白頼通の力量に疑問を持つ声も上がった。しかし遂(つい)には、老練の源頼信を派遣し、見事平定へと漕(こ)ぎ着けた。戦(いくさ)が終った事を知った京人(きょうびと)は歓喜するも、次第に平穏な暮しを取り戻して行った。
年が改まり長元五年(1032)正月、宮中では新年祝賀の儀式が執り行われた。その後の宴(うたげ)で持ち切りと成った話題は、昨年平定を見た忠常の乱であった。事が治まれば、やはり朝廷の指導者の判断は正しかったという事に成る。関白頼通、右府実資、内府教通の席には、多くの公卿達が戦勝を称(たた)えに集まって来た。
偉大な父を失った後、自力で難局を切り抜けた頼通は、至極(しごく)上機嫌であった。
又、公卿等が諸大臣の機嫌を取るのには、もう一つの理由が有った。近々、県召(あがためし)の除目(じもく)が行われる。これは、地方官の任命を行う儀式である。特に五位から六位の者は、限られた国守の座を狙い、暗躍を始めて居た。
数日後、六波羅の政隆の屋敷に勅使が訪れた。かつて閑院殿で暮らして居た頃と異なり、今は高貴な方を迎える客間が無い。応対に苦慮して居た家臣を下がらせ、政隆は恐縮しながら、膨大な数の書物が積み上げられて在る、己の居間へと案内した。
「むさ苦しき処にて、誠に申し訳ござりませぬが。」
勅使は何も答えず、部屋の奥へと進んで行く。供の二人も、その左右に控えた。
政隆は慌てて、勅使の前に跪(ひざまず)く。そして、正使は供の者より書翰(しょかん)を受け取ると、低い声でそれを読んだ。
「陸奥四郡の郡司平政隆。右の者、昨年平定された平忠常の乱の折、重要なる賊方の情報を度々朝廷へと齎(もたら)した。その功を鑑(かんが)み、此度日向守(ひゅうがのかみ)を命ずる。」
突然の朗報に戸惑(とまど)いながらも、政隆は謹んで拝命の意を示した。
勅使の公務が済んだ所で、玉綾姫が茶や料理を運んで来た。流石(さすが)に閑院公季に教育されただけあり、賓客に接する作法が、全て礼に適(かな)って居る。高官が日頃受けて居る様な持て成しを、この屋敷でするのは到底無理であったが、太政大臣家直伝の作法で持て成された使者達は、皆清々(すがすが)しい面持ちで、宮中へと戻って行った。
勅使一行を見送った後、玉綾姫は夫に向かい、静かに告げる。
「おめでとうござりまする。」
姫は、内心戸惑って居た。国守就任とはいっても、日向国は都より遙(はる)か彼方(かなた)、九州南部の中国に過ぎない。位も丹後守と同等であり、六位に留まる公算が高い。
しかし姫の心配を他所(よそ)に、政隆は嬉々とした顔で屋敷内へ戻って行った。そして、母の間を訪れる。政隆の母信夫御前は、目と足が不自由な為、玉綾姫が手足と成る侍女を二人付けて居た。加えて長元の乱の最中、玉綾姫は次男と長女を儲(もう)けて居た。長男太郎を加え、御前の間からは、祖母と孫の笑い声が聞こえて来る。
そこへ、政隆が姿を現した。太郎に取っては厳格な父を目の前にして、直ぐに笑い声を止めた。二人の弟と妹は未だ小さく、侍女に抱かれながら、祖母から言葉を覚えて居る。この時御前は、急な太郎の態度の変化を感じ取った。
「政隆殿が来られたか?」
目は見えずとも、政隆が挨拶をする前に、必ず母に気付かれてしまう。その都度、政隆は冷汗を掻(か)く思いであった。
政隆は母の前に腰を下ろし、厳粛に申し上げる。
「この度春の除目(じもく)において、日向守に任ぜられる事と成り申した。」
母御前も粛然と返す。
「有難い事です。確(しっか)りと励みなされ。」
「はっ。」
一礼した後、政隆は愈々(いよいよ)己の心底を話し始めた。
「九州大宰府近くの安楽寺は、我が祖父政氏公が冤罪(えんざい)を蒙(こうむ)って流刑に処され、没後埋葬された地と聞き及んで居りまする。私は日向国府へ赴き、安楽寺と掛け合って、祖父の御霊(みたま)を磐城へ御遷(うつ)し申し上げたく存じまする。」
母御前は、政隆の言に頷(うなず)く。
「確かに、義母上(はは)様が奥州の地に眠って在されるのに、義父上(ちち)様が独り筑前に残されたは、不幸な事です。」
「では、県召(あがためし)の除目(じもく)が済んだ後、六波羅を出立致しまする。その御積りで、仕度を御願い致しまする。」
「解りました。」
磐城家祖政氏の御霊(みたま)を、遙(はる)か西国に残し居くは、京師以西における、政隆唯一の心残りであった。
母御前に礼を執り、退室し様とする政隆に、傍らから太郎が尋ねる。
「父上、日向とは何処(いずこ)に在るのでござりまするか?」
政隆は歩を止め、太郎を見詰める。
「都よりもずっと西じゃ。賀茂川を下って海へ出で、その先幾つもの国を越えて行く。天照大神(あまてらすおおみかみ)が八百万(やおよろず)の神より隠れた、天(あま)の岩屋戸が残されて居るそうな。」
「へえ。」
太郎は祖母より聞いた神話に想いを馳(は)せ、興味を抱(いだ)いて居る様であった。
数日後、政隆は宮中へ参内(さんだい)し、県召(あがためし)の除目(じもく)に列席して、正式に日向守に任命された。
赴任に先立ち、政隆は主家の中納言実成に挨拶をすべく、閑院殿を訪ねた。閑院家は先代公季を亡くしてからという物の、太政官における勢力を一気に失墜(しっつい)して居た。公季は太政大臣の官職と老練な手腕を持ち、関白頼通と互角に渡り合って来た。しかし公季の死後、太政大臣は不設置のままであり、左大臣兼帯の頼通が、八省を統轄して居た。貞信公忠平の嫡流である小野宮実資が右大臣に就(つ)いては居る物の、内大臣、大納言の官職は頼通の弟達で占められ、実成は昇進の道を失って居た。
斯(か)かる折である故に、閑院家所縁(ゆかり)の者が除目(じもく)で新たな官位を得るは、実成に取っても大きな慶(よろこ)びであった。政隆は義兄実成に快く持て成され、夕餉(ゆうげ)を共にする事と成った。
二人で酒を酌(く)み交して居ると、日に日に暖かみを増して来る春風が、時折簾(すだれ)の外から吹き込んで来る。
「日向国では、既(すで)に春は盛りを終えて居りましょうか?」
何気(なにげ)無く発せられた政隆の言葉に、実成は笑って返す。
「ふふ、春の雅(みやび)も愈々(いよいよ)という時に、京を発つのは残念か?」
「いえ、御役目故。」
政隆は苦笑して答えた。実成は少々酒が回ってか、機嫌良さそうに話し始める。
「安心せい。其方(そなた)は日向へ行っても春であろう。此度の其方(そなた)の任官は、儂(わし)の与力に因(よ)る物ではない。内府教通(のりみち)殿の推挙じゃ。」
「えっ、教通公が?」
「うむ。先の大乱の折、其方(そなた)が忠常の家を滅ぼさぬ様奔走してくれた事、公成を通じて教通殿の耳に達して居る。加えて、戦後処理の審議の場では、公成が其方(そなた)の知恵を以(もっ)て、実資殿を筆頭とする主戦派を、論破するに至った。これには教通殿も関白殿も、甚(いた)く御満悦であった。日向守は、御二人からの細(ささ)やかな礼の積りであろう。」
「其(そ)は、思いも寄らぬ事にて。」
政隆は、愕然(がくぜん)とした面持ちを呈した。関白や内大臣から恩を受けた事が、心外と感じられた故である。尚も実成は、笑って話を続ける。
「其方(そなた)の御蔭で、当家と摂関家の誼(よしみ)は深まった。関白殿の下で中納言の地位に甘んじて居る分には、陰謀に掛けられ、失脚する心配も有るまい。その雌伏(しふく)の間、如何(いか)に力を蓄えられるかじゃな。」
「はっ。」
政隆は実成より杯を受けると、一気に飲み干(ほ)した。そして返杯の際、政隆はその胸中を実成に明かした。
「某(それがし)、日向守四年の任期を終えましたら、一度本領磐城へと戻りまする。彼(か)の地は久しく家臣に任せた限(きり)にて、武士の結束を強める為には、暫(しばら)く当地に在って、自ら政(まつりごと)の指揮を執らねば成りますまい。」
「然様(さよう)か。」
実成は政隆に注(つ)がれた酒を、勢い良く呷(あお)った。
実成は心地好く酔って居た様であったが、急に黙りこくってしまったかと思うと、急に横に成り、程無く寝息を立て始めた。未だ夜は更(ふ)けて居ない。夕餉(ゆうげ)の膳を片付けてからは二人限(きり)で飲んで居た為、政隆は弱った顔をして廊下に出た。
丁度(ちょうど)そこへ、実成の内室と侍女が、酒と肴(さかな)を運んで来た。政隆は安堵し、酔い潰(つぶ)れた実成の介抱を頼んだ。
「あらあら、仕方の無い方ですね。」
夫の様を見て、内室は苦笑した。政隆は恐縮しながら告げる。
「では某(それがし)、これにて失礼致したく存じまするが。」
「解りました。後の事は私に御任せ下され。所で、政隆殿は近々日向国へ向かわれるとの事。長旅と成りまする故、御身体には御気を付け下され。」
「有難うござりまする、義姉(あね)上。」
公成の生母でもある実成の内室は、藤原陳政の娘である。藤原北家の傍流ではあるが、曾祖父山蔭は従三位中納言にまで昇った。政隆は義姉に辞儀をし、閑院殿を辞した。
六波羅へ帰る途中、馬上で揺られながら、政隆にも些(いささ)か酒が回って来た。茫(ぼう)っとする頭で、政隆は実成の様子を思い返して見た。傍(はた)から見れば、終始上機嫌の様にも思えたが、あれだけ早く酔い潰れた所を見ると、幾分身体に無理が掛かる速さで、杯を傾けて居たのであろう。そうさせた物は、やはり憂(う)さである。
実成も偉大な父の跡を継ぎ、その家勢を衰えさせまいと、恟々(きょうきょう)とした日々を送って居る様である。しかし、政隆が公卿の人事で力に成る事は能(あた)わず。只出来る事は、閑院家の家臣として、与えられた任務を忠実に熟(こな)すのみであった。
翌日、政隆は広瀬十郎に命じ、日向国府へ先行させた。新国司が愈々(いよいよ)赴任する事を、報せて置く為である。それから数日後、政隆は六波羅の屋敷を退去し、家族や郎党を伴って、新天地日向へと向かった。