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第三十六節 建部山(たけべやま)
政隆の母が無事発見された事を聞いた藤原公行は、これを大層喜び、母御前に着物や身の周りの道具等を進呈した。そして、家臣の妻女等に御前の世話を命じてくれた為に、御前は滋養と休養を取る事が出来、次第に体力を回復させて行った。
やがて報せを受けた別動隊、鵜沼隊や望月隊が次々と、国府へ引き揚げて来た。先に到着した鵜沼昌直が御前に謁見(えっけん)した時、御前は鵜沼との再会を大層懐かしみ、己が磐城平家に戻って来た事を、改めて確信して居た。
次いで、望月国茂も手勢を率いて、国府へと戻って来た。直ぐ様信夫御前発見を賀し奉(たてまつ)るべく、政隆と御前の元へ参上した。望月は御前に対し、長年の辛苦をよくぞ堪(た)えられたと申し上げ、御前も、自身の捜索に当たってくれた望月の労を犒(ねぎら)った。
しかし、御前は望月との面識が無い。如何(どう)話をした物か困って居る様子を見て、政隆が横から話し掛ける。
「母上、望月は汐谷攻城の折、一隊を率いて賊軍を蹴散らした勇者でござる。その時の功に因(よ)り、今では鵜沼に次ぐ席次の重臣に、取り立ててござりまする。」
政隆の言に頷(うなず)くと、御前は望月に礼を述べた。
「今の政隆が在るは、其方(そなた)の如き忠臣が、磐城に残って居てくれたからなのですね。この通り、御礼を申しまする。」
御前に合わせて、望月も頭を下げた。そして、望月は政隆に提案する。
「殿、如何(いかが)にござりましょう?折角(せっかく)信夫御前様を御救いする事が叶(かな)ったのでござりまするから、我等家臣百騎も丹後へ取って返し、慣れぬ地でも安心して御過ごし戴ける様、手助けを致しとう存じまするが。」
「うむ。」
政隆が、それも悪くは無いかと思った矢先、早足なれども音を立てずに、鵜沼が姿を現した。
「殿、越後国府より御使者が御越しにござりまする。」
越後からの使いが伝えて来る事といえば、精々(せいぜい)母を捜(さが)す手懸(てがか)り位な物であろう。それは既(すで)に解決を見て居り、慌てて応じる程の物ではないと、政隆は判断した。しかし、御前は政隆を諫(いさ)める様に告げる。
「政隆殿、貴方も一国の太守を務める身なれば、他国の使者を無下にしては成りませぬ。」
母がそう仰せになるならばと、政隆は望月を連れて席を立った。そして去り際に、侍女に母の世話を宜しく頼んだ。
鵜沼の案内を得て、越後国府使者が控える間へ足を踏み入れた政隆は、途端に、使者が緊迫した雰囲気を発して居るのを感じた。政隆も真顔と成って席に着き、その左右に鵜沼と望月も座した。
使者は政隆に対して座礼を執った後、一通の書状を差し出した。望月が受け取り、それを政隆に手渡す。差出し人は、安房守平惟忠(これただ)と書かれて在る。使者は一言添(そ)えた。
「其(そ)は下野国藤原頼行殿より送られし、写しにござりまする。」
頼行は下野藤原氏の棟梁兼光の嫡男であり、宛先は佐渡公行となって居た。前(さきの)佐渡守公行より、閲覧(えつらん)の承諾を貰(もら)って居る旨(むね)を使者に確認した上で、政隆は文面を打ち開いて、読み始めた。
それに依れば、下総の平忠常が無断で安房国内に兵を進め、国府の徴税を妨害して、惟忠(これただ)は甚(はなは)だ困って居る由(よし)。そこで、下野の武士団に協力を仰ぎ、忠常の暴挙を止めて貰(もら)いたいとの事であった。下手に介入して、下野と下総が戦(いくさ)と成れば、下野の同盟勢力である常陸の平安忠、そして下総平家の一族が割拠する武蔵や相模も捲(ま)き込まれ、坂東は一気に大乱に陥(おちい)る怖れが有った。それ故慎重に、佐渡の本家にも相談を持ち掛けて来たのである。もし有力貴族との伝(つて)が得られれば、、朝威を以(もっ)て穏便(おんびん)に、事を治める方法も有る。
そこで、公行は使者を政隆に会わせたのであった。磐城政隆と千葉忠常は、家祖の代より親密な関係に在り、又政隆自身は、太政大臣の婿(むこ)である。公行は忠常を宥(なだ)める役として、政隆こそが最も適任と考えたのであろう。
しかし、かつて政隆が征討した村岡重頼は、忠常とは義兄弟の関係に在った。あの戦(いくさ)以来、忠常とは疎遠(そえん)のままである。
政隆は越後の使者に対し、自身も何かしらの手を打って見る旨(むね)を伝え、下野にもよしなにと言伝(ことづ)てた。使者は承ると、早々に部屋を辞して行った。
三人だけが残った部屋の中、政隆が鵜沼と望月に囁(ささや)いた。
「遠く隔(へだ)てた、越後国府までもが気を揉(も)めて居る様だが、越後守は下野や下総、もしくは安房と係りが深いのか?」
腕組みをして、鵜沼が唸(うな)る。
「仔細(しさい)は存じませぬが、巷間(こうかん)では聞かぬ話にござりまするな。」
続いて、望月が深刻な顔で述べる。
「あるいは、坂東が余程緊迫した状況に成って居るのでござりましょう。忠常殿が安房国まで勢力を伸ばそうとして居るのを、常陸の安忠殿が指を啣(くわ)えて、徒(ただ)傍観に徹する筈(はず)も無し。両者の険悪な関係は周知の事なれば、ともすると、一触即発の事態に発展して居るのやも知れませぬ。」
鵜沼もその意見に頷(うなず)く。
「確かに。忠常殿と安忠殿が戦(いくさ)を起せば、両者に関係の深い坂東諸国は、次々と戦乱の渦(うず)に呑(の)み込まれて行くであろう。それを阻止(そし)すべく、此度(こたび)は野州の頼行殿が動いたのではるまいか。我が殿の、太政大臣家との縁を頼みとして。」
政隆は黙って、二人の話に聞き入って居た。そして両名が憶測を出し尽した所で、漸(ようや)く口を開く。
「私は母上を連れて丹後へ戻り、国守の任を全(まっと)うせねば成らぬ。仍(よっ)て其方(そなた)等二人には、兵と共に磐城へ立ち帰って貰(もら)い、私の留守中、郡政を委任する。坂東の情勢から目を離す事無く、常陸府中が危機に晒(さら)され、援軍の要請が参った時には、鵜沼を総大将、望月を副大将として、臨機応変に事に当たる様。」
「はっ。」
早速、佐渡引揚げの手筈(てはず)を整えんと腰を浮かせた二人を、政隆は一旦引き留めて告げる。
「今一つ、話して置く事が有る。愈々(いよいよ)常陸が戦場(いくさば)に成ろうとした時、下総方の先鋒には、怖らく信太郡の頼望殿が加わるであろう。風雲急を告げた折には、先ず信田殿を通じて、停戦を呼び掛けて見よ。脈有らば、公季(きんすえ)の大殿(おとど)に取り成しを御願い致す。」
「承知。」
両将は一揖(いちゆう)してすっと立ち上がり、早足で軍勢移動の仕度に向かって行った。
そして翌日、磐城平家の一行は、佐渡国府大門に集結した。国府で輿(こし)を調達する事が出来、母御前にはそれに乗って貰(もら)う事とした。大門には藤原公行が、見送りに出てくれて居る。思えば、公行が波多郷の情報を齎(もたら)してくれた事が、母を発見する大きな手懸(てがか)りと成った。政隆は礼を申し上げると共に、公行の祖先の地である下野国が無事に済む様、最善を尽す事を約束した。公行も政隆の手を取り、下野の叔父兼光と従弟(いとこ)の頼行、加えて、信夫(しのぶ)の地頭と成った実弟脩行(のぶゆき)の事を、宜しく頼んだ。
一行は国府を出立すると、街道に沿って南下し、松崎の駅へと入った。ここからは船旅であり、鵜沼、望月とは別行動と成る。坂東の不穏な動きを聞かされて居ない信夫御前は、二人が率いる軍勢の旅の無事を祈り、見送った。
政隆と御前の元には、精強な武士と熟達した水夫(かこ)二十名が残り、軍船一艘と成って、西の海へ出航した。一方で、他の兵と船は、鵜沼の指揮の下、東へと進んで行く。この時政隆は、母子が引き裂かれた往時の事が思い返された。そして、母御前がその光景を目にする事が出来ないのは、責めてもの幸いであると思えた。
鵜沼の率いる船団は、越後国蒲原津(かんばらのつ)へと向かう。この信濃川河口に拓(ひら)けた湊(みなと)町より東へ一里程行くと、再び阿賀野川という大河の河口に至る。阿賀野川を遡上(そじょう)して行くと、やがて陸奥国会津郡に入り、その先耶麻郡の猪苗代湖に至る。湖より東へ、峠を越えて行けば仙道安積(あさか)郡であり、後は磐城街道を東へ進むのみである。
一方、政隆が進む能登半島沖は、天候にも恵まれ、波も穏やかである。船の揺れが小さく、体力の消耗が少なくて済む。母の健康を考えれば、天気の良い内に、出来るだけ西へ進んで置きたいと、政隆の心は焦(じ)れて居た。
*
律令体制では、北陸にも海路が指定されて居る。陸路の駅家(うまや)に当たる様な公用の湊(みなと)は、佐渡国松崎より西へ進むと、先ずは越中国府最寄の浜である亘理(わたり)湊。近くには射水(いみず)団という軍団が置かれて居る。そこから北上し、七尾湾の奥に在り、能登国府より直ぐ北に位置する加島津。能登半島を回り、加賀国府北方の浜に在る比楽(ひらが)湊。ここは後に、小松と称される。その先は越前を回り込み、角賀(つぬが)に至る。これも後に、敦賀と改められる。更(さら)に若狭湾を進むと、愈々(いよいよ)丹後国府の湊(みなと)町である。
天候を見ながら、これ等の湊(みなと)に停泊する事も有ったが、丹後の船は順調に航行を続け、快晴の下若狭沖を過ぎ、遂(つい)に丹後国へと戻って来た。
これで、政隆が生涯の内に成すべしと誓って居た三つの事が、全て成し遂(と)げられた。即(すなわ)ち、逆臣村岡重頼を討ち、故国磐城を奪回する事。姉の仇(かたき)である三庄太夫を打倒し、奴婢(ぬひ)達を生き地獄から解放する事。そして、生き別れた母を捜(さが)し出し、孝養を尽す事である。
母を丹後へ連れ帰った事で、政隆の生涯の目標は凡(おおよそ)が達成された。しかし、政隆は浮かぬ顔で、船中の母を見詰めて居る。鴎(かもめ)の鳴き声を聞き、潮風を受けて心地好さそうな母の様子を見ながら、政隆は船頭に命じる。
「先ずは由良浜に接岸致す。その後、小舟に乗り換えて由良川を遡上(そじょう)する旨(むね)、太郎殿に許可を取ってくれ。」
政隆に随行して来た磐城兵は、その意図が直ぐに察せられ、直ちに承知の意を示した。
斯(か)くして、舟は宮津湾への航路から外れ、南へと逸(そ)れて行った。到着した処は由良浜であり、一人を石浦館へ急行させると、残りの者には浜へ上がった後、待機を命じた。
政隆は母を背負って、慎重に船から下りる。御前は浜の砂を踏む音を聞くと、清々(すがすが)しい表情で政隆に尋ねた。
「漸(ようや)く、丹後国に着いたのですね。」
「はい。ここは由良庄という処にござりますれば、この先への通行には、荘官の許可が必要と成りまする。暫(しば)し御待ち下され。」
「まあ、国守さえも許可を得なければ成らぬとは、不便な事ですね。」
「真(まこと)に。」
政隆は浜辺に筵(むしろ)を敷いて、母をその上に座らせた。今の内に、少しでも疲れを取って置いて貰(もら)いたいと、政隆は切に願って居た。
待つ事暫(しば)し、使いの兵が石浦の者を伴って戻って来た。壮齢の石浦の臣は、政隆の前に進み出て言上する。
「主(あるじ)、三国太郎の命を受けて参り申した。先ずは小舟に乗り換えて貰(もら)いまする故、御供の物は三人まで、某(それがし)に付いて来て戴きとう存じまする。」
「相(あい)解った。」
政隆は兵の中より年少の者、丸部(わにべ)郷出身の者、蒲津(がまつ)郷出身の者を選んだ。そして、自ら母を背負い、石浦の者の後を付いて行った。
程無く、由良川の河口近くに、渡し場が見えて来た。舟が何艘か繋(つな)がれて在ったので、その内一艘を、石浦の臣は借り受けた。男は自ら櫂(かい)を手に取り、政隆等に呼び掛ける。
「この舟で行きまする故、気を付けて御乗り下され。」
男が先に、舟に飛び乗った。如何(どう)やら、水運を生業(なりわい)として居る男衆の中から、組頭に抜擢(ばってき)された者の様である。渡し場の者達は男の命に従い、磐城の者達が舟に乗るのを手伝って、最後に繋留(けいりゅう)して居る縄(なわ)を解(ほど)いた。
石浦の臣は浅い川底を櫂(かい)で押し、舟はゆっくりと進み始めた。葦(あし)の生えた川岸を離れ、幅の広い川の中央へ漕(こ)いで行く。
流れに逆らって進む為に、舟脚は些(いささ)か遅く感じられるが、それでも、母を背負って行くよりは速いであろう。四半時程を経て、建部山の西麓に当たる平野部に、舟を着けられる処が見えた。男はそこへ漕(こ)ぎ着けると、急ぎ陸の杭と舟とを繋(つな)ぎ止め、陸へ上がる為の板を渡した。
舟を下りると、そこに一人の僧が待って居た。目深(まぶか)に被(かぶ)った笠を取ると、その下には三郎の顔が在った。
「ここからは、拙僧(せっそう)が御案内致しまする。万珠姫様の元まで、道に迷われては行けませぬ故。」
三郎の後ろには輿(こし)が置かれ、二人の担(かつ)ぎ手が控えて居る。
「まあ、万珠に会えるのですね。宜しく御願い致しまする。」
政隆は三郎に一礼すると、背に負った母を輿(こし)へ乗せた。
担ぎ手の一人が、母御前に注意を申し述べる。
「これより先、上り坂が多うござりまする。処に因(よ)り、御輿(こし)が大きく傾く処もござりましょう。儂(わし)等も出来得る限りは事前に注意を呼び掛けまするが、呉々(くれぐれ)も御用心下さりませ。」
「解りました。宜しく御願いします。」
やがて三郎を先頭に、一行は建部山へと向かって行った。ここまで舟を漕(こ)いで来た男は川辺に残り、皆の帰りを待った。
十町も進むと、もう山の中である。人家は見当たらなく成り、鳥や獣(けもの)の鳴き声が、山中に谺(こだま)する。道も、岩や大木の根が凹凸(おうとつ)を作り、次第に、輿(こし)が大きく傾く事が頻繁(ひんぱん)と成った。
「万珠は、随分と不便(ふべん)な処に居るのですね。」
母御前が呟(つぶや)くも、他の者は誰も口を開かない。呼吸を荒げながら、黙々と山道を登って行く。
暫(しばら)くすると、道がなだらかと成り、母御前は娘の元まで後少しではあるまいかと、期待を膨(ふく)らませた。そして間も無く、一行は歩みを止め、輿(こし)がゆっくりと下ろされた。
政隆は母の手を取って告げる。
「姉上の元へ到着致し申した。さあ、私の背に御移り下され。」
辺りはしんと静まり返って居る。目が見えぬ母御前は、娘が人里離れた庵(いおり)にでも住んで居るのかと考えた。政隆の背に負(おぶ)さり、進む事凡(およ)そ十間。政隆は腰を下とし、母をゆっくりと下ろした。母御前は瞬時に、足の下が草である事を感じた。それと同時に不安が込み上げて来て、大声で叫んだ。
「万珠、母が参りましたよ。」
その声の反響は、明らかに屋外の物であった。困惑する母の手を、そっと取る者が有った。
「万珠。」
しかし、返って来た声は、政隆の物である。
「母上、某(それがし)が姉上の処へ導きまする。」
政隆の動き従い右手を伸ばして行くと、やがて固い物に触れた。人肌よりも遥(はる)かに冷たい。母御前は撫(な)でる様にそれに触れると、やがて政隆に尋ねた。
「此(こ)は、石ではないのですか?」
政隆は苦悶(くもん)の面持ちで、母に申し上げる。
「はい。姉上の墓石にござりまする。姉上は今、母上の目の前に在る塚の下で、安らかに眠っておわしまする。」
母は驚愕(きょうがく)し、石の辺りを手で探(さぐ)った。すると確かに、石の奥に手が当たり、塚が在るのが判(わか)った。
愕然(がくぜん)とし、言葉を失った母御前の傍(かたわ)らで、政隆が話をする。
「私達は母上と離れ離れに成った後、丹後の豪族の元に奴婢(ぬひ)として売られ申した。辛(つら)い日々が続きましたが、情けの有る御方の助けも有り申して、私達は生きる希望を失わずに、過ごす事が出来申した。しかし丹後に来て三年後、その御方が姉上に報せてくれたのでござりまする。豪族が、私を生け贄(にえ)にしようと目論(もくろ)んで居ると。姉上は隠して居た家宝を私に渡し、ここから逃げる様に仰せになりました。そして姉上は、私の逃亡を助けるべく囮(おとり)と成り、豪族の手下をこの山へと引き付け申した。そして、目の前に在る沼へ身を投げ、自害された由(よし)にござりまする。」
そして一息吐(つ)き、政隆は天を仰いで話を接ぐ。
「今の私が在るのは、姉上が我が身を犠牲にしてくれた御蔭にござりまする。姉上の仇(かたき)は、既(すで)に所領も地位も奪い、行方(ゆくえ)知れずの身と成り申した。」
母御前は娘の塚に縋(すが)り、嗚咽(おえつ)しながら政隆の話を聞いて居た。
姉万珠姫の、丹後における事を話し終えた政隆は、振り返って、伴って来た三人の兵に申し付ける。
「先の奥州遠征の折、私は姉上の遺品等を、滝尻城に埋めて参った。責めて姉上の御霊(みたま)だけでも、故国に還(かえ)したいと思う気持からである。三人には磐城に戻った後、人々から姉上の事が忘れ去られ、塚が廃(すた)れてしまう事の無き様、この事を語り継いで貰(もら)いたい。」
蒲津(がまつ)郷の兵には、塚の在る滝尻周辺の者に、丸部(わにべ)郷の兵には、磐城の府住吉周辺の者に、そして年少の兵には、遍(あまね)く多くの者に、其々(それぞれ)伝えて貰(もら)いたいという希望であった。三名は畏(かしこ)まって政隆に頭を下げ、承服の意を示した。
話が済むと、ここまでの案内を務めてくれた三郎が合掌し、念仏を唱(とな)え始めた。三郎の声は、深山(みやま)に響き渡った。それは、何処(どこ)か人の気を鎮(しず)め、且(か)つ哀し気な声である様に感じられた。
念仏が終った頃には、母御前の涙は既(すで)に枯れ果てて居た。政隆は母の肩にそっと手を置く。
「母上、ここ由良の地には、勅願所に指定されし和江延命寺が在り、姉上の御霊(みたま)を弔(とむら)って下さりまする。ここにおわす御坊は、私と姉が奴婢(ぬひ)として虐(しいた)げられて居た時より、優しく接してくれた御方にござりまする。」
「まあ、それは。」
母御前は振り返り、三郎の方へ手を伸ばす。三郎がそれに応えるべく母御前の手に触れると、御前は力を込めて、その手を両手で掴(つか)んだ。
「政隆と万珠を気に掛けて下さり、有難く存じまする。聞けば、格式高い寺院の御坊とか。万珠の亡骸(なきがら)は斯(か)かる奥山にござれども、何卒(なにとぞ)宜しゅう御願い申し上げまする。」
三郎も、母御前の手を握(にぎ)り返した。
「尊き母親の子を想う御気持、如何(どう)して無下にする事が出来ましょう。姫君の塚は必ずや、当山が守って参りまする。御母堂には何卒(なにとぞ)、御安心召されまする様。」
母御前は深く一礼すると、三郎の手を放した。
政隆が呼び掛ける。
「母上、そろそろ浜へ戻らねば成りませぬ。参りましょう。」
母御前は無言で頷(うなず)くと、万珠姫の塚にもう一度合掌をし、政隆の背に負(おぶ)さった。そして輿(こし)へ乗り換え、一行は三郎を先達(せんだち)に、下山して行った。誰もが沈黙し、響くは七人の足音だけであった。
*
由良川に辿(たど)り着くと、船着き場には五人の男が待って居た。よく見れば、中央に立つは地頭の太郎である。太郎は、政隆の前に歩み出ると一揖(いちゆう)して、傍(かたわ)らの輿(こし)に目を遣(や)る。
「政隆様。遂(つい)に孝心が叶(かな)った様でござりまするな。御祝い申し上げまする。」
政隆は、真顔で太郎に対峙する。
「この度は、速やかに建部山への墓参が出来る様に取り計らって戴き、誠に感謝の言葉も見当たりませぬ。この通り、御礼を申し上げまする。」
国守の政隆が、地頭の太郎に深々と頭(こうべ)を垂れる。
「御止(や)め下され。皆の前でござりまするぞ。」
「いや、母上に、姉上の死を報せるにしても、姉上の塚が確(しっか)りと地元の者の手で守られて居る事を伝える事で、安心して戴く事が出来申した。我が母、姉に代わる礼でもござる。」
「其(そ)は何より。某(それがし)も嬉しゅう存じまする。」
その時、輿(こし)の中から母御前の声がした。
「政隆殿、その御方は?」
政隆は輿(こし)の脇に膝(ひざ)を突き、答える。
「当庄の地頭、三国太郎殿と申しまする。姉上の仇(かたき)三庄太夫を追放した後、某(それがし)が請(こ)うて地頭職に就(つ)いて戴いた、人望と才智を兼ね備えた人物にござりまする。」
「まあ。庄司様と在らば、御挨拶を申し上げねば。」
御前は再び政隆の背に負(おぶ)さった。そして、太郎の前へ進んで貰(もら)った後、一礼する。
「庄司様、政隆の母にござりまする。この度は、娘の墓へ参る事が叶(かな)う様に手配して下さり、只々御礼(おんれい)申し上げまする。」
太郎は和(にこ)やかに答える。
「御母堂、よくぞ佐渡の地にて生き延(の)びて下された。御蔭で某(それがし)の恩人である政隆様に対し奉(たてまつ)り、孝行の御手伝いをする事が叶(かな)い申した。当方こそ、御礼(おんれい)申し上げる次第にござりまする。」
母御前は、娘が眠る由良庄の地頭が、情けの有る人物である事を知り、安堵した様子であった。
別れ際(ぎわ)、政隆は太郎に言い残す。
「私の任期も、残す所一年余と成った。怖らくは重任(ちょうにん)する事無く、都へ引き揚げる事と成ろう。その折は、是非とも退官の宴(うたげ)に参列して戴きたく、国府へ御越し願いたい。」
「案内状を戴ければ、必ずや。」
二人は互いに見詰め合いながら、固く手を握り合った。
やがて国府の一行は舟に移り、由良川の流れに乗って、建部山西麓の村を後にして行った。
建部山は次第に遠ざかり、川の蛇行と共に手前に丘が聳(そび)え始め、やがて隠れて見えなく成った。しかし、母御前は見えぬ目で暫(しばら)く、建部山を仰ぎ見続けて居る様であった。
ふと、母御前が政隆に語り掛けた。
「地頭様とは、良き友の様ですね。」
政隆は照れながら答える。
「確かに友であり、同志でもござりまする。それに加え、私が奴(ぬ)で在った頃、当庄を脱走した折に、追手を撒(ま)いてくれた恩人でも在りまする。」
「まあ、そうでしたか。」
政隆は舟の縁(へり)に靠(もた)れる様にして、懐かしそうに由良ヶ岳を見上げて居た。
やがて浜に戻った一行は、案内を務めてくれた船頭に礼を述べ、国府の船へと乗り移った。浜の漁民に船出を手伝って貰(もら)い、船は漸(ようよ)う沖へ進み始めた。国府の兵は、船を押すのを手伝ってくれた漁民達に感謝の言葉を掛け、一方で漁民達は国府の者に、又立ち寄って貰(もら)いたいと言ってくれて居た。その声を聞いた母御前は、丹後の地で政隆の政(まつりごと)が美(うま)く行って居る事を確信した。
広大な若狭湾に出てから西進し、栗田半島を回り込んで宮津湾に入る。国府の船は丹後一宮(いちのみや)籠(こもり)社近くの湊(みなと)に入り、接岸と共に先ず、御前を浜へと下ろし、輿(こし)に乗って待って貰(もら)った。その間に荷を下ろすと共に、政隆は一騎を国府へ先行させ、国司の到着を伝えさせた。
間も無く船荷が全て荷車に移され、隊列を整えた一行は、一路国府へと向かう。途中には一宮(いちのみや)も在れば、天下の佳景(かけい)「天橋立」(あまのはしだて)も在る。しかし盲目(もうもく)の母に、その風景を味わって貰(もら)う事は叶(かな)わない。政隆は憮然(ぶぜん)とした面持ちで、馬に揺られて居た。
使者を遣(つか)わせて置いたので、国府では大門を開き、掾(じょう)の大江常能(おおえのつねよし)以下、百官が威儀を正して出迎えてくれて居た。政隆は馬で常能の前へ進み出て、犒(ねぎら)いの言葉を掛ける。
「私の留守中、掾(じょう)の立場で国守代行の大任を果されし事、大儀でござった。」
常能は一礼して返答する。
「御言葉、痛み入りまする。この度は御母堂様を御連れしての御帰還と承り、一同、御同慶の至りと存じ奉(たてまつ)りまする。」
「忝(かたじけな)い。」
積る話は有るが、常能は先ず、帰還したばかりの一行に休息を勧めた。政隆は、早く母に休んで貰(もら)いたいという気持も有り、直ぐに同意した。
国府入城後、政隆は常能(つねよし)に対し、随行して来た直参二十騎の、宿所の手配を頼んだ。そして、母を乗せた輿(こし)担(かつ)ぎ二人と荷駄を伴い、国守の宿舎へと向かった。
階梯の前に輿(こし)が下ろされ、政隆自ら母を背負い、邸へと上がった。
「今日よりここが、母上の家と成りまする。とは申しても再(さ)来年の春には、都へ戻る事と成りましょうが。」
「住吉の御所よりも、広い様ですね。」
政隆は微笑する。
「ここは一国の府にござりますれば。」
母御前は新しい土地へ来て、少々戸惑(とまど)って居る様子であった。
奥から、侍女二人を伴って、駆けて来る者が在った。玉綾姫である。姫は夫の前で手を突き、無事の帰国を喜んだ。
「年の内に御戻り下されし事、誠に嬉しき限りと存じまする。」
政隆も、笑顔を湛(たた)えて答える。
「うむ。留守中、特に変わった事は無かったか?」
「はい。それが。」
姫は恥(は)ずかしそうに言葉を濁(にご)した。その脇で、侍女の一人が代わって報告する。
「おめでとうござりまする。姫様、御懐妊にござりまする。」
突然の事に、政隆は言葉を失い、立ち尽した。その背中で、信夫御前が呟(つぶや)く。
「孫が生まれるのですか。有難い事です。生きて居れば、斯様(かよう)に嬉しき事が有るのですね。」
その声に、姫はハッとして畏(かしこ)まった。
「殿、その御方はもしや?」
問われて漸(ようや)く、惚(ほう)けて居た政隆の顔に笑みが戻った。
「ああ、母上じゃ。佐渡国にて、十年振りに会う事が出来た。今日より共に暮らして戴く事と成る故、宜しく頼む。」
姫も、我が事の様に喜びを表す。
「殿の長年の悲願が、漸(ようや)く叶(かな)ったのですね。私も微力ながら、母上様を支えて参りまする。」
しかし政隆は、深刻な顔と成って告げる。
「実は、母上は目が見えぬ。加えて、脚の腱(けん)を切られて居り、起居(たちい)も能(あた)わず。常に側に在って世話をしてくれる、力持ちの侍女を付けて貰(もら)いたい。」
姫は信夫御前を注視し、驚愕(きょうがく)の体(てい)を示した。
「何と御労(いたわ)しい。解りました。母上様が不自由をなされませぬ様、私が適任の者を手配致しましょう。」
「宜しく頼む。」
政隆は姫に案内され、母御前の仮の居間へ渡って行った。
政隆の背中から下ろされた信夫御前は、長い旅を漸(ようや)く終えたという思いから、大きく息を吐(つ)いた。そして、姫が御前に申し上げる。
「数日の内に、母上様には然(しか)るべき居間を用意致しまする故、今暫(しばら)く、この間にて御過ごし下さりませ。狭き処故、御不便(ふべん)かとは存じまするが。」
御前は姫に、優しく微笑(ほほえ)む。
「私も先日まで、小さな荒屋(あばらや)に住んで居りました。これ程立派な処に居られるだけで、有難き事と存じまする。所で、姫御は何方(どちら)より、政隆の元へ嫁いで来て下されたのですか?」
「はい。京の閑院藤原家からにござりまする。」
「おお、嘸(さぞ)や格式高い御家なのでござりましょうね。ですが、磐城平家も奥州四郡の郡司職を拝命する家柄。私が政隆を上げた時には、奥州のみ成らず、坂東からも御祝いの使者が御越しになりました。姫様も健(すこ)やかな御子を上げて下され。然(さ)すれば、遙(はる)か東国の地において、多くの者が慶(よろこ)んでくれまする。心配な事が有らば、遠慮無(の)うこの老婆に話して下さりませ。これでも、二人の子を儲(もう)けた経験が有りまする故。」
玉綾姫は内心、驚いて居た。己が目と足の不自由な姑(しゅうとめ)を励まそうとした矢先、逆に姑より励ましの言葉を掛けられたからである。姫は素直に、その好意を受け止めた。
この日は政隆に取って、二重、三重の喜びであった。その晩は、三人揃(そろ)って夕餉(ゆうげ)を囲んだ。丹後国府の在る加佐郡は、故国奥州磐城と同様に、山も在れば海も在る。初冬では、浜より鯛(たい)や鱈(たら)、秋烏賊(あきいか)、鮃(ひらめ)、鰤(ぶり)、魬(はまち)等が揚がる。山からは栗や椎茸(しいたけ)等が運ばれ、山海の幸に富んだ膳と成った。母御前は、余りのおいしさに涙を流し、政隆と姫は温かく見守りながら、丹後の四季などを語って聞かせた。
翌日、政隆は政庁に出仕し、掾(じょう)の常能(つねよし)より国守の印鑰(いんやく)を奉還(ほうかん)された。
長閑(のどか)に幸福を噛(か)み締(し)める日々を過ごし、やがて年は暮れて行った。この年は政隆に取って、忘れられない一年と成った。
そして翌万寿四年(1027)、玉綾姫が男子を出産した。信夫御前を始め、磐城家中では大きな慶(よろこ)びに包(つつ)まれた。政隆はその子を太郎と命名した。又この年は、天下の政(まつりごと)においても重大な事件が起きて居た。
九月十四日、藤原道長の娘であり、先帝三条院に嫁いで居た皇太后姸子(けんし)が、病(やまい)を得て亡くなった。道長の嘆(なげ)きは深く、この頃より身体の衰弱が加速した。十月二十八日、皇太后姸子の法要を道長が欠席した事で、百官は道長の病重しと噂(うわさ)し合った。
やがて道長は何も咽(のど)を通さなく成り、背中には腫物(はれもの)が出来て、意識も混濁(こんだく)する様に成った。最早これまでと悟った道長は、法成寺(ほうじょうじ)阿弥陀堂へ移り、北枕(まくら)で臥(が)し、阿弥陀仏と己の手を糸で結んだ。そして頓(ひたすら)に、念仏を唱(とな)え続けたという。
十二月四日の明け方、藤原摂関家の最盛期を築いた藤原道長は、六十三歳で薨去(こうきょ)した。法名は行覚。無官の身なれど、強大な権力を維持して居た道長を失った事で、朝廷は大黒柱を失った。その後を継ぐ者は、関白左大臣藤原頼通。道長の嫡子である。
そして同月、坂東安房国において大事件が出来した。下総の豪族平忠常が、安房に侵攻したのである。国府に楯籠(たてこも)る安房守平惟忠(これただ)に対し、忠常は国府に火を放った。包囲された惟忠に脱出の道は無く、焼け落ちる安房国府の中で、最期を遂(と)げたのである。
道長の死と時を同じくして、坂東の地に戦雲が立ち籠(こ)め始めた。