第三十五節 佐渡の老婆

 秋の税務処理が粗方(あらかた)済んだ頃、由良の地頭三国太郎が、国府より程近い成合庄に入った。政隆も当地へ赴き、地頭代望月国茂の館において、地頭職を太郎へ譲る事を文書を以(もっ)て確約した。館は太郎の家臣が受ける事とし、政隆は望月とその手勢を引き連れて、国府へと戻って行った。

 数日後、政隆から受け取った書翰(しょかん)を持参し、三国太郎は橋立庄をも接取した。既(すで)に話が付いて居たので、鵜沼昌直はその日の内に手勢を伴い、国府へ引き揚げた。

 そして、田に藁塚(わらづか)が目立つ様になった頃、朝廷の使者が丹後の地へ派遣されて来た。正使を務めるのは治部大輔であり、他に少丞や書生、使部等を同行させた、治部省の使節であった。

 一行は国府には入らず、由良庄へと向かった。そして数日滞在した後に都へと引き返し、その中で治部少丞と一部の供だけが、丹後国府へと足を運んだ。

 既(すで)に国守政隆は政(まつりごと)を離れ、越後への旅の仕度に追われて居た。介が不設置のままであるので、国政は実質上、掾(じょう)の大江常能(おおえのつねよし)が掌管して居た。

 しかしこの日、治部少丞が中納言藤原実成の内意を受けての訪問が有った。中納言の意向が絡(から)むと成ると、丹後掾の地位で処理する事は出来ない。常能はこの旨を、国守政隆へと報告した。

 中納言実成が治部少丞を遣(つか)わして来たと聞いた政隆は、自室に広げて居た書状を急ぎ葛籠(つづらこ)へ納め、使者の待つ客間へと向かった。

 治部少丞と政隆は初対面である。丹後守の方が一つ位が上であるので、政隆が上座に着いた。簡単に挨拶を済ませると、早速政隆が用向きを確認する。
「実成様の御内意を帯びて、御越しになられた由(よし)にござりまするが、よもや?」
治部少丞は、笑みを含んで答える。
「御察しの通り。昨年の晩秋、丹後守殿が治部省へ出された請願書が、認可され申した。既(すで)に由良庄延命寺を訪れてござれば、正使の治部大輔殿は都に戻られ、某(それがし)は別行動にて、丹後守殿に報告に参った次第にござる。」
「おお、では延命寺は。」
「はい。帝(みかど)も、北の海に賊の類(たぐい)が跋扈(ばっこ)する情況を御嘆き遊ばされ、北方鎮護を祈願すべく、延命寺を勅願所に指定され申した。又、住持の観智和尚は権僧都(ごんのそうず)に昇進され、高弟の曇妙(どんみょう)殿も律師(りっし)に叙せられた次第。」
僧尼を統(す)べ、法務を治める僧官として、僧綱(そうごう)が定められて居る。その第一位を僧正(そうじょう)、第二位を僧都(そうず)、第三位を律師(りっし)という。この度観智和尚は僧都(そうず)の権官(仮に任ずる官)を拝命し、曇妙は僧綱(そうごう)の端に加わった訳である。又、延命寺も勅願所の指定を今上(きんじょう)天皇より受けた事で、その寺格は一気に高まった。

 昨年、丹後国内の荘園からは膨大な量の税収が閑院家に有り、政隆は少々の願い事なら、聞き届けて貰(もら)える脈有りと踏んだ。そこで、以前三庄太夫の追手より匿(かくま)って貰(もら)い、命の恩人である延命寺に対し、何かしらの御礼が出来ぬ物かと、閑院家に書状を送って居たのである。

 それに対し閑院家は、両僧の叙任のみ成らず、帝(みかど)をも動かして、勅願所の指定を賜(たまわ)る所にまで、手を尽してくれた。しかしこれには、由良近隣の豪族に対し、閑院家の威光を顕示するといった思惑(おもわく)が有ったかも知れない。

 兎(と)にも角(かく)にも、これで政隆はかつての恩人達に対し、出来得る限りの御礼は果した。治部少丞に対し、閑院家への御礼を言伝(ことづ)てると、酒肴(しゅこう)の用意を命じて、自ら使者を持て成した。そして翌日、治部省の使者を見送った後、政隆は愈々(いよいよ)、越後行きの詰めの仕度に取り掛かった。その面持ちは、心に懸かる物の無い、晴れ晴れとした物であった。

 政隆の居間には、葛籠(つづらこ)や木箱等が多数置かれて在る。国政や荘園支配に係る重要な書翰(しょかん)を、分けて保管して居る所為(せい)も有るが、それ等に次ぐ数を誇って居るのが、越後と佐渡、両国府より送られて来た書状であった。

 丹後守として赴任して以降、政隆は両国府に宛(あ)てて、母の捜索を依頼して来た。しかし、越後の沖で離れ離れに成ってから、既(すで)に十年の歳月が流れて居る。政隆が記憶する母と今とでは、大分風貌(ふうぼう)が異なるであろう。佐渡国府より発せられた何通かの便りに依れば、遊里を捜索した所、佐渡より売られて来た者を見付けるに至ったという。しかし、歳や容姿(ようし)に似る所有れど、捜(さが)し人と確定する実証が得られず、との事であった。

 母と断定するには、政隆が持つ家宝の、放光王地蔵菩薩が必要である。真(まこと)の母なれば、これが何であり、何(ど)の様な謂(いわ)れで磐城平家に伝わったかを、述べる事が出来る筈(はず)である。政隆は桐箱に納められた家宝を大切に手に取り、旅へ持参する荷の中へと移した。

 数日後の朝、国府正門には百名の兵が集結して居た。鵜沼昌直と望月国茂の率いる磐城兵である。やがて門が開かれ、中から総大将政隆が、掾(じょう)や目(もく)以下、二十余名の官吏の見送りを受けながら、軍勢の先頭へと歩を進めた。

 家臣が曳(ひ)いて来た愛馬に飛び乗ると、政隆は先ず、掾(じょう)の大江常能(おおえのつねよし)に告げる。
「前にも申したが、私が戻って来るのは、何ヶ月先に成るか分からぬ。仍(よっ)て貴殿は守(かみ)の代役として、立派にその務めを果して下され。」
「承知仕(つかまつ)りましてござりまする。某(それがし)には目(もく)の殿や広瀬殿、更(さら)には玉綾御前様が力に成って下さりまする。国府(こう)の殿におかれましては、当国に御心を残される事無く、北陸での本懐成就に御専念下さりませ。」
「うむ。」
正隆は、頼もし気に常能を見詰めて頷(うなず)くと、続いて広瀬十郎に視線を移した。
「其方(そなた)は閑院家の陪臣(ばいしん)。万一国内荘園に大事が有ろうとも、掾(じょう)の殿は不入の権に因(よ)り、介入する事は出来ぬ。その時は掾の殿と連携を取りつつ、其方(そなた)が先頭に立ち、事を処理せよ。」
「ははっ。御任せ下さりませ。」
「確(しか)と頼むぞ。」
政隆は最後に、念を押して言うべき事を告げると、安心した表情と成って手綱を捌(さば)き、鐙(あぶみ)を蹴った。

 総大将に続き、軍勢が動き始める。その列は長蛇と成り、国府の街の東へと去って行った。

 玉綾姫との別れは、今朝済ませて来た。姫は佐渡の土産(みやげ)に珍しい形の石を所望し、政隆は分かったとだけ告げた。別れの時は、共に淡々とした様子であった。姫としては、夫が長年の悲願を遂(と)げるべく旅立つ時に、心に余計な負荷を掛ける事は言うまいと、考えて居たのであろう。政隆は日常の如く見送ってくれる姫の心遣いが、只有難かった。

 湊(みなと)に立ち寄る途中、政隆一行は丹後国一宮(いちのみや)(こもり)社を参詣し、海上航路の平穏を祈願した。御加護を得た後、軍勢は湊に用意された五艘の船へと乗り込み、隊列を整えて、宮津湾へ漕(こ)ぎ出して行った。

 外海の若狭湾は広大である。大分東へ進むと、南方に湾の名称の由来である若狭国が見えて来る。そして、霞(かすみ)が晴れて眺望が利く様に成った時、行く手に見え出した陸は越前国であった。足羽郡の豪族、十郎高保(たかやす)とは誼(よしみ)が深く、かつて北陸の海賊征討や三庄太夫追放の折には、与力を戴いた。その甲斐有ってか、十年も昔に、人買いに売り歩かされて居た頃と比べ、漁村も長閑(のどか)に生活を営んで居る様に見受けられる。陸を眺めながら、政隆の顔は微(かす)かに綻(ほころ)んで居た。

 越前岬を過ぎると、九頭竜川の河口に在る雄島まで、海岸近くを航行する。そしてその先は、徐々に加賀沖へと針路を取り、能登国猿山岬へ直進する。幸い、海神の御加護を得られた所為(せい)か、穏やかな船旅が続いた。

 能登半島の先端、珠洲岬を回航すると、愈々(いよいよ)彼方(かなた)に、佐渡ヶ島と越後国が見えて来る。かつて、佐渡へ向かう舟から飛び降りた磐城平家侍女頭の姥竹(うばたけ)は、政隆と万珠姫が乗せられた舟に泳いで向かったが、荒波の中へ呑(の)み込まれて行った。当時と同じ風景を眺めながら政隆は、命を捨ててまで己を救おうと努めてくれた姥竹に対し、長い黙祷(もくとう)を捧(ささ)げた。

 船団は先ず、越後国府の湊(みなと)町である水門に入港した。関川の河口に発展し、国府とは目と鼻の先である。ここは、政隆に取っては辛(つら)い思い出の地、即(すなわ)ち人買いに騙(だま)された処である。

 上陸後、真っ先に直江の浜へと向かい、人買いが用いて居た小屋へ、押し寄せたい衝動に駆られそうに成った。しかし他国へ軍を進めて来た以上、迂闊(うかつ)な事をし出かしては、当国々府の協力は得られなく成り、捜索は更(さら)に難航するであろう。

 一行は先ず、湊(みなと)町の西方に置かれた、国府へと向かった。最新の、母御前に関する情報を集める為である。丹後守の越後訪問は、事前に通知して置いて在るので、門衛は政隆等を、すんなりと迎え入れてくれた。

 越後守は藤原隆佐(たかすけ)といい、閑院大臣冬嗣(ふゆつぐ)の末裔である。冬嗣の孫高藤(たかふじ)は、生前正二位内大臣の要職に在り、高藤より五代の子孫が隆佐であった。

 政隆は望月に兵を託し、鵜沼と共に客間へと通された。越後は丹後より上位の上国に指定され、しかも隆佐は前に伯耆守(ほうきのかみ)の職を全(まっと)うして居り、五位に叙されて居る。政隆は下座に控え、越後守が現れるのを待った。

 間も無く、隆佐(たかすけ)が客間へ渡って来た。そして入室するなり、政隆に申し出る。
「公季(きんすえ)公の婿(むこ)殿を、下(しも)に座らせる訳には参りませぬ。さあ上座へ。」
意外な事を勧められ、政隆は些(いささ)か困惑した。
「貴殿は上国の守(かみ)、そして某(それがし)は中国の守。位も異なれば、当然其(そ)を覆(くつがえ)すは不自然と存じまする。加えて、当方は越後守殿に御願いに参った者。斯様(かよう)な御気遣いには及びませぬ。」
政隆の言に頷(うなず)いた隆佐は、ゆっくりと上座へ歩を進めて、そこに座した。

 先ずは、双方より挨拶を交した。次いで隆佐(たかすけ)が持て成しに酒肴(しゅこう)の用意を命じたので、政隆は静かにそれを遠慮した。
「御気持は有難く存じまするが、当方は人捜(さが)しの為、百人に及ぶ兵を連れて参り申した。仍(よっ)て早々に目的を果し、越後国内より退去致したく存じまする故、直ぐに本題に移りとうござりまするが。」
「然様(さよう)でござるか。」
隆佐は承知すると、早速越後目(えちごのもく)を召した。

 直ぐに姿を現した目(もく)は、一礼して部屋に入ると、隆佐(たかすけ)と政隆の間に進み出て膝(ひざ)を突き、持参した地図を広げた。
「此(こ)は、国府周辺の絵図にござりまするが、丹後守様より承りし荒川の応化(おうげ)橋、加えて河口西方に広がる直江浜に点在する小屋を虱(しらみ)(つぶ)しに当たって見ましたが、悉(ことごと)くが漁民の家か廃屋(はいおく)にて、海賊の類(たぐい)の足跡は、微塵(みじん)も見られ申さず。」
まあ、海賊が同じ処に十年以上も巣くって居る様では、国府の威厳も地に落ちてしまうので、流石(さすが)にそれは無いであろうとは思って居た。しかし、旅の者を巧(うま)く騙(だま)して舟に乗せた者達は、一見情けの有る老婆と、善良そうな名主の形(なり)をして居た。ともすれば、今も良民の姿を装(よそお)い、町の中に潜(ひそ)んで居るやも知れない。

 しかし、首尾良くあの時の老婆や男を捕えたにせよ、十年前に攫(さら)った者を売った先等、記憶して居るであろうか。やはり海賊の首魁(しゅかい)を捕え、その者より取引相手を聞き出すのが、最も確実と思われた。

 政隆は隆佐(たかすけ)に申し出る。
「先ずは当国の海賊を追捕(ついぶ)し、捕えし者より情報を得たいと存じまする。何卒(なにとぞ)、国内において兵を動かす御許可を。」
真剣な眼指(まなざし)を受け止められず、隆佐は困った顔で目(もく)に視線を遣(や)った。目(もく)は守(かみ)を代弁する様に、政隆に申し述べる。
「畏(おそ)れながら、丹後守様の兵を以(もっ)てしても、それは難しいかと存じまする。当国には数多(あまた)の荘園が在り、海賊共はいざとも成れば、荘園内へと逃げ込みまする。万一、当国が行動を認可した軍勢が、境を侵(おか)して荘園内に入れば、本家より如何(いか)なる咎(とが)めを受けるか分かりませぬ。何卒(なにとぞ)、御察し下さりませ。」
抑々(そもそも)荘園の持つ不入の権は、悪徳国司の無法な徴税を免(まのが)れるべく、成立した物である。それが、海賊退治を行おうとする国府軍にも適応されるにまで変質してしまった事に、政隆は嘆息を漏(も)らした。

 現在越後国府が得て居る情報の中で、有力な物は何一つ無かった。政隆は越後での捜索を後回しにし、先に佐渡を捜(さが)す事に決めた。その日は越後国府の好意に甘えて宿所を借り、翌朝佐渡へ向けて出立する事と成った。

 佐渡ヶ島全土は佐渡国(さどのくに)とされ、丹後と同格の中国に指定されて居る。聖武天皇の天平十五年(743)に一旦越後国に編入されるも、孝謙天皇の天平勝宝四年(752)に再設置されたという。国内には三郡有り。即(すなわ)ち南部の羽茂(はもち)郡九郷、北西部の雑太(さわた)郡八郷、北東部の賀茂(かも)郡五郷である。国府は雑太郡に置かれて居た。

 当国の守(かみ)は藤原公行であった。下野武士団の棟梁兼光の兄、文行の子に当たる。天慶の乱の時に平将門を討ち果した、藤原秀郷の嫡流であった。

 政隆一行は先ず、島の南端に在る湊(みなと)町、羽茂郡松崎に上陸した。ここより陸路、北を目指す。暫(しばら)くは山道が続き、街道より東へ逸(そ)れると、延喜式内渡津(わたつ)社に至るという標(しるべ)が在った。北へ進む事暫(しば)し、道は下りと成り、やがて海岸に出る。海沿いを進んで程無く、一行は三川駅へと入った。この辺りが丁度、国府までの中間である。

 駅を過ぎて田切須崎を回り込むと、海の北方に陸が見えた。先へ進むと、北の海は湾である事が判(わか)った。地元の者は真野湾と呼んで居る。

 湾に沿って北東に進むと、やがて湾の奥地の、平野部へと至った。国府川の南方、高立川の河口付近より、街道は海を離れて内陸へ入る。既(すで)にそこは国府に付属する町であり、東の丘の上には国分寺が置かれて居た。そして大道(だいどう)を辿(たど)った一行は、間も無く佐渡国府の正門に到着した。

 鵜沼昌直が国府門衛に政隆の到着を告げると、門衛は至極(しごく)鄭重に、一行を迎え入れてくれた。四年前、政隆が官軍を率いて奥州へ遠征し、村岡重頼を討った後、軍功の有った藤原兼光に、父の旧領である信夫庄(しのぶのしょう)を譲った。そして兼光は、甥(おい)の脩行(のぶゆき)に彼(か)の地を任せた。脩行は、佐渡国守公行の弟である。公行に取って政隆は、野州藤原氏の奥州進出に係る、重要な勢力であった。

 政隆に取って最も追風と成った物は、閑院藤原家との姻戚関係であった。太政大臣の婿(むこ)ともなれば、地方国司位では、無礼が有れば容易に潰(つぶ)され兼ねない。そういう気持も、越後や佐渡の守(かみ)には、少なからず含まれて居るのであろう。

 鵜沼と望月の二人を伴って客間に入ると、直ぐに佐渡守公行との面会が叶(かな)った。公行は政隆を閑院家の賓客として扱い、当然の如く下座に着いた。
「態々(わざわざ)海を渡って遠い佐渡まで御越し下さり、恐縮にござりまする。」
「いえ、此方(こちら)そこ、無理を申して参らせて戴き申した。是非にも、佐渡守殿の御力添えを賜(たまわ)りたく。」
公行は苦笑した。
「某(それがし)はもう、佐渡守ではござりませぬ。今年の春の除目(じもく)にて新任された国守が仮寧(けにょう)の間、政(まつりごと)を代行する為に居るのでござりまする。」
「何と。」
公行の守代行の権限は、国守の復帰を以(もっ)て終了する。それまで未だ三月以上は有るが、間も無く冬が訪れれば、春まで佐渡は雪に埋もれ、人捜(さが)しは困難と成る。政隆の心は焦(あせ)った。
「先に願い出て居た、我が母の捜索の件でござりまするが。」
「ああ、それなら一つ、御報せしたき情報を得て居り申す。」
(にこ)やかに、公行は答えた。政隆の心に、一縷(いちる)の光が射(さ)し込む。
「是非、御聞かせ下さりませ。」
公行は、傍らに用意された茶を一口含んだ後、話を始める。
「国府より東へ一里程行った処に、波多郷という地がござりまする。彼(か)の地の遊里を調べさせましたる所、今から丁度(ちょうど)十年前に、越後より人買いに売られて来た女性(にょしょう)が居ったとか。歳は三十辺り。汚れては居た物の、上質な衣(ころも)を纏(まと)って居たので、遊女の中には関心を抱(いだ)き、当時の事をよく覚えて居る者が居り申した。しかし、本名を明かさなかった為、果してその女性(にょしょう)が御母堂か否(いな)か、確証を掴(つか)むには至って居り申さず。」
確かに、母であってもおかしくは無い。政隆の心に、大きな希望が芽生(めば)えた。
「では、私が行って、直(じか)に確かめたいと存じまする。」
公行は笑みを湛(たた)えながら申し出る。
「直ぐにでも向かわれたい御様子ですな。では、案内の者を付け申そう。ここより、四半時程で着く処にござりますれば。」
(さきの)佐渡守の配慮に感謝の意を示すと、政隆は後ろに控える鵜沼と望月に、出発を命じた。

 磐城へ帰す目的も有り、百騎の兵を伴って来て居たが、国府郊外の里へ行くのに、態々(わざわざ)軍勢を率いて行く必要も無い。逆に、下手(へた)に警戒させてしまい、証言を躊躇(ためら)う者が出ては、却(かえ)って捜索が困難と成る。政隆は兵を国府に留め、鵜沼と望月、それに公行が手配してくれた佐渡の案内人を加え、四人だけで波多郷へと向かった。

 国府より波多郷までは、南の丘陵の裾(すそ)を伝う平坦な道であった。途中、幾(いく)つかの川を渡った。それ等は皆平野の中央へと集められ、佐渡ヶ島の中央を貫流する国府川と成る。

 天候も良く、難儀する事無く、四人は波多郷へ入った。今年は豊作であったのか、明るい表情で藁(わら)仕事に精を出す村人の姿が目立つ。案内役の初老の男は、眼前に広がる村里へ入る道を逸(そ)れ、脇道へと駒を進めた。そして、後から付いて来る政隆等に説明する。
「実は某(それがし)、公行様より命を受け、丹後守様の御母堂を捜(さが)し尋ねた者にござりまする。そして先日、当村の外れに在る遊里にて、もしやと思う女性(にょしょう)が居りました故、公行様に申し上げたのでござりまする。」
「そうであったか。忝(かたじけな)い。」
政隆はすっと頭を下げた。

 間も無く、村から離れた、一軒の大きな建物が見えた。近くには田畑も無い為か、表に人の姿が見えない。と思いきや、小川の辺で洗濯をする老婆が在った。案内役の男は馬を下り、小川の近くまで進み出て、老婆に声を掛ける。
「婆さん。先日の、越後の人は居るかい?」
老婆は目を細めて男を見ると、難儀そうに腰を上げて答えた。
「ああ、居りますっちゃ。暫(しば)し御待ち下せえ。」
老婆は洗い物を詰めた桶(おけ)を置いたまま、蹌踉(よろ)ける様な足取りで、建物へ戻って行った。

 ここは、日昼こそは閑散とした観が有るが、夜とも成れば明かりが耿々(こうこう)と灯(とも)り、化粧をして着飾った遊女達で溢(あふ)れ、大層賑(にぎ)やかに成るという。政隆は、早く母を捜(さが)し出したいと思う一方、この様な処に居て欲しくないという気持も有り、それ等が激しく葛藤(かっとう)して居た。

 間も無く、老婆は一人の女性を連れて来た。未だ昼なので、地味な普段着を纏(まと)って居るが、四十近いという年齢を感じさせない、若々しい顔立ちをして居る。

 政隆は女性の前に進み出て、その顔を見詰めたまま立ち尽した。母の顔は、もう十年も見て居ない。今目の前に在る顔を見ても、特に懐かしさが込み上げて来る事も無かった。しかし、全く別人であると、言い切る事も出来ない。
「貴女(あなた)の御国は?」
(ようや)く、政隆が口を開いた。見た目で判別が付かないのなら、後は話をする他は無い。女性は、少々嗄(しゃが)れた声で答える。
「越後国沼垂(ぬたり)郡の、山村にございます。」
「然様(さよう)にござるか。」
政隆の体から力が抜け、大きく息を吐(つ)いた。その様を見た女性は、悲しい目をして政隆に告げる。
「貴方様は、母親を捜(さが)して居られるんですってね。」
一瞥(いちべつ)して、政隆は頷(うなず)いた。
「この佐渡に、居るかも知れませんよ。」
「えっ?」
政隆は驚きを顕(あらわ)にして、女性を見た。
「それは如何(どう)いう事です?」
「私がここへ売られて来て間も無く、椿(つばき)という女子(おなご)も売られて参りました。椿さんは歳が近く、又出身が故国の隣、陸奥だというので、直ぐに打ち解けて、話をする仲と成りました。」
陸奥という言葉が、政隆の心に掛かった。
「それで、椿さんは今何処(いずこ)に?」
「もう、ここには居りませぬ。脱走を試みて捕まり、島の奥地へと連れて行かれました。」
「何と。」
「椿さんは度々、生き別れた二人の子の事を口にして居りましたから、多分子供達の処へ向かおうとしたのでしょう。」
政隆は一瞬、咽(のど)が詰まった様な感じを覚えた。しかしそれを押し出すかの如く、掠(かす)れた声を発する。
「その二人の子の事、詳しく聞いて居りませぬか?」
「そうですね。幾度か耳にしましたのは、十を過ぎた娘と息子が居たと。名前までは聞いて居りませぬが。」
政隆は力を込めて、女性の両肩を掴(つか)んだ。
「椿さんという方の、生き先に心当たりはござりませぬか?」
急に強い力で肩を掴(つか)まれた事と、政隆の緊迫した表情に、女性は脅(おび)えて言葉を失って居る。それに気付いた政隆は、ゆっくりと一歩退(しりぞ)いた。漸(ようや)く、女性は抑えた声で話し始める。
「脱走して捕まった訳ですから、怖らくは鉱山に移されたやも知れませぬ。彼所(あそこ)は近くに町も無く、脱(ぬ)ける事は先ず不可能でしょうから。」
佐渡の山からは鉛が産出された。しかしその作業は重労働な上に、命懸けの物であり、専(もっぱ)ら奴(ぬ)が従事する作業であった。椿(つばき)という女性は怖らく、鉱山の給仕(きゅうじ)にでも回されたのであろう。

 政隆は女性に礼を言い、一通の書状を認(したた)めて、銭と共に渡した。
「越後に戻りたくば、この文(ふみ)を主(あるじ)に見せなされ。その銭の半分を払えば、貴女(あなた)を自由にしてくれる事でしょう。そして残った金で、海を渡って下され。」
政隆は太政大臣の家臣であり、佐渡に軍勢を駐屯させて居る旨(むね)を記した上で、女性を解放する事を命じる内容を認(したた)めて居た。呆然(ぼうぜん)と佇(たたず)む女性を残し、政隆は供を率いて、国府へと引き揚げて行った。

 政隆は、先程の女性が口にした椿(つばき)という人こそ、我が母であるという確信を強くした。姉万珠や己に当て嵌(はま)る年齢の子が居る事。自身の危険を顧(かえり)みず、子を想い行動する心。そして椿(つばき)という名の由来は怖らく、故郷信夫(しのぶ)の椿舘(つばきのたち)であろう。

 次に成す事は、鉱山周辺の探索という明確な指針が出来た。幸い、佐渡に荘園は無い。佐渡守代行の公行より許しを得られれば、佐渡全土での捜索が可能と成る。しかし、公行の権限は飽(あ)く迄(まで)、国守復帰までの限定された物である。又、鉱山という厳しい環境の中では、多くの者が早くに命を落すとも聞いて居る。

 夕陽を正面に受けて帰路に付く政隆の心は、激しく焦燥(しょうそう)に駆られて居た。

 国府に戻った時、丁度(ちょうど)陽が没し様として居た。政隆は真っ先に国守公行の元を訪れ、波多郷における成果を報告した。
「彼(か)の地にて、御母堂の発見に至らざるは残念なれども、新たな情報を得られしは喜ばしき事にござる。」
公行は、慰(なぐさ)める様に政隆に告げた。そして、二、三度頷(うなず)いてから回答する。
「宜(よろ)しい。国内各地の鉱山への立入りを認可致し申そう。」
「御配慮、有難く存じまする。只、しかしながらもう一つ、御願いの儀がござりまする。」
「はて、何でござりましょう?」
「佐渡も広うござりまする。我が手勢を分散して、捜索を行いとうござりまするが、願わくば地理に明るい者を三名、御貸し願いたく存じまする。」
「それは構いませぬが。但(ただ)し、某(それがし)が佐渡を離れるまでに限られまするぞ。」
「有難うござりまする。」
協力的な公行を、政隆は心強く感じて居た。しかしその支援も、何時(いつ)まで受けられるか分からない。政隆は公行の元を辞すと、早速宿所へ戻り、明日からの行動計画を、家臣達と話し合う事にした。

 鉱山を捜(さが)すと言っても、佐渡ヶ島の内陸部は国府川流域を除(のぞ)き、殆(ほとん)どが山地である。広大な地域を捜索するには、部隊を割(わ)った方が良いという意見が鵜沼より出され、望月も政隆も、それに同意した。結果、鵜沼は四十騎を率いて賀茂(かも)郡を、望月は二十騎を率いて羽茂(はもち)郡を、そして政隆は残り四十騎を率いて雑太(さわた)郡を、其々(それぞれ)分担して捜(さが)す事に決した。椿(つばき)という名の婢(ひ)が母である可能性が有り、しかも脱走に失敗して山へ送られたと成ると、越後への玄関口である羽茂郡方面に居るとは思えなかった。しかし念の為、望月に一部の兵を預けて、回らせる事にしたのである。

 斯(か)くして翌朝、磐城軍は国府を出ると、三手に別れて進み始めた。鵜沼昌直隊は国府川を北に越え、山地の裾(すそ)に沿って北東へ、望月国茂は波多郷を抜けて東の山間へ、そして政隆率いる本隊は、国府川の河口に向かい、各々の判断で捜索を開始した。

 国府の東北には加茂湖という湖が在り、その先はもう海で、両津湾と呼ばれて居る。望月隊は湾の東を進み、その後、東に突き出た姫崎より海岸線に沿って南下し、上陸した松崎に至った後は、街道に沿って国府へ戻る。又、鵜沼隊は両津湾の西岸を北上し、内海府を経て島北端の弾崎を回り、外海府に入る。そして政隆本隊は島の西方を北上し、外海府辺りで鵜沼隊と合流した後、国府へ引き揚げる手筈(てはず)と成って居た。

 鉱山は山深くに在り、飯場(はんば)も怖らくは、鉱口から然程(さほど)遠くは無い山中に在るのであろう。しかし、飯炊(た)きの者は食糧を調達せねば成らぬから、海岸沿いに在る村々を尋ねて行けば、鉱山の位置が掴(つか)めるやも知れぬと、政隆は考えた。真野湾近くで村人に話を聞いた所、鉱口は妙見山中、即(すなわ)ちもっと北の方であると教えられた。政隆はここで十名を割(さ)き、妙見山南麓の捜査を命じた。

 数を減らした本隊は、先ず真野湾北岸を西へ回り込み、台ヶ鼻を経て島の西海岸に出た。その先には長手岬、七浦海岸と続いて居たが、随分と入り組んだ海岸線であるという印象を受けた。

 北西に突き出た春日岬から海岸に沿って東へ進むと、比較的纏(まと)まった漁村に入った。突然現れた三十名の武士を見て、村に残る女子供や老人達は、大分警戒して居る様である。

 政隆は隊を止めて馬を下り、単身村人達の前へ歩み寄った。
「私は丹後守平政隆と申す者。佐渡守殿の許しを得て、ある女性を捜(さが)して居る。歳は四十頃。椿(つばき)と名乗り、鉱山の飯炊(た)きをして居るという話も聞く。何方(どなた)か、存じ上げる者は居りますまいか?」
村人達は互いに相談を始めた。政隆と名乗る武士を相手に、如何(いか)に答えるべきか、将又(はたまた)この若武者が尋ねる人物に心覚えが有るか如何(どう)か、話し合って居るのであろう。

 やがて老人が一人、政隆の前へ歩み出て来た。杖を突き、浜の上を覚束(おぼつか)無い足取りで進み、政隆の前に立つ。
「この辺りでは、とんと耳にせぬ。只、これより先を捜(さが)しに行くのは、怖らくは無駄足に成ると、御忠告申し上げる。」
古老の言葉だけに、政隆は気に掛かった。
「何故(なにゆえ)、無駄に成ると申されるのか?」
老人は大きく息を吐(つ)いてから、再び話し始める。
「毒じゃ。山より流れ出る毒が川の水に入り、それを飲んだ多くの者が死んだ。又、生き残った者達は、殆(ほとん)どが村を離れてしもうた。」
「何と。」
ギロリと睨(にら)み付ける様な眼指(まなざし)しで、老人は言葉を接ぐ。
「止めは致さぬ。只、この先では水を口にされぬ様。又、人家も疎(まば)らに成る故、人に尋ねる事も困難であろう。儂(わし)等が教えられるのは、これだけじゃ。」
そう言い残して、老人は己の家へと帰って行った。又、他の村人達も次々と浜を去り、やがて誰も居なく成った。

 古老の言葉に不安を覚えつつも、政隆は先へと進んだ。兵には水を節約する様に申し付け、毒水の事を心に留めた。

 海岸に沿って半里程行くと、川が海へ流れ込む処に、数軒の民家が見えた。何か情報が得られればと、兵を各家へ聞込みに遣(つか)わしたが、その悉(ことごと)くが廃屋(はいおく)であった。
「毒水に因(よ)り滅びた村とは、ここの事か。」
政隆は溜息を吐(つ)くと、再び兵を纏(まと)めて先を急いだ。

 大崎鼻を経て北上する事暫(しば)し、行く手から野菜等を荷車で押して来る、夫婦の姿が見えた。政隆は、この先の様子が聞けるであろうと思い、呼び止めた。軍勢に道を譲ろうと、荷車を道端へ退(の)けさせて居た男は、驚いた顔で頭巾(ずきん)を取る。
「何でございましょう?」
二人が軍勢に脅(おび)えて居る様であったので、政隆が自ら、表情を和(やわ)らげて尋ねる。
「この先に村は在ろうか?特に、鉱山の飯炊(た)きが出入りする処は?」
「へえ、この先に鹿野浦(かのうら)という浜が在り、小さな漁村がござりまする。その外れでは、僅(わず)かばかり畑を耕す者が居り、己(おら)達はそこで野菜を求めて参りました。鉱山からも、時折買い出しに下りて来る様でございます。」
男はおどおどしながら答えた。政隆は和(にこ)やかに礼を述べる。
「驚かせてしまった様で、済まなかった。兵を率いて居るが、別に戦(いくさ)が起る訳でも無い。只の人捜(さが)しじゃ。」
そう告げて、政隆は再び軍を出発させた。再後尾の兵が通り過ぎた後、夫婦は頭巾(ずきん)を被(かぶ)り直し、再び荷車を押して去って行った。

 程無く、浜が見えて来た。怖らくこの辺りを鹿野浦というのであろう。先に尋ねた通り、この辺りには二、三十戸ばかりの村が在った。殆(ほとん)どが漁民の様ではあるが、中には畑を耕して、生計を立てる者も居ると聞く。又、鉱山からの毒水を避けて、流れて来た者も居るやも知れない。

 この村は丁度(ちょうど)、妙見山々頂の真西に位置する。直ぐ北には尖閣湾が在り、その先には外海府という、入り組んだ海岸が延々と続いて居ると聞く。未だ未だ捜(さが)すべき処は多いが、政隆は妙見山の西麓に在る鹿野浦(かのうら)で、先ずは重点的に情報を集め様と考えた。半時の時間を与え、兵達に村人への聞込みを命じた。

 皆が手分けして漁民の家を訪ねたり、村外れの民家を探して行くのを見て、政隆自身もじっと待っては居られなく成った。馬から下りて、側に一人残った警固の兵に、愛馬を託した。そして念の為、家宝を納めた荷を、荷駄の箱より取り出して背に負うと、警固の兵に他の荷と馬を見て置く様に命じ、村へと向かった。

 漁村では既(すで)に、兵達が聞込みを行って居たので、政隆はそこを抜けて、浦の北側へ進んだ。ふと、網を担いで村に戻って来る若者に出会(でくわ)した。政隆は歩み寄って、若者を呼び止める。
「もし、尋ねたき事が有るのだが。」
若者は歩を止めて、網を下ろした。そして訝(いぶか)しむ面持ちで、政隆を見詰める。
「何でしょう?」
「この辺りに、鉱山と繋(つな)がりの有る者は居りますまいか?」
若者は、政隆の形(なり)をじろじろ眺めてから答えた。
「裕福そうな御方だね。それならば、あの丘の手前に広い畑を持った、大きな農家が在る。そこでは幾人か流れ者を雇って居る様だから、行って聞いて見ると良かろ。」
指差す方を見遣(みや)った後、政隆は若者に一礼した。
「忝(かたじけな)い。」
政隆は歩を早め、松林に囲まれた耕地へと入って行った。

 畑はすっかり収穫を終え、作物は何も残って居ない。しかし、海辺の平地にかなりの面積を持って居る事は、容易に見て取れた。これならば、鉱山の者に食物を売る余裕も有るであろう。

 屋敷を探して畑の端へ歩いて行くと、ふと人の声が聞こえて来た。耳を澄まして声の主を求めて行くと、その声は藪(やぶ)の奥から聞こえて来る。小径(こみち)を分け行って進むと、やがて藪(やぶ)が切れた先に開けた処が在り、小さな荒屋(あばらや)が一軒建って居た。その向こうから、女性の歌声が聞こえて来る。幼き頃に聞いた様な、懐かしさが込み上げて来た。

 荒屋(あばらや)を回り込むと、奥には一面筵(むしろ)が敷かれ、その上に粟(あわ)の穂が乾(ほ)して在った。粟(あわ)を啄(ついば)みに鳥が舞い降りて来るが、筵(むしろ)の中央に座した女性が竹の杖を振い、鳥追いをして居る。女性は頭髪に大分白い物が混じり、手も罅(ひび)割れてゴツゴツして居る。着て居る物もかなり草臥(くたび)れ、汚れて居た。

 政隆は履物(はきもの)を脱いで、筵(むしろ)に上がった。途端に、女性は歌うのを止めてしまった。政隆は背後より、そっと尋ねる。
「今の歌は、奥州信夫(しのぶ)の物ですね。」
女性は黙して答えない。
「私は平政隆と申す者、鉱山に送られた椿(つばき)という女性が、十年近く前に生き別れた母ではないかと思い、捜(さが)し歩いて居りまする。御存知在りませぬか?」
突如、女性は振り向き様に杖を振った。杖は政隆の顳顬(こめかみ)に当たり、政隆は粟(あわ)の上に倒れた。女性は半身で政隆に対し、怒鳴り付ける。
「近所の悪童(あくどう)が。私の出生を聞いて、からかいに参ったな。」
政隆は呆然(ぼうぜん)としながら、女性を見上げる。目から上は、ボサボサに成った髪に覆(おお)われて定かでは無いが、鼻より下は大分皺(しわ)が深く、五十は優に超えて居る様に見える。

 怖る怖る、政隆は老婆に尋ねた。
「貴女(あなた)は、椿(つばき)という方を存じて居るのですか?」
老婆に些(いささ)か、戸惑(とまど)いの色が現れた。
「私の、昔の名じゃ。」
政隆は体を起して、老婆の前に正座した。
「寛仁元年(1017)、謀叛人に国を追われた私は、母と姉、侍女と共に京へ落ち延びる途次、人買いに騙(だま)され、母と引き裂かれて、丹後へ売られ申した、そして今、漸(ようや)く機会を得て佐渡へと渡り、母を捜(さが)しに参った者にござりまする。」
(にわか)に、老婆の体が震え出した。
「貴方の名は?」
「幼名を千勝。信夫(しのぶ)に移ってからは、医王丸と名乗りました。」
「姉の名は?」
「万珠と申しまする。」
(さら)に唾(つば)を飲み込んで、老婆は尋ねる。
「では、貴方の家に伝わる家宝は?」
政隆は静かに、背中の荷を下ろして解き、厨子(ずし)を取り出した。
「これにござりまする。」
老婆がそれを受け取らんと手を伸ばして来たので、政隆はそっと厨子を、老婆の膝(ひざ)の前へ置いた。

 老婆は暫(しば)し厨子(ずし)を撫(な)でた後、扉を開けて、中に納められし仏像に触れた。仏像の左手に在る錫杖(しゃくじょう)や、右手が結ぶ印相(いんそう)を優しく撫(な)でる。そして、噎(むせ)ぶ様な声で答えた。
「放光王地蔵菩薩。磐城平家の家宝に間違いあるまい。では貴方は?」
「家祖高望公より六世の末裔にして、かつての常陸介平政道が嫡男、医王丸にござりまする。」
老婆の目から、涙が零(こぼ)れ落ちた。
「おお、此(こ)は夢か真(まこと)か?本当に、医王丸が迎えに来てくれたのか?」
(しばら)く老婆と話して居る内に、政隆の記憶に蘇(よみがえ)る物が有った。母の声は斯(こ)うであったと。

 政隆は老婆を抱き締めた。
「私は四年前、逆臣村岡重頼を討ち果し申した。その功績を認められ、丹後守を拝命致して居りまする。今は閑院藤原家に仕え、平政隆の名を賜(たまわ)り申した。磐城平家は、再興されたのでござりまする。母上。」
老婆の手から、杖が転がり落ちた。
「立派に、成長なされたのですね。しかし妾(わらわ)には最早、その姿を見る事が叶(かな)わぬのです。」
政隆の胸元が、母の涙で濡れる。嫌な予感に駆られながら、政隆は母の前髪を脇へと避(よ)けた。そして政隆は、愕然(がくぜん)とした。母の目は、光を失って居る様に見える。
「母上、此(こ)は如何(いかが)なされた?」
「以前居った処では、川に毒が混じって居て。やがて目が侵(おか)されてしまいました。」
政隆は沈痛な面持ちで、母の手を引く。
「家臣が近くまで来て、母上を捜(さが)して居りまする。皆の処へ戻りましょう。」
しかし、母は立つ事が出来ない。
「昔、足の腱(けん)を切られてしまいました。」
それは、逃亡に失敗した者が、二度と同じ事を企(くわだて)ぬ様、戒(いまし)めの意味も込めて処された罰であった。
(何という惨(むご)い事を。)
政隆は、家宝を納めた厨子(ずし)を包んで、首から前に下げ、母を背負った。別離の折、母は見上げる程の背丈であり、肌にも張りが有った。時の移ろいは、それ等を全て変えてしまった。痩(や)せ細って、深い皺(しわ)が刻まれた母を背に、その軽さにも涙が流れた。今の丹後国に、ここまで痩(や)せ衰えた民人(たみびと)が居るであろうか。

 歩き始めた政隆に、背後より母が声を掛ける。
「斯様(かよう)な形(なり)の妾(わらわ)が、今まで生き延びて来られたは、この先に住む、農家の主(あるじ)の御蔭です。妾(わらわ)にも出来る仕事を下さり、食物を分けて下さる、情けの有る御方にて、別れの挨拶を申し上げたいと思いまする。」
「解り申した。防風林で視界が悪いのですが、何方(どちら)に行けば良いか、御教え下され。」
「はい。」
政隆は母の言に従い、何反歩もの畑の脇を過ぎて行った。

 やがて、大きな屋敷に辿(たど)り着いた。玄関より大きな声で呼んだが、返事が無い。二、三度呼んで見た所、背後で答える者が在った。
「当家に何ぞ、用でござるか?」
政隆が振り返るや否(いな)や、背中の母が口を開く。
「旦那様、これは、我が息子にござりまする。」
目の前に立つ農夫は、政隆を眺めてから答える。
「中々立派な息子さんじゃな。再会出来て良かったのう。では一緒に、故国に帰るのかね?」
「はい。それで、今日まで御世話になった御礼を申し上げに。」
母の言葉が終ると、政隆も上体を前傾させて礼を執った。
「丹後守平政隆と申しまする。この度、母を捜(さが)し出す事が叶(かな)い、任国へ連れ帰る事と致しました。今日まで母の面倒を見て下された貴殿には、後日丹後国府より佐渡守殿を通じ、細(ささ)やかながら、御礼の品を贈(おく)りたく存じまする。」
農夫は、恐る恐る尋ねる。
「今、浜では三十名程の武士が人捜(さが)しをして居りますが、彼等はもしや?」
「はい。我が手の兵達にござる。」
やはり身分の有る方で在られたか、と農夫は確信するや否(いな)や、後方に下がって平伏した。政隆は苦笑して告げる。
「御気遣いあるな。貴殿は我が母の恩人にござる。では、追って丹後より使者を遣(つか)わしまする故、これにて失礼致す。」
そう言い残して、政隆は母を背負い、農夫の屋敷を去って行った。

 浜に出て間も無く、漁村より捜索範囲を広げて来た兵に遭遇した。兵は政隆を見て、驚いた顔をして尋ねる。
「殿、背負われて居られる御方は、よもや?」
政隆は快心の笑顔で返す。
「そうじゃ。我が母上じゃ。」
「えっ、では?」
意外な事に当惑する兵に向かい、政隆は命ずる。
「捜索は終了じゃ。他の兵達に、直ちに先程の処へ集合する様伝えよ。」
「は、はっ。」
兵は慌てた様子で、山裾(すそ)の方へと駆けて行く。一方、政隆は母を背負い、悠々(ゆうゆう)と鹿野浦(かのうら)の南端へ戻って行った。

 浜の外れに、隊の荷と政隆の馬を預けた兵が座って居る。遠く、西の彼方(かなた)を眺めて居る様であった。

 砂を踏む、微(かす)かな音を感じ、兵は咄嗟(とっさ)に振り向いた。そして、慌てて跪(ひざまず)く。
「これは殿、御帰りなされませ。」
そう言い終えると共に、兵は驚愕(きょうがく)の相を呈して尋ねた。
「殿、背に負われておわす御方は、もしや?」
「ああ、母上じゃ。漸(ようや)く逢(あ)う事が叶(かな)った。」
「信夫御前様。斯様(かよう)な処で、善(よ)くぞ御無事で。」
兵は深く平伏した後、荷駄の中より敷物(しきもの)を取りに駆け出した。

 その声を聞いて、御前の口元が微(かす)かに綻(ほころ)んだ。
「懐かしい訛(なまり)です事。」
御前の安心した様子を見て、政隆の心も落ち着いて行った。そして、兵が用意した敷物の上に御前を下ろし、他の兵の集結を待った。

 暫(しばら)くして、手勢三十騎が鹿野浦(かのうら)に揃(そろ)った。政隆は信夫御前の脇に立ち、兵に告げる。
「先刻、放光王地蔵菩薩の御導きに因(よ)り、母上を捜(さが)し出す事が叶(かな)った。皆には、遠く磐城より丹後へ参り、更(さら)には佐渡ヶ島にまで供をしてくれた事、心より感謝を申す。越後へ引き揚げた後は、そのまま恩賞を携(たずさ)えて、故国へ帰るが善(よ)い。そして、父母に孝養を尽す様。」
「ははっ。」
兵は一斉に答えた。そして中から、個人個人の声が漏れ始める。
「何と御労(いたわ)しい。」
「北陸の海賊奴(め)、根絶やしにせねば気が済まぬわ。」
確かに、視覚と足の自由を奪われた母の姿を見る度に、政隆自身、沸々(ふつふつ)と怒りが込み上げて来る。しかし、政隆が先ず成すべき事は、衰弱した母を、無事に丹後へ連れ帰る事であった。

 政隆は直ぐに出立を命じ、兵は隊列を整える。母は輿(こし)に乗せて遣(や)りたいが、近隣で手に入るとも思えない。已(や)むなく、己の馬に乗せる事とした。母を乗せた後、自身もその後ろに跨(またが)り、母の体を支えた。

 隊の内五名ばかりは、そのまま外海府を北上させ、内海府を進んで来る鵜沼隊に、北堂発見を伝えに急行させた。残る二十五名は信夫御前を警固し、堂々と佐渡国府へ向け、来た道を戻り始めた。

 俄(にわか)に西風が強まり、粉雪が吹き込んで来た。北陸はもう直ぐ冬が訪れ、豪雪に見舞われる。そう成る前に母を連れ帰る事が叶(かな)い、本当に幸運であったと、政隆は沁(し)み沁(じ)み思った。

 ふと、信夫御前は政隆の襟(えり)を強く掴(つか)んだ。
「万珠は、ここへは来て居ないのですか?」
政隆は、苦渋の表情を湛(たた)える。
「姉上は、丹後におわしまする。本格的に冬が訪れる前に、丹後へ参りましょうぞ。」
「おお、万珠も無事で在ったのか。有難い事じゃ。これで、姥竹(うばたけ)も生きて居ればのう。」
御前は、四人が人買いに引き裂かれた時の事を思い出し、嗚咽(おえつ)を始めた。この時政隆は、母の背を撫(な)でて、心を落ち着かせ様と努める事しか出来なかった。

 政隆には、新たに心の重荷が生じて居た。衰弱した母に、丹後への長旅を乗り切る気力を養って貰(もら)う為に、重大な嘘(うそ)を吐(つ)いてしまった事である。

 磐城勢は粛然と、鹿野浦(かのうら)を後にして行った。この地で母御前が無事生き延びて居た事から、後にこの辺りは、「達者」と呼ばれる様に成ったという。

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