第三十四節 善政結実

 翌万寿二年(1025)の夏、都に赤斑瘡(あかもがさ:麻疹)が流行した。三条院の子、小一条院敦明(あつあきら)親王の后(きさき)である寛子(かんし)が、病(やまい)を得て亡くなった。寛子は、藤原道長と源明子(めいし)の娘である。赤斑瘡(あかもがさ)は秋まで猛威を振い、八月には帝(みかど)の弟敦良(あつなが)親王の后、嬉子(きし)が病没した。嬉子は道長と源倫子(りんし)の娘であり、親仁(ちかひと)親王を儲(もう)けて居た。九月二十一日、法成寺(ほうじょうじ)阿弥陀堂にて、嬉子の法要が執り行われた。一月(ひとつき)の間に、二人の娘に先立たれた道長の哀しみは深く、次第に健康を崩して行った。

 一方で、丹後の秋は平穏であった。田畑に作物は実り、漁村も順調な水揚げが続き、鉄器や陶磁器の生産も改良が進められて居る。このまま台風の襲来が無ければ、国衙(こくが)領の生産高は昨年よりも増加し、閑院領荘園からの税収も、三庄太夫追放前に匹敵する量と成る見通しが出された。

 作物の出来不出来は、自然界の動きに大いに依存する為、この先、収穫直前に大惨事が起らぬとも限らない。しかし、政隆は奴婢(ぬひ)を使わず、海賊の類(たぐい)との繋(つな)がりを断ち切った上で、三庄太夫の時代と同量の税を納められる可能性が出て来た喜びを抑え切れず、京の坂上広高に宛(あ)てて、国政の順調な次第を書き綴(つづ)った。己の信念を貫いて断行した事が、今結実しつつ在る嬉しさを、心の許せる者に伝えたかったのである。

 幸運にもその年は、水害や旱魃(かんばつ)といった天災に見舞われる事は無かった。水田では農民が撓(たわわ)に実った稲穂を刈り取り、各郷長の部下達は、各戸の収穫量を調査し、税収量の計算や検算に追われる。農民達は村毎(ごと)に、所定の蔵へ米俵や反物等を運びに行かねば成らない。集められた税は、郷から郡、国、朝廷へと、輸送に加えて報告も成される。丹後国は各郡より集めた税の内、決められた量を都へ送らねば成らない。税務を司(つかさど)る官吏達は大童(おおわらわ)と成り、計算や報告書の作成に追われて居た。

 斯(か)かる中、国府の正門に、輿(こし)を担(かつ)いだ一行が姿を現した。間も無く、広瀬十郎が慌てた様子で、政庁に駆け込んで来た。政隆は奥の方で、書翰(しょかん)が山積みと成った文机(ふづくえ)の前に座し、竹野郡六郷の報告書に目を通して居た。
「殿。」
十郎は歩み寄って、何かを告げ様としたのだが、他の官吏の目を気にして居る風(ふう)に見える。政隆が側へ上がる様に勧めたので、十郎は間近に跪(ひざまず)き、小声で報告した。
「今し方、閑院家の御一行が到着され、客間に御通ししてござりまする。正使は坂上様が務められ、殿の奥方様を御連れなされてござりまする。」
政隆は一瞬、驚いた顔で十郎を見詰め返した。そして黙って書翰(しょかん)を畳(たた)み、静かに立ち上がると、十郎を伴って、然(さ)りげ無く政庁を退出して行った。

 客間では、玉綾姫が下座に控え、坂上広高はその斜(なな)め後方に座して居た。警固の者達は、別間に詰めて居る様である。ここまで政隆を案内して来た十郎は廊下に待機し、政隆一人が部屋の中へ足を踏み入れた。
「丹後守政隆様、御越しにござりまする。」
十郎の声を受け、玉綾姫と、それに続いて広高が頭を下げる。

 政隆は上座に着くと、面(おもて)を上げる様、両者に告げた。玉綾姫と会うのは、都を発って以来、実に一年半振りの事である。その顔は、懐かしそうな瞳を政隆に向けて居る。しかし対する政隆は、当惑した様子で広高に視線を移した。
「此(こ)は一体、如何(いか)なる事にござりましょうや?」
広高は、微笑を湛(たた)えて答える。
「都では今、赤斑瘡(あかもがさ)が大流行し、多くの者が命を落して居る。姫様も都に留まって居られては、何時(いつ)(やまい)に侵(おか)されるやも知れぬ。そこで一つ手を打って、丹後まで御連れ致した。」
太政大臣公季(きんすえ)は、道長が相(あい)次いで二人の娘を亡くし、嘆(なげ)き哀しむ様を、法要の折に目にして居る。そして閑院殿に居る愛娘(まなむすめ)も、何時(いつ)道長の娘と同じ運命を辿(たど)るか分からぬ、という不安を抱(いだ)く様に成った。そこを突いて広高は、玉綾姫を丹後の婿(むこ)の元に遣(つか)わせる事を、進言したのである。

 政隆は丹後に動乱を起し、閑院家に不利益を齎(もたら)した。幾(いく)ら娘婿(むすめむこ)と雖(いえど)も、容易に許せる事ではない。しかし広高は、政隆が閑院領荘園の収益を伸ばす為に改革を継続して居り、一時は減益と成った物の、今年は例年を回復し、来年以降は増益と成る見込みであると、公季に報告した。公季は結果が出るまで、娘を己(おの)が手許に留めて置く積りであったが、疫病(えきびょう)の流行に因(よ)り、事態は一変した。娘の身を想うと、やはり丹後に移した方が良いと、考えるに至った次第である。

 久し振りの対面に、政隆は妻に掛けて遣(や)る言葉に迷った。
「ここまで疫病(えきびょう)は広まって居らぬ。今日からは、安心して過ごすが良い。」
自然と出た言葉は、姫を安心させる物であった。
「はい。」
玉綾姫は嬉しそうに答えた。

 後方から、坂上広高が厳粛な面持ちで、政隆に告げる。
「これにて、貴殿が太政大臣公季様の女婿(じょせい)である事、丹後国中の者が確信するであろう。国守としては、より大殿(おとど)の威光を得られる事に因(よ)り、政(まつりごと)が行(や)り易く成るであろう。しかし、物事の決断には呉々(くれぐれ)も慎重を宗(むね)とし、閑院家の名声に傷を付ける事の無き様。」
「はっ。」
政隆は公季に対する様に、深く頭(こうべ)を垂れた。その様子を見て、広高は安堵の表情を見せた。そして、畏(かしこ)まって玉綾姫に申し上げる。
「では某(それがし)はこれにて、国府を退去致しまする。暫(しば)しは丹後の地にて、御健(すこ)やかに御過ごし下さりませ。」
「広高殿には色々と世話に成りました。都では今でも、赤斑瘡(あかもがさ)が流行(はや)って居りまする故、広高殿こそ、御身体には御気を付け下され。」
「ははっ。」
姫は名残(なごり)惜しい様子で、広高を見詰めて居る。広高は一礼した後、立ち上がって退立し様とした。その背中に、政隆は声を掛ける。
「今年、国内荘園における生産高は、某(それがし)の予測を遙(はる)かに上回る物でござった。都に戻られた折には、大殿(おとど)に御安心召されまする様、申し上げて下さりませ。」
「相(あい)解った。」
広高は微(かす)かに笑みを浮かべると、再び振り返って、二人の元を辞して行った。

 その足音が遠退(の)いて聞こえなく成ると、政隆は、廊下に控える広瀬十郎に命ずる。
「今日より、我が妻と、その侍女十名余がここで暮らす事と成った。住居の手配を頼む。」
「はっ。直ちに。」
十郎は音を立てぬ足運びで、担当部署へと駆けて行った。

 玉綾姫は婚儀より間も無く、夫と離れて一年半を過ごして来た。そして今、久方振りに見(まみ)えた夫の態度は、以前とは一変して居る様に感じられた。かつては、主君の姫君として接して居た為、夫であるにも拘(かかわ)らず、妻に対して卑屈(ひくつ)な態度を取る事が度々有った。その後、政隆は自身の立場を危うくしてまで、丹後の改新を断行した。その結実が漸(ようや)く見えて来た今、政隆の胸中には大きな自信と誇りが、芽生(めば)えて居たのである。夫の物腰や所作からそれを感じ取った姫は、前よりも一層、政隆を頼もしく思える様に成った。

 しかし、夫婦がゆっくりと過ごせる時は、今は無かった。政隆が京の事を一つ二つ尋ねた時、姫の侍女達が客間に通されて来た。そして政隆は、話を止めて立ち上がる。
「実は今、税務の処理に追われて居って、直ぐに戻らねば成らぬ。姫や侍女達の居間は急ぎ用意させて居る故、暫(しば)しここで待って居てくれ。」
そう言残すと、政隆は姫の返答を聞く余裕も無く、政庁本殿へ戻って行った。

 夫が今、閑院公季に賞されるか、罰せられるかの瀬戸際に在る事は、玉綾姫も坂上広高より聞き及んで居た。その夫の苦しみを分かち合う覚悟を、姫は既(すで)に固めて来て居た。

 その年の秋は、政隆の四ヵ年計画を一気に縮める結果と成った。国衙(こくが)領の税収は、前年費増で順調であった。そして閑院領荘園の総生産高は、それを遙(はる)かに凌(しの)ぐ激増を達成して居た。閑院家に納める税の量は、一気に三庄太夫時代に遜色の無い所にまで、回復したのである。尤(もっと)も、三庄太夫は税収を誤魔化し、一部を着服して居た訳であるから、総生産高は未だ、三庄太夫の頃には及ばない。しかし、閑院家には満足の行く収益が入り、荘園で働く民人(たみびと)に取っては、奴婢(ぬひ)の時代とは比べ様も無い、豊かな暮しを享受出来る様に成った。後は政隆や地頭代達が、三庄太夫の如く、私財を蓄えねば済む事である。

 そして冬、都では赤斑瘡(あかもがさ)が終息しつつ在った。やがて年が改まり万寿三年(1026)、春の訪れと共に雪解けの峠を越えて、閑院家からの使者が、丹後国府へ遣(つか)わされて来た。

 使者は政隆に対し、閑院家領有の荘園開発に多大な功績が有った旨(むね)を記した、感状を授与した。これに因(よ)り、閑院公季が三庄太夫よりも、政隆をより評価して居る事が判然と成った。加えて使者は、書翰(しょかん)箱を一つ政隆に渡し、これにて使者の用向きは終った。

 政隆は使者に対し、遥々(はるばる)丹後まで足を運んだ労を犒(ねぎら)うべく、細(ささ)やかながら酒肴(しゅこう)を用意して持て成した。やがて酒が回って顔を赤らめた使者の口から、京での出来事が一つ零(こぼ)れた。閑院殿に逗留し、政隆が失政を犯した暁(あかつき)には、由良川三庄の地頭に返り咲こうと目論(もくろ)んで居た三庄太夫等が、公季より最早価値無しと断ぜられ、路銀を渡され放逐(ほうちく)されたという。三庄太夫復権の野望は、ここに完全に潰(つい)えた。

 宴(うたげ)が終った後、政隆は自室へと戻り、先刻使者より受け取った書翰(しょかん)箱を開封した。中には一通の書状が納められて居り、打ち広げて見ると、それは先年閑院家に差し出した、誓紙であった。もし在任四年の間に、丹後国内閑院家領の税収を、三庄太夫時代まで回復する事が能(あた)わなければ、命を差し出し責任を取るという内容の物である。

 早くも二年間で、政隆はこの目標を達成する事が出来た。公季より送り返されて来たこの誓紙は、政隆が約束を果したと認められた事を意味する。政隆は南東に向かい頭を下げた。その先には、閑院公季がおわす京が在る他、姉万珠の眠る建部山が聳(そび)えて居る。三庄太夫が閑院家と縁を切られ、遂(つい)には復権の望みが断たれた事を姉に申し上げ、その御霊(みたま)の安んじる事を、政隆は願った。その後三庄太夫の消息は、完全に途絶えた。

 使者が京へ引き揚げて間も無く、政隆は政庁広間に諸官吏を召集し、国政に関する意見を尋ねた。最初に答申を行うのは、介の與謝延年(よさののぶとし)である。延年は昨年の冬、三庄太夫問題に一応の決着が付いたと見て、国府に戻って来て居た。延年は、政隆の機嫌を取るべく努めて居る様子で、但馬(たじま)の報告を行う。その内容は、但馬沿岸部における海賊の出没件数が、減少に推移した事を報告するのみで、専(もっぱ)ら政隆の善政に因(よ)る物と賞讃するに留まった。

 但馬へ長期に渡って滞在し、難局から身を遠ざけて保身を計るばかりか、多額の国費を浪費した事に、政隆は怒りを覚えて居た。政隆は淡々と返す。
「確かに、海賊の減少は当国の努力の賜(たまもの)であろう。掾(じょう)の殿、目(もく)の殿は、よく国政を輔(たす)けてくれた。然(しか)るに介の殿は、我等が昼夜方策を練(ね)り、国内各地に足を運んで具(つぶさ)に状況を調査して居た折、海賊出没件数の調査の他、何を成して居られた。」
「それは、但馬国府の方々と、繋(つな)がりを持って置こうと。」
しどろもどろ答える延年に、政隆は傍らの財務報告書を広げて見せた。
「此(こ)は、貴殿が但馬赴任中、国府の金蔵より出した額じゃ。この元を如何(どう)取るのか。じっくりと御聞かせ願いたい。」
「はっ。今後両国が絡(から)んだ揉(も)め事等が発生した折、私奴(め)が両国間の協力や調査を行い易い様。」
延年の言葉を、政隆が遮(さえぎ)る。
「斯様(かよう)な事態に陥(おちい)れば、私が国守として責任を持ち、但馬国と交渉を致す。それとも、私の如き若蔵では、但馬国とは話し合いに成らぬと申すか?」
政隆の言葉に気迫が籠(こも)り、延年は畏縮して、黙り込んでしまった。

 延年に返す言葉が無い事を確認した政隆は、国検非違使(けびいし)に命じた。
「丹後介與謝延年(よさののぶとし)、国守を補佐する重職に在りながら、その責務を果さず。更(さら)には莫大(ばくだい)なる国費を支出したる事、国府のみならず、天下に仇(あだ)なす非行なり。仍(よっ)てその職を解き、入牢(にゅうろう)を申し付ける。」
突然の事に呆気(あっけ)に取られて居た延年を、国検非違使(けびいし)が引っ立てる。漸(ようや)く我に返った延年は、大声で政隆や、他の官吏に向かい叫ぶ。
「御容赦を。余りに酷(ひど)い仕打ちにござりまする。」
しかし、延年を庇(かば)う者は現れなかった。掾(じょう)の大江常能(おおえのつねよし)も、目(もく)の小倉行長も、既(すで)に政隆と久しく苦楽を共にし、その志を同じくして居た。更(さら)にはその下に在る者達も、自身が苦労して再建して居る金蔵より、無駄に多額の出費を成した者を、到底許せなかった。又、延年に如何(いか)なる人脈が有ろうとも、太政大臣の娘婿(むすめむこ)を相手に罪科を覆(くつがえ)す事は、不可能であると思われた。

 斯(か)くして、與謝延年(よさののぶとし)は獄(ごく)に繋(つな)がれ、その職権を悉(ことごと)く失った。丹後介を不在としたまま、政隆は掾(じょう)と目(もく)の協力を得て、丹後を更(さら)に豊かな国にするべく、努める事と成った。

 政隆の下に一致団結を見た丹後国府は、強力な指導力の下、更(さら)に国内各地の開発に尽力した。他国では、強欲な国司が搾取(さくしゅ)を行う為、民人(たみびと)は幾(いく)ら働けども、税と称して略奪を受ける。しかし丹後国では、法に則(のっと)り徴税されるので、働けばその分、己の貯(たくわ)えとする事が出来た。しかも奴婢(ぬひ)の制度を禁じて居る為、流れ者でも、その地で真面目(まじめ)に働けば、故国に居た時よりも、遙(はる)かに豊かな暮しを営む事が叶(かな)った。

 丹後の人口は増加の一途を辿(たど)り、生産高が右肩上がりに成る一方で、新たに誕生した村の治安や、防災対策が問題と成る。政隆は橋立、成合両庄に駐屯する磐城兵百騎を、自身の直属とし、兵糧等の負担を国府が行う事で、両荘園から上がる収益を向上させた。更(さら)に、国衙(こくが)領においては丹後守の兵として、又荘園においては閑院家一族の兵として、政隆の命に因(よ)り、自由に出入りが出来る様に成った。政隆は私兵を以(もっ)て、開発が急速に進められる国内の情勢を、具(つぶさ)に掴(つか)んで置こうと考えて居た。

 万寿三年(1026)、政隆が丹後に着任して三度目の秋、各地の郡衙(ぐんが)より、税である米穀類や反物、工芸品等が国府に運び込まれ、国府では税務処理への対応に大童(おおわらわ)と成って居た。

 何しろ、昨年とは微収量が大いに異なる。間違いの無い様、幾度か計算を確かめて見る。そして担当官は、誤りの無い事を確信した後、掾(じょう)の大江常能(おおえのつねよし)に報告した。

 程無く、常能は目(もく)の小倉行長を伴い、政庁の一室に詰めて政務を執る、国守政隆の元を訪れた。そこでは、政隆の他に二人の男が控え、政隆は二通の書状に目を通して居た。部屋の入口に常能と行長が座して待って居るのに気付いた政隆は、書状を畳(たた)んで懐に納めた後、側に控える男達に言い渡した。
「橋立と成合の事、相(あい)解った。立ち戻った後は、鵜沼と望月の両人に、善(よ)う行(や)ったと伝えてくれ。」
「はっ。」
二人の男は一礼すると、静かに席を立ち、退出して行った。

 二人が去ると同時に、政隆は声を掛ける。
「掾(じょう)の殿、目(もく)の殿、御入り下され。」
「では、失礼致しまする。」
両名はゆっくりと進み出て、政隆の正面に並んで腰を下ろす。そして、丹後五郡の収穫高を記した巻物を差し出した。政隆は静かにじっくりと、それに目を通し始めた。

 正式且(か)つ正確な報告書故に、殊(こと)に長い時間、政隆は一行一行、真剣な眼指(まなざし)で読み進めて行く。やがて最後の行を読み終えると、政隆は満足気な表情を湛(たた)えたのみで、黙って報告書を巻き始めた。常能(つねよし)は不可思議な面持ちで尋ねる。
「国府(こう)の殿は、それを御覧になられても、別段驚きになられませぬか?」
政隆は微笑を浮かべる。
「いや、大した成果であると思う。このまま人口が増大し、政(まつりごと)が確(しっか)りと民人を支えて行けば、後五年の後には、当国は中国より上国への昇格が、認可されるやも知れぬ。」
丹後国はかつて、最下級の下国であった。それを上国に昇格させる為には、並の政治手腕では到底成し得ない。

 政隆は巻物を常能に返すと、話を始めた。
「実は先程、閑院家が保有する国内荘園が収益の報告を受けて居ってのう。其方(そちら)の伸びの方が国衙(こくが)領より上であったので、大した驚きは感じなかったのだが。しかし、改めて思うに、国府が一丸(いちがん)と成って増産に当たった成果は、近年類を見ぬ物である。特に両人は、よく国府を主導してくれた。」
御誉(ほ)めの言葉に与(あず)かり、二人共苦労が報われた様な面持ちを呈する。

 一息吐(つ)いた政隆は、俄(にわか)に真顔と成り、話を切り出した。
「今年の税収量を見るに、三庄太夫を追放し、混乱を来(きた)した初年度を、補(おぎな)って余り有る程の出来であった。閑院家荘園には三国太郎殿在り。そして国府には、掾(じょう)の殿と目(もく)の殿がおわされる。余程の事が無い限り、来年も丹後は安泰であろう。そこでじゃ、これより私は国を空(あ)け、その間の国政を、掾(じょう)の殿に委(ゆだ)ねたい。」
指名を受けた大江常能(おおえのつねよし)は、キョトンとした顔で尋ねる。
「御命令とあらば、代行仕(つかまつ)りまする。されど、何(どれ)程の期間と成りましょうや?」
「実は、私にも分からぬ。恥ずかしながら、此(こ)は私事にて、磐城の兵も率いて行く積りじゃ。」
「一体、何処(いずこ)へ行かれまするのか?」
「越後と佐渡へ、母を捜(さが)しにのう。」
政隆は常能と行長に、幼少の頃母と生き別れに成った経緯(いくさつ)、そして初めて丹後の地を踏んだ時の事等を明かした。両人はそれで漸(ようや)く、政隆が何故(なにゆえ)斯様(かよう)に強固な意志を持って、政(まつりごと)に当たって居たかが理解出来た。

 掾(じょう)の常能(つねよし)は大いに納得し、政隆に言上する。
「御母堂を海賊に攫(さら)われたままとは、大変な御心痛にござりましょう。この常能、微力を尽して国府(こう)の殿の代役を務めさせて戴きまする。」
政隆は顔を顰(しか)めつつ、常能に確認する。
「捜(さが)しに行くと入っても、未だ有力な手懸りは得られて居らぬ。ともすれば、秋の税収まで、全てを任せる事に成るやも知れぬ。」
「承知仕(つかまつ)り申した。只、荘園との連携を維持する為に、広瀬殿を国府に残して下さりまする様、お願い申し上げまする。」
「相(あい)解った。」
ゆっくりと、政隆は傍らに置かれた文机(ふづくえ)に向かった。そして、用意して在った墨に筆を浸(ひた)し、丹後守より朝廷への、今年の税に関する書類を書き上げ、最後に丹後守の印を押した。

 墨が乾くのを待って、政隆は書状を畳(たた)み、常能に渡した。常能は鄭重にそれを押し戴く。そして政隆は更(さら)に、丹後守の印鑰(いんやく)を納めた箱を手に取り、これも常能に差し出した。
「私が留守の間、掾(じょう)の殿の裁量で使って下され。」
常能は手を震わせながら、恭(うやうや)しく受け取る。
「重うござりまするな。」
厳粛な常能の声が、低く響いた。

 これで、本年国政の大事は粗方(あらかた)済んだ。新年祝賀の行事等は、掾(じょう)に任せる事と成る。
「これよりは、掾(じょう)の殿と目(もく)の殿で力を併せ、事に当たって貰(もら)いたい。」
常能と行長は平伏し、書翰(しょかん)を携(たずさ)えて退出して行った。

 二人が去った後、政隆は国守の間の近くに用意された、玉綾姫の居間へと向かった。姫は静かに読書をして居たが、そこへ侍女より、政隆の御越しが告げられた。姫は直ぐに本を隅(すみ)へと置き、畏(かしこ)まって夫を迎えた。

 政隆は姫の側を通る時、ふと脇に、無造作に置かれた書物が目に留まった。
「読書の邪魔をしてしもうたかな?」
「いえ、丁度(ちょうど)区切りが付いた所にござりまする。」
姫の返答に些(いささ)か安心し、腰を下ろした政隆は、柔和(にゅうわ)な面持ちで姫に尋ねる。
「如何(いかが)かな。丹後の生活に不満はござらぬか?」
「はい。ここからは天橋立(あまのはしだて)が近く、広い海を見る事も出来まする。見る物全てが新鮮で、和歌集の一つも編(あ)めそうにござりまする。」
「おお、それは良かった。しかし、国府の近くから見える海は未だ小さい。北方には、更(さら)に雄大な外海が広がって居る。」
玉綾姫は興味深そうに、政隆の海の話に聞き入って居る。政隆が自身の目で見た北陸の海は、人買いに売られて行く旅であり、決して良い思い出ではない。されど姫は、未だ見ぬ北の海に思いを馳せながら、政隆に頼み事を述べる。
「私も是非、船に乗って海原という物を眺めて見とうござりまする。」
「何を申す。船は揺れが大きく、多くの者は乗るだけで、気分が悪くなってしまう物。更(さら)に、悪天候時には難破の怖れも有り。貴人なれば、余程の事が無い限り、乗らぬ物ぞ。」
「然様(さよう)にござりまするか。」
表面では納得した素振(そぶ)りで在るが、心底では未だ、大海への関心が燻(くすぶ)って居る様子である。政隆はその強い好奇心に、只々苦笑した。

 しかし、仄(ほの)かな笑みも直ぐに消失した。これから姫に、大事を告げねば成らぬからである。俄(にわか)に深刻な表情を呈し、政隆は姫に本題を話し始めた。
「実は間も無く、私は丹後を留守に致す。」
政隆の様子が変わったので、姫は内心戸惑いながらも、落ち着きを保って尋ねる。
「何処(いずこ)へ向かわれまする?長く成るのでござりましょうか?」
「場所も期間も定かではない。目的は、生き別れた母を捜(さが)しに行く事。人買いの一人が申して居ったが、母は佐渡へ向かったと聞く。仍(よっ)て佐渡守殿に、国内滞在の申請を行って居る。」
「まあ、母上様を。」
意外な話に、姫は当初驚いた顔をして居た。しかし、夫が歩もうとするは人としての孝道であり、姫には止める気など毛頭無かった。
「解りました。丹後にて、母上様と無事に戻られる日を、心待ちに致して居りまする。」
「済まぬ。」
咄嗟(とっさ)に出た言葉は、姫に妻としての務めをさせて遣(や)れない政隆の、自責の念より発せられし物であった。婚姻の後も暫(しばら)くは丹後へ呼ばず、少しの間共に過ごしたと思えば、再び何時(いつ)戻るか分からぬ旅へ赴こうとして居る。しかし姫に取っては、側に在って夫の世話をするばかりが務めではなく、磐城平家と閑院藤原家の関係を滑(なめ)らかにし、夫の留守中に大事が起きた時にも役に立てるという、自負心が有った。

 政隆は丹後を離れるに当たり、文の大江常能(おおえのつねよし)と武の広瀬十郎を残して行く。それに加えてもう一人、丹後守室玉綾姫は太政大臣の実の娘であり、国衙(こくが)領と荘園、双方の統治に多大な影響力を及ぼす事が出来た。

 その翌日、政隆は姫を郡内巡察に伴い、各地の佳景や、そこに住む民人(たみびと)達の暮し等を見て回った。

 一方の都では、藤原道長の長女彰子(しょうし)、即(すなわ)ち帝(みかど)の生母が仏門に入り、亡夫一条院の他、前年に亡くなった妹達の霊を弔(とむら)った。藤原摂関家のかつて無い栄華を築いた道長にも、斜陽の時が近付いて来たのである。

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