第三十三節 新政と確約

 丹後は平穏であった。国内最大の勢力を誇って居た三庄太夫が、不意打とはいえ、新任の国司が他国より率いて来た軍に因(よ)り、僅(わず)か一日で敗北を喫したのである。丹後の豪族達は皆、この剛胆な国司を恐れ、大人しく過ごさざるを得なかった。

 必然的に、政隆が掲(かか)げた人身売買並びに奴婢(ぬひ)使用の禁制は、荘園内においても適用される事と成った。それを守らずに武力で所領を奪われた三庄太夫の、二の舞と成る事を恐れたのである。

 奴婢(ぬひ)を売れぬとなると、人買いや海賊の類(たぐい)も、めっきり見掛けられなく成った。丹後での商売は危ないと見て、活動地域を他国に移した様である。

 かつて婢(ひ)であった、政隆の姉万珠に優しく接してくれた小萩は、生国伊勢へ帰って行ったという。思えば、由良浜にて見(まみ)えた時が、今生(こんじょう)の別れであったのかも知れない。只、再び親に会えることを迚(とて)も喜んで居たと聞き、政隆は安堵の念を覚えた。

 政隆の理想は、律令国家の理念である公地公民制を再建し、浮(う)かれ人の出ない、健全な社会を築く事である。これは三庄太夫の奴(ぬ)で在った頃、謂(いわ)れも無く虐(しいた)げられて居た時に、芽生(めば)えた思想であった。民は皆良民として、各々の生業(なりわい)に励み、税を納める。朝廷や国府は、それを以(もっ)て海内の安寧に努め、災害時には民の救済に当たり、被害を軽減させる。

 しかし、その理想の障害と成るのが、豪族達である。村々が団結し、他勢力からの防衛の為に組織された物も在れば、貴族が地方に赴任し、任期が切れた後も当地に留まり、財と地位を以(もっ)て君臨する者も在る。この組織は私的な理由で誕生した為、目的は己(おの)が勢力の繁栄と成る。それ故、主従関係の上位の者の為に、最下層の者は公民に劣(おと)る生活を強(し)いられる例が多い。

 そこで、私民を公民とする事に因(よ)り、地方豪族が大軍を率いて反乱を起すのを、防ぐ事が出来る。政隆は単純に、それが天下国家の為であると信じて居た。奴隷の身分を経験し、天下の政(まつりごと)に携わる閑院家に仕えた故に、育まれた信念である。しかし政隆は、八十余年前に起きた大乱の原因にまでは、考えが及んで居なかった。四代の祖、平将門が坂東に独立国家を築いた理由の一つが、腐敗した朝廷の政(まつりごと)を終らせる為であったという。太政大臣に近過ぎた政隆には、天下万民の苦しみの源が、実は藤原氏が長期政権を築く過程に在った事に、未だ気付いては居なかった。一の人を十代以上に渡り輩出した藤原北家は、台頭して来た政敵を幾度も、陰謀を以(もっ)て失脚させ、遂(つい)には独裁的地位を築くに至った。一族繁栄の為に発生したのが、有力者の私領たる荘園である。

 政隆は閑院家の家臣として、その辺りの事は理解して居た。そして、天下に蔓延(はびこ)る悪政の原因を、三庄太夫の如く私腹を肥やし、有力者の覚えをめでたくする為には、他人を幾ら虐(しい)たげても構わないと考える者に在る、と考えた。

 実際に政隆は都で、その様な人物を多く見掛けて来た。祖父政氏の如く、民に慕(した)われる為政者(いせいしゃ)は稀(まれ)である。己が丹後守の任期を終えた後も、民が暮らし易い制度を維持する為には、やはり公地公民の下、法を以(もっ)て護って遣(や)るのが善(よ)いと、考えるに至ったのであった。

 国府政庁において政隆は日々、一国の太守としてこの国を如何(どう)導いて行くか、考えを重ねて居た。

 由良の騒動の熱(ほとぼり)が冷めて来たと思われた一月(ひとつき)の後、目(もく)の小倉行長が慌てふためいた様子で、国守の間へ駆け込んで来た。そこでは、政隆が掾(じょう)の大江常能(おおえのつねよし)と共に、長雨に因(よ)る水害の対策に就(つ)いて相談をして居た。しかし行長の足音のけたたましさから、二人はつと話を止(や)め、部屋の入口へ目を遣(や)った。

 直ぐに行長が姿を現し、息を乱しながら、膝(ひざ)を突いて報告する。
「太政大臣公季(きんすえ)様より遣(つか)わされし御使者の一行が、只今御到着。国府(こう)の殿に面会を願い出てござりまする。」
「遂(つい)に来られたか。」
政隆はぼそりと呟(つぶや)くと、すっと腰を上げる。
「賓客の間へ御通しせよ。直ぐに御会い致す。」
命を受けた行長は畏(かしこ)まり、再び早足で退室して行った。
「御無事に治まりまする様。」
常能は、政隆の背後から声を掛けた。政隆は一旦足を止めて振り返り、頷(うなず)いて見せると、再び早足で退室して行った。

 常能(つねよし)の目は、政隆を心配してくれる物であった。その気持を有難く感ずる一方、未だ面倒事を避ける為に戻って来ない介の與謝延年(よさののぶとし)に対して、余計に怒りを覚えるのであった。

 政隆は先に賓客の間に入り、使者の到着を待った。下座に着いて襟(えり)を正し、静かに考えを巡らせる。怖らくは詰問(きつもん)であろうから、如何(どう)(ただ)されれば如何(どう)答えるか。

 間も無く、数人の足音が回廊より響いて来た。そして、平伏する政隆の脇を、数人の男達が歩いて行く。最後尾の男が、案内を務めた国府の官吏に言い渡した。
「ここでの話は、閑院家の内の事。丹後国府の方の同席は、御遠慮願いたい。」
程無く、その場を去って行く官吏の足音が聞こえた。

 上座に正使と思(おぼ)しき者が座ると、政隆の左右に其々(それぞれ)三人ずつが着座した。そして、上座の男より声が掛けられる。
「政隆殿、面(おもて)を上げられよ。」
聞き覚えの有る声であった。顔を上げると、目の前に映った男は、かつては己の師であり、奥州遠征の折にも京に在って支援してくれた、坂上広高である事が判(わか)った。

 久方振りの再会であったが、広高の表情は険しかった。そして挨拶を交す事も無く、広高は粛然と話し始めた。
「先日、由良の庄司を任せて居た筈(はず)の三国殿が、草臥(くたび)れた態(なり)で閑院殿に現れた。聞けば、丹後国府の襲撃を受け、所領は国衙(こくが)に奪われたと言う。又、三国殿が申すには、今後閑院家は丹後より、今までの様な収入は見込めなく成ったとの事。それを御聞き召された大殿(おとど)は甚(いた)く御立腹となられ、儂(わし)を荘園の視察へと遣(つか)わされ、事の真偽を確かめて参る様に仰せ付けられた。」
政隆は静かに拝聴した後、威儀を正して答える。
「仰せの儀、確(しか)と承りましてござりまする。先ず事実を申し上げますれば、某(それがし)の命で兵を集め、由良に攻め入って三庄太夫を追放せし事は、真(まこと)にござりまする。」
「何と。」
政隆の左右に座す広高の御供の者が、俄(にわか)に騒ぎ始めた。
「静まれ!」
広高は一喝して黙らせた後、再び政隆に目を遣(や)った。
「何故(なにゆえ)じゃ?」
政隆は即答する。
「三庄太夫には大殿(おとど)に対し奉(たてまつ)り、二つの罪がござり申した。一つは税収を過少に申告し、本来閑院家に納められるべき量を欺(あざむ)きし事。」
しかし広高は、合点(がてん)の行かぬ面持ちで問い質(ただ)す。
「毎年由良より本家に納められし税の額は、他の同規模の荘園と比べても、群を抜いた物であった。それでも、偽りの申告をして居たと申すか?」
「はい。其(そ)は太夫のもう一つの罪に係りまする。即(すなわ)ち、北海に巣くう海賊と結び、富を蓄えし事にござりまする。」
「海賊とな?」
広高以下は皆、驚いた表情を浮かべた。政隆は淡々と話を続ける。
「太夫は海賊の中で人買いを行う者と通じ、奴婢(ぬひ)を何百何千と雇い、彼等を酷使して生産量を増やして居り申した。又、童女の婢(ひ)を買い、その者が長じて器量良ければ、今度は太夫が遊里へ売り払い、多額の収益を上げる仕組みにござりまする。他の荘園で奴婢(ぬひ)を扱う場合、大抵その者は税を払えずに逃亡を計った、浮(う)かれ人にござりまする。しかし、太夫は沿岸を通行する良民を攫(さら)い、奴婢(ぬひ)に落して使って居たに等しく、此(こ)は天下の良民に仇(あだ)なす悪業と存じまする。仍(よっ)て、某(それがし)は天下の政(まつりごと)を預かる太政大臣の家臣として、これ等の者共を駆除したのでござりまする。」
広高は顎鬚(あごひげ)を撫(な)でながら、微(かす)かに頷(うなず)いた様に見えた。

 暫(しば)し沈黙が続く。広高は瞼(まぶた)を閉じて何かを考えて居る様であったが、俄(にわか)に開眼すると、政隆を見据(みす)えて言い渡す。
「如何(いか)なる理由が有れ、其方(そなた)の起した事は、大殿(おとど)の家財を削(そ)ぎ、主家の衰退を招く行為である。実を申さば、大殿(おとど)は其方(そなた)を玉綾姫様と離縁させ、閑院家より追放する事も思(おぼ)し召されておわされる。このままでは、其方(そなた)は不忠の輩(やから)として、処罰されようぞ。」
「はっ。仰せの通りかと存じまする。」
意外とすんなり政隆が認めたので、広高は呆(あき)れて言葉を失った。その隙(すき)に、政隆が話の主導権を奪う。
「御尋ねしたき儀がござりまする。某(それがし)の行いの内、不忠に当たる物は、三庄太夫を追放せし事にござりましょうか?将又(はたまた)、荘園からの税収量を落すと見込まれる結果を、招いたからにござりましょうか?」
「まあ、後者であろうな。」
広高は即答した。そこへ政隆が畳(たた)み掛ける。
「では、三庄太夫が治めて居た時よりも収益が上がれば、何の御咎(とが)めも受けずに済むのでござりまするか?」
「その場合、三国殿に其方(そなた)が申す様な罪が有れば、当然其方(そなた)に咎(とが)めは行くまい。しかし、多くの奴婢(ぬひ)を酷使する以上に、税収を上げる方法が有るのか?」
「某(それがし)は奴(ぬ)に落された経験を持つ他、東国において、異なる形態の政(まつりごと)も学んでござりまする。今年は先ず、地頭と海賊の間を巡って居た富の流れを断ち切り、良民へ流れる様に改めまする。」
「それでは、本家に納める税は、益々(ますます)減ってしまうのではないか?」
「確かに、今年納められる量は、昨年の精々六割か七割といった所でござりましょう。只、某(それがし)は来年以降に増産を持続し、任期の四年間において、三庄太夫よりも多くの税を納める自信がござりまする。」
「大した物言いだが、それが出来ぬ時は?」
「この首を差し出しまする。」
「然様(さよう)か。」
広高は政隆の覚悟の程を悟った。大人しくして居れば、閑院家の婿(むこ)として、更(さら)なる栄達が望める。なのにこの若者は、安穏(あんのん)たる暮しを捨ててまで、己の信念を貫き通そうとして居る。その意志の強さに、広高は感服して居た。

 そして政隆は、四年の内に丹後の閑院家荘園の収入を回復させねば、死罪も厭(いと)わぬ旨の誓紙を認(したた)め、広高に提出した。命を賭(と)した誓書である。広高は厳粛に受け取った。

 話が済むと、政隆は人を呼び、広瀬十郎を召し出した。そして広高等に紹介する。
「この者は某(それがし)の家臣にて、奥州の戦(いくさ)で直(じか)に村岡重頼と矛(ほこ)を交えた、剛の者にござりまする。御使者の御好きな時に荘園の視察が行える様、この者を御側に御付け致しましょう。」
十郎は閑院家使者の一行に対し、恭(うやうや)しく座礼を執る。政隆も広高に向かい、畏(かしこ)まって言葉を接ぐ。
「では、某(それがし)は政務が残って居りまする故、これにて退出致しまする。何かござれば、遠慮無く十郎に申し付けて下さりませ。」
そう申し述べて一礼し、賓客の間を退室して行った。

 政隆には家臣を地頭代として派遣し、成合や橋立といった荘園を治める他に、国守として公領を治める責務が有った。間も無く本格的な雨季が到来する。その前に、主要河川の氾濫(はんらん)への対策を練(ね)って置かねば成らなかった。

 翌日より、閑院家の一行は十郎を伴い、荘園の視察に出発した。成合庄はその日帰りで国府に戻って来たが、橋立庄に向かった後は、その足で由良に向かう計画で、数日から十日を超える滞在が見込まれた。

 斯(か)くして十日も経たぬ内に、広瀬十郎一人が国府へ引き揚げて来た。政隆はその報告を受けて不可思議に思い、直ぐに十郎からの謁見(えっけん)の願い出を受け容(い)れた。

 国守の間へ通された十郎は、政隆に謁(えっ)すると、由良における報告を簡潔に行った。
「御使者一行は由良の石浦館に入り、地頭代の三国太郎殿の案内を得て、流域三庄の視察を行われました。御使者は太郎殿の方針に甚(いた)く共鳴の意を示し、三庄の視察を終えた後、その足で都へ御帰りになられ申した。」
「ほう。」
唐土の漢代の将軍趙充国が残した言葉に、「百聞不如一見」(ひゃくぶんはいっけんにしかず)が有る。その諺(ことわざ)が示す通り、太郎は由良川三庄改善の様子を広高等に示し、自ずと納得する方向へ導いたのであろう。

 又、十郎は広高より一通の書翰(しょかん)を預かって居り、それを政隆に差し出した。早速打ち開いて文面を読むと、俄(にわか)に政隆の表情が綻(ほころ)んだ。石浦の邑(ゆう)ではこれまで、閑院家の使者が民の姿を目にする事は稀(まれ)であったが、今では溌溂(はつらつ)と働く様子を、随所に見られる様に成った。由良の行く末は楽しみであり、大殿(おとど)に対し奉(たてまつ)り、四年間は静観する事が上策と、自身を持って言上する気持を抱(いだ)くに至れりと、広高は綴(つづ)って居る。

 詰問に遣(つか)わした古参の家司(けいし)が、納得して帰って来たのであれば、怖らくは公季(きんすえ)も強硬な手段には及ぶまい。政隆は、時間が稼げれば、それだけ有利に事が運ぶと考え、微笑を浮かべながら、書翰(しょかん)を丁寧に畳(たた)んだ。

 やがて梅雨が明けた。政隆は、国府の担当官吏、更(さら)には国内主要河川流域の豪族との連携を緊密にし、河川氾濫(はんらん)への備えを怠(おこた)り無く推し進めた。その甲斐有り、大規模な水害には見舞われずに、盛夏を迎えるに至ったのである。しかし、秋の米穀収穫までは、台風が襲来する可能性も有り、予断を許さない。

 如何(いか)なる産業であれ、長年その仕事に就(つ)き熟達した者が、災禍を防ぐに最も有効な知恵を有して居る。為政者は彼等の言をよく理解し、自然の理に沿って事を処し、万民の幸福に資する必要が有ると、奴隷であった頃に政隆は考えて居た。仮に天災が発生し、民衆の生活に大きな打撃を与える事態が起ろうとも、国府が生活再建の有効な手を打ち、民が安心して暮らせる政(まつりごと)を、目下政隆は模索して居る。将来に憂(うれ)いの少ない治政下に在れば、民の負担は少ない。それを以(もっ)て健全な人口増に繋(つな)がれば、国力は間違い無く増強される。「礼記」(らいき)に曰(いわ)く、苛政(かせい)は虎よりも猛(たけ)し。

 少なくとも四年。政隆が心血を注いだ政(まつりごと)が、結実するのに必要な歳月と思われた。

 七月十三日付の書翰(しょかん)が、丹後国府に送られて来た。朝廷は改元を行い、治安四年(1024)は万寿元年と改められた。

 草いきれがむっとする季節、再び閑院家より使者が訪れた。此度は坂上広高の姿は無い。国府方は鄭重にこれを迎え、涼風(すずかぜ)の通る間へと入って戴き、冷水を馳走した。暑さに熱(ほて)った使者と従者はそれを飲み乾(ほ)し、生き返った様な笑顔を見せた。

 使者の一行には、前に広高が来た時の様な物々しさは無い。正使も、武骨さは微塵(みじん)も感じられない、おっとりとした感じの文官である。

 少し遅れて、政隆が姿を現した。
「御暑い中、遥々(はるばる)御運び下さり、御苦労な事と存じまする。」
政隆は正使の下座に腰を下ろし、座礼を執った。
「いやいや。大分北へ来た積りでござったが、やはり暑い物でござりまするな。今、冷たい物を戴き、人心地が付いた所にござる。」
椀を傍らに置いた正使は、和(にこ)やかであった表情を幾(いく)らか張り詰めて、政隆に告げる。
「此度は、先頃坂上殿が持ち帰りし報告を受け、大殿(おとど)よりの御言葉を伝えに参り申した。」
政隆は畏(かしこ)まり、正使に対して目を伏せる。
「謹んで、承りまする。」
正使は一度頷(うなず)いた後、口を開いた。
「丹後守が所業は、主君の心中を煩(わずら)わせる物なれども、事後の処理を案ずるに、大過を防ぎ、富国の礎石とも成り得ると判断される。先に命を賭(と)した誓約有り。これ等を鑑(かんが)み、改新に四年の猶予(ゆうよ)を与える物なり。」
それを聞いた政隆は、安堵の表情で、体の力が抜ける様に前傾し、深く頭を下げた。
「大殿(おとど)の御恩情には、只々感謝の念を覚えるばかりにござりまする。必ずやこの四年間で、三庄太夫を上回る税収を上げて御覧に入れまする。」
正使は頷(うなず)き、再び冷水を口へと運ぶ。
「政隆殿は奥州磐城武士団の棟梁であるばかりでなく、大殿(おとど)が婿(むこ)殿じゃ。大殿(おとど)より貴殿に掛けられし期待は、大きゅうござりまするぞ。」
「承知仕(つかまつ)り申した。必ずや大殿(おとど)の御期待に沿うべく、相(あい)努めまする。」
この時政隆は、閑院公季が義父として情けを掛けてくれたと感じ、無上の喜びを覚えて居た。一家臣の扱いであれば、長年の功労者である、三庄太夫の言を重んずる筈(はず)である。

 しかし実の所、閑院本家では、一族の政隆が丹後の荘園を制圧した事に因(よ)り、三庄太夫が密かに蓄えて居た莫大(ばくだい)な富を、取り立ててくれる物と期待する向きも有った。

 斯(か)くして政隆は、丹後守の任期は全(まっと)う出来る旨、主家より正式な御許しが下された。しかし問題は、これからである。太夫が買い集めた奴婢(ぬひ)を解放し、人口が減少した。このままでは、太夫を超える生産量を上げる事は難しい。由良の三国太郎、橋立の鵜沼昌直、成合の望月国茂とよく相談し、生産性を向上させる方策を練(ね)らねば成らなかった。

 その後、政隆は先ず近くの橋立、成合両庄に使者を遣(つか)わし、荘園統治の問題点を尋ねた。するとやはり、人口減少分、耕作放棄の地が出てしまう事が問題であり、それを補(おぎな)う策に苦慮して居る所であった。

 由良へも使者を送っては見たが、此方(こちら)からは只、模索中との回答が有ったのみであった。橋立と成合には、鵜沼と望月の手勢各々五十騎が駐屯して居る為、治安を守る兵には事足りて居る。しかし由良では、三庄太夫の一族郎党を追放した為に、太郎は一から、荘園内の仕組みを作らなければ成らない。政隆は再び由良に使者を送り、不足する物が有れば支援する意思を伝えた。しかしこの使者が戻って以降、由良からは何の音沙汰も無く成った。

 秋に入ると丹後国内でも、撓(たわわ)に垂れた黄金(こがね)色の稲穂を、刈り取る作業に追われ始める。米穀類の収穫量を調べて、決められた割合を税として納める。これを以(もっ)て、その年の税務は完了する。

 さて、橋立庄も成合庄も、林業や水産業で収益を補(おぎな)い、何とか前年比の七割を達成する事が出来た。しかし、問題も浮彫(うきぼり)と成った。両庄の周囲には、国衙(こくが)領が広がって居る。仍(よっ)て、浮(う)かれ人が丹後に流入しても、政隆の善政を慕(した)って国衙領に住み着き、両庄まで流れ込む者はめっきり少なく成ったという。

 政隆の基本方針の一つは、公領の回復である。仍(よっ)て、国衙(こくが)の良民として迎えた者を、私領である荘園に移す訳には行かなかった。丹後国は政隆の着任後、防災対策に力を入れ、又山賊、海賊の類(たぐい)は一掃され、不正官吏も容赦無く追放された。民に取っては暮らし易い地と成り、国府の税収は前年を大きく上回るに至った。

 しかしこれ等の税は、朝廷に納められる物である。貴族への給与の財源ではあるが、荘園より直(じか)に徴税する収入に比べたら、微々たる物に過ぎない。閑院家が政隆の評価に用いる物は、飽(あ)く迄(まで)荘園からの収入量である。

 橋立と成合は共に三割減。一年目のこの有様を知れば、公季は四年の猶予(ゆうよ)を撤回するやも知れぬと、政隆は危惧(きぐ)した。

 今年も、閑院家より荘園に使者が遣(つか)わされて来た。三庄太夫の頃とは異なり、地頭の館内の蔵に立ち入って、綿密な調査が行われる。由良川三庄の調査を終えた使節団は、その後橋立と成合にも赴き、全ての調べを終えた後、国府に姿を現した。

 報せを受けた政隆は、直ぐに文机(ふづくえ)を立ち、使節団の応接へと向かった。御叱(おしかり)は覚悟の上である。しかし、四年の猶予(ゆうよ)は絶対に堅持しなければ成らぬ物であった。

 この度の使節団は、三十名を数える大規模な物であった。しかも、正使を務める老齢の男は、従四以上左大弁に叙任された事も有る、閑院家の重鎮である。加えて左弁官は民部省を管轄下に置く為、租税に詳しい。公季が丹後に着眼して居る事が、自ずと察せられた。

 政隆は正使の一行を、三十人は余裕で入る大広間へと通した。この場で閑院家使節団の総意を尋ね、不都合な所は、巧(うま)く取り繕(つくろ)って貰(もら)わねば成らぬからである。

 三十人が居並ぶ中、政隆は下座に控え、正使と対面した。此度の使者は、これまでの親しい付合いが有った者や、おっとりとした中堅の貴族とは異なる。公季が閑院家に入った頃より仕え、長年閑院家を摂関家に匹敵する勢力として存続させて来た実績が、老人に威厳と風格を添(そ)えて居る様である。

 恐る恐る、政隆は挨拶を申し述べた。
「御老人には遠路遥々(はるばる)足を御運び下さり、恐縮の至りに存じまする。」
老人はギロリと政隆を見据(みす)え、顔の皺(しわ)を一層深めた。
「儂(わし)への気遣いは無用。それよりも、政隆殿が任地で派手に事を起して居る事に、疲れさせられるわ。」
「申し訳有りませぬ。」
政隆は、矍鑠(かくしゃく)と話をする老貴族に畏怖の念を抱(いだ)きつつも、話しを続ける。
「今年は昨年に比べて、荘園の収入を減らしてしまい申した。大殿(おとど)に何と御詫びすれば良いか。」
老人は扇子を取り出し、担ぐ様な仕種(しぐさ)を見せた。そして、己の首筋をポンポンと叩く。
「首を差し出すと、申し上げたのであろう。」
先に坂上広高に提出した、誓紙の話である。
「はっ。」
(にわか)に、老人の顔は綻(ほころ)びた。
「では、残り三年。必死に荘園の管理をされる事じゃ。今年は減少とは申しても、高々一割五分といった所じゃ。それで山海の賊を追い払ったとなれば、あいこであろうて。」
「一割五分?」
政隆は意外な数字を聞いて、驚きを顕(あらわ)にした。副使と思(おぼ)しき初老の男が、脇から口を出す。
「橋立と成合の二庄は、少々管理が宜しくない様にござりまするな。共に三割減でござりまするぞ。それに比べて、由良川三庄の三国殿は頼もしい。戦(いくさ)が有った地にも拘(かかわ)らず、一割減に留められた。流石(さすが)に三割減では、我等も大殿(おとど)に対し奉(たてまつ)り、何と御報告すれば良かったやら。」
その言葉は、政隆に取って俄(にわか)に信ずる事の出来ぬ物であった。橋立と成合の両庄は、地理的に国府に近い事から、政隆自身、綿密に連携を取って、開発に努めて来たのである。だのに、半ば放置して好きに行(や)らせて居た由良川三庄の方が、急速的な復興を遂(と)げて居たのであった。

 最後に老貴族は一言、政隆に申し添(そ)えた。
「三国太夫は確かに、閑院家に多くの富を齎(もたら)してくれた。しかし、その陰で人買いの類(たぐい)と繋(つな)がり、民の平穏を脅(おびや)かして居たは、大罪である。知らずとはいえ、閑院家が斯様(かよう)な者を重用して居た事が関白家に知られれば、如何(いか)なる陰謀を以(もっ)て当家を陥(おとしい)れに参るか、分かった物では無い。貴殿の働きに因(よ)り、当家は一つ、隙(すき)を無くす事が出来た。此(こ)は大きな功績と言えるであろう。これからも閑院家の為、天下の為、その若き力を存分に発揮して、励まれよ。」
藤原道長や藤原公季の時代は、何時(いつ)までも続かない。次の実成(さねなり)や公成(きんなり)の代も、閑院家が安泰である様に、老人は政隆に託したのであった。

 斯(か)くして使節団の一行は、丹後国内の調査報告を、都へと持ち帰って行った。老正使の言葉に、政隆は一応の安堵を覚えつつも、気に掛かる事も有った。

 使節団を見送った翌日、政隆は僅(わず)かな衛兵を率いて国府を発ち、陸路、由良を目指した。己が幾(いく)ら頑張っても達成出来なかった増産を、太郎は見事行(や)って退(の)けたという。その秘訣(ひけつ)を学ぶ為の訪問であった。

 陸路は海路と異なり、水難に遭(あ)う心配は無いが、その分時間が掛かる。国府を出て阿蘇海を西に回り込み、東に天橋立(あまのはしだて)を望む。南岸を東に進むと、やがて天橋立の南端に至り、その辺りからが橋立庄である。そこより道は南へ折れ、宮津湾の最深部に湊(みなと)町が開けて居る。邑(ゆう)の中央を南北に大手川が流れ、大江山の手前、鍋塚という山の辺りより集めた水を、宮津湾へと注いで居る。その町の外れに、政隆の家臣鵜沼昌直は館を構え、荘園の統治に当たって居た。

 橋立庄を過ぎると、その北東には栗田半島が延びる。北端には黒崎という岬が突き出て居るが、一行は獅子という村より東の山路を越え、一気に半島の根本を横断した。再び砂浜へと降りて来ると、正面の海は栗田湾である。湾の北方は、無双ヶ鼻まで東に半島が突き出て居り、南方には奈具の海岸が東西に延びて居る。そしてその先が、愈々(いよいよ)由良庄である。

 海岸を進み、一行は東を目指して行く。浜にはもう、汐汲(しおくみ)女の姿は見当たらない。怖らく、冬季の別の仕事へ移ったのであろう。冬の海は、浜に人影が少ない所為(せい)か、波の音が大層寂しく響いて聞こえる。

 政隆が灰色の海を眺めて居ると、不意に漁民と思(おぼ)しき男達が、浜を走って来る。政隆以下はそれには構わず、先へ進もうとしたが、意外にも漁民達は、政隆等の行く手を阻(はば)む様に立ち塞(ふさ)がった。そして中央の、背が高く逞(たくま)しい体躯(たいく)の男が尋ねる。
「ここより先は、三国太郎様が太政大臣より預かる荘園じゃ。当庄を通行する用件と、姓名を申されよ。」
男の声は勇ましく、些(いささ)か威嚇(いかく)して居る様にも聞こえる。政隆は馬上より、穏やかに答えた。
「私は平政隆と申し、太政大臣の大殿(おとど)が家臣である。此度は、太郎殿に政(まつりごと)を御教授して戴きたく、罷(まか)り越した次第。」
漁民達はじりじりと、政隆達の周りを包囲し始めた。政隆方は十名ばかり。一方の漁民達は二十名を数え、各々銛(もり)や鎌(かま)を所持して居る。

 一瞬緊張が走ったが、本家に仕える者と聞いては、無下にあしらう事も出来ない。そして、男が再び口を開く。
「身分を証明する物を、何か御持ちでござりましょうや?」
政隆は、袖(そで)をパタパタとはためかせた。
「いや、丹後守の任官状は却(かえ)って邪魔に成ると考え、何も持っては来なかった。」
丹後守が武力を以(もっ)て三庄太夫を追放し、後任の庄司に太郎を宛(あ)てた事は、由良では有名な話であった。しかし、誰も政隆の顔を知る物は居ない。

 そこで政隆は、一つの提案を示した。
「この近くに、如意寺という寺院が在るであろう。そこの住持が、私の事を見知って居る。」
それならばと、政隆一行と漁民達は共に、如意寺へと向かった。

 漁民の一人が先行し、寺に話しを付けに行った。その為、追って政隆等が到着した時には、直ぐに和尚が出て、対応してくれた。山門の前に立つ和尚に対し、政隆は丁寧に辞儀をする。
「御久しゅうござりまする。あの時は、怒りに我を忘れた己を御諫(いさ)め下さり、有難うござり申した。御蔭で無益な殺生(せっしょう)をせず、加えて有能な士を登用する事が、叶(かな)いましてござりまする。」
和尚は穏やかながらも、嬉しさを秘めた表情で答えた。
「そして、本日はその士に会う為に、御越し下された訳ですな。丁度(ちょうど)良かった。当山を訪ねて居た者が、石浦を通って戻る所でござりました故、その者に案内をさせましょう。」
(しか)して和尚は漁民達に、この御方こそ、皆を三庄太夫の悪政より解放して下された、丹後守その人なりと証言した。それを受けて漁民達は、先程までの非礼を詫びるべく頭を下げ、大人しく浜へと戻って行く。政隆は再び救って戴いた事に対し、和尚に御礼を申し上げた。

 間も無く、笠を深く被(かぶ)り、荷を背に負った僧形(そうぎょう)の男が、山門に姿を現した。和尚は僧に政隆を紹介する。
「此方(こちら)は丹後守平政隆殿じゃ。石浦まで、案内をして差し上げなされ。和江に向かう途中故、差支(さしつか)え有りますまい。」
僧は黙って頷(うなず)いた。和尚の話を聞いた政隆は、朗(ほが)らかに尋ねる。
「おお、和江延命寺の御坊にござりましたか。観智和尚は御健(すこ)やかにおわされまするか?」
「はい。では参りましょう。」
僧は素っ気無く答えると、スタスタと先を歩み始めた。政隆は如意寺の和尚に辞儀を済ませると、慌てて僧の後を追う。
「石浦まで、宜しく頼みまするぞ。」
後方より、和尚が僧に声を掛けた。

 和江の僧に案内を頼んだ事に因(よ)り、道端で柴を背負って来る者と行き違っても、一瞥(いちべつ)されるだけで、先刻の漁民の様な騒動には至らなく成った。それは有難いのであるが、何故(なぜ)かこの僧、背後を振り返る事も無く、只黙々と歩いて行く。如何(どう)も政隆の心に先程から引っ掛かって居るのは、この僧が如意寺で一言だけ声を発した時、故意に声色(こわいろ)を変えた様な、違和感を覚えた事である。

 由良川の流れは穏やかであり、今居る西岸の由良庄も、対岸の神崎庄も、武士が行き来する物々しさは微塵(みじん)も無く、良民が静かに日々の営みを果して居る。浜では、銛(もり)や鎌(かま)を手にした漁民に囲まれる事態も有ったが、一方でこの平穏さは、如何(どう)した事であろうか。政隆は狐(きつね)に抓(つま)まれた心地で、ぼんやりと山河を眺めて居た。

 やがて、一行は石浦の邑(ゆう)へと入り、館の門前に辿(たど)り着いた。早速案内の僧に取り次いで貰(もら)い、館内へ入ろうと思った矢先、僧は笠も取らずに一揖(いちゆう)しただけで、政隆の元を離れて行った。
「門衛に取り次いでから行かぬか!」
供の一人が怒気を帯びて叫ぶのを政隆は制止し、馬を下りて深く頭を下げた。
「ここまで案内して戴き、有難く存じまする。延命寺に戻られましたら、皆様方に政隆が宜しく申し上げて居たと、御伝え下さりませ。」
政隆の言葉で、僧は歩みを止めた。そして振り返り、合掌すると、再び踵(きびす)を返して立ち去って行った。

 政隆が門衛に掛け合うと、意外とすんなり通してくれた。不審に思い、政隆は門衛に尋ねる。
「浜では漁民達が我等を威(おど)す様に、素姓を調べて来たというのに、館の門番は何もせず通してしまうのか?」
門衛は軽く笑みを湛(たた)えて答える。
「浜で通行が認められたので、ここまで無事に着けたのでござりましょう。況(ま)して三郎様の案内を得て居たのでは、尚更(なおさら)でござりまするよ。忘路(わすれじ)様。」
政隆は館内へ通されながら、二つの事に気が付いた。先程如意寺より石浦まで案内してくれた僧が、実は橋立三郎の得度した姿であった事。そしてもう一つは、かつて政隆が三庄太夫の奴隷で在った頃、この門衛と共に柴刈り組に居た事である。

 老女中に案内され、政隆一人が客間へと入り、供の者達は隣の間に控えた。間も無く、足音が廊下を伝って響いて来るのが聞こえた。音源は段々と近く成り、やがて太郎が部屋の入口で座礼を執った。供の者は居らず、太郎一人の様である。政隆は閑院家の重臣として、上座を勧められたが、二人限(きり)なれば、上下無しで話をしたいと申し出、承諾された。

 政隆は藁座(わらざ)を脇へとずらしてそこへ座り、太郎も正対する位置に移して座した。先ず、話を切り出したのは太郎であった。
「御無沙汰致して居りまする。政隆様より幾度か使者を御遣(つか)わし下された物の、満足の行く回答を示す事能(あた)わず、誠に申し訳無き限りと存じまする。」
大郎が頭を下げるのを見て、政隆は苦笑しながら制した。
「良い良い。逆に、此方(こちら)が太郎殿に頭を下げねば成らぬ所じゃ。由良が目覚(めざま)しい発展を遂(と)げた御蔭にて、我が首も繋(つな)がり申した。本日罷(まか)り越したは、太郎殿に政(まつりごと)という物を御教授願いたく、思い立った次第。」
「ほう。」
太郎は弱った顔で、頬(ほお)をポリポリと掻(か)いた。政隆は真剣な眼指(まなざし)で、言葉を接ぐ。
「今年の米穀類収穫量を調べまするに、由良、神崎、大川の三庄において、その平均は昨年と比べ、僅(わず)かに一割の減。当三庄は特に、三庄太夫追放後に多くの奴婢(ぬひ)を郷里に帰した筈(はず)。だのに何故(なにゆえ)、斯様(かよう)に早急なる復興を成し得る事が出来たのか。その秘策を御教え願いたい。」
静かに話を承って居た太郎は、不可思議な面持ちで、政隆に問い返す。
「某(それがし)の知人より聞いた話にござりまするが、国衙(こくが)領は今年、昨年を遙(はる)かに上回る増収を上げられたとか。其(そ)は真(まこと)にござりましょうか?」
「はい。些(いささ)かは」
「ならばおかしい。増収の国守様が、何故(なにゆえ)減収の一地頭代に、政(まつりごと)を御尋ねになられるのか?」
「その増収が問題なのでござる。確かに公領の収穫高が上ったは喜ばしき事。されどその一方、橋立庄と成合庄は人口が減少したままにて、海陸双方の産業が衰退してござりまする。」
「ふむ。政隆様は国守で在られる一方で、閑院家の荘園にも、責任を負わされてしまった様にござりまするな。しかし、某(それがし)が由良で執って居る政(まつりごと)は、怖らく京より赴任された御方には、理解に難(かた)いかと存じまするが。」
政隆は身を乗り出し、藁(わら)にも縋(すが)る思いで尋ねる。
「是非、御教授下され。」
その熱意に圧(お)された太郎は、一息吐(つ)いた後、ゆっくりと話し始めた。
「収入を増やす為には、当然支出を抑えねば成りませぬ。それには、父が傭(やと)って居た奴婢(ぬひ)を監視する為の郎党等は、当然不要にござりまする。その代り、生業(なりわい)(ごと)に組頭を選任し、同業の者で自治を行わせてござりまする。そして過重な税を課さず、生活にゆとりを与えれば、各組は独自に軍事調練を行いまする。此(こ)は、折角(せっかく)(おの)が組にて得られた財を、賊の類(たぐい)に奪われまいと、自発的に始められし物にござり申す。そして民自身が集団的武力を備え、独力で賊を追い払い、村落の治安が保たれる様に成り申した。治安が良く成る事で人も集まり、産業も発展致しまする。又、地頭が組頭を纏(まと)める事で、荘園内の民が一箇の軍団として組織され、戦(いくさ)専門の者は不要と成りまする。」
政隆はふと、由良に足を踏み入れた時の事を思い起した。見慣れぬ一団が姿を現した事で、漁民は武器と成る物を手に取り、隊列を組んで行く手を阻止した。確かに農民や漁民があの様に、組織立って自衛の行動を執れば、兵を傭(やと)う必要も無いであろう。丹後の近辺には、坂東や奥州の如く、無秩序に戦(いくさ)を起して成長した、強大な武士団が存在しないからである。

 太郎の話を聞き、政隆の脳裏(のうり)には新たな政策が、幾(いく)つか浮かび上がった。それ等を実行する為に必要な物は、何と言っても人材である。政隆は、橋立と成合両庄の産業振興の為に、由良から人材を拝借する旨を願い出た。

 当初、太郎は難色を示した。由良川三庄も、依然復興の最中であり、余饒(よじょう)な人員は居なかったからである。しかし政隆は、任期を終えれば家臣と共に丹後を去り、二庄は太郎に引き継がれる物である事を明言した。これを受けて太郎は、二庄にも在る産業の組頭に使者を遣(つか)わし、派遣する人材の選定をする様、館内の者を召して伝えた。政隆は席を立って太郎の手を掴(つか)み、感謝の意を表した。

 要件が済み、座を外そうとした太郎に、政隆は一言だけ加えた。
「三郎殿は、私を御恨(うら)みで在りましょう。」
太郎は、浮かし掛けた腰を再び下ろし、政隆を見詰めた。
「はて、何故(なにゆえ)斯様(かよう)な事を仰せられる?」
「実は先程、石浦まで三郎殿に案内して戴き申した。僧の形(なり)をして居たので、別れた後、御館の番兵に言われて漸(ようや)く気付いたのでござるが。道中、一言も声を発しませなんだ。怖らく、得度の願いを叶(かな)えぬままにして置いた故、恨(うら)みを買ってしまった物かと。」
太郎は眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せるも、穏やかな物言いで告げる。
「あれは、純真な男にござる。橋立の地頭職を解かれた後、父に因(よ)り犠牲に成った民を思っては、心を痛めて居た事でござりましょう。得度は、その苦しみから解き放たれんが為に望んで居った事。仏門に入った今、もう暫(しばら)くは俗世を離れて居たいのでござりましょう。政(まつりごと)を司(つかさど)る国守と距離を置きはしても、御恨(うら)み申し上げる心等は、微塵(みじん)も無し。某(それがし)は兄として、自信を持って申し上げまする。」
それを聞いて、政隆の肩の力が抜けた。奴(ぬ)で在った頃、姉と共に優しくしてくれた三郎に、最後に恨(うら)まれる様な結果を招いては、三郎にも姉にも申し訳無く、大きな後悔をする所であったからである。

 三郎とは、もう会う事は無いかも知れない。奴(ぬ)の時分に優しくして貰(もら)えた事。三庄平定の後、兄の太郎を推挙し、戦(いくさ)の後処理に貢献してくれた事。政隆は心の中で手を合わせ、三郎に感謝の気持を抱(いだ)いた。

 その日は、石浦館に泊まる事とした。そして翌日、由良川三庄の組頭が、各々橋立と成合に移す民人を連れて、館に集まって来た。古くからこの地で働き、技術を有する者を一人と、最近流れて来たばかりで、余所(よそ)へ移っても構わないという者数名を伴って居る。巳(み)の刻には、太郎が召集を掛けた組頭が悉(ことごと)く集まり、総勢百名を超えた。

 幸い橋立にも成合にも、故国へ帰った者達が、空けて行った住居が有る。充分に、迎え容(い)れる事が出来る人数であった。政隆は、館正門に集結した者達の前で太郎の手を取り、協力への感謝の意を申し述べた。太郎も又、二庄への更(さら)なる協力を惜しまぬ旨(むね)を伝え、丹後の五庄は一蓮托生(いちれんたくしょう)の精神で、共栄を目指す事を宣言した。政隆が丹後守を無事に務め上げ、家臣を率いて都へ引き揚げた後は、橋立と成合両庄の地頭職を太郎に譲る事を、内諾(ないだく)して置いた事に因(よ)る物であろう。

 斯(か)くして、政隆は労働力の不足分を補う人員と、新たな技術を有する人材を得て、石浦を後にした。再び、陸路国府への帰路に着く。途中、橋立庄に立ち寄って、地頭代の鵜沼昌直に、由良から伴って来た者の粗(ほぼ)半数を預け、その後は阿蘇海を回り込んで、国府に入った。成合庄は国府より先に位置する為、政隆は同道した磐城の臣に命じ、残りの民人(たみびと)を、地頭代の望月国茂の元へ送らせた。

 今回の事を切っ掛けに、政隆の直参が治める阿蘇海近隣の荘園と、太郎が治める由良川沿岸の荘園とが、互いに不足する所を補完する体制が築かれ始めた。三庄太夫追放後、奴婢(ぬひ)の解放に因(よ)り、荘園の生産高は激減した。しかし復興への歯車は、静かに回り始めて居たのである。

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