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第三十二節 人材登用
由良川に出た所で、三庄太夫の一類は、東岸の神崎庄へ連行された。今まで自身等が、奴婢(ぬひ)の監視に用いて居た番所に押し込まれ、今度は磐城兵に因(よ)る監視下に置かれるのである。
一方の政隆と主たる将は、西岸に沿って南下し、石浦館へ戻った。先ずは奴婢(ぬひ)の解放を、三庄全土に須(すべから)く通達するべく、神崎と大川に地頭代を派遣した。そして石浦の金蔵を開き、故郷へ戻る旨(むね)の希望を示した者には、旅の費用を支払った。これに因(よ)り、三庄の人口は一気に減少する事と成った。
続いて、国府より医師と医生を呼び寄せた。そして過酷な労働に耐え切れずに倒れた者を診させ、治療の方針を示した上で、親しくして居た者に看病をさせる事とした。この政策に因(よ)って、政隆の傷病者に対する気遣いが伝わり、進んで由良に残る事を望む者も現れた。これで多少は、人口減少の歯止めに繋(つな)がった。
又、政隆がこの度制圧した土地は、由良川流域の三庄だけではない。橋立と成合の二庄も、太夫追放後は政隆が責任を持って治めねば成らなかった。この二庄は国府に近い。故(ゆえ)に、信頼の置ける鵜沼と望月に任せ様と考えて居た。となると、由良川流域の三庄は誰に任せるべきか。仁愛の心を持ち、由良に通じる者が相応(ふさわ)しい。ふと政隆の脳裏(のうり)に、一人の男が思い浮んだ。由良次郎や成合四郎が父三庄太夫に倣(なら)い、奴婢(ぬひ)を扱(こ)き使って私財を貯(たくわ)えて居た一方、父や兄弟とは異なる道を辿(たど)り、領民から慕(した)われる政(まつりごと)を施(ほどこ)して来た、橋立三郎である。
かつて三庄太夫は末娘の病(やまい)を癒(いや)すべく、薬師(くすし)の言に従い、少年の生き肝を手に入れ様とした事が有った。弟の身が危ない事を知った万珠は、命懸けで政隆を逃がしのだが、それでも三庄太夫は諦(あきら)めず、別人の肝を探し求めた。
三郎はその父の行いを諫(いさ)めたが為に、橋立庄の地頭代を解かれ、何処(いずこ)かに幽閉されたと聞く。政隆は、三郎こそ由良近隣の荘園を任せるに相応(ふさわ)しいと考え、早速捜索を命じた。
間も無く、由良の良民と成った元奴(ぬ)の口より、三郎の居所を報せる情報が入った。報告の通り三郎は、由良ヶ岳の中腹に建つ朽(く)ちた庵(いおり)の中で、衰弱した姿で発見された。直ぐに石浦の館へ移される事と成り、運び込まれる所を目にした政隆は、直ぐに医師を三郎に付けた。三郎にはかつて、政隆等が三庄太夫より食物を与えられず、寒さの中、動く力も喪失した時、温かい粥(かゆ)を与えて、命を救った恩が有る。それに報いる為にも、政隆は万全の手を打つべく努めた。
三日も過ぎた頃、一棟を与えられて療養して居た三郎は、立ち居が出来るまでに回復した。そしてふらつきも無く成り、医師が三郎の全快を報告すると、政隆は嬉し顔で医師を犒(ねぎら)った後、下がらせた。そして望月に、三郎をここへ呼ぶ様に命じた。暫(しばら)くして望月に案内され、母屋(おもや)に三郎が姿を現した。衣服も新しい物を支給し、髷(まげ)や髭(ひげ)も綺麗に整って居る。政隆は笑顔で三郎を迎えた。
上座中央に国守政隆が座し、その前方、左右に鵜沼と望月が控える。三郎は下座に畏(かしこ)まって座礼を執った。
政隆は朗(ほが)らかに、三郎に告げる。
「見た所、血色も良い。先日見掛けた時には案じられた物だが、もう大丈夫でござりまするな。」
三郎は粛々と答える。
「はっ。国守様の御蔭にござりまする。」
その態度に、政隆は苦笑した。
「斯様(かよう)に固くなされまするな。某(それがし)は忘路(わすれじ)にござる。此度の事は、七年前の御恩を返したまで。かつての様に、気さくに話して下され。」
三郎は首を横に振る。
「成りませぬ。政隆様は今や、当国の太守。一方の某(それがし)は、一介の咎人(とがにん)にござりまする。」
政隆は一笑に伏した。
「何を仰せられる。咎人(とがにん)は三庄太夫じゃ。それに処罰された貴殿は、逆に正行の者と認められよう。咎人(とがにん)と成った父御(ててご)は、若狭国へ移した。」
「あの様な父や兄弟に情けを掛けて下さり、有難く存じまする。」
平伏する三郎の元に歩み寄った政隆は、その手を取って見詰める。
「私は主君の許可無く、国守として、三庄太夫が支配する荘園を制圧した。太夫が貯(た)め込んだ多くの蔵は、奴婢(ぬひ)の救済や、奥州より駆け付けてくれた家臣への恩賞等に用いると、殆(ほとん)ど空(から)と成ってしまう。今後、民衆の為の政(まつりごと)を行うには、私の在任中、閑院家への税を減らす訳には参らぬ。その為に、新たに三庄を開拓する人材が必要であり、其(そ)は貴殿以外には見当たらぬ。」
政隆は確(しか)と三郎の手を握り、訴えた。
「由良、神崎、大川三庄の地頭職を受け継ぎ、民衆の為に働いて下され。」
心底からの願いを示すも、三郎は俯(うつむ)いたまま答える。
「某(それがし)は、今でも咎人(とがにん)にござりまする。某(それがし)が橋立の荘官を免ぜられて以降、彼(か)の地では苛政(かせい)が施され、多くの奴婢(ぬひ)が命を落し申した。某(それがし)は彼等に対し、申し訳無き気持で一杯にござりまする。某(それがし)も三庄太夫が一族。同様に処罰されねば成りませぬ。」
政隆は三郎の手を、そっと放した。
「それは成らぬ。貴殿までを罰しては、私は善人と悪人の区別も付かぬ愚者として、民から失望されてしまうでござろう。」
三郎は溜息を吐(つ)く。
「では、某(それがし)は仏門に入り、亡くなった多くの奴婢(ぬひ)の霊を弔(とむら)い、けじめを付けたく存じまする。しかし、ここまで某(それがし)を評価して下された政隆様に対し奉(たてまつ)り、何も致さぬは不義にござりましょう。願わくば、某(それがし)以上の人物を推挙する事で、御恩に報いたく存じまする。」
「何と。私の力に成って下さる人材に、御心当りが有ると?」
「はい。」
政隆は藁(わら)にも縋(すが)る思いで、身を乗り出した。
「その御方は、何処(いずこ)に?」
「石浦の南方、和江という地の寺に居ると、聞き及んでござりまする。」
「何と。仏門に入られておわしまするか?」
「いえ、出家は致して居りませぬ。怖らくは、下働き等をして居るのでござりましょう。」
政隆は訝(いぶか)しがりつつも、三郎の話に身を傾ける。
「その者は、私よりも意志が強く、仁愛の心を有してござりまする。必ずや善(よ)い方に、由良の民を導いて下さる事でしょう。」
「三郎殿は何故(なにゆえ)、その御方をそこまで御存知なのか?」
「実は其の男、随分昔に石浦を出奔(しゅっぽん)せし、我が兄太郎にござりまする。」
「何と。」
余りにも思い掛けぬ事に、政隆は言葉を失った。三郎は政隆を見詰め、話を続ける。
「丹後では、歴代の国司をも恐れさせた我が父に対し、昂然(こうぜん)とその政(まつりごと)を批判した兄でござりまする。少々扱い難いかとは存じまするが、必ずや、国守様の御心に添(そ)う働きを致す事でありましょう。」
三郎が話を終えた時、正隆の脳裏に一つの記憶が蘇(よみがえ)った。
「和江の寺と仰せられたが、その名はもしや、延命寺と申すのでは?」
「然様(さよう)にござりまする。」
政隆は、微(かす)かな笑みを浮かべて立ち上がった。
「延命寺とは少々縁がござりまする。では、近い内に訪ねて見る事に致そう。」
そう告げて立ち去ろうとした政隆は、ふと足を止めて振り返り、三郎に言葉を加える。
「貴殿の出家の件だが、太郎殿との話が纏(まと)まるまで、待って貰(もら)いたい。それまで、館内にて寛(くつろ)いで居て下され。」
三郎はすっと、頭を下げた。
*
石浦館より半里余の道程を、由良川西岸に沿って南下すると、やがて和江谷川が合流する処が在る。和江の村は和江谷川流域に在り、延命寺に向かう為には、和江谷川沿いに上流へ進まねば成らない。由良川の対岸には中山という集落が在り、かつて姉万珠は自ら囮(おとり)と成り、中山方面へと走り去った。弟を救う為にである。
あの時は逃亡者として一人、藪(やぶ)の中を逃げ惑って居た。しかし今は、磐城兵五十騎が、護衛として随行して居る。磐城軍が当庄を制圧して、未だ日が浅い。太夫の残党が報復を目論(もくろ)んで居る怖れも有り、警固に選ばれた精鋭達は皆、張り詰めた様子で辺りを窺(うかが)って居る。その物々しさに、田畑で作業をして居る農民達にも、緊張が走って居る様であった。小川のせせらぎと野鳥の鳴き声だけが、長閑(のどか)に大地の音を奏(かな)でて居る。
間も無く政隆率いる一隊は、延命寺山門の前に到着した。政隆は馬を下り、山門を叩く。
「何方(どなた)様ですか?」
直ぐに、若い男の声が返って来た。
「私は丹後守、平政隆と申す者にござりまする。観智和尚に以前の御礼を申し上げたく、参上仕(つかまつ)り申した。御取次を御願い致しまする。」
「少々御待ちを。和尚に伺(うかが)って参りまする。」
政隆は衣服を整え、姿勢を正し、山門の正面に静かに佇(たたず)んで居た。
暫(しばら)くして、門は軋(きし)む音を立てながら、若い僧に因(よ)ってゆっくりと開かれた。僧は柔和(にゅうわ)な面持ちで、政隆に告げる。
「御待たせ致しました。和尚の元へ案内致しまする。」
政隆は一礼すると、兵を山門へ残し、一人境内へと足を踏み入れた。寺院の中は、四年前と殆(ほとん)ど変って居なかった。
本道を回り込み、裏山の麓(ふもと)にひっそりと建つ小さな庵(いおり)に、政隆は案内された。入口まで来た処で、若い僧はよく通る声を発した。
「御連れ致しました。」
直ぐに、中から嗄(しわが)れた声が返って来る。
「御通ししなさい。」
若い僧は和(にこ)やかに、政隆を中へと勧める。
「失礼致しまする。」
政隆はゆっくりと、庵(いおり)の中へ足を踏み入れた。
中は然程(さほど)広くはない。精々(せいぜい)四畳半といった所である。奥には机が置かれ、巻物が山と積んで在る。教典なのか、書翰(しょかん)なのかは、薄暗くて判別が付かない。その前に一人の老僧が、此方(こちら)に正対して座って居る。忘れもしない、四年前に己を三庄太夫の手の者より匿(かくま)ってくれた、観智和尚である。政隆は粛然と頭を下げ、猫の額程の土間に履物(はきもの)を揃(そろ)えた。
中に上がり、和尚の前に座すと、政隆は再び座礼を執る。
「御久しゅうござりまする。」
観智和尚は首を傾(かし)げて苦笑した。
「はて、貴方様は当国の国守様と承って居たのですが、人違いでござりましたかな?」
「いえ。某(それがし)は丹後守平政隆にござりまする。然(さ)れども四年前は、由良庄を脱走した奴(ぬ)にござり申した。その折和尚は、某(それがし)を葛籠(つづらこ)に入れ、丹後の穴太(あなお)寺へ逃がして下さいました。」
和尚は暫(しば)し思い起して居る風(ふう)であったが、やがて突然膝(ひざ)を叩いた。
「おお、あの時の童子であったか。よもや一国の受領(ずりょう)と成り戻って来られるとは、考えが及ばなんだ。その後、如何(どう)やら運が開けた様でござりまするな。」
「和尚の御蔭にござりまする。」
少年の数奇な運命に和尚は驚き、又祝福の言葉を返した。
しかし、俄(にわか)に和尚の顔から笑みが消えた。そして、政隆を見据(みす)えて尋ねる。
「由良の奴婢(ぬひ)達の惨状は、儂(わし)の耳にも入って居りまする。殊(こと)に政隆殿は、直(じか)に体験して居た故に、三庄太夫の手から奴婢(ぬひ)を解放した事には、大いに納得出来る。しかしじゃ、当庄が本家は太政大臣公季(きんすえ)公。他国へ落ちた太夫が京に現れ、閑院家に対し、政隆殿を謗(そし)る旨の訴えを起さば、例え国守と雖(いえど)も、徒(ただ)では済むまい。今までの苦労が水泡に帰す怖れも有りまするが、覚悟の上で決行されたのでござりましょうか?」
政隆は姿勢を正し、問いに答える。
「某(それがし)は、徒(いたずら)に今の地位を失う積りは毛頭ござりませぬ。太夫が旧領では善政を布(し)き、民の活力を引き起す事に因(よ)り、更(さら)に豊かな土地に致す所存にござりまする。太夫の頃に劣らぬ税を納めれば、閑院家も態々(わざわざ)介入して来る事はござりますまい。」
「しかし、政隆殿に民を導く力量がござりまするかな?」
「実は、この度罷(まか)り越しましたは、和尚に御願いの儀有っての故もござりまする。」
「む?」
観智和尚の眉間(みけん)の皺(しわ)が深く成った。
政隆は改めて、本題を切り出した。
「確かに和尚の仰せの如く、口では善政を行うと称しても、広く民衆の心を知り、適時に必要な政策を執らねば、由良の土地が有する力を、最大限に導き出す事は叶(かな)いますまい。某(それがし)は経験も浅く、又国守の任を全(まっと)うする為には、何時(いつ)までも私兵を率いて、荘園内に留まる訳にも参りませぬ。仍(よっ)て、当山より人材を御譲り願いたく、参上仕(つかまつ)った次第にござりまする。」
「ほう。して、その人材とは?」
「三庄太夫が長男、太郎殿にござりまする。」
和尚は暫(しば)し黙って居たが、俄(にわか)に笑みが零(こぼ)れた。
「成程(なるほど)。些(いささ)か当地の事には通じて居られる様じゃ。宜しい。では直(じか)に話して見るが宜しかろう。」
そう言って和尚は立ち上がり、政隆の脇を抜けて、草履(ぞうり)に足を乗せた。
「付いて来なされ。」
和尚に言われるまま、政隆は庵(いおり)を後にした。
観智和尚は、政隆が来た道を戻って行く様であった。本道の側を通り、目の前に山門が近付いて来る。しかし、間も無く右へと折れた。目の前に見えて来たのは、鐘撞(かねつき)堂であった。
その前で和尚は足を止め、政隆の方を振り返った。
「太郎殿は、ここで鐘楼守(しゅろうもり)をして居りまする。怖らくは、上に居る筈(はず)じゃが。」
「和尚御自ら案内して戴き、恐縮に存じまする。」
礼を以(もっ)て応える政隆に、和尚は真顔のまま頷(うなず)いた。
「拙僧(せっそう)は本堂に居りまする故、ゆっくりと話すが宜しかろう。」
政隆は一人、鐘楼(しゅろう)の前に残った。
楼(ろう)を見上げながら、やがて政隆は意を決し、中へと入った。入口の脇には、傾斜は有る物の、急な階梯(かいてい)が架かって居り、釣鐘(つりがね)の在る楼上とを繋(つな)いで居る。慎重に、政隆は階梯(かいてい)を登って行った。
やがて楼上に至ると、一人の初老と思(おぼ)しき男が、瞑想(めいそう)に耽(ふけ)って居た。高所には、暖かな春の風が吹いて居り、男の髪を優しく揺らして居る。政隆は、声を掛けては悪いと思い、楼上の、男とは対角線に当たる処に、静かに腰を下ろした。そして背筋を伸ばし、政隆も目を瞑(つぶ)った。唐土(もろこし)の漢末の頃、照烈帝が武侯を迎えるに当たり尽した礼に、倣(なら)ったのである。
四半時程、鐘楼(しゅろう)の上では静寂が続いて居た。やがてそれを打ち破ったのは、相手の方であった。ゆっくりと眼を開くと同時に、正面に座す政隆の姿を捉(とら)えた。
「未だ居ったのか。」
男の呟(つぶや)きを聞いて、政隆も目を開けた。
「平政隆と申しまする。」
その声は、これまでの静寂を一気に崩す物ではなく、抑えられつつも、よく通った。男は、低い声で告げる。
「当山の鐘楼守(しゅろうもり)を務める、太郎と申す。何ぞ御用にござりましょうか?」
「はっ。実は、太郎殿に御願いの儀が有って、参上致しました。」
太郎は含み笑いをして答える。
「由良川流域の荘園を武力で制圧した国守様が、某(それがし)の如き一介の下男に、何の御用が有りましょうや?」
政隆の表情に、真剣さが増した。
「太郎殿は、かつて三庄太夫が当地に悪政を布(し)いて居た頃、これに抗した剛直の御方と聞き及んでござりまする。是非にも三庄の荘官に御就(つ)きになり、民人を導き、由良の発展に御力添えを願いたく存じまする。」
「くっ。ふははははは。」
突然、太郎は吹き出した。
「荘官という物は、その土地の有力者が、朝議に発言力を持つ貴族や、寺社の後押しを受けて就(つ)く物じゃ。受領(ずりょう)が介入出来る話ではない。」
政隆の視線が、強く太郎へと向けられる。
「私はかつて、由良の奴(ぬ)にござりました。然(さ)れども観智和尚を始め、心有る方々の御支援を賜(たまわ)り、国守と成る事が叶(かな)い申した。私がこれまで学んで来た事は、政(まつりごと)は天下万民の大事である事。志有る者が天地の法に則(のっと)って、初めて大成が叶(かな)う物であり、富を貪(むさぼ)る者が巣くって居ては、必ずや大乱の種と成る事でござりましょう。」
「ほう。確かに仰せの通りやも知れぬが、何処(いずこ)の馬の骨とも知れぬ者が就(つ)いても、人は誰も付いては来ず、却(かえ)って政(まつりごと)は乱れようぞ。」
太郎の言葉に、政隆は首を横に振った。
「私が断行した由良の武力制圧に対し、近隣の豪族は我が軍を怖れ、警戒をして居り申す。斯(か)かる緊迫した状況を融解するには、やはり由良の地に所縁(ゆかり)が深く、人の和を築ける人物が必要と考えまする。当初、私は橋立の三郎殿を推挙致しました。」
「うむ。橋立の地頭は情けを知り、人望を集めて居ると聞きまする。それで宜しいのでは?」
「所が三郎殿は、三庄太夫を諫(いさ)めたが為に、その逆鱗(げきりん)に触れ、石浦の外れに幽閉されて居り申した。」
「何と。」
太郎は驚駭(きょうがい)の表情を呈し、大きく息を吐(つ)いた。政隆は話を接ぐ。
「我等が救出した時、三郎殿は衰弱著(いちじる)しく、自力では立てぬ有様にござりました。幸い、今は健(すこ)やかさを取り戻し、療養を終え様として居り申す。只。」
「只、何でござろう?」
太郎は一歩躙(にじ)り出て、政隆の顔を覗き込む。
「只、心の呵責(かしゃく)に悩まされて居る御様子。三郎殿が橋立の地頭代を解かれたが為に、太夫の意を受けた後任の者が苛政(かせい)を布(し)き、多くの犠牲者が出たと。」
突然、太郎は床(ゆか)に拳(こぶし)を打ち付けた。
「戯(たわ)けが。全ては三庄太夫が罪科。三郎が思い悩む事ではない。」
ここで政隆は、己が見た三郎の心中を推し量り、太郎に告げる。
「三郎殿は出家を希望されて居り、三庄太夫に代わる地頭職には、太郎殿こそ適任と、強く推して居られる。今は、犠牲と成った橋立の民の冥福を祈り、頓(ひたすら)詫びたい気持なのでござろう。」
太郎は舌打ちし、顔を背(そむ)けた。政隆は手を突いて、太郎に懇願(こんがん)する。
「某(それがし)が由良の奴(ぬ)であった時、三郎殿は食物を施し、我が命を救って下された恩人でござる。仍(よっ)て此度、某(それがし)は三郎殿の心を、何としてでも救って差し上げたく存ずる。三郎殿は今、太郎殿を心底より頼って居り申す。太郎殿には是非とも、地頭職を継いで貰(もら)い、御舎弟三郎殿、更(さら)には荘園の民を扶(たす)けて戴きたい。」
その熱の籠(こも)った訴えに、太郎は暫(しば)し、腕組みをして考え込んだ。
やがて、太郎はすっと立ち上がり、政隆を見下ろして告げた。
「折角(せっかく)三庄太夫が悪政を排除して下さる、奇特な国守様が来られたのじゃ。由良庄を廃(すた)れたままにし、太夫が復権する緒(いとぐち)と成っては勿体(もったい)無い。微力ながら、御力添えを致しましょう。」
「おお、では。」
太郎は破顔する。
「弟の事も心配して下さり、兄として御礼(おんれい)申し上げる。これより、観智和尚に暇(いとま)乞(ご)いをして参りまする。」
「御聞き届け下さり、忝(かたじけな)く存じ申す。」
政隆は深く、座礼を執った。
二人は鐘楼(しゅろう)を下り、観智和尚のおわす本堂へと向かった。中に入ると、本尊様の前で、和尚と問答をして居る僧が居た。政隆に取っては縁の深い人物、丹波までの逃避行を手助けしてくれた、曇妙(どんみょう)であった。
太郎は和尚と曇妙に、寺を出る旨を申し出た。両者共、それが良いであろうと言ってくれた。太郎は今日まで久しく御世話に成った礼を、そして政隆は、以前匿(かくま)って貰(もら)えた事に加え、人材を譲ってくれた事への礼を申し上げた。両僧は和(にこ)やかに、政隆と太郎を見送った。
その後山門を出た二人は、表で待機して居た磐城兵と合流した。そして政隆は、兵達に太郎を紹介する。
「此方(こちら)におわす御方は、この度由良川三庄の地頭に就任される、三国太郎殿である。皆、失礼の無い様に。」
太郎の衣服が、下男に見紛(みまご)う襤褸(ぼろ)であった為、兵が無礼を働く事の無き様、念の為に告げて置いた。それに対し、兵は揃(そろ)って、静かに太郎に対して礼を執った。将兵間の意思疎通の滑(なめ)らかさと、よく訓練された武士達の姿を見て太郎は、磐城の軍勢が僅(わず)か一日で、三庄太夫の本拠石浦を制圧出来た事に納得した。加えて、政隆の将としての器(うつわ)に感服した。
五十騎の軍勢は大将を戴き、延命寺を発して、石浦へ向けて行軍を始めた。既(すで)に、陽が西の方へと大分傾いて居る。長い一日であった。
*
石浦館に戻った政隆は、近隣に残って居た元奴婢(ぬひ)の良民達を集め、三庄太夫に代わる新たな地頭を紹介した。由良に来て年数の浅い者は存ぜぬ様であったが、古参の者達から声が漏れた。
「おお、太郎様。」
政隆は安心した。己の口から太郎という人物を説明するよりも、民人の間で伝え合う方が、余程信憑(しんぴょう)性が高まるからである。
政隆は、丹後守の職権を一切用いず、閑院公季の家臣として、太郎を由良、神崎、大川三庄の地頭に任命した。太郎の石浦入府に伴い、政隆は三庄を制圧して居た磐城軍に撤退を指示し、一旦由良浜に移って、其処に幕営した。太郎は、三庄地頭を閑院家家臣より拝命した物の、信の置ける臣や、兵を有して居る訳ではない。一から、旧来の組織を革新するべく、人を登用しなければ成らなかった。万一、三庄太夫に仕えて居た者等が反乱を起した時に備え、政隆は由良の外れに軍を駐屯させたのである。
由良浜に移って間も無く、政隆は近くの如意寺を訪ねた。門前より小僧の案内を受け、客間へと通される。やがて和尚が姿を現し、政隆は座礼を執って迎えた。
「おお、この間の。」
先日、浜で三庄太夫の一類を処刑し様とした時以来、和尚は政隆の事を覚えてくれて居た。
和尚は静かに腰を下ろし、張り詰めた顔で政隆に尋ねる。
「昼下がりより、浜に次々と兵が集まって居りまするが、此(こ)は如何(いかが)されたのでござりまするか?」
「はっ。御心配を御掛けしましたる段、御詫び申し上げまする。実は、石浦館を新たな地頭殿に譲り渡して参りました故、我等は由良より引き揚げるべく、浜に全軍を召集したのでござりまする。」
「おお、では由良は、平穏な地と成りましょうか?」
政隆は姿勢を直し、和尚に向かって手を突いた。
「それに関しては、和尚に御礼を申し上げねば成りませぬ。もしあの時、怒りに任せて太夫を処刑して居れば、私は今頃、更(さら)なる苦難に陥(おちい)って居た事でござりましょう。」
和尚は軽く頷(うなず)き、政隆に問う。
「それは善(よ)うござりました。誰か、良き人物に巡り合う事が出来た様ですな。」
「はい。三庄太夫の子、太郎殿と三郎殿にござりまする。私が見た所、仁義の心厚く、これからの由良を任すに足る人物と判断致しました。太夫を殺して居れば、私は両人から見れば父の仇(かたき)。協力を得る事は、叶(かな)わなかった物と存じまする。」
「為政者(いせいしゃ)の恨(うら)み辛(つら)みは私事(わたぐしこと)にて、民衆から見れば、甚(はなは)だ迷惑な事に御座りまする。又、一度壊れた人の和は、修復が困難な事が多く、長引く戦乱の火種とも成りまする。貴方が其の理を解(かい)し、由良の平穏を望んだは、民人(たみびと)には有難き事にござりまする。」
如意寺の和尚は、由良の民を代表するが如く、頭を下げて謝意を示した。
磐城軍が浜に集結した理由と、過去に戴いた貴重な助言の御礼を、和尚に申し上げる事が叶(かな)った政隆は、晴れた気持で、浜で待つ家臣の元へと戻って行った。
しかし、政隆には気に掛かる事をもう一つ、石浦に残して来て居た。得度(とくど)を望んで居た三郎に、何の手配もせぬまま、石浦を退去した事である。三郎が尊敬する兄太郎が戻った以上、仏門に入るべきか否(いな)かの話は兄弟で行い、政隆は関らない方が良いと考えた。それに太郎の方が、久しく延命寺に仕えて居た為、近郷の寺院の事には明るい。
政隆が幕営に戻った頃には、辺りは大分薄暗く成って居り、兵達は篝火(かがりび)の仕度を始めて居た。
翌日午(うま)の刻、波が穏やかに成り始めた。石浦館にも、特に動きは無い。政隆は全軍を浜に整列させた後、姉万珠が入水(じゅすい)したと聞く南南東の建部山の方角を向き、一斉に黙祷(もくとう)を行った。三庄太夫を追放し、万珠姫の仇(かたき)に故国磐城の者が罰を下した事を、全軍に自覚させる為である。
磐城軍兵千五百名、軍船五十艘は、国府へ帰還するべく、若狭湾へと出航した。兵達は皆、清々(すがすが)しい顔をして、海を眺めて居た。
夕刻、船団は宮津湾江尻の湊(みなと)に接岸した。その後、軍勢を纏(まと)めた政隆は、夕陽に照らされながら半里を進み、久方振りの国府入りと相(あい)成った。
報せを受けて、掾(じょう)の大江常能(おおえのつねよし)と足羽高保(あすわたかやす)が、迎えに出て来た。二人共、政隆の上機嫌な様を見て、首尾良く事が運んだ事を察した。政隆は常能より、留守中異常は無かったとの報告を受けて安堵し、二人に犒(ねぎら)いの言葉を掛けた。常能も高保も、由良の事を早く聞きたい気持は有ったが、何分夕刻であり、政隆の一行も旅を終えたばかりである。そのまま寝所に入って休む事を勧め、政隆はそれを甘受した。
翌朝、政隆は政庁広間に諸官吏を召集し、足羽高保にも臨席を願い出た。高保は快く承諾し、広間は数十名の文官武官で溢(あふ)れた。皆が揃(そろ)った所で政隆が入室し、上座に腰を下ろした。
政隆は、留守をよく守ってくれた者達を見渡した後、ふと、近くに控える常能(つねよし)に尋ねる。
「掾(じょう)の殿、介の殿の姿が見当たらぬのだが。」
常能は抑えた声で、そっと答える。
「介の殿は、未だ但馬(たじま)におわしまする。」
輿謝延年(よさののぶとし)が徹底して、此度の事には係らずに居ようとする魂胆が窺(うかが)えた。政隆はそれを残念に思ったが、志を同じくせぬ者が補佐役に居ても、寧(むし)ろ妨(さまた)げにしか成らない。気を取り直して、広間に詰める官吏達に報告を始めた。
「これより、私が由良に赴いて成した事を申す。先ず、由良の者が上陸を阻(はば)んで来た故にこれを蹴散らし、一気に本拠の石浦館を制圧した。そして荘官三庄太夫と、その一族郎党を召し捕るに至った。国衙(こくが)の軍を成合ばかりではなく、由良でも攻撃した罪。加えて、海賊と結託し、北国を不穏に陥(おとしい)れる事に加担した罪。更(さら)には私腹を肥やすべく、本家の太政大臣公季公に対し奉(たてまつ)り、税収を過少に申告したる罪。以上三ヶ条の罪状に因(よ)り、若狭国へ放逐(ほうちく)に処した。その後、当家の家臣である鵜沼昌直を橋立庄に遣(つか)わし、地頭代に任命。同じく、成合庄には望月国茂を遣わし、これを地頭代に任命。そして由良川三庄、即(すなわ)ち由良、神崎、大川の三庄は、三国太郎殿を地頭代に任命致し、我等は由良より引き揚げて参った。」
政隆の話が終ると、暫(しば)しの沈黙が続いた。皆、その行動が齎(もたら)す事を思案して居る様である。
先ず、掾(じょう)の大江常能が沈黙を破った。
「三庄を任された三国太郎殿の名は、これまで耳にした事が無いのでござりまするが、国府(こう)の殿の有力な御家人にござりまするか?」
「いや、三庄太夫の長男じゃ。」
官吏の多くが騒(ざわ)めいた。それを代弁するかの様に、常能が言葉を接ぐ。
「三庄太夫の一族郎党は悉(ことごと)く、若狭へ追放したのではござりませぬので?」
政隆は深く頷(うなず)いた。
「実を申さば、太夫が血縁の内、三国太郎殿と橋立三郎殿の二人は、咎(とが)め無しと致した。我が軍が由良を抑えた折、三郎殿は幽閉され、太郎殿は庄内の寺院に仕えて居った。両人とも、志は私に通じる所有り。その為に三庄太夫より冷遇された事を考慮し、仍(よっ)て罪無しと致した。又太郎殿は、民に人望の有る人物であり、由良の新たな発展に寄与して戴く事で、実父三庄太夫の罪を減じ、命は助ける次第と成った。」
政隆の説明で騒(ざわ)めきは止(や)んだが、納得出来ない顔が幾つも見受けられる。
続いて、目(もく)の小倉行長が尋ねた。
「国府(こう)の殿が久しく閑院家に仕え、家司(けいし)にまで登用された事は存じ上げて居りまする。なれば、丹後国内における、閑院様を本家とする荘園の地頭選任は、国府(こう)の殿に委任された権限と考えて、差支えござりませぬか?」
「いや。閑院の大殿(おとど)からは、覚えめでたき三庄太夫とは、誼(よしみ)を深めて置く様に言い渡されて居る。仍(よっ)て、間も無く都より、詰問(きつもん)の使者が遣(つか)わされるであろう。」
政隆はキッパリと言い放った。
広間は沈黙した。誰もが不安の色を湛(たた)えて居る。太政大臣の怒りを買えば、丹後国衙(こくが)の官吏には、これに争(あらが)う事は到底出来ず、如何(いか)なる処分が下されるか、分かった物ではない。
しかし国守政隆は、表情に余裕を見せながら、諸官吏に告げる。
「此度由良の事は、私個人の考えで行った事であり、他の者には関係の無き事。もし閑院家の使者より個別に調べを受けたとしても、国守の一存であり、知らぬ存ぜぬで通す様。」
そう言って貰(もら)えれば、多くの者は気が楽に成った。政隆からして見れば、己の計画を遂行する為には、係りの浅い者に、余計な事を述べて欲しくは無かったのである。
最後に、政隆は臨席を願い出た足羽高保に向かい、言葉を掛けた。
「この度は、若狭湾に出没せし海賊を一掃するべく、我が兵を海上より輸送する事に協力されたる段、誠に有難く存ずる。さて、今申した様に、当国に留まられては、太政大臣家より有らぬ嫌疑を掛けられる怖れが生じましょう。我が兵を連れ、即刻越前へ引き揚げる仕度に、取り掛かられます様。」
高保は、心配そうな面持ちで返す
「承知。御約束通り、丹後守様の兵は、無事に出羽国まで御送り致し申そう。只、斯様(かよう)な時に、兵を退(ひ)かれて宜しいのでござりましょうや?」
「うむ。逆に大軍を擁して、使者を威嚇(いかく)する様な事有らば、却(かえ)って我が計画の齟齬(そご)と成り兼ねませぬ。」
「解り申した。では早速、仰せの通りに。」
高保は一礼すると、すっと立ち上がり、早足ながらも静かに退室して行った。
これにて政隆の報告は終り、続いて留守中に生じた問題の評議に移った。しかし、太政大臣家より詰問(きつもん)の使者が遣(つか)わされて来るという一大事を前に、取り立てて論議する問題を提起する者は居なかった。仍(よっ)て、評定はここで打切りと成った。
官吏達が次々と退席して行く中、政隆は広瀬十郎を呼び止め、傍(そば)へ招いた。半間の距離を置いて跪(ひざまず)く十郎に、政隆は然(さ)りげ無く告げる。
「昌直と国茂が国府に詰めて居るであろう。直ぐに私の部屋へ来る様、伝えて置いてくれ。」
「はっ。」
十郎は礼を執り、政隆の元を辞した。そして、他の官吏の中に紛(まぎ)れ、広間から姿を消した。
その後、政隆が肩を叩きながら自室に戻ると、既(すで)に鵜沼昌直と望月国茂が控えて居た。政隆は十郎を始め、家臣達の動きが機敏な事を頼もしく思いながら、自身の席へ腰を下ろした。
一息吐(つ)いた後、政隆は二人に尋ねる。
「橋立庄、並びに成合庄において、特に問題は起きて居らぬか?」
先に、鵜沼が口を開いた。
「はっ。特に混乱は無く、民は各自の生業(なりわい)に専念してござりまする。皆、田畑や山が己の物に成った事を喜び、自発的に作業に勤(いそ)しんでござりますれば、今年の税収は、そこそこは得られる物と存じまする。」
政隆は表情を曇らせた。
「やはり、昨年に及び量には達せぬか。」
「他国より売られて来た奴婢(ぬひ)の中から、希望者を郷里に帰したが為に、作業が中断されし処が幾つもござりまする。但(ただ)し、殿の仁政を慕(した)って流れて来る者も有り、人口は回復しつつ在りますれば、怖らくは来年にも、税収量は昨年に並ぶ見込みはござりまする。」
「相(あい)解った。」
続いて、政隆は視線を望月に移した。それを受けて、望月は報告を行う。
「成合庄におきましても、特に目立った混乱は無く、民は穏やかに過ごしてござりまする。只、税収の見込みは、昨年を下回るは必定の予測にて。唯一の望みは、当庄に残された水軍が韓国(からくに)との繋(つな)がりを持ち、特産品を以(もっ)て交易を行えば、意外な収益を生むやも知れませぬ。」
「特産品のう。」
政隆は少し考えを巡らせて居た様であったが、直ぐに次の話へと移った。
「実は、今日二人を召したは他でも無い。磐城本国の事で相談が有る。」
「はっ。」
二人は畏(かしこ)まって、政隆を見詰めた。
「当面、丹後の国政は当家の浮沈に係る故、両名には当国の地頭として、側で私を支えて貰(もら)いたい。」
「ははっ。」
昌直と国茂は、揃(そろ)って承服した。間を置かず、政隆は話を接ぐ。
「一方で、其方(そなた)達には各々五十ばかりの兵を残し、後の千四百騎は磐城へ還(かえ)す事に致す。」
確かに、大軍を遠国(おんごく)へ派遣し続けるは、磐城の財政、並びに治安上、望ましくは無かった。仍(よっ)て、これに反対する者は居ない。そして政隆は、苦悩の表情を呈して二人に問う。
「磐城平家再興後は、当家の政(まつりごと)は専(もっぱ)ら、其方(そなた)達二人が纏(まと)めて参った。我等三人が、何(いず)れも長きに渡り本国を留守にすると成ると、一体誰に政(まつりごと)の指揮を執らせた物か?」
俄(にわか)に、三人は沈黙した。かつて、先代平政道が常陸介に任官した時、留守の隙(すき)に村岡重頼が家臣団を掌握した。実権を失った政道は、遂(つい)には重頼の手の者に因(よ)り、暗殺されてしまった。故に政隆が提起した事は、過去の悲劇を繰り返さぬ為にも、重要な事であった。
暫(しば)しの間、昌直と国茂は考え込んでしまい、重い空気が流れた。そこで政隆は、心の奥に秘めて居た策を打ち明け、二人に可否を問うた。
「昨年の村岡征伐に軍功有り、加えて此度は、三庄太夫が館に先陣を着て突入した勇者は確か、大野、広野、舟越、玉村と申したのう。磐城を四分し、彼等に治めさせては如何(どう)か?四者の力が均衡すれば、余計な争いは致すまい。万一不心得者が現れ様なら、残りの三者に官符を発行し、討伐させる事とする。此(こ)は、祖父政氏公が、四人の重臣を用いて治めた事を参考にしたのだが。」
具体的な案が政隆より発せられ、昌直と国茂は各自、その案を吟味した。そして、賛同が得られた。
これを受けて、政隆は二人に命を下す。
「私は、其方(そなた)達に比べれば、磐城の豪族に関しては疎(うと)い。仍(よっ)て、四地方の分割は、二人の合議に因(よ)って定めて貰(もら)いたい。」
両者は互いに顔を見合わせて居たが、先ず昌直が承服した。それに続き、国茂も頭を下げた。
足羽高保(あすわたかやす)が、既(すで)に磐城軍引き揚げに着手して居る。昌直と国茂は直ちに政隆の元を辞し、昌直が宛(あて)がわれた部屋へと移って、計画を詰める事と成った。
斯(か)くして、政隆が発案した郡四分割は、次の通りに成った。
岩前地方 居城滝尻館 玉村尭冬
好嶋西部 居城石森館 舟越高相
好嶋東部 居城長友館 大野為重
楢葉地方 居城楢葉館 広野輔宗
玉村は、菊多に進出して来た平安忠への備え。舟越は、拡大した好嶋庄の西部を、磐城平家の勢力下に取り込む事。大野は、好嶋庄東部を取り込む事。そして広野は、有力豪族木戸氏と共に、海道諸郡の勢力を維持拡大する事。以上の事が任務として付され、政隆より各館主の任命状が渡された。四将は感涙に噎(むせ)び、政隆への忠誠を誓った。
数日後、足羽は出航の準備を終え、四将は千四百の大軍と武具兵糧を湊(みなと)へと移した。大船団は逐次出航し、若狭湾の沖へと去って行った。政隆の家臣である昌直と国茂も、それを見届けてから各々の荘園へ戻り、丹後国府は漸(ようや)く、政隆赴任前の静けさを取り戻すに至った。