以前、自宅の物置を整理していた時、埃(ほこり)に塗(まみ)れ、朽(く)ちかけた本を何冊か発見しました。これ以上破かぬよう、慎重に埃(ほこり)を拭き取って見ると、旧石城郡や双葉郡地方の郷土史を紹介した書物でした。母方の伯母に聞けば、祖父が昔教職に在ったため、その頃に戴いた物であろうとの事。当時私はいわき市に移り住んでまだ三年程であり、何処(どこ)か面白い処が見つかるかも知れないと、興味を抱(いだ)いて頁(ページ)を捲(めく)り始めました。

 多くの項目では、江戸期の村政の確立から、維新後の町村制を経て、戦後の市の成立に係わる事が記され、近代いわきの変遷を伺(うかが)い知る事ができました。

 それらの書物を読み進めて行くうちに、一つの項に目が留まりました。藁谷廣之助先生著作の「我等の郷土」という書の中で、現在小名浜住吉地区に在る玉川城を紹介していましたが、当地の城主が平将門の子孫であったと伝承されていると聞き、驚きを覚えました。関東に多く残る将門伝説ですが、いわき市内においては二人目に係わる話であったからです。

 玉川城の岩城判官に加えて、もう一つの将門伝説として、四倉町玉山地区に在る恵日寺裏には、滝夜叉姫の塚が在ります。滝夜叉姫は平良門(よしかど)と共に、父将門の怨(うら)みを晴らさんとする怪談に登場します。良門は架空の人物と思われますが、滝夜叉姫は茨城県内を含め、多くの伝説の地が現存しています。いわきの伝承では、姫が将門の郎党の助けを得て、落ち延びて来たとされています。

 しかし、岩城判官伝説を知ると、別の経路が浮かんできます。岩城判官平政氏は平将門の孫であるという史料をそのまま読めば、同じ時代、叔母の滝夜叉姫は、岩城の領主と成った甥(おい)と、共に岩城郡内に住した事に成ります。将門の弟や重臣たちが悉(ことごと)く討たれて、まだ熱(ほとぼり)の冷めやらぬ時代、如何(いか)にして政氏は三郡の領主と成り得、また滝夜叉姫とは何(ど)のような繋(つな)がりが有ったのか。これに係わる史料を探していると、今度は別の物語に辿(たど)り着きました。

 近代日本の高名な文豪、森鴎外の著した短編小説「山椒太夫」。学生の時分に読んだ記憶が有りましたが、安寿と厨子王は覚えていても、その父親が陸奥掾(むつのじょう)平正氏と書かれていた事までは覚えていませんでした。陸奥掾すなわち岩城判官の時代の後に安寿と厨子王が登場するとなると、再び物語が広がります。

 いわき市内、県道二十号線を泉から植田へと抜ける途中、ふと「安寿と厨子王」の文字が目に入りました。県道から金山運動公園へと入って行くと、厨子王遺蹟顕彰会の方々が建てられた母子像が在りました。その傍らに近隣の関連史蹟の地図と説明が書かれており、その後全てを訪れてみました。

 以前、茨城県の霞ヶ浦や筑波を訪れた折には、幾(いく)つか将門伝説の地を回った事が有りました。そしていわきの史蹟を訪ねて行くうちに、複数の伝承が繋(つな)がり始め、一つの壮大な物語と成り、個人的に頭の中で楽しむように成りました。

 しかしある日、森鴎外が小説「山椒太夫」を書いた折の逸話(いつわ)を聞く機会が有りました。それに依れば、森鴎外は福島県福島市郊外に在る飯坂温泉に宿泊した際、宿の主人より話を聞き、本小説の執筆に入る切っ掛けと成ったとの事。福島市周辺で取材を行い、県外へと移って行ったようですが、その時不運にも、三春やいわきの関連する史蹟を訪れる事は無かったそうです。そのため、小説の中でいわきとの所縁(ゆかり)に触れられる事は有りませんでした。

 これを聞いて、今まで集めた史料に基(もとづ)く物語を文字にし、長編小説として纏(まと)めたいという気持ちが興りました。不幸にも文才が無いため、頭に思い描かれる情景を、明治維新後に作成された公用語を基に、古よりの言葉を織り交ぜて、新語を用いる事の無いように努めました。

 主人公となる岩城判官の一族は、その時代、名前、系図が史料により異なります。主に三種有り、江戸期の書物が森鴎外「山椒太夫」とほぼ一致する他、「岩城実記」、「鏡ヶ丘由来記」に分かれます。

 第三章の主人公の幼名はそれぞれ、厨子王、医王丸、千勝であり、また由良を脱出した後に養ってくれた人物も、関白師実(もろざね)、左大臣為房(ためふさ)、右大臣公季(きんすえ)と分かれます。加えて、母子が越後路を経て頼ろうとした岩城判官は、「山椒太夫」では厨子王の父正氏、「岩城実記」では医王丸の祖父常道、「鏡ヶ丘由来記」では千勝の祖父政氏とされています。

 三説の中でどれが最も史実に近いものを記しているか、それは各史料の時代から考察してみる事にしました。「山椒太夫」は、藤原師実が関白に就任していた承保二年(1075)から応徳二年(1085)、すなわち将(まさ)に院政期を迎える時代に当たります。また、「岩城実記」は正治元年(1199)、源頼朝が死去した事に触れ、二代将軍頼家、三代将軍実朝の時代と推察されます。一方で「鏡ヶ丘由来記」は殊(こと)に詳細に書かれ、母子が人買いに攫(さら)われたのは長和六年(1017)、千勝が由良を脱出したのは寛仁四年(1020)とされています。

 いわきに残された史料では、道隆、もしくは政隆が、父の仇(かたき)である村岡重頼を、数千の軍を率いて討ち果した点では共通しています。となると、主人公の後ろ楯と成ってくれた大臣に、かなりの力が有った事が窺(うかが)えます。

 「山椒太夫」の時代、関白は天皇の外戚(がいせき)ではなくなり、時の白河天皇が新たな人材を登用し、政治の実力者が摂関家から院に移る過渡期でした。よって、関白が畿内(きない)より数千の大軍を集められるとも思えず、小説でも触れられていません。「岩城実記」の時代背景を見ると、新たな武家政権鎌倉幕府が誕生して、年月が浅い頃の話になります。京で大臣家の庇護(ひご)を受けたにせよ、鎌倉の将軍の認可を得て、畿内の大軍を関東に送り込む事は難しいと考えられます。最後の「鏡ヶ丘由来記」ですが、時は道長、頼通の摂関家最盛期。最高権力者道長が病(やまい)を得ている中、関白頼通より上位に置かれた太政大臣公季(きんすえ)の支援を得られたのであれば、官軍の総大将として奥州に下向する事も可能かと思えます。よって、話の年代は「鏡ヶ丘由来記」を参考にする事にしました。また、岩城判官が康保四年(967)に軍功有って岩城郡を賜(たまわ)った話を用いるためにも、話の根幹に「鏡ヶ丘由来記」を据(す)える必要が有りました。

 一方で、「岩城実記」の写本といわれる「岩城実伝記」を記載した本を図書館で発見しましたが、読んでみると、多くの登場人物が記されています。内容は「鏡ヶ丘由来記」にも通じるので、これを元に登場人物の肉付けを行いました。

 これらの史料等を参考に、第二章、第三章を書き上げました。しかし、第二章の主人公岩城判官平政氏が、朝賊とされた平将門の子孫でありながら、如何(いか)にして将門の乱より僅(わず)かに二十七年後、奥州の郡司と成る事ができたのか。藁谷先生の「我等の郷土」を読んだ時から、最も疑問に思って来た事でした。

 そして一人の人物に着目した時、ふと将門の乱と、政氏の陸奥掾(むつのじょう)就任を繋(つな)ぐ流れが、頭を過(よぎ)りました。参議藤原忠文。いわきの史料では平政氏を養育した人物とされ、正史では征東大将軍を拝命して、将門が乱を起した関東に赴き、その後征西大将軍を務め、藤原純友討伐に向かった人物です。藤原式家、傍流の老貴族でありながら、天下大乱の折に東奔西走するも、戦後、それに見合った行賞がなされたとは思えません。この事から、将門の子を預かったために、受ける嫌疑を晴らすべく、また将門の子の命を助けるために、東西の乱平定に積極的に介入したのだとすれば、推測に無理は無いと思えました。

 ただし、平政氏の生年と藤原忠文の没年を調べると、接点は僅(わず)かに一年程しか有りません。それでも忠文が養育者として記載された理由には、政氏の先代との関係が挙げられると思われます。

 複数の文献を見ると、平政氏は平将門の孫と書かれています。この孫の意は、一般的な孫の他に、末裔と取る事もできます。平政氏の生年は、平将門の没年より僅(わず)かに六年後。将門の生年は不明ですが、将門が上総平家良兼の娘を妻に迎えてから、政氏の誕生まで二十年も経ていません。以上を考慮すると、政氏は年代的にも将門の孫として不思議は無く、では何(ど)のようにして、奥州征伐の大将に成り得たのかという疑問が生じます。

 それを考えるに当たり、政氏の父親に思いが至ります。政氏の先代を記す史料は、今の所見付かってはおりません。しかし天下の謀反人として一族誅滅(ちゅうめつ)の危機に陥(おちい)りながらも、政氏が将門に劣(おと)らぬ所領を奥州に得られたは、その先代に大きな功績があったとしか思えず。その時代に大功を挙げる機会が有ったとすれば、怖らくは将門の乱の直後に勃発した純友の乱と考えられます。これには遅れ馳(ば)せながら、藤原忠文も征西大将軍として出陣しています。将門の乱により滅(ほろ)びかけた相馬家に再興の気運を齎(もたら)した人物、それを第一章の主人公、平忠政として書き著(あらわ)してみました。

 数多(あまた)の先人達が残して下された史料等を基(もと)に、本編六巻の物語を書き上げましたが、中には口伝で知った話も盛り込んでいます。私の父方の祖母は、福島県旧相馬郡の小湊(こみなと)家に生まれ、曾祖父より聞いた家伝を教えてくれました。その話が第二章に記した、将門の姫を護衛するべく、下総より移り住んで来た武士の話です。

 小湊氏の発祥地を図書館の名字辞典で調べた所、福島県いわき市四倉町と記してありました。怖らく、旧大字山田小湊の辺りと推測されます。しかし小湊家の伝承では、かつて平将門に仕えて下総国に住した武士であり、主君将門討死の後、その有力な家臣として名を知られていたために小湊と改姓し、主家一族を奉じて奥州に落ち延びたそうです。途中、通り掛かったいわき市四倉町の景色が故郷に似ているので、小湊氏はこの地を新たな居とする事に決める一方、その弟は更(さら)に北を目指す事にしたといいます。その際に当主は、自身の持つ一対の大小より小刀を弟に渡し、一族の証(あかし)としたと聞きました。そして、いわき市四倉町の小湊氏と、相馬郡の小湊氏が分立したとの事です。

 しかし、将門の姫が四倉の地にて没したと考え、また弟筋の小湊氏が、後に将門の子孫が移り住む行方(なめかた)郡に居を構えた事を考慮すると、単に逃亡先の意見が分かれただけではないように思えます。

 本編では茨城県の伝説も取り込み、岩城郡司平政氏庇護(ひご)の下、叔母滝夜叉姫が四倉に移住する話としました。故に、最終節において、小湊氏は姫の警護という役目を終えた後、再興した相馬家との有力な繋(つな)がりを以(もっ)て源頼朝奥州征伐に参陣し、軍功を挙げて、主家が拝領した行方(なめかた)郡に移住する可能性を含む話として書いた次第です。

 ともあれ、滝夜叉姫伝説の残る四倉町玉山と同町山田小湊は目と鼻の先に位置し、将門の姫を警護して、下総より移り住んで来た可能性は高いと考えられます。

 兎(と)にも角(かく)にも、四年がかりで漸(ようや)く、一つの物語を書き上げるに至りました。史料を残してくれた祖父や、家伝を聞かせてくれた祖母、更(さら)には多くの史料を残し、纏(まと)めて戴いた学者や郷土史家の先達(せんだつ)方には、感謝の念を覚える次第です。

 いわき市に移り住んで早八年と半。広大な市内には、山河や寺院が往古平安朝の薫を残し、伝説の地は今も尚、史蹟として市民が護り続けています。この度は多くの疑問を残しつつ筆を置く仕儀となりましたが、今後更(さら)なる郷土史の確立が進み、文化の向上に寄与する事を願います。

平成二十一己丑年十月六日

反保 亮平

参考文献

「伝説と史的解明 安寿姫と厨子王のふるさと」安寿姫厨子王遺蹟顕彰会
「山椒太夫異聞 安寿と厨子王伝説 その物語とゆかりの地を訪ねて」黒沢賢一(歴史春秋社)
「磐城岩代の伝説」岩崎敏夫
「岩城実伝記」高萩精玄
「我等の郷土」藁谷廣之助
「歴史群像34 藤原四代」(学研)
「石城郡誌」石城郡役所(臨川書店)
「磐城誌料叢書」諸根樟一(平読書クラブ)
「標準 日本史地図」児玉幸多(吉川弘文館)
「安寿と厨子王 悲しき人買いの伝説」菊田智(歴史春秋社)
「山椒太夫・高瀬舟」森鴎外(新潮文庫)
「藤原純友」松原弘宣(吉川弘文館)

 上に、執筆時に参考とした主な文献を掲載致します。敬称略。

 以上が、平成23年の東日本大震災を経験する前の、平和な時代に書いた物です。 何気なく章の主題に用いていた「中興」と「望郷」。 それがいかに重い言葉であるか、震災を経て実感するに至りました。

 第三章の「望郷」。 失われた物は多い物の、家族に犠牲者が出なかったのが、せめてもの幸いでした。 しかし震災前にのどかであった故郷には、多くの傷跡が残されたままです。

 第一章の「中興」。 故郷は福島第一原子力発電所の30km圏外に位置する為、原発事故収束の最前線として、 未だに多くの仮設住宅が残されています。 福島は山海に豊かな食材が有りましたが、原発事故によって、現在生産量は激減しています。 震災前以上の豊かさを取り戻すのは、並大抵の努力では成し得ないと思われます。

 第二章に採用した「治国」。 行政の主導者には、復興の速やかなる事を、ひたすら願うのみです。

 この物語は、いずれ書籍として出版したいと考えていました。 しかし自費出版への道のりは長く、目的が故郷の財産をできるだけ早く発表する事となったので、 ホームページにおいて公開する事に致しました。 福島県の歴史観光地区といえば会津地方、続いて中通り地方だと思われている方は多いと考えられますが、 原発事故が発生した浜通り地方にも、歴史的長編物語は存在するのです。 本ホームページに記載した物に限らず、将来、浜通りを舞台にした長編歴史ドラマが作成され、 観光産業に寄与する事で、豊かな文化が育まれる事を切望しています。 加えて、浜通り石城、双葉、相馬三郡が早期に再びつながるよう、ひたすら願い続けています。

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