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第二十八節 春の除目(じもく)
閑院家の家司(けいし)でさえ、邸内に立派な個室が宛(あて)がわれる。そして、当主公季(きんすえ)の婿(むこ)と成った政隆には、家司(けいし)とは比べ物に成らぬ程広く、豪華な調度品が並ぶ棟が用意された。
家司(けいし)の案内を受け、岳父公季、妻玉綾姫と共に、政隆はこの新居に足を踏み入れた。公季も玉綾姫も、満足気に新居を見渡して居る。政隆にして見れば、分限が過ぎると、却(かえ)って恐縮してしまう造りであった。
公季が縁側に腰を下ろして、雪中梅の趣(おもむき)に見入って居る脇で、政隆夫妻も静かに膝(ひざ)を突き、畏(かしこ)まった。政隆は公季の興(きょう)が削(そ)がれぬ様、注意して申し上げる。
「この度は、某(それがし)如きに過分の御計らい、恐縮の至りに存じ奉(たてまつ)りまする。」
「ふむ。気に入って貰(もら)えたかのう?」
「それはもう。夢を見て居るが如き気分にござりまする。」
「おう、其(そ)は重畳(ちょうじょう)じゃ。」
公季は政隆の方へ向き直ると、懐より書状の様な物を取り出し、政隆等の前に広げた。
その紙には、十程の国名が記されて居る。政隆が意を量り兼ねる面持ちで見上げると、公季は笑みを湛(たた)えて告げる。
「春の除目(じもく)にて、新たな受領(ずりょう)を任命せねば成らぬ国じゃ。其方(そなた)には先の戦(いくさ)の恩賞として、望む処の国守に任ぜよう。」
国司の内定であった。政隆は急な事に困惑したまま、紙上の文字を食い入る様に見詰める。
中には大国も含まれている。当地を選べば当然、位は五位に昇る事と成る、遣(や)り様に因(よ)っては贅沢(ぜいたく)をし、巨万の富を蓄える事も出来る。政隆の故国陸奥は、記載されて居なかった。母と別れた越後、沖に見えた佐渡も書かれて居ない。
ふと、政隆の目に一つの国名が飛び込んで来た。
「彼(か)の地を、希望致しとう存じまする。」
反射的に、政隆の人差指が三文字を指して居た。公季は怪訝(けげん)そうな顔をして、政隆を見詰める。
「彼(か)の国は中国じゃぞ。相当官位は正六位下で、其方(そなた)の下で戦った守山何某(なにがし)よりも下位と成ってしまう。」
政隆が指差したのは、丹後国であった。
公季は理解に難い面持ちで、暫(しば)し政隆を眺めて居た。しかし、飽(あ)く迄(まで)熱望する政隆の気持を受けて、漸(ようや)く承諾した。慣れぬ地方長官であるから、都に近い国の方が心細くはないのであろうと、推察したのである。
「彼(か)の国には、当家の荘園の内で最も貢物(みつぎもの)を持って参る、三庄太夫という男が居る。あの者と巧(うま)く遣(や)って行けば、其方(そなた)の四年間は安泰であろう。宜しい。先ずは丹後の地にて、受領(ずりょう)としての経験を積んで参れ。」
「ははっ。」
政隆が頭を下げると、公季はふと思い出した様に言葉を接いだ。
「そう言えば、其方(そなた)が村岡より奪い返した所領は、其方(そなた)が居らぬでも大丈夫なのか?」
「はっ。磐城郡には父の代からの忠臣を置き、信夫郡は藤原兼光殿、菊多郡は平安忠殿に其々(それぞれ)、新たな郡司が定まるまでの間、預けてござりまする。又、津軽郡は此度の戦(いくさ)に捲(ま)き込まれず、平穏に治まって居るとの報告を受けました故、大領(だいりょう)不在のまま、在庁の者に郡政を委(ゆだ)ねてござりまする。」
公季は俄(にわか)に苦い顔と成り、政隆に告げる。
「実は仗議(じょうぎ)において、奥州の一部の郡を分割する話が持ち上がった。その中に、磐城、信夫、菊多が含まれて居る。怖らくは、兼光や安忠辺りの者等が、本家の有力な人物を通じ、関白殿に働き掛けて居るのであろう。この問題では、儂(わし)は其方(そなた)を守って遣(や)れぬかも知れぬ。」
公季は、眉間(みけん)の皺(しわ)を深めて息を吐(つ)く。そして再び、政隆に鋭い視線を向けた。
「其方(そなた)の父御(ててご)が旧領の内、何(どれ)だけが其方(そなた)に相続されるか、儂(わし)は保証出来ぬ。重ねて聞く。それでも尚、丹後守で良いと申すか?」
「はい。過分の御取り立てと、存じてござりまする。」
公季は不機嫌そうな顔をして、すっと立ち上がった。退出する公季に、政隆は向き直って声を掛ける。
「大殿(おとど)に、御願いの儀がござりまする。」
剥(むく)れた表情のまま、公季は足を止める。
「何じゃ?」
「畏(おそ)れながら、某(それがし)が丹後に着任してより一年程の間、当邸にて姫を御預かり願いとう存じまする。」
これには、隣の玉綾姫も驚きの色を顕(あらわ)にした。公季は重ねて問う。
「如何(いか)なる訳か?」
「某(それがし)は、以前に丹後国由良庄に赴いたと雖(いえど)も、他の地は全くと言いて良い程に存じませぬ。故に、着任の後に先ずは国内諸郡を視察し、治安の良し悪(あ)しを確かめて置きとうござりまする。そして国内が平穏であると見極めた上で、姫を御迎え致し、国内諸郡を御覧に入れたく存じまする。」
冷めた目で、公季は頷(うなず)く。
「良かろう。」
そう言い残し、公季は去って行った。
政隆の他に玉綾姫だけが残り、室内は暫(しば)し沈黙が続いた。姫は悲しい面持ちで、庭を眺めて居る。
「何故(なにゆえ)、丹後を選ばれたのでござりましょう?」
言葉が、先に出た。そして政隆を見詰め、思う所を訴える。
「父上様は、殿に閑院家の息子として、奥州武士の棟梁と成って貰(もら)いたいのです。なのに妻を姫と呼び、父を大殿(おとど)と呼ぶ等。」
姫の声は、涙に曇った。政隆は姫の肩に手を置いて答える。
「確かに、先程提示された中には、東国の大国や上国も含まれてござり申した。しかし、東国は厄介(やっかい)な処でござりまして、土豪達は日々弓馬の鍛錬を行い、己(おの)が所領の拡大に勤(いそ)しんでござりまする。当地に受領(ずりょう)として着任し、これ等の武士を纏(まと)める為には、当方もそれなりの武力が必要と成りまする。その為に、磐城武士団の統御が必要なのでござりまするが、此度は時間が有りませなんだ。」
姫が何かを告げ様とするのを政隆は制し、言葉を接ぐ。
「丹後を選んだは、某(それがし)が国守と成る機会を得られた以上、武士として成さねば成らぬ事が有る故にござりまする。今は詳しい事は申し上げられませぬが、人としてのけじめを付けなければ成りませぬ。然(しか)る後に初めて、姫を妻と呼び、大殿(おとど)を父上と呼ぶ事が叶(かな)うと存じまする。」
暫(しばら)く沈黙した後、姫は漸(ようや)く頷(うなず)いた。
「父より、貴方様には複雑な生い立ちの事情が有ると伺(うかが)って居りまする。私は、殿が申されるけじめという物を立派に御付けに成り、本当の夫婦と成れる日が来るのを、ここで静かに御待ちして居りまする。」
姫の健気(けなげ)な様に、政隆は心を打たれた。そして、不意に言葉が漏れた。
「申し訳、ござりませぬ。」
婚儀だけは済ませた物の、政隆の心には、未だ姫を妻とせぬ何かが燻(くすぶ)って居る。姫は政隆の胸に縋(すが)って涙を拭(ぬぐ)い、そこから伝わる心臓の鼓動を受け、政隆の胸中を察して居た。
その日の夜、陽がどっぷりと暮れた頃、政隆は自室に広瀬十郎を召して居た。十郎は先の戦(いくさ)で政隆の馬廻(うままわり)を務め、村岡重頼が敢行した乾坤一擲(けんこんいってき)の突撃を、身を挺(てい)して防ぎ切った男である。腕は立ち、人柄も信頼出来る。政隆は磐城より、十名ばかりの豪族の子弟達を連れて来て、家臣として召し抱(かか)えて居た。彼等の統率を任せて居たのが、戦(いくさ)の後に家臣とした、十郎であった。
この時、政隆は淡々と、自身が丹後守を希望し、太政大臣より内定を戴いた旨を告げた。十郎は只畏(かしこ)まって、おめでとう存じますると、答えるのみである。
その後政隆は十郎を近くに呼び、何かを耳打ちした。それはかなり長い内容であった。話が終る頃には、十郎の顳顬(こめかみ)近くを冷汗が伝って居た。
「本当に、それを成される御積りにござりまするか?」
十郎は震えた声で尋ねる。この時、政隆の覚悟は既(すで)に固まって居た。
「私一人でも断行する。私に協力する覚悟の無い者は、今の内に当家を離れて貰(もら)いたい。」
暫(しばら)く十郎は押し黙って居たが、やがて微笑を湛(たた)えて答えた。
「この件は、余り深刻に家臣達に伝えては、却(かえ)って要らぬ疑念が生じましょう。それよりも、殿が国司として入府される訳にござりますれば、地方の慣習に沿って事を起せば、家臣に不安を生じさせる事も無く、事は成る物と存じまする。」
「うむ。確かにのう。」
この夜、政隆は十郎だけに心の内を明かし、遅くまで、丹後の事に就(つ)いて話し続けて居た。
*
年が明けて治安四年(1024)春、愈々(いよいよ)地方官の人事、県召(あがためし)の除目(じもく)が執り行われた。御召(おめし)を受けた政隆は、文官の束帯(そくたい)を身に纏(まと)い、宮中に参内(さんだい)した。
任命式は清涼殿(せいりょうでん)で行われる。上座に太政官の高官達が、並んで座して居る。中には、中納言実成の姿も在った。主筋であり、義兄でもある実成が臨席して居る事が分かると、政隆は安堵を覚え、それまで自ずと脳裏(のうり)を過(よぎ)って居た悪い予感が一気に雲散霧消した、軽い気分に成った。
一方の下座には、政隆を含めて、新たに国司に任命される者達が、静かに控えて居る。着用して居る物から察するに、皆五位か六位の者達と推察された。一瞬、政隆の視線が釘付(くぎづ)けと成った。その場に、平安忠の姿が在ったからである。
やがて、左大臣頼通が式場に到着した。その後、帝(みかど)が御臨席と成り、百官は一同に平伏した。それから三日間、厳粛な儀式が続く。途中休息の合間も有るが、政隆は特に安忠に声を掛ける事はしなかった。壁に耳有り。国司就任という一大事を前に、誰もが過剰に慎重と成って居た。
漸(ようや)く、任官状授与の式に漕(こ)ぎ着けるに至った。政隆は相次ぐ儀式に、大分疲れを覚えて居た筈(はず)であったが、この時は不思議と、疲れを忘れた。既(すで)に主典(さかん)、判官(ほうがん)、介(すけ)の任命は終了し、政隆と行動を共にして居るのは、守(かみ)の任命を待つ者ばかりである。その殆(ほとん)どが、四十を超えて居る。僅(わず)かに二十代と思(おぼ)しき者の姿も在るが、王族か、名家の子弟であろう。清涼殿(せいりょうでん)に集まったばかりの頃、確かに政隆は国司の候補者の中では最年少であり、好奇の目で見られて居た観は有った。しかし今、それは特に感じなく成って居る。己を知る誰かが、経緯(いきさつ)を陰で話した為であろう。
ふと、政隆の視線が移った。平安忠は国司候補の中に残って居る。安忠は本家の維衡(これひら)を通じて、関白の父である道長に、働き掛けを行って居たという。よもや陸奥守の座を狙って居るのではと、政隆の心に警戒心が生じた。安忠が陸奥守に就任すれば、磐城と常陸の間に上下関係が生ずる。又先の戦乱を経て、届け出無しで政隆等が領有した土地は、陸奥国府の名を以(もっ)て、返還を求められる怖れも有った。
やがて、政隆の名が呼ばれた。政隆は作法に則(のっと)り、粛々と前へ進み出で、平伏した。傍らでは左大臣頼通が筆を執り、大間書(おおまがき)に任官者の注記を行って居る。国司は、一国を預かる大任である。帝自ら任官者へ直に、声が掛けられた。
「丹後守に任ずる。よく、彼(か)の地を治めよ。」
政隆は、思わず低頭する。
「ははっ。」
直ぐに、側に控えて居た右大臣実資(さねすけ)が、用意された任官状を授与する。
「先の戦(いくさ)の功績を鑑(かんが)み、正六以下に昇進の上、丹後守に任命する。」
政隆は恭(うやうや)しく任官状を受け取った後、静かに後方へと下がった。
その後、他の者も任官状が順番に授与されるので、政隆は元の席に戻り、黙って式の進行を眺めて居た。そして愈々(いよいよ)、平安忠の名が呼び出された。安忠は坂東に育ち、武骨者といった観が有る。慣れぬ宮中儀式に、政隆以上に動きが固く成って居た。しかし、作法に外れぬ様、真剣に努めて居る。
帝、続いて右大臣より発せられた言葉に、政隆は驚きと共に、安堵を覚えた。安忠が叙任したのは、従五位下出羽権守である。目下出羽守が病(やまい)を得て、国政に支障を来(きた)して居る為、安忠が守の代行である権守(ごんのかみ)に就任したのであった。
昨年の戦(いくさ)において、官軍の中で安忠は、政隆よりも下位であった。しかし、此度の除目(じもく)において逆転され、安忠の方が位では、二つも上と成ってしまったのである。只、よくよく考えて見れば、安忠は一回りも年長であり、常陸の大半を長年治めて来た功績も有る。更(さら)には、出羽守であれば磐城平家の所領とは係りが無く、いざこざも起るまいと、安心する事が出来た。
長い除目(じもく)が漸(ようや)く終った。政隆は肩を叩きながら清涼殿(せいりょうでん)を後にし、任官状を大事に携(たずさ)え、閑院殿へ戻って行った。
邸に戻った政隆は、夕刻に公季が内裏(だいり)から戻って来ると、礼を申し上ぐべく参上した。政隆が許しを得て入室した時、公季は既(すで)に寛(くつろ)いだ恰好(かっこう)と成って居た。居室の入口に畏(かしこ)まり、政隆は言上する。
「この度は、大殿(おとど)に各別なる御引立てを賜(たまわ)り、恭悦(きょうえつ)至極(しごく)に存じ奉(たてまつ)りまする。御蔭を以(も)ちまして、本日丹後守への任官が叶(かな)いましてござりまする。」
公季は、特に表情を顕(あらわ)す事も無く、淡々と述べる。
「まあ、婿(むこ)殿の御手並(おてなみ)拝見と行こうかのう。されど任国へ赴くは、来月まで待つが良い。実は今仗儀(じょうぎ)では、村岡重頼の旧領を如何(いか)に処するか、審議を詰めて居る所なのじゃ。」
「はっ。」
政隆の面持ちが、俄(にわか)に深刻味を帯びた。磐城郡を国替えに成る事だけは、絶対に避けねば成らない。政隆の表情を窺(うかが)い、公季は言葉を接ぐ。
「村岡時代、その領内には荘園が急増して居る。磐城郡内好嶋庄(よしまのしょう)。信夫郡は南半分。菊多郡に至っては、その粗方(あらかた)である。仍(よっ)て荘園に関してはその寄進先が、庄司を任命する事と成る。」
「はっ。」
「磐城郡内の飯野(いいの)、片寄(かたよせ)、玉造(たまつくり)の三郷、及び信夫郡内の伊達(だて)、静戸(しずりへ)、鍬山(くわやま)を除く諸郷は、荘園領主の支配下に置かれる事と成ろう。」
頭(こうべ)を垂れ乍ら、政隆は心の底から沸き上がる悲しみを、必死に押し殺して居た。信夫郡亘理(わたり)郷の椿舘(つばきのたち)は生まれ故郷であり、小倉郷の千手観音も、幼き頃母と共に幾度も詣でた思い出が有る。しかし、先の戦(いくさ)で藤原兼光を味方に付ける折、信夫郡の割譲を約束して居る。既(すで)に己の手を離れた事は承知しても、故国の頽廃(たいはい)を連想させる話は、政隆の心を深く抉(えぐ)った。
政隆は、悲痛な面持ちで公季に尋ねる。
「我が故国は、如何様(いかよう)に成ってしまうのでありましょうや?」
公季は腕組みをし、眉間(みけん)の皺(しわ)を深くする。
「目下、政道殿の嫡男である其方(そなた)が受け継ぐが妥当(だとう)であると、儂(わし)や実成は主張し続けて居る。しかし関白方からは、先の戦(いくさ)に功績が有った者への恩賞は不可欠と、切り返して参る。此度、関白の背後では様々な勢力が後押しをして居る様で、一筋縄では行かぬ。最悪の事態は起らぬ、とは言い切れぬ。」
政隆は両手を床(ゆか)に突き、必死に懇願(こんがん)する。
「磐城郡十二郷は、我が軍団の中核にござりまする。ここさえ残れば、祖父政氏以来の忠臣三千騎を従え、大殿(おとど)の御役に立つ事が叶(かな)いまする。何卒(なにとぞ)、何卒。」
公季は政隆を制して告げる。
「其方(そなた)の言いたき事は良く解る。議決と成った折には、速やかに其方(そなた)へ報せる故、部屋に戻り、鋭気を養って置くが良かろう。」
「ははっ。」
政隆は憔悴(しょうすい)した様な顔で礼を執ると、静かに自室へ引き揚げて行った。
国守就任の喜びも、一瞬にして消し飛んだ。奥州新秩序確立の動きは、下手(へた)をすると、磐城平家の所領が奥州より消滅し兼ねぬ事を、先程公季は示唆(しさ)した。
しかしあの時、己が丹後国守を所望した事を悔いる気持は、一片とて無い。政隆が勢力を維持拡大する為には、閑院公季の助力は不可欠である。閑院家との絆(きずな)を強固な物とする為にも、閑院家最大の収入源である由良庄が在る、丹後の地へ赴かねば成らなかった。
その日も月は昇って居たが、大分欠けて居る。以前の戦勝祝いの折、広瀬十郎や信田頼望と酒を酌(く)み交した時の満月とは、輝きが全く異なって見えた。この日の三日月は、政隆の身体を仄(ほの)かに照らすのみであった。
数日の後、内裏(だいり)より閑院殿へ使者が遣(つか)わされて来た。邸に在った公季より御召(おめし)を受け、政隆は賓客の間において、主(あるじ)公季と共に勅使に謁見(えっけん)した。公季は脇へと下がり、事の様子を見守る構えである。政隆は勅使に正対し、勅命を待った。
使者の口より、内裏の裁定が下された。
「平政隆を、奥州磐城、伊達(だて)、磐手(いわて)、津軽四郡の大領(だいりょう)に任ずる。」
政隆は畏(かしこ)まって頭を下げた物の、腑に落ちぬ言葉が含まれて居た。ゆっくりと頭を擡(もた)げた後、政隆は静かに答える。
「朝廷の御配慮、誠に嬉しく存じまする。只、伊達郡とは何(ど)の範囲を指す物にござりましょうか?」
「うむ。朝廷ではこの度、信夫庄(しのぶのしょう)と信夫郡の併存は紛(まぎ)らわしいとの判断に因(よ)り、信夫庄を除(のぞ)く地を、伊達郡と称する旨が決定された。伊達郡下には、伊達、静戸(しずりへ)、鍬山(くわやま)の三郷が置かれる。」
伊達郷は信夫庄と刈田(かった)郡の中間に位置する。倭(やまと)が宮城郡へ勢力を伸ばすまでは、伊達関(いだてのせき)が置かれ、宮城野の蝦夷(えみし)の南下を防ぐ為の、重要拠点であった。故に古来より、信夫に在って伊達の知名度は高く、信夫郡内において特別な郷と認められて居た。それが此度の動乱を経て、信夫庄が郡に匹敵する規模に拡大すると、これに庄司を置き、残された三郷を以(もっ)て一郡を成したのである。静戸、鍬山両郷は逢隈(阿武隈)山中に位置し、街道沿いに在る伊達郷が自ずと府と認められた。長年に渡り、信夫と伊達は各々、異なる武士団が治めて居た。それを、歴代郡司が一つに纏(まと)めるべく努めて来た。しかし両地方は遂(つい)に、完全なる分離に至ったのである。
政隆の生まれ故郷亘理(わたり)は、信夫庄に組み込まれた。庄司には怖らく、藤原兼光の子弟が就任するであろうと、政隆は薄々感じて居た。
朝廷の使者は用を済ませると、早々に内裏へ戻って行った。地方の一郡司に過ぎなければ、この後使者を鄭重に持て成し、進物(しんもつ)をする所である。さもなければ、使者の機嫌を損(そこ)ね、後々の為に成らないからである。しかし政隆の背後には、関白家に匹敵する勢力を持つ、閑院家が控えて居る。政隆には今や、斯(か)かる気遣いは無用であった。
政隆は使者が帰った後、公季に向かって事の仔細を尋ね様とした。しかし公季は、手を伸ばして制する。
「儂(わし)の部屋に参れ。仗議(じょうぎ)の決定を伝えて置く。」
そう言い終る前に、公季の腰が浮いて居た。政隆は浅く一礼すると、公季の後を追うべく立ち上がった。
公季の居間において、政隆は二人きりで向かい合った。話を切り出したのは、主君公季である。
「何とか、其方(そなた)に磐城郡を残して遣(や)る事は出来た。」
「有難き次第と存じまする。」
政隆はすっと頭を下げた。公季は頷(うなず)きつつ、言葉を接ぐ。
「信夫郡は、その多くが荘園と成り、庄司を新たに任ずる事と成った。寄進先の意向に因り、庄司には兼光の本家筋に当たる、甥(おい)の近藤脩行(のぶゆき)が任ぜられるであろう。そして菊多郡司には、平安忠が就(つ)く事と相(あい)成った。」
両家共、村岡重頼討伐には欠かせぬ勢力であった。それを思うと、信夫、菊多の割譲は已(や)むを得ない事であると、政隆は自身に言い聞かせた。
政隆の心中を推し量る様に、公季は告げる。
「其方(そなた)は逆賊討伐第一の武功が有る。仍(よっ)て儂(わし)は、磐城平家の官職を削(けず)る事が有っては成らぬと主張した。そして、信夫郡内伊達地方を残し、菊多郡の代りに、磐手郡司の就任に漕(こ)ぎ着ける事が叶(かな)った。」
「有難き御配慮にござりまする。」
磐手郡の名は奥州に居た頃に、殆(ほとん)ど聞いた記憶が無い。大炊助(おおいのすけ)であった頃、陸奥の税収を記した帳簿にて、僅(わず)かに目にしたのみである。
つと公季は、部屋の隅(すみ)に置いて在った木箱から巻物を一つ取り出して、政隆の前に広げた。それは、奥州の地図であった。公季は、地図の上部を指差す。
「磐手とは、ここじゃな。」
陸奥国府多賀城の北方胆沢(いさわ)郡に、蝦夷(えみし)の抑えとして鎮守府が置かれて居る。日高見(北上)川に沿って北に和賀(わが)郡、稗貫(ひえぬき)郡、志波(しわ)郡が在り、その奥が漸(ようや)く磐手郡である。倭(やまと)の中では津軽と同様、郡が置かれて居る地域の最北端であった。地図には詳細な記載は無く、何(どれ)程の広さなのか、又津軽郡とは道が通じて居るのか、共に謎である。
少なくとも、胆沢鎮守府よりも遥か先に在り、倭(やまと)の支配が薄い地である事に間違いは無い。磐城の兵を以(もっ)て、容易に纏(まと)められるとも思えない。政隆は、面倒を一つ押し付けられた様な気持に成った。
地図より一歩下がり、政隆は公季に礼を執った。
「磐手郡の位置が判(わか)り申した。大殿(おとど)には感謝を申し上げまする。」
公季は苦笑して答える。
「此(こ)は、鎮守府に命じて作らせた地図と聞いて居るが、残念ながら正確さに欠く。磐手郡内に在る厨川柵(くりやがわのき)が、小路に因(よ)って胆沢と直結して居るのが、責(せ)めてもの幸いじゃな。」
確かに、律令制小路と定められた街道が、逢隈(阿武隈)河口の名取より分岐し、胆沢鎮守府を経て厨川まで延びて居る。鎮守府の北には鳥海柵が在り、其の先には黒沢尻柵が在る。柵(き)とは、城よりも小規模な軍事拠点である。その北には磐基(いわもと)の駅家(うまや)が置かれ、徳丹城、志波城を経て厨川柵に至る。
陸奥北方を見詰める政隆に向かい、公季は注意を述べる。
「其方(そなた)を磐手郡司にしたは、飽(あ)く迄(まで)四郡大領の格式を維持する為である。間違っても、彼(か)の地に府を移す事等無き様。蝦夷(えみし)とのいざこざは、大乱に発展する危険を伴う。そう成れば、朝廷は数万の軍勢を整えねば成らぬ。それに、其方(そなた)自身の命も危うく成ろうぞ。」
「はっ。承知してござりまする。」
「それならば良い。其方(そなた)はこの後、四年間は丹後の国政に追われる事と成る。それを無事に務め上げ、各国の守を歴任して行けば、何(いず)れは陸奥守、鎮守府将軍任官の機会も訪れるであろう。そう成って初めて、磐手に手を伸ばす力を得られるやも知れぬ。」
政隆は承服の意を示した。そして公季は話を終え、政隆に四郡大領の任官状を手渡した。政隆はそれを恭(うやうや)しく押し戴くと、懐に納めて、公季の間を辞して行った。
回廊を渡って居ると、庭から鶯(うぐいす)の声が聞こえた。よく見れば、紅梅の中に一点、褐緑色が見える。政隆はふと足を止め、初春の情景に心が和(なご)んだ。
(この先、再び寛(ゆったり)と梅を愛(め)でる時は来るであろうか?)
胸に手を当て、政隆はふとそう思った。懐中には二通の任官状が納められて居る。一通は丹後守。そしてもう一通は奥州磐城、伊達、津軽、磐手四郡の大領職である。遠く隔(へだ)たるこれ等の地を、己の手で管理せねば成らない。父政道も常陸介に任官したが、磐城と常陸府中は隣国であった。それに比べ奥州の内二郡は、本州最果(さいは)てとも言える地である。一時(いっとき)和(なご)んだ心を再び重くして、政隆は再び歩き始めた。
*
部屋に戻ると、玉綾姫が政隆の戻りを待って居た。しかし、帰って来た政隆の顔に精彩が見られない。恩賞の結果が、期待通りに行かなかったのではと推察し、姫は黙って政隆の着替えを用意した。それを横目に、政隆は懐より二通の書翰(しょかん)を取り出し、姫に渡した。政隆は本領の沙汰を待って、国司任官と併せて玉綾姫に報せた。姫は怖々(こわごわ)それを受け取り、開いて目を通す。
俄(にわか)に、姫の表情が綻んだ。
「殿、おめでとうござりまする。」
政隆は着替えながら、強張(こわば)った顔で頷(うなず)く。
「私が望んだ通りに、大殿(おとど)は取り計ろうて下された。これ程嬉しい事は無い。」
しかし姫は、政隆の表情の翳(かげ)りに不安を感じた。
「殿。」
姫の顔を見て、政隆は己(おの)が心情を露呈して居た事に気付いた。ふと表情を和(やわ)らげて、政隆は姫に告げる。
「いや、姫が気になされる事は、何一つござりませぬ。只、己に掛けられし責務の重さに、身が引き締まる思いがしただけにござりまする。国守の役目は、初めて仰せ付かる事にて。」
姫は、不可思議な顔をして尋ねる
「国守の任とは、先の戦(いくさ)よりも難しき物なのですか?私の親類には、国守を務めた者は幾人も居りまする。しかし、大乱を鎮圧された御方は、殿を措(お)いて他に知りませぬ。」
政隆は、姫を見詰めた。
「成程(なるほど)。確かに今の心境は、出陣の前の、何が待ち受けて居るか分からぬ時と同じ物じゃ。そして仰(おお)せの如く、丹後において、村岡二万騎に匹敵する恐怖が有るとも思えぬ。」
政隆の顔から強張(こわば)りが取れ、穏やかに成った。
「有難き御言葉を頂戴致しました。何やら、肩の荷が下りた気分にござりまする。」
「それは良うござりました。」
二人は向かい合い、楽しそうに笑い出した。
そこへ、侍女が早足で姿を現した。
「申し上げまする。藤原正頼様、信田頼望様、御別れを申し上げるべく、御越しにござりまする。」
「おお、直ぐに御通し致せ。」
政隆は服装を正して上座に座り、玉綾姫もその隣に控えた。
間も無く、正頼と頼望の両名が、侍女の案内を得て現れた。部屋の入口に二人は座し、礼を執る、そして正頼が代表し、挨拶を述べる。
「此度、我等は坂東に戻る事と相成り申した。仍(よっ)て、その前に丹後守様に御挨拶を申し上げたく、参上仕(つかまつ)り申した。」
「御気持、有難く存ずる。さあ、先ずは中へ入られよ。」
「畏(おそ)れ入りまする。」
二人は立ち上がり、政隆より二間を隔(へだ)て、再び腰を下ろした。
政隆は両将を見渡し、笑顔で尋ねる。
「待ちに待った県召(あがためし)じゃ。満足の行く位官は得られ申したか?」
二人共朗(ほが)らかな表情を湛(たた)えて居たが、先ず頼望が口を開いた。
「某(それがし)は、所領の有る常陸国信太郡の大領を仰せ付かり申した。故郷へは、錦を飾る事が出来まする。これも偏(ひとえ)に、丹後守様の御口添えの賜(たまもの)にて、感謝を申し上げる次第にござりまする。」
政隆は照れた様子で答える。
「信田殿の郡司任官は、朝廷に武勲が認められた証(あかし)にござる。私の口添え等、途(と)んでもない。」
続いて、政隆は視線を正頼に向けた。
「正頼殿の方は、首尾は如何(いかが)にござった?」
「はっ。奥州亘理(わたり)郡の大領を拝命致し申した。」
「ほう、亘理にござるか。」
亘理郡は逢隈(阿武隈)河口南岸に位置し、海道の最北端である。海道諸郡は現在、磐城平家の家臣が駐屯したまま、実質支配を行って居る情況に在る。朝廷としては、磐城家の勢力が北進するのを好まず、多賀城の安泰の為にも、正頼を間に置いて、楯としたのであろう。
正頼の言葉には、続きが有った。
「加えて、畏(おそ)れ多くも下野守任官の大命が下り申した。」
「ほう。かつての秀郷公と、同じ官職でござるな。」
「はい。安和(あんな)の変にて、祖父千晴は失脚の憂(う)き目に遭(あ)い申したが、漸(ようや)く故国へ還(かえ)る思いが致しまする。」
五十五年前の政変にて、下総へと追われた千晴流であったが、正頼の代で漸(ようや)く、曾祖父秀郷の地位を復活させるに至った。正頼は得意顔である。政隆は戦友の昇進を喜ぶ一方、兼光の下に纏(まと)まる下野武士団に対し、楔(くさび)を打ち込む為の、朝廷の策略であると考えられた。
先に行われた除目(じもく)の場で、正頼の姿を見た記憶は無い。怖らく、兼光と繋(つな)がりの有る公卿を牽制(けんせい)する為に、不意を打って仗議(じょうぎ)で定めたのではと勘繰(かんぐ)られた。下野団は上国であるので、守と成った正頼は、従五位下に叙された。位では、政隆の上に立つ事と成る。
政隆は二人に、故国での活躍を期待する旨を告げた。両名も又、政隆の新天地に幸い有る事を願った。和(なご)やかな会話で名残(なごり)を惜しんだ後、二人は政隆と玉綾姫に辞儀をして、静かに去って行った。
二人の後を見送りに、政隆は縁側まで出て行った。そして、ぼそりと呟(つぶや)く。
「故郷へ、帰って行くか。」
頼望は本領の郡司と成り、正頼は祖先の地の守(かみ)と成った。そして丹後守と成った政隆の胸中には、姉を殺された遺恨(いこん)が渦(うず)巻いて居る。政隆は、酷(ひど)く二人を羨(うらや)む気持が生じて居る事に気付いた。
その夜、政隆は磐城の鵜沼昌直に宛(あ)てて、書翰(しょかん)を認(したた)めた。郡司の政隆自身が丹後守を兼帯して帰国が叶(かな)わぬ為、昌直を少領(しょうりょう)として郡政を委(ゆだ)ねる旨の内容であった。又、磐城平家家臣望月国茂が、暫定的に安達と磐瀬両郡を抑えて居るが、近々新任の郡司が着任する故に、その後は兵を伊達郡へ転進させ、望月に伊達郡を任せる旨も認(したた)めた。加えて、津軽と磐手の郡衙(ぐんが)には、少領、主政(しゅせい)、主帳(しゅちょう)を留任させた上、郡政を委任する事とした。これ等の書翰(しょかん)には郡司の印を押し、公式の文書とした。
そして政隆は更(さら)にもう一通、郡司の印を用いない非公式な書翰(しょかん)を、昌直に宛(あ)てて認(したた)めた。海道六郡、即(すなわ)ち南より、菊多、磐城、標葉(しめは)、行方(なめかた)、宇多、亘理(わたり)の六郡は、祖父政氏、父政道の代に当家に臣従した過去が有り、加えて昨年の戦(いくさ)の為に現在、宇多と亘理に兵を駐屯させたままである。しかし近い内に、先の戦友下野守藤原正頼が、亘理郡大領を兼帯した為、家臣を派遣して来る事と成る。これにはすんなりと郡衙(ぐんが)を明け渡し、いざこざを生じさせぬ様にすべき事。又、隣郡宇多にも郡司が派遣されるであろうから、北方の軍は一旦、行方(なめかた)以南に退(しりぞ)く事。又菊多は、出羽権守(ごんのかみ)平安忠が正式に郡司に任官したので、郡境に注意を払いつつも、表面は静謐(せいひつ)を保つ事。以上の事を注意として掲(かか)げた。そして非公式ではあるが、磐城の他にも標葉(しめは)、行方(なめかた)は実質、磐城平家の勢力下に在った歴史が有る。郡司の任官は無いが、武力を以(もっ)てこの地を守り抜く様。政隆は密命を下した。戦功を挙げながらも、朝廷の威光が届かぬ最果ての地を恩賞として宛(あて)がわれた政隆の、譲る事の出来ぬ意地であった。
又、政隆は先の戦(いくさ)で共に戦った奥州坂上氏にも、書状を認(したた)めた。奥州安積(あさか)郡は仙道が貫通し、磐城、会津と繋(つな)がる交通の要衝である。六郷を有する広大な郡であるが、逢隈(阿武隈)山中に荘園が発達して居た。小川、丸子、芳賀、小野の四郷は悉(ことごと)く荘園と成り、坂上氏が晴れて庄司を任される事と成った。坂上氏は田村麻呂の末裔である事を強調し、この荘園を田村庄(たむらのしょう)と称した。三春の平沢館は、田村庄内に在る。磐城家の香華院(こうげいん)が再建されるまでの間、政隆は坂上顕雄に対し重ねて、祖母の菩提を頼んだ。
他に隣郡では、白河郡の分割も成された。常世(とこよ)、高野(こうや)、依上(よりがみ)の三郷は高野郡として独立し、かつて磐城家三大老の一人であった高野盛国の嫡流が、郡司に復権した。又、石川と長田の両郷は荘園化が進み、石川庄(いしかわのしょう)と成った。しかしこれ等の地方が、再び磐城平家に服属する事は無かった。所領を接する常陸の平安忠、下野の藤原兼光等の勢力が増し、安易に一勢力に服属できる情勢ではなく成ったからである。
磐城家に取って今一つ幸いであった事が、常陸国において有った。久慈川上流の山間(やまあい)に発した佐竹庄(さたけのしょう)の地頭職を、伯父の守山勝秋が正式に拝命したのである。これに因(よ)り、平安忠が進出した菊多庄は、側面に油断の成らぬ勢力を抱(かか)える事と成り、磐城への介入を阻(はば)む効果が生ずる。
磐城の事だけでも、成すべき事は山程ある。だのに今後は、丹後の事も責任を以(もっ)て処さねば成らない。その夜、政隆は十通の書翰(しょかん)を書き上げ、信頼出来る磐城出身の郎党に、それを託した。郎等は朝一番で閑院殿を発ち、奥州へ下向して行った。
奥州の事に関し、己が出来得る事は成した。後は磐城の臣を信じ、心を丹後に向けるのみである。
早朝の爽(さわ)やかな空気の中、庭を散策して居ると、昨日まで蕾(つぼみ)であった桃の花が、僅(わず)かに開き始めて居るのに気付いた。春の陽気が、政隆の心に活力を注(そそ)いでくれた。