第二十七節 大相国の姫

 不破関(ふわのせき)を越えて近江国に入った時、辺りはすっかり秋の気配に包まれて居た。勢多の国府近く、栗太団に軍勢を駐屯させた日、政隆は閑院家と兵部省へ早馬を遣(つか)わし、翌日京師へ凱旋する旨を伝えた。愈々(いよいよ)、郷里に無事帰れる事を実感し始めた上方兵達は、妙にそわそわし、気分が昂(たかぶ)って居る様である。一方で、坂東武者は存外静かであった。しかしそれは、これから行われる論功行賞という、嵐の前の静けさであった。既(すで)に平安忠は平維衡(これひら)、藤原兼光は兄文行の一族を通じ、太政官の高官に働き掛けを始めて居た。

 翌日、賀茂川の東岸に達した官軍の元へ、内裏(だいり)より使者が遣わされて来た。平安京内には、主立つ将と僅(わず)かな兵のみを率い、兵の大半は洛外に留め置く様に、との下知であった。政隆はこれを神妙に承ると、各将の馬廻(うままわり)を本隊に残し、後は広瀬十郎に任せ、音羽山の清水寺に待機させる事にした。総勢凡(およ)そ二百騎の身軽と成り、追捕使(ついぶし)は洛中へと入って行った。

 追捕使(ついぶし)は、官軍旗を堂々と掲(かか)げた物の、賊将村岡重頼を梟首(きょうしゅ)する事は憚(はばか)った。奥州の秩序を、己(おの)が野心の為に著(いちじる)しく乱した罪は重いが、縁戚上は義理にも、政隆の伯父に当る。又一部では、この戦(いくさ)を身内の争いと捉(とら)える者も在り、政隆は残忍な印象を持たれる事を避けたい気持であった。

 京人の注目を浴びながら、一行はやがて大内裏に到着した。朱雀門を守る衛兵の前に政隆は進み出て、追捕使(ついぶし)の凱旋を告げる。そして重い音が響き渡り、朱雀門は厳(おごそ)かに開かれた。ここより中へ入る事が許されたのは、追捕使四等官以上に任じられて居る平政隆と平安忠のみであり、他の将兵は門前待機と成った。

 朱雀門を潜(くぐ)った直ぐ先左手が兵部省であり、二将は朝堂院の応天門を右手に見ながら、省内へと入って行った。一室に通されて待つ事暫(しば)し、両将の元を訪れる者が在った。追捕使長官(かみ)の藤原実成と、判官(ほうがん)坂上広高である。二人共、武官の束帯(そくたい)を着用して居た。主家を前に、政隆は手を突いて頭を下げたが、実成はその手を取って破顔した。
「よくぞ、奥州平定を成し遂げてくれた。これにて、我が閑院家も安泰ぞ。」
政隆は畏(かしこ)まって一礼すると、隣に座す安忠を実成に紹介した。
「実成様に申し上げまする。此方(こちら)は常陸国府中の、平安忠殿にござりまする。官軍の坂東下向後に追捕使の主典(さかん)職を務め、手勢二千騎を動員して下さり申した。」
実成の視線が、安忠へと移された。安忠は恐縮して頭を下げる。
「平維茂(これしげ)が子、安忠にござりまする。」
「うむ。かつての常陸大掾(だいじょう)国香殿の末裔にして、常陸平家の棟梁と聞き及んで居る。此度の戦(いくさ)では、善(よ)くぞ官軍に身を投じてくれたのう。」
「東国の一大事なれば、当然の事と存じまする。」
安忠の言に、実成は満足気に頷(うなず)いた。

 傍らでは、広高が政隆に話し掛けて居る。
「村岡重頼の軍勢は、二万を数えたと聞く。御主が率いた軍勢は、僅(わず)かに三千。よくぞ半年で、勝利を収められた物じゃのう。」
「陽動作戦が功を奏し申した。陸奥守様並びに鎮守府将軍には、逢隈(阿武隈)川北岸へ出張って戴いた他、野州兼光殿は白河関(しらかわのせき)、安忠殿には奈古曽関(なこそのせき)へ出兵して貰(もら)い、敵勢を分散させた後に、一気に敵の本城へ攻め寄せる事が叶(かな)い申した。」
広高は頷(うなず)きつつも、微(かす)かに表情を曇らせる。
「成程(なるほど)のう。これだけ多くの者の手を借りて、攻め落としたは貴殿の父君が旧領じゃ。怖らく父君の旧領は分割され、貴殿が領有出来るは、その一部と成ろうぞ。」
「はっ。其(そ)は覚悟の上にござりまする。」
「うむ。」
政隆に取っては、一族の平安を壊した村岡重頼を滅ぼす事が第一であり、所領の事は二の次であった。只、磐城郡には父の旧臣が多数残り、戦(いくさ)を通じて政隆に忠誠を尽す様に成った。又、幼き頃に母や姉と過ごした思い出も有る。亡父の旧領の内、磐城郡だけには格別な執着が有り、絶対に譲れぬ処であった。

 間も無く、追捕使(ついぶし)四名を招喚(しょうかん)する使者が、太政官より遣わされて来た。使者の案内を得て、一行は兵部省を発つ。案内されて辿(たど)り着いた先は、以外にも内裏の建礼門であった。

 政隆がここへ入るのは、出陣の前以来二度目である。しかし、此度は以前と比べ、些(いささ)か扱いが違う。建礼門が開かれると、目の前に承明門が現れる。そして承明門が開かれると同時に、笏拍子(しゃくびょうし)、篳篥(ひちりき)、神楽笛(かぐらぶえ)、和琴(わごん)が鳴り始めた。四人は実成を先頭に、政隆がその真後ろに控え、広高をその右手、安忠を左手に配し、厳かに進み始めた。やがて、百官が列席する紫宸殿(ししんでん)の前で跪(ひざまず)き、恭(うやうや)しく平伏(ひれふ)す。それと同時に、御神楽(みかぐら)は鳴り止んだ。

 この場において、追捕使長官(かみ)実成より、凶賊誅滅(ちゅうめつ)が完遂された旨が報告された。犒(ねぎら)いの言葉を掛けたのは、関白頼通である。そっと辺りを見遣(みや)ると、太政大臣公季(きんすえ)の姿も在った。奥の御簾(みす)の先におわすのは、怖らくは帝(みかど)であろう。他にも、高官と思(おぼ)しき姿の面々が居並んで居る。

 太政大臣公季は政隆に対し、奥州における戦果を尋ねた。政隆は賊将村岡重頼を討ち取り、南部奥州十一郡を奪回した旨を伝え、公季は至極(しごく)満足そうであった。

 最後に、東山東海道凶賊追捕使の解散が、関白より告げられた。政隆は、預かって居た追捕使(ついぶし)の印章を実成に渡し、実成の手から、太政官に奉還された。追捕使の職を解かれた四将は、再び正面に平伏した後、粛々とその場を辞し、承明門、更(さら)には建礼門の外へと退出した。

 そこで待機して居た藤原兼光等は、幾分待ち疲れた様子であった。そして、政隆の口より追捕使(ついぶし)が解散した事を告げられると、俄(にわか)に驚駭(きょうがい)した面持ちに成った。兼光は歩み寄り、政隆に問う。
「我等は今し方、京に帰還したばかりにござる。行き成り軍を解体し、その後に恩賞が出される保証はござるのか?」
政隆自身、急に事が運び、当惑して居た。そこへ、坂上広高が横から口を挟む。
「目下、朝廷では秋の除目(じもく)に追われて居る。もしも恩賞が、司召(つかさめし)に因(よ)る位官の昇進であった場合、戦果の報告が遅れれば、熱(ほとぼり)の冷めた翌秋に成される怖れがござる。それで宜しいか?」
「ううむ。」
兼光は半ば納得した様子で、後方へ退(しりぞ)いた。政隆も広高の言で、漸(ようや)く得心する事が出来た。

 此度官軍に加わり功を挙げた将は、恩賞が下されるまでの間、都で待機を申し付けられた。遅くとも来春の県召(あがためし)までには、何かしらの沙汰が下される予定である。その間、平安忠は平維衡(これひら)邸へ、そして藤原兼光は、甥(おい)の脩行(のぶゆき)の邸に逗留(とうりゅう)する旨を告げ、実成の元を辞して行った。

 他の者、藤原正頼や信田頼望、守山勝秋、坂上顕雄等は、閑院殿に留まる事と成った。各将は馬に跨(またが)って隊列を組み、閑院家の者を先頭に帰路に着いた。

 最も早く恩賞に在り付けたのは、畿内より徴発された兵達である。兵部省は洛外に駐屯する三千の兵を早々に解散させるべく、金蔵より銭を収めた箱を運び出し、東山へと送った。荘園が発達し、国家の税収が減少の一途を辿(たど)る昨今、それは決して、命懸けで戦った兵が満足の行く額ではなかった。しかし朝廷側からすれば、京洛の近郊において、兵に暴動を起されては面倒な事に成る。故に、地方で田畑を耕して居た頃の収入より、一回り大きな額を配る事で、渋々なれども、兵を郷里に帰す事が出来たのである。ここに、政隆が率いて奥州を平定した官軍三千騎は、完全に解体された。兵の解散を見届けた後、将を務めて居た広瀬十郎は、己の役割が終った事を悟った。そして単騎、閑院家の主君政隆の元へ、馬を走らせて行った。

 京の街は、恰(あたか)も海内全土が平穏であるかの如く、人々は穏やかに過ごして居る風(ふう)に見受けられた。洛中にも火付け盗賊の類(たぐい)は出没するが、それは検非違使(けびいし)に鎮圧される程度の勢力に過ぎない。十郎は坂東、奥州の地において、朝廷が漸(ようや)く集めた三千騎以上の武力を持つ、強大な武士団という物を目(ま)の当りにした。今は隣接する勢力が拮抗(きっこう)し、牽制(けんせい)し合って居るが、もしもこれ等の勢力を統一し得る者が現れたら、間違い無く天下は動くと、十郎は考えさせられた。

 ふと、賀茂川の辺(ほとり)に立つ法成寺(ほうじょうじ)より、鐘(かね)の音(ね)が聞こえて来る。嵐山の方角を見ると、天が朱(あけ)に染まって居た。

 追捕使(ついぶし)が解散し、政隆が再び閑院家に落ち着く様に成ってから間も無く、秋の除目(じもく)が行われた。所謂(いわゆる)中央官吏の人事であり、司召(つかさめし)とも呼ばれる。この除目(じもく)において、追捕使(ついぶし)に加わった者から、三名の位官昇進が有った。

 先ず、長官(かみ)を務めた藤原実成が、右衛門督(うえもんのかみ)より中納言に昇進した。中納言は大納言に次ぐ官職であり、天下の政(まつりごと)を司(つかさど)る太政官の中堅的な地位に在る。太政大臣公季に取っては、自家の追風と成る人事であった。加えて実成の子公成(きんなり)も、蔵人頭(くろうどのとう)より左近衛中将に昇進した。

 又、判官(ほうがん)を務めた坂上広高は、正六位上近衛将監(しょうげん)と成り、主家公成の補佐に当たる事と成った。

 政隆に取って意外であったのは、伯父守山勝秋が、従五位下民部少輔に任じられた事である。民部省は諸国の戸籍や租税、土地区画に係る民政一般が職掌である。勝秋は省内の卿、大輔に次ぐ地位に就任した訳である。又位だけ比較すれば、旧主の平政氏や政道よりも上である。これを聞いて、未だ恩賞に在り付いて居ない者は、大きな期待を抱いた。

 秋の除目(じもく)が終わった後、閑院家では盛大な宴(うたげ)が執り行われた。一つは実成と公成、加えて勝秋や広高の昇進を祝う為。そしてもう一つは、先の官軍の大勝利を賀し奉(たてまつ)る事が目的である。此度奥州遠征を成功させた事で、公季の発言力は、関白頼通に劣らぬ物と成るであろう。今は法成寺(ほうじょうじ)の先代、道長の威光が有る為、頼通が仗儀(じょうぎ)を導ける立場に在るが、次の代で閑院家が、氏長者(うじのちょうじゃ)に君臨する可能性が無いとは、言えない状況と成った。故に、万一閑院家が勢力を逆転した場合に備えて、多くの公卿が祝賀の宴(うたげ)に参列して居た。

 上座中央には太政大臣公季が座り、その左右には中納言実成と、左中将公成が座した。そして、下側の前方には、此度の戦(いくさ)で大功を立てた将が着座し、その筆頭たる席を宛(あ)てられたのは、政隆であった。

 宴(うたげ)の話題が、閑院家の昇進から奥州戦役に移ると、上座の公季は誇らし気に、政隆の武功を説明し始めた。政隆率いる官軍が、如何様(いかよう)にして村岡重頼の所領を平らげたか、既(すで)に兵部省へは、詳細な報告が成されて居る。それを受けて勝秋は位官昇進し、又公季は居並ぶ公卿達に、政隆の戦(いくさ)振りを披露(ひろう)する事が出来たのである。

 未だ十代後半の若者が、気性の荒い東夷(あずまえびす)を従え、二万を纏(まと)める大勢力を討ち滅ぼしたという話は、聞く者全てを驚愕(きょうがく)させた。傍(はた)から見れば、京風の作法をも見に付けた、爽(さわ)やかな若者である。そが何(ど)の様にして荒くれ武者達を統率し得たのか、興味が尽きなかった。

 参列者の中には参議や、兵部を管掌する弁官の者も居る。これに大、中納言が味方に加われば、右大臣実資(さねすけ)も動き、関白左大臣頼通、内大臣教通兄弟の専制を抑える事が出来る。その為の重要な駒が、政隆であった。

 道長は、帝(みかど)の外祖父として権力を手中にし、それを以(もっ)て子等を高官に取り立てた他に、道長四天王と呼ばれる精強な武士団を従えて居た。位官に因(よ)る京での力に加え、荘園からの収入や、従属する武士団といった地方の力。言い換えれば地位と財力、そして武力。この三つが、藤原家氏長者(うじのちょうじゃ)と成る為に求められる物であった。閑院家は目下、位官では道長の息子等に追随して居る。荘園は関白家程ではないにせよ、有して居る。しかし私兵と出来る軍勢は、質と数の双方において、関白家に大きく遅れを取って居た。

 しかし今、公季の家臣政隆は、奥州二万騎の大将と成る可能性を持って居る。公季に取って政隆は、金将に成る一歩手前まで辿(たど)り着いた駒であった。此度の宴(うたげ)は、政隆を金にする為の、最後の一押しという目的を含んで居た。

 宴(うたげ)も酣(たけなわ)と成った。列席して居た平安忠や藤原兼光は、頼みと成ると認めた人物の席を回っては、酌(しゃく)をし、鄭重に挨拶を申し述べて居る。一方で政隆は、高官達を前に気疲れをして居た。そして、裏で控えて居た広瀬十郎を誘い、厠(かわや)に立つ振りをして、宴席を離れた。

 空には、満月が一際(ひときわ)光彩を放ち、輝いて居た。政隆は月を望みながら、爽(さわ)やかな気分を覚え、ゆっくりと回廊を渡って行く。しかし突然、十郎が政隆の袖(そで)を引いた。我に返った政隆は、薄暗い回廊の先に、人影を認めた。

 男が一人、庭に下りる階梯(かいてい)の上に座り、月を見上げて居た。やがて月光が、男の顔を照らし始める。
「信田殿。」
政隆は意外な顔をして、信田頼望を見詰めた。その声に頼望は気が付き、腰を上げる。
「これは政隆様。京の月も風流でござりまするな。」
「先程から姿が見えぬと思って居り申したが、ずっとここに居られたのでござるか?」
頼望は苦笑する。
「某(それがし)は田舎者にて、太政大臣家の祝宴に参列するは、場違いの様な気が致しまして。」
「何を申される。信田殿の働き無くば、本日の祝宴は催されなかったのでござるぞ。」
「その御言葉、嬉しゅうござりまする。」
頼望はすっと頭を下げた。

 政隆は階梯(かいてい)に腰を下ろし、天を見上げた。
「成程(なるほど)。月明りに照らされた庭も風流じゃのう。ここで飲み直すのも一興じゃ。十郎、この場所にて三人で飲みたい。酒と杯を持って来てくれ。」
十郎は一礼し、宴席へと戻って行った。

 政隆の勧めを受けて、頼望は隣に腰を下ろした。ふと、政隆が月を眺めながら尋ねる。
「信田殿は確か、常陸国信太郡の出身にござったな。」
「はっ。」
「先の戦(いくさ)、貴殿は大いに軍功を立てられた。怖らくは何処(いずこ)かの郡司、もしくは庄司に任ぜられるであろう。御望みの地はござるか?私から大殿(おとど)に、申し上げて置き申そう。」
頼望は目を伏せ、少し間を置いてから、再び政隆を見詰めた。
「されば、下総国相馬郡に。」
政隆は、目を白黒させる。
「相馬郡は確か、千葉の忠常殿が所領。それを貴殿が朝廷より賜(たまわ)っても、差支(さしつか)えござりませぬのか?」
頼望は急に笑い出した。
「仰(おお)せの通り。確かに某(それがし)が相馬郡司と成れば、忽(たちま)ち忠常様に潰(つぶ)されてしまい申そう。」
その笑顔には、些(いささ)か翳(かげ)りが内包されて居る様に見受けられた。

 ふと、人の足音が近付いて来るのに気付いた。その方を見れば、十郎が徳利(とっくり)を小脇に抱え、片手に杯三枚を持って現れた。十郎は二人の前で膝(ひざ)を突き、杯を渡した後、順に酒を注(つ)いだ。政隆と頼望は同時に杯を呷(あお)ると、顔を合わせて高らかに笑った。

 頼望が十郎にも酒を注(つ)いで遣(や)って居る時、政隆が横から声を掛けた。
「村岡重頼は、曲り形(なり)にも忠常殿の同盟勢力。それを討つのに助勢して、その上恩賞に与(あずか)ったと成れば、忠常殿より何らかの咎(とが)を受けるのではござらぬか?それを覚悟の上で、官軍に加わって下されたのか?」
十郎に酒を注ぎ終えた頼望は、政隆の方へ向き直った。
「忠常様は、武力を以(もっ)て坂東武者の棟梁と成る、野望を抱(いだ)いてござりまする。先代の忠頼様であれば、武蔵、相模、下総の三国を統(す)べられて居られた故、それも夢ではなかったやも知れませぬ。しかし、忠常様が相続したは、僅(わず)かに下総一国と、常陸、上総の一部のみ。忠常様が飽(あ)く迄(まで)野望を実現させ様となされるので在らば、坂東の地に再び、天慶(てんぎょう)以来の大乱が起り兼ねませぬ。」
「しかし忠常殿は、十年程前に源頼信殿と平維幹(これもと)殿の軍に敗れ、源氏に名簿(みょうぶ)を差し出したのでは無かったか。」
頼望は首を横に振る。
「筑波平家は、今や為幹(ためもと)殿の代と成り、源家の頼信殿は、御歳(おんとし)五十五を超えられて居られまする。御嫡男頼義殿は忠常様よりも御若く、忠常様は今は只、時を待って居るだけにござりまする。」
「成程(なるほど)。頼信殿亡き後は、恐い者が無く成るという訳か。そして貴殿は、今の内に忠常殿を諫(いさ)め得る力が欲しいと。」
「御意。」
政隆と頼望は、再び互いの杯を満たし、酌(く)み交した。政隆は杯を乾(ほ)した後、大きく息を吐(つ)く。
「なれば、貴殿は信太の郡司と成るが、最も安全であろう。信太は常陸と下総、両勢力の狭間(はざま)に在る。忠常殿も下手(へた)に手を出して、信田家を常陸側へ追い遣(や)る事は致すまい。私から大殿(おとど)に、坂東静謐(せいひつ)の一策として、具申致して置こう。」
「痛み入りまする。」
頼望は政隆の方へ向き直り、ゆっくりと頭を下げた。政隆は杯を差し伸べて告げる。
「もう一献(いっこん)如何(いかが)かな?」
頼望は鄭重に、政隆の酒を受けた。

 満月は、先程よりも高く昇って居る。一方、秋の終りを告げるかの様に、冷たい夜風が吹き込んで来た。しかし、邸の隅(すみ)で酒を酌(く)み交す三人には、寒さは然程(さほど)感じられなかった。酔った所為(せい)も有るかも知れないが、心が温く感じられて居たのである。

 先の戦(いくさ)において、信田頼望が主君平忠常の意向に反して出陣に及んだ理由は、実はもう一つ有った。即(すなわ)ち相馬平家の再興である。

 国家反逆の罪は、九族に及ぶと言われる。かつて承平、天慶の乱を引き起した平将門と藤原純友の内、既(すで)に純友の子孫は歴史の闇へ消え去って居る。一方、将門の子孫の内、磐城平家の祖先は、天慶(てんぎょう)、康保(こうほう)の頃に軍功が有り、奥州南部の雄に台頭するに至った。この磐城平家が潰(つい)えてしまえば、将門の子孫も悉(ことごと)く、歴史の闇へと屠(ほふ)り去られるであろう。

 坂東では依然、平将門信仰が残されて居た。国司の悪政に苦しむ良民達は、心の救済を求めて、村に建つ鎮守に祈りを捧(ささ)げる。民は一見、鎮守様を拝んで居るに過ぎない。しかしその実、心の内では、村の古老より伝え聞いた八十余年も昔の話、坂東の地を統一し、民衆を国司より解放したという武将の姿を、思い描いて居るのであった。

 信田頼望も平将門の話を、父文国から聞かされて来た。それに因(よ)り、将門の嫡流たる誇りを抱くと共に、生まれながらにして、己の身が危険に晒(さら)されて居る事も知った。朝廷の恩赦を受けて居ない信田家は、四代に渡って謀叛の罪が及ぶ事と成る。初めて信太郡浮島に落ち延びた将国、二代目の文国、そして頼望。将門の犯した罪は、頼望の子にまで及ぶ事と成る。

 故に、頼望の孫の代を待ち、信田家は出来るだけ、所領の内でひっそりと過ごさねば成らぬと、当初頼望は考えて居た。その後、主家である千葉平家忠常が、徒(いたずら)に受領(ずりょう)に争(あらが)う姿勢を続けて居る事に危険感を抱(いだ)きつつも、何も出来ずに従い続け、悩み続けて来た。そして斯(か)かる折に、磐城平家の御曹司が官軍の大将を務め、祖国奪還の兵を挙げた事を聞いた。これが頼望をして、浮島より飛び出させる決断をさせた要因と成った。

 頼望は、態々(わざわざ)政隆に己の素姓を明かす事も無く、観月の杯を交して居た。片や太政大臣家の家司(けいし)を務め、磐城武士団の棟梁である。最早祖先の行いのみに因(よ)り、社会から外される事も無いであろう。一方で、信田家は同族と雖(いえど)も、事情が大きく異なる。頼望は、政隆の父政道と又従兄弟(またいとこ)である事を伏せたまま、戦友として酒を酌(く)み交した。

 やがて、冬が訪れた。峠は雪に埋(う)もれ、京と東国は隔絶された。今年の戦(いくさ)の恩賞は、秋の除目(じもく)に因(よ)って一部の者に成された物の、多くの者は春の除目(じもく)を待って居る。所領を広げ、家臣に恩賞を与えられる事を期待して居るのである。

 一方で、太政官では恩賞の沙汰を巡り、日々意見が交されて居た。問題は、恩賞として与える土地である。村岡重頼を討った事に因(よ)り回復した処は、悉(ことごと)くが平政道の旧領である。他の者にこの地を割いて遣(や)れば、此度の武勲一等の政隆は、父祖の地を削(けず)られて相続する事と成る。政隆が磐城武士団の大将と成る事で、漸(ようや)く閑院家は、関白家に匹敵する武士の力を持つ事が出来る。閑院家を目の上の瘤(こぶ)と目する関白派は対立の色を強め、議論は中々、解決へ辿(たど)り着く気配が見られなかった。

 斯(か)かる折、当の政隆は追捕使次官(すけ)の職を解かれ、元の大炊助(おおいのすけ)に復帰して居た。しかし、それも春の除目(じもく)の間までの、僅(わず)かな期間であろう。

 ある日政隆は、務めを終えて閑院殿に戻って来るなり、主君公季の間へ召し出された。怖らくは、先の戦(いくさ)に係る事、特に恩賞が絡(から)む話であろうと、政隆は予感した。

 公季の居間に着き、恭(うやうや)しく一礼をした政隆の目に映(うつ)った物は、公季の隣に座す奥方の姿であった。
(政(まつりごと)の話ではないのか。)
政隆は戸惑いを覚えた。公季の妻とはいっても、正室ではない。未だ四十路(よそじ)がそこ等の女性である。目的が分からず困惑する政隆を、公季は好々爺(こうこうや)の顔で迎えた。
「おお、政隆か。近う。」
「はっ。」
政隆はゆっくりと立ち上がり、部屋の中央へと歩を進める。主君と三間を隔(へだ)て、政隆は再び平伏した。

 急な話が有る様子ではない。公季は暫(しば)し、側室に政隆を観察させて居た。政隆も、迂闊(うかつ)に用を尋ねる訳には行かず、静かに控えながら、公季夫妻の様子を窺(うかが)って居た。

 ふと、側室が政隆に声を掛けた。
「政隆殿とやら、歳は?」
「はい。寛弘三年(1006)の生まれ故、今年で十八にござりまする。」
「父君の位官は?」
「正六位下に在り、奥州四郡の郡司を務めてござり申した。」
「はて、郡司にしては位が高いのう。」
「三条朝の御宇、長和年間に常陸介を拝命して居りました故。」
「ほう。父君は受領(ずりょう)に在らせられたか?」
政隆は、何の意図が有って尋ねて来るのか解らず、只正直に答えて居た。

 一通り質問が終った所で、公季は側室に告げる。
「如何(どう)じゃ。中々見所の有る若者であろう。補足すれば、平政道殿の旧領には、二万騎の武者が居ったという。政隆は春の除目(じもく)が終った頃には、奥州武士団の棟梁と成って居るであろう。又、軍功第一の扱いを受け、一国の守と成るやも知れぬ。」
側室は頷(うなず)き、政隆を見詰める。
「妾(わらわ)も、この者が気に入りました。歳も釣り合いますし、頼もしさも感じられまする。」
ふと、政隆の脳裏(のうり)に閃(ひらめ)く物が有った。確かこの側室は、玉綾姫の生母である。縁談に係る話である事が推察された。

 側室は、公季の方を向いて答える。
「成程(なるほど)。殿が婿(むこ)にと推される訳が良う解りました。都の作法を修め、武士の逞(たくま)しさを兼ね備えた男(おのこ)は、そうは居りますまい。後は殿の御力にて、高い位官を授けて下さりませ。」
公季はにんまりとした顔で首を縦に振ると、視線を政隆へと向ける。
「実は、本日其方(そち)を召し出したは他でも無い。其方(そち)に縁談を持って参ったのじゃ。相手は、我が末娘の玉綾じゃ。其方(そち)も幾度か会って居るであろう。歳も其方(そち)と変わらぬし、親の欲目やも知れぬが、器量も先ず先ずであろう。」
よもや、縁談が舞い込んで来る事など予期して居なかった政隆は、酷(ひど)く狼狽(ろうばい)して答えた。
「某(それがし)は、太政大臣家の姫君を妻に迎える等、畏(おそ)れ多き事にて。第一、姫様の御気持も汲(く)んで差し上げねばと。」
しどろもどろ答える政隆に、側室はおかしそうに告げる。
「実成殿から聞いた時には、妾(わらわ)も驚きました。姫が、殿が清水寺より拾って来られた男(おのこ)に、思いを寄せて居るとは。」
「中納言様が?」
そう言えば出陣の折、実成より、玉綾姫が石清水八幡より取り寄せた護符を受け取った事を思い出した。怖らく此度の件には、実成も絡(から)んで居るのであろう。

 公季は真顔と成り、政隆に相対する。
「姫の気持が其方(そち)に向けられて居る事、既(すで)に儂(わし)等は確認して居る。後は、其方(そち)の気持次第じゃ。返答を聞きたい。但(ただ)し、主家だの、太政大臣だのという事は、一切考慮せぬ様。頓(ひたすら)、其方(そち)の本心を聞かせよ。」
末娘の将来に係る事だけに、公季も真剣である。只、政隆を威圧する様な表情は、顕(あらわ)しては居なかった。

 暫(しば)しの沈黙が続いた。思い起せば、姫に初めて出会ったのは、薄汚い僧の形(なり)をして、三庄太夫の元から逃れて来たばかりの頃であった。政隆の持仏が姫を病(やまい)より救い、その礼を述べに来たのである。先の戦(いくさ)の出陣前には、戦勝祈願の御守りも戴いた。恩義を大切にする人と思われる。嫌いに成る要素等、寸分も有る筈(はず)は無かった。

 やがて、政隆はゆっくりと手を突いた。
「某(それがし)の如き者で宜しければ。」
その言葉で、公季夫妻の緊張も一気に解けた。ほっとした顔で、公季は政隆に言い渡す。
「それを聞いて安堵致した。姫も嬉しく思う事であろう。祝言(しゅうげん)じゃが、年内には上げる事と致す。春に成れば、何かと忙しゅう成る故に。」
側室も、優しい目を政隆に向ける。
「姫の事、何分宜しゅう御願い申し上げまする。」
急に丁寧な挨拶を受け、政隆は戸惑いながら答礼した。

 用件が済み、退出し様とする政隆に、公季は声を掛けた。
「これより、其方(そなた)は儂(わし)の子じゃ。言動には呉々(くれぐれ)も気を付けてくれ。」
「はっ。承知してござりまする。」
政隆は静かに頭を下げ、踵(きびす)を返して、公季の間を辞して行った。

 自室に戻るまでの間、政隆は長い回廊を渡りながら、惚(ほう)けた顔をして、物思いに耽(ふけ)って居た。昨今例を見ない事が我が身に起った事を、次第に現実の物と捉(とら)えられる様に成って来た。玉綾姫を妻に迎えれば、磐城平家は閑院藤原家と姻戚関係と成る。政隆から見れば、公季は義父、そして実成は義兄と成るのである。姉万珠と別れ、先の戦(いくさ)でも身内を犠牲としたが故に、天涯孤独の身と成ってしまった政隆に取って、この話は雲の切れ間より、一筋の光明が射し込んだ様な観が有った。

 しかし、有力貴族に近付き過ぎる事は、逆に大きな危険をも伴う。安和二年(969)、左大臣源高明(たかあきら)は皇太子廃立を画策した咎(とが)に因(よ)り失脚した。この折、下野の豪族藤原千晴は、左大臣派であったが為に、下野における勢力を悉(ことごと)く削(そ)がれてしまった。故に、千晴の嫡流である正頼は、下総の一豪族として過ごして来たのである。但(ただ)し仮に、閑院家が関白家と政争を起して敗れたとしても、政隆が磐城の地に在り、海仙両道の武士団二万騎を纏(まと)め上げて居れば、朝廷もおいそれと手は出せぬ、とも考えられる。思えば、政隆が奥州で勢力を維持する限り、関白家も閑院家に手出しが出来ぬ事を、公季が期待して居る様にも見受けられた。

 しかし、磐城の地を抑える為には、雪解けと共に彼(か)の地へ戻り、色々と手を打つ必要が有る。今は暫定的に鵜沼、望月等が抑えて居り、雪深い冬期には、さしたる問題も起らないであろう。但(ただ)し春に成れば、豪族の中には兵を動かし、所領の拡大を狙う者も出て来る怖れが有る。それを防ぐ為にも、政隆は家臣団の再編、再配置を行わなければ成らなかった。

 ふと、政隆の脳裏(のうり)に玉綾姫が過(よぎ)った。思えば、石清水八幡護符の御礼も申せぬままであった。次に見(まみ)える時は、先ず御礼より申しげ様と、政隆は考えて居た。

 正月には四方拝(しほうはい)の他、様々な宮中行事が催されるが、その前の師走(十二月)にも、行事の他に年末の挨拶回り等で、官吏は忙しく成る。仍(よっ)て政隆と玉綾姫の婚礼の儀は、霜月(十一月)に執り行われる運びと成った。

 今を時めく太政大臣家の婚儀である。四位以上の高官が、続々と閑院殿を訪れた。賓客の中には、関白や内大臣の姿も在る。これまで目通りも叶(かな)わなかった諸々(もろもろ)の高官が参列し、政隆はかつて無い緊張を覚えて居た。

 一方で儀式の間、政隆の隣に座って居た玉綾姫は、動ずる様子も無く、静かに段取りを熟(こな)して行く。流石(さすが)に閑院家の姫君であると、政隆は熟々(つくづく)感心した。

 儀式の途中、正客(しょうきゃく)より言葉を賜(たまわ)る場が有った。正客とは勿論(もちろん)、関白左大臣藤原頼通である。新郎と新婦は、粛々と頼通の方へ向き直り、頭を下げて御言葉を待つ。頼通が先ず述べた事は、父道長が病(やまい)に因(よ)り参列が叶(かな)わなかった事を、閑院家に詫びる言葉であった。

 続いて頼通は、政隆を見詰めて話し始める。
「新郎である平大炊助(おおいのすけ)は本年、朝廷が任命せし郡司を暗殺した上に、郡政を奪い取りし逆賊を誅滅(ちゅうめつ)したる、遖(あっぱれ)な若武者である。これを以(もっ)て南部奥州は朝威に帰し、海内は悉(ことごと)く、再び帝(みかど)が統(す)べられる地と成った。」
関白より御誉(ほ)めの言葉を賜(たまわ)った政隆は、身に余る栄誉に震えて居た。しかしその身体は、関白の結びの言葉で、一気に凍り付いた。
「聞けば、平大炊助(おおいのすけ)は平将門が玄孫の由(よし)。九族に及ぶ罪も、両人の御子の代には消滅致す。実にめでたき事である。」
式場が、俄(にわか)に騒然と成り始めた時、親族席に控えて居た実成が、関白に言上した。
「関白様、大炊助(おういのすけ)が曾祖父は、かつて藤原純友誅滅(ちゅうめつ)に大功有り。時の朱雀の帝より、恩赦を賜ってござりまする。」
それを聞いて頼通は、大きな声で笑い出した。
「おう、然様(さよう)であったのう。これは失言であった。今の言葉は無かった事に。」
頼通は苦笑して公季に詫びを述べたが、頼通派の公卿は近くの者と囁(ささや)き合い、何やら白けた雰囲気と成った。式を取り纏(まと)める坂上広高は、この場を打開すべく、急ぎ次の段取りである舞の披露(ひろう)へと移り、料理も新たに運び込ませた。しかし、幾人かの公卿は席を立ち、公季に一礼して退出して行った。

 これが、奥州武士団を配下に組み込もうとする公季に対し、頼通がそれを阻(はば)む一手であった事は、閑院家側には容易に推察された。これが春の除目(じもく)に大きく響いて来る事を、公季は微(かす)かに予感して居た。

 その後も、頼通、教通兄弟は御満悦の体(てい)で、式の最後まで見届けた。道長の名代を務めて居る事も一つの理由であろうが、閑院家の台頭を抑えるには、先程の失言一つで事足りると考えた故であろう。

 閑院家は、道長の子孫を除(のぞ)いては、他の家と比べ、抜きんでた力を持って居る。とは言え、国政を管掌する八省は左大臣頼通の下に在り、更(さら)には帝を補佐する関白の権限を以(もっ)て、仗儀(じょうぎ)は頼通の主導で進行される。公季は左大臣の上に位置すると雖(いえど)も、直轄の機関は無く、太政官における発言力を強める他に、頼通に対抗する術(すべ)は無い。その手段は差し当たり、二つ有る。

 一つは娘を帝の后(きさき)に差し出し、生まれた皇子(みこ)を即位させて、帝の外祖父と成る事。しかし、親王の中には道長の外孫が幾人も居る。頼通、教通の外孫と成る皇子(みこ)は未だ誕生して居ない物の、暫(しば)しは頼通の甥(おい)に当たる親王が、皇太子に立てられるのであろう。公季の代で閑院家が帝の外戚と成る可能性は、かなり低いと言わざるを得ない。

 もう一つは、荘園と共に発展して来た武士を、傘下に加える事である。荘園から得られる財力、武士の持つ武力を備えれば、有力貴族を自派へと引き込み、仗儀(じょうぎ)の主導権を奪う事が出来る。しかしこの策は、頼通に因(よ)って暗礁(あんしょう)に乗り上げ様として居た。

 多少のばつの悪さは有った物の、婚儀を無事に終える事が出来た。式の終りが告げられると、政隆は長い時間緊張を続けた疲れが、どっと体中に出て来るのを覚えた。しかし、これで仕舞(しまい)では無かった。実成が歩み寄って来て、急(せ)かす様に告げる。
「政隆、玉綾、関白様が御帰りになられる。礼を申し上げよ。」
直ぐに、政隆は返事が出て来なかった。政隆の官職は大炊助(おおいのすけ)である。その上に大炊頭(おおいのかみ)が居り、その又上には宮内卿が居る。関白と直(じか)に言葉を交すには、常識では、政隆の位官は低過ぎるのである。実成はそれを察した物の、時間が無い。政隆の手を引き、頼通の元へ向かう。
「玉綾も来い。」
兄の言葉に、玉綾姫もすっと立ち上がった。

 牛車(ぎっしゃ)の仕度が整った旨の報告を受け、頼通は弟教通との話を止め、ゆっくりと立ち上がった。その時、実成が頼通の前に姿を現し、一礼する。
「関白様、本日は御多忙の中、我が妹の婚儀に御臨席戴き、誠に有難く存じまする。新郎と新婦も、御礼の一言も申し上げたいとの由(よし)にて、罷(まか)り越してござりまする。」
そう申し上げた後、身を脇へ避(よ)けた。

 突如、政隆と頼通は正対する形と成った。政隆は、思い掛けない状況に身体が硬直し掛け、足の力が抜ける様な感じで膝(ひざ)を突いた。
「本日は私奴(め)の婚儀に御越し下さり、これに過ぎる栄誉はござりませぬ。」
玉綾姫も、静かに政隆の後ろに腰を下ろし、座礼を執る。頼通は政隆を見下ろして微笑した。
「奥州の乱を半年で平定した猛者(もさ)と聞いて居ったが、思いの外麗(うるわ)しい若者じゃのう。これからも、朝廷の為によく尽せよ。」
「ははっ。」
政隆に頭を下げさせたまま、頼通は教通を伴って、広間を後にして行った。

 その後、来賓は皆式場を退出し、政隆は漸(ようや)く、新郎控えの間へと下がる事が出来た。気疲れが激しく、暫(しばら)く独りで休みたい所であったが、実成は話が有る様で、一人政隆に同道して居る。

 控えの間に着くと、二人は向き合って座した。政隆は些(いささ)か疲れが出た顔で、実成の様子を窺(うかが)う。実成は何か言い難そうな様子であったが、やがて腹を決め、静かに口を開いた。
「今日より、其方(そなた)は我が義弟じゃ。」
「畏(おそ)れ多い事にござりまする。」
政隆は一礼して返した。
「しかし義弟故に、このめでたき日に、良からぬ話もせねば成らぬ。」
「はて、何でござりましょう?」
実成は苦虫(にがむし)を噛み潰(つぶ)した様な面持ちと成り、小声で告げる。
「式の中での、関白の失言じゃ。頼通殿があの場で詫びを述べたと雖(いえど)も、それで済む訳ではない。」
「と、申されますると?」
「関白家は、其方(そなた)が当家の縁者と成り、且(か)つ奥州に強大な勢力を持つ事を、望んでは居らぬ。仍(よっ)て、故意にあの様な発言をし、磐城平家への恩賞が幾許(いくばく)か削(けず)られるのも已(や)むなし、という方向へ持って行きたいのであろう。」
「何と?」
それまで、政隆は過度の緊張が続き、関白の小細工に気付く余裕すら無かった。又、平将門の事は遠い古の話であり、曾祖父忠政は瀬戸内の海賊を討ち、祖父政氏は奥州の反乱を鎮圧した。更(さら)に父政道は常陸介を務め、そして自分も此度、逆臣を討伐して居る。それでも尚、天慶(てんぎょう)の乱は未だに己(おの)が身に不幸を降り懸けるのかと、政隆は暗澹(あんたん)たる気持にさせられた。

 政隆の表情を見て、実成は励ますべく言葉を接ぐ。
「だが、幸い秋の除目(じもく)にて、儂(わし)は太政官に入り、公成も左近衛府の中将に昇進致した。我等も仗議(じょうぎ)を動かす力を、少しは備える事が出来た。加えて、帝は政(まつりごと)が頼通殿の良い様に動かされるのを、決して快くは思(おぼ)し召されておわされぬ。帝を当家の味方に引き込む事が叶(かな)えば、関白とて、全てを好き勝手には出来ぬ。」
実成の言葉に、政隆は幾分勇気付けられた。
「何分、宜しゅう御願い申し上げまする。少なくとも、磐城郡の回復が成れば、忠臣を三千は集める事が出来まする。」
「うむ、承知致した。重ねて申し付けて置くが、其方(そなた)は既(すで)に閑院家の縁者。其方(そなた)が隙(すき)を見せれば、関白家は容赦無くそこを突き、当家の力を削(そ)いで来るであろう。呉々(くれぐれ)も、万事自重有るべし。」
「ははっ。」
政隆は神妙に承った。

 つと、実成は腰を上げた。そして和(にこ)やかに微笑(ほほえ)む。
「話はこれで仕舞(しまい)じゃ。其方(そなた)も今日は、慣れぬ事ばかりで疲れたであろう。ゆっくりと休むが良い。」
そう言い残して、実成は去って行った。政隆は平伏して見送って居たが、実成の姿が見えなく成ると、その体がごろりと転がった。実成が言う通り、この日は戦(いくさ)とは異なる疲労が、政隆の全身に襲い掛かって居た。程無く、政隆は正装のまま、寝息を立てて居た。

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