第二十六節 祖国回復

 祭祀(さいし)を終えた翌朝、政隆は官軍本隊を纏(まと)めて、当初の予定通り、滝尻へ向かう事にした。政隆が磐城から落ち延びた七年前、滝尻の城主は祖母の弟、滝尻政之であった。滝尻は、東は住吉、西は葛野(上遠野)、北は三箱(さはこ)、南は汐谷と繋(つな)がる、交通の要衝である。平政氏も入部後暫(しばら)くは、滝尻を本城とした。

 かつて忠臣大村信澄は、村岡重頼の専横に歯止めを掛けるべく、一族衆の重鎮、滝尻政之を立てた事が有った。しかし政之は、重頼には歯が立たぬと見るや、信澄の期待を裏切り、村岡の軍門に下ってしまった。政之も既(すで)に老境に入った歳である。果して、未だに滝尻の主(あるじ)として健在なのか、政隆は気に掛かって居た。

 御巡検道の山路を下って来ると、前方には平野が広がり、釜戸川の先に滝尻御所が見え始める。政隆は、滝尻の地に赴いた記憶は無いが、御所の名を冠して居る割には、寂(さび)れた館であると見受けられた。

 城壁には、平安忠の旗が掲(かか)げられて居た。磐城郡第二の城を速やかに落した所を見ると、安忠も汐谷の遅れを取り戻すべく、必死に成って居る様である。政隆は内心ほくそ笑みながら、滝尻御所へ入城した。

 驚いた事に、滝尻御所内には、安忠の大軍が丸々駐屯して居た。殆(ほとん)どの兵には傷を負った様子も無く、暇(ひま)を持て余して居る様子である。戦(いくさ)が先程終ったばかりという風(ふう)でもない。縦(よし)んば、山田蔵人を先回りして討ち取ったにしても、北方には未だ村岡重常が健在である。一刻も早く住吉を抑え、楢葉郷に防御線を布(し)かねば成らない。滝尻辺りでもたもたして居る訳には行かぬ状況であった。

 苛(いら)立つ気持を秘めながら、馬を下りた政隆達の前に、安忠が出迎えに姿を現した。その表情は、申し訳無さを含んだ物である。政隆は何か有った事を察し、安忠の前へと進み出た。
「出迎え御苦労にござる。流石(さすが)は安忠殿、あっと言う間に滝尻を抑えてしまわれましたな。」
「恐縮に存じまする。只、山田勢を東へ逃がしてしまい申した。誠に申し訳もござらぬ。」
「ほう。逃したのを御存知なら、何故(なにゆえ)追手を出されぬ?」
「実は物見を放って、付近を捜索しては居ったのでござる。されども一人が持ち帰りし報せに依れば、山田蔵人は住吉城に火を放ち、更(さら)に遠くへ逃れて行ったとの事。我が軍は磐城の地理に無案内故、次の標的を失いし今、政隆殿の指示を仰ぐべく、この地にて待機するのが上策と考えた次第にござる。」
「然様(さよう)であったか。」
安忠の話を聞いた途端、政隆は急に体の力が抜け、その場に倒れ込んでしまった。
「殿。」
慌てて広瀬十郎が上体を抱き起す。

 住吉御所は政隆が幼少の頃、祖母や父母、姉と共に平和な時を過ごした、思い出の深い処である。かつての住居を取り戻し、姉の遺品を埋葬し、母を捜(さが)し出して共に暮らすという念願は、ここに叶(かな)わぬ物と成った事を知った。

 政隆は十郎に支えられながら、力の無い声で呼び寄せる。
「伯父上、木戸時国、鵜沼昌直。」
「はっ。」
側に居た三将は、直ちに政隆の前に整列した。
「伯父上は時国と上方の兵を率い、海道諸郡の平定に向かって下され。昌直は磐城の旧臣を味方に引き込み、郡内を平定せよ。」
三将は政隆の身を案じながらも承服し、各々軍旅を纏(まと)めて、滝尻を進発した。

 政隆は十郎の肩を借り、階梯(かいてい)に腰を下ろして、三将の軍を見送った。その傍らへ、心配そうな面持ちの安忠が、歩み寄って来た。
「政隆殿。少し御休みになられては。当方は未だ三千の兵を擁して居りますれば、何も心配は要りませぬ。」
政隆は力無く、微笑(ほほえ)んで頷(うなず)く。
「そうでござるな。少し休ませて戴(いただ)こう。」
安忠は政隆を、本丸へと案内した。その折、政隆より滝尻の守りを仰せ付かった。

 翌日、元気を取り戻した政隆は、馬廻(うままわり)百騎を伴って、滝尻御所を出立した。御巡検道を玉川の西岸に沿って北上し、富岡村を過ぎた処で、先頭の政隆は馬を止めた。
「これは、酷(ひど)い。」
政隆が遠望する住吉御所は、全てが灰燼(かいじん)に帰して居り、只の小山と成って居た。祖父政氏以来の栄華(えいが)は、完全に焼失して居たのである。

 政隆は沈んだ面持ちで玉川を渡り、住吉大明神の境内に入った。社(やしろ)と城は五町程隔(へだ)てて居たので、幸いにも焼かれずに残って居た。しかし社(やしろ)よりも北方、住吉城下に広がる町は、その大半が城の延焼を蒙(こうむ)って居た。磐城平家の香華院(こうげいん)遍照院も、本堂以下粗方(あらかた)が失われて居た。

 住吉は既(すで)に廃城であり、城の機能を全く残して居ない。山海物流の拠点として栄えた街も、今は人影が無く、往時の面影は無い。
「私が幼き頃は、雅(みやび)やかな処であったが。」
政隆は苦笑しながら、上方より連れて来た、馬廻(うままわり)の者達に呟(つぶや)いた。その顔は酷(ひど)く悲し気で、半時程、飽(あ)きずに住吉の焼け跡を眺めて居た。

 やがて、政隆は急に馬を駆って、来た道を戻り始めた。
「滝尻へ引き揚げるぞ。」
馬廻(うままわり)百騎も直ぐに馬を返し、政隆の後に続いた。

 滝尻への帰途、政隆は無念さを必死に堪(こら)えて居た。汐谷で山田勢を取り逃したが為に、大切な故郷を焼野原にされる憂(う)き目に遭(あ)った。悔恨の念が、留処(とめど)無く込み上げて来る。

 しかし滝尻に戻ってきた頃には、幾許(いくばく)か落ち着きを取り戻す事が出来て居た。官軍の大将として政隆は、今後の方針を冷静に決めなければ成らない。現状では、住吉に本営を進める事は無理である。村岡重頼亡き後の磐城郡政を司(つかさど)る上で、郡衙(ぐんが)を当面、滝尻に置く事と決めた。

 滝尻御所へ入ると、政隆は副将安忠を本丸へ呼んだ。政(まつりごと)の空白を出来得るだけ生じさせぬ様、措置(そち)を講ずる為である。政隆が城主の間に座して待って居ると、間も無く安忠が姿を現し、下座に腰を下ろして礼を執った。
「御召(おめし)に因(よ)り、罷(まか)り越し申した。先程住吉の視察より戻られたとの事。何ぞ新たな発見でもござりましたか?」
「うむ。私は住吉の有様を直(じか)に見て、迚(とて)も府を置ける状態で無い事が判明致した。故に、追捕使(ついぶし)は暫定的に磐城郡衙を、ここ滝尻に置く事とし、私自身が前(さきの)郡司村岡重頼の、代行を務める事と致す。」
「まあ、宜しいのではござりませぬか。政隆殿は元郡司政道殿の御嫡男。然(さ)したる問題はござりますまい。」
「それでじゃ。菊多の政(まつりごと)も疎(おろそ)かには出来ぬ。故に当地方の郡司代行を、安忠殿に御願いしたい。」
「某(それがし)に、でござりまするか?」
安忠は存外の申し出に、驚いた様子である。
「うむ。菊多郡政を任せるに足りる人物は、追捕使主典(さかん)職に在る安忠殿を措(お)いて他に無し。汐谷城を郡衙と成し、五郷の平定に当たって貰(もら)いたい。」
安忠は暫(しば)し思案した後、恭(うやうや)しく頭を下げる。
「承知仕(つかまつ)り申した。就(つ)きましては、我が軍勢を伴って行きとう存じまするが。」
「うむ。しかし、滝尻が空(から)に成るのも問題が有る。五百騎ばかり、私に預けてはくれまいか。」
「それ位ならば。」
安忠が応じてくれた事で、政隆は胸を撫(な)で下ろした。政隆からすれば、隣国の大勢力である平安忠に、磐城郡内を隈(くま)無く見られる事は、成るべく避けたいと考えて居たのである。一方の安忠は、磐城郡に深入りするよりも、己(おの)が所領に隣接する菊多郡に、食指(しょくし)が動いて居た。

 話はこれだけで終らなかった。安忠が一つの疑問を投げ掛けて来たのである。
「今、汐谷城主を任されて居る信田頼望(しだのよりもち)殿は、如何(いかが)致しまする?」
「うむ。」
政隆は暫(しば)し考え込んだ後、安忠を側に寄せて囁(ささや)いた。
「信田殿は、千葉忠常に臣従して居ると聞き及んで居ったが、忠常の同族である重頼を討つに、多大な功績を挙げてくれた。中々切れる男であるし、側に置いて誼(よしみ)を深めて置いて、損はござるまい。この後、坂東の安寧にも役立つ者と思う。」
「成程(なるほど)。当陣営に引き込めないにせよ、忠常との諍(いさか)いが起りし時には、戦(いくさ)を収束する所で、橋渡しに使えるやも知れませぬな。」
安忠はニヤリと笑うと、一礼して席を立った。

 程無く、平安忠は千五百騎を率い、菊多郡司代行を拝命して、滝尻を出立した。滝尻御所に残された兵は、安忠が残して行った常陸兵五百と、政隆の馬廻(うままわり)百騎ばかりと成った。

 その後、近隣を切り従えて行く鵜沼昌直の勧めを受けて、滝尻御所の政隆の元へ臣従を誓いに訪れる豪族が相次いだ。誰もが、元は祖父や父の旧臣ばかりである。所縁(ゆかり)の無い者は誰一人として居なかった。されど政隆には、亡父の跡を継いだ時、重頼の傀儡(かいらい)として諸臣の前に立った、苦い思い出が有る。自ら逆臣重頼を討ち果したとはいえ、若い自身を侮(あなど)る豪族が居る事も懸念された。故に政隆は、己が率いる官軍先鋒隊だけでも、海仙両道を併せれば万を超える事を強調し、豪族達に強い態度で臨(のぞ)んだ。

 磐城の豪族達は、政隆が信夫(しのぶ)へ落ちて以降の情報を齎(ほたら)してくれた。先ず、政隆母子を護り通した大村信澄や橘清輔等は、悉(ことごと)く討死を遂げて居た。又、磐城判官政氏の重臣であり、磐城四家と呼ばれた佐藤、近藤、斎藤、江藤の四氏は、村岡重頼の軍勢に各個撃破されて居た。館は焼かれ、一族の消息も不明であるという。四家は広大な磐城軍を治める為に、よくその力を発揮してくれて居た。政隆が村岡排除後の磐城平家を纏(まと)めて行く上で、大いに期待して居た勢力であった。四家が追われた今、政隆は、それに代わる新たな人材発掘と、新たな統治体制の構築という課題に、臨(のぞ)まねば成らなかった。

 更(さら)に、滝尻城主の話も耳に入った。かつて一族衆の筆頭格であった大叔父滝尻政之は、井口小弥太が村岡重頼と諍(いさか)いを起した頃、疑心暗鬼に陥(おちい)って居た重頼より所領替えを命ぜられ、身の危険を感じて逃亡したという。その後は村岡兵が滝尻御所を制圧して直轄とし、政之は実家の安積黒沢家を頼ったのではと噂(うわさ)されて居た。

 磐城家臣団の多くが、重頼の手に因(よ)り潰され、あるいは配置替えが成されて居た。滝尻を抑えただけの政隆には、未だ磐城の新たな政(まつりごと)の仕組みを、見出せないで居た。

 ある日、政隆は広瀬十郎と五名ばかりの兵を伴い、御所内の東の端を歩いて居た。先頭を歩く政隆は、両手で大事そうに、木箱を持って居る。やがて政隆はふと足を止め、辺りを見回した。
「この辺りであれば、戦(いくさ)の際にも、兵の移動の妨(さまた)げには成るまい。」
政隆は兵に命じ、その場に直径一間余の穴を掘らせた。そして政隆は、緩(ゆっくり)と穴の中へと踏み入り、手に持った箱を天に翳(かざ)した後、それを穴の中央に置いた。政隆が穴より出ると、兵達は土を掛けて穴を埋め始め、最後は土を盛り上げて塚と成した。しかし、そこには埋葬者の名を記す物は何も残されない。政隆やその子孫が磐城を離れた後も、暴(あば)かれぬ為の配慮であった。

 政隆は、十郎より線香を受け取り、塚の前へ供えた。そして、合掌して呟(つぶや)く。
「姉上、申し訳ござりませぬ。本来なれば、父上の御側である偏照院に葬(ほうむ)り奉(たてまつ)る所を、已(や)むなくこの地にて、我慢して戴く仕儀と相(あい)成り申した。」
政隆が塚の中に納めた箱の中身は、以前に閑院家の家司(けいし)見習いとして丹後国由良庄の領家に派遣された折、小萩より渡された万珠姫の遺品であった。御霊(みたま)を故郷に還して上げて欲しいという小萩の願いを受けた物であったが、住吉が灰と成ってしまった今、責めて祖父の居城であった滝尻御所に埋葬する事が、政隆に今出来る精一杯の事であった。

 久しく手を合わせて黙祷(もくとう)を捧(ささ)げて居た政隆は、やがてすっと立ち上がり、塚に向かって誓った。
(何時(いつ)か必ずや母上を捜し出し、姉上の眠るこの場所へ、御連れ致しまする。)
政隆は塚に深く一礼した後、十郎と共に本丸へ戻って行った。

 事情を知った政隆の家臣達に因(よ)り、何時(いつ)の頃からかこの塚は、「姫塚」と呼ばれる様に成った。

 

姫塚

 平政隆が父の仇(あだ)たる逆臣を討伐し、故国を回復させるという事由は、傍(はた)から見ても、容易に大義名分が立つ。村岡重頼討死の後、追捕使(ついぶし)は残された使命、即(すなわ)ち残党の掃討(そうとう)を、順調に遂行(すいこう)して居た。

 雨期に入った頃、鵜沼昌直が磐城郡内十一郷の制圧を完了した旨を報告すべく、滝尻へ凱旋して来た。政隆は昌直と対面して、郡内が平穏の内に粗方(あらかた)官軍に服従した事を聞き、一先ず安堵した。そして昌直に諮(はか)り、十一郷長の内、村岡重頼と関係の深い人物は更迭(こうてつ)する事を決め、後任には平政道時代の者を復帰させる事にした。

 これで、磐城郡は楢葉郷を除(のぞ)く全地域を抑えた事に成る。楢葉郷では山田蔵人が兵を整え、守りを固めて居るとの事であるが、守山勝秋を大将とする官軍方には、上方の兵三千に加え、土豪が相次いで馳(は)せ参じ、五千の大軍に膨れ上がって居るとの事である。副将木戸時国の出身地故に、地の利も官軍に有る。政隆は安心して、海道諸郡平定の報を待つ事が出来た。

 滝尻御所に鵜沼勢が加わった事で、政隆はそれまで警固の任に当たって居た常陸勢を、安忠の元へと戻した。身の回りを信の置ける者で固める事が出来た所で、政隆は滅亡した磐城四家に代わる人材を、登用する事にした。人選の対象とした者は、かつて大村信澄と共に、村岡の専横を阻(はば)もうと努めた者達である。

 昌直が先ず名を挙げた人物は、汐谷攻城の折に信田隊の先鋒を務めた、望月国茂であった。先の戦(いくさ)の功績を鑑(かんが)みても、政隆に異存は無い。国茂は昌直の隊に配属されて居た為、直ぐに召し出して、磐城平家の重臣に取り立てる旨を告げた。それを受け、国茂は涙を流して礼を申し上げた。旧主政道に忠を尽し、村岡政権の下で辛酸を嘗(な)めて来た事が、今漸(ようや)く報われたのである。
「再び磐城平家への仕官が叶(かな)いし事、無上の喜びにござりまする。」
政隆は、父への忠節を全(まっと)うした者達の苦労を偲(しの)び、無言で頷(うなず)いた。

 国茂が直参に加わった事で、かつて信澄の同志として働き、今も生き存(ながら)えて居る者達の名が判明した。大野為重、広野輔宗、舟越高相(たかまさ)、玉村尭冬(たかふゆ)の四名である。彼等の所領は皆郡の北東部に在り、怖らくは守山勢に加わり、楢葉へ出陣して居る物と見られた。政隆は滝尻に政庁機能を確立させるべく、自身は少領を代行し、昌直は主政、国茂には主張職を代行させた。しかし、飽(あ)く迄(まで)暫定の郡政府である為、最高位の大領は不在のままとした。

 政隆等が磐城郡の政(まつりごと)を再建して居る一方、海道では守山勝秋、仙道においては藤原兼光、正頼が、激戦を繰り広げて居た。双方の内、先に戦(いくさ)を終らせたのは、意外にも仙道軍であった。政隆が浅川から菊多へ転戦した後、本城を失った浅川権太夫の動揺は大きく、士気の低下を齎(もたら)して、野州兼光軍の猛攻に圧(お)され始めたのである。兼光は白河関(しらかわのせき)に籠(こも)る村岡方の乱れを突き、一気に落城せしめた。白河関はこの戦(いくさ)で炎上し、多くの砦(とりで)を焼失した。

 拠点を失った村岡、浅川連合軍は、体勢を立て直す暇(ひま)も無く、兼光の猛追を受けた。村岡大郎と浅川権太夫が討たれると、村岡軍は支離滅裂と成り、やがて抗(あらが)う勢力も居なく成った。この時、安積(あさか)郡小川郷の豪族坂上氏が兵を起し、広大な安積郡内を粗方(あらかた)平定して行った。この氏族は、坂上田村麻呂の末裔であり、追捕使判官(ほうがん)坂上広高を通じて勅命を受け、挙兵に及んだのであった。統治者を失った仙道諸郡は、兼光、正頼、坂上氏の奪い合いと成り、三氏の緊張は一気に高まった。最も勢力の弱い藤原正頼は、斯(か)かる事態が新たな大乱の火種と成る事を懸念し、政隆の元へ使者を送った。

 滝尻御所で正頼からの書状を受け取った政隆は、文面を厳しい表情で読み終えた後、鵜沼、望月両氏を召し出した。折角(せっかく)村岡重頼を討ち果し、磐城、菊多二郡を平定したと雖(いえど)も、仙道で新たな戦乱が起れば、政隆のこれまでの功績が水泡に帰する怖れが有る。

 やがて鵜沼、望月が揃(そろ)って姿を現し、政隆の前で座礼を執った。村岡打討に全精力を使い果して居た政隆は、疲れた顔で両氏に、正頼の書状を回覧させた。程無く、それを読み終えた望月が、丁寧に折り畳(たた)んで政隆に返した。

 政隆は書状を受け取ると、弱り顔を横に向けて尋ねる。
「兼光は強豪じゃ。奥州坂上氏は広高判官とも繋(つな)がりの有る者。共に仙道征討の軍功も有る。如何(いかが)した物か。」
鵜沼昌直は、斯(か)かる事態を予測して居た様子で、即座に意見を述べる。
「両藤原、坂上の三軍を、久しく同じ地に留めて放置するは、次なる大乱を招く原(もと)と成りまする。故に、新たな秩序の下、三軍を分散させねば成りませぬ。」
「ほう、具体的には?」
「藤原兼光殿には、殿より恩賞として信夫郡。坂上氏には、本領の在る安積郡。そして藤原正頼殿には、白河郡の権大領(ごんのだいりょう)に准ずる権限を与え、郡内の平定に専念させまする。そして三郡に挟まれし磐瀬、安達の二郡には、滝尻の者を赴任させ、三者の衝突を回避させまする。」
昌直の意見に、政隆は膝(ひざ)を叩いて喜んだ。
「妙案じゃ。未だ終戦の宣言が成されぬ今、追捕使(ついぶし)にはそれ位の任命権は有る。しかし、磐瀬と安達に赴かせる者。此(こ)は、かなりの剛の者でなくては務まるまい。差し当たって思い浮かぶは、望月と広瀬位だが。」
ここで、望月国茂が口を開いた。
「畏(おそ)れながら、某(それがし)は殿より磐城郡主張代行という重責を任されては居りまするが、仙道の緊張は天下の一大事。殿の命ずるままに、全力を注ぎとう存じまする。」
政隆は深く頷(うなず)き、望月を見詰める。
「善(よ)くぞ申してくれた。其方(そち)の力を借りねば、此度の事は収拾が付くまい。十郎と共に、仙道へ行ってくれ。」
「ははっ。」
その日の内に、望月国茂は安達郡、広瀬十郎は磐瀬郡権大領の辞令を受けた。そして翌日、鵜沼昌直が掻(か)き集めて来た磐城兵一千を従え、両将は共に滝尻を発った。

 ここに再び、追捕使(ついぶし)の本営である滝尻御所は、空(から)も同然と成った。しかし、仙道に対峙する勢力を動かすには、それ相応の武力を見せる必要が有る。政隆が決断した、一つの賭けであった。

 この配置は、三者其々(それぞれ)に利点が有った。藤原兼光に取っては、政隆から約定を得た信夫領有が、現実味を帯びる事と成る。又、坂上氏は本城を置く地の郡司を任される事で、此度の動乱に乗じて拡大した所領を、確保する事が可能と成る。一方で両者と異なり、藤原正頼の白河赴任は、即座に所領を得られる物ではなかった。しかし、任された地は奥州の中でも広大で、祖先の地、下野に接する。加えて、他の二者に劣らぬ扱いを受けた事で、戦後の論功行賞においても、期待を持つ事が出来た。

 三者は下手(へた)に追捕使(ついぶし)と争うよりも、任された地に移り、戦後の所領下賜を確たる物とするべく、励む事とした。三勢力の間に入った望月、広瀬の両将は、各々五百騎を従えて、隣接勢力の監視、郡内の治安向上に務めた。やがて周辺が落ち着いたと見るや、両将は兵の半数を滝尻へ戻した。久しく総大将の側を手薄にして置く訳には、行かなかった為である。

 ここに、仙道諸郡は一応の平定を見た。残るは、磐城郡楢葉郷以北の海道諸郡である。この地には、村岡重頼の嫡子重常が残り、村岡家執事の山田蔵人が、合流を目論(もくろ)んで居た。故に政隆は、守山勝秋を総大将とし、楢葉郷の豪族木戸時国を副大将に加え、上方兵三千騎を付けて出陣させたのである。逢隈(阿武隈)河口に位置する亘理(わたり)郡へこの軍旅が到達した時、漸(ようや)く此度の戦(いくさ)は終りを迎えるのである。

 この年の夏、政隆は滝尻に留まり、磐城郡内諸豪族を纏(まと)める事に腐心して居た。磐城の夏は都に比べ、随分と涼しい。地理的に北方に在る為でもあるが、小名浜より吹き寄せる海風が、何とも爽(さわ)やかで有った。政隆は時折庭へ下りては、青々と茂った樹木の陰に立ち、涼を得て居た。

 そこへ、昌直が足音を立てて回廊を渡って来た。
「殿、殿は何処(いくぞ)にござる?」
昌直の面持ちから、又何ぞ一大事が出来(しゅったい)した事が想像された。もう少し涼んで居たい所であるが、そうも言っては居られない。政隆は小陰から歩み出て呼び掛ける。
「私はここじゃ。」
その声に、昌直は直ぐ様気付いた。
「おお、そこにおわされましたか。殿、吉報にござりまするぞ。」
政隆は安堵し、微(かす)かに顔を綻(ほころ)ばせた。
「ほう、何じゃ?」
「今し方、守山様の使者が到着致し申した。守山勢は海道全郡を村岡方より奪回し、間も無く、滝尻に凱旋されるとの由(よし)にござりまする。」
「おお、其(そ)は祝着(しゅうちゃく)至極(しごく)。流石(さすが)は伯父上じゃ。」
長き戦(いくさ)も、漸(ようや)く終ったのじゃな。」
空を見上げると、晴天の先に巨大な入道雲が在る。京を出陣してより既(すで)に、十の節気が過ぎ様として居た。

 政隆は昌直と共に、大手門まで出迎えた。昌直は、滝尻に詰める諸将にも声を掛けて居たので、二十余人が政隆の後方に控え、守山勢の帰還を待った。

 やがて、滝尻の物見の兵が、守山勢の到着を告げた。開かれた大手門の先に、程無く先鋒隊の姿が見え始めた。軍容に乱れは無く、威風堂々たる様は、滝尻の者達に安堵感を与えた。部隊は次々と入城を果し、やがて中軍に、扇に日の丸の旗が見えた。大将守山勝秋が用いる軍旗である。その旗の側に、勝秋の堅固(けんご)な姿が見えた。勝秋は、政隆の姿を認めると馬を下り、四人の武将を従えて、政隆の前に跪(ひざまず)いた。
「只今、戻りましてござりまする。」
政隆は笑顔で勝秋の手を取り、立ち上がらせた。
「此度は御苦労にござり申した。既(すで)に仙道は平定されて居りまする故、これにて戦(いくさ)は終り申した。後程伯父上の戦(いくさ)振りを拝聴致しまする故、先ずは館内にて御休み下さりませ。」
勝秋は一揖(いちゆう)した後、政隆に告げる。
「その前に、政隆殿に御話ししたき儀が二つござる。」
「はて、何でござりましょう?」
「後ろに控えし四将は、かつて大村殿に与(くみ)して失脚の憂(う)き目に遭(あ)い、此度は海道平定に与力せし忠義の者にござる。左より、大野為重、広野輔宗、舟越高相、玉村尭冬と申しまする。御見知り置き下さりませ。」
政隆は四将に目を遣(や)り、頼もし気な様子で述べる。
「然様(さよう)か。当家への忠節を全(まっと)うしたは、武士として遖(あっぱれ)な心意気であり、嬉しく思う。この後勝秋伯父上より話を聞くが、重く賞される事であろう。大儀であった。」
「ははっ。」
四将は揃(そろ)って、政隆に平伏した。

 再び、政隆は視線を勝秋に戻した。
「して、もう一つの話とは。」
「はっ。副将の木戸時国は討死し、遺骸(いがい)は戦場(いくさば)より程近い、楢葉郷の内に塚を築き、埋葬して参り申した。」
「時国が、死んだと?」
政隆の顔が、俄(にわか)に青ざめた。時国は、幼少の頃より心知れたる数少なき武将であり、今後は昌直と共に、磐城家の重臣に取り立てたいと考えて居た。
「如何(いかが)したのじゃ?聞かせて下され。」
心乱れる政隆の前に、鵜沼昌直が進み出た。昌直は憮然(ぶぜん)とする政隆の心を、鼓舞する様に言上する。
「守山勢の整列が完了致し申した。殿、勝鬨(かちどき)を。」
政隆は昌直に勧められるがまま、扇を手に取り声を上げた。三千の兵が政隆に続き、勝鬨(かちどき)を上げる。

 大声を発しながら、政隆は次第に冷静さを取り戻して居た。
(危うく、軍勢の前で醜態(しゅうたい)を演ずる所であった。)
政隆は、昌直の機転に感謝を覚えた。

 官軍が滝尻御所内に分宿して行くと、政隆等は御所内の一室に場を移し、勝秋の報告を聞く事にした。当初は、戦(いくさ)の疲れを癒(いや)した後に尋ねる積りであったが、時国討死という思い掛けぬ報を受けた事に因(よ)り、急遽(きゅうきょ)執り行う運びと成ったのである。

 上座に政隆が腰を据(す)えると、その手前脇に昌直が座り、下座には勝秋を先頭に、四将はその後方に控える形で座した。

 重苦しい雰囲気の中、先ず口を開いたのは勝秋であった。
「木戸殿は実に勇猛な武士で御座った。木戸殿が居らねば、海道制圧は未だ成し得なかった事でござりましょう。」
無念の表情を湛(たた)える勝秋に、昌直はそっと尋ねる。
「その辺りの事、詳しゅう御話し願えませぬか?」
勝秋は、すっと頷(うなず)いた。

 官軍三千余騎を率いて滝尻御所を進発した守山勢は、汐谷城を落ち延びた山田蔵人を追い、住吉より北上して浜街道に至った。近隣の民や旅の者に、山田勢の所在を尋ねて回って行く内、次第に浜街道を北上して居る事が判明した。そして守山勢は、片寄郷、玉造郷を駆け抜け、白田郷に達した。引き続き、磐城郡内で最も東北に位置する楢葉郷へ駒を進め様とした時、斥候(せっこう)が一つの報告を齎(もたら)した。山田勢が楢葉郷において体勢を立て直し、小山に陣を布(し)いて居るというのである。勝秋は斥候(せっこう)の数を増やし、楢葉の情勢を念入りに調べさせた。

 この間、官軍の下には、近隣の多くの豪族が馳(は)せ参じて来た。平政道の旧臣である大野、広野、舟越、玉村の四将も、この中に在った。官軍は五千騎に膨(ふく)れ上がり、一方で山田方の兵は一千騎程であるという。勝秋は満を持して、楢葉郷へ進攻を開始した。

 村岡重頼支配が確立した後、執事山田蔵人の嫡子五郎定能(さだよし)は、楢葉郷長に任ぜられた。山田勢が楢葉に布陣した理由は、北方の村岡重常と合流する他、そこに在った。定能は郷長の権限を以(もっ)て兵を召集し、加えて村岡の敗残兵を吸収した事も有り、何とか一千騎を数えるまでに回復したのである。

 山田氏楢葉郷支配の居館は、かつて江藤氏が居城として居た楢葉館を再建した後、そこに定めて居た。その後、楢葉館より海側は山田浜、内陸側は山田岡と呼ばれる様に成った。

 官軍五千騎は先ず、楢葉郷南端に位置する、この楢葉館に押し寄せた。楢葉館は、土豪相手ならば充分な備えが成されては居る物の、五千もの大軍が相手とも成れば、守り通す事は至難である。

 館には殿軍(しんがり)部隊が、官軍の足留めに残されて居たのみで、山田勢本隊は北方に陣を移して居た。楢葉館の縄張(なわばり)は、土豪の多くに知られて居るという不利も有った故である。

 楢葉館を抜いて街道を北上し、木戸川を渡って半里程、井出川の北岸に小山が在った。森林は山を覆(おお)い、所々岩石が突出して居る。この山には無数の旗が立って居り、山田方の本陣が置かれて居る事は一目瞭然であった。官軍は多勢の利を以(もっ)て山を包囲した。ここで山田勢を殲滅(せんめつ)する為である。

 折悪く、雨季が到来した。長雨は井出川を増水させ、両岸の通行を困難にした。加えて濃霧が山に立ち籠(こ)め、敵の備えを視認する事が出来ない。しかし、勝秋は攻めねば仕方が無いと考え、全軍に総攻撃を命じた。

 法螺(ほら)が鳴り、官軍は鬨(とき)の声を上げて突撃する。距離が縮まれば霧の薄い処は、多少視界が利く様に成る。山田方からは官軍の姿が見えるが、林や岩陰に隠れた山田兵は、官軍側からは容易に確認出来ない。先ずは矢戦(やいくさ)と成り、官軍の多くの兵が倒れた。山田兵は木陰、岩陰に身を隠し、中々官軍の矢が当たらない。官軍方が一方的に射られる形と成り、劣勢と見た勝秋は、一時兵を退(ひ)いた。

 幸い、梅雨の間にも晴れの日は有る。快晴に恵まれ、視界を遮(さえぎ)る霧が発生しない日を狙(ねら)って、官軍は再び総攻撃を開始した。視界が利くとは言っても、地の利は山田方に有る。山田兵は物陰に潜(ひそ)み、肉薄して来る敵勢に矢を射掛ける。しかし霧の無い日は、敵の姿を窺(うかが)う事が出来た。数で勝(まさ)る官軍は、後方より雨霰(あられ)の如く、敵陣に矢を降り注がせ、次第に山田方の弓兵は沈黙して行った。

 このまま一気に攻め落せるかに思えた時、山から地鳴りの様な音が響いて来た。見れば、山田方の騎馬隊が山を駆け下り、寄せ手を蹴散らして、官軍の弓隊に襲い掛かって居た。距離を詰められてしまっては、弓兵は騎兵に歯が立たない。弓隊の多くが斬り伏せられ、隊列は崩れた。

 その余勢を駆って、山田騎兵は更(さら)に突撃を敢行して来た。目の前に布陣するは、守山勝秋率いる本隊であった。数の上では、守山方が遙かに有利である。しかし山田騎兵は精強であり、勢いが有った。忽(たちま)ちに本陣の一の備え、二の備えを突破して来る。勝秋の眼前に敵勢の姿が迫った時、勝秋は刮目(かつもく)して立ち上がった。
「あれに見ゆるは五郎定能(さだよし)。」
かつて汐谷城下で、守山勢に痛手を負わせた猛将である。
(退(しりぞ)くか?)
勝秋が法螺(ほら)隊に目を移した時、新たなる馬蹄の響きが聞こえて来た。

 見れば、木戸時国の隊が本陣の危機を知り、駆け付けて来たのであった。勝秋は冷汗を流しながらも、床几(しょうぎ)にどかりと腰を下ろし、味方に檄(げき)を飛ばした。
「木戸勢が援軍に参った。もう少し堪(た)え切れば、山田騎兵を挟み撃ちに出来るぞ。」
その言葉に、浮足立ち始めて居た守山勢が、再び気力を取り戻して抵抗した。そして、総大将守山勝秋まで後一歩に迫りながら、山田勢は脇腹より、木戸勢の突撃を受けた。

 山田勢は木戸騎兵の猛攻を受け、防戦を余儀無くされた。そこを木戸時国が敵軍勢の中を駆け巡り、やがて定能(さだよし)の姿を認めた。
「山田五郎定能、儂(わし)は木戸時国じゃ。汐谷城での礼、この場にてさせて貰(もら)おう。」
定能(さだよし)は振り返り、時国を見据(みす)える。
「あの時の武者か。又邪魔に入り居って。此度は決着を着けてくれん。」
そう言い放ち、槍を翳(かざ)して馬を駆る。再び、両将は激突した。

 時国と定能(さだよし)の一騎討ちは凄(すさ)まじく、近くで戦って居た兵も見蕩(みと)れる程であった。両者は馬を並べ、何合も槍を交えながら、戦場(いくさば)を疾駆する。互いに汗だくと成って、僅(わず)かな隙(すき)が生じる時を狙(ねら)って居た。

 定能(さだよし)の方が若く、体力も有ったが、如何(いかん)せんここまで辿(たど)り着くのに、多くの敵と戦って来た。その分、時国より先に体力が尽き、馬上にて体勢が崩れた。一瞬生じた隙を見逃さず、時国は渾身(こんしん)の力で定能の胸を突いた。鎧(よろい)が急所を防いではくれたが、その衝撃で定能は馬より転がり落ちた。

 咄嗟(とっさ)に時国も馬を飛び降り、俯(うつぶ)せに成った定能(さだよし)の背後より組み付く。そして、脇差(わきざし)を抜き放った。
「山田五郎定能殿。平政隆様が家臣、木戸時国が討ち取ったり!」
戦場(いくさば)に、時国の掠(かす)れた声が響き渡った。大将を失った定能の部隊は、算を乱して退却を始める。

 これを勝機と見た時国は、本陣の勝秋に大声で告げた。
「某(それがし)は楢葉の地に生まれ育った者なれば、この辺りの地理に通じて居り申す。我が軍が嚮導(きょうどう)致す故、続いて参られよ。」
「相(あい)解った。」
勝秋の返答を聞き、時国は馬を返した。そして手勢を纏(まと)め、山田蔵人が籠(こも)る小山へ突撃を懸けた。

 主力である定能(さだよし)勢が敗れた今、山田兵の多くは浮足(うきあし)立って居た。五倍の数を誇る大軍に包囲されて居る上に、最強と思われて居た定能騎馬隊も潰滅(かいめつ)したのである。定能が一気に官軍本陣へ斬り込み、総大将を討つ。この策が、山田方に取っては最後の望みであったが、それも最早絶たれた。

 時国率いる軍勢は、一気に小山に取り掛かり、前衛の小隊を次々に蹴散らして行った。山田方は算を乱して山頂に追いたてられて行く、と思って居た時、岩陰より弓兵が姿を現し、死角より矢を放った。直後、時国は前のめりに倒れた。
「伏兵じゃ。気を付けよ。」
時国の家臣が兵に下知し、周辺に潜(ひそ)む敵勢を掃討(そうとう)する。

 家臣が時国を抱き起すと、矢を背中に受けて居り、血糊(ちのり)が付いた。
「殿。」
家臣は、何とか時国の気を保たせるべく叫び続けた。その声が届いてか、時国は薄(うっす)らと目を開け、か細い声を上げる。
「この機を逃しては成らぬ。其方(そなた)も攻め立てよ。」
しかし、家臣は噎(むせ)びながら、只首を横に振るばかりである。時国は一つ大きな息を吐(つ)くと、穏やかな顔と成って言葉を接いだ。
「では、其方(そなた)に一つ頼みが有る。儂(わし)は最期に、山田定能(さだよし)殿という好敵手と、存分に武芸を競う事が出来た。武士として、これに過ぐる喜びは無し。同じ戦場(いくさば)にて、共に果てるも何かの縁。我が亡骸(なきがら)は、定能殿と同じ塚に埋葬してくれ。」
最後の力を振り絞(しぼ)った言葉であったのか、話を終えると時国はぼんやりとした目付きで天を見詰め、やがて安らかな寝顔を湛(たた)えるが如く、身罷(みまか)った。

 その後、山田方の陣は官軍の総攻撃を食い止める事能(あた)わず、蔵人は僅(わず)かな手勢を率いて血路を開き、北へ落ちて行った。所領、軍勢を共に失った山田蔵人は、ここにおいて完全に、官軍に抗する組織力を喪失したのである。

 官軍は、残る宇多郡の村岡重常を討伐すべく、更(さら)に北進した。標葉(しめは)郡、行方(なめかた)郡の豪族達は戦わずして恭順したので、無駄な犠牲を出さずに、宇多郡に入る事が出来た。

 そして、そこに村岡勢の姿は無かった。重常が率いた軍勢は、その殆(ほとん)どが海道諸郡より集めた武士で構成されて居た。この地は、村岡重頼に因(よ)り武力で征服されてから日が浅く、怨(うら)みこそ残れども、主従の絆(きずな)を深めるには至って居ない。重常と側近達は、裏切り者が官軍に恭順する為の手土産とされる事を恐れ、軍を捨てて逢隈(阿武隈)山中に落ちて行ったという。

 将を失った宇多軍が官軍に抗(あらが)う筈(はず)も無く、宇多郡も容易に平定に漕(こ)ぎ着ける事が出来た。勝秋は更(さら)に千騎を率いて亘理(わたり)郡に至り、当地の豪族を服従させた。その後逢隈(阿武隈)川を渡って名取団に赴き、陸奥国府に海道全郡の平定が完了した旨を報告した。そして宇多郡に立ち返って官軍三千騎を纏(まと)め、磐城へ凱旋するに至ったのである。

 守山勝秋の報告は以上であった。政隆は只黙って、腕組みをして聞いて居た。勝秋は報告の最後を、沈痛な面持ちで語った。
「此度の戦(いくさ)は、木戸殿が山田定能(さだよし)を討ち果せし事が、勝敗を決した最大の要因と存じまする。仍(よっ)て、木戸殿を戦功第一の者に推す次第にござりまする。」
政隆は静かに頷(うなず)いた。
「確(しか)と、承知致し申した。して、時国の亡骸(なきがら)は?」
「本人の望み通り、戦場(いくさば)の近くに塚を二つ築き、山田五郎と共に葬(ほうむ)って参り申した。」
「然様(さよう)でござるか。」
政隆は大きく溜息を吐(つ)き、目を伏せた。
「惜しい男を失ったのう。漸(ようや)く打倒重頼という本懐を果し、これからという時に。」
「全く。」
勝秋も表情を曇らせて、相槌(あいづち)を打った。

 暫(しば)しの沈黙が続いた後、政隆がつと口を開いた。
「村岡重常と山田蔵人は、その後如何(いかが)致した?」
勝秋は申し訳無さそうに答える。
「畏(おそ)れながら、その後の行方は杳(よう)として知れませぬ。怖らくは、逢隈(阿武隈)山中に逃げ込んだ物と推察され申す。」
「うむ。」
政隆は扇子を手に取り、勝秋の後方に控える四将を指して告げる。
「海道は、祖父政氏公の代より我が磐城平家の領分じゃ。この機に乗じて他の勢力に掠(かす)め取られる事無く、我等の手で確(しか)と抑えて置かねば成らぬ。其方(そち)達四人に命を下す。亘理(わたり)、宇多、行方(なめかた)、標葉(しめは)の四郡を、其方(そち)達の手に因(よ)り制圧せよ。」
「ははっ。」
四将は揃(そろ)って平伏した。
「管轄の振分けは伯父上に御任せ致す。只、着任後は郡内の平定に専心されよ。残党の探索は、適当で良い。」
政隆の言に、勝秋は驚きの色を隠せなかった。
「しかし、それでは。」
勝秋の言を封じる様に、政隆は片手を差し伸ばす。
「伯父上の仰(おお)せになりたき事は良く解り申す。されども、重常殿は我が従兄(いとこ)にして、政氏公が外孫。山田蔵人は憎き謀叛人なれど、既(すで)に高齢の身なれば、我に仇(あだ)なす前に天寿が尽きる事でござろう。重常殿を差し当り、千葉の忠常殿の処まで逃がしてくれれば重畳(ちょうじょう)。」
先の汐谷城の戦(いくさ)にて、政隆は伯母の花形御前と、従兄(いとこ)の重宗を失った。これ以上一族が討たれるは、本意ではなかったのである。勝秋と四将は政隆の意を汲(く)み、静かに頭を下げた。

 思えば、楢葉郷の戦(いくさ)は勇将二人が相討ちと成る、磐城平家に取っては多大な不幸であった。五郎定能(さだよし)も、父蔵人が謀叛の中心人物でなければ、磐城平家に取り立てて有為(ゆうい)な人材と成った物をと、政隆は改めて悔やんだ。

 楢葉の戦場(いくさば)で山田方が布陣した小山は、遠方より無数の旗が立てられて居るのが見えた事から、何時(いつ)しか旗立山と呼ばれる様に成った。その地には後に、太田農神社が建立されたという。

 木戸三郎時国と山田五郎定能の塚は、やがて松や杉の林に覆(おお)われ、次第にその所在は忘れ去られて行った。しかし両将の姓は楢葉郷内の地名として、後世に残された。

 猛暑が過ぎ、爽(さわ)やかな秋風が感じられる様に成った頃、滝尻御所より早馬が、相次いで駆け出て来た。街道沿いの田畑で野良作業をして居る民は、ふと手を止めて腰を伸ばし、疾駆する騎馬武者の姿を眺めて居る。ここ滝尻は今年、釜戸川の氾濫(はんらん)にも見舞われず、又戦火も及ばなかった為、各地で稲穂が黄色を帯び始め、豊作を予感させて居た。

 滝尻の民に取っては、政隆の御所入城以来、平穏な日々が続いて居た。郡内の豪族は悉(ことごと)く、官軍の大将平政隆に臣従し、戦(いくさ)が起きる気配は無い。民衆は、政隆が磐城判官政氏の再来であるかの如く、期待を掛けて居た。

 しかしある日、滝尻御所に詰めて居た上方兵三千騎が突如御所を発し、釜戸川の上流に向かって行軍を開始した。海仙両道において一応の平穏を見た政隆は、陸奥国府に通達後、官軍を京へ引き揚げさせる事を決意したのである。政隆は、早馬を発して主たる将に書翰(しょかん)を渡し、白河関(しらかわのせき)に集合する旨を命じて居た。

 海道は菊多を除(のぞ)き、粗方(あらかた)磐城の旧臣で抑える事が出来た。しかし、仙道は複数の勢力が割拠し、隙(すき)有らば所領を拡大せんと目論(もくろ)む将が多い。仙道の諸将が現地に留まって膠着(こうちゃく)状態に陥(おちい)るよりは、共に都へ連れ帰って、朝廷に恩賞の采配をして貰(もら)った方が上手(うま)く纏(まと)まると、政隆は考えた。

 政隆が白河に集合を命じた勢力は、平安忠、藤原兼光、藤原正頼、守山勝秋、信田頼望、そして安積郡の坂上氏であった。守山勝秋は滝尻より、既(すで)に政隆と同道して居る。菊多郡からは、平安忠と信田頼望が山田川に沿って北上し、大野郷の首邑(しゅゆう)葛野(上遠野)において合流を果した。しかし、菊多勢は僅(わず)かな兵を伴うのみである。軍の大半は菊多の治安向上の目的で留まり、加えて大軍の上洛には、莫大(ばくだい)な費用を要するという理由も有った。

 斯(か)くして海道勢は一つに纏(まと)まり、御斎所(ごさいしょ)街道を西に向かって行った。鮫川と、その両岸の山並を望んで心を癒(いや)し、同時に平和が戻り、民人(たみびと)が農事に専念出来る様に成った光景を見て、安堵を覚える旅であった。かつて、この道を辿(たど)って磐城を目指して居た時、政隆はよもや、僅(わず)か数ヶ月で村岡重頼に奪われた地を平定出来るとは、夢想だにしなかった。

 されど、多くの悔いが残る戦(いくさ)でもあった。所縁(ゆかり)の有る者を多勢失った。磐城四家の行き残りを捜すも、未だに手懸りは得られて居ない。又、三春に送られたという祖母の消息を掴(つか)む暇(ひま)も無かった。彼(か)の地を支配して居た黒沢氏は、村岡時代の動乱に因(よ)り、所領を追われたと聞く。今、三春を勢力下に治めて居るのは、小川郷守山の近くの豪族、坂上氏である。政隆に取っては唯一の祖母の手懸りであり、希望であった。

 白河関(しらかわのせき)には、既(すで)に藤原正頼と坂上氏の姿が在った。海道勢が到着すると、正頼の案内を得て主立つ将は、追捕使(ついぶし)の使用を許可された曲輪(くるわ)へと案内された。村岡大郎、浅川権大夫に占拠されて居た本丸は、今では陸奥国府の将軍が派遣され、次第に秩序が回復されて居る様子である。

 政隆は、官軍が占める曲輪(くるわ)に立つ屋敷内に案内され、その折、正頼が耳元で囁(ささや)いた。
「実は、兼光殿が未だ到着されて居りませぬ。」
政隆は表情を変えず、さらりと答えた。
「信夫は遠い。何か事情が有るのやも知れぬ。只、我等も悠長に待っては居られぬ故、強く催促して置いて下され。」
「はっ。」
正頼は直ぐに下知し、使者を発する手配を行った。

 政隆が正頼の臣の案内で通された間には、既(すで)に一人の男が座して居た。歳は四十程であろうか。政隆は上座に腰を下ろした。男が下座左手に座して居る為、安忠、頼望、勝秋の三将は右手に並んで座した。

 皆が各々の席に着くと同時に、男は政隆に正対し、恭(うやうや)しく一礼した。
「某(それがし)、安積郡小川郷の坂上顕雄と申しまする。」
顕雄と名乗る男は頭を上げると、凛然(りんぜん)たる面持ちで政隆を見詰める。此度の動乱を機に台頭した決断力を具する男だけあって、隙が無く、御(ぎょ)し難い雰囲気を漂(ただよ)わせて居る。

 政隆は初めて顔を合わせたこの男に、礼を尽して接した。
「私は、追捕使次官(すけ)を務める平大炊助(おおいのすけ)政隆と申す。此度は仙道に残りし村岡勢の粉砕に助力戴けたとの事。御礼(おんれい)申し上げる。」
政隆が一揖(いちゆう)した事に、少々戸惑った様子を湛(たた)えつつ、顕雄は尋ねる。
「此度大炊助(おおいのすけ)様より、共に上洛すべく白河に集う様に命が下り申したが、某(それがし)如きが上洛に及んだとて、意義がござりましょうや?」
顕雄には、政隆の考えに納得の行かない心の内が、在り在りと顕(あらわ)れて居た。政隆は和(にこ)やかに答える。
「私は貴殿を、安積郡司の代行役に任じはした物の、其(そ)は飽(あ)く迄(まで)、追捕使(ついぶし)の名においてでござる。我等が都に凱旋した後、追捕使は解散と成り申そう。そうなれば、私が貴殿に渡した書翰(しかん)等、全ては紙屑(かみくず)同然と成り申す。貴殿も軍功を挙げられた訳であるし、我等と共に京へ上って戦果を報告し、正式に朝廷より恩賞を賜(たまわ)った方が宜しいかと存ずる。」
「まあ。」
顕雄は頭を掻(か)きながら、余り気乗りしない風(ふう)である。政隆は言葉を接いで諭(さと)す。
「京には御一族の、追捕使判官(ほうがん)坂上広高殿もござれば、私も微力ながら、口添え致し申そう。」
「確かに、大炊助(おおいのすけ)様の御言葉には、一理ござりまするな。」
上洛する意義を漸(ようや)く得心した様子で、顕雄は承服の意を示した。

 顔を微(かす)かに顰(しか)めて、政隆は話を接ぐ。
「実は、貴殿をここへ呼んだのには、もう一つ訳がござる。安積郡丸子郷の事を、幾(いく)らか御尋ねしたい。」
顕雄の顔色が俄(にわか)に変化した。丸子郷は動乱のどさくさに紛(まぎ)れて、所領と成した地であった故である。顕雄の顔に緊張が走った事を察しながら、政隆は穏やかに尋ねる。
「貴殿の軍は、既(すで)に平沢館を抑えて居るのでござろう?」
「はっ。」
漁夫の利を得た事を詰(なじ)られる事を予想し、顕雄は身構える。しかし、政隆の問いたき意は別の所に在った。
「平沢館のかつての城主であった、黒沢氏の事は存じて居られるか?」
「はい。我が小川郷と丸子郷は、南北に隣り合って居りますれば。確か大炊助(おおいのすけ)様の父君、政道様の母君は、黒沢氏の姫で在られたとか。」
「然様(さよう)。私が磐城を奪回した時、我が祖母は既(すで)に三春へ戻されたという話を耳に致した。坂上殿には、何ぞ心当りはござらぬか?」
「三春御前様の事なれば、真に申し上げ難き事ながら、平沢館にて数年前に、身罷(みまか)られたと聞き及んでござりまする。」
「何と、其(そ)は確かでござるか?」
政隆の声が裏返る。顕雄は政隆の意を察し、詰問(きつもん)される事は無いと断じて、落ち着いて答える。
「未だ黒沢家の当主が正顕(まさあき)殿であった頃、近隣の豪族には磐城判官様御正室逝去(せいきょ)が伝えられ、殆(ほとん)どが弔問の使者を遣(つか)わしてござりまする。今思えば、三春御前様の死を以(もっ)て、村岡重頼は恐い物が無く成ったかの如く、黒沢家、滝尻家を潰(つぶ)しに懸かったのでござりまする。」
「そうであったか。して、両家の一族は?」
「さて。奥州南部は村岡重頼の支配下に置かれてしまいました故、生き延びた者が居ったにせよ、遠国(おんごく)に逃れてしまった事でありましょう。」
「うむ。然(さ)もありなん。」
静かに、政隆は二度三度頷(うなず)いた。
「兎(と)も角(かく)、朝廷より正式な御沙汰が下りるまでは、平沢の地は貴殿に御任せ致す。我が祖母の菩提、坂上殿に宜しく御頼み申す。」
政隆が丁寧に頭を下げるので、顕雄は恐縮してしまった。
「当方こそ、三春御前の菩提所を任されるは、光栄の至りと存じまする。」
顕雄も恭(うやうや)しく頭(こうべ)を垂れた。

 斯(か)くして、平政隆と坂上顕雄の初顔合せは、和(なご)やかな雰囲気のまま終える事と成った。顕雄は、喜んで政隆に従う旨を示し、万一に備えて余計に連れて来た兵を、安積(あさか)へと帰した。その折、三春御前菩提所の管理に至らぬ所が無き様、家臣に厳命した。

 それから二日遅れて、藤原兼光の軍勢が到着した。これに、安達郡に派遣して居た広瀬十郎も、僅(わず)かな兵と共に同行して居た。兼光の警戒心を解(と)く為に、広瀬が骨を折って説得し、漸(ようや)く重い腰を上げさせるに至ったのであった。安達郡政は広瀬の家臣に委任し、万一の事有らば、広瀬は命を賭する覚悟を示して、兼光に同道して来た。兼光の軍勢は、信夫に一千騎を残しても尚、四千騎を数える大軍である。これは、政隆の三千騎を凌(しの)ぐ数である。万一の事等、起きよう筈(はず)も無かった。

 官軍本隊に遅参して合流した兼光に対し、政隆は特に咎(とが)めはしなかった。只、上洛に斯(か)かる大軍は必要無い事を諭(さと)し、二百騎程を残して、兵を下野に帰す事を命じた。

 当初、兼光はこの命の受入れに難色を示したが、久しく同盟関係に在った安忠から、忠告を受けた。政隆は太政大臣家の家司(けいし)であり、下手(へた)に争えば、後々恩賞の時に大きな不利益を蒙(こうむ)るであろうと。兼光も、朝威に逆らってまで武力を行使する積りは無い。最終的には渋々、兵を解(と)く事と成った。

 兼光の兵が先行して野州へ戻り、官軍の中で上方の兵が粗方(あらかた)と成った所で、漸(ようや)く政隆は白河を発った。従う兵は三千騎余。兵糧も充分であった。

 大戦(おおいくさ)を終えた官軍諸将は、意気揚々と上洛の途に着いた。此度は、先年の刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)に劣らぬ規模の戦(いくさ)であった。結果は官軍の完全なる勝利であり、誰もが重く賞される事を期待して居た。

 坂東に入って先ず、官軍は下野国府へと立ち寄った。ここより、政隆は坂東八州の国司に宛(あ)て、凶賊誅滅が完遂された旨を書翰(しょかん)に認(したた)めて発した。追捕使(ついぶし)発足の折、千葉の忠常等一族が、村岡重頼を支援する動きを取った場合に備えて、陸奥を含む東山道の他、常総地方を含む東海道にも、軍事行動権が与えられて居たからである。政隆は平氏一族が割拠する坂東に不穏な動き、あるいは噂(うわさ)が流れるのを防ぐ為に、坂東諸国に官軍の完全な勝利を伝え、後日面倒な事が出来(しゅったい)せぬ様に努めた。

 官軍はその後西へと進み、上野国から碓氷峠を越えて、信濃国へと入った。峠は、既(すで)に秋が深まって居た。錦(にしき)に染まる嶺々を眺めながら、政隆は今後の事を考えて居る。少なくとも、磐城郡司の継承は叶(かな)うであろう。そう成れば、閑院家を辞して磐城へ戻り、故国の再建に励む。そして、折を見て越後へ赴いて、行方(ゆくえ)知れずの母を捜し出し、磐城に迎える。住吉御所を新たな磐城郡衙(ぐんが)として再築すれば、かつての平穏な暮しを取り戻す事が出来るであろう。政隆はそう思い描いて居た。

 楽しい事を考えて居たのも束(つか)の間、坂上顕雄より告げられた祖母の死が、重く心に伸(の)し掛かって来る。思えば、住吉脱出の折、家宝の地蔵菩薩を持たせてくれた時が、今生(こんじょう)の別れであった。

 深山(みやま)に響く鹿の鳴き声で我に返った時、政隆は、涙が頬(ほお)を伝って居る事に気付いた。

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