第二十五節 汐谷の決戦

 翌朝卯(う)の刻、余部郷は静寂に包まれて居た。鮫川は霧(きり)を発し、周囲の視界を遮(さえぎ)る。天には未だ数多(あまた)の星が輝いて居たが、東より空が白み始め、次第にその数を減らして行く。

 霧の中より、ざぶざぶと水を掻(か)く音が聞こえる。微(かす)かに、馬の嘽(いな)きも混じって居た。霧は然程(さほど)濃くはなく、風が吹き飛ばした隙間から、時折視界が利く様に成る。

 官軍の先鋒隊が、静かに渋川を渡河して居た。旗印は信田頼望(しだのよりもち)である。川を渡り終えて五町程進むと、愈々(いよいよ)汐谷城の真下に至る。信田隊は極力音を立てずに、北東へ延びる御巡検道を辿(たど)り始めた。

 少し進むと、村岡方の陣が、狭い街道を封鎖して居るのが見えた。頼望は騎馬隊を前方に集め、敵陣目掛けて一気に突入させた。

 村岡方の歩哨が異変に気付いた直後、闇の中より次々と、騎馬武者が突撃して来る。
「ぐわっ!」
歩哨が倒された声と共に、夥(おびただ)しい馬蹄の響きが谺(こだま)した。街道を封鎖して居た陣は、敵の襲来を告げる法螺(ほら)を鳴らすのが精一杯であり、間も無く、その音も途絶えた。

 空が次第に明るく成り、谷間を走る御巡検道も、辺りがよく見える様に成って来た。そこを、木戸、鵜沼等の率いる中軍三千騎が、進軍を続けて居る。信田隊が蹴散らした敵陣の残骸を通過する時、時国と昌直は、信田軍の強さに改めて感心した。

 しかし、先程この陣から法螺(ほら)が響き渡り、又朝日も昇って来た為、悠長に構えては居られない。敵が反撃する前に、急ぎこの隘路(あいろ)を通り過ぎなければ、非常に危険な位置であった。

 先頭を行く時国の隊が速度を上げ様とした時、突如、左手の丘の上から矢が飛んで来た。不意を突かれ、何人かが相次いで倒れた。更(さら)には、右手の丘からも敵兵が姿を現し、矢を射掛けて来る。谷間に在って左右より挟撃された中軍は、忽(たちま)ち大混乱を起した。

 時国は直ぐに郎党に命じ、襲撃を受けた合図を発した。先程の村岡軍とは異なる法螺(ほら)の音(ね)が、御巡検道に響いた。しかしそれも束(つか)の間、法螺(ほら)貝を吹いて居た郎党の背中に矢が刺さり、馬から転落した。

 時国は馬を下りて郎党を抱き起し、急所が外れて居るのを確認した後、行く手を見た。未だ暫(しばら)く、隘路(あいろ)が続く様である。このまま進めば、全滅の怖れが有ると考えた時国は、大声で中軍に退去を命じた。

 それと同時に、東側の丘より射掛けて来る敵の一隊が、突如として崩れ始めた。何事かと時国が見上げると、昨夜本陣を離れた守山勢が、丘の上に布陣した敵勢に襲い掛かって居た。敵には、側面への備えは無かった。守山騎馬隊は当たるを幸いに敵弓兵を蹴散らし、東の村岡兵は皆、守山勢への備えに移った。

 東からの矢が止(や)んだ事で、時国や昌直率いる中軍は、西の丘の敵に専念する事が出来る様に成った。中軍は西の丘を駆け上がろうと試みるが、先ず手前に沢が流れて居るので、それを渡らねば成らない。その間にも多くの味方が、敵の矢を浴びて倒れた。

 血路を開く積りで攻め寄せては見た物の、やはり位置が悪い。敵の矢は霰(あられ)の如く降り注ぎ、味方の被害は大きく成るばかりである。時国は再び、撤退を決意した。

 しかし、中軍の退路は既(すで)に断たれて居た。城より、村岡六郎重宗が打って出たのである。鵜沼昌直率いる大和勢は、これを討ち破ろうと努めるも、西の丘より矢が飛んで来る為、重厚な隊列を組む事が出来ない。鵜沼勢は重宗隊を突破する所か、逆にじりじりと圧(お)されて行った。

 再び、異変が起った。今度は、西側の丘の上から矢戦(やいくさ)をして来る敵に、乱れが生じたのである。見れば、先鋒隊の信田頼望が騎兵を以(もっ)て、敵を崩して居た。

 西の丘からの攻撃も沈黙した。鵜沼隊は他に備える必要が無く成り、退路を遮断(しゃだん)する重宗勢に、全力を傾ける事が可能と成った。数では鵜沼方が圧倒する。鵜沼勢の怒濤の突撃は、敵軍を二つに裂き、やがて昌直の前に敵大将の姿が見えた。
「そこにおわすは、村岡の六郎殿か?」
重宗は駒を前へ進め、昌直に姿を晒(さら)す。
「磐城の鵜沼昌直殿、その武名は予々(かねがね)聞き及んで居った。この場にて、一騎打ちを所望(しょもう)致す。」
「流石(さすが)は村岡の御曹司。全身全霊を以(もっ)て御相手仕(つかまつ)る。」
昌直と重宗は互いに単騎で飛び出し、擦(す)れ違い様に一合を交した。鉄が激しくぶつかり合う高い音が響いた後、両者は一旦離れて行った。そして再び、馬を返して激突する。両者は馬を並べて斬り合って居たが、昌直の豪剣を受けて、重宗が体勢を崩した。次の一薙(な)ぎを躱(かわ)そうとして、重宗は馬から転落し、昌直はそれを追って馬を飛び下りた。昌直は直ぐに重宗を馬乗りにして抑え、腰の短刀を抜いた。
「御見事。」
重宗は観念して、目を閉じた。

 東の丘の敵兵を粗方(あらかた)駆逐(くちく)した政隆と、勝秋率いる守山勢は、馬を巧みに操(あやつ)り、急な崖(がけ)を下って来た。体勢を崩し掛けながらも、何とか御巡検道へ下りて来た時、昌直の大声が聞こえて来た。
「村岡六郎重宗殿、討ち取ったり!」
大和勢は勝鬨(かちどき)を上げる。それに気圧(けお)される様に重宗隊の残兵は、次々と汐谷城へ逃げ始めた。

 敗残の兵を収容する為、汐谷の城門が開いて居る。今が機と見た政隆は、大声で味方に下知した。
「全軍、汐谷城へ突入せよ!」
総大将が合流して来た事を知った中軍は活気付き、鬨(とき)の声を上げて汐谷城門に突撃を開始した。

 

汐谷城(出羽神社)から菊多浦を望む

 政隆は和泉、河内の兵を従え、守山勝秋勢と共に汐谷城へ迫った。既(すで)に鵜沼勢が城門を突破して居り、大手門内の曲輪(くるわ)は容易に制圧出来た。しかし、汐谷城は菊多郡屈指の名城である。次の曲輪(くるわ)へ攻め入ろうにも、道が複雑で急な為に、そう簡単には行かない。

 次の城門を攻めあぐねて居た所、再び村岡方に乱れが生じた。信田頼望の隊が裏手に回り、搦手(からめて)より突入したのである。信田隊の先頭に立って案内を務めて居たのは、元は平政道の家臣であった望月国茂であった。国茂は周囲の地理に熟知し、信田軍に付いて、搦手(からめて)門へ至る裏道を嚮導(きょうどう)したのである。

 村岡方は防戦一方に追い込まれた。官軍は政隆率いる本隊、鵜沼隊、信田隊の三手に分かれ、次々と曲輪(くるわ)を落して行く。特に各隊の先頭を進む広瀬十郎、鵜沼昌直、望月国茂の活躍には、目を見張る物が有った。

 三隊の中で最も先に本丸へ迫ったのは、政隆率いる本隊であった。この隊には和泉、河内の兵で編成される広瀬勢、加えて守山勝秋の隊が中核と成って居る。

 劣勢に陥(おちい)った村岡重頼が、戦況を挽回(ばんかい)し得る方法は唯(ただ)一つ。汐谷城に傾(なだ)れ込んで居る官軍の総大将、平政隆の首級を上げる事であった。重頼は、本丸に残る二百騎に出陣を命じた。

 郎等の一人が黒駒を曳(ひ)いて来る。重頼の愛馬三丈黒(みたけぐろ)であった。気性の荒い馬だが、重頼の卓越した馬術の腕を以(もっ)て、他を圧倒する突進力を発揮する。重頼は八尺の鉄杖(てつじょう)を槍の如く引っ提(さ)げ、本丸の門を開かせた。

 既(すで)に五つの出丸が制圧され、本丸まで後一息である。ここに至り、漸(ようや)く政隆の心に余裕が生じて居た。城外に残された、従兄(いとこ)である重宗の骸(むくろ)を葬(ほうむ)って遣(や)らねばとか、本丸に居ると思われる伯母、花形御前の身を案じる事が出来る様に成って居た。

 本丸へ至る最後の城門を目指す時、政隆の本隊は広瀬勢を馬廻(うままわり)として吸収し、守山勢が一番乗りを果すべく、先駆けをして居た。しかし、守山勢の進撃が急に止まった。目の前の城門が開かれ、遂(つい)に敵の総大将、村岡重頼が姿を現したからである。
「あれこそが朝賊村岡重頼ぞ。奴の首級を上げて手柄とせよ!」
勝秋の号令を受けて兵達は鬨(とき)の声を上げ、村岡本隊目掛けて突進する。重頼方も駒を進め、全速にまで加速された時、官軍方の声を打ち消す気合の声が、重頼の口より発せられた。一瞬怯(ひる)んだ間撃を突き、重頼は鉄杖を横に薙(な)ぐ。刃は付いて居ないが、重く固い物が高速で胴を打った。鎧(よろい)は砕け、三人が纏(まと)めて吹っ飛ぶ。間髪(かんぱつ)を容(い)れずに再び重頼は、鉄杖を左から右へと振った。ビュンという、重く空気を斬り裂(さ)く様な音が響き、今度は四人が倒れた。とても、刀で受け止められる威力の物ではない。守山兵は後込(しりご)みし、その隙(すき)を突いて、重頼本隊は突撃を敢行する。守山勢は一気に、支離滅裂と成った。

 やがて重頼の目に、逃げる兵を留まらせるのに追われる、勝秋の姿が映った。
「勝秋、見参!」
重頼の声を聞き、勝秋は刀を構えて、迎え討つ体勢を取った。直ぐ様重頼の振う鉄杖が襲って来る。勝秋は巧みな角度で刀を払い、鉄杖の直撃を避けた。しかし刀は折れ、兜(かぶと)を掠(かす)めた衝撃だけで、勝秋は馬から転落した。

 重頼が止(とど)めを刺しに馬を寄せた所、一本の槍が重頼目掛けて投げられた。何とか鉄杖を以(もっ)て払い除(の)けた重頼は、槍が飛んで来た方を見遣(みや)る。すると、一騎の武者が駆けて来るのが見えた。
「我こそは守山家家臣、小川の平治なり。殿の首は渡さぬ。」
小川平治も武芸に秀(ひい)でた武者である。疾風の如く勝秋と重頼の間に割って入り、巧みな剣捌(さば)きで、勝秋を逃がす機を作った。
「面倒。」
重頼は馬を平治の脇に付け、腰帯を掴(つか)んで一気に打(ぶ)ん投げた。

 戦(いくさ)を一気に勝利に導く為に、重頼は勝秋の軍に構って居る暇(ひま)は無かった。扇に日の丸の旗指物(はたさしもの)を圧(へ)し折り、守山勢の敗北を示した上で、重頼は再び愛馬を走らせた。逃げ延(の)びて来た兵も加わり、重頼に従う兵は三百五十騎に増えて居た。

 重頼の鬼神とも思わせる戦振りは、官軍を震撼(しんかん)させた。遠目に見て居た政隆は、俄(にわか)に恐怖を感じ、体が震え出した。重頼勢は遂に官軍本隊に突入し、勢いに乗ったまま突っ込んで来る。和泉勢、河内勢を薙(な)ぎ倒し、重頼は漸(ようや)く政隆の姿を捉(とら)えた。
「そこに居るは、住吉の小倅(こせがれ)か。父の仇(かたき)を討ちたくば、前に出て来るが良い。それとも、臆病風に吹かれたか。」
政隆も重頼を睨(にら)み返した。この男が野心を起したが為に、父と姉は落命に至り、母は行方知れずである。突撃を掛けて来る村岡勢を前に、政隆は静かに抜刀した。己の腕で、重頼の鉄杖に太刀打ち出来るとは思わなかったが、一族の無念に想いが至ると、自然に体が動いた。

 政隆の前を和泉と河内の兵が固めるが、村岡本隊の猛攻に、次第に乱れが生じた。政隆の正面が空(あ)き、重頼は鉄杖を振り回して突っ込んで来る。

 総大将に至る直前、広瀬十郎の槍が間に合った。重頼は政隆へ打ち懸ろうと鉄杖を振り上げた時、不意に側面より繰り出された十郎の槍を間一髪で躱(かわ)し、体勢を崩した。それを立て直して居る間に、十郎は政隆の前に立ち開(はだか)ったのである。

 直ぐ様重頼は、渾身(こんしん)の力を振り絞(しぼ)って十郎に打ち懸(かか)った。十郎は巧みに鉄杖の威力を殺(そ)ぐ様に槍で応じ、隙が生じるのを狙(ねら)った。

 しかし、重頼の体力は常人を遙(はる)かに凌駕(りょうが)して居た。重頼が繰り出す鉄杖の威力は、中々衰えを見せない。次第に体力が尽き始めた十郎が、防戦一方と成った。
「殿、早う御退(ひ)き下され。」
愈々(いよいよ)、持ち堪(こた)える事が困難に成ったと感じた十郎は、政隆に背を向けたまま叫んだ。

 だが、政隆は動かなかった。左手を鎧(よろい)の引合せに当て、その手に掴(つか)んで居たのは、半ば朽(く)ち掛けた護符である。姉万珠の遺品の中に有った、丹後国由良庄如意寺の和尚より授かりし物であった。政隆は頓(ひたすら)に一族の本懐成就を願い、重頼と相打つ覚悟を固めて居た。

 遂(つい)に十郎は体力が尽き果て、重頼の重い一撃を槍で受け止めた物の、あわや落馬しそうな程に体制が崩れた。それを見て重頼は、十郎に止(とど)めを刺すのではなく、敵の総大将政隆を目掛けて駒を駆った。

 政隆との距離は一気に詰まり、重頼は一撃で片を付け様と、双手で鉄杖を振りかぶった。その時突然、烈風が政隆の背中に吹き付けて来た。砂塵(さじん)が巻き起り、彼方此方(あちこち)で馬が驚いて嘶(いなな)いた。重頼の愛馬三丈黒(みたけぐろ)も、急に突風を受けて驚き、横向に立ち上がった。それからの僅(わず)かな間、政隆は無心であった。右手は刀を放り、矢を手に取る。左手は護符を鎧(よろい)の引合せに押し込み、弓を取る。政隆が矢を番(つが)えた時、重頼は砂埃(すなぼこり)が目に入らぬ様、鉄杖の一端を握る左手を目に当て、振りかぶった体勢のままであった。愛馬も未だ、後ろ脚二本で起立した状態である。

 矢が政隆の手より放たれた直後、政隆は無心の状態が解けた。矢は追い風を受けて加速し、一直線に重頼の咽(のど)元へ飛んで行く。
「ぐわっ!」
重頼は低い声を上げた後、三丈黒(みたけぐろ)の上より姿を消した。

 間も無く突風が治まり、砂煙(さじん)も徐々に薄れて行った。やがて政隆の目に映った物は、地に仰向(あおむ)けと成って動かぬ重頼を、三丈黒(みたけぐろ)が心配そうに寄り添い、顔を舐(な)めて居る姿であった。重頼の咽(のど)には、政隆の放った矢が突き刺さって居る。即死であった。

 政隆は込み上げて来る様々な感情を吐(は)き出す様に、大声で叫んだ。
「賊将村岡重頼、大炊助(おおいのすけ)平政隆が討ち取ったり!」
(にわか)に信じられぬ様子で、周囲に居た敵味方は共に沈黙し、政隆とその傍らに斃(たお)れる重頼の姿を認めた。

 やがて官軍は歓声を上げ、村岡兵は慌てて本丸へ引き揚げ始めた。
「追え、追え!」
体勢を整えた守山勢が追撃に移る。政隆は我に返り、馬を駆って勝秋を追った。

 守山勢は、本丸に至る城門まで敵を押し戻した物の、再び門を閉ざされてしまった。故に、これを打ち破るべく、大きな丸太を、十余人の兵に持たせてぶつけ始める。守備兵は内側から門を押え、威力を多少なりとも弱めて居る様であった。しかし、徐々に閂(かんぬき)に破目(われめ)が入り、門が歪(ゆが)む。

 もう少しで門が破壊されると思われた時、総大将政隆が疾駆して現れた。
「伯父上。」
政隆の声に、勝秋は直ぐに答えた。
「おう、ここにござる。」
城門の側で指揮を執る勝秋を認めると、政隆は急ぎ馬を寄せた。勝秋は和(にこ)やかに迎える。
「先程は御見事でござった。流石(さすが)は政氏公の御嫡孫。将を失いし今、この巨大な城塞も、間も無く落ち申そう。」
「うむ。それ故、ここで一旦攻撃を中止し、降伏を促(うなが)す軍使を遣(つか)わそうと思う。」
「花形御前と、五郎重常殿の為にござりまするか?」
「然様(さよう)。逆賊重頼亡き今、御二方は我が伯母上と従兄(いとこ)ぞ。骨肉相食(あいは)む悲劇は、重宗殿だけで充分じゃ。」
「確かに、仰(おお)せの通りにござりまするが、ここで攻撃の手を緩(ゆる)めれば、敵は抜け道を伝い、落ち延びるやも知れませぬ。政隆殿は今や、重常から見れば父と弟の仇(かたき)。山田蔵人と共に磐城に入られては、再び障(さわ)りと成るは必定。それも御覚悟の上にござりまするか?」
「うむ。」
政隆の不動の覚悟を秘めた眼指を受け、勝秋は頷(うなず)いて、攻撃中止を命ずるべく振り返った。その時、門の奥、本丸より黒い煙が立ち上り始めた。
「行かん。本丸に火を放った様じゃ。」
勝秋が天を仰いで歯噛(はが)みした時、守山勢は遂(つい)に城門を打ち破った。小川平治が先頭と成り、本丸へ傾(なだ)れ込む。しかし本丸に建つ棟は、悉(ことごと)く劫火(ごうか)に包まれて居た。
「遅かったか。」
無念の表情を湛(たた)える政隆の前に、一人の武者が歩み寄って来るのが見えた。

 その武者は、村岡方の鎧(よろい)を纏(まと)って居る。馬廻(うままわり)は一斉に槍を構え、武者に備えた。すると武者は、大刀(たち)を鞘(さや)ごと放り投げ、敵意の無い事を示した。

 武者は馬廻(うままわり)の突き出す槍を前にゆっくりと膝を突き、懐から一通の書状を取り出し、差し出した。馬廻(うままわり)の一人が受け取ると、武者はぼそりと告げる。
「此(こ)は花形御前より、千勝様に宛(あ)てて認(したた)められし物にござりまする。」
そう言い残すと共に、武者は小刀を抜き、首を斬って自害した。突然の事に、政隆も馬廻(うままわり)の者達も、呆気(あっけ)に取られるばかりであった。政隆は合掌し、村岡武士の壮烈な最期を惜(お)しんだ。

 康保(こうほう)の頃より半世紀余。磐城の南口を守護して来た磐城平家最強の武士団は、ここに壊滅したのであった。

 政隆は伯母花形御前の書状を受け取り、目を通した。そこには、妻の目から見た、村岡重頼の心情に就(つ)いて書かれてあった。それに依れば、重頼は幼き頃より坂東武者の気質を失わぬ様、父忠重より厳しく尚武、質朴(しつぼく)の精神を叩き込まれて来た。謹厳であった平政氏に仕え、戸惑いながら己の精神を磨(みが)いて居たのも束(つか)の間、政氏は流刑に処され、年若い平政道が新たに主君の座に着いた。しかし重頼の目から見て、この主君は武士の棟梁と仰(あお)ぐには、余りにも軟弱に思えた。その頃、下総の所領を任される様に成った村岡平家の忠常より、度々使者が遣(つか)わされ、重頼を一族として重視して居る事が伝えられた。そして遂には、坂東最強を誇る武士団の棟梁平忠頼と、親子としての繋(つな)がりを持つに至った。その内に、重頼は村岡平家の子として、忠頼に忠を尽す様に成り、その過程で、磐城平家を蔑(ないがし)ろにする事が多く成った。政道に代替りしてから、政(まつりごと)が杜撰(ずさん)に成った事も有り、重頼は義父忠頼の後ろ楯を得て、武士として磐城の民を救うべく、事を起す決断をするに至ったのであるという。

 花形御前の文は、重頼謀叛の根元と成る理由は、弟政道の器量が不足して居た事に因(よ)ると書いて居る。そして最後に、弟の妻子にまでも多大な不幸を齎(もたら)した事、加えて自身にそれを防ぐ力が無かった事を詫びて居た。

 政隆は伯母の書状を読み終えると、静かにそれを畳(たた)んだ。伯母の謝意は充分に伝わった。しかし重頼が成して来た事に、酌量(しゃくりょう)の余地は無い。重頼が父を堕落(だらく)させ、苔野(こけの)と姥竹(うばたけ)、そして姉万珠の三人も犠牲と成った。政隆は、彼女達の仇(かたき)を自らの手で討てた事を、至上の喜びと感じて居た。あの時、重頼を一瞬足留めさせた風、あれこそが姉万珠の加護であると思えた。

 総大将を失った村岡勢は潰走した。別動隊として他の曲輪(くるわ)を制圧して来た鵜沼勢と信田勢は、二の丸において本隊と合流を果した。政隆は両将に犒(ねぎら)いの言葉を掛ける。その時、信田頼望は一人の将を伴い、政隆の前へと進み出た。政隆は満面の笑顔で応じる。
「信田殿、よくぞ敵の伏兵を破り、搦手(からめて)を突破して下された。御手並、実に見事でござった。」
「恐縮に存じまする。ここに、我が隊の道標(みちしるべ)と成り、先陣で最も大いなる働きをした武者を連れて参り申した。」
「ほう。」
頼望に促(うなが)され、後方に控えて居た一騎の武者が馬を下り、政隆の前に進み出て跪(ひざまず)いた。
「千勝様、御自ら先代政道公の仇(かたき)を討たれし事、磐城家臣を代表し、御礼(おんれい)申し上げまする。」
「其方(そなた)は?」
「亡き政道公が家臣、望月国茂と申しまする。かつては大村信澄殿等と力を併せて、村岡の専横を阻止せんと務めて居りました。されども力及ばず。失脚の憂(う)き目に遭(あ)い、残された所領に隠遁(いんとん)し、時が来るのを待ってござり申した。」
「そうであったか。本日の働き、遖(あっぱれ)なり。今後は父に仕えた如く、私を支えて欲しい。」
「ははっ。」
ここに又一人、磐城の国人が政隆の旗の下に加わった。

 国茂の表情には、焦(あせ)りの色が有った。国茂は頭を上げると、直ぐ様報告する。
「畏(おそ)れながら申し上げまする。山田蔵人が残兵二百騎を纏(まと)め、我が軍の囲みを突破し、浜海道方面へ逃走致し申した。急ぎ兵を北上させねば、滝尻城に入って、守りを固められてしまいまする。」
「そうか。重頼の片腕が未だ残って居ったか。」
政隆は国茂の勧めに頷(うなず)き、急ぎ滝尻制圧の軍を編成し、御巡検道から先回りさせ様とした。しかし、村岡との激戦を経て、多くの兵が傷付いて居た。滝尻城は、磐城第二の規模を誇る城塞である。少なくとも、五百の健全な兵が求められた。

 そこへ、官軍本隊後陣無傷の三千騎余を率い、平安忠が入城して来た。政隆の策を疑り、機を逃したばかりに、申し訳の無い様子で、のそのそと登って来る。政隆はこれを見て嬉々とし、馬を駆って安忠の元へ向かった。馬廻(うままわり)の広瀬十郎等も、主君に続く。

 本丸と大手門との中央に位置する曲輪(くるわ)にて、政隆は安忠と対面した。安忠が己の不始末を何とか言い繕(つくろ)わんと思案して居る所へ、政隆が和(にこ)やかに声を掛ける。
「丁度(ちょうど)良い所へ参られた。実は、山田蔵人が残兵を纏(まと)め、磐城へ落ち延びたそうな。北には村岡五郎重常が健在なれば、合流されては面倒。そこで、貴殿には手勢を率い、御巡検道を越えて、急ぎ滝尻、住吉の両城を制圧して貰(もら)いたい。」
(とが)を受けると思いきや、意外にも名誉挽回の機会を与えられた。安忠は神妙に承り、急ぎ軍を反転させ、滝尻へと向かって行った。

 安忠の軍が去った後、政隆は信田頼望に汐谷城を任せた。そして動ける兵百名ばかりを連れて、安忠の後を追う様に、御巡検道を北に向かって行った。されども、夕刻には何処(いずこ)かに兵を遣(つか)わしたまま、汐谷へ引き揚げて来た。

 官軍はその日の夜、汐谷城に留まって、疲れを癒(いや)した。本丸の鎮火も完了し、煙たさも殆(ほとん)ど消え去って居た。戦死者の埋葬、負傷者の手当等、戦後の目まぐるしい処理が終り、漸(ようや)く焼け残った二の丸の屋敷に入って床(とこ)に就(つ)いた政隆は、激しい疲労を感じながらも、中々寝付く事が出来なかった。取り逃した山田勢が、五郎重常を旗頭に磐城を抑えた場合、磐城平定が長引く不安が残ったからである。

 二日後の朝、汐谷城内外に特に異変が無かった事を確認した上で、官軍本隊は再び、前進を開始した。政隆は信田頼望に菊多郡内五郷の統治を暫定的に委(ゆだ)ね、自身は無傷あるいは軽傷の兵を三千騎再編し、汐谷城を発った。御巡検道を北に向かい登って行くと、やがて鳥見野の台地に出る。

 鳥見野原はかつて、平政氏が愛宕(あたご)権現を信仰する一族を招聘(しょうへい)し、愛宕族が持つ製鉄業と窯(よう)業の技術を活かし、一大製鉄所を築いた処である。往時は磐城の主力産業として栄えたが、磐城平家への忠節を全うした故か、村岡政権の時代を経た今、この地に愛宕族の姿は無い。製鉄炉跡が廃墟(はいきょ)の如く朽(く)ち果てて残り、政氏の時代が、古(いにしえ)の栄華の様に感じられた。

 途中、道端(みちばた)で手を振る男の姿が在った。愛宕族の末裔で、汐谷城攻撃の際、政隆率いる部隊に、裏道を案内した男である。
「全軍止まれ。」
政隆の号令を受けて法螺(ほら)貝が吹かれ、全軍が停止した。

 政隆は列を離れ、男の前へ進み出る。
「首尾は如何(いかが)であったか?」
「はっ。大勢で取り掛かりました故、今朝までに何とか、形ばかりは整い申した。今、全員整列をし、政隆様の御越しを御待ちして居りまする。」
「重畳(ちょうじょう)じゃ。そこまで案内を頼む。私と共に官軍へ加わる様。」
「ははっ。」
政隆は愛宕族の男を伴って本隊に戻ると、再び全軍に下知した。
「皆の者、これより先、我々は愈々(いよいよ)磐城郡に入る事と成る。畿内勢の中には知らぬ者も多いやも知れぬが、当郡は我が祖父政氏、父政道と二代に渡り郡司を務め、府を置きし我が故国である。仍(よっ)て、磐城郡に入る前に祭祀(さいし)を執り行い、御先祖に逆臣村岡誅伐の報告を行い、その御霊(みたま)を安んじて置きたい。既(すで)に祭壇(さいだん)は築いて在る故、皆、私に付いて来て貰(もら)いたい。」
そう告げて、政隆は馬廻(うままわり)を伴い、愛宕族の男の案内を得て道を逸(そ)れた。そして、全軍がその後に続いた。

 その日は雲の疎(まば)らな晴天であり、視界は遠方まで利いた。官軍は樵(きこり)が歩いて出来た道を伝い、緩(ゆる)やかな傾斜を東方へ下りて行く。程無く雑木(ぞうき)林を抜け、開けた処に出た。そこは絶壁であり、目の前に遮(さえぎ)る物が無い為、大層見晴らしが良い。南には鮫川の河口、その先には菊多浦から奈古曽(なこそ)周辺に至るまで望む事が出来る。そして東南方には、龍宮岬や渚村の浜も見下ろす事が出来た。

 官軍の正面には、簡易なれども祭壇が造られて在った。その上には、用意出来るだけの祭器が置かれて居る。祭壇造設に従事した兵は、その周囲に整列して、待機して居た。

 全軍、祭壇の前に粛然と並び、政隆が一人進み出て、祭壇の前で振り返った。政隆は全軍を見渡して告げる。
「汐谷城攻撃の日、我が隊は渚村より間道を伝い、城の東側に出て、奇襲を懸ける事が出来た。その前日、私は必勝を祈願して居た。」
政隆は間を置き、後方に広がる海を一瞥(いちべつ)する。
「戦(いくさ)の前日、我が隊はこの麓(ふもと)に位置する渚村に駐屯して居た。その村に鎮座する那智権現は、我が磐城平家の祖、陸奥大掾(だいじょう)政氏公が勧請(かんじょう)した守護神である。仍(よっ)て私はこの場において、当家の守護神に戦勝を報告し、その御加護に報いたいと思う。」
一同が静かに納得の表情を浮かべたので、政隆は榊(さかき)を手に取り、祭壇へと上がった。

 

舞台

 祭祀(さいし)は粛々と執り行われた。政隆の官職は大炊助(おおいのすけ)であるが、大炊寮(おおいのりょう)は神事に係る職務も執り行う。次官(すけ)である政隆は職務上、神事に関して学ぶ機会が度々有ったのである。

 政隆は祭祀(さいし)を通じて、全軍に求めたい物が有った。それは、官軍総大将としての強固な統率権である。上方の武将の中には、己を青臭い田舎(いなか)武士と見る者も在る。今後、故国磐城に秩序を回復して行く上で、官軍将兵の勝手な振舞は、絶対に許されぬ物であった。政隆は、神を畏怖する人心を以(もっ)て、軍令を神官に準ずる大将の言として、重みを加えて置きたかったのである。

 しかし政隆の憂(うれ)いとは裏腹に、上方の将は粗方、坂東諸将との懸引き、奥州に入ってからの戦(いくさ)振りを見て、政隆を頼むに足る将と考える様に成って居た。

 政隆は神事の舞いを祭壇上で行った。儀式の後、辺りには帷幕(いばく)が張られ、酒と料理が振舞われた。政隆は家臣に命じ、鳥見野近隣の民人にも参加を求め、多くの良民達が宴(うたげ)に加わった。酣(たけなわ)と成ると、祭壇上で舞楽(ぶがく)が催され、官軍は民人(たみびと)と共に一夜の興に酔い痴(し)れた。後に民人は、舞楽の歓(かん)が行われたこの地を「舞台」と呼び、平政隆の徳を偲(しの)んだ。又、平政隆が村岡重頼勢を討ち破った戦場(いくさば)は「勝負沢」と呼ばれる様に成り、後に転じて菖蒲沢と成った。

菖蒲沢(勝負沢)

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