第二十四節 菊多侵攻

 奥州白河郡の南端、依上(よりがみ)郷と高野(こうや)郷に配備されて居た村岡勢を駆逐(くちく)した官軍は、街道に沿って更(さら)に北へと進んだ。田川が合流して来る辺りまで来ると、久慈川河畔(かはん)の平地は幅を増し、大軍の交通が容易に成る。

 官軍は五千近い大軍である。その威圧に加え、総大将が旧主磐城平家の御曹司でもある為、近隣の豪族の殆(ほとん)どが、戦わずして降伏した。やがて常世(とこよ)郷を落し、官軍は奥州一宮(いちのみや)である都々古別(つつこわけ)神社へと入り、仮の本営として留まる事と成った。

 先ずは、西方白河関(しらかわのせき)における戦況を、確認して置かねば成らない。野州藤原兼光が攻略、もしくは善戦して居れば良し。しかし、総大将政隆の力量を量(はか)る為に傍観を決めて居たとすれば、白河の軍は官軍本隊を狙い、動き出す可能性が高い。

 都々古別の社(やしろ)内で、早速政隆は軍議を開いた。その場で政隆は、早急に北上し、浅川権太夫の居城を攻略する事を提言した。白河から浅川までの距離は、僅(わず)かに五里。白河関には、重頼の弟大郎も援軍に駆け付けて居る為、その兵力は数千に膨らんで居る事が想像出来る。浅川が、自身の居城を見す見す失う事は考え難い。浅川に軍を向ければ、近い内に敵の援軍が押し寄せて来る事は、誰の目にも明らかであった。

 結局政隆が断を下し、藤原正頼に五百の兵を預けて殿軍(しんがり)とし、残り四千余を以(もっ)て、一気に浅川城を攻める事に決した。既(すで)に陽は大分傾いて居たが、近隣豪族の一部が官軍に身を投じて居たので、彼等に嚮導(きょうどう)させる事で、暗夜の行軍が可能と成って居た。政隆は直ちに、夜襲の仕度を命じた。

 諸将が慌(あわただ)しく席を立ち、各自の隊を纏(まと)めに向かう中、政隆は殿軍(しんがり)を命じた正頼のみを、本陣に留めた。正頼は陽の在る内に、近隣地形の偵察、陣地の構築を、可能な限り済ませて置きたかった。逸(はや)る面持ちの正頼に対し、政隆も真剣な眼指を向ける。
「実は、正頼殿に一つ頼みたき儀がござる。」
「はっ。」
正頼は訝(いぶか)しむ顔で、政隆を見詰める。
「兼光殿に対し、一通の書状を認(したた)めて貰(もら)いたい。正頼殿が仙道の攻略を任された故、兼光殿には出陣に及ばぬと。」
「しかし、それで宜しいのでござりまするか?」
「うむ。今し方戻った物見の報告に依れば、白河において、未だ戦(いくさ)は勃発して居らぬ様じゃ。しかし、近くに野州勢が先鋒隊の姿が在ったとも言う。尻を叩いて、早々に参戦して貰(もら)わねばのう。」
正頼は政隆の意図を察すると、承知の旨を示し、自陣へ引き揚げて行った。

 斯(か)くして官軍は、僅(わず)かな休息を取ったのみで、再び慌(あわただ)しい動きを見せ始めた。官軍の大半が浅川城へ進撃を開始する中、藤原正頼の陣中より三騎、西の山中へ駒を奔(はし)らせる武者が在った。三騎は久慈川に沿って、山間(やまあい)を下野に向かい、駆けて行った。

 正頼の使者には、土豪の者が付き随って居たので、暮れ泥(なず)む山中を、迷わずに突き抜けて行った。戸中峠を越えて下野に入り、梓川から三蔵川に沿って暫(しば)し進むと、間も無く仙道に至る。そこから街道を北上すると、陸奥下野両国の境に、玉津島明神が鎮座する。

 兼光率いる野州勢は当地を本陣とし、白河関に籠(こも)る村岡勢を牽制(けんせい)しつつ、戦況の推移を観察して居た。五千を数える大軍を擁しながら兼光は、自軍が最も目立つ働きが出来る時を、見計らって居たのである。正頼の使者は無事に、兼光軍本陣の置かれた明神に到着する事が出来た。

 一方、政隆率いる官軍の本隊は、社(やしろ)川南岸を北東へ進み、地の利に明るい近隣豪族を先頭に、一気に浅川城搦手(からめて)を駆け上がった。城内の兵は殆(ほとん)どが白河へ派遣されて居る為、手練(てだれ)の武士は僅(わず)かしか残って居ない。数で圧倒する官軍は、その鬨(とき)の声丈でも浅川兵を震撼(しんかん)せしめ、次第に防護柵が突破され始めた。

 遂(つい)に城柵を官軍の一隊が突破し、内側から門を開け、大軍がどっと傾(なだ)れ込んだ。女子供等は悲鳴を上げ、別の手より逃亡する。しかし、白河方面は官軍が犇(ひしめ)いて居るので、已(や)むなく北方石川郷を目指して、走り去って行った。

 政隆は逃亡者を追撃せず、白河口を封鎖する部隊を留め、残りを以(もっ)て城の制圧に向かった。城将は本丸に火を放って自害に及び、官軍は焼け残った曲輪(くるわ)に入り、浅川権太夫の襲来に備えた。

 その頃、都々古別(つつこわけ)神社の北方では、藤原正頼率いる五百の兵が、白河関より打って出た浅川勢に対し、懸命に防戦して居た。浅川は野州兼光が動かぬと見るや、本城の援軍に二千騎を繰り出して来た。浅川方から見れば、正頼の軍勢に構(かま)って居る暇(ひま)は無い。故に、守りの弱い平坦地より一点突破を試みるが、正頼は崩れる前に別の部隊より援軍を送り、何とか堪(こら)えて居た。

 しかし平地戦において、大軍が執拗(しつよう)に攻めて来るのを、守り通すは困難である。正頼の隊は夥(おびただ)しい死傷者を出し、正頼自身、全滅を覚悟する所にまで追い込まれた。

 遂(つい)に、力尽きた一隊が浅川軍の突破を許した時、浅川城の方より法螺(ほら)の音が聞こえた。正頼は己の役割を果した事を知り、全軍を南の丘へ退却させた。

 浅川勢はこれを捨て置き、全力で浅川城へ向かい、駆けた。既(すで)に陽は没し、暗闇の中を浅川城の篝火(かがりび)が、辺りを照らして居る。城門まで駆け付けた権太夫の目に映(うつ)った物は、浅川城に翻(ひるがえ)る官軍の旗であった。

 動揺が走る浅川勢に、早馬が駆け込んで来た。
「村岡大郎様からの伝令にござる。野州勢が白河関へ押し寄せて参り申した。至急、関へ御戻り下され。」
城を完全に制圧された権太夫には、最早白河関に立て籠(こも)る他に、策は見出せなかった。そして歯噛(はが)みしながら軍を纏(まと)め、白河へ引き揚げて行った。

 その様子を、官軍の兵が近くに潜(ひそ)み、聞いて居た。兵は直ぐに城へ入り、将へ報告すべく走る。それから間も無く、正頼勢に入城を命ずる法螺(ほら)が鳴らされた。遠方でそれを聞いて居た正頼は、眼下の平野を浅川勢が駆け抜けるのを見届けた後、多くの負傷兵を連れてゆっくりと、丘を下って行った。

 浅川勢が戻った時、野州勢は白河関に猛攻を加え、落城寸前と成って居た。白河攻撃を指揮する兼光の顔は逼迫(ひっぱく)して居た。追捕使(ついぶし)が正頼を白河攻略の将に任じたと聞いた以上、先に正頼に落されてしまっては、折角(せっかく)五千の大軍を集めて出張って来たのが、無駄足と成る。それだけなら未だしも、坂東藤原氏の武士団棟梁としての名望までも正頼に攫(さら)われてしまっては、兼光は恩賞に与(あずか)れる所か、下野支配の土台すら失い兼ねない。そうさせぬ為にも、兼光は正頼よりも先に、白河を攻略せねば成らなかった。

 幸い、浅川権太夫が大軍を率い、正頼方を討ちに出撃した。守備が手薄に成った所を衝(つ)いて、兼光は攻撃を開始した。村岡大郎はよく守ったが、やて綻(ほころ)びが生じ始めた。後一歩で城内に傾(なだ)れ込める所まで攻めたが、その時予想外の事が起きた。浅川城を諦(あきら)めた権太夫の軍勢が、取って返して来たのである。兼光は多くの兵をこれに割かねば成らず、逆に村岡方は援軍の到着に士気が揚がった。浅川軍は野州勢を蹴散らして城内に入り、白河関は一気に活気付いた。兼光は一旦兵を退(ひ)き、翌朝まで兵を休める事にした。

 ここに、その日の戦(いくさ)は終結した。官軍から見れば、村岡に与(くみ)して仙道を抑える浅川権太夫の居城を占領し、浅川の主力を白河関に封じ込めるという、大戦果を挙げる事が出来た。

 政隆は翌日も浅川城に軍勢を留め、兵を休ませると共に、白河関を牽制(けんせい)した。そして次の日、軍を進発させる事に決した。

 別動隊の平安忠勢は、既(すで)に奈古曽(なこそ)近辺に到着して居るであろうから、官軍本隊も早急に、菊多を目指す必要が有った。そして政隆は、制圧した浅川城の守将に、藤原正頼を宛(あ)てる事とした。理由は三つ。正頼勢が既(すで)に、殿軍(しんがり)という大功を立てて居る事。正頼を白河近辺に残して置けば、兼光勢が対抗心から、必死と成って敵を攻める事。正頼の兵には負傷者が多く、今後の行軍には支障を来(きた)す事。正頼もその事は承知し、神妙に政隆の下知に従う旨を示した。

 翌朝、官軍は藤原正頼勢を残し、浅川城を発した。逢隈(阿武隈)山中を越えて菊多に向かうに当たり、最大の難関であった浅川権太夫の居城を巧(うま)く抜く事に成功した事で、諸将が政隆を、総大将の器(うつわ)として認める事にも繋(つな)がった。

 官軍は意気軒昂(けんこう)、北上して石川郷の首邑(しゅゆう)へと入った。浅川権太夫の本隊と遮断(しゃだん)された豪族達は、村岡方を見限り、続々と官軍方に寝返った。官軍は再び五千の大軍と成り、御斎所(ごさいしょ)街道に出て、東へと進路を取った。

 街道を進む事二里と半、鮫川と街道が並走する様に成る。この鮫川の河口付近に、村岡重頼の本拠、汐谷城が在る。更(さら)に半里程先に進むと、左手の丘の上に竹貫(たかぬき)館が見えて来る。村岡の主力がここを抑えて居れば、街道は封じられてしまうが、奈古曽(なこそ)と白河の両方面に大軍を送って居る為、館に詰める兵は百にも満たぬ小勢であった。

 竹貫(たかぬき)は白河郡の東端に位置し、菊多郡への入口である。かつては高野盛国の勢力下に在ったが、その後、村岡に与(くみ)する浅川に制圧された。臣従する歴史が浅い為に、村岡に対する忠誠心は低く、館主は戦わずして官軍に投降した。政隆は館主の罪を問わず、その地位を保証した。その代り、兵糧の供出、兵の宿所の手配等を命じた。

 その日の進軍はここまでで、官軍は竹貫(たかぬき)の城下に分宿し、充分に休息を取った。ここを抜ければ愈々(いよいよ)、父政道の遺領である、菊多郡大野郷に入る。この地は、先代忠重以来村岡家の所領であり、気を許す事は出来ない。明日からが、村岡氏との本格的な戦(いくさ)の始まりである事を、政隆は胸に刻んだ。

 石川郷内で新たに加わった兵も有り、政隆は配下の将に命じ、各部隊の長を集めて、官軍の戦場(いくさば)での合図等を教えた。一方で主立つ将を集め、菊多郡内に入ってからの行動を決める事とした。

 竹貫(たかぬき)館本丸の広間は、官軍の仮の本営と成り、政隆は上座に腰を据(す)え、その正面に鵜沼昌直が地図を広げた。見た所、大野郷より南へ折れ、山田郷を経由して汐谷へ向かうのが最短路であり、途中には要害も無い。只、政隆には一つ、気掛りな事が有った。汐谷城の後方を固める、滝尻城の存在である。
「汐谷城を落したにせよ、村岡重頼は滝尻へ退(しりぞ)き、再起を計るであろう。なれば、一隊を滝尻へ割き、村岡の四方を抑えて、孤立させるが上策と心得るが。」
政隆の提案に対し、真っ先に異を唱(とな)えたのは、磐城家旧臣木戸時国であった。
「若殿、その策は危のうござりまする。別動隊を滝尻に差し向けるとなれば、大野、蒲津両郷の平定が不可欠と存じまする。その間、滝尻は磐城諸郷より兵を掻(か)き集め、守りを固めてしまう事でござりましょう。それに加え村岡本隊は、現今の本隊を削(けず)ってでも討ち破れる程、甘くはござりませぬ。」
時国の意見に、昌直も賛同を示した。
「某(それがし)も同じ意見にござりまする。確かに北方を空けて置けば、村岡重頼を汐谷に破ったにしても、滝尻方面へと逃してしまうでありましょう。しかし却(かえ)って逃げ道が有れば、敵勢は劣勢に陥(おちい)った際に、退却を望む心理が強く成りまする。磐城の豪族は、重頼の武力を恐れて従って居るのみ。汐谷が落ちて磐城へ逃亡したにせよ、諸豪族の信を失墜するに至れば、村岡は自ずと、瓦解の道を辿(たど)る事でありましょう。」
両将の意見は有理と、政隆は感じた。
「成程(なるほど)。確かに汐谷に残る村岡の武者達は、磐城家中で最も、精強と恐れられて居た武士であった。その部隊と矛(ほこ)を交える前に、戦力を分散する余裕等、当方に有ろう筈(はず)も無い。明日は一気に汐谷城を目指し、奈古曽関(なこそのせき)と対峙して居るであろう、常陸勢と合流致す。各々方、異論ござらぬか?」
時国と昌直、そして政隆という磐城出身の将の話を聞き、他の将達は、これまで快心撃を続けて来た故の慢心が吹き飛び、俄(にわか)に緊張感を帯びて、政隆の意見に承服した。

 その夜、軍議が纏(まと)まった後、政隆は床(とこ)に就(つ)いた。しかし、目が冴えて中々寝付けそうにも無い。明日から愈々(いよいよ)、仇敵(きゅうてき)村岡重頼との大戦(おおいくさ)が始まる。ここで大敗を喫すれば、下総の平忠常が介入し、政隆は坂東からの撤退をも余儀無くされる怖れが有る。悶々(もんもん)とした気分を抱えたまま、気が付けば、一番鶏の鳴き声が響いて居た。

 卯(う)の上刻、街道に整列を完了させて居た官軍五千は、日の出と共に竹貫(たかぬき)を進発した。前軍には、地理に明るい守山勝秋、木戸時国、鵜沼昌直を配置。中軍には総大将平政隆を戴き、後軍を信田頼望が固めた。官軍は鮫川沿いの御斎所(ごさいしょ)街道を、頓(ひたすら)東へ向かって進んで行く。

 次第に日が高く成って来ると、行く手が眩(まぶ)しく感じられる様に成る。この先大野郷に至るまで、幸いにも砦や館の類(たぐい)は無い。只、街道が山間(やまあい)を流れる川に沿って造られた物だけに、所々がとても狭く成って居る。政隆等は、隘路(あいろ)に敵が陣地を構えて居ない事を、切に願った。

 竹貫(たかぬき)より一里程進んだ所に、大原という村里が在る。そこから更(さら)に一里先、石住(いしずみ)という村が、菊多郡の西の入口である。

 村岡重頼は、実弟大郎と盟友浅川権太夫を、白河に派遣して居る。その事に因(よ)る安堵感からか、磐城と白河を結ぶ御斎所(ごさいしょ)街道には、纏(まと)まった軍勢が配備されて居なかった。官軍は悠々と進軍し、無事に大野郷の首邑(しゅゆう)、葛野(上遠野)に到着した。

 葛野(かづらの)村の西端、鮫川に葛野(上遠野)川が合流して来る処で、道が二手に分かれて居る。葛野(上遠野)川伝いに進めば滝尻、三箱(さはこ)方向へ至るが、官軍は鮫川伝いの、脇道へと折れて行った。

 暫(しば)し鮫川に沿って南へ進むと、半里程で川は西へ離れて行く。代りに道の右手には滝富士と呼ばれる小高い丘が聳(そび)え、官軍はその麓(ふもと)で小休止を取った。これが、村岡との決戦の前の、最後の休息である。この先の山田郷は、重頼の片腕、山田蔵人の所領であり、一気に突破せねば成らなかった。

 未だ、四半時も休息を入れて居なかったかも知れないが、政隆は全軍に出立の命を下した。余り長居をしては、山田郷の豪族に気付かれ、機を逸(いっ)する不安が有ったからである。

 滝富士より数町も進めば、山田川に至る。この川は鮫川の支流であるが、この流域一帯が山田郷であり、山田蔵人の地盤である。政隆は、官軍と磐城平家の旗指物を全て畳(たた)ませた。山田郷の者に、敵と悟られるのを少しでも遅らせる為である。官軍は悠然と、山田川沿いの道を南下して行った。土豪に不審に思われない様、加えて汐谷に着く前に、兵を疲れさせない為である。

 山田川の東岸に出て、愈々(いよいよ)村岡の拠点、余部郷が眼前に広がって来た時、東方より軍勢が押し寄せて来るのが見えた。旗印を見ると、山田蔵人の手勢である。

 蔵人と官軍先鋒の将守山勝秋は、互いに名乗りを済ませた後、軍勢を繰り出した。両軍は激しくぶつかり合い、一歩も退(ひ)かぬ気迫が伯仲して居た。

 しかし、守山勢が二千騎に達するのに対し、山田勢は五百にも満たぬ小勢である。次第に山田方の陣に、乱れが生じ始めた。後一歩で崩れると思われたが、山田勢の中から一騎、守山勢に突入して来る武者が在った。
「我こそは山田蔵人が嫡男、五郎定能(さだよし)なり。守山殿、見参!」
そう叫び、長刀を振り回して、守山勢の中に突入して来た。逃げ腰に成り掛けて居た山田兵も、定能(さだよし)の勇猛さに鼓舞(こぶ)され、次々と定能の後に付いて突撃を始める。

 定能(さだよし)は長刀で薙(な)ぎつつ、守山勢の中へ割って入って来た。守山兵はその勇ましさに畏怖し、たじろいで居る。守山勢の陣形は乱れ、前軍は寡勢(かぜい)の山田軍に対し、明らかに劣勢と成った。

 それに気付き、守山本隊に駆け付けて来た一隊が在った。木戸時国の手勢である。時国は守山勢に合流し、定能(さだよし)勢の正面に立ち開った。
「儂(わし)は守山軍の将、磐城郡楢葉郷の木戸時国。御相手仕(つかまつ)る。」
「我こそは本郡山田郷長蔵人が子、定能なり。行く手を阻(はば)む者は容赦せぬ。」
両者は相(あい)名乗りの直後、激突した。

 幾度も刃(やいば)を交え、前軍の中を駆け巡る。互いの技量は拮抗し、最早何十合交えたか分からない。両者共に汗だくと成り、刃は毀(こぼ)れて居た。

 そこへ、東方より法螺(ほら)の音(ね)が響き出した。定能(さだよし)は直ちに馬を返し、走り去り様に、時国に告げる。
「本日の勝負はこれまで。再び戦場(いくさば)にて見(まみ)えようぞ。」
その後ろ姿を、時国は黙って見送って居た。既(すで)に体力は消耗し尽し、握力が無く成って居たのである。
(あの時法螺(ほら)が鳴らなければ、討たれて居たやも知れぬ。)
時国は呼吸を荒げながら、既(すで)に遠方に小粒と成ってしまった定能(さだよし)の、後ろ姿を見詰めて居た。

 この戦(いくさ)に因(よ)り、守山軍と山田軍には大きな被害が出た。特に山田方は数で劣る分、より甚大な物であった。

 兎(と)も角(かく)、村岡勢は東方へ走り去った。守山勝秋より戦況の報告を受けた政隆は、そのまま天神川の手前にまで軍を進めた。

 天神川に到着すると、その東岸を南北に走る浜街道に沿って、北へ進む大軍が在った。旗印を見れば、平安忠率いる常陸勢である。政隆率いる官軍本隊五千騎の接近を知った村岡方は、奈古曽(なこそのせき)関に配備して居た主力部隊を一旦、汐谷城に収容する事にした。その間山田勢が、官軍本隊の足留めを務めた。先刻の法螺(ほら)は、汐谷に本隊が引き揚げた事を報せる物であったのである。官軍本隊を引き受けた山田郷兵と、常陸安忠勢の追撃を蒙(こうむ)った酒井郷兵には、多くの死傷者が出たが、汐谷城に余部、河辺、大野三郷の兵を、無傷で入城させる事が出来た。その数は一千を超える。

 政隆は先ず、安忠軍の進撃を止め、汐谷城の南方に陣を構築する様に命じた。ここ余部郷は、大河鮫川の河口に位置し、多くの支流が流れ込む処である。鮫川河口において合流する渋川は、汐谷城南麓を流れる天然の外堀であった。官軍は、渋川を両軍勢力の境と見極め、この地に本陣を置いた。この三角州は、東の渋川、南の鮫川、西の天神川と、周囲を川に囲まれて居る。川辺に柵を結い馬防の備えを施し、更(さら)に先程の戦(いくさ)で傷付いた守山勢を天神川の西岸に置いて、後詰(ごづめ)とした。不退転、短期決戦の構えである。

 官軍は三角洲の中に在る丘の上に陣を布(し)き、渋川の対岸に聳(そび)える汐谷城と対峙した。村岡重頼が指揮する城を北東に望みながら、官軍諸将は本陣に集まり、汐谷城攻略の策を練(ね)る事と成った。

 先ず、鵜沼昌直が絵図を用意し、居並ぶ将達に周辺の地形を示した。汐谷城は村岡忠重、重頼の二代に渡る五十有余年、平貞盛以来の常陸平氏から守り抜いて来た名城である。南面は菊多の平野を望める急峻な崖(がけ)であり、北面は鳥見野の台地を経由して滝尻に至る。城の東を走る御巡検道、西を走る浜街道は共に、城下の狭い谷間を貫(つらぬ)いて居る。故に両街道は僅(わず)かな兵で封鎖する事が可能であり、滝尻より容易に兵や物資を送る事が出来る。

 政隆が短期決戦の構えを取った理由の一つは、背後に控える磐城郡からの増援でる。そしてもう一つの理由と成る物を、政隆は仰いだ。空には幾らか雲が漂(ただよ)っては居るが、快晴と言えた。しかし後半月もすれば、雨期が到来する。大雨が続けば、鮫川はその幅を増し、官軍は水害に備えて、陣を後退させねば成らなく成る。その後は雨期が終り、川の水量が減るまで汐谷城の攻略は延期せざるを得ず、そう成ると、官軍の兵糧が欠乏し始める。

 やがて、鵜沼の絵図を見た副将平安忠が、険しい顔をして政隆に進言する。
「今居る位置は、敵の城より近過ぎまする。敵方は夜討ちを掛け易く、我が軍は敵より先に、疲弊し切ってしまいまする。責(せ)めて鮫川の南へ退(しりぞ)いた方が、守るに易いかと存じまする。」
この意見には、政隆が京より率いて来た畿内の諸将も賛同した。だが、政隆の決意は変わらない。
「将兵が疲れ切るまで、ここに滞陣する積りはござらぬ。それにこれだけ近いと、却(かえ)って気が緩(ゆる)まず、敵の夜襲にも対応出来申そう。雨季が訪れる後半月の間に、是が非でも住吉までは、征圧して置かねば成らぬ。」
政隆の返答に首を傾(かし)げたのは、馬廻(うままわり)の将、広瀬十郎であった。
「総大将に御尋ね致しまする。雨季に入り鮫川が増水致さば、敵も川を越えて攻め寄せる事は出来ませぬ。戦(いくさ)は雨季が終った後、じっくりと行えば宜しいかと存じまする。兵糧の心配ならば、坂上判官が当面は手配して下さり申そう。」
十郎の意見に、副将平安忠も同意を示した。しかし政隆は、悲しい目をして諸将を見渡す。
「確かに十郎が申す事も道理じゃ。加えるに、早急に戦を終結させれば、内裏(だいり)が村岡重頼は大した賊ではなかったと、判断するやも知れぬ。そう成れば、戦勝後の恩賞に、良からぬ影響が及ぶやも知れぬ。しかしそれでも尚、私は汐谷の攻略を急がねば成らぬ。」
「何故(なにゆえ)でござりましょう?」
安忠が、興味深そうに尋ねた。
「時を置けば、村岡は多賀城の動きに備えて、宇多郡に配置した磐城兵を、汐谷に移動させるであろう。磐城の武士は元来当家の家臣。それと戦う事に成れば、後々まで怨恨(えんこん)を残す事と成り、磐城平定は難しく成ってしまう。」
政隆の言葉を、守山勝秋は嬉々とした様子で称(たた)えた。
「流石(さすが)は磐城平家の棟梁じゃ。磐城には、政隆様の御帰還を待ち焦(こ)がれて居る者が多うござる。彼等と刃(やいば)を交えるは愚の骨頂。善(よ)くぞ仰せ下さり申した。」
勝秋の他にも、時国や昌直といった磐城所縁(ゆかり)の者達は、挙(こぞ)って賛同の意を示した。家臣団との和が崩れれば、その武士団は瓦解する。その事を承知する平安忠や信田頼望も、遂(つい)には政隆の策に同意するに至った。

 安堵した政隆の目にふと、気になる物が映(うつ)った。昌直が用意した絵図の内、菊多浦の東、竜宮岬の先に在る渚村の北部に建つ、那智権現である。社(やしろ)の脇に補足として書かれた「磐城判官守護神」の文字が、やけに気に掛かった。

 翌日も晴天であった。数で勝(まさ)る官軍は、東面の大手、南面の崖(がけ)、西面の搦手(からめて)より一気に攻め寄せた。しかし地形が険しい上に、村岡兵の多くが弓に熟達して居る。官軍の兵は必死に城柵に取り付こうと試みるが、正確な狙撃に因(よ)り、バタバタと倒れて行った。特に、南面の崖(がけ)を攀(よ)じ上る兵が射落されると、後続の者を捲(ま)き込んで転落する為、被害は更(さら)に甚大と成る。官軍方は已(や)むなく、退却を命ずる他は無かった。

 三日程力攻めを試みたが、汐谷城を落す目処(めど)は立たず、徒(いたずら)に味方の犠牲が増えて行くばかりであった。大軍に包囲されて居るにも拘(かかわ)らず、村岡方に悲壮観は見られない。怖らくは本家に当たる平忠常の、終戦工作に期待して居るのであろう。忠常が坂東に保有する武力を背景に、公卿に接近すれば、太政大臣公季(きんすえ)を目の上の瘤(こぶ)と見做(みな)す関白頼通辺りが、停戦に応ずる可能性も否(いな)めない。それを防ぐ為にも、やはり汐谷城を、一刻も早く落さねば成らなかった。

 次の日、政隆は馬廻(うままわり)に信田隊を加え、海岸沿いの絶壁を上り、渚村を目指した。勝戦(かちいくさ)を祈願する為、祖父政氏の守護神を詣(もう)でに向かったのである。

 小浜と呼ばれる僅(わず)かばかりの砂浜の北側は、延々丘陵地帯が広がって居る。浜の裏山には社(やしろ)へと続く参道が在るが、随分と急な坂道であった。政隆等は息を切らせながら、ゆっくりと上って行った。

 やがて一行は坂を上り切り、整地され、纏(まと)まった平坦地に建つ、社殿の正面に至った。一帯は樹木の戦(そよ)ぎ、小鳥の囀(さえず)り以外は何も聞こえず、南方を見下ろせば、菊多沖の海面が陽光を照り返し、キラキラと輝いて居る。正に幽玄の境であり、大戦(おおいくさ)の最中だという事を、忘れさせる処であった。

 政隆は社殿の前へ進むと、暫(しば)し黙したまま佇(たたず)んで居た。かつて祖父政氏はこの地に立ち、如何(いか)なる思いを込めて守護神を祀(まつ)ったのか。政氏が磐城に君臨して居た昔を思いつつ、政隆は柏手(かしわで)を打って礼拝した。
(何卒(なにとぞ)逆臣村岡重頼を討ち果し、奥州南部に往古の秩序を取り戻す力を、我が手に御授け下さりまする様。)
長い礼を終え、政隆が頭を上げた時、突如として、背後の広瀬十郎が駆け出した。

 十郎は社殿の右手より、裏へと回り込む。そして程無く、一人の男を捕まえて戻って来た。
「この男が、社(やしろ)の裏に潜(ひそ)んで居り申した。」
農夫と思(おぼ)しき形(なり)の男は、十郎に腕を極(き)められたまま跪(ひざまず)いた。

 政隆は男の前に立って尋ねる。
「御主は渚村の者か?」
男は目を逸(そ)らし、力無い声で答える。
「いいえ。」
「では、村岡重頼の手の者か?」
政隆の語気が強まる。男は俄(にわか)に呆然(ぼうぜん)とした表情を浮かべ、政隆に問い返す。
「貴方様は、汐谷城の御方ではござりませぬので?」
後方で、十郎が叱咤(しった)する。
「無礼者!此方(こちら)におわされる御方は、凶賊追捕使の次官(すけ)、大炊助(おおいのすけ)平政隆様に在らせられるぞ。」
政隆は十郎を静め、男の前に片膝(ひざ)を突く。
「私は前(さきの)磐城郡司、平政道が嫡男にて、政隆と申す。此度は勅命を奉じて、奥州を乱す村岡を討伐に参った。ここへ立ち寄ったは、祖父政氏公の御加護を得る為じゃ。」
それを聞いた男は、急に畏(かしこ)まって平伏した。
「これは、失礼致し申した。某(それがし)は、鳥見野原を村岡氏に追われた、愛宕(あたご)族の者にござりまする。先程は、我等が逃げ延びた村に戦火が及ばぬ様、磐城判官様に御願いして居た次第にござりまする。」
ふと政隆の背後より、信田頼望が口を開いた。
「愛宕(あたご)族。確かかつては相馬将門公の家臣であったが、子孫の磐城政氏殿が当地の領主と成られた後、共に移り住んだと聞いて居る。」
「然様(さよう)にござりまする。」
男も政隆も、呆(あき)れた顔をして、頼望を見上げて居る。平将門に係る一族の秘事を、何故(なにゆえ)この者が知るのか、不思議でならなかった。

 頼望は政隆の隣に進み出て、男に尋ねる。
「其方(そち)はこの辺りの地理に詳しいか?」
「幼き頃より駆け回った地にござりますれば。」
「では、この丘を越え、御巡検道に出る道は有るか?」
「樵(きこり)が歩く道なれば、幾つかござりまする。」
「そこまでの案内、其方(そち)に頼めるかな?」
「政隆様が再び、政氏様の時代の様な、民の住み良い政(まつりごと)をして下さると、御約束して下されるのであらば。」
男は、何かに縋(すが)りたいという悲しい目をして居た。政隆は十郎を下がらせ、男の手を取って見詰める。
「其(そ)は私の願いでもある。歳若く未だ未だ未熟者であるが、海道を統一し得た後は、村岡に破壊されし産業を再び興し、領民の互恵構造を再建したいと考えて居る。」
男は政隆の手を握り返し、頭を下げて言上する。
「私を、政隆様の御役に立たせて下さりませ。」
政隆は頷(うなず)くと、男の手を引いて、一緒に立ち上がった。ここに官軍は、汐谷城の近隣を熟知する先達(せんだつ)を、味方に加える事が出来た。政隆は守護神が遣(つか)わされし者と信じ、祖父に感謝の念を抱いた。

 ふと、政隆を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、頼望が己を呼んで居るのに気付いた。
「御大将。某(それがし)に、汐谷城攻略の一案がござりまする。」
「ほう。」
政隆は耳を貸し、頼望が余人に漏れぬ小声で囁(ささや)く。

 暫(しば)し政隆は真顔で、頼望の話に頷(うなず)いて居た。そして話しが終ると、頼望はすっと、政隆の傍から退(しりぞ)く。政隆はその後も目を閉じて思案を重ねて居る様であったが、やがて開眼して、頼望を見る。
「よし、危険を伴うが、貴殿の案を採ると致そう。」
頼望は静かに一礼した。政隆は社殿の裏山を望み、言葉を接ぐ。
「信田殿には一度本陣へ立ち戻り、守山勢の中から、精鋭百騎をここへ差し向けて貰(もら)いたい。十郎を付ける故、村岡方に気取られぬ様、夕刻に移動する事。」
頼望は承服し、十郎も意気を述べる。
「某(それがし)は、一度通った道は忘れませぬ。夕闇の中であろうと、必ずや案内を務めて御覧に入れまする。」
「うむ。」
政隆は頷(うなず)くと、紙と筆を求めた。馬廻(うままわり)の一人が、直ちに用意をする。

 政隆は社(やしろ)の隅に置かれた平たい石の上に紙を乗せ、さらさらと筆を滑らせた。そして最後に、念の為追捕使(ついぶし)の印を押す。政隆はそれを畳(たた)むと、頼望に手渡した。
「此(こ)は、追捕使(ついぶし)の長官(かみ)である右衛門督(うえもんのかみ)藤原実成様の御命令に等しい。この軍令書を以(もっ)て、必ず安忠殿の軍を動かしてくれ。」
「承知仕(つかまつ)り申した。」
頼望は恭(うやうや)しく書翰(しょかん)を受け取ると、手勢を纏(まと)め、十郎を伴って、社(やしろ)を下りて行った。

 那智権現に残ったのは、政隆の馬廻(うままわり)五十騎ばかりであり、ここを敵勢に襲撃されれば、一巻の終りである。されど政隆は社(やしろ)の前に床几(しょうぎ)を置き、腰を据(す)えて、泰然と構えて居た。眼前に広がる菊多浦の眺めは、遠方からは戦場(いくさば)とも思えぬ程静かで、平穏に見える。政隆は社殿の守護神に懐(いだ)かれた様な安堵感を覚え、悠然と時を待った。

 その後、本陣に立ち返った信田頼望は、主立つ将を集め、政隆の指示を伝えて居た。
「守山勝秋殿。」
「はっ。」
「貴殿は酉(とり)の上刻、広瀬十郎殿の案内を得て、村岡方に悟られぬ様、政隆様の本隊に合流される事。」
「承知。」
続いて頼望は、正面に座す安忠を見遣(みや)った。
「平安忠殿。」
「おう。」
「貴殿は本陣に残る兵を纏(まと)め、明朝卯(う)の上刻、御巡検道を通り、滝尻城へ向かう事。その際、敵に察知され、襲撃を受けた時には、法螺(ほら)にて合図を送る事。」
しかし安忠は返事をせず、訝(いぶか)しむ顔を向けて居る。
「政忠殿は、此度が初陣と聞く。それが、諸将に諮(はか)らず勝手に作戦を決められるとは、ちと浮かれ過ぎて居られる様じゃのう。」
「安忠殿、政隆様は追捕使(ついぶし)の次官(すけ)におわしまするぞ。それ位の権限はござり申す。」
頼望の諫(いさ)めに、安忠は更(さら)に語気を荒げた。
「儂(わし)も追捕使の主典(さかん)よ。次官(すけ)が危険この上無い策を強行し様とするのであれば、これを諫(いさ)め、長官(かみ)へ報告するのが任務である。」
「成程(なるほど)。主典(さかん)の殿の言い分にも、一理ござる。」
頼望は落ち着いた様子で、手に持つ軍令書を広げ、諸将に示した。
「政隆様の御名(おんな)の下に、追捕使長官(かみ)の印章が押されて居るのが御覧戴けよう。政隆様は右衛門督(うえもんのすけ)藤原実成様より、長官(かみ)の権限を委任されておわされる。即(すなわ)ち、政隆様の命は長官(かみ)の命と心得られよ。」
安忠は軍令書をまじまじと見詰め、歯噛(はが)みした。政隆が長官(かみ)の印章を持って居ると成れば、下手(へた)に逆らうと、後々不利な事態を招き兼ねぬからである。

 頼望は柔和(にゅうわ)な表情と成り、安忠に告げる。
「御安心召されよ、明日は我が隊が先陣と成り、御巡検道を進みまする。中軍は上方の三千騎。安忠殿は後詰(ごづめ)として控え、敵が策に掛かり、崩れた頃合を見て、押し寄せて下され。」
「敵が乱れず、崩れぬ時は如何(いかが)致す?我が軍が助けに駆け付けるか、分からぬぞ。」
「本隊の将帥代行は、安忠殿でござる。御随意に。」
「相(あい)解った。」
安忠は剥(むく)れた顔のまま、どかりと床几(しょうぎ)に腰を下ろした。

 斯(か)くして軍議は決した。政隆が頼望の献じた策を決行する事と成ったが、諸将は皆、足並を揃(そろ)えぬ副大将と、所存不明の総大将に、不安を感じて居た。

 政隆が頼望に預けた書翰(しょかん)には、軍の再編の事も書かれて居た。木戸時国は守山兵の残りと、白河郡において味方に付けた豪族を纏(まと)め、そして鵜沼昌直は大和兵五百騎の隊長を務める様、指示が成されて居た。政隆は幼き頃より信頼を置いて居た両将に、大いに期待を懸けて居たのである。

 部隊の編成が済むと、官軍は一部の見張りを残し、寝入ってしまった。明朝決行される作戦に備え、体力を蓄える為である。

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