第二十三節 坂東の増援

 近江国大津駅に迫ると、眼前には広大な湖が広がって来る。琵琶湖を望むのは二度目であり、三年前に初めて訪れた時は、三井寺の了円僧都(そうず)を頼るのが目的であった。思えば、あの時伯父了円に会う時が叶(かな)わなかった事が、寧(むし)ろ幸いであったのかも知れない。清水寺に流れ着いた御蔭で、閑院藤原家に拾われ、文武の修業に勤(いそ)しむ事が出来た。今では念願の官軍総大将を拝命し、本懐まで後少しの所に来て居る。

 政隆は己の幸運を実感しつつ、国府の先から、南の東海道へ進路を採った。東方、琵琶湖の南岸に沿う道は東山道であり、奥州白河関(しらかわのせき)に至る。

 東海道は甲賀駅を経由して、やがて伊勢との国境に位置する鈴鹿関(すずかのせき)に至る。その後、伊勢国府まで下りて来ると、再び勾配(こうばい)が楽に成り、歩き易い道と成る。東海道は律令中路に指定され、京師と常陸府中とを結ぶ。

 伊勢より尾張、三河、遠江、駿河と進んで来たが、国府や土豪の中から政隆に、増援の兵や軍需物資を提供する者は無かった。東海は久しく平穏であり、遠く離れた奥州の事には、関心が及ばぬ様である。

 天候も概(おおむね)穏やかであった。官軍は京を出立して、半月の後には駿州横走駅に到着し、近隣の宿を手配して、数日間逗留(とうりゅう)した。横走の先には足柄峠が在り、これを越えると坂東相模国に入る。相模西部に勢力を持つ豪族は、平忠頼の孫常遠(つねとお)である。又東部には、平良文流三浦為通(ためみち)や、平良正流鎌倉景成(かげなり)等が割拠して居る。特に常遠と為通は村岡平家の支流であり、重頼に与(くみ)する怖れは大いに有った。故に政隆は、坂東に入る前に兵の疲れを落して置く事にしたのである。

 兵を充分休息させた後、官軍は再び東へ進み始めた。相模国府を経由して、やがて武蔵国府に入った所で、政隆は三人の豪族に使者を送った。即(すなわ)ち、忠頼の遺領を受け継ぐ武基(たけもと)、忠常(ただつね)、常遠の三氏である。内容は、官軍に与(くみ)するには及ばずという事であった。下手(へた)に味方として馳(は)せ参じられても、重頼の血縁故に、疑心暗鬼を生ずる怖れが有ったからである。故に秩父武基には武蔵領、千葉忠常には下総領、山辺常遠は相模領より出兵の必要無しと、予(あらかじ)め断って置く事にした。

 政隆の書状には、追捕使(ついぶし)の印が用いられる。下手(へた)に逆らえば、朝賊の扱いを受ける怖れが有る為、三氏は皆使者を立て、承服の意を示して来た。

 しかしその中で一人、政隆には心を許さぬ者が居た。常陸平家と争いを続ける上で、重頼が討たれては困る千葉忠常である。

 下総国府へ軍を駐屯させた時、朗報が入った。坂上田村麻呂の末裔である上総、下総、常陸の坂上氏が、挙(こぞ)って官軍の味方に馳(は)せ参じたのである。その数は僅(わず)か数百に過ぎなかったが、坂東の地理を知る者が加わった事は、実に頼もしく感じられた。政隆は、京に在って坂東の同族を動かしてくれた広高に感謝を覚え、又その力量に感服した。

 僅(わず)かに兵力を増した官軍は、その後下総国府を出立し、街道沿いに北東へ進んだ。内海(霞ケ浦)の西南端を右手に眺めつつ、愈々(いよいよ)常陸国へ足を踏み入れるに至った。

 入口である信太郡を悠々と北上して居た官軍の中から、突如として叫び声が上がった。
「東より軍勢が!」
それを聞いて政隆は、右手を目を凝(こ)らして見た。草原の彼方(かなた)に、砂埃(すなぼこり)が朦々(もうもう)と上がって居る。この辺りは平忠常の支配下に在り、騎馬隊の大軍が官軍を襲撃して来ても、不思議は無い。
「鶴翼にて迎え討つ!」
政隆の下知を受け、法螺(ほら)が鳴り響いた。それを聞いて、各隊が構えを改める。自軍は三千。よもやこれを凌(しの)ぐ兵力は投入されて居らぬであろうと考え、政隆は敵を包み込む陣形を採った。

 所が、未知の軍勢は次第に速度を落し、矢の届かぬ二町を隔(へだ)てて停止した。やがて砂塵(さじん)は雲散し、百騎ばかりの騎兵隊が姿を顕(あらわ)にした。政隆はそれを見て驚いた。軍旗に、亡父政道と同じ繋(つな)ぎ馬、九曜の紋を用いて居るのである。

 その中から、白旗を掲(かか)げた武者が一騎、此方(こちら)に向かって駆けて来る。
「軍使じゃ。ここへ通せ。」
政隆は訝(いぶか)しむ顔で、傍らの将に命じた。

 官軍の弓隊は備えを解き、軍使は前衛の前で馬を下りた。
「某(それがし)は常州信太郡の豪族、信田頼望(しだのよりもち)と申しまする。この度は平政道殿の御嫡男が、追捕使(ついぶし)の大将として奥州へ攻め入ると聞き及び、御味方致すべく馳(は)せ参じた者にござりまする。」
頼望と名乗る武者は、如何(いか)にも精強な坂東武者を代表する、武骨な男振りであった。官軍の将は威圧された様子で、総大将の元へ案内した。

 政隆の前に通された頼望は、恭(うやうや)しく政隆の前に跪(ひざまず)いた。政隆は馬から下りて、頼望の前に立つ。
「信太郡は、忠常殿の勢力下に在ると聞き及んでござる。忠常殿には、此度の助勢は無用と伝えて置いたのだが。」
頼望は頭を下げながらも、はっきりとした声で答える。
「某(それがし)は、磐城平家所縁(ゆかり)の者として、駆け付けて参った次第。当家の軍旗を御覧下され。」
「うむ。私は些(いささ)か驚かされた。」
「あれは平将門公以来、当家に伝わりし物にて、嫡流の磐城平家は当然、同様の旗を用いて居た筈(はず)。総大将が磐城平家の旗を掲(かか)げれば、謀叛人を討つという大義名分が鮮明と成り、磐城の豪族には大きな揺さ振りと成る事でありましょう。」
政隆は久しく京で過ごし、天皇(すめらぎ)の軍旗こそが最も尊いと思い込んで居た。しかし言われて見れば、確かに平政氏の嫡孫である事を誇示する事も、奥州の豪族相手には有効の様に思える。

 政隆は頼望の手を取って、感謝の気持を伝えた。そして有難く、相馬以来の軍旗を拝借する旨を伝えた。ここに政隆の下には、新たに精強な騎馬隊が加わった。

 信田軍は常陸の情勢に明るい事を買われ、前軍の嚮導(きょうどう)役を承った。そして頼望の献策を採り、常陸府中へ赴く前に、先ずは筑波郡の多気へ寄る事とした。

 目下、常陸国には三つの勢力が割拠して居る。茨城郡府中に館を構え、常陸北部を抑える平安忠、筑波郡多気城を拠点とし、常陸西部を所領とする平為幹(ためもと)。下総国千葉に居城を置き、常陸南部に勢力を伸ばす平忠常。安忠と為幹は共に平繁盛の子孫であり、友好関係に在る。しかし忠常は、父忠頼以来の対立を受け継ぎ、菊多の村岡重頼と与(くみ)して、虎視耽々(こしたんたん)と安忠、為幹の隙(すき)を窺(うかが)って居る状態であった。そして忠常麾下(きか)に在って、為幹(ためもと)の監視を続けて居たのが、信田頼望であった。

 その頼望が、先ず多気城に赴く事を勧めた訳は、為幹(ためもと)の兵を官軍に組み入れ、忠常勢に因(よ)る後方撹乱(かくらん)の備えとする為である。政隆は良策と思った故に採用したが、頼望が何故(なにゆえ)主家の不利と成る事を言うのか、その真意が解(げ)せなかった。

 内海(霞ケ浦)が大きく西へ迫り出す処、桜川の河口付近で、政隆は近江の琵琶湖に匹敵する巨大な湖を見て、陸奥にも類を見ない光景に、暫(しば)しの感動を覚えて居た。

 官軍はその先で街道を西に外れ、桜川の北岸に広がる平坦地に延びる脇道を、北西へと進んだ。北方の丘陵地より西へ回り込むと、常陸国が誇る霊峰、筑波山の威容が大分迫って望める様に成る。その山容に心を動かされるも束(つか)の間、直ぐに筑波山の前景として、小高い丘の上に建つ多気城が見えて来た。

 使者を遣(つか)わして置いた為、為幹(ためもと)は城門を開いて、官軍を迎えてくれた。兵を城内に入れて休息させ、政隆以下の主たる将は、為幹の案内を得て、本丸へと通された。

 広間にて政隆は上座に腰を据(す)え、配下の将達も上方に並んで座す。為幹(ためもと)は官軍の総大将に対し、鄭重に持て成した。馳走(ちそう)と酒を振舞う手筈(てはず)であったが、政隆は遠慮した。為幹は三年前に濫妨(らんぼう)を働いた前科が有り、又未知なる土地でもある故に、信を置くには至って居ない。仍(よっ)て万一に備え、食物を口にするのを避けたのである。

 為幹(ためもと)が些(いささ)か心証を悪くした気配が有ったので、政隆は朗(ほが)らかに話を始めた。
「多気の殿は、昔平忠常が下総を荒らして居た時、大軍を率いて平定を成し遂げられたとか。御武勇は都にまで伝わって居り申す。」
急に誉(ほ)めの言葉を掛けられた為幹は、俄(にわか)に表情を明るくして答えた。
「いや、あれは先代の左衛門尉(さえもんのじょう)維幹(これもと)と、河内の源頼信殿に因(よ)る物にて、某(それがし)は未だ未だ駆出し者にござり申した。」
「御謙遜を。今でも立派に、維幹(これもと)殿が拓かれた御所領を守り抜いて居られる。その武勇の誉(ほま)れ高き多気の殿に、追捕使(ついぶし)として御願いの儀がござる。」
為幹の顔から、笑みが消失する。
「何でござりましょう?」
「某(それがし)は帝(みかど)の命を受け、奥州の村岡重頼を討伐せねば成りませぬ。然(しか)るに、後方に気掛りな勢力が居り申す。」
「同族の、千葉の忠常にござりましょう?」
「然(しか)り。それ故、貴殿には追捕使(ついぶし)に加わって戴き、忠常の動きに備えて貰(もら)いたい。しかし、実際に戦(いくさ)が起るは、私の望まぬ所。」
「と、仰(おお)せられますると?」
「貴殿には間者を放って貰(もら)い、官軍の大将は愚物であり、兵の数も揃(そろ)って居らぬと吹聴(ふいちょう)して戴きたい。さすれば、忠常は暫(しば)し傍観に回り、不用意に官軍と鉾(ほこ)を交えるのを避けるであろう。重頼自身に片付けさせれば済む事故な。その間隙を突いて、我等は一気に菊多を攻略致す。貴殿は労せず背面の敵が居なく成る上に、恩賞に与(あずか)れるであろう。」
(にわか)に信じられぬ様子で、為幹(ためもと)は政隆に確認する。
「本当に、それで宜しいのでござりまするか?」
「うむ。これが重頼を討つ、最上の策と思う故な。」
政隆は広間から望める晴天を仰ぎながら、話を変える。
「所で、追捕使(ついぶし)の主典(さかん)が未だ空(あ)きのままなのじゃ。長官(かみ)と判官(ほうがん)は後詰(ごづめ)として京におわす故、主典(さかん)は実質、官軍の副大将を務める事と相成る。京では、常陸府中の平安忠殿が適任という声が強かったが。同国に住む貴殿の目から見て、如何(いかが)思う?」
「はい。安忠殿は名将余五将軍の跡を継ぎ、配下には歴戦の兵(つわもの)も多うござりまする。加えて、常陸国内最大の武士団を纏(まと)める器量も備えてござれば、人物にも不足は無いかと存じまする。」
「しかし、当人は引き受けてくれ様か?」
「勅命とあらば、御受けせぬ訳には参りますまい。加えて重頼とは、常奥国境を挟みて、久しく対立して来た経緯がござれば、先方に取っては願っても無い話の筈(はず)。宜しければ、我が弟為賢(ためかた)を、御供に御連れ下され。必ずや安忠を、味方に引き入れて御覧に入れまする。」
為幹(ためもと)の提案を受けて、その背後に控える為賢が頭を下げる。
「其(そ)は有難き事。」
そう告げて、政隆は為賢に笑みを向けた。

 既(すで)に未(ひつじ)の下刻と成って居た。為幹(ためもと)は政隆に多気城へ宿泊する事を勧めたが、政隆は今日の内に府中に入って置きたい旨を告げた。そして為賢(ためかた)とその郎党十騎を伴い、多気の城を辞して行った。

 季節は春に移ろい、野山は新緑に萌(も)えて居る。日が大分長くは成って来たが、暗く成る前に府中へ辿(たど)り着けるか如何(どう)かという不安は、正直政隆の胸中には有った。しかし為賢(ためかた)が間道を知って居り、途中から桜川伝いを外れ、東の山間地へ踏み入った。その道は府中への距離を大きく縮め、一気に恋瀬川の支流近辺で、東海道に戻る事が出来た。

 恋瀬川を南の堀とし、北方の高台に建てられたのが、常陸国府である。かつて政隆の父政道は、当国に介に任官し、国府の政(まつりごと)を統轄する立場に在った。

 この年、前(さきの)常陸介平維衡(これひら)は任期が満了し、後任国司は未だ着任して居ない状態であった。故に前(さきの)大掾(だいじょう)が暫定的に国政を預かる事と成り、確たる責任を負って居ない分、政隆に取っては都合が良かった。政隆は官軍三千余騎を国府に駐屯させ、仮の本営とする事が出来たのである。

 前(さきの)常陸介維衡(これひら)は、平貞盛が実子であり、常陸平家の本家筋に当たる。この年に、比叡山横川で出家して居た平良兼流、致経(むねつね)が病没するに及び、伊勢の覇権を巡り抗争を続けて居た維衡、正輔(まさすけ)父子は、伊勢における支配権を盤石の物とした。その一方で、大きな後ろ楯に帰京されて了った常陸の安忠、為幹(ためもと)に取って、追捕副使平政隆は、興味の有る存在に映(うつ)ったのである。

 平安忠との会談の下準備は、多気より付き随(したが)って来た平為賢(ためかた)が中心と成って行われた。安忠は、幾年も村岡重頼と対峙して来た為に、その強さを熟知して居る。その分、政隆が重頼に太刀打ち出来る能力を備えて居ないと判断すれば、負戦(まけいくさ)の責を負わされぬ様、主典(さかん)職を辞退される怖れも有った。

 政隆が国府に入って二日後、安忠が僅(わず)かな供を率い、姿を現した。為賢(ためかた)が正門まで迎えに出て、総大将政隆の元へ案内を務めた。

 官軍は政庁を除(のぞ)く大半の棟を借り受け、兵を休ませると共に、本営では主立つ将が集(つど)い、今後の作戦を練(ね)って居た。その末席には、新参の信田頼望の姿も在る。

 そこへ、為賢(ためかた)が安忠を伴い入室して来た。官軍の諸将は脇に退(の)き、安忠が政隆の正面へ進み出て、恭(うやうや)しく座礼を執った。
「善(よ)くぞ御越し下された。」
政隆は笑顔で迎え、安忠も微笑を湛(たた)えて顔を上げる。
「これはこれは、政道殿の御嫡男が、立派に成られた物じゃ。」
「父を御存知にござりまするか?」
「もう十年も昔の事。某(それがし)は父維茂(これしげ)の供として、同席した事がござりまする。そして、その威厳に畏怖した物でござり申した。」
政隆の脳裏(のうり)に、幼少の頃の記憶が蘇(よみが)って来た。あの頃、父は居城住吉を留守にする事が多かったが、政(まつりごと)に勤(いそし)む、真(まこと)武士の棟梁であった。父は海道と仙道南部を、そして叔父政澄は仙道北部を管轄し、奥州南部には平和が続いて居た。それを打ち砕いた村岡重頼に対し、政隆は改めて憎悪(ぞうお)の念を募(つの)らせた。

 安忠は政隆の表情を窺(うかが)いながら、話を始める。
「追捕副使政隆様は、官軍先鋒の大将として、奥州を荒らす村岡を討伐に向かわれるとの事。隣国に暮らす者としては、誠に有難き事と存じまする。されど、奥州との国境奈古曽関(なこそのせき)には、既(すで)に村岡方が二、三千の兵を派遣し、制圧を終えて、守りを固めに入ってござりまする。これでは、最低一万の軍勢を用意されねば、関を抜く事は能(あた)いますまい。」
康保(こうほう)の役を経て磐城平家が興って以来、即(すなわ)ち平政氏と平繁盛の時代から、常陸平家は菊多攻略の策を練(ね)り続けて来た。しかし、政氏が配置した村岡忠重に隙(すき)は無く、重頼に代替りした今でも、安忠は村岡攻略の緒(いとぐち)を見出せずに居た。

 政隆が、奥州国境の具体的な報せを受けたのは、これが初めてであった。確かに、現況手持ちの兵で関を抜くは、至難の事である。暫(しば)し黙考した後、政隆は一つの提案を安忠に示した。
「安忠殿は、野州藤原氏とは誼(よしみ)を御持ちか?」
「はっ。平貞盛、藤原秀郷以来、久しく同盟関係に在り申した故。只、秀郷将軍の末裔は、今では二派に分かれてしまい申した。京に在りて左衛門尉(さえもんのじょう)を務められる文行殿と、野州の武士団を束(たば)ねる弟御の兼光殿にござりまする。」
「では、兼光殿に協力を求めたい。安忠殿からも、口添えを願えませぬか?」
「何をでござりましょう?」
「兼光殿には、白河を抜けて、仙道に軍を進めて戴きたい。」
安忠は苦笑して答える。
「村岡の勢力は今や大変な物。余程の恩賞が約束されねば、野州も動きますまい。その為には、追捕使(ついぶし)の長官(かみ)の印章がござりませぬと。」
政隆は配下の将に命じ、箱を一つ持って来させた。そして、中身を安忠に確認させる。

 印章を手に取り、隈(くま)無く眺めて居た安忠の顔色が、俄(にわか)に変わり始めた。政隆は笑みを湛(たた)えて尋ねる。
「其(そ)は出陣の折、帝が長官(かみ)藤原実成様に授けし物を、私が御預かりして参った物。私が追捕使(ついぶし)の全権を委任されて居る事、御承知戴けましたか?」
安忠は畏(おそ)る畏る印象を箱へ戻すと、政隆に平伏した。
「畏れ入り申した。」
政隆は安忠に楽にする様勧め、話を続ける。
「野州の兼光殿には、追捕使(ついぶし)より仙道の北上を命ずる。首尾良く村岡を征伐した暁(あかつき)には、信夫(しのぶ)の地を差し上げる。当郡は元は父の所領故、特に問題は起らぬであろう。この役目、安忠殿に御願い出来まするか?」
「ははっ。」
安忠は政隆に対し低頭した。

 政隆はにこりと微笑(ほほえ)むと、すっと立ちあがった。そして懐より一通の書状を取り出す。
「勅命に因(よ)り、平安忠殿を追捕使の主典(さかん)に任ずる。此(こ)は即(すなわ)ち、官軍の副大将を務める事と相成る。御受け戴けまするな?」
政隆は任官状を安忠に差し出した。

 官軍主典(さかん)とも成れば、兼光説得には有利であり、兼光を動かせば、安忠の功績と成る。加えて敵方である村岡軍が、奈古曽(なこそ)の兵を仙道に割かねば成らなくなる有利も生ずる。俄(にわか)に勝機が見えた安忠は、恭(うやうや)しく任官状を受け取った。そして真顔と成り、政隆に言上する。
「某(それがし)、自ら野州唐沢山へ赴き、必ずや藤原兼光を、官軍に引き入れて御覧に入れまする。」
ここに官軍の四将は全て定まり、政隆は有力な副将を得て、常陸を本営とする事が叶(かな)った。菊多攻略の準備は、着々と進んで行ったのである。

 安忠が下野国へ赴いて居る間、常陸府中に留まって居た政隆の元に、援軍が有った。下総の豪族藤原正頼が、手勢三百騎ばかりを率いて、馳(は)せ参じたのである。正頼は、安和(あんな)の変で失脚した鎮守府将軍千晴の嫡孫であり、矍鑠(かくしゃく)とした老将であった。此度は、千晴の代に失った野州藤原氏長者の立場を回復すべく、兼光に先んじて、官軍に加わったのである。

 数日を経て、野州唐沢山より安忠が戻って来た。安忠は笑顔で政隆に報告する。
「成功にござりまする。兼光は、追捕使(ついぶし)の名において信夫支配を認めた事に満足し、早速軍勢を整え始めましてござりまする。」
「良くやってくれ申した。愈々(いよいよ)我等も出陣の時ぞ。安忠殿は、如何程(いかほど)の兵を集められた?」
「ざっと二千。」
「祝着(しゅうちゃく)にござる。では、明朝辰(たつ)の刻に出陣する事と致す。」
安忠に加え、本営に詰める諸将は、挙(こぞ)って承知の旨を示した。

 翌朝、五千を超える数に膨(ふく)れ上がった官軍は、整然と常陸府中を出立した。僅(わず)かな日数ではあったが、畿内と坂東の兵で合同調練を行い、法螺(ほら)等の合図の確認もする事が出来た。

 官軍は、奥州国府多賀城へ延びる浜街道を北上し、安侯(あこ)駅を過ぎて、やがて河内駅に至った。この駅は那珂川の南岸に在り、久慈川に沿って奥州白河に至る街道が分岐する。政隆は特に気にも留めず、那珂川を渡って菊多を目指し、軍勢を進める。

 この時、前軍の摂津、和泉の隊列が俄(にわか)に乱れた。中軍の政隆は渡河を中止し、前軍に伝令を飛ばす。間も無く、前軍からも伝令が遣(つか)わされ、政隆に報告する。
「左手、北西より軍勢が現れましてござりまする。その数不明。」
政隆は直ぐに川を前にして迎撃の陣形を取り、所属不明の軍勢の来襲に備えた。

 周囲は那珂の大河が在る他は、粗(ほぼ)平坦な原である。五千騎を数える官軍を破る事は出来ぬ、と政隆は考えた。

 砂塵(さじん)を捲(ま)き上げながら、軍勢はどんどん近付いて来る。奇襲するでも威嚇(いかく)するでもない動きであるが、初陣の政隆は、気を緩(ゆる)める事が出来なかった。

 前軍の弓隊が矢を番(つが)えたと同時に、その軍勢も動きを止めた。突如、一陣の風が吹き、正体不明の軍を覆(おお)って居た砂煙(すなぼこり)が晴れた。顕(あらわ)に成った旗印を見て、政隆は一瞬懐かしい想いに駆られた。扇に日輪の紋。これは守山の伯父、勝秋が用いて居た物であった。

 軍勢の中から、二騎の武者が進み出て来た。そして一町の距離を置き、一人が大声で告げる。
「平政道様が旧臣、木戸三郎時国と鵜沼次郎昌直にござりまする。若君様が官軍の大将として下向遊ばされたと聞き及び、駆け付けて参った次第。」
それを聞いた政隆は、夢でも見て居る様な顔で、前軍へと駒を進めた。馬廻(うままわり)の武士も万一に備え、政隆に続く。

 程無く前軍に到着した政隆は、眼を凝(こ)らして両将を見詰めた。七年も磐城を離れて居た為に、記憶は朧(おぼろ)げである。しかし、幼き頃武芸を仕込んでくれた時の光景が、次第に脳裏に蘇(よみがえ)って来た。
「時国、昌直!」
政隆が大声で呼ぶと、両将は馬を下りって駆け寄って来た。

 二人は前軍の兵の前に跪(ひざまず)き、そこへ政隆が兵を掻(か)き分け、両将の前に立った。
「おお、此(こ)は夢幻(ゆめまぼろし)ではあるまいか。」
政隆の声を聞き、時国は顔を上げた。
「千勝様、良くぞ御無事で。」
隣では昌直が涙に噎(むせ)ぶ。
「御立派に成られて。政道様が御存命であれば、如何(いか)に御喜びになられるか。」
政隆も目頭を熱くして、両将の肩を叩く。
「磐城に忠臣が残って居た事、誠に嬉しく、又頼もしく思う。この七年、よくぞ生き延びて居てくれた。」
「ははっ。」
両将は政隆に平伏(ひれふ)す。以前は頭を下げても、然程(さほど)高さは変わらなかったが、今の政隆は、大人の身の丈(たけ)に成長を遂げて居る。時国も昌直も、政隆に大いなる期待を抱いた。

 政隆はふと腰を上げると、前軍の前に歩み出て、大きく手を振った。
「伯父上。」
それを受けて先頭の武将が合図をし、扇の紋を掲(かか)げた一軍はゆっくりと動き出す。そして、政隆の前で停止した。

 先頭に居た武者は馬を下り、政隆の前に歩み寄って、その双手(そうしゅ)を掴(つか)む。政隆もその手を、強く握り返した。
「信夫椿舘(つばきのたち)を落ちて後、政澄叔父上も松川の伯父上も、その消息は未だ知らず。只、城が焼け落ちる時に見た紅蓮(ぐれん)の炎が、私に信夫の滅亡を悟らせ申した。よもや、守山の伯父上が御無事で在られたとは、思いも寄らず。」
武者は政隆を見返した。その顔は忘れもしない、母の実兄守山勝秋であった。
「某(それがし)も今、医王丸殿の姿を見て、驚いて居りまする。御前や姫君と共に、無事に京まで辿(たど)り着かれたのでござりまするな。」
政隆は表情を曇らせ、後方の時国、昌直を一瞥(いちべつ)して告げる。
「我等は、忠臣大村信澄等の犠牲を払い、磐城を逃れる事が出来申した。更(さら)に私は、姉上の犠牲の上で、人買いの元を逃れる事が出来たのでござりまする。」
「何と、斯様(かよう)な事が。」
勝秋だけではなく時国や昌直も、動揺の色を隠せなかった。磐城平家の妻子が人買いに捕まり、奴婢(ぬひ)に落された上、万珠姫が自害に至ったという政隆の話は、俄(にわか)に信じ難い、衝撃的な物であった。

 政隆は最後に、三将に申し述べる。
「母上は、越後で生き別れたまま行方が知れぬ。早々に助け出して差し上げたいと思うのだが、その為には先ず、事の元凶たる村岡重頼を討伐せねば成らぬ。皆、私に力を貸して欲しい。」
三将は無言のまま、政隆に向かい跪(ひざまず)いた。以後は政隆の配下として、官軍に身を投ずる事を表したのである。

 ここに政隆は、忠義心厚い一軍を得るに至った。これに因(よ)り、官軍の数は六千を超えた。京を出陣する折に従えた数の倍である。政隆は一旦進軍を取り止め、主たる将を集めて軍議を開く事にした。

 海道を北上して、村岡重頼の本拠汐谷城を衝(つ)くに当たり、官軍には大きな問題が有った。奥州との国境には奈古曽関(なこそのせき)が在るが、ここを村岡方に抑えられた以上、本道を進めば道が狭(せば)まり、隊列が伸びきった所を狙われる怖れが有り、大いに危険である。又、間道の九面(ここづら)百段坂は、騎馬の通行すら困難な急峻な崖(がけ)であり、僅(わず)かな兵を置くだけで、容易に封鎖されてしまう。何万の大軍を擁して居ようとも、先にこの地を抑えられてしまっては、落す事は極めって難しかった。

 中々良策が思い浮かばず、軍議の席には重苦しい空気が漂(ただよ)った。それを打破したのは、新たに馳(は)せ参じた、守山勝秋の一言であった。
「軍を二手に分けては?」
ここ河内駅は、街道の分岐点である。勝秋の策に依れば、一隊はこのまま奈古曽(なこそ)へ迫り、菊多軍の動きを牽制(けんせい)する。その間にもう一隊は白河方向へと向かい。藤原兼光が白河関を攻め立てて居る内に御斎所(ごさいしょ)街道を経て、村岡の背後を衝(つ)くという物であった。

 御斎所(ごさいしょ)街道は鮫川に沿って走り、磐城郡と白河郡を結ぶ道であるが、律令制の官道には指定されて居ない。逢隈(阿武隈)山地を横断する山道である。又、街道に出る為には、白河関を抜くか、もしくは村岡の同盟勢力、浅川権太夫の居城を突破しなければ成らない。この策も又、大きな危険を含んで居た。

 しかし、勝秋の策を強く推(お)す者が在った。時国と昌直である。この三人は目下、官軍の中で最も、村岡の内部事情に詳しい。

 政隆は三人の案に賛同した。確かに、隘路(あいろ)に大軍を以(もっ)て押し寄せるは、戦略上不利である。仍(よっ)て、副将の安忠に千騎を任せて海道を進ませ、自身は残り五千騎を以(もっ)て、浅川を抜いて村岡勢の背後に出る、陽動作戦を提案した。

 安忠以下、各将からは他に良策が示されなかった為、政隆は決断に及んだ。軍議が決すると、軍勢は直ぐに再編された。

 常陸兵二千を纏(まと)めた安忠は、出立の前に政隆の前へ駒を進めた。政隆も馬上に在って、安忠に相対する。
「では、我が軍はこれより、奈古曽(なこそ)を目指し進軍致しまする。」
安忠の言葉に、政隆は頷(うなず)いて応ずる。
「うむ。呉々(くれぐれ)も気を付けられよ。勝負は我等本隊が到着した後。賊を挟撃して、粉砕する。」
「心得申した。」
安忠は一礼すると、颯爽(さっそう)と馬を返し、自軍を纏(まと)めて、那珂川の渡河を始めた。

 一方の政隆本隊も、漸(ようや)く五千近くの兵を整列させた後、白河へと通じる街道を進み始めた。那珂川西岸に沿って上流へ進むと、やがて田後駅へ至る。ここから那珂川を渡って東へ進み、今度は久慈川へと出る。

 久慈川の流れを馬上から眺めて居る政隆に、後方から守山勝秋が話し掛けて来た。
「若殿、この川の対岸に広がるのが、佐竹庄(さたけのしょう)にござりまする。かつて父君政道公が常陸介に在らせられし頃、当庄では豪族間の争いが絶えず、度々我が家臣小川平治を遣(つか)わし、当地の平定に努められ申した。」
「ほう、父上がのう。」
「故に平治は佐竹庄では顔が利き、村岡に敗れた某(それがし)は、平治と共にここへ落ち延びる事が出来たのでござりまする。」
「何と、然様(さよう)にござりましたか。」
「その内、木戸や鵜沼も村岡を見限り、我が元へ身を寄せて参り申した。今、我等の率いて居る兵の大半が、佐竹庄の武士達にござりまする。」
政隆は、対岸の佐竹庄を望む。
「久慈郡までもが、官軍に味方してくれるとは祝着(しゅうちゃく)にござる。村岡を討伐した後は、必ずや朝廷より、恩賞に与(あずか)れる事でありましょう。」
官軍大将の言葉に、佐竹の兵達から喜びの声が上がった。

 街道は頓(ひたすら)久慈川に沿って、山間(やまあい)を北に延びて居る。山田駅に到着すると、東も西も連山が聳(そび)え立ち、自然深くに入って来た観を覚える。更(さら)に雄薩駅、長有駅を経ると、遂(つい)に陸奥との国境に達する。奥州白河郡依上郷を通過し、次の駅家(うまや)高野は、かつて磐城平家三大老の一人、高野盛国が治めて居た地であった。

 山紫水明の佳景(かけい)が広がり始め、政隆は愈々(いよいよ)故国奥州に戻って来た事を実感し、思わず目から涙が溢(あふ)れた。それを袖(そで)で拭(ぬぐ)いながら、政隆は傍らの昌直に、正面に見え始めた山の名を尋ねた。
「ああ、あれは矢祭山にござりまする。」
「そうか。」
感傷に浸(ひた)って居る様子の政隆に、昌直は厳しい面持ちで具申する。
「依上郷を過ぎた時点で、我等の動きは敵方に察知された筈(はず)。尚も動きを見せぬは、怖らく街道が狭まる高野郷において、迎え討つ腹積りにござりましょう。特に、あの矢祭山は眼下に街道を一望できますれば、当方も斥候(せっこう)を放ち、敵の動きに備える必要が有ると存じまする。」
初陣の政隆は、昌直の進言に目が覚める思いであった。言われて見れば、周囲は開けた処が殆(ほとん)ど無く、山腹に兵を伏せるには都合の良い地形である。斯様(かよう)な処で敗北を喫して居ては、汐谷城攻略等はとても覚束(おぼつか)無い。政隆は真顔と成って周囲をよくよく観察し、幾つかの組を作って、物見に行かせた。

 案の定、矢祭山の中腹に、百許りの小隊が潜(ひそ)んで居た。官軍は数百の弓隊を以(もっ)て弓戦(ゆみいくさ)を仕掛けて崩し、徒(かち)の兵を突入させて、散々に討ち破った。政隆に取っては、幸先の良い緒戦の勝戦(かちいくさ)と成った。

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