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第二十節 政隆元服
翌寛仁五年(1021)、元号が改まり、治安(じあん)元年と成った。二月二日の事である。そしてこの年、太政官の人事にも大きな動きが有った。五月二十五日、堀河家の従一位左大臣藤原顕光(あきみつ)が薨去(こうきょ)した為である。此度の除目(じもく)では、藤原道長の子が太政官における地位を固める結果と成った。空位と成った左大臣には、藤原北家の長者頼通(よりみち)が就任し、右大臣には閑院家の後任として小野宮流の藤原実資(さねすけ)が、内大臣には頼通の弟で道長の五男、藤原教通(のりみち)が其々(それぞれ)任命された。新右大臣実資は、冷泉、円融両朝で太政大臣を務めた実頼の孫である。「小野宮年中行事」を著し、天元元年(978)より「小右記」(しょうゆうき)という日記を付けて居た。又この年は、藤原道長が長徳四年(998)以来綴(つづ)って来た日記、「御堂(みどう)関白記」を書き終えた年でもある。
一方、閑院家公季(きんすえ)は、太政大臣に就任する運びと成った。律令制太政官の最高官職である。しかし常設ではない為に職掌は無く、名誉職に成り勝ちである。道長の子が左大臣と内大臣に就(つ)いた今、それは現実的に懸念される事であった。
兎(と)も角(かく)、閑院殿では公季の太政大臣就任を祝う宴(うたげ)が、盛大に催された。太政官や各省の高官達が招かれ、閑院家の威勢を存分に示す物であった。一方で医王丸達は、来賓(らいひん)の接待に追われ続けた。
対外的な宴(うたげ)が終った後、家臣達を犒(ねぎら)う意も込めて、身内だけの、比較的簡素な祝賀の宴(うたげ)も催された。医王丸を預かる家司(けいし)の坂上広高は、公季の居間に招かれて居るが、大部屋住まいの多くは仲間同士で集まり、酒を酌(く)み交した。
医王丸は髪も伸び、すっかり武士の子の恰好(かっこう)に成って居た。しかし、未だ元服を済ませて居ない為か、同僚からも雑用を言い付けられる事が有る。
酒の無く成った席へ新たに調達し、仲間の杯に注いで居た時、近くに座って話をして居た同僚の声が、ふと医王丸の聞に留まった。
「そろそろ収穫の頃じゃ。今年も荘園の視察に行く事に成るのであろうのう。」
「儂(わし)は昨年、丹波の由良庄(ゆらのしょう)へ行って参った。彼所(あそこ)の持て成しは良かった。領家の三庄太夫という者が気前の良い男でな、儂等の様な者に、あで、豪勢な料理を振舞ってくれたわい。」
「ほう、それは良い所に派遣されたのう。」
同僚達は大いに笑い、宴(うたげ)を心底楽しんで居た。
医王丸は年長者達に酒を注いで回った後、独り静かに庭へ下りて行った。天を見上げると、満月と無数の星が輝いて居る。雲居は無く、満天の星空である。医王丸は心に光明を得て、北の空に向かった。
「姉上、無事に居て下され。」
医王丸の唇(くちびる)が、微(かす)かに動いた。
数日の後、非番で弓の鍛錬を行って居た所、家司(けいし)の広高が姿を見せた。それに気付いた医王丸は、振り返って膝(ひざ)を突いた。
「二十間も離れて、よく的中する様に成ったのう。これならば、戦場(いくさば)に出ても役に立とう。」
医王丸は内心照れながらも、黙って一礼して返した。
広高は真顔で話を接ぐ。
「大殿が御呼びじゃ。急ぎ衣服を整え、付いて参れ。」
「はっ。」
医王丸は汗だくに成った上半身を拭(ぬぐ)うと、開(はだ)けた上衣(うわぎ)を整え、廊下へと上がった。そして吉報が告げられる事を祈りながら、広高の後に付いて行った。
公季の間に着いた二人は、直ぐに許しを得て、中へと通された。医王丸は広高より一歩下がって、共に座礼を執る。広高は直ぐに脇へ退(しりぞ)いた為、医王丸一人が公季と正対する形に成った。
恐縮する医王丸に、公季は微笑を浮かべて尋ねる。
「其方(そち)が当家に仕えてより、早一年半に成るのう。歳は幾つに相成った?」
日頃直答する機会が殆(ほとん)ど無い医王丸は、緊張の為に返事がたどたどしい。
「はっ、十六に成りましてござりまする。」
「そうか。実は広高が其方(そち)の元服を申し出てのう。武芸は家中の五指に入る腕を持ち、教養、作法も備わって来たそうな。其方(そち)には期する所も有る故、特別に余が烏帽子親(えぼしおや)を務めて遣(つか)わす。」
太政大臣の烏帽子子(えぼしご)に成る事を勧められた医王丸は、思い掛けぬ事故に我が耳を疑った。
「余りに、畏(おそ)れ多き事にて。」
公季は、医王丸の恐縮する様がおかしく感じられた。しかし、直ぐに真顔に戻って返す。
「其方(そち)は父を討たれ、先年祖父も失って居る。又、信夫に在った叔父御は、その生死も知れずと聞く。今や一族に、其方(そち)の親代りと成れる者は居らぬであろう。それに加えて一つ、朝議が磐城征伐を決定した折、儂(わし)は其方(そち)を大将に推薦し易く成る。」
医王丸は、公季の言葉を唯(ただ)有難く受け取り、涙を浮かべて頭を下げた。
この度の公季の決断は、今年の司召(つかさめし)の徐目(じもく)に因(よ)る物であった。前(さきの)右大臣公季は、顕光の薨去(こうきょ)に因(よ)り空席と成った、左大臣に昇格するのが順当と思われた。しかし左大臣の座には道長の嫡男頼通が座り、公季は非常設の最高位、太政大臣に昇る事と成った。
今や朝廷の勢力は、表向き隠居状態に在る道長の、息の掛かった者が大半を占める。前(さきの)左大臣顕光の病疫と共に、堀河家が太政官における地位を失った今、氏長者(うじのちょうじゃ)頼通は公季を、目の上の瘤(こぶ)と見るであろう。閑院家が嫡子実成の代も安泰である為には、目覚(めざま)しい功績と、武力が求められる。その為には、公季が太政大臣在職中に、烏帽子子(えぼしご)医王丸を大将に奥州へ遠征させ、奥州南部の秩序回復を成し遂(と)げる必要が有った。
斯(か)くして二日の後、閑院殿において医王丸の元服式が行われる事と成った。当主公季が烏帽子親(えぼしおや)を務める故に、閑院家の重臣は悉(ことごと)く式に参列し、厳粛に見守って居る。
やがて前髪を落し、烏帽子(えぼし)を戴いた医王丸は、凛々(りり)しい成人の姿と成った。汚(よご)れた僧形(そうぎょう)の姿をして居た頃を知る者は、あの時との余りの変わり様に、只々驚いて居る様子であった。
式の最後に、医王丸は公季より元服名を授けられた。父祖より続く政の字に、家運興隆の意を込めて、政隆(まさたか)である。政の字は将門に通じる。故に都では逆賊の印象が纏(まと)わり付き、平政氏の如き悲運を呼んだ例も有る。しかし公季にして見れば、磐城郡司政氏、政道の嫡流である事を強調した方が、都合が良かった。後に磐城征伐が有る事を、想定してである。
ここに医王丸は元服し、平政隆と成った。しかしその場に、祝福してくれる親族の姿は一人も無かった。皆奥州で討たれ、あるいは北国の奴隷と成って居るのである。
退席の前に、公季より政隆に言葉が有った。
「其方(そち)は余の烏帽子子(えぼしご)と成った以上、今まで通り、一家臣にして置く訳には行くまい。仍(よっ)て家司(けいし)の末席へ昇格させる物とする。先ずは見習いとして広高に付き、色々と学ぶが良い。差し当たって来月にも、当家が所有する荘園の視察を執り行う。其方(そち)は広高の担当である丹後国由良庄へ随行し、当地の税の管理を手伝って参れ。」
「はっ。御恩に報いるべく、相(あい)務めまする。」
政隆が神妙に承ったのを見て、公季は静かに退出して行った。他の家司(けいし)も平伏し、主(あるじ)を見送る。その中で、中央に座す政隆の体は、暫(しば)し震え続けて居た。
家司(けいし)とは、親王家や内親王家を含め、三位以上の高官に限り置かれた、家の事務を司(つかさど)る役職である。この職に抜擢(ばってき)された事に因(よ)り、最早政隆は他人から軽視されることは無く成り、又国政に係る情報にも、直(じか)に触れる事が出来る様に成った。政隆は正式には家司の四等官、書吏(しょり)に任命された。
式が終わった後、政隆は広高に肩を叩かれ、共に広間を出た。先を歩く広高は、普段と変わらぬ様子で政隆に話し掛ける。
「先ずは元服の儀、祝着(しゅうちゃく)にござる。」
「はっ。有難うござりまする。」
「さて、其方(そなた)も当家の家司(けいし)に名を連ねた故、大殿(おとど)より個室が下された。」
「何と?」
話をして居る内に、その部屋に着いた。広高に促(うなが)されて先に中へ入った政隆は、新しい調度品の揃(そろ)った間を眺め、感激を覚えた。
広高は床(ゆか)に静かに腰を下ろし、政隆に告げる。
「其方(そなた)の荷は追って、大部屋より届けられる。先ずは元服を祝って一献(いっこん)酌(く)み交し、家司(けいし)の職務や由良庄に関し、少し話をして置こう。」
そして広高は女中を呼び、酒の用意を命じた。
家司の職務に就(つ)いては分からぬ事が多く、広高より学ぶべき物が多いであろうと思われた。しかし由良の事に関しては、地理や産物、土豪の勢力等、政隆の方が遙(はる)かに多くの知識を有して居る。されども、政隆は由良の奴隷であった事を秘し、只々広高の言に頷(うなず)いて居た。
*
早稲(わせ)の刈入れは疾(と)うに終り、中稲(なかて)から晩稲(おくて)の収穫が盛んに成った頃、坂上広高は十名の部下を引き連れ、左京の閑院殿を発した。新たに家司(けいし)に登用されたばかりの政隆は、広高の副使としてその隣に在った。
京洛を過ぎ、桂川を渡り、山陰道を西へ進んで行く。中山まで来ると、鵙(もず)の高鳴きが聞こえた。
かつてこの道を辿(たど)りし時は、三庄太夫の追手に怯(おび)え、近江の伯父を頼りに東へ向かって居た。しかし今は、三庄太夫の本家の使者として、丹後を目指して堂々と下向して居る。政隆はここ一年の周囲の変化の目まぐるしさが、些(いささ)か面白く感じられた。
やがて曽我谷川に差し掛った時、政隆はふと穴太(あなお)寺の事が思い出された。由良の追手から匿(かくま)ってくれた、大恩有る寺院である。訪ねて、以前の礼を述べたい衝動に駆られたが、今は主命を帯び、丹後へ下向する途上である。政隆は募(つの)る想いを断ち切り、黙したまま太政大臣家使者の列に在った。
桂川に犬飼川、曽我谷川が合流する辺りは、亀岡の邑(ゆう)が形成され、桂川の北岸には丹波の国府が置かれて居る。街道は亀岡より、犬飼川の支流山内川に沿って西へ延(の)び、その後本梅川に沿う様に成る。本梅川を離れた後は山道と成り、園部川を渡り、籾井川に出て間も無く、漸(ようや)く小野の駅家(うまや)に到着する。その先は籾井川の本流篠山川に沿って西進すると大山庄に入り、更(さら)に加古川に至った処が、星角(ほしすみ)の駅家(うまや)である。
山陰道は更(さら)に加古川伝いに北へ向かい、やがては佐治の駅家(うまや)に達するのであるが、丹後へ延びる街道は、佐治の手前で北に折れる。峠を越えると和久川に出で、坂を下ると間も無く本流由良川に合流する。これから先は由良川沿いに進み、やがて国境を越えて丹後に入る。
暫(しばら)く行くと、丹後国府に至る街道は由良川を離れ、大江山の南麓へと延びる。加佐団の駐屯地が近いこの辺りで、太政大臣家の一行は街道を外れ、更(さら)に由良川伝いに進んで行った。
程無く、坂上広高は部下の一人を騎馬で先行させ、三庄太夫に太政大臣家使者の到着が近い事を知らせた。行く手には大川庄が広がる。三庄太夫が閑院家公季より預かる、荘園の一つであった。
一行が大川庄に入った時、三庄太夫の家臣が礼を尽して、太政大臣家の使者を迎えに出て来た。広高が犒(ねぎら)いの言葉を掛けると、大川庄を代表する豪族が畏(かしこ)まり、石浦館までの嚮導(きょうどう)を申し出て来た。広高は快く許可し、大川兵を列に加え、由良庄を目指した。
陽が大分西へ傾いて来たが、この分では陽の在る内に、石浦へ入れそうである。やがて和江谷川へ差し掛った。この上流に、かつて三庄太夫の追手に因(よ)り、あわや捕まらんとして居た政隆を匿(かくま)ってくれた、延命寺が在る。ふとその先を見上げると、三年間柴刈りをさせられた由良ヶ岳が、逆光に因(よ)り巨大な影と成って見えた。
忘れ得ぬ記憶を、数多(あまた)残す由良の地である。当時の三庄太夫の政(まつりごと)に恨(うら)み辛(つら)みが有ると雖(いえど)も、此度政隆が第一の目的とする所は、穏便(おんびん)に姉万珠を京へ連れ帰る事と心得て居た。
由良川西岸を北上して行くと、次第に石浦の邑(ゆう)が視認出来る様に成って来た。昨年小正月まで、奴(ぬ)として寝起きをして居た地である。人々は、一見真面目(まじめ)に働いて居る様に見える。しかしこれは、三庄太夫の恐怖政治が強(し)いて居る事であり、彼等に配分される富は、生きて行く為の最小限のみである。そして多くの奴婢(ぬひ)が過労で動けなく成ると、山へ捨てられる運命に在る事を、政隆は知って居た。
石浦館の門前には、三庄太夫、由良次郎を中心に、重臣達が出迎えて居た。一行が前進を止めて馬から下りると、三庄太夫は諂(へつら)いの笑みを湛(たた)えて、歩み寄って来た。
「某(それがし)は、当地方の庄を預からせて戴いて居る者にござりまする。」
広高が、一歩進み出て返す。
「三庄太夫殿の事は聞き及んでござる。儂(わし)は此度の視察の正使を承った坂上広高。そして後ろに控えるが、副使の平政隆じゃ。」
「はっ。宜しゅう御願い申し上げまする。ささ、長旅にて御疲れの事でありましょう。先ずは館に上がられ、御休息下され。」
「うむ。」
広高を先頭に、太政大臣家の一行は館へと入って行く。広高の後ろに付く政隆に対しても、副使と聞いてか、三庄太夫以下が丁寧に頭を下げた。
政隆は彼等を横目に見ながら、黙って館に入って行く。しかし心の内では、何故(なぜ)誰もが、奴(ぬ)として扱(こ)き使った忘路(わすれじ)であると気付かないのか、不思議で成らなかった。
本人の気付かぬ所で、政隆は大きく変わってて居た。十代半ば故に、二年近くも会わねば、ぐっと大人びて見える。加えて広高の教育に因(よ)り、体躯(たいく)は逞(たくま)しく発達し、身の熟(こな)しも京の作法が大分染み付いて居た。更(さら)に、以前は襤褸(ぼろ)を纏(まと)い、全身土に塗(まみ)れて居たのが、今は太政大臣家家司(けいし)の身形(みなり)をして居るのである。又、脱走した奴(ぬ)が、僅(わず)か二年程の間に斯様(かよう)な出世を遂げる等、先ずは考えられぬ事であった。
館に上がると、広高と政隆には個室が用意されて居た。政隆は己に宛(あて)がわれた間に入ると、館の者を下がらせた後、床(ゆか)の上に横たわった。そして先程の、三庄太夫等の己に対する鄭重な対応を思い出すと、笑わずには居られなかった。
その日の夕刻、石浦館では太政大臣家の使者を持て成すべく、宴(うたげ)が催された。正使坂上広高と副使平政隆は上座に並んで座し、左手に石浦館の者、右手に随行者が居並んだ。全員に配膳が行き届き、酒が注がれると、石浦方筆頭に座す三庄太夫が上座へ向き直り、言上する。
「今宵は御近付きの印として、細(ささ)やかながら宴(うたげ)の仕度を致してござりまする。先ずは難しい話は抜きにして、存分に御楽しみ戴ければ幸いと存じまする。」
そして太夫がパンパンと手を叩くと、笛と太鼓の音(ね)が鳴り始めた。そして踊り子達が舞いを披露(ひろう)する。政隆は酒を呷(あお)りながら、踊り子達をよくよく観察した。そして空(から)に成った徳利(とっくり)を交換したり、参列者に酒を注いで回る女中達にも、注意を払って見回して居た。
宴(うたげ)酣(たけなわ)の頃、三庄太夫は自ら徳利を持って、政隆の脇に腰を下ろした。そして徳利を差し出して傾けるので、政隆は杯(さかずき)に残った酒を飲み乾し、太夫へ杯を伸ばした。
太夫は酒を注(つ)ぎながら話し掛ける。
「副使様の御出自を、差支え無くば御聞かせ願いとう存じまする。」
(さては、私が忘路(わすれじ)である事に、気付いて居ったか?)
政隆は内心ドキリとさせられたが、平静を装(よそお)って、淡々と話し始めた。
「私の父祖は陸奥の郡司であった。しかし私は都に望むべき事有りて上洛し、閑院家公季様に御仕え致してござる。」
太夫は、不気味に笑みを浮かべて頷(うなず)く。
「成程(なるほど)、地方よりも都での栄達を望まれた訳でござりまするな。立派な御志と存じまする。その若さで閑院家の家司(けいし)と成られた訳が、解った様な気が致しまする。」
政隆が黙したまま酒を呷(あお)って居ると、太夫は小声で話を接ぐ。
「見れば、先程より女子衆に関心が御有りの御様子。宜しければ、上手(うま)く手配して置きまするぞ。」
「無用じゃ。それよりも、一つ尋ねたき事がござる。」
「はて、何でござりましょう?」
「奥州時代より旧知の女性が、当庄の婢(ひ)に成って居ると聞いた。歳は十八。篠(しの)と呼ばれて居ると聞く。私に会わせてはくれぬか?」
俄(にわか)に、太夫の顔色が変わった。
「はて、某(それがし)も奴婢(ぬひ)一人一人の事までは把握致して居りませぬ故、暫(しば)し御待ちを。家臣に調べさせて参りまする。」
太夫は政隆に一揖(いちゆう)すると、慌てた様子で宴席を後にして行った。
四半時程、政隆は酒を呷(あお)る手を緩(ゆる)めて、太夫の報告を待った。やがて太夫は嫡子の由良次郎を連れ、政隆の元に戻って来た。太夫は腰を下ろすと、座礼を執って報告する。
「御待たせ致し申した。これに召し連れたるは当家の跡取りにて、由良庄を任せて居る次郎と申しまする。」
太夫の紹介を受け、次郎が頭を下げる。
「御初にお目に掛かりまする。由良次郎にござりまする。」
政隆は次郎を一瞥(いちべつ)すると、膳より肴(さかな)を一口取り、噛(か)み締(し)めた後に尋ねる。
「して、篠殿の件は?」
次郎は恐縮した様子で、しどろもどろ答える。
「篠殿は、確かに以前、某(それがし)が預かる由良庄に居り申した。しかし、何分(なにぶん)にも婢(ひ)の身分。当庄を訪れた西国訛(なまり)の者が、高額で引き取りたいと申す故、引き渡した次第にござりまする。」
政隆の目が、ギラリと次郎を見据(みす)える。次郎は慌てて言葉を接いだ。
「されども、その時得た銭の多くは、閑院家への献上の品に用いてござりまする。」
次郎は本家を楯とし、己に政隆の不興(ふきょう)が向けられぬ様に努めた。
政隆は太夫と次郎を横目に杯を傾け、暫(しば)し黙考した。太夫は苦笑しながら、政隆に言上する。
「では、当家と繋(つな)がりが有る商人に当たって見て、篠殿の消息の手懸りと成る報せが入りましたら、政隆様へ御知らせする様に致しましょう。」
「それしか有るまいのう。」
政隆が沈鬱(ちんうつ)と肴(さかな)を食べ始めると、太夫は徳利を差し出し、機嫌を取ろうとした。しかし政隆は左手で制し、それを拒(こば)む。
「暫(しば)し、独りで飲んで居たい。」
太夫は徳利を下げ、一礼する。
「承知仕(つかまつ)り申した。では、何か御用の時は、遠慮無う御呼び下さりませ。」
そう言い残して、太夫と次郎は隣の広高の元へ移り、話を始めた。
政隆は、急に体の力が抜けた気がした。三庄太夫も由良次郎も、間近で正対し、更(さら)には篠の話に触れたにも拘(かかわ)らず、政隆を忘路(わすれじ)と気付いた様子は無い。
それは良いとして、政隆は次第に、酷(ひど)い悲哀に駆られ始めた。由良次郎の言葉が、納得出来る物であった故である。確かに、脱走を企(くわだ)てて捕まった前科が有る者を、高値で買う者が現れれば、太夫は当然売り渡すであろう。母は佐渡国に居ると思われるが、姉の消息は、これにて途絶してしまった。
絶望の淵(ふち)から、政隆は二つの光明に思い至った。一つは、高値で買う者が在ったという事は、姉は捕縛後に焼印の刑を免(まのが)れた筈(はず)である。もう一つは、姉が太政大臣家の家司(けいし)が求める人と判(わか)れば、三庄太夫は更(さら)なる利を得る為に、真剣に捜(さが)し出してくれるであろうと思われた。
天を仰ぐと、無数の星座が輝いて居る。中でも、北極星と北斗七星は直ぐに認める事が出来た。政隆は、遠祖将門の時代より一族に信仰されて来たという妙見菩薩に、姉の無事を祈った。
*
翌日から政隆は、早速領内巡察に出立せんと、坂上広高の元を訪れた。広高は、部屋の奥で書類に目を通して居たが、政隆の姿を認めると、直ぐに入る様に告げた。
政隆は広高の前へ歩み出て着座し、礼を執る。広高は書類に目を通しつつ、機先を制して口を開いた。
「いやに張り切って居る様じゃが、我等は領内の見回り等には出ぬぞ。」
「はっ?」
既(すで)に外出の身仕度を整えて現れた政隆には、意表を突かれる言葉であった。広高は視線を政隆に移し、言葉を接ぐ。
「見回り等して見よ。領家は荘園管理を遣(や)り難く成り、他の有力貴族や寺院に寄進する様に成ってしまうわ。そう成れば、閑院家の収入が減る。我等は、郡衙(ぐんが)の官吏ではないのじゃ。」
政隆は唖然(あぜん)とした面持ちに成るも、新たに浮かぶ疑問点を投げ掛けた。
「では如何様(いかよう)にして、適正な税を決めるのでござりましょうか?先ずは、当庄における今年の収入を調べねば成らぬと存じまするが。」
広高は手元の書類を、政隆の前に放って答える。
「当地が荘園と成る前の税が、これに記載されて居る。例年の本家の受取り分に照らし、加えて国税を下回る額に納めねば成らぬのじゃ。」
政隆は古びた書類に目を通しつつ、驚きの色を顕(あらわ)にする。
「しかしこれでは、国家の税制は崩(くず)れてしまうのではござりませぬか?」
「うむ。既(すで)に大蔵省の財政は逼迫(ひっぱく)して居るが、貴族は荘園の寄進を受ける事で、富を得る事が出来る。位は高いにも拘(かかわ)らず、暮しに窮乏(きゅうぼう)する御方が出て来るのは、朝廷に俸禄(ほうろく)を与える財力が失われて居るからじゃ。」
淡々(たんたん)と話す広高に、政隆は苛(いら)立ちを感じつつ尋ねる。
「では、この先倭(やまと)は、何(ど)の様に成ってしまうのでござりましょうか?」
広高は、政隆を見据(みす)えて返す。
「先ず、当地の三庄太夫の如き領家に多くの富が残り、力を持つであろう。既(すで)に三百の兵を抱え、小規模の武士団と成って居る様じゃ。もし、何万もの武士団を統率する棟梁が現れ、軍事力と財力を背景に、高い位官を得る時が来たとすれば、関白様の力を以(もっ)てしても、御(ぎょ)し難く成るであろうのう。」
「その様な者が、現れる兆候はござりましょうか?」
「ここ数年、地方では争いが絶えぬ。寛仁二年(1018)は東国最大の勢力、平忠頼殿が逝去(せいきょ)された年であったが、常陸平氏の平維良(これよし)殿が陸奥守と戦(いくさ)を起した。寛仁三年(1019)は刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)にも騒がされたが、伊勢では親子二代に渡る争いが再燃した。一条朝の長徳四年(998)に、平維衡(これひら)殿と平致頼(むねより)殿が伊勢の所領を巡り、結果維衡殿の勝戦(かちいくさ)と成った事件が有ったが、此度は平正輔(まさすけ)殿と平致経(むねつね)殿が戦(いくさ)を起した。昨寛仁四年(1020)には、陸奥平氏の為幹(ためもと)殿が濫妨(らんぼう)を働いて居る。今、最も軍事行動が目立つは、東国の常陸平氏じゃ。」
「平維衡殿は道長公に仕え、更(さら)には常陸平家の本家筋。されば、何(いず)れ維衡殿の時代が来ると?」
「いや、地方の豪族自身は天皇の権威に弱い。平将門や藤原純友が敗れた原因も、そこに在ろう。今は未だ太政官に権威が有るが、今の荘園制度は何(いず)れ律令体制を破壊し、地方武士団の統制が利かなく成る時が来るであろう。百年後か二百年後かは分からぬ。只今の体制では、左大臣が国を統(す)べる日が、常に続くとは考え難い。」
大宝元年(701)、刑部(おさかべ)親王や藤原不比等(ふひと)等が律(りつ)六巻、令(りょう)十一巻の法典を編纂(へんさん)して既(すで)に三百二十年。広高が唱(とな)えた事は突拍子(とっぴょうし)もない事であったが、政隆は不思議と合点(がてん)が行った。
故国を謀叛人が占拠して早五年。朝廷は未だ征討軍を出さずに居る。有力貴族個人に財は有れど、国庫に財は無い。故に征討軍を出す予算が無い事を、政隆は薄々(うすうす)感付いて居た。
政隆は失望の色を示しながら広高の元を辞し、自室へと引き揚げて行った。
十日ばかり、太政大臣家の使者達は石浦館に留まり、三庄太夫の厚い持て成しを受け続けた。太夫にして見れば、人臣の最高位に就任した本家との繋(つな)がりをより一層強め、この機に乗じて、丹後における勢力を更(さら)に拡大して置きたい所である。正使広高、副使政隆は言うに及ばず、従者の一人一人にまで贈物(おくりもの)がなされ、京の閑院殿に献上される膨大(ぼうだい)な進物(しんもつ)も用意された。
政隆は、本心では太夫からの贈物を受け取りたくはなかった。それ等が多くの奴婢(ぬひ)の犠牲の上に生産された事を知って居り、かつての己の心境を思い起すと、居た堪(たま)れなく成るからである。
しかし、姉万珠を捜(さが)し出す為には、今は三庄太夫だけが頼りである。故に太夫の心証を害せぬ様、表面上は和(にこ)やかに、進物を受け取った。
帰京を明日に控えた夜、石浦館では太政大臣家の使者を招き、送別の宴(うたげ)を催した。丹後に在った十日間、本年由良より太政大臣家に納められる税は例年と遜色無く、別に太政大臣就任を祝う莫大(ばくだい)な献上品が添(そ)えられた事が確認出来た。坂上広高は己の役割を果し得たと、満足気な様子で宴(うたげ)を楽しんで居る。
政隆は天下の政(まつりごと)に大きな疑問を抱(いだ)きながらも、閑院家家司(けいし)として、領家の豪族と如何(いか)に接するか、広高から多くを学ぶ事が出来た。当初は憎悪(ぞうお)の念を込めて、石浦館の者達を見て居たが、主家に報いるべく家司(けいし)の役を勤め、又姉を捜す唯一の手懸りと考える内に、次第に遺恨は融解されつつ在った。政隆は最後の夜、楽しみつつ杯を重ねる事が出来た。
三庄太夫や由良次郎が幾度も酒を注(つ)ぎに来たので、政隆は篠の行方を捜し当てる様、念を押した。二人共、確(しか)と承った旨を示したので、政隆は相方にも杯を取らせ、宴(うたげ)を存分に楽しんで居ると、犒(ねぎら)いの言葉を掛けた。
やがて酔いが回って来たので、政隆は席を立ち、酔い醒(ざ)ましに外の風へ当たりに出た。
政隆はふと思い出した様に、館の正門へと向かって行った。門衛は本家の家司(けいし)に対して礼を執るも、恐る恐る尋ねる。
「畏(おそ)れながら、家司(けいし)の殿は何処(いずこ)へ行かれる御積りでござりましょうか?」
政隆は酒が入り、上機嫌で答える。
「酔い醒(ざ)ましじゃ。由良の川原まで歩いて参る。」
兵は、政隆の様子を見て心配した。
「大分(だいぶ)御酒を召されて居る御様子。御一人では危のうござりまする。」
中々通してくれないので、政隆は困り顔に成った。
「折角(せっかく)丹後の風流を感じに、一人で歩きたいと言うのに。物々しい武士を連れて行っては、気分が台無しじゃ。」
政隆は数歩辺りを徘徊(はいかい)した後、思い付いた様に番兵に告げる。
「そうじゃ。先日逢(お)うた汐汲(しおくみ)女の、確か名は小萩(こはぎ)と申したか。あの者に案内して貰(もら)いたい。」
政隆はこの次、何時(いつ)再び来られるか判(わか)らない。故に今宵(こよい)の内、小萩にかつて世話に成った礼を、述べて置きたいと考えたのである。
番兵も、本家の家司(けいし)の機嫌を損ねる事は、出来得るだけ避けたかった。
「少々御待ちを。」
一人が汐汲組の小屋へ向かい、駆けて行った。
間も無く、番兵は一人の婢(ひ)を連れて来た。婢(ひ)は、太政大臣家家司(けいし)の呼び出しと聞かされて居る為か、酷(ひど)く怯(おび)えた様子である。その婢(ひ)は、四年前と殆(ほとん)ど変わらぬ顔をした、小萩であった。政隆は小萩に微笑(ほほえ)み掛けると、由良川へ向かって歩き始める。小萩は俯(うつむ)いたまま、黙って政隆の後に付いて行った。
やがて二人は、由良川の川原に辿(たど)り着いた。川の音、秋虫の鳴き声のみが聞こえ、人の気配は無い。政隆はふと足を止め、小萩の方を振り返った。
「御久し振りです。小萩さん。」
その声を聞いた小萩は、至極(しごく)驚いた顔をして、政隆を見上げた。
「今では私の方が、背丈が伸びてしまいました。御忘れでしょうか?篠の弟、忘路(わすれじ)にござりまする。」
「忘路(わすれじ)さん。」
小萩ははっとして、政隆を見詰めた。次第にその目から、涙が零(こぼ)れ落ちる。
「おお、紛(まぎ)れも無い。あの後、無事に逃れる事が出来たのですね。随分と御立派に成られて。」
「姉上の御蔭です。危うき所を、囮(おとり)に成って助けて下さいました。」
「そうですか。あの時。」
政隆は小萩に背を向けたまま歩み出し、暫(しば)し押し黙って居た。下手(へた)に事実を聞けば、明日の帰京を前に逆上し、迂闊(うかつ)な事をし出かし兼ねない。しかし、当時の事実を聞く機会は、今を措(お)いて他には無かった。
政隆は歩みを止め、小萩の方を振り返る。
「私が逃亡したあの日、姉上は捕えられた後、何か酷(ひど)い事をされませんでしたか?」
聞くのが怖ろしい事ではあったが、聞かずには居られなかった。幽(かす)かな月明りが、政隆の額の汗を照らす。小萩は一瞬哀しい目を政隆に向け、直ぐに首を横に振った。
「篠さんは、捕まっては居りません。」
意外な言葉に、政隆は目を丸くした。
「では、三庄太夫に捕まらずに、逃げ果(おお)せたのですか?」
本の一瞬、政隆の心に光明が灯(とも)ったが、それは小萩の表情から、直ぐに打ち消された。
「篠さんはあの日、亡くなられました。」
「えっ?」
我が耳を疑う政隆に、小萩は懐より一枚の布を取り出し、差し出した。政隆はそれを受け取り、よくよく眺めて見ると、隅(すみ)に「安寿」の文字が認められた。
「これは、姉上が所持して居た物。」
小萩はすっと、東南の方角を指差した。政隆がその方を見遣(みや)ると、山並の陰影が浮かび上がって居る。小萩は目に涙を溜めながら、政隆に語り始めた。
「あの山は建部(たけべ)山と申します。その布はあの日、建部山中の沼に浮いて居たと、橋立三郎様が仰(おお)せでした。」
「何と、三郎殿が。」
小萩の話に依れば、由良の兵に見付かった篠は、建部山へと逃げ込み、やがて断崖(だんがい)へと追い詰められ、進退これ谷(きわ)まった後、崖(がけ)から飛び下りたと言う。兵が崖の下に回り込むと、そこには大きな沼が在り、微(かす)かな波紋の中央に、その布が浮いて居たらしい。その翌朝、石浦の奴婢(ぬひ)は館の門前に集められ、郎党より、昨夜逃亡した姉弟は共に自害したと報された。その証拠とされた布が篠の物である事を、同じ組で仲の良かった小萩が、証言したのであるという。小萩は館の意向に添った為、三郎の取り成しでその布を、形見(かたみ)に譲(ゆず)り受ける事が出来た。
三庄太夫の圧政を維持するには、奴婢(ぬひ)の中から脱走に成功する者が現れては、甚(はなは)だ迷惑であった。故に捕える事が出来ぬ時は、残った奴婢(ぬひ)が恐怖心を抱(いだ)く様に、自害と報せたのである。
篠の布を見せられた時、小萩は本当に、篠(しの)と忘路(わすれじ)姉弟が自害したと信じ込んだ。故に先程政隆の顔を見た時、死者が化けて出たのを見た様な、大仰(おおぎょう)な驚きをしたのであった。
忘路(わすれじ)の自害は、三庄太夫が流した嘘(うそ)である事が判(わか)り、小萩は再会が叶(かな)った事を、殊(こと)の外(ほか)喜んだ。その気持を伝え様と政隆を見上げた時、小萩の目に映(うつ)ったのは、憎悪(ぞうお)の念に燃え、目を血走らせた、恐ろしい形相(ぎょうそう)であった。小萩は政隆が暴走する事を案じ、優しく語り掛ける。
「私の元には、篠さんの遺品が幾つか在ります。貴方に受け取って戴き、何時(いつ)の日か、篠さんの故国へ還(かえ)して貰(もら)いたいのです。」
小萩の言葉で、政隆は俄(にわか)に冷静さを取り戻した。
「いや、小萩さんが大切に残してくれて居た物を、受け取れませぬ。」
小萩は首を振る。
「篠さんは、御母上様と忘路(わすれじ)さんと共に、故国へ帰る事を夢見て居ました。是非(ぜひ)にも、叶(かな)えて上げて下さりませ。」
「母上と。」
政隆が佐渡の海を思い起すと同時に、小萩は政隆の元を走り去り、篠の遺品を取りに戻った。政隆の掌(てのひら)には、磐城恵日寺の尼僧より戴いた安寿の布が残され、微風に揺られて居た。
暫(しばら)くして、小萩が川原へ戻ってきた。小萩が持って来た物は、小さな布袋である。政隆がそれを受け取り、中を開けると、櫛(くし)や笄(こうがい)等が入って居た。何(どれ)も奥州より逃避行を続ける最中、姉が用いるのを見掛けた物ばかりである。布袋も、信夫(しのぶ)を出たばかりの頃は鮮やかな朱色をして居たが、今では煤(すす)けた褐色(かっしょく)に変わってしまって居た。
政隆はそれ等の遺品を見て、姉が己を救い出す為に、命を賭(と)してしまった事を確信した。そして何が何でも、これ等を故国磐城へ持ち帰る事を固く誓った。
やがて心が落ち着いた政隆は、小萩と共に石浦館へ戻った。その折、忘路(わすれじ)が生き延(の)びた事は、口外しないで欲しい旨を伝えた。
「何(いず)れ丹後の領主と成った時、姉の仇(かたき)を討つ為にも。」
その言葉に小萩は頷(うなず)き、政隆と約束した。
門を潜(くぐ)る時、政隆は小萩の方を振り返って告げる。
「僅(わず)かな時でござるが、楽しき話をする事が出来申した。小萩殿とは、又会いたい物じゃ。その時まで、御健(すこ)やかに。」
別れの言葉を残し、政隆は館内へと入って行く。小萩は門外で、静かに頭を下げた。
最後に掛けた言葉は、政隆が小萩にして上げられる、責(せ)めてもの事であった。小萩が閑院家の家司(けいし)と親しい様を、石浦の郎党に示す事で、今後の扱いが改善される事を願ったのである。
その夜政隆は、三庄太夫より己への贈物(おくりもの)を、全て閑院家への献上品が置かれた間へと移した。仇(かたき)から受け取る物は何も無いと、考えての事である。政隆は知らぬままに、仇(かたき)より恩を受けずに済んだ事で、小萩に感謝した。
翌朝、太政大臣家の使者は、莫大(ばくだい)な財物を得て帰京する運びと成った。坂上広高は役目の大半を果し、一先ず安堵の表情を湛(たた)えて居る。
出立の時、三庄太夫と由良次郎は、広高と政隆の前へ進み出て、旅の無事を祈る旨を申し上げた。その際、次郎は馬上の政隆に、一言加える。
「篠の行方は、全力を尽して捜しまする故、御安心の程を。」
政隆は睨(にら)み付ける様な顔で答える。
「篠ではない。万珠姫じゃ。」
そう言い残し、不興(ふきょう)の面持ちで馬を返す。次郎は何が何だか分からぬ様子で、呆然(ぼうぜん)と見送って居たが、一方で広高と太夫は、和(にこ)やかに別れを告げた。一行は隊列を整え、威儀を正して、館を後にして行った。
石浦を出て、和江を過ぎて間も無く、政隆は馬上より東の方ばかりを見て居た。晴天の下、建部山は良く望む事が出来る。その北麓に向かい、政隆はすっと頭を下げた。
坂上広高には重大な任務が二つ、課せられて居た。一つは荘園を管理する三庄太夫より、一定額以上の税や進物(しんもつ)を受け取る事である。ここまでは上首尾であった。そしてもう一つ残された任務とは、領家より受け取った財物を、無事に京の閑院殿まで搬送する事である。
畿内と雖(いえど)も、困窮した民の一部は山賊に身を落し、通行人から金品を強奪して生計を立てて居る。特に、有力貴族へ贈(おく)られる物は高価である為、屈強な武士団を護衛に付け様とも、大規模な山賊団に因(よ)る襲撃を受ける怖れが有った。
かつて、大川庄の西方に聳(そび)える大江山には、酒吞童子(しゅてんどうじ)が多くの手下を従え、遥々(はるばる)都を襲う程であった。その山賊団は後に、清和源氏の長者頼光と、それに従う四天王等の活躍に因(よ)り、退治された。頼光は武家の棟梁として道長の信頼厚く、朝家の守護と称されて居た。正四位下左馬権頭(さまごんのかみ)に任官し、昇殿を許されるに至る。しかしこの初秋、治安元年(1021)七月十九日に没して居た。
頼光の威光が残って居てか、坂上広高率いる一隊は、賊の襲来を受ける事無く丹後、丹波を過ぎ、無事に入京を果す事が出来た。
三庄太夫の元より届けられた税、進物(しんもつ)を確認し、公季は大いに満足気であった。広高と政隆は、よく任務を全(まっと)うした事で犒(ねぎら)いの言葉に浴し、褒美の品を賜(たまわ)った。
莫大(ばくだい)な献上品を前に上機嫌の公季を見て、政隆は表情を曇らせた。三庄太夫の政(まつりごと)に、公季が満足して居る様に映(うつ)る。という事は、政隆が軍勢を得て、姉の仇(かたき)を討つべく太夫に戦(いくさ)を挑んだ場合、太政大臣を敵に回す可能性が大きい事が窺(うかが)えた。又、公季の元で昇進を重ね、仮に丹後守(たんごのかみ)に任官したとしても、太夫の支配する荘園は国守の管轄外である。閑院家に仕えて政隆は、三庄太夫が如何(いか)に大きな力を持って居るか、痛い程理解させられた。
晴れて帰京を果した日、政隆の胸中には又、大きな難問が出来(しゅったい)した。それは、閑院家の庇護(ひご)下に在る三庄太夫を、如何(いか)にして討つかである。
その後、暫(しばら)く政隆は京に在って、悶々(もんもん)とした日々を過ごして居た。政隆には、成すべき事が三つ有った。磐城の奪還、母の捜索、姉の仇(かたき)討ちで有る。しかし今は何(どれ)一つ、解決に向けて動く事が出来なかった。何(いず)れの道も、立ち塞(ふさ)がる相手は、己よりも遥かに強大である。母の捜索も、閑院家が佐渡守(さどのかみ)に依頼してくれた様であるが、佐渡からの報告は梨(なし)の礫(つぶて)であった。