第十九節 閑院右大臣

 平安京は右京が頽廃(たいはい)する一方、左京は東へと拡大して居た。六条大路を東に抜け、鴨川を渡った先の六波羅(ろくはら)、その又先の鳥部野と、新たな市街が造形されつつ在った。鳥部野の東、清水山の西麓には、音羽山清水寺が建つ。

光仁天皇の宝亀九年(778)、大和国子島寺の僧延鎮(えんちん)が観音の夢告、行叡居士(ぎょうえいこじ)との邂逅(かいこう)を得て開山に至り、宝亀十一年(780)には坂上田村麻呂が帰依し、仏堂を建立。桓武朝の延暦十七年(798)には本尊、金色の十一面千手観音像と、脇侍に地蔵菩薩、毘沙門天像を造り、本堂に安置。霊験(れいげん)(あらたか)なる観音霊場として、貴族から民人に至るまで、幅広い層からの信仰を集めて居た。

 後に南都平城京の興福寺に属し、法相宗と真言宗を兼ねるも、京で台頭する北嶺(ほくれい)延暦寺との、対立の場と成って居た。

 又、奥州安積(あさか)郡丸子郷の、三春子育木馬所縁(ゆかり)の寺院でもある。

 境内の奥には、多くの僧が修行に訪れる音羽の滝が在る。その流れはやがて音羽川と成り、山城の盆地を潤(うるお)して行く。

 朝靄(あさもや)の中、一人の僧がこの滝を訪れた。未だ若く、逞(たくま)しい体躯(たいく)をして居る修行僧である。滝の飛沫(ひまつ)を身に受けながら、周囲の大自然が織り成す玄妙さを、感じ取っている様子である。

 ふと修行僧は、滝壺の先の岩場に、黒い影を認めた。何であろうと思い駆け寄ると、襤褸々々(ぼろぼろ)に成った法衣(ほうえ)を纏(まと)った少年が倒れて居る。修行僧は少年の手首を取り、耳を顔に近付けると、弱まって居る物の、脈も呼吸も確認出来た。
「行かん。このままでは死んでしまう。」
修行僧は少年を背負うと、本堂へ向かい駆けて行った。

 本堂前の庭では幾人かの僧が、朝の作務(さむ)を行って居る。修行僧はその中で、最も年長と思(おぼ)しき老僧に声を掛けた。
「申(も)し、この先の音羽の滝にて、少年の僧が倒れて居るのを見付けたのでござりまするが、もしや当山の僧ではござりませぬか?」
老僧は庭を掃(は)く手を止め、修行僧に背負われた少年を見遣(みや)った。
「見掛けぬ顔じゃのう。法衣(ほうえ)の解(ほつ)れと汚(よご)れを見た所、山中を彷徨(ほうこう)して来た様じゃが。兎(と)も角(かく)放っては置けぬ。直ぐに人を遣(つか)わす故、先ずは仁王門の側に建つ、御堂に移して下され。」
「承知致しました。」
修行僧は頷(うなず)くと、少年を背負ったまま、仁王門へと向かって行った。

 清水寺の正門である仁王門の外には、安産信仰の子安(こやす)の塔が建って居る。そしてその外れに、小さな御堂がひっそりと建って居た。養老二年(718)、豊桜彦親王が妻藤原安宿姫(あすかべひめ)の安産を祈願した折に彫られた仏像が、そこに安置されて居る。親王はその六年後に即位して聖武天皇と成り、后(きさき)は光明皇后と成った。その時に無事生まれた内親王は、後に二度の即位を経験した。孝謙、称徳天皇である。

 寺院としては、見ず知らずの者を容易に受け入れる事は出来ず、已(や)むなく、大門の外に在る御堂を貸す事にしたのである。

 御堂に運ばれた少年は、暫(しばら)くして意識を取り戻した。
「ここは?」
少年が呟(つぶや)いたのを聞いて、傍らに座り、見守り続けて居てくれた修行僧は、俄(にわか)に破顔した。
「おお、気が付いたか。ここは東山の清水寺じゃ。御主は境内の外れで、倒れて居ったのだぞ。」
少年は急に床(とこ)を出ようとしたが、体に力が入らない。修行僧は慌てて止めた。
「未だ動いては成らぬ。腹が減って居るであろう。今、粥(かゆ)等を貰(もら)って参る故、ゆっくりと休んで居るが良い。」
そう言い残し、修行僧は御堂を出て行った。

 扉が閉ざされると、再び御堂の中は薄暗く成る。その中、少年は辺りをきょろきょろと見渡し、やがて枕元に己の荷を見付けた。少年は手を伸ばして荷の中を探り、襤褸(ぼろ)布に包まれた厨子(ずし)を取り出して、扉の中を覗(のぞ)いた。そして安堵の表情を浮かべると、再び厨子を襤褸(ぼろ)に包み、荷の中へと戻した。

 暫(しばら)くして修行僧が戻って来ると、少年の上体を抱き起し、粥(かゆ)が入った椀(わん)と匙(さじ)を渡した。少年はゆっくりと粥(かゆ)を啜(すす)り、やがて全てを飲み終えて椀を置くと、再び横になった。
「後数日もすれば、すっかり回復するじゃろうて。」
そう言いながら、修行僧は椀を片付けるべく、再び御堂を出て行った。

 独りに成った少年は、やがて涙を流し始めた。
「母上、姉上。私には御二人を救い出す力はござりませぬ。本当に、情け無う存じまする。」
そして蒲団(ふとん)の端を噛(か)み、噎(むせ)び声を押し殺そうと努めて居た。

 修行僧は山籠(ごも)りの修業を中断し、良く少年の世話をしてくれた。御蔭を以(もっ)て五日後には、少年は起居(たちい)が出来る程まで回復した。未だ多少ふらついては居る物の、暫(しば)しは清水寺が面倒を見てくれる事と成った。

 明くる朝、未明の内、少年は微(かす)かな物音に目を覚ました。見れば傍らで、修行僧が旅仕度をして居る。少年は驚いて声を掛けた。
「御坊。」
修行僧はつと少年の方を振り向き、苦笑しながら返す。
「これは、起して済まなんだのう。」
「御坊は、旅に発たれるのですか?」
「うむ。儂(わし)には行かねば成らぬ所が有る故。」
少年は、安堵と悲哀の錯綜(さくそう)した面持ちで告げる。
「音羽山で倒れて居た私を救って戴き、有難うござりまする。」
修行僧が旅立つ前に礼を申し上げる事が出来、少年は些(いささ)か胸の痞(つかえ)が下りた気がした。

 少年の爽(さわ)やかな表情を見て、修行僧の顔は綻(ほころ)んだ。
「礼には及ばぬ。小僧の食事の世話は、もう暫(しばら)くは寺院が見て下さる。安心して、回復に努める事じゃ。」
「はい。」
「所で其方(そなた)、当山を下りた後、如何(いかが)する所存じゃ?又行き倒れても、助けて貰(もら)えるかは分からぬぞ。」
少年は苦笑して答える。
「筑前の、祖父の元へ参ろうかと、考えて居りまする。」
「うむ。身寄りが有るは心強いが、しかしその道程(みちのり)は長い。道中気を付けてのう。」
修行僧は荷を背負い、笠を被(かぶ)って錫杖(しゃくじょう)を持つと、御堂の扉に手を掛けた。少年は、別れを惜しみつつ返す。
「御坊も。」
修行僧は確(しか)と頷(うなず)くと、扉を開けて、疾風の如く去って行った。夜も開け切らぬ暗闇の中、少年は御堂の中に、独り佇(たたず)んで居た。

 その日、少年は自らの足で歩き、御斎(おとき)を戴きに寺院へ向かった。厨(くりや)を訪れた少年は、ここ数日世話に成った謝意を申し上げると共に、三日の内には出立する旨を告げた。それに対し厨(くりや)の僧は、この少年僧の素姓が分らぬ為に、素っ気無い応えしか示せない様子である。少年は熱い粥(かゆ)を盛った椀(わん)を受け取ると、門前の御堂に向かい、踵(きびす)を返した。しかし、その足取りは未だ確かでは無く、少年は粥(かゆ)を零(こぼ)さぬ様、必死であった。

 夜、御堂に独り横たわる少年は、天井を見詰めながら、今後の事を考えて居た。抑々(そもそも)、奥州より遥々(はるばる)上方へ上って来た訳は、謀叛人に故国を奪われ、三人の人物を頼る為であった。

 その一人、三井寺の了円僧都(そうず)は、坂東へ勧進(かんじん)に赴いて居る故、会う事は叶(かな)わない。又、越前の足羽高保(あすわたかやす)は、少年自身の面識が無く、本当に頼みと成る人物かは判(わか)らない。残る一人、筑前国安楽寺に流された平政氏は、少年の祖父である。仍(よっ)て家宝の地蔵菩薩を持参すれば、何らかの道を示してくれるであろうと思われた。

 少年は地蔵菩薩を枕元に置き、その神々(こうごう)しい姿を眺めながら、未だ見ぬ祖父の姿を思い描いて居た。しかし少年の体は、久し振りに歩いて回った為に、酷(ひど)く疲れが出て来た。そして地蔵菩薩をそのままに、少年は何時(いつ)しか寝入ってしまった。

 翌朝少年が目を覚ました時には、既(すで)に御堂の中にも外の光が漏れて来る程、陽が昇って居た。疲れの為に深く眠った所為(せい)か、少年は怠(だる)るい体を起して床(とこ)から出様とした刹那(せつな)、体が硬直して動かなく成った。御堂の中に、二人の男が居るのを認めたのである。

 二人共、身分の有る形(なり)をして居る。一人は老人であり、家宝の地蔵菩薩を拝んで居る。その後方に控える壮年の男は、少年が起きたのを見て警戒を強め、刀の柄(つか)に手を掛け、片足を踏み出して居る。少年は突然の事に戦(おのの)きながら、僅(わず)かに後退(あとずさ)りした。

 老人は俄(にわか)に目を開き、少年の様子を窺(うかが)う。そして後方の男に告げた。
「其方(そち)の所為(せい)で、驚いて居るではないか。」
「はっ。」
家臣と思(おぼ)しき男は、直ぐに構えを解いて着座した。

 合掌から直って後、老人は柔和(にゅうわ)な表情で少年に語り掛ける。
「勝手に上がり込み、済まなんだのう。実は、我が娘が重い病(やまい)に臥せって居ってな。日々恢復(かいふく)を祈願して居った所、昨日夢の御告げが有った。東山の御堂に霊験(れいげん)(あらたか)なる地蔵菩薩がおわすとな。それで清水寺へ詣(もう)でた所、子安の塔の脇の御堂から、金色の光が放たれて居るのが見えた。これが夢告の示す物と思い、ついつい上がり込んでしもうた訳じゃ。」
老人は、まじまじと地蔵菩薩を見詰めながら、更(さら)に言葉を接ぐ。
「それにしても、見事な地蔵菩薩じゃ。暫(しば)し当家に遷(うつ)し、拝ませては下さらぬか。貴僧も当家にて、鄭重に御持て成し致そう程に。」
事情を聞いて、少年は断れなく成ってしまった。娘を想う親心に添(そ)いたいと考え、承知の旨を示そうとしたが、気に掛かる事が有った。
「私は行き倒れに成って居た所を、当山に救って戴いた身。何も報いずに下山致さば、忘恩の徒(と)と成ってしまいまする。何卒(なにとぞ)、暫(しば)しの御猶予(ゆうよ)を。」
老人は笑みを湛(たた)えて返す。
「この地蔵菩薩を貸して下されば、その御礼として、当家が貴僧の報い得る以上の事を、当山にして差し上げよう。それで礼を失する事は有るまい。」
「はっ。仰せの通りと存じまする。」
「うむ。」
老人は満足気に、地蔵菩薩を納めた厨子(ずし)を抱き抱えて立ち上がると、直ぐに家臣が御堂の扉を開けた。

 眩(まばゆ)い外の光が映し出す光景は、少年を驚かせる物であった。御堂の外には、二十余名の武官が控えて居た。そして老人は御堂を下りると、正面に待機する牛車(ぎっしゃ)に乗り込んで行ったのである。これは余程身分の高い人物であると、少年は直感した。

 少年も直ぐに荷を纏(まと)め、一行の後ろに付く。それを見た、先程老人の後方に控えて居た男が、己の馬を少年の元まで曳(ひ)いて来た。
「これに御乗り下され。」
少年が躊躇(ためら)って居ると、男は困った顔をして懇願(こんがん)する。
「貴方は当家の賓客。粗相(そそう)が有れば、某(それがし)が主(あるじ)より、きつい御叱(しか)りを受けまする。」
それならばと、漸(ようよ)う少年は馬上へ飛び乗った。

 一行は鳥部野から六波羅を経由し、左京の七城大路へと入って行く。そして西洞院大路を北に折れ、京の中心へと向かって行った。

 少年は馬上に在って、辺りをきょろきょろと見渡して居た。馬を譲った男は、手綱(たづな)を曳(ひ)きながら少年に問う。
「何かを御探しにござりましょうか?」
少年はつと我に返った様子で、悲し気な面持ちで答えた。
「いえ、かつて我が祖先が、小一条太政大臣忠平公や、参議藤原忠文卿に仕えて居たと、聞いて居りました物で。」
「御坊は、京は初めてにござりまするか。」
「はい。私は元は奥州の住人にて。」
「ほう、遥々(はるばる)奥州より。」
男は馬を曳(ひ)きながら、ふと天を仰いだ。
「申し遅れ申したが、某(それがし)は坂上広高(さかのうえのひろたか)と申しまする。祖先の田村麻呂以来、奥羽には多少の所縁(ゆかり)がござりまする。」
「何と、田村将軍の末裔にござりまするか。」
意外な表情を見せた少年を見詰めながら、広高は微笑を浮かべた。
「御坊こそ、あの様に立派な仏像を所持されて居られる所を見ると、陸奥の名族の出でありましょう。御名(おんな)を承って置きたいと存じまするが。」
先方が名乗った以上、少年も礼を欠かぬ様に素姓を明かした。
「私は姓を平、名を医王丸と申しまする。」
広高は些(いささ)か訝(いぶか)しみながら、重ねて尋ねる。
「成程(なるほど)、桓武平家の御出自にござりまするか。して、戒名(かいみょう)を承りたく存じまする。」
医王丸は暫(しば)し沈黙した後、広高に告げた。
「実は、私は戒名(かいみょう)を持っては居りませぬ。」
「何と、得度(とくど)はされて居られぬと。」
こくりと医王丸は頷(うなず)いた。

 その時、行列の先頭が二条大路の手前で折れ、豪奢(ごうしゃ)な寝殿造(しんでんづくり)の邸へと入って行く。
「ここは?」
呆気(あっけ)に取られる医王丸に、広高が答える。
「閑院殿(かんいんでん)にござりまする。かつては左大臣冬嗣(ふゆつぐ)公の御邸でござり申した。」
「では、先程の大殿(おとど)は。」
「当家の主、右大臣公季(きんすえ)様にござりまする。」
「何と、右大臣家の御邸ですと?」
「然様(さよう)。」
医王丸はふと、目眩(めまい)に襲われた気がした。折角(せっかく)由良の三庄太夫の元から脱走して来たというのに、よもや京の都にて、由良の本家に係るとは、思いも寄らなかったのである。

 右大臣家は三庄太夫の主君に当たる故に、もしかしたら、由良の者が邸内に逗留(とうりゅう)して居るかも知れない。己が忘路(わすれじ)である事を知られたら、如何(いか)なる酷(ひど)い目に遭(あ)わされるか、分かった物ではない。医王丸は脂汗を滲(にじ)ませながら、閑院殿の大門を潜(くぐ)って行った。

 邸内に入った所で行列は動きを止め、医王丸も馬から下りた。程無く右大臣公季が牛車(ぎっしゃ)を下り、沓(くつ)を履(は)いて庭へと下りた。
「御坊。」
公季に呼ばれ、医王丸は恐縮しながら、三間隔(へだ)てて跪(ひざまず)いた。
「では暫(しば)しの間、御坊の地蔵菩薩を御借り致す。」
「はっ。」
医王丸は掠(かす)れた声で答えた。公季は笑顔で頷(うなず)いた後、坂上広高に厳しく言い渡す。
「御坊は当家の大切な客人じゃ。呉々(くれぐれ)も失礼の無き様。」
「はっ。承知してござりまする。」
公季は地蔵菩薩を納めた厨子(ずし)を大事に抱えながら、邸へ上がって行った。

 それを見届けた後、広高は医王丸を邸内へ上げ、客間へと案内して行った。大きく派手やかな邸ではあるが、家中の雰囲気は意外と物寂しい。それは右大臣の姫君が病床に在る為と、医王丸は推察した。

 やがて一室を宛(あて)がわれた医王丸は、僅(わず)かな荷を隅(すみ)に置き、静かに着座した。広高は一礼した後退出し、それから間も無く、別の下男が訪れた。
「御着物を洗濯致しまする故、御召替(おめしか)えを。」
医王丸は襤褸々々(ぼろぼろ)に成った法衣(ほうえ)を脱ぎ、新たに用意してくれた着物に着替えた。下男は法衣を受け取ると、速やかに退室して行った。

 医王丸が、何時(いつ)由良へ連れ戻されるやも知れぬと案ずるも、閑院家の持て成しは、その不安を消し飛ばすに足る物であった。かつて医王丸の父政道が豪奢(ごうしゃ)に走った頃、高価な調度品を集めて居た時が有ったが、この間に置かれた物は皆、磐城では見た事も無い、珍しい品ばかりであった。

 庭を眺めると、広大な庭園の中に、池が造成されて居る。その辺(ほとり)には椿(つばき)の木が赤色の大輪を咲かせ、鶯(うぐいす)の鳴き声が風情(ふぜい)を添えて居る。医王丸は斯(か)かる風景を静かに眺めて居る内に、浮世(うきよ)を離れ、桃源郷にでも入ったかの様な気分に成った。

 閑院殿の西隣にも、広大な邸が建って居る。これは堀河院と呼ばれ、その名の如く、邸の西を堀川が南北に流れて居る。かつては太政大臣基経(もとつね)の邸宅であったが、今は左大臣顕光(あきみつ)の邸と成って居る。顕光は太政官において、関白藤原頼通に次ぐ位官に在った。しかし皇室との姻戚関係は遠退(の)き、当人も喜寿の高齢である。嫡子重家は近江国三井寺で出家してしまい、堀河左大臣家には衰退の兆しが窺(うかが)えた。

 一方の閑院家は、嫡子実成(さねなり)が権中納言を経て右衛門督(うえもんのかみ)に就任し、当主公季も齢(よわい)六十五にして健在であった。

 時の最高権力者である藤原道長は、昨寛仁三年(1019)、病(やまい)を得た後に出家した。そして土御門(つちみかど)殿の東南方、鴨川の西岸に法成寺(ほうじょうじ)を建立し、そこへ移り住む予定である。東西二町、南北三町の広大な敷地には、阿弥陀堂、金堂、五大堂、薬師堂、釈迦堂、十斉堂、東北院、西北院等が建ち並ぶ計画であるが、今年は未だ、九体阿弥陀堂、別称無量寿院の造営に着手したばかりであった。浄土信仰が生み出した、新たな建築文化の魁(さきがけ)である。

 医王丸が閑院家に逗留(とうりゅう)する様に成ってから、十日程が過ぎた。その間、賓客として扱われた医王丸は健康を取り戻し、懸念して居た三庄太夫の手の者との遭遇も無かった。

 体力が回復すると、今度は佐渡の母、丹後の姉の身が案じられる様に成った。しかし今は、己(おの)が素姓の唯一の証(あかし)と成る地蔵菩薩を、右大臣に預けて居る為に、身動きが取れない。日々、医王丸の焦燥(しょうそう)は募(つの)るばかりであった。

 ある日の昼下り、坂上広高が医王丸の元に姿を現した。広高は廊下で着座すると、医王丸に向かい粛然と告げる。
「大殿(おとど)の御成(おなり)にござりまする。」
それを聞き、医王丸は直ちに部屋の隅(すみ)に畏まった。

 直ぐに、右大臣公季が入室して来た。そして医王丸の前に、ゆっくりと腰を下ろす。
「御手を上げられよ。」
公季の言を受け、医王丸は静かに頭を上げた。

 公季は、持参した磐城平家の地蔵菩薩を納めた厨子(ずし)を手前に置き、微(かす)かな笑みを湛(たた)えて、医王丸を見詰める。
「数日前、我が姫は床(とこ)上げをするまでに恢復(かいふく)致した。薬師(くすし)も唯々(ただただ)驚くばかりでのう。貴僧の持仏の御利益(ごりやく)は、真に大した物であった。娘の病(やまい)を救って下された事、父として御礼申し上げる。」
すっと公季が頭を下げたのを見て、医王丸はたじろいだ。
「畏(おそ)れ多き事にござりまする。私如きに頭を下げられては。」
公季は礼を終えた後、視線を地蔵菩薩に移して問う。
「実は、儂(わし)は余りの霊験(れいげん)(あらたか)さに驚き、宮中の学者を招いて、貴僧に無断で鑑定を依頼致した。そしてその学者の言に、儂(わし)は更(さら)に驚かされた。この放光王地蔵菩薩の金像は、かつて百済国(くだらのくに)より渡来し、宮中に献上され、宇多院が高望王に下賜された物であるという。それが如何(いか)なる経緯(いきさつ)で貴僧の手に渡ったか、御聞かせ下さらぬか。」
医王丸は畏(かしこ)まり、己が聞いたままを滔々(とうとう)と話し始めた。
「高望王はこの持仏を、後に三男平良将に遺(のこ)され、相馬平家の家宝と成りました。しかし次の代、将門の時に相馬家は滅亡致しましてござりまする。その時、一人の姫が家宝を携えて寺に入り、長い月日が流れました。そして冷泉朝の頃、奥州の戦役で軍功を挙げた平政氏が磐城へ入部した折、将門の姫は甥(おい)に当たる政氏に、相馬家家宝を託したそうにござりまする。しかし政氏も、二十年前に謀叛の罪で筑前安楽寺へと流刑と成り、嫡子政道が家督と共に、家宝を相続する事と成りました。所が、執政の職に在った村岡重頼が逆心を起して暗殺に及び、遺(のこ)された妻子は、家宝を抱えて磐城を脱出する他はござりませなんだ。そして長子医王丸のみが、漸(ようや)く京へ辿(たど)り着いたのでござりまする。」
余りに意外な話に、暫(しば)し公季は呆気(あっけ)に取られて居る様子であった。やがて医王丸の言葉を噛み締め終えた後に、公季は口を開く。
「成程(なるほど)、磐城において騒動が、三、四年前に起きた事は記憶に残って居る。その後は何も報告が無かった故、磐城の問題は疾(と)うに解決した物と思って居った。しかし、斯様(かよう)な事に成って居たとは。」
公季は、未だ十五の少年が僧形(そうぎょう)をしてまで逃げ延びて来た事に、深い同情を覚えた。そして優しく言葉を掛ける。
「ともあれ、其方(そなた)が姫を救ってくれた礼をしたい。何でも望みを申して見よ。」
医王丸はこれを唯一の機会と捉(とら)え、思うままに申し上げる。
「されば、祖父政氏の赦免を御願い申し上げまする。祖父は磐城の豪族の心をよく掴(つか)んで居りますれば、必ずや奥州に安定した平穏を取り戻す事でありしょう。そう成れば、私は生き別れた母と姉を捜(さが)し、共に故国へ帰れまする。」
公季は、白髪の混じった顎鬚(あごひげ)を撫(な)でながら考え込む。
「ふむ。確かに朝廷の意を受けぬ者が、数多(あまた)の郡を切り取りしは忌々(ゆゆ)しき事じゃ。仗儀(じょうぎ)の場において、提起する必要が有る。しかし、其方(そなた)の祖父の赦免は、儂(わし)の一存で如何(どう)(こ)う出来る物では無い。今暫(しばら)く、この邸で待つが良い。」
「はっ。宜しく御願い申し上げまする。」
医王丸は深々と頭を下げる。公季は些(いささ)か顔を顰(しか)めたまま、広高を伴い退出して行った。

 医王丸は遂(つい)に右大臣に対し、直(じか)に奥州南部の動乱を伝え、祖父政氏の赦免を願い出る事が出来た。藤原道長と左大臣顕光が病(やまい)を得て居る今、公季より上位で健在の者は、関白頼通唯(ただ)一人である。医王丸は、己の役割を充分に果したという満足感を覚えて居た。

 公季等が去って間も無く、医王丸の間に一人の女中が姿を現した。
「畏(おそ)れながら、玉綾姫様が面会を求めておわされまする。」
突然の事に、医王丸は大いに驚いた。
「はっ。右大臣家の御息女が、何故(なにゆえ)私の様な者に?」
「持仏の御加護を賜(たまわ)り、平癒(へいゆ)に至った御礼を申し上げたいとの御希望にござりまする。」
「礼には及ばぬ事ですが。無下にしては非礼と成りましょう。では、御案内下さりませ。」
「はい。」
女中に促(うなが)され、姫は部屋の入口で座礼を執ると、傍らに置いた絹の包みを持ち、静々(しずしず)と医王丸の前に進み出て、再び着座した。

 玉綾姫は前方に包みを居き、静かに礼を執る。
「貴方様の御蔭にて、私は命を存(ながら)える事が出来ました。大切な持仏を御預け下さり、誠に有難うござりまする。」
右大臣家の姫に鄭重に頭を下げられ、医王丸は恐縮して、慌てて己も頭を下げた。

 互いに正体して顔を見合わせると、姫は自身と歳が近い事が判(わか)った。怖らく、公季が五十の頃に生まれた娘なのであろう。

 姫は、絹の包みを医王丸に差し出す。
「父が、私の枕元に置いて下さったのですが、床(とこ)上げに至りし今、貴方様に取って大切な物と思い、御返しに参りました。」
医王丸は包みを受け取って布を解くと、中には厨子(ずし)が包まれて居り、扉を開くと、家宝の地蔵菩薩が元のまま納められて居た。姫は興味深そうに、医王丸に尋ねる。
「学者が申して居りました。この地蔵菩薩は百三十年程昔、高望王が上総へ持って行かれた物であると。貴方様は、坂東より御越しになられたのですか?」
「いえ、更(さら)に北方の、奥州磐城にござりまする。」
「奥州にござりまするか。都より何百里も離れた処と聞き及んで居りまするが、歌枕と成る風流な地が、沢山在ると聞き及びまする。」
医王丸は、表の蒼天を見遣(みや)りながら答える。
「かつては、民人(たみびと)も平穏に暮せる長閑(のどか)な地でありましたが、今では逆賊が跋扈(ばっこ)して居りまする。」
「まあ、その様な事態に。貴方様は、故郷を追われて来られたのですね。」
「はい。しかし、右大臣公季様に、祖父の復帰を御願い致しました。私の祖父は、二十にして奥州南部の大乱を鎮めた武将なれば、必ずや、磐城の奪還は成りましょう。」
「其(そ)は心強き事と存じまする。では、私からも父に口添えを致しましょう。責(せ)めてもの御礼です。」
突然、医王丸は真顔と成り、姫を見詰めた。
「御心遣いは嬉しいのでござりまするが、それには及びませぬ。」
姫は驚いて返す。
「まあ、何故(なぜ)でしょう?」
「此(こ)は天下の政(まつりごと)の大事にて、右大臣様の裁量のみで決められる事ではないのでござりまする。もし我が望みが仗議(じょうぎ)で通らなければ、徒(いたずら)に公季様を苦しませる事に成りまする。其(そ)は、姫様の御為(おんため)にも成りませぬ。」
真剣な眼指(まなざし)の医王丸に、姫は微(かす)かに笑みを零(こぼ)した。
「貴方様は、優しい御人柄なのですね。」
そう言って、姫は再び座礼を執ると、静かに立ち上がって、医王丸の元を去って行った。

 医王丸は礼を執って見送った後、再び己の元へ戻って来た家宝を眺めた。そして、心に爽(さわ)やかな風が吹くのを感じて居た。

 その後、医王丸の閑院殿滞在は長引いた。先ずは筑前安楽寺へ人を遣(つか)わし、平政氏の現況を調べるのであるという。斯(か)くして、筑前へ派遣された使者は、山桜の爛漫(らんまん)たる弥生(三月)の候、帰京するに至った。

 その翌日、閑院殿の客間に逗留(とうりゅう)を続ける医王丸の元を、家司(けいし)の坂上広高が訪れた。
「主(あるじ)公季様が、医王丸殿を御召(おめし)にござりまする。」
待ちに待った報が届いた事を察し、医王丸は飛び上がる勢いで立ち上がった。
「直ぐに参りまする。」
医王丸は広高の案内を得て、応接の間へと向かった。

 そこには、公季の他にもう一人、下座に従臣と思(おぼ)しき男が控えて居た。公季の表情は何処(どこ)か沈鬱(ちんうつ)であり、それが医王丸に不吉な予感を与えた。

 医王丸が公季の正面で座礼を執ると、公季は張りの無い声で告げる。
「その者は昨日、筑前より戻って参った。ほれ、安楽寺の事を話して遣(や)るが良い。」
「はっ。」
男は医王丸の方へ向き直り、一礼した。医王丸も男に正対し、頭を下げる。
「宜しく御願い致しまする。」
男は頷(うなず)くと、表情を翳(かげ)らせながら、話を始めた。
「某(それがし)が安楽寺に赴いた時、既(すで)に政氏殿はおわされず。」
「と、申されますると?」
「三年前、彼(か)の地にて逝去されておわし申した。享年は七十一歳との由(よし)にござりまする。」
(にわか)に、医王丸の顔は惚(ほう)けた面持ちと成った。最後の頼みであった祖父の死に因(よ)り、医王丸は再び道を見失ってしまったのである。

 ふと、後背(こうはい)より公季の声が聞こえた。
「其方(そなた)、大分髪が伸びて来たのう。」
「はっ。」
(うつ)ろな顔で、医王丸は再び公季に正対する。
「如何(どう)じゃ。還俗(げんぞく)して当家に仕える気は無いか?其方(そなた)も、他に行く当ては無いであろう。」
「はい。仰(おお)せの通りにござりまする。」
「なれば、儂(わし)の家臣に加わるが良い。都で過ごして居る間に位官を得れば、其方(そなた)の手で、家名を興す機会が訪れるやも知れぬぞ。」
「私如きの手で?」
「聞けば政氏殿は、かつて五位の職に在った藤原式家の支援を得て、奥州征伐を成功させたという。当家は二位の右大臣じゃが、不服かのう?」
「いえ、滅相(めっそう)も無き事にござりまする。過分の御計らいを賜(たまわ)り、無上の感激を覚えてござりまする。」
公季は、満足気な笑みを湛(たた)えて頷(うなず)いた。
「では決りじゃな。其方(そなた)はこれより、広高の下に付くが良い。広高は文武に秀でた有能な士なれば、必ずや其方(そなた)を立派な武士に鍛(きた)え上げてくれるであろう。後、作法も見に付けて置かねばのう。」
確かに、閑院家に在って右大臣の側に居れば、何(いず)れ丹後に残して来た、姉を救出する機会が訪れるやも知れぬ。そう考えた医王丸は低頭、公季に対し平伏した。
「斯(か)かる御恩を心に留め、精一杯の奉公を以(もっ)て、閑院家に報いたく存じまする。」
「うむ。」
本来なればこの後、磐城平家家臣団の事を記した名簿(みょうぶ)を差し出し、臣従の証(あかし)とする所である。しかし、磐城を追われた医王丸に、その様な物は無い。公季は黙って、応接の間を退出して行った。

 坂上広高は主君を見送った後、向き直って医王丸に告げる。
「これより、其方(そなた)には家臣が詰める大部屋へと移って貰(もら)う。直ぐに荷物を纏(まと)めよ。」
「はっ。」
医王丸は一揖(いちゆう)した後、直ぐに僅(わず)かな荷を携え、広高の後を追った。

 大部屋には、二十余名の男達が詰めて居た。多くが地方豪族の子弟であり、京に在って位官の昇進を望む者達である。既(すで)に位官を得て居る者は宮中に出仕するが、未だ無官の者は、雑用や主家の護衛が任務と成る。故に武術の鍛錬は必要であり、広高は暇(ひま)を見つけては、医王丸に稽古を付けて遣(や)った。

 医王丸は四年に及ぶ逃亡、奴隷の生活に因(よ)り、幼き頃磐城で培(つち)かった物の多くを忘れて居た。日々広高に打ち据(す)えられ続けながら、医王丸は次第に、武士の身体へと戻って行った。

 やがて半月が経った頃、医王丸は剣術、槍術、柔術の腕を上げ、遂(つい)には広高より、馬場に出て馬術を習うに至って居た。何(いず)れも幼少の頃に、修行して来た物である。医王丸の上達振りは抽(ぬき)ん出て居た。

 しかし、医王丸が磐城で習得するに至らぬ物が有った。騎射である。これは、馬術に秀(ひい)でた坂東武者の得意とする物で、疾駆する馬の上より、矢を射る技である。

 医王丸の仇(かたき)である村岡重頼の軍勢は、特に馬術が巧(たく)みである。畿内の勢力でこれに対抗し得るとすれば、道長四天王の一人である常陸介平維衡(これひら)か、清和源氏の中でも最強と謳(うた)われる源頼信辺りであろう。医王丸が自力で父の仇(かたき)を討つには、村岡武士団に匹敵する武芸が不可欠であった。

 しかし医王丸が幾ら腕を上げ様にも、坂上広高の技量は遙(はる)かに上であった。流石(さすが)は田村将軍の末裔(まつえい)と舌を巻く時も有るが、医王丸は武士として成長出来る環境を得、充実した日々を送って居た。

 左京の閑院殿に暮らして居ると、様々な情報が入って来る。当時、朝廷で最も懸念されて居る事項は、昨寛仁三年(1019)に有った、女真族の入寇(にゅうこう)であった。大陸の情勢を見ると、対馬の先の半島には、朝鮮族の高麗王朝が在り、その北方には契丹(きったん)族の建てた遼王国が、勢力を拡大して居た。そて唐土(もろこし)には、漢民族の大宋帝国が在る。

 高麗北方に女真族の蟠踞(ばんきょ)する地が在り、朝鮮族は彼等を刀伊(とい)と呼んで居た。その刀伊が三月二十七日、三千人を動員して五十艘の船団を編成し、対馬(つしま)に襲来したのである。対馬守は何とか大宰府へ逃れた物の、島は荒らされ、刀伊は次に壱岐(いき)へ押し寄せた。壱岐守藤原理忠は防戦するも討死し、刀伊の船団は遂に筑前国怡土(いと)郡に達した。四月八日から十二日に架けては、博多港をも戦場(いくさば)とする大戦(おおいくさ)が有った。この時指揮を執ったのは、太宰権師(だざいごんのそち)藤原隆家である。隆家は、兄伊周(これちか)と共に叔父道長との政争に敗れ、中納言の職を追われて居た。隆家の軍は博多港において刀伊の船団を襲撃し、見事国外へ打ち払う事に成功したのである。

 対馬、壱岐、筑前の三国において多くの犠牲者を出した物の、九月、高麗国の使者鄭子良が大宰府を訪れ、拉致(らち)された倭人二百七十人を送還して来た。斯(か)くして西国に再び平穏が戻った物の、海賊船に二カ国が壊滅させられるという、国防の問題が浮彫(うきぼり)に成ったのである。

 又、医王丸は自信に係る、別の情報をも入手して居た。それは二年前、寛仁二年(1018)十二月十七日、坂東最大の武士団の棟梁平忠頼が、八十九歳の大往生を遂(と)げて居た事である。忠頼は相模、武蔵、常陸、下総、上総と、坂東五ヶ国に勢力を広げ、磐城平家執政村岡重頼と親子の誓いを交し、重頼の強力な後ろ楯と成って居た。その忠頼亡き後、所領は三人の子に分割された。長男将常(まさつね)は武蔵、次男忠常(ただつね)は常陸、下総、上総を、三男頼尊(よりたか)は相模を、其々(それぞれ)相続した。村岡平家が三つに分かれた事は、故国奪還を志す医王丸に取って、又と無い朗報であった。

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