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第十二節 第二の祖国
千勝達が守山館に着いてから二日後の朝、輿(こし)が四梃(ちょう)用意された。其々(それぞれ)、磐城平家の四人に宛(あて)がわれし物である。又、護衛の為に二百の兵が集められた。三春に滝尻兵が入った以上、安積(あさか)郡内、もしくは北方の安達郡において、敵の襲撃を受ける怖れが有った為である。
守山の留守は小川平治に任せ、城主勝秋は自ら大将を務め、信夫(しのぶ)郡椿舘(つばきのたち)を目指し、軍を進発させた。
折しも、雨期が到来した。御前は、逃避行の最中に豪雨に見舞われなかった事を、とても幸運に思った。激しき降雨は兵を疲弊させるも、視界を遮(さえぎ)り、行軍の音を掻(か)き消した。安達郡を通過しても滝尻勢の姿は見えず、一隊は無事に郡境を越え、平政澄の支配する信夫郡へと入った。
途中、千勝は逢隈(阿武隈)の流れや安達太良の山、吾妻の小富士を眺めて居る内に、稚児(ちご)であった昔、確かに己がこの地に在った事を思い出して居た。信夫の民人(たみびと)は、直向(ひたむ)きに農事に励んで居る。命を狙われ続けて来た千勝に取って、仇敵(きゅうてき)村岡重頼から遥かに隔(へだ)てたこの地は、真の安住の地に思えた。
やがて小倉寺千手観音を過ぎ、一隊は椿舘へと入城して行った。千勝の他、母御前や姉万珠に取っても、生まれ育った館である。
中館(なかだて)本丸に到着すると、輿(こし)が下ろされた。履物(はきもの)を差し出され、千勝が簾(すだれ)を上げてそれを履(は)こうとした時、目の前に館の重臣達が居並ぶのに気が付いた。その中央に立つ四十前の男には、何処(どこ)か亡父政道の面影が感じられた。
守山勝秋はその男の前で礼を執り、報告する。
「只今、奥方様に若君、姫君を御連れ致し申してござりまする。」
男は頷(うなず)くと、千勝の前に歩み出て、破顔した。
「随分と大きゅう成られて。もう儂(わし)の顔は覚えて居らぬかな?」
確たる記憶が無く困惑する千勝に、脇から母御前が穏やかに告げる。
「千勝、政澄叔父上ですよ。」
千勝は母の言葉を聞いた刹那、二歳の頃の記憶が、幾つか思い出された。確かに十四年前、父の代りに慕(した)って居た人である。
千勝は叔父の前に進み出ると、何を話して良いか分からぬまま、頭を下げた。その直後、政澄は千勝の両肩を掴(つか)み、声を震わせた。
「善(よ)くぞ無事に、ここまで辿(たど)り着かれた。村岡が謀叛の事は聞いてござる。我が兄は暗殺され、母上は三春に追われたそうな。しかし、本家の嫡男たる千勝殿が信夫へ来られた以上、大義名分は我が方に有る。共に父上の仇(かたき)を討ち、本領磐城を取り戻しましょうぞ。」
懐かしい声であった。千勝は安堵感から、思わず頷(うなず)いた。政澄は再び笑顔に戻り、千勝の頭を撫(な)でると、傍らの松川勝宗に言い渡す。
「では、方々を館内に御案内差し上げ、御休息戴く様に。」
「はっ。」
勝宗は承ると、母御前の前へ進み出た。
「どうぞ、此方(こちら)へ。」
「はい。」
御前は静かに頷(うなず)きながら、涙を流して居た。ここには義弟政澄の他、実兄勝宗、勝秋が居る。最も頼りとなる者達に囲まれ、御前は子等を護り通せたという安心感と嬉しさから、思わず涙が零(こぼ)れてしまったのである。勝宗は妹をそっと見守り、万珠、千勝姉弟と、老女姥竹(うばたけ)を招いた。
松川勝宗は惣領磐城政道室の実兄として、先代以来、信夫郡政に重き地位を成して来た。今では信夫平家政澄の筆頭重臣として、家中に強い発言力を持つに至って居る。又、勝宗の実弟勝秋が、かつて平政氏より安積郡小川郷を拝領した事で、その勢力は更(さら)に拡大した。磐城平家が楢葉郷を越え、逢隈(阿武隈)河口の亘理(わたり)近くまで勢力を伸ばしたのに対し、信夫平家は磐瀬郡辺りまで南進して居た。
奥州仙道の最南端は、白河郡である。この地の西部、街道沿いには、往古より関が築かれ、又中央の影響力の強い官衙(かんが)も置かれ、周辺諸郷を統治して居る。一方で東方逢隈(阿武隈)山中には、かつて高野盛国という豪族が台頭し、後には磐城平家三大老の一人と成った。それが今では、村岡重頼の支援を受けた、浅川権太夫に取って代られてしまった。浅川氏は村岡氏との誼(よしみ)を深め、更(さら)に磐瀬郡にも食指を動かして居た。
惣領平政道が権力を失った後、磐瀬郡七郷は、守山勝秋と浅川権太夫の、争奪戦の場と成ってしまった。勝秋は信夫の支援を得て、これを守り抜いて来た。されど、此度村岡重頼が磐城を制圧し、仙道に本腰を入れて進出して来ると成ると、今までとは異なる、激しい戦いが予想された。
時は雨期の直中(ただなか)である。秋の収穫までは民が農事に追われる為、兵を集めて大戦(おおいくさ)をする事は出来ない。しかし収穫を終えてしまえば、愈々(いよいよ)農閑期である。平政澄が仙道諸郡の豪族に号令を掛ければ、五千人は徴兵する事が出来る。但(ただ)、村岡が海道を制圧したとなると、浅川勢と連合し、政澄方に劣らぬ兵力を集める事は、容易に予想が出来た。
後日、松川勝宗は椿舘の評定において、一つの策を献じた。村岡重頼は陸奥守より、公式に磐城平家の後見役を命じられし者と雖(いえど)も、朝廷より直(じか)に郡司を拝命して居た平政道を暗殺せしは、大罪である。故に村岡を朝賊と見做(みな)し、政澄を征討将軍、もしくは陸奥押領使(おうりょうし)に任じて戴く様、朝廷に働き掛け、朝威を以(もっ)て戦(いくさ)に臨(のぞ)むが上策と、以上の様に進言した。確かに、かつて平貞盛が平将門に連戦連敗するも、将門が朝賊と見做(みな)されるや否(いな)や、忽(たちま)ちに将門を討ち滅ぼした例も有る。この建議は、評定の場で多数の賛同を得られた。そして、仙道諸郡の豪族には村岡を非難し、且(か)つ政澄を支持する旨の書状を書かせ、それ等を持たせた重臣の一人を、都へ派遣する事と、評議は決した。
やがて雨期が明け、本格的な夏が到来した。仙道の夏は、海道よりも一層暑い。そして仙道の冬は、海道より一層寒い。海道は温暖清涼の地で住み心地は良い物の、逆に言えば、内陸地仙道の気候に慣れた方が、暑さ寒さが厳しい分、夏や冬に戦(いくさ)が起った時、厳しい気候に順応し易い。村岡との戦(いくさ)は、逢隈(阿武隈)山地を挟んで行われるであろう。冬山の戦(いくさ)ならば、海の者に負けじと、息巻く郎党の姿も在った。
ある日、政澄は重臣と千勝の家族を伴い、館より二里程北方、摺上川の支流小川の辺(ほとり)に在る、医王寺を訪れた。
医王寺は真言宗豊山派で、信夫郡内では規模の大きな寺院である。信夫平家は本堂において、秋に予想される大戦(おおいくさ)を前に、戦勝祈願の儀式を催した。やがて儀式は終わり、僧侶が退出して行った。その後政澄は、千勝と母御前の方へ向き直る。
「千勝殿は確か、十一に在らせられましたな?」
「はい。」
戦(いくさ)を前にした雰囲気の中で、千勝は意気を昂(たかぶ)らせたまま返事をした。その元気の良さに顔を綻(ほころ)ばせながら、政澄は話を続ける。
「当山は瑠璃光山医王寺と称し申す。医王とは薬師如来の異称にござるが、衆生の病苦を救い、無明の痼疾(こしつ)を癒(いや)すという、有難い仏様でござる。そして南部奥州は今、村岡重頼なる逆賊の為に、大祖政氏公の築きし秩序を破り、海仙両道の民は、宛(さなが)ら大病を患(わずら)ったが如き苦しみを、受けて居り申す。」
そう言って天を仰いでから、程無く政澄は千勝を見詰める。
「民衆の病苦は、政氏公の嫡孫たる千勝殿の手に因(よ)り、救済せねば成りませぬ。故に儂(わし)は、千勝殿に医王の名を送りとう存ずる。」
千勝は未だ、元服する年齢には達して居ない。されども、これから村岡との大戦(おおいくさ)を控えた今、信夫軍の旗頭として、一段階大人に成って貰(もら)う必要が有った。
千勝の顔色は、明らかに躊躇(ちゅうちょ)して居た。父より賜(たまわ)りし名を、おいそれと変える気には成れなかったのである。そこで政澄は、母御前へと視線を移した。
母御前は、千勝の気持が解らないでもなかったが、政澄の提案が信夫の為、延(ひ)いては千勝の為に成ると考えた。母御前はそっと千勝に告げる。
「叔父上の此度の御申し出は、千勝の成長を認め、一つ大人に成る為の準備です。父上がこの場におわされたならば、必ずや喜んで下さる事でしょう。」
千勝は、意外な顔をして母の言葉に頷(うなず)くと、再び政澄に正対して、頭を下げた。
「謹しんで、御受け致しまする。」
千勝の承諾を聞き、政澄の表情はぱっと晴れやかに成った。
そして紙と筆を用意させ、三文字を書いた。「医王丸」(いおうまる)。これが、千勝の新たな名であった。医王寺を菩提所とする豪族は多く、政澄の重臣の中にも多数居る。彼等の本尊の名称を、本家御曹司に冠した事で、信夫軍には信仰を伴う結束が生まれ、士気も揚(あ)がった。
其の後、住持に「薬師瑠璃光如来」と旗に認(したた)めて貰(もら)い、大将旗に用いる事とした。
椿舘への帰り道、医王丸は叔父政澄と馬を並べた。その後ろには、大将旗が翻(ひるがえ)って居る。前後を固める郎党達は皆逞(たくま)しく、且(か)つ整然として居た。医王丸は、信夫と仙道諸郡の武士団を集めれば、故郷磐城を奪回する事も叶(かな)うと、固く信じて居た。
その後、秋が深まるに連れて、村々では収穫作業が忙しく成って居た。検注のなされた田畑からは、割り当て分の作物が、税として郡衙(ぐんが)へと運ばれて行く。この作業が終れば、愈々(いよいよ)村岡との決戦の秋を迎える。
しかし既(すで)に、都では前哨戦が行われて居た。政澄、重頼の家臣達は都へ赴き、郡司政道亡き後、己の主君が磐城を統治する正当性を、主張し合ったのである。双方共、出来得る限り有力公卿に渡りを付けるべく、進物(しんもつ)の品々を次々と都へ送って居た。
*
やがて収穫作業も終りに近付き、徴収した税を国府へ送る作業に追われて居る頃、信夫郡椿舘に勅使の下向が有った。連日、内裏(だいり)の仗儀(じょうぎ)では、奥州南部の不穏な動きに関し、対応策が話し合われて居た。海道の村岡重頼と仙道の平政澄が総力戦を行えば、一万を超える兵が逢隈(阿武隈)の地において、激突する事に成る。そう成れば、陸奥守にも収拾の付かぬ大乱が勃発してしまう事は、仗儀(じょうぎ)に参列した公卿達にも、容易に予想された。
仗儀(じょうぎ)では、二つの案が出された。一つは、両者の対決は最早不可避であり、このまま傍観を決め込んで、勝者に故政道の権利を譲り、恩を売るという物。そしてもう一つは、両者が妥協し得る位官を与える事に因(よ)り、戦(いくさ)を未然に防ぐという物であった。
陣座(じんのざ)は紛糾(ふんきゅう)し、決戦の秋が迫った今、摂政は最終的な決断を迫られて居た。
この年の一月は三条帝の退位が有り、新たに敦成(あつひら)天皇の践祚(せんそ)が有った。幼帝を輔弼(ほひつ)すべく摂政宣下を受けた藤原道長は、先帝との約束通り、三条院の子敦明親王を東宮に立てるも、後ろ楯の右大臣顕光(あきみつ)は力不足であり、結果道長が権力を一手に握る事と成った。
初秋の七月、道長邸土御門殿(つちみかどどの)が火災に遭(あ)い、諸国からは献上品として再建の資材、人夫等が続々と送られて来て居た。道長はこの機を利用し、奥州の者からは現地の情勢を聞き出し、武士団の棟梁からは、戦(いくさ)に発展した場合の予見を尋ねて居た。
政澄も重頼も、手を尽して土御門殿へ贈物(おくりもの)を届けた。そして愈々(いよいよ)、道長の最終決断を奉ずる勅使が、奥州に派遣されて来たのである。
椿舘に勅使が到着し、暫(しば)し休息した後、愈々(いよいよ)本丸において、公式に勅命を拝する事と成った。政澄、医王丸を先頭に、重臣達が下座に平伏する中、勅使がゆっくりと上座へと進み出て、厳かに勅命を読み上げた。
信夫の者達は、一瞬己の耳を疑った。勅諚(ちょくじょう)に曰(いわ)く、平政澄を信夫郡大領、安倍政季を津軽郡大領、村岡重頼を菊多郡大領、滝尻政之を磐城郡の大領に任ず。又、村岡重頼は磐城郡少領を兼ね、これ等四郡は、前(さきの)大領政道が嫡子医王丸が成人した暁(あかつき)に、悉(ことごと)く返還させる、という物であった。
公式の用が済むと、政澄は家臣に命じ、勅使を賓客の間へと通して、鄭重に持て成した。勅使が去った後、政澄と医王丸が上座へ移り、急遽(きゅうきょ)評定が開かれる事と成った。
政澄は家臣達に問う。
「勅使の口上では、儂(わし)を大領に昇格させる故、他郡へは手出し無用。医王丸殿成人の暁(あかつき)に、兄上の後継として、四郡大領に任ずると仰せであった。もう直ぐ農閑期に入るが、さて、村岡との決戦に臨むべきか否(いな)か。」
仙道の豪族達は、激しく動揺して居た。静謐(せいひつ)を求める意の勅命が下ったと成れば、それに反してまで戦(いくさ)を起す事が、憚(はばか)られたからである。
その雰囲気を察して、最前列に座す松川勝宗が意見を述べる。
「では先ず、某(それがし)の意見を申し上げまする。此度の勅命は、内裏(だいり)の事勿(なか)れ主義、加えて村岡方の朝廷への工作に因(よ)る物と存じまする。磐城平家は宇多郡辺りまで勢力を伸ばして居り申した故、村岡がその旧領を完全に掌握するには、今暫(しば)しの時が必要でござりましょう。その為の時間稼ぎと推察致しまする。」
政澄は、勝宗を見据えて尋ねる。
「では、当方の朝廷工作は、失敗に終ったと申すか?」
「畏(おそ)れながら、磐城は製鉄、窯業(ようぎょう)が発達し、又、此度の戦乱以後に交易網が再建され、諸国の珍品が住吉に集められて居り申した。それ等を村岡が用いて居たとすれば、当方の貢物など歯が立ちませぬ。加えて重頼の背後には、坂東最大の武士団の棟梁、平忠頼が控えて居りまする。忠頼が重頼に加担したとなれば、怖らくは摂政道長公へ、直(じか)に願い出た事も考えられまする。」
勝宗の話を聞き、重臣の一人が意見を発する。
「此度の勅命が摂政の意向であり、且(か)つ村岡の方から攻め寄せて来る怖れが無いのであれば、当方もじっくりと様子を見るが宜しいかと存じまする。二、三年の後には医王丸様も元服されましょう。その時に勅命に従い、穏便に医王丸様を磐城の郡司に。」
「甘いわ!」
述べ終るや否(いな)や、勝宗が怒鳴(どな)った。
「宜しいか。抑々(そもそも)、勅命を以(もっ)て我等の動きを封ずるが、村岡の狙いなのでござる。海道諸郡を平定した村岡が元へ、医王丸様を送り届けて見よ。忽(たちま)ちの内に、先君政道公の二の舞にされてしまうわ。又、村岡が北伐を終えてしまえば、当家の勢力下に在る磐瀬、安積、安達、信夫の四郡が、悉(ことごと)く境を接し、村岡の侵略を受ける危険に晒(さら)され申す。我等は四郡に兵を分散せざるを得なく成り、村岡が主力を率いて霊山(りょうぜん)を越えて来た場合、本城の守りも難しく成り申す。故に我等は村岡の機先を制し、磐城へ派兵するが上策と心得まする。」
勝宗の弁に理が有る事が解っても、豪族の間には、勅命に逆らう事への躊躇(ためら)いが拭(ぬぐ)い切れずに居た。又、海道は村岡の掌中に落ちるも、信夫平家の仙道支配が認められれば、それで良いと考える者も多数在った。
結局、穏健派が多勢を占める中、勝宗の主戦論は通らなかった。今は豪族達の支持を得られぬと感じた政澄は、已(や)むなく静観する方針を採る事に決め、評定は閉幕した。
勅使一行は数日、椿舘にて鄭重に持て成され、満足顔で都へ戻って行った。
村岡重頼、平政澄という二大勢力が勅命に従う旨を表明した為、奥州南部は再び安寧を取り戻す物と思われた。神無月(十月)に入ると、愈々(いよいよ)立冬である。野山は紅葉し、逢隈(阿武隈)山地以西の民は、冬仕度に追われ始める。
大鷲(わし)が勇壮に大空を飛び回る下、一騎の早馬が、信夫の椿舘に駆け込んで来た。俄(にわか)に館内が騒然と成り、本丸の一角に居る医王丸母子にも、何か一大事が出来(しゅったい)した事が察せられた。
その日の晩、医王丸が万珠や姥竹と共に、母御前の間で休息して居ると、突然松川勝宗の来訪が有った。母御前は兄を室内に通すと、姥竹に茶を進ずる様に告げた。
ゆっくりと勝宗が腰を下ろした後、母御前は兄に尋ねた。
「本日は、城内が騒がしかった様に感じられましたが、何か有ったのですか?」
勝宗は入室した時から、重い表情をして居る。
「実は、白河郡東部の豪族浅川権太夫が、勝秋支配下の豪族に調略を掛けて参った。浅川の背後には村岡が居る。その財を以(もっ)て、磐瀬の豪族等を引き入れて居るそうな。」
御前は合点(がてん)が行かぬ様子で、更(さら)に兄に尋ねる。
「確かに磐瀬は、白河へ通ずる要地にござりまする。しかし、遙か南の地に調略が及んだ位で、本城がこれ程大騒ぎに成る物でしょうか?」
勝宗は苦笑して返す。
「其方(そなた)が不安がると思い、伏せて置きたかったのだが、実は調略に応じた者と応じぬ者との間で、所領の境界を巡る諍(いさか)いが起った。両豪族は互いに頼みとする浅川、勝秋双方に援軍を要請したのじゃ。傘下に入った者を見捨てては、最早その地を放棄したも同然。守山、浅川は共に援軍を出し、磐瀬郡内において戦(いくさ)が勃発したと、勝秋が報せて参った。」
「守山の兄上が。それで、政澄殿は如何様(いかよう)に対処される御積りなのでしょうか?」
「浅川方に村岡の兵が加わりし場合、当方より先ず調停の使者を遣(つか)わす事と成る。村岡方がそれを蹴る様であれば、先の朝命を軽視する不届き者として、当家は全力を以(もっ)て、これを討ち平らげる所存じゃ。」
母御前は、尚も不安気な面持ちである。
「ここから安積までは、一日から二日は掛かりましょう。もし村岡が大挙して攻め来(きた)りし時、守山の兄上は如何(いかが)成りましょう。」
勝宗は自信を持って答える。
「勝秋は仙道一の武勇の者。強敵村岡重頼と対峙する今、最前線を任せられるは、彼(あれ)しか居らぬ。」
御前には戦(いくさ)の事は解らず、唯(ただ)兄勝宗の言を信ずる他は無かった。
勝宗は、老女や二人の子を見渡して告げる。
「この先、仙道で戦(いくさ)が有るやも知れませぬ。しかし何が起ろうと、磐城の方の御無事は御約束致しまする故、御心安らかに御過ごし下さりませ。」
磐城平家御親類衆の内、村岡重頼は謀叛を起し、滝尻政之はこれに加担した。三春の黒沢正顕は滝尻軍の支配下に置かれ、豊間の近藤宗昌は、その後如何(どう)成ったか分からない。残るは、上方に在る御前の兄了円を除(のぞ)けば、悉(ことごと)く仙道に在る。信夫郡司政澄と松川勝宗、守山の勝秋、この三人が最後の頼みであった。
医王丸は泰然と、伯父勝宗に向かって告げる。
「村岡は主君を闇討ちにするが如く、卑劣(ひれつ)な手を用いまする。その点を注意され、先ずはそれに与(くみ)する浅川を征伐して下され。さすれば、守山の伯父上も安泰と成りましょう。」
「はっ。仰せの通り、先ずは仙道を騒がす浅川から、懲(こ)らしめる事に致しまする。」
勝宗は医王丸の人物を見て、大いに期待を抱いた。その堂々たる物腰と、的を得た着想は、武士団の棟梁に求められる資質と思えたからである。信夫の政澄には、未だ男子が居ない。将来は医王丸が海仙両道に君臨し、政氏の時代の如き隆盛が、再び齎(もたら)される事を願った。
*
連日、椿舘の評定の議題に、浅川氏への対応が挙げられた。守山勝秋からは頻繁に早馬が発せられ、磐瀬郡内の豪族の動静が不穏にて、再び傾(なだ)れを打って、浅川方に寝返る者が続出し兼ねないと、警告して居た。その理由は、村岡が背後より、豊富な財物を以(もっ)て調略を続けて居る事。加えて、平政澄に派兵の動きが無いのに対し、村岡は白河郡東部に兵を出して居る事等を挙げて居た。
磐瀬郡内には、首邑(しゅゆう)磐瀬の他、惟倉、廣門、山田、白方、餘戸、驛家の計七郷が在る。平政道存命の頃は、七郷全てを守山勝秋が統治して居た。しかし村岡重頼が磐城を制圧すると、盟友浅川権太夫はこれに呼応する様に、勢力拡大の動きを見せ始めた。白河郡東部を抑え、石川郷を拠点に、北方への進出を開始したのである。
先の朝命の為か、信夫の対応は鈍(にぶ)く、勝秋は遂(つ)に磐瀬六郷を失った。その後は、逢隈(阿武隈)川から釈迦堂川が分岐する南岸、磐瀬郷に拠(よ)って、防戦を強(し)いられて居た。
やがて錦色の葉が鮮やかを失い、次々と梢(こずえ)より舞い落ちる季節に移ると、守山からの伝令は全く遣(つか)わされなく成った。おかしいと感じた勝宗は、安積方面へ郎党を派遣し、その情勢を探らせた。そして郎党達が持ち帰った報せは、椿舘を驚愕(きょうがく)せしめた。
守山館は既(すで)に村岡軍に占拠され、磐瀬に出陣して居た守山勝秋は、その行方(ゆくえ)が知れずとの事であった。更(さら)に村岡方は安積郡を抑え、安達郡へ向けて進軍を開始したと、郎党達は青ざめながら報告した。
安達郡三郷は、かつて平政氏が奥州征伐の折、藍沢権太郎広行と雌雄を決した地であり、且(か)つ信夫郡外最後の防衛線である。最早穏健策が通用しなく成った事を悟った政澄は、直ちに信夫全郷の武士に出兵を命じ、安達郡の豪族には、早急に援軍を送る旨を通達した。
軍は三ヶ所にて召集される事と成った。松川勝宗は郡の南端、水原川の北岸で鍬山(くわやま)、小倉、安岐(あき)三郷の武士を纏(まと)め、信夫軍の先陣を務める。郡北方に位置する伊達、静戸(しずりへ)二郷は、その広さ故に兵の集合が一日遅れる為、殿軍(しんがり)を申し渡された。そして郡司平政澄のおわす椿舘には、日理(わたり)、駅家(うまや)、嶺越(みねこし)三郷の武士が続々と詰め掛け、忽(たちま)ち城内は一千の兵で溢(あふ)れた。
その日、医王丸は母や姉、姥(うば)と共に本丸広間へと入り、勝戦祈願の儀式に加わった。医王丸は薬師瑠璃光如来の軍旗を叔父政澄に差し出し、申し上げる。
「村岡重頼は、南部奥州の病巣(びょうそう)にござりまする。薬師如来に代り、斯(か)かる病(やまい)の原(もと)を討ち払われまする様。」
「はっ。謹んで御受け致しまする。必ずや逆臣村岡を誅し、先君の仇討を遂げて御覧に入れまする。」
政澄は恭(うやうや)しく軍旗を受け取ると、振り返って、椿舘に集いし諸将に告げる。
「村岡重頼は主君を殺害し、今又朝命をも無視して、他郡に兵を進めて居る。斯(か)かる非道は如何(いか)なる神仏も許さざる暴挙にて、儂(わし)は薬師如来の眷属(けんぞく)たる十二神将と成り、此度迫り来る病魔を返り討つ。皆、儂(わし)に力を貸してくれい。」
諸将は怒号の如き声を響かせ、政澄への忠誠を誓った。
士気が揚がって居る事に安堵した政澄は、再び医王丸に正体して、一礼した。
「では、これより出陣致しまする。」
「叔父上、村岡の主力たる騎馬部隊には、呉々(くれぐれ)も御用心を。では、御武運を御祈り申し上げまする。」
政澄は一瞬にこりと笑って見せたが、直ぐに表情を引き締め、諸将を率いて本丸を下りて行った。
麓(ふもと)で一千の隊列を整えた信夫本軍は、軍旗をはためかせ、意気軒昂(けんこう)たる様にて、逢隈(阿武隈)東岸を南下して行く。その様子を、医王丸は本丸から見下ろして居た。住吉御所を落ち延びて以来、斯様(かよう)に多くの兵が味方に付いた事は無かった。医王丸は此度こそ、父の仇(あだ)を報じ、磐城奪還が可能に成る物と信じて居た。
政澄の出陣中、椿舘の城代は、重臣の大和田氏が務める事と成った。大和田家はかつて、時の郡司平政氏に取り立てられ、以来信夫郡政を輔佐して来た一族である。それを館の者より聞いた医王丸等は安堵を覚え、時折小倉寺千手観音を詣(もう)でては、信夫方の勝利を祈願した。
信夫郡は広大である。八郷全土の武士を召集すれば、その数は三千に達する。加えて安達郡内の豪族も加われば、五千近くにまで膨(ふく)れ上がる。村岡氏と長い付合いが有り、これに真に忠節を尽す者は、精々(せいぜい)千騎。そう耳にした医王丸は、益々(ますます)信夫軍の勝利を確信する様に成った。
霜月(十一月)とも成ると、土は凍(い)て付き、雪雲が暫々(しばしば)上空を通過する様に成る。吾妻(あづま)の高山は既(すで)に冠雪して居たが、雪の日が続くと、麓(ふもと)の村や草原までもがすっかりと雪に覆(おお)われて、一面の銀世界と化してしまう。
幾度か雪の日も有ったが、信夫軍は一向に引き揚げて来ない。但(ただ)、甲冑(かっちゅう)に雪を乗せたまま、城内に駆け込んで来る伝令の姿は、度々(たびたび)目撃された。そして幾度か、軍需物資を運ぶ輸送隊が、南へ向けて進発して行った。
椿舘内にはその頃、戦況に関して、相反する二つの噂(うわさ)が飛び交って居た。一つは、これだけ帰還が遅れて居るのは、味方が安達郡の戦(いくさ)に勝利を収め、一気に安積郡、延(ひ)いては磐瀬郡の奪回の為に南進を続けて居るという、喜ばしき物。そしてもう一つは、勝戦(かちいくさ)なれば、伝令より報告が有る筈(はず)で、それが無いと云う事は、怖らく安達郡内において苦戦を強(し)いられて居るという、悲観的な物であった。
やがて師走(十二月)が近付いた頃、南部奥州には大寒波が到来し、信夫近郡は猛吹雪に見舞われた。椿館周辺にも半間程雪が積り、逢隈(阿武隈)の大河は凍り付いた。吾妻の嶺々は厚い雪雲に覆(おお)われ、その裾野(すその)すらはっきりと見る事は出来ない。
斯(か)かる折、信夫軍の本隊が漸(ようや)く、館に帰還して来た。皆全身に雪が付着し、雪中行軍の過酷さが窺(うかが)い知れる。そして、軍勢を迎える館の者の誰しもが感じた事は、負傷者の多さであった。大半の者が体に付いた白雪を、紅色に染めて居る。肩を借りて何とか歩む者、板の上に仰向(あおむ)けと成り運ばれる者等、その数は夥(おびただ)しく、多くの者が悲愴感に駆られた。
中館本丸では、医王丸が母達と共に、叔父を迎えに出て居た。程無く、政澄が松川勝宗等重臣達を伴い、坂を上がって来た。
「御帰りなされませ。」
医王丸が元気良く挨拶をするも、政澄は軽く頷(うなず)いただけで、廊下へ上がる階梯(かいてい)に、倒れ込む様に腰を下ろした。
母御前は不安気な面持ちを呈し、義弟政澄に歩み寄る。
「御疲れ様にござりました。」
政澄は、御前を見上げて苦笑する。
「義姉(あね)上や医王丸殿は、大した御方にござる。あの様に強き軍勢に追われつつも、生き延(の)びて来られたとは。」
母御前は、表情を険しくして尋ねる。
「では、よもや負戦(まけいくさ)に?」
疲労も加わり、項垂(うなだ)れる政澄に代わって、傍らの勝宗が答える。
「村岡の騎馬隊は疾(はや)く、味方の備えは次々と撃破され申した。遂(つい)には安達郡よりの撤退を余儀無くされ、郡境の水原川北岸に布陣し、戦力の立直しを計ったのでござる。その後も村岡勢の猛攻に晒(さら)され、危うく潰走の憂(う)き目に遭(あ)わんとした時、俄(にわか)に天候が荒れ始め、猛吹雪が起り、視界が無く成り申した。村岡方は深追いを避けて安達郡へ引き揚げ、我等も元気な者を後備えに残し、負傷兵を伴って帰城した次第にござる。」
勝宗の話を聞き、母御前はそれ以上何も聞かなかった。政澄は重い足取りで、館内へと入って行った。
この戦(いくさ)で信夫軍は兵の多くを失い、更(さら)には安達以南を完全に村岡に奪われてしまった。冬将軍の到来に因(よ)り戦(いくさ)は終ったが、内容は政澄方の完敗である。此度の戦(いくさ)を以(もっ)て、平政氏が逢隈(阿武隈)の地に広げた所領の内、信夫を除(のぞ)く全ての郡が、村岡重頼の支配下に組み込まれた。
怖らく来年は、信夫の存亡を賭けた戦(いくさ)が起るであろう。母御前は、嫁ぎ先だけではなく、生まれ育った故郷さえも、仇敵(きゅうてき)村岡に蹂躙(じゅうりん)される光景が頭に浮かび、胸が痛んだ。
やがて年が明けた。長和六年(1017)の新春を祝う宴(うたげ)が椿舘においても催されたが、参列者の表情は様々であった。大戦(おおいくさ)を前に息巻いて居る者、最後の正月に成るやも知れぬとの想いから、普段に無く陽気に振舞う者。しかし多くの者は、先の戦(いくさ)の苦杯から、悲観的な面持ちであった。
初春の間は、村岡方にも特に動きは無く、信夫は平穏であった。二月十四日には近親者のみが一室に集まり、祖先平将門の命日故、供養を捧(ささ)げた。この頃に成ると春分を迎え、農家は田畑の作業に追われ始める。平将門は農繁期故に農民を徴兵する事を躊躇(ためら)い、僅(わず)かな兵を以(もっ)て藤原秀郷、平貞盛連合軍と戦い、討死した。その話は、坂東の農民達が陰で将門を神と崇(あが)める事に繋(つな)がり、子孫である平政澄も、その事を誇りに思って居た。
しかし、今は危急存亡の時である。もし村岡勢北進の動きが注進された場合、躊躇(ためら)わず農民を徴兵しなければ、平政氏が磐城に再興させた家名は、次の戦(いくさ)で潰(つい)えるであろう。昨年の敗戦以来、大きく戦力を削(そ)がれた政澄は、心からゆとりを失って居た。