第五節 村岡派の専横

 やがて秋風が吹き始めた頃、漸(ようや)く政道が滝尻より、住吉御所へ帰還して来た。住吉の者に取っては、その通達が直前であった為、満足な出迎えも無いままの帰館と成った。

 住吉の重臣達は、政道が気紛(きまぐ)れで事を成すとも思えず、常陸において何か一大事有り、その為の急な御帰還ではと、囁(ささや)き合った。家臣達の間に不安、動揺が渦巻く中、政道は従臣と共に入城し、大館(おおだて)本丸へ入った。従臣は評定の場で、新領主を頂く滝尻周辺の状況を報告すべく、その準備に移る。一方で政道は、一人対屋(たいのや)へと向かい、歩を進めた。

 対屋(たいのや)では、表が何やら騒がしいのは感じられたが、政道帰城の報は未だ入って居なかった。故に、急に政道が姿を現したので、侍女達は皆、驚きの顔で迎えた。

 政道が信夫御前の間へ通ると、そこでは御前が、義母三春御前の話し相手をして居る最中であった。三春御前としては、孫の千勝が愈々(いよいよ)、武士の子としての教育が始められた事を耳に入れたので、当主政道不在の間という事も有り、心配に思って居た。故に信夫御前の元を訪れ、鵜沼昌直と木戸時国に、守役の如き役目を任せた経緯(いきさつ)を尋ねて居たのであった。

 政道は、その場に母の姿も在った事を意外に思ったが、さらりとした顔で二人の前に姿を現し、母三春御前の前に座して、頭を下げる。
「政道、只今戻りましてござりまする。」
つと政道が頭を擡(もた)げた時、その目に映った物は、母と妻の驚いた顔であった。三春御前は窘(たしな)める様に、息子に告げる。
「磐城平家の当主たる身が、通告も無しに館へ戻る等、子供染(じ)みた悪戯(いたずら)は御止めなされ。」
政道は苦笑しながら、後ろ頸(くび)を掻(か)いた。

 三春御前も信夫御前も、漸(ようや)く胸の鼓動が落ち着いた時、政道の体の異変に気が付いた。目の下には隈(くま)が出来、全身が幾分窶(やつ)れた様子であった。更(さら)に奇異な事は、夏を過ごして来たにも拘(かかわ)らず、その肌の白い事である。

 三春御前は、息子の身を案じて尋ねる。
「政道殿、何処(どこ)ぞ身体の具合でも悪いのでは?」
政道は母の心も知らず、笑って答える。
「はい。滝尻巡察で殆(ほとほと)草臥(くたび)れ申した。この後評定を終えましたら、暫(しば)し緩(ゆる)りと致しまする。」
「そうですか。」
三春御前の胸中には、何か不吉な予感が漂(ただよ)って居た。しかし先ずはゆっくりと休ませてやろうという心遣いから、その場を辞して行った。

 母が去った後、政道はその場に横に成った。そして暫(しば)し沈黙した後、傍らに控える信夫御前に声を掛ける。
「留守中、何か変りは無かったか?」
御前は夫政道を見詰め、真顔で答える。
「実は、大村信澄殿より文が届きました。」
それを聞いた政道の眉(まゆ)が、一瞬動いた。
「して、何と言って参った?」
「はい。住吉待機中の鵜沼昌直殿と木戸時国殿に、千勝の武芸を指南させては如何(いかが)かと。」
政道は大声を上げて笑った。
「あの爺(じじい)(め)、横着をして、人に任せ居ったか。」
御前は悲し気な面持ちで、夫に意見を述べる。
「私は、大村殿こそ真の忠臣と存じまする。鵜沼殿、木戸殿に腕を振う機会を与えられ、二人は昨今、千勝の為に色々と心を尽してくれる様に成りました。それに因り、村岡殿の一派から煙たがられる事も厭(いと)わずに。大村殿は陰より、殿の御味方を集めて御出でです。」
政道は剥(むく)れた顔をして、吐き捨てる様に言い放った。
「陰よりとは、何時(いつ)でも逃げ出せる処へ、身を置いて居るという事じゃ。実に卑怯(ひきょう)な奴よ。」
「殿。」
御前は信澄を弁護し様としたが、政道は聞く耳を持たず、立ち上がった。
「評定へ行って参る。」
そう告げると、政道は尚も不興な面持ちで、政庁へと渡って行った。

 間も無く、政庁広間で開かれた評定において、政道の滝尻巡察に随行した家臣は、当方面に住する農民の暮しが、平穏である事を報告した。滝尻御所の南を流れる釜戸川は、滝尻城の堀として、又海上交易を行う船舶の停泊地として、長年に渡り整備されて来た。それは水害を防ぎ、且(か)つ交易に因(よ)る富を齎(もたら)すという、二つの役割を果す。先代政氏が滝尻に入部してから五十年。漸(ようや)く実を結んだ事業であった。

 抑々(そもそも)、政氏より滝尻の開発を任されて来たのは、橘清輔であった。今、滝尻御所内の金蔵が豊かなのも、久しく善政を施して来た、清輔の手腕に因(よ)る物である。しかし、政道はその功績を、昨今滝尻城主に復帰したばかりの、叔父政之の物とした。滝尻御所内で夏の間、政道の遊び相手を務め続けた政之を、政道は数少ない、信頼し得る者と思い込んで居たのである。それが為に、長年に渡る清輔の功を、政之に与えるという愚行を犯した。

 執政村岡重頼以下の主たる臣は、政道の滝尻における調査を、すんなりと受け容(い)れた。そして重頼は、一つの提案を政道に示した。
「殿御(おん)自ら、斯様(かよう)に詳細な調査を成され、家臣一同、殆(ほとほと)感服仕(つかまつ)る次第にござりまする。就(つ)きましては、殿が賞されし滝尻政之殿に、恩賞として、所領を賜(たまわ)られては如何(いかが)にござりましょう?」
その言葉は、実に政道の望む所であり、重頼の側から申し出てくれた事で、大分気が楽に成った。政道は嬉し顔で答える。
「其(そ)は良き考えじゃ。功有る者を酬(むく)いれば、他の家臣にも励みと成ろう。して、何処(いずこ)の土地を与えれば良い物か?」
主君の問いに対して意見を具申したのは、重頼の後ろに控えて居た若者であった。
「畏(おそ)れながら申し上げまする。蒲津郷内には、大村信澄殿が大老就任の折、主家より賜(たまわ)りし三十町歩程の田畑がござり申す。信澄殿は先頃大老職を辞された身故、新たに功の有った滝尻様に、彼(か)の地を与えられては如何(いかが)にござりましょう?」
若者の言が終るや否(いな)や、滝尻以来の旧臣達が、挙(こぞ)って反対を示した。この者達は、大村信澄と志を同じくする、反村岡の一派である。その長老格の者が、若者を叱咤(しった)する様に言い放った。
「彼(か)の地は先君政氏公の入部以来、大村家の者が自ら鍬(くわ)を振って、長い年月を経て開墾した土地じゃ。余所(よそ)の者が軽々しく、受け取れる物ではない。磐城平家入部時代の辛苦を知らぬ者が、出しゃばるでないわ。」
若者もその言葉には怒りを顕(あらわ)にし、顔を紅潮させながら立ち上がって、老将を見据える。それを受けて村岡派、反村岡派の者が一斉に立ち上がり、若者、もしくは老将の側に集まって、相手方を睨(にら)み付ける。政庁は一触即発の、緊迫した事態と成った。

 咄嗟(とっさ)に、政道は声を上げた。
「止めい。」
それを受けて、鵜沼昌直と木戸時国が両陣営の間に割って入り、双方を宥(なだ)める。

 一人、又一人と座り始め、最後に老将と若者が剥(むく)れながらも座した事で、広間は漸(ようや)く鎮静化した。冷汗を拭(ぬぐ)いながら、席に戻ろうとする時国を呼び止めた政道は、手招きして近くへ呼び、小声で尋ねる。
「あの若者と老人は、何者か?」
時国も小声で答える。
「若者の方は、菊多郡山田郷の豪族、山田蔵人殿の御嫡男、五郎定能(さだよし)殿にござりまする。山田家は現在、村岡家の執事を務めて居る由(よし)にござりまする。」
「ほう。して老人の方は?」
(にわか)に、時国の言葉がたどたどしく成った。
「老人の方は、江藤玄貞様が家臣にて、楢葉郷の豪族、木戸繁国と申しまする。畏(おそ)れながら、某(それがし)の祖父にござりまする。」
定能は父蔵人の命を受け、繁国も又主君玄貞の命を受け、珍しく住吉に居合せたのであった。政道が顔を覚えて居らぬのは、その為である。
「中々矍鑠(かくしゃく)とした爺様(じいさま)じゃのう。」
政道が笑いながら告げると、時国は恥ずかし気に一礼し、己の席へと戻って行った。

 皆が各自の席に戻った後、政道は断を下した。
「確かに定能の申すが如く、功臣に充分なる酬(むく)いを与えれば、他の臣に奮起を促(うなが)す事が出来よう。さりとて繁国が申す通り、さして落度の無い者より所領を召し上げ、その地を恩賞として与えるという行為も、徒(いたずら)に家中の和を乱す原(もと)と成る。これ等を考慮した上で、儂(わし)は政之叔父上を、蒲津郷長に任官させ様と思う。」
郷長はその名の通り、一郷の政(まつりごと)の長(おさ)である。滝尻政之の今の滝尻城主という地位は、磐城平家の内のみで通用する物でしかないが、郷長とも成れば、公(おおやけ)の官職である。又、大村家の所領を含め、蒲津郷内の土地は悉(ことごと)く、郷長政之の管轄下に置かれる事と成る。

 この法は確かに、定能、繁国両者の意見に違(たが)えぬ物であり、家中は一様に賛同の意を示した。政道の真意は、大村信澄に代わって、叔父政之を磐城家中の要職に就(つ)け、目下独走の勢いの有る村岡重頼への、対抗勢力に台頭させ様とする物であった。義兄村岡、叔父滝尻の一門衆が、二大勢力として拮抗(きっこう)すれば、政道の当主としての威光も高まる。又、南方が両家に因(よ)って固められれば、北方住吉の地も安泰に成るという着想であった。

 斯(か)くして滝尻の件は纏(まと)まったが、引き続き村岡重頼が、新たな意見を具申して来た。
「畏(おそ)れながら、殿が常陸介の重責を果されて居られる間、某(それがし)は殿に代わって、磐城の政(まつりごと)を御預かり致して居りまする。されど、ここ大館本丸政庁の上座は、殿のみが座る事能(あた)う席にて、某(それがし)は些(いささ)かやり難う存じまする。願わくば、本庁を臨時に小館(こだて)へ遷(うつ)し、殿に置かれましては、磐城郡政に関して煩(わずら)う事の無き様に、致しとう存じまするが。」
重頼の申し出に、反村岡派の者は瞬時に顔色を変えた。愈々(いよいよ)本郡のみ成らず、磐城の勢力下に在る逢隈(阿武隈)地方と津軽、併せて十郡の実質支配権を、政道より引き離そうと、目論(もくろ)み始めたと感じたからである。

 しかし当の政道は、勢力圏内十郡より度々送られて来る書状に、逐一(ちくいち)目を通す煩雑(はんざつ)さから、完全に逃れられると喜び、即時快諾(かいだく)した。磐城平家の忠臣は皆、政道が村岡重頼の傀儡(かいらい)と成る事を案じた。されどもよくよく考えれば、政道の常陸介退任後は、従来通りに戻る訳であるし、村岡方に悪(あ)しき動きが起ろうとも、政道には磐城四家が付いて居る。今は、徒(いたずら)に騒ぎ立てる時ではないと判断した。

 評定を終えた後、村岡家の者は速やかに、政庁を東の小館に移転し始めた。反村岡派の者は、その様子を苦々しい想いで見ながら、城下の屋敷へと引き揚げて居った。

 その頃、千勝は苔野の学問を終え、昌直と時国の武芸の稽古を待ち焦(こ)がれて居た。この頃の千勝は、以前の様に、姉の万珠とは余り遊ばなく成って居た。万珠は姫としての躾(しつけ)が一層厳しく成り、武士の教育を施されて居る千勝とは、共通して楽しめる物が無く成って居たのである。

 独りぽつんと縁側に腰を下ろす千勝の耳に、やがて政庁より渡って来る、荒々しい足音が聞こえて来た。千勝は二人が漸(ようや)く現れた事を察知し、対屋(たいのや)の入口まで迎えに出た。

 ふと千勝は、人影が三人である事に気が付いた。よく見れば、先頭を歩いて居るのは、父政道である。
「父上。」
千勝は声を上げて駆け寄った。政道は千勝の肩を叩き、笑顔で告げる。
「暫(しばら)く見ぬ間に、大分逞(たくま)しゅう成ったのう。それでこそ磐城武士の子じゃ。昌直と時国は、もう暫(しば)し其方(そなた)に貸して遣(や)ろう。」
そう言い残して、政道は対屋(たいのや)の奥へと去って行った。千勝は父に褒められ、心底嬉しかった。そして、もっと腕を上げてやろうと思い、二人の武芸の師を急(せ)かそうと見上げる。しかし、両将の表情は暗かった。政道が常陸介の任を果さず、何時(いつ)まで磐城に留まるか知れなかった事が、二人を不安に駆りたてて居たのである。

 その後、年内に政道が、常陸国府へ戻る事は無かった。村岡重頼が住吉の政庁を、政道の居る大館本丸より、東隣の小館へ移した為、誰に気兼ねする事無く、遊んで過ごしたのである。

 日々、文武の修業に追われる千勝に取って、その目標とする所は、かつて磐城判官であった頃、奥州の武者を束(たば)ね、坂東の勢力に睨(にら)みの利く、威厳の有る父であった。しかし常陸より帰国して以降、父の生活振りは次第に荒(すさ)んで来た様に思われた。

 千勝はこの事を心配し、母や祖母にも相談して見た。
「御父上は今まで激務に追われ、御疲れなのです。今暫(しばら)く、休ませて差し上げましょう。」
二人共、この様に千勝を諭(さと)すのみで、特に行動を起す様子も無い。千勝は小さな身体の内に憤懣(ふんまん)を抱きつつも、母や祖母を信じ、己の修業に励んだ。

 やがて年が明けた。長和四年(1015)、この年は近隣諸国の人事に動きが有った。陸奥守平忠頼と上野介平維叙(これのぶ)が任期を満了し、退任する事と成ったのである。

 一方都においては、内覧左大臣藤原道長と帝(みかど)の確執が深まって居た。権力を左大臣家に集中させ様とする道長に対し、帝は既(すで)に四十近く、道長の言い成りと成るのを嫌った故である。昨年、内裏(だいり)の登花殿(とうかでん)より出火し、内裏の殆(ほとん)どが焼け落ちるという火災が有った。加えて帝は視力が衰え、以上を理由に道長は、帝に譲位を勧めた。しかし帝は新築の内裏に入り、皇位を譲らぬ構えを見せて居た。

 住吉御所内で最も話題と成った人事は、やはり陸奥守忠頼の退任で有った。間も無く陸奥にも遅い春が訪れ、街道を埋める雪が融(と)ければ、愈々(いよいよ)都より新任国司の下向が有り、忠頼は本領武蔵へ引き揚げる事と成る。さすれば、後ろ楯を失った村岡重頼に対し、反村岡派の者が捲(まき)返しを図って来る事が予想された。

 所がこの初春、新年祝賀の熱(ほとぼり)も冷め遣(や)らぬ頃、都より住吉御所へ、勅使が派遣されて来た。この時、政庁広間において勅使が磐城政道に命じた事は、常陸介の解任であった。

 これを受けて広間が騒然と為る中、鵜沼昌直が勅使に対し、その理由を尋ねた。国司の任期は四年であり、政道は就任してから、未だ三年しか経て居ない。勅使の言に依れば、此度の常陸介の職は、平忠常が争乱を起した為、頻繁に二度も交代が行われた。仍(よっ)て、寛弘八年(1011)に藤原通経が就任した時を以(もっ)て、今期の始めとしたと、勅使は回答した。

 しかし、余りに急な話である。木戸時国が引継ぎ等の為に、もう暫(しば)しの猶予を懇願すると、勅使は不興な顔と成って、申し渡した。
「常陸大掾(だいじょう)殿より度々、介の職務に対する怠慢の苦情が、都へ寄せられて居る。此度の任期満了は、以前に常総地方の和平に貢献が有った事に因(よ)る、御上の御厚情なるぞ。処罰されぬだけでも、有難く思う様に。」
それを言われては、磐城平家の者は只、神妙に従う他は無かった。政道が呆然と平伏する脇で、村岡重頼は不気味に沈黙して居た。

 やがて勅使の帰洛と入れ替る様に、陸奥国府より使者が遣(つか)わされて来た。使者は政道の後任として、陸奥大掾(だいじょう)を忠頼より拝命した、国府近くの豪族である。

 大掾は国守忠頼の名を以(もっ)て、磐城平家一同に告げる。
「前(さきの)常陸介平政道殿は、近年その評判宜しからず。そして遂には、朝廷より常陸介を解任されし事、至極(しごく)残念なり。国守として、国内四郡を預かる者が斯(か)かる仕儀では、甚(はなは)だ不安を覚える。故に、長年磐城家中に功績の有る村岡氏を以(もっ)て、郡司政道殿の後見役に補して貰(もら)えれば、陸奥も磐城平家も安泰なる物と心得る次第なり。」
国守の言は飽(あ)く迄(まで)忠告に止まり、磐城家中への干渉には至って居ない。しかし、磐城家中の実権を、粗(ほぼ)掌握した村岡重頼にして見れば、この忠告だけで充分であった。

 重頼は義父忠頼の使者を犒(ねぎら)うべく、別間へと案内する際、ぼそりと使者に告げた。
「これにて奥州南部は、義父(ちち)上の物でござる。」
そして二人は微笑を湛(たた)え、静かに迎賓(げいひん)の間へと入って行った。

 村岡派の者は悉(ことごと)く、重頼に付いて去って行った。本丸政庁に、政道と共に残った者は、僅(わず)か八名であった。鵜沼昌直、木戸時国と繁国に加え、望月国茂、大野為重、広野輔宗、船越高相(たかまさ)、玉村尭冬(たかふゆ)が、最後まで村岡に屈しない、剛の者であった。彼等の殆(ほとん)どが、片依(かたよせ)郷以北の豪族である。ここ住吉御所の建つ丸部(わにべ)郷以南の豪族は、粗方(あらかた)村岡方に靡(なび)いてしまった事を、漸(ようや)く政道は悟った。

 使者の帰府後、村岡方が陸奥守の威光を以(もっ)て、政道の権力を掠(りゃく)しに来る事は明白であった。仍(よっ)て、政道方は僅(わず)かな時の内に、何かしらの手を打たねば成らなかった。

 窮地に追い込まれた政道が、頼みの綱として真っ先に思い浮かんだのは、滝尻の叔父政之であった。政道は、残った家臣達に諮(はか)る。
「事ここに至りし上は、最早地方を固める家臣の、協力を得なければ成るまい。そこで儂は、一門衆の筆頭たる政之叔父上に、村岡との仲立(なかだち)を頼もうと思う。」
それに対しては、八人の臣が悉(ことごと)く反対した。特に鵜沼昌直が、先頭に立って申し上げる。
「確かに滝尻様は、殿の叔父君の中では最年長にて、一門衆の筆頭とも申せましょう。されど、滝尻様は外戚。殿の姉君を正室とされる重頼殿に、必ずしも優位に立てるとは思えませぬ。況(ま)して、此度は御家の一大事。滝尻様は久しく、幽閉暮しをなされて来られた故、他により強い人脈を持つ御方を、起用なされた方が宜しいかと。」
他の七人は一様に頷(うなず)いた。そして最長老の繁国は、困り顔で呟(つぶや)く。
「かと申して、誰が良いかと考えても、御舎弟政澄様、義弟の松川殿は、遠く信夫(しのぶ)の地におわされる。他の一門衆を見ても、叔父君黒沢様、義弟守山殿も安積(あさか)郡に在り、次の評定までの到着は、到底間に合い申さず。後は磐城四家にござるが、江藤様は宇多郡辺りまで北進しておわされ、これ又間に合わぬ。」
望月国茂も、相槌(あいづち)を打って言葉を接ぐ。
「佐藤様、斎藤様の両将は、御(おん)自ら矢田川、大根川(新川)の治水普請に当たられ、殆(ほとん)どを館外にて過ごされて居られる由(よし)。急な御召(おめし)に間に合うか如何(どう)か。又、近藤様も水軍の調練等、頻繁に沖へ出ておわしまする。」
国茂の言葉に、他の者は沈黙した。

 暫(しば)しの静寂が続いた後、漸(ようや)く言葉を発したのは、木戸時国であった。
「いっその事、本城を長友館へ遷(うつ)されては?彼(か)の地なれば、四方を四家が固めて居りまする故、村岡殿も野心の起し様がござりませぬ。」
孫の軽率な着想に、祖父繁国が一喝した。
「愚か者。斯様(かよう)な事を致さば、村岡家は当家より磐城郡南部を切り離し、独立した勢力と成ってしまうわ。然(しか)る後にいざこざが起れば、国守忠頼様が介入に及び、我等は南北より挟み討ちじゃ。」
(らち)の明かぬ家臣の論議に、政道は遂に業(ごう)を煮やして決断を下した。
「もう良い。やはり滝尻の叔父上に頼む事と致す。四家にも一応、通達はして置く様に。他に方法は有るまい。」
「はっ。」
八人の臣が承服の意を示すと、政道は疲れた面持ちで、自室へと戻って行った。

 翌日、村岡重頼は陸奥国府の臨席を許可した上で、早くも評定の中で、後見人の件を発議して来た。重頼は権力への野心を、遂に顕(あらわ)にし始めたのである。

 政道に取って幸いであったのは、滝尻の叔父が昨日の内に駆け付けてくれて、評定に間に合った事である。政道も四十歳で後見人を付けられ、村岡平家の下に納まる気は毛頭無い。寧(むし)ろ滝尻氏の協力を得て、此度の評定を物別れに持って行き、再び磐城平家当主の威厳を示す心構えであった。そして家臣団を、今の村岡氏に因(よ)る専制の状態から、滝尻政之との二頭体制へ移行させる心積りである。

 やがて陸奥大掾(だいじょう)臨席の下、評定が大館本丸において開かれた。第一の議題は当然、磐城平家後見人設置の可否である。

 村岡家執事であり、菊多郡山田郷長を務める山田蔵人が、先ず発議を行った。事由は昨日大掾が述べた通り、当主政道の職務怠慢が、遂には常陸介解任に処される程、度の過ぎた物であった事。そして、陸奥国守の希望でもある事を添えた。

 これに対して、昨夜滝尻より急行して来た政之が、当主を弁護する。
「確かに、近頃の政道殿の所行を御聞きになれば、陸奥守様が心配遊ばされるのも無理はござらぬ。されど、政道殿も既(すで)に四十。今さら後見人を付ける年でもなし。又、政道殿は家督相続以来この十五年、先の常総の擾乱(じょうらん)後を巧みに処理される等、非凡なる功績を挙げて居り、磐城郡内も平穏に治まってござる。仍(よっ)て某(それがし)は、政道殿に後見人を付ける必要無しと存じまする。」
政道は、己を庇(かば)う叔父の姿を、頼もしく見詰めて居た。

 政之の言に対し、村岡方は重頼の弟、大郎が反論して来た。
「滝尻御所の御考えにも一理ござりまするが、その御言葉には論拠が見当たらぬ様に存じまする。先ず、政道様の御歳を考えまするに、確かに後見人を置く例は、余り耳に致しませぬ。されど国守の解任とは、永延二年(988)の藤原元命(もとなが)殿等、朝廷が見るに見兼ねた上で、漸(ようや)く発令される大事でござる。此度、政道様がそれに該当なされた事は、真に忌々(ゆゆ)しき事であり、なればこそ、国府から大掾様も御見えになっておわされ申す。目下、当家は朝廷、国府双方より、疑念の眼指を向けられたる身なれば、後見人を置いて、対策を講ずる姿勢を見せる事が、不可欠と存じまする。」
大郎が発言を終えて着座すると、その後は村岡派の近隣豪族より、政道の失政が相次いで報告された。その主たる物は、玉川流域水害後の救災策の遅滞や、郡内主要道の未整備である。先代政氏の時代、これ等の事業は優先して行われ、それが郡内に住む民の心を掴(つか)んだ、大きな要因であった。

 確かに政道は、先代政氏と比べ、郡民に対する配慮が欠けて居た。しかしそれでも、他国の領主よりは善政に努めて居たのだが、政氏の時代を知る多くの者から見れば、政道は主君として頼むに、劣って感じられたのである。一方の村岡重頼は、先代忠重に倣(なら)い、領内開発と尚武を第一義とする、家祖良文以来の精神を、今尚保持して居た。それが今日(こんにち)、村岡派が勢力を大いに伸ばした主因と言えた。

 広間に詰める重臣の大半が、後見人の設置を望み、評定は愈々(いよいよ)、採決を求める雰囲気に成って来た。政道は劣勢に立たされた不安から、頻(しき)りに政之へ目を遣(や)る。政之は微(かす)かに頷(うなず)いた素振りを見せると、一息吸った後、立ち上がって周囲に目を向けながら、大きな声で語り始めた。
「方々の言い分は、良う解り申した。この場におわす殆(ほとん)どが、後見人を置く事に賛成の様子。御異存は有りませぬかな?」
「異議無し。」
政之の言を受け、大多数の村岡派は、怒濤の如く響いた声を上げて、同意を唱えた。少数派の声は掻(か)き消され、届かない。政道は叔父の意外な発言に、言葉を失った。

 政之は諸臣を静めた後、言葉を接ぐ。
「大方が、後見人の設置を望まれて居る由(よし)。では、何方(どなた)が政道殿の後見人として、相応(ふさわ)しい人物と思われるか?」
「大村信澄殿。」
間髪を容(い)れずに声を上げたのは、老臣木戸繁国であった。これに触発され、村岡派に属さぬ他の七名が、次々と賛意を示す。

 しかし、この勢いに水を注(さ)したのは、当主の政道であった。
「儂(わし)は、信澄よりも政之叔父上に頼みたい。」
突然の言葉に、信澄支持側は声を失った。その隙(すき)を衝(つ)いて、山田蔵人が声を掛ける。
「滝尻御所、殿は貴殿を御推挙の由(よし)。御引き受け下されるか?」
そう告げながら、不気味な笑みを浮かべる。政之は狼狽(ろうばい)の色を隠せず、しどろもどろ答えた。
「いや、某(それがし)は久しく政(まつりごと)より遠ざかって居た身故、斯(か)かる大任は御受けする自信がござらぬ。」
政之は蔵人より目を逸(そ)らし、静かに腰を下ろした。

 評定を主導して居た政之が沈黙し、今度は山田蔵人が主と成り、話を進め始めた。
「大村殿を御推挙する声が有り申したが、此(こ)は殿の御意向に添わぬ物でござった。又、殿は滝尻御所を推挙なされ申したが、当の御本人が、辞退の意思を示された。ここはやはり、磐城平家執政村岡重頼様を措(お)いて、後見人の重責を果せる御方はおわされぬと存ずるが、皆様方の御意見や如何(いか)に?」
一度、多数派の村岡方に主導権を握られてしまっては、最早その勢いを止める事は能(あた)わず。評定の間に詰める者の殆(ほとん)どが、少数派の意見を掻(か)き消す轟音の如き声を上げ、村岡重頼を推した。

 やがてその声を鎮めたのは、臨席して居た陸奥大掾であった。大掾は重頼の前へ歩み出で、見下ろしながら尋ねる。
「御家中の大半が、貴殿を信頼して居る様じゃ。如何(いかが)される?」
重頼は座した儘、畏まって答える。
「はっ。某(それがし)は未熟者なれど、家中が信任して下されるのを聞きし今、厳粛にこれを受け止め、持てる力の限りを尽して、この大任に当たりたく存じまする。只、殿の御同意を得られた上にござりまする。」
「うむ。殊勝な心掛けじゃ。」
大掾は顔を綻(ほころ)ばせて頷(うなず)いた後、再び真顔と成って振り返り、政道を見詰めて尋ねる。
「如何(いかが)かな、政道殿?御家中は村岡殿を信任され、村岡殿も腹を決められた様じゃが。」
この時政道は、滝尻政之を台頭させ、村岡重頼を牽制させるという構想に向けて、焦(あせ)り過ぎた事を後悔して居た。今に成って思えば、長年村岡氏と拮抗して来た大村信澄を登用し、段階を踏むべきであったと思えた。

 しかし事ここに至っては、最早村岡派の勢いに抗(あらが)う術(すべ)は無かった。政道は大掾に対し、村岡重頼を後見人として置く旨を伝え、大掾立会の下、正式に文書が作成された。

 政道が将(まさ)に押印し様としたその時、広間に三人の男が姿を現した。磐城四家の内、豊間の近藤宗昌、三沢の佐藤純明、高坂の斎藤邦秀であった。三名は主家の一大事を聞き付け、村岡氏に対抗すべく、時を示し合わせて、同時に到着したのであった。

 緊密な連携は、僅(わず)かに時を失する原(もと)と成った。主君政道は既(すで)に、村岡重頼を後見人に補する旨を決めてしまって居た。三人は僅(わず)かな差で間に合わなかった事を悔やんだが、近藤宗昌がふと、政道の手元に在る文書に、日付、署名、押印が未だ成されて居ない事に気付いた。

 三人は主君政道と、傍らに座す陸奥大掾に座礼を執り、その際、文面の拝読を願い出た。政道より文書を渡されると、三人は順番にそれに目を通した。やがて最後に斎藤邦秀が読み終え、政道に返す時に、広間中に聞こえる声で告げた。
「此(こ)は記載に不足がござりまするな。後見人設置の期限が書かれて居らぬ。」
佐藤純明もそれに相槌(あいづち)を打つ。
「おお、邦秀殿もやはり然様(さよう)に思われたか。確かにこれでは、村岡殿が磐城平家を乗っ取った等と、要らぬ噂(うわさ)が立ち兼ねぬ。それを防ぐ為にも、期限は定めて置かねば。」
二人の言を受けて、近藤宗昌が文書を指差して告げる。
「おお、幸い殿の御署名は未だじゃ。議論の余地は有りそうでござるのう。」
三人の声に、村岡派の臣は騒(ざわ)つき始めた。政道は筆を置き、事の成行きを見守る。

 三将の到着に、反村岡派は勇気付けられた。三家は磐城郡内に人望を得て居り、いざと成れば、村岡氏より先に住吉へ兵を送れる、地の利が有る。これにて、村岡派が強引に評定を主導する事は、難しく成った。

 沈黙して居た反村岡派の中から、木戸繁国が声を上げた。
「御三方には遠路遥々(はるばる)、善(よ)くぞ御越し下され申した。そして、良い所に御気付き下された。確かに此度の件、期限付きと致すは、至極(しごく)当然の事と存ずる。先ずはその点を御指摘下された御三方に、適切と思(おぼ)される期間を、伺(うかが)いたく存じまする。」
老将繁国は、かつて平政氏が江藤家先代、玄篤を楢葉に配置して以来、土豪の中でも特に、江藤氏を支えて来た人物である。今では江藤玄貞の片腕とも言える存在であり、その繁国が村岡側と対立して居る事に、三将は大いに危機感を抱いた。

 三家は皆、村岡重頼と争う事を望んでは居なかった。先代政氏がその勢力を、逢隈(阿武隈)一円に拡大して居た頃、磐城平家の副大将を村岡家が務め、磐城四家は主力と成って、今の大勢力を築くに至ったのである。それは、磐城平家、村岡家、四家の間に、信頼の他にも、適切な力の均衡が保たれて居た事に因(よ)る。

 しかし今、磐城平家は村岡家にその力を奪われ、四家も又磐城家臣で在りながら、村岡家の指揮下に置かれるという、歪(ゆが)んだ構造が築かれ様として居る。三将は暫(しば)し熟慮した。

 その間、事が重大であるだけに、村岡派の者も口を挟む事が出来ない。広間は俄(にわか)に静まり返って行った。やがてその沈黙を打ち破ったのは、三将の中で最年長の、佐藤純明であった。
「一年と半、来年の端午の節会(せちえ)まででは如何(いかが)にござろう?」
純明の言を受けて、村岡家執事山田蔵人が尋ねる。
「はて、何故一年半にも満たぬ、僅(わず)かな期間を御示しになられたのか?」
純明は蔵人を睨(にら)み据えながらも、穏やかな口調で語り始めた。
「此度の後見人設置の件、住吉の御家中並びに陸奥大掾様の御前にて、殿が決せられし事故、決議には確(しか)と従い申そう。されども、後見人の事は当家の一大事。それを我等四家に諮(はか)らず決されるとは、無礼千万。一応大掾様御臨席の上で決定されし事故、一年以内では、国守様を軽んずる様に捉(とら)われ兼ねぬ。仍(よっ)て、責めて端陽までとしたのでござる。」
純明は従容(しょうよう)として居たが、幾分年下の斎藤邦秀は、怒りを顕(あらわ)にして述べる。
「純明殿の仰(おお)せ、真に道理じゃ。それに比べ山田蔵人、御主は村岡家執事の立場を良い事に、我等四家を差し置いて、後見人を勝手に決め様と目論(もくろ)んだ。重頼殿を立てると見せ掛け、己(おの)が手に何(どれ)程の権力を手に入れ様と企(たくら)んだか?この不忠者奴(め)が!」
邦秀の言葉に、蔵人は顔を真っ赤にして立ち上がった。
「幾(いく)ら斎藤様とて、御言葉が過ぎましょう。」
蔵人は怒りを抑え様としつつも、邦秀を睨(にら)み返した。邦秀は尚も蔵人を詰(なじ)る。
「こそこそと陰謀を企(くわだ)てて居た事が露顕し、慌てて居るわ。」
これには蔵人も、堪忍袋の緒(お)が切れた。表情を失い、邦秀に向かって歩み始めた時、咄嗟(とっさ)に傍らの息子、定能(さだよし)が止めに入った。邦秀も蔵人が向かって来たのを見て、自らも歩を進める。しかし直ぐに、隣に居た近藤宗昌に抑えられた。

 評定の間が険悪な空気に包まれて行くのを感じた重頼は、蔵人と邦秀、両者に向かって一喝した。
「控えよ。大掾様の御前成るぞ!」
それを機に、双方共渋々と引き下がり、元居た処へ腰を下ろした。邦秀はそっと政道の方へ目を遣(や)ったが、主君は今の諍(いさか)いに、関心が無い様子である。政道に止めて貰(もら)う事を期待して居た邦秀は、その覇気の無さを残念に思った。

 漸(ようや)く騒ぎが収まった所で、再び木戸繁国が評定を主導し、佐藤純明の示した期限に就(つ)いて、諸臣の意見を問うた。村岡派の豪族達も、地方に隠然たる勢力を持ち、又名君と謳(うた)われた先代政氏より、直(じか)に育て上げられた三将の顔触れを前に、積極的に発言する者は居なかった。
「では、期限を来年の端陽と定めて、宜しゅうござりまするな?」
繁国の念押しにも、答える者は居ない。下手(へた)に反論すれば、先程斎藤邦秀が山田蔵人を詰(なじ)った如く、不忠の者と見做(みな)される怖れが有ったからである。

 静まり続ける諸臣を再度見渡した後、繁国は政道の前へ歩み出て、平伏した。
「皆、異存無しとの事にござりまする。」
政道は黙って頷(うなず)くと、文末に期限を明年の端陽、即(すなわ)ち五月五日までと記し、日付、署名、押印を加えて、漸(ようや)く文書は完成に近付いた。この文書は三部作成され、後見役を務める村岡重頼、国府大掾も署名押印の後、各々に一部ずつ配布され、この重大事項は決着を見た。

 村岡方からすれば、期限を僅(わず)か一年余に定められた事は不満であったが、今磐城四家を悉(ことごと)く敵に回す不利を考えると、妥協せざるを得ない所であると判断した。

 期限と成る端午の節会(せちえ)は、禍(わざわい)を祓(はら)う為に菖蒲(しょうぶ)を飾る日である。菖蒲は尚武と同音である。佐藤純明は磐城政道に、この一年余の間に武徳を備えて貰(もら)い、村岡専横の隙(すき)を無くする事で、磐城平家分裂の禍(わざわい)を、取り除(のぞ)く日としたかったのであった。

 評定が終った後、三家は村岡重頼に声を掛け、別室に移って、四人だけで話をした。三家は、かつて磐城平家勃興の時代に、副将たる村岡家と重臣の四家、其々(それぞれ)が良く連携して主家を輔(たす)けた事に因(よ)り、今の繁栄を築くに至った事を諭(さと)した。重頼は神妙にその話を拝聴し、己に二心無き事を三将に誓った。三将は大村信澄より、幾度と無く村岡家の野心を聞かされ、危惧(きぐ)する所が有った。されど本日、膝(ひざ)を交えて話をして見た所、重頼の態度からは、主家を蔑(ないがし)ろにする傲慢(ごうまん)さは窺(うかが)えなかった。三家は安堵し、幾(いく)つか世間話をしして和(なご)んだ後、己(おの)が所領へと引き揚げて行った。

 斯(か)くして村岡重頼は、想定よりも短い期間とは成った物の、住吉評定衆、滝尻御所政之に加えて、磐城四家の承認を得た上で、磐城政道の後見人に就(つ)く事と成った。これは即(すなわ)ち、主君政道の意向を無視して、重頼が磐城平家当主の権限を行使出来るという事であった。

第四節←  →第六節

第三章(上) 目次

海道伝説 トップ

トップ


/