第三節 常陸介政道

 この年、東国において、常陸平家と村岡平家の全面衝突が懸念された物の、平政道と源頼信の活躍に因(よ)り、下総国香取郡で小さな小競(ぜ)り合いが生じたに留まった。伊治(これはる)城において、両家の当主である維茂(これしげ)と忠頼が和睦した以上、当然坂東の維幹(これもと)、忠常の間の諍(いさか)いも終息した。尤(もっと)も、忠常は常陸介頼信の前に降伏した為、最早戦(いくさ)をする力は失われて居た。

 その後、政道は陸奥大掾(だいじょう)の職に在りながら、国府へ出仕せず、磐城の郡政に当たって居た。今、仲裁を務めた己が多賀城に入り、陸奥守忠頼の下に入ってしまっては、折角(せっかく)和議に応じてくれた維茂方が、要らぬ勘繰りを始める事が危惧されたからである。

 磐城郡にも、此度の騒動に因(よ)り、大きな問題が生じて居た。汐谷城主村岡重頼が、主君政道の意向を踏み躙(にじ)り、独断で兵を国府へ送った事に因り、他の重臣から処罰を求める声が上がって居た。政道は大老の大村信澄と高野盛国より、村岡重頼を大老より罷免(ひめん)する様、度々求められた。しかし重頼の背後には、義父である陸奥守忠頼が付いて居る。又、重頼と政道の姉住吉御前との間に生まれた子は、紛(まぎ)れも無く先代磐城判官政氏の外孫である。下手に村岡一族を刺激すると、忠頼が己の後継に、重頼の子を据(す)え様と動いて来るのではという不安が、政道には有った。結局、政道は重頼を処罰しなかった。家臣の多くからは不満の声が上がったが、住吉御所本丸の対屋(たいのや)に渡り、我が子千勝の姿を見る度、政道はこの子の為にも忍ばねば成らぬ、という思いを強くするのであった。

 磐城家中では村岡派、反村岡派が激しく対立する様に成り、政道の統率力は次第に低下して行った。暗雲立ち籠(こ)める住吉御所に、ある日勅使の来訪が有った。磐城家中は急な事に驚いたが、当主以下重臣が参列し、恭(うやうや)しく勅使の一行を迎えた。

 広間にて磐城家一同が平伏する中、勅使は上座に立ち、先頭に畏(かしこ)まる政道に対して、勅書を読み上げた。
「陸奥大掾(だいじょう)平政道、右の者奥州に在って、陸奥守平忠頼と鎮守府将軍平維茂の間に生じたる蟠(わだかま)りを融解し、両軍の衝突を未然に防ぎし事を以(もっ)て、奥州の安寧に多大なる貢献有り。以上の功績を鑑(かんが)み、正六以下常陸介に叙任する物なり。」
政道は思い掛けぬ事に、一瞬言葉を失った。勅使は政道を見据えて質(ただ)す。
「御受けするであろうな?」
政道は冷汗を額に滲(にじ)ませながら、勅使に尋ね返す。
「畏(おそ)れながら、御尋ね申し上げまする。今まで常陸介を務めて来られた源頼信殿も、此度は坂東の平定に功有りと聞き及んで居りまする。あの御方の処遇は、如何様(いかよう)に決められたのでござりましょうか?」
「頼信殿には既(すで)に、石見守に任ずる旨が伝えられ、当人はこれを拝命なされて居る。」
「されば問題はござりませぬ。謹んで勅命を拝し奉(たてまつ)りまする。」
勅使はその意を受けると、粛然と任官書を授与した。それを押し戴いた時、政道は陸奥の三等官より、常陸の実質一等官へと、栄進を果したのであった。

 磐城家中はこれを大いに慶び、その日の夜は勅使一行を主賓に迎え、政道の常陸介任官を祝う宴(うたげ)が催された。今まで村岡氏に因(よ)り対立して居た家臣達も、この日は笑顔で宴(うたげ)を楽しんで居る。政道はこれを機に、再び磐城平家が一つに纏(まと)まってくれる事を、切に願った。

 宴(うたげ)も酣(たけなわ)に成って来た頃、磐城平家に気を許し始めて居た勅使は、微酔も手伝って、内裏(だいり)が行った、もう一つの人事を漏らした。それに因れば、平忠頼は陸奥守に留任と成るも、鎮守府将軍は平維茂に代えて、下野武士団の棟梁である、藤原兼光が新たに就任するという。

 忠頼は八十を過ぎた老将で在りながら、今尚矍鑠(かくしゃく)とし、坂東随一の武力の他、京にも多くの人脈を持って居る。一方で、その子等は未だ二十代の若さであり、中でも下総の忠常は、左大臣道長の家臣、源頼信に降伏して居る。仍(よっ)て内裏では、村岡忠頼が天寿を全うするまではこれに手を出さず、鎮守府将軍のみを交代させた方が良いとの結論を下したという。

 只、平維茂は磐城政道の調停に、すんなりと応じて居る。そして常陸領を預かる維幹(これもと)に至っては、常陸介に従い、下総の地で暴れて居た平忠常の軍勢を、鎮圧する功を挙げて居る。朝廷はその功に報いる形で、常陸平家の所領を加増し、鎮守府将軍の後任には、同盟勢力である下野藤原氏を宛(あ)てたのであった。

 ともあれ磐城平家に取って見れば、村岡、常陸両勢力からの板挟みより脱却出来た事は、この上無く慶ばしい事であった。

 翌朝、目を覚ました千勝は、何時(いつ)もの如く着替えると、侍女苔野(こけの)に連れられて、父母や姉と共に朝餉(あさげ)を取った。しかし、その日は何と無く、違和感を覚えた。粥(かゆ)を掻(か)き込みながら皆を見て居ると、特に父母が、考え事に耽(ふけ)って居る様子である。六歳と成り言葉も大分覚えて来た千勝は、父に尋ねた。
「父上、何をその様に考え込まれて居るのですか?」
政道は不意に声を掛けられ、一瞬驚いた表情を呈した。しかし直ぐに真顔に戻り、「うむ」と一言返すと、再び箸(はし)を動かし始めた。そして碗に残った米を掻(か)き込み、汁物を一気に啜(すす)ると、箸を膳の上に置いて、大きく息を吐(つ)いた。

 親子四人が食事を終え、各々の膳が片付けられると、政道は妻子三人に対し、改まって話を始めた。
「実を申せば、昨日勅命を拝し、常陸介に任官致した。」
夫の言葉を受け、信夫御前は穏やかな顔で頭を下げた。
「おめでとうござりまする。」
万珠と千勝も、母に倣(なら)って頭(こうべ)を垂れる。政道は頷(うなず)いた後、言葉を接ぐ。
「儂(わし)は近々常陸府中へ赴く事と成るが、其方(そなた)等には住吉の留守を頼みたい。」
それを聞いた千勝が、心に思うまま、父に強請(ねだ)った。
「父上、常陸国は磐城よりも暖かいと聞いて居りまする。その景色を、一度見てみとう存じまする。」
政道は厳しい視線を向け、千勝はそれにたじろいだ。再び政道は三人に対し、話を続ける。
「常陸府中には平維茂殿が館を構え、筑波郡の維幹殿を始め、周辺勢力は悉(ことごと)く、常陸平家の配下に在る。常陸家とは先代政氏公以来、久しく誼(よしみ)を深めて参ったが、それ以前の半世紀は、仇(かたき)として対立を続けて来た仲であった。又、南方の信太郡と河内郡は村岡家の勢力下に在る為、常陸介として、如何(いか)なる騒動に捲(ま)き込まれるやも知れぬ。その際、其方(そなた)等を常陸へ伴えば、必ずや維茂方の虜(とりこ)と成り、不幸を招く事態と成るであろう。」
そこまで政道が述べた時、御前は静かに手を突き、口を開いた。
「殿の御気持、御察し申し上げまする。妾(わらわ)と子等はここに残りまする故、殿は存分に、常陸で御務めを果して下さりませ。」
御前の凛乎(りんこ)とした面持ちに頼もしさを感じた政道は、御前の前に躙(にじ)り出て、肩に手を置いた。
「二人の子を、頼むぞ。」
「はい。必ずや。」
御前の答(こたえ)を聞いた政道は、安堵の表情を浮かべると、立ち上がって部屋を後にし、政庁へと渡って行った。その後ろ姿を目で追いながら、千勝は話にしか聞いた事の無い常陸の地を、漠然(ばくぜん)と想像して見るのであった。

 数日を経て、住吉御所には重臣鵜沼昌直、江藤家家臣木戸繁国の孫時国、守山勝秋家臣小川平治の軍勢が続々と詰め掛け、その数は五百に達した。常陸へ赴くに当たり、土豪平維茂に侮(あなど)られず、且(か)つ余計な警戒心を抱かせぬ数と見て、政道が集めた兵力であった。

 そして出発の日の朝、政道は住吉の重臣を本丸の政庁へ集め、暫(しば)しの別れを告げる事とした。この席には信夫御前と千勝も列する事と成り、千勝は父の後に続き、母と並んで政庁広間へ入室した。

 諸臣が平伏(ひれふ)す中、父と母の間に腰を下ろすと、正面の家臣達は頭を上げた。そして前列中央に座す村岡重頼が、よく響く声で言上する。
「この度は、常陸介として御入府に赴かれし事、当家始まって以来の誉(ほま)れと存じ奉(たてまつ)りまする。」
「おめでとうござりまする。」
家臣達が挙(こぞ)って申し上げる祝詞(しゅくし)に頷(うなず)いた後、政道は口を開く。
「うむ。当家も常陸や村岡の平氏と同様、遂(つい)に一国の太守と成る所まで漕(こ)ぎ着けた。この任を首尾良く務め上げれば、常陸国内に当家の勢力を伸ばし、更(さら)には陸奥守任官への足掛りと成るやも知れぬ。この大事に取り組むに当たり、儂(わし)は奥州の事を気に掛ける余裕を、怖らくは失うであろう。仍(よっ)て、儂の留守中の事を告げて置く。」
広間は俄(にわか)に静まり返った。皆、衣服が擦(す)れる音を立てる事すら憚(はばか)り、固唾(かたず)を呑んで主君の言葉を待って居る。その中で、政道の声が広間中に響き始めた。
「先ず、津軽郡は安倍政季、信夫郡は平政澄、菊多郡は村岡重頼に、其々(それぞれ)(まつりごと)を委任する事と致す。又磐城郡内においては、諸郷の内政は四家に一任し、天災や騒動等、四家の手に負えなく成った時に、住吉が介入致す事。そして四郡以外の地に関しては、海道は江藤玄貞、仙道の安達郡以北は平政澄、安積、磐瀬両郡は守山勝秋、白河郡は高野盛国に任せる。そして磐城郡司兼住吉城主には、執政の村岡重頼を任ずる。儂(わし)の名代として、よく磐城の地を治めよ。」
政道の言葉が終ると、執政の村岡重頼が先頭を切って頭を下げ、承知の意を示した。やがて他の臣もそれに倣(なら)い、次々と平伏し始めた。重頼の隣に座る大老の内、高野盛国は白河郡内磐城領を任された事で、機嫌良く承服して居た。されど一方の大村信澄は、主命故に渋々頭を下げて居る風(ふう)である。他にも反村岡派の者達が、苦渋の面持ちで頭(こうべ)を垂れて居た。

 千勝はその様な事には気付きもせず、隣に座して、堂々と諸将を見据えて居る父の姿を、尊敬しながら見上げて居た。

 やがて評定が終わり、政道は鵜沼、木戸、小川の三氏を従え、席を立って廊下へと向かう。
「無事の御帰還を。」
母御前が去り行く夫に言葉を掛け、座礼を執ると、諸臣も一斉に主君の方へ向きを変え、頭を下げた。千勝も漠然(ばくぜん)と皆に倣(なら)う。広間の中央で立ち止まり、御前と千勝の方を振り返った政道は、凛々(りり)しい面持ちで告げる。
「行って参る。」
その一言を残し、政道は再び背を向け、本丸を下って行った。

 大手門には、相馬の旗を掲(かか)げた軍勢が整然と待機し、総大将に政道を頂くと、程無く先鋒隊より順に、行軍を開始した。常陸国筑波郡の平維幹(これもと)は、平忠常と矛(ほこ)を交えたばかりであり、戦(いくさ)の経験を積んで居る。それに比べ、磐城の兵はこの四十年程、先代政氏の磐城制圧以来、真面(まとも)な戦(いくさ)を経験して居ない。故に此度、街道北部に勢力を拡大して居る江藤氏や、仙道中央部の平定に努めて居る守山氏より兵を借り、少数精鋭の軍を編成した積りであった。

 やがて政道率いる本隊も、大手門を潜(くぐ)って、御巡検道へ向かい、進み始めた。次第に遠ざかる住吉御所を眺めながら、唯一政道の脳裏(のうり)から拭(ぬぐ)い去る事の出来ぬ憂(うれ)いは、村岡重頼と大村信澄等の対立であった。

 常陸入府後、常陸介平政道は、平維茂、平忠頼二大勢力の全面衝突を回避させた力量を、諸豪族に評されて居り、特に抗(あらが)う勢力は無かった。

 長和三年(1014)二月七日、維茂の弟維良が、馬二十疋の他、諸々の品を左大臣藤原道長に献上し、鎮守府将軍藤原兼光の後任を願い出た。道長は維良に感謝の意を示すも、兼光が目下無難に職務を熟(こな)し、又維良が以前に鎮守府将軍に任官して居る事から、もう少し待つ様に諭(さと)した。維良は先年、兄維茂が村岡忠頼と争ったが為に失い物を、回復したいと願って居たのである。そして道長の表情を窺(うかが)い、脈有りと見た維良は、後日の沙汰を待つ事にした。

 その間も、政道は常陸の平穏の為、政務に勤(いそ)しんで居た。政道が常陸介を無事務め上げる上で欠かせぬ事は、先の戦(いくさ)で矛(ほこ)を交えた平維幹(これもと)と、平忠常の間の静謐(せいひつ)であった。特に、忠常方が敗れた事に因(よ)り、忠常方の最前線である河内郡からは、北隣筑波郡を本拠とする勝者、維幹の傘下に入る豪族が続出した。

 河内(かわち)郡は、村岡平家の祖良文が天慶(てんぎょう)の頃、出羽の反乱を鎮圧した功に因(よ)り常陸介に任官した折、勢力下に組み込んだ地である。忠常から見れば、祖父の代以来七十年もの間、支配して来た所領を失う事と成り、奪回に動き出す可能性が無いとは言えなかった。

 雨期も間近に迫った晩春の候、政道は手勢五百騎を伴い、河内郡を巡察する事にした。第三の勢力が入る事で、両者を啀(いが)み合いから目を逸(そ)らさせる事が目的である。

 政道は府中を発った後、筑波の嶺を北西に仰ぎ見ながら、街道に沿って曽禰駅へ入った。ここを拠点に政道は、自軍を幾つかの隊に分け、河内郡内の治安状況を巡視させるべく送り込んだ。常州河内郡は八部(やたべ)を首邑(しゅゆう)とし、七郷を擁する。既(すで)に荘園が発達して居り、不輸不入の権が適用される処も多い。しかし此度、常陸介の兵は郡内を見回るだけで、税の強制徴収を行う気配は無い。常陸の豪族の間では、平政道は平維茂、平忠頼双方に顔が利く人物として、既(すで)に知られて居た。河内郡の豪族達は、常陸介が当地方の動静に関心を抱いて居ると感じ、その後は暫(しば)し、維幹方と忠常方の水面下での調略を、縮少せざるを得なく成った。

 河内の豪族達は又、磐城兵のよく訓練された動きに目を見張った。政道は、日頃近隣勢力との諍(いさか)いや、賊徒の討伐等、武具を用いる機会の多い部隊を集めた為、平時は農事に勤(いそ)しむ伴類(ばんるい)と雖(いえど)も、主君直参の従類に劣らぬ整然さを見せた。河内の諸豪族は、伝え聞く七十余年前の相馬軍の武威を思い浮かべ、畏怖の念から、磐城軍の前に静寂を保った。

 やがて各隊が曽禰に帰陣して来ると、政道の元には次々と、河内平穏の報が伝えられた。これを受けて、政道は本営を八部(やたべ)へ前進させ、そこに宿営する事に決めた。その日の夕刻、八部に本陣を移した事で、近隣豪族の中からはこれを恐れる余り、進物(しんもつ)を持って挨拶に訪れる者が相次いだ。彼等の狙(ねら)いは、受領(ずりょう)との誼(よしみ)に加え、受領が軍勢を率いて駐屯する意図を探(さぐ)る事である。来訪者に対し、政道は進物の礼を述べると共に、此度派兵の目的は、治安状況視察の為であると説(と)いた。それを聞いた豪族達は安堵の表情を浮かべ、各々の館へと引き揚げて行った。

 翌朝、政道は諸将を集め、一つの案を提示した。
「本郡の東隣に在る信太郡は、現今忠頼殿の勢力下に置かれては居るが、その北端、内海(霞ケ浦)西岸において、維茂殿の治める茨城郡と境を接して居る。この地にも少なからず、忠常殿敗北の影響が有ると思う故、視察して置きたいと思うのだが、如何(どう)であろう?」
政道の問いに対し、先ず鵜沼昌直が賛同を示した。
「宜しいかと存じまする。此度の南方巡察の目的は、忠常殿敗北後に生じたる、不穏な動きの芽を摘(つ)み取る事。されば当然、信太郡にも軍を向けるべきと存じまする。」
木戸時国、小川平治の両将も賛意を表し、軍議は信太郡巡察と決した。

信太(しだ)郡は十四郷を擁し、街道脇、下総国相馬御厨(みくりや)の東方に、稲敷という大規模な邑(ゆう)が在る。又、内海(霞ケ浦)の西岸には広大な官有牧場が拓かれ、軍馬の供給地でもあった。街道には榛谷駅が在り、馬五疋が配備されて居る。

 内海(霞ケ浦)の近くまで来ると、水郷に住む民が漁や農事に勤しむ姿が目に付く。彼方(かなた)に霞(かす)む筑波山や、周辺の村を貫く清流の中に溶け込むと、実に長閑(のどか)である。

 政道は湖水の近くまで郡内を横断して来たが、この地は西隣の河内郡と異なり、忠常の敗北を受けて動じて居る様子が、豪族達からは殆(ほとん)ど見受けられなかった。余程村岡方に忠義の厚い武士が、巧(うま)く纏(まと)めて居るであろうと、政道には思えた。

 途中、政道は軍を三手に分け、一隊は北方、もう一隊は南方、そして本隊は内海(霞ケ浦)に沿い、更(さら)に東へ進む事にした。郡内に不穏な動きが感じられぬ以上は、軍を分散させた方が物々しさが軽減され、且(か)つ効率良く見回る事が出来る。政道の本隊は百騎ばかりの小隊と成り、官有牧場より更(さら)に東南へと進んで行った。

 他の隊と別れて半時程が過ぎ、やがて内海(霞ヶ浦)に突き出た東端の、岬の近くまで来た時、不意に森の中から、法螺(ほら)貝の音が鳴り響いた。その刹那、森の中から二頭の馬が飛び出して来た。鞍(くら)等を付けて居らず、動きから見て野性の馬であろう。それを追って、五騎の武者が森から飛び出して来た。騎馬武者は槍を振り回し、鳴物の音で威嚇(いかく)しながら、野性馬を遠方に築いた柵の中へ、追い立てて行く。

 ふと、騎馬武者の一人が、政道率いる一隊の存在に気が付いた。武者は慌てて他の武士を制止し、別の武士が再び、腰に帯びた法螺(ほら)貝を手に取ると、先程とは異なる音を響かせる。

 政道は隊を静止させ、様子を窺(うかが)って居ると、間も無く森の中より、続々と兵が姿を現した。気付けば、既(すで)に後方にも回られて居る。武士の数は五十騎にも満たないが、多くの者が騎兵であり、更(さら)に伏兵が居る怖れも有った。政道は臨戦態勢を執った物の、下手(へた)に動けず、暫(しば)し膠着(こうちゃく)状態が続いた。

 やがて相手方より、二騎の武者が軍使として派遣されて来た。それに対し、前軍の将木戸時国が話に応じたが、相手に敵意の無い事を感じた政道は、自ら駒を進め、軍使の元へと向かった。

 前軍に総大将政道が姿を現すと、それに気付いた時国は、政道の前へ進み出て報告する。
「殿、この者達は近郷の豪族、信田頼望殿の家臣にて、信田家は村岡家に三代に渡り、仕えて居る由(よし)にござりまする。」
「ほう、やはり忠頼殿の御家来であったか。」
政道は大いに安堵すると、軍使の前に馬を寄せて告げる。
「儂(わし)は常陸介平政道じゃ。此度は忠頼殿と維茂殿の所領の境において、先の諍(いさか)いが未だ燻(くすぶ)って居らぬか、巡視して居った所じゃ。」
軍使は常陸介と聞き、慌てて馬を下り、平伏した。
「これは、受領(ずりょう)様とは存じ上げず、失礼致し申した。てっきり維茂方の奇襲か、威嚇(いかく)であると思い。」
政道は笑って返す。
「其方(そち)の行いは詮(せん)なき事じゃ。何の通告も無しに、軍を入れた当方にも越度(おちど)は有るでな。所で貴殿等は今、軍馬を集めて居ったのか?」
「はっ。野馬を自軍へと追い立てる事で、騎兵を速やかに動かす訓練にも成りまする。」
成程(なるほど)、と政道が頷(うなず)いたその時、軍使の甲冑(かっちゅう)の隙間(すきま)から、衣服に藤の紋が覗(のぞ)き見えた。政道はふと疑問に思い、尋ねる。
「貴殿の官位を、御聞かせ願えぬか?」
軍使は改まり、恭(うやうや)しく申し上げる。
「申し遅れ申した。某(それがし)は斎藤邦俊と申し、曽祖父は平良文公の下にて、鎮守府軍監、更には右近衛将監に昇りましたが、その後は信田家に仕え、今は無位無官の身にござりまする。」
「斎藤家とな。確か邦秀の祖父邦泰は、常陸より移り、当家に仕えたと聞いて居るが。」
「我が祖父邦親は康保四年(967)、奥州に大乱が勃発した折、弟邦泰殿を平政氏公の援軍に遣(つか)わし、それ以後は政氏公の郎党に成られたと、聞き及んで居りまする。」
「おお、では紛(まぎ)れも無い。貴殿の又従弟(またいとこ)と成る者は、我が重臣じゃ。知って居れば、斎藤勢も連れて来るのであったに。」
邦俊も思い掛けぬ事に、戸惑いの色を顕(あら)わにする。その時、信田家の陣より、騎馬武者の一団が駆けて来るのが見えた。奇(く)しくも、磐城平家と同じ九曜紋の旗を掲(かか)げて居る。

 騎馬武者十騎が到着すると同時に、邦俊はその将へ礼を執った。将は政道の前へ進み出ると、爽(さわ)やかな微笑を湛(たた)えて名乗る。
「信太郡浮島の、信田頼望にござりまする。この度は、家臣共が御無礼を致し申した。」
「否、事前の通告を怠った、身共の手落ちに御座る。」
常陸介が意外にもすんなりと、己の非を認めた事で、頼望は政道という人物に、興味を抱いた。
「今し方耳に入ったのでござりまするが、常陸介様は国内を御巡視遊ばされておわすとの事。宜しければ近くの館で、御休息なされませぬか?」
「御厚意痛み入る。折角(せっかく)の御申し出故、受ける事と致そう。」
「では、案内仕(つかまつ)る。」
そう言うと、頼望は政道に背を向け、手勢と共に進み始めた。政道も、自軍の将に移動を命じるべく振り返る。その時、周囲を取り囲んで居た信田騎兵隊の姿が、何時(いつ)の間にかすっかりと消えて居る事に気付いた。政道は、信田騎兵の静かで俊敏な動きに、驚愕(きょうがく)の念を覚えた。

 四半時程南へ進むと、小山に囲まれた谷間に小さな村落が在り、その外れ、丘の麓(ふもと)に小さな館が建って居た。聞けば、斎藤邦俊の居館であるという。しかしよく見れば、裏山に道が延び、退路が確保されて居る。又、中腹には砦の様な物も窺(うかが)えた。

 政道は兵を表に留めて休ませ、時国他三名の護衛を伴い、館内へと入って行った。やがて客間に通され、上座に腰を下ろすと、下座には頼望、そしてその両脇に館主邦俊と、一人の若武者が座した。
「その若者は?」
政道が尋ねると、頼望が答える。
「此(こ)は我が倅(せがれ)にて、小太郎と申しまする。」
「ほう、中々逞(たくま)しい体付きじゃ。そろそろ元服させても良い年頃ではないか?」
頼望は苦笑しながら、時折小太郎に目を向けて居る。
「いやいや、当家の嫡男は弓馬の術にある程度長(た)けなければ、一人前とは見做(みな)されませぬ。本日の野馬追いの技量を見た所では、未だ未だ未熟にござりまする。」
信田家の嫡男に対する教育の厳しさを聞き、政道は不意に懐かしい感覚に駆られた。思い起せば幼少の砌(みぎり)、自身も父政氏より、特に武芸を厳しく仕込まれた。思えばあれこそが、かつては坂東武者の棟梁に君臨した相馬武士の、気質の名残(なごり)であったのであろうと思える。

 ふと政道は、信田兵の中に、繋馬(つなぎうま)の紋が描かれた軍旗に目が留まり、疑問に思った。
「信田家が掲(かか)げる九曜、繋馬の両旗は、我が曾祖父将門公以来、当家に伝わりし物。信田殿は、よもや?」
そこで政道は言葉を切り、家臣へ告げる。
「信田殿と二人で話がしたい。外せ。」
主君を一人にする事に、時国等は戸惑った。それを余所(よそ)目に、政道は視線を邦俊へ移す。邦俊は政道の意を察し、小太郎と共に退席する旨を申し出た。頼望の許しを得て別間へと移って行き、信田方は当主一人が残った。それを見届けると、時国等も不安気な顔をしながら、別の間へと案内されて行った。

 政道と頼望、二人だけが残ると、俄(にわか)に静けさが際(きわ)立ち、上空に飛来する野鳥の声も、良く聞こえる様に成った。この静寂を打ち破ったのは、人払いを頼んだ政道であった。
「信田殿に御尋ねしたい。信田家の紋や家風を見るに、我が祖相馬将門公の影響が、今も色濃く残って居る様に感じられる。儂(わし)は信田殿を、相馬家に所縁(ゆかり)の者と見たのだが、如何(いかが)か?」
頼望は、暫(しば)し沈黙したまま、目を閉じて居た。やがてその目を開くと、政道を見据え、粛然と話を始めた。
「仰せの通り、当家の軍旗は平将門公に肖(あやか)り、拵(こしら)えた物にござりまする。今を遡(さかのぼ)る事凡(およ)そ七十五年前、戦乱の中を生き延びた将門公の子小太郎は、大叔父村岡良文公に匿(かくま)われ、この信太郡へ移り住み、信田将国と名を変えて、ひっそりと暮らして参り申した。そして将国の孫が、某(それがし)にござりまする。」
政道は、暫(しば)し言葉を失った。祖父忠政以外に、将門の子女の消息を得たのは、初めてであったからである。

 先代磐城政氏に兄弟が居なかった為、実弟政澄と汐谷の村岡重頼に嫁いだ姉の子を除(のぞ)けば、相馬の系統は他に居らぬ物と思って居た。現今、頼みと成る筈(はず)の一門衆は、義兄村岡重頼が派閥抗争を起し、叔父の滝尻政之は素行の悪さから、滝尻御所に幽閉されたままであった。弟政澄と義兄松川一族は仙道に在り、磐城には頼みと成る一族が居なかった。それ故か、坂東武者の精強さを今も残す相馬将門流頼望に、政道は強い関心を抱いた。

 漸(ようや)く、政道の口から言葉が出た。
「頼望殿と身共(みども)は共に、将門公の曾孫、即(すなわ)ち又従兄弟(またいとこ)の関係と成り申す。宜しければ、磐城へ御越し下さらぬか?相馬家嫡流の当主として恥じぬ待遇で、御迎え致しまするぞ。」
頼望は、恭(うやうや)しく頭を下げて答える。
「御気持、誠に嬉しく存じまする。されど当家は、未だ朝廷より罪を許されざる家にて、素姓を隠し続けて居りまする。当家においてこの秘を知るは、家宰の木幡、斎藤のみにて、他家においても、長年御匿(かくま)い下された忠頼様と、その御子忠常様しか知らぬ事にござりまする。常陸介様には、同族への人情から明かしてしまい申したが、何卒(なにとぞ)この事は他言なされませぬ様、御願い申し上げまする。」
政道は頷(うなず)き、頼望を見詰める。
「然(さ)もありなん。将門公の嫡流が今まで生き存(ながら)えたは、偏(ひとえ)に村岡平家の支援あっての事でござろう。その村岡平家も、今は忠常殿が苦難の時を迎えて居る。貴殿が近くに在って、支えて遣(や)らねばのう。」
「はっ。折角(せっかく)の御心遣いを無下に致し、申し訳ござりませぬ。」
「いや、村岡家には当家も大変世話に成った。今後共、村岡家を扶(たす)けて下され。」
「はっ。」
その後、政道は信田家の事には触れず、忠常方、維茂方、両陣営の動きに就(つ)いて尋ねた。頼望は政道の、両軍和平へ向けた意志を感じ取り、積極的に信太郡における、両勢力の動きを伝えた。頼望も政道と同様、常陸南部の平静を望んで居たのである。

 やがて、陽が傾き始めて来た。政道は信太の情勢を具(つぶさ)に話してくれた、頼望に礼を述べると、国府へ引き揚げるべく、館を発つ事とした。幸いこの季節は日が長いので、海道の駅家(うまや)までは戻る事が出来る。

 別れ際、軍を纏(まと)めた政道は、出立前に頼望へ声を掛けた。
「すっかり長居をしてしもうた。それに貴重な話を聞く事が出来、感謝致し申す。」
頼望も、馬上の政道を見上げて返す。
「道中御気を付け下され。又、磐城平家の繁栄を、陰ながら祈って居りまする。」
政道は笑顔で頷(うなず)くと、踵(きびす)を返して軍を北へ向け、再び内海(霞ケ浦)へと戻って行った。

 友軍と稲敷の辺りで合流した政道は、再び五百騎の大軍を率い、北の国府を目指した。

 夕陽が筑波山の西側を朱色に染めて居る。内海(霞ケ浦)の湖面も金色に輝き、広大な野を颯爽(さっそう)と行く政道は、胸中に熱い物と爽(さわ)やかな物を、同時に感じて居た。

 翌日国府へ戻った政道は、旅の疲れを癒(いや)す前に、自室に入って机に向かい、筆を執った。政道が休む時をも惜しんで認(したた)めた物は、信田頼望を信太郡司に推す推薦状であった。

 国府の在る茨城郡の周囲は、平維茂の所領に囲まれて居る。又、村岡忠頼の拠点武蔵国までは、平維幹(これもと)が抑える筑波郡が在り、維茂方を敵に回した場合、逃げ道は内海(霞ケ浦)しか無い。しかしその北岸、行方(なめかた)郡と鹿島郡は維茂の影響下に在る為、南岸の信太郡に、政道は退路を確保して置きたかった。そして昨日、信田頼望という人物を知り、道が開けた心地であった。

 政道が国府に戻って間も無い頃、北方より急使が二度、相次いで駆け込んで来た。第一報は、常陸国北部に在る久慈郡の豪族が、所領の境界を巡って平維茂方と諍(いさか)いを起し、遂(つい)には兵を集め、物々しい情勢に成って居るという。

 そして第二報は、磐城住吉の大村信澄が発した書状に、認(したた)められて居た。政道は信澄の郎党から直(じか)にそれを受け取り、封を解いて読み始めた。文面には、今の住吉における政(まつりごと)の様子が書かれて居り、読み終えた後、政道は暫(しば)し呆然(ぼうぜん)と成った。

 信澄の書状に依れば、磐城の政(まつりごと)は既(すで)に、村岡重頼の一派に牛耳られたという。重頼は菊多郡政を執事の山田蔵人に任せ、自身は住吉御所に留まり、次々と村岡派の者を要職に就(つ)けて行ったとの由(よし)。信澄は同じく大老の高野盛国と組んで、これに対抗し様としたが、白河郡石川郷を拠点とする村岡派の豪族、浅川権太夫が次々と盛国の所領を侵(おか)し始め、本領が心配に成った盛国は、白河郡高野郷へ還(かえ)ってしまったという。

 その後重頼は、幽閉されて居た滝尻政之を、独断で滝尻城主に復帰させた。今や滝尻は完全に、村岡重頼の傘下に入ったとの事であり、磐城郡政は最早、重頼一人が握って居ると言っても過言ではない、と書かれて在った。

 政道は、先年重頼が無断で兵を集め、強引に陸奥国府へ兵を送った時、少しでも力を削(そ)いで置かなかった事を、今更(いまさら)ながら後悔した。

 此度齎(もたら)された二つの報は、共に政道の管轄域内において、所領を巡る争いが勃発した事を示して居る。政道は常陸介として、又磐城武士団の棟梁として、何らかの手を打たねば成らなかった。

 程無く、政道の間に小川平治が召された。政道は既(すで)に憔悴(しょうすい)した顔と成り、平治に告げる。
「実は、久慈郡佐竹の地において、所領を巡り、豪族が兵を挙げた。其方(そち)には守山兵百騎を率い、この争いを調停して来て貰(もら)いたい。但(ただ)し、この件には維茂殿の所領も絡(から)んで居る故、呉々(くれぐれ)も慎重に事を治める様。」
「はっ、承知仕(つかまつ)り申した。」
そう答えて、早速兵を纏(まと)めに行こうとする平治を、政道は呼び止めた。
「待て。儂(わし)は暫(しば)し別の隊を引き連れて、磐城へ戻る。もし佐竹の地で、政(まつりごと)の問題が生じし時は、国府の大掾(だいじょう)殿に相談せよ。又、兵事の事であれば、住吉に使いを出すが良い。」
小川平治は承ると、早足に政道の元を辞して行った。

 その後政道は、政庁に赴いて常陸大掾に面会し、暫(しば)しの留守を頼んだ。特に、信太と河内の二郡は、常陸、村岡両平家の所領が錯綜(さくそう)する地故、厳重に監視を続けた上、もしも不穏な動きが有らば、直ぐに磐城へ報せて欲しいと伝えて置いた。

 数日後、政道は磐城兵の残り四百騎を従え、海道を北上して本領を目指した。当初、常陸介の任期を全(まっと)うするまでは、磐城へ戻る気は無かった。しかしこのまま磐城の事を捨て置いては、村岡重頼の専横に孤軍で立ち向かって居る大村信澄が、重頼に因(よ)って潰(つぶ)され兼ねない。そうなれば、政道は最早重頼に太刀打ち出来る術(すべ)を、失ってしまう。政道は焦燥(しょうそう)感に駆られながら、只北の空を見詰めて居た。

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