第二節 平家の対立

 この年の暮れ、十二月二十五日に改元が有り、寛弘九年(1012)は長和元年と改められた。

 その頃、東国においても大きな人事の動きが有った。平忠頼が従四位下陸奥守に任官して多賀城に在る時に、常陸の平維茂(これしげ)が鎮守将軍を拝命し、常陸の手勢を率いて胆沢(いさわ)鎮守府に入ったのである。永年対立を続けて居た両家が、同国内の国府と鎮守府に拠(よ)って対峙する事態と成り、奥州は俄(にわか)に緊迫の度合いを増して行った。

 村岡、常陸両平家が睨(にら)み合う中、当然磐城政道も、その渦中に呑み込まれて行く。磐城平家は双方と盟約を結んで居り、政道自身は中立を貫く事を望んで居た。しかし磐城平家の勢力は、双方共に無視出来ぬ存在である。

 常陸の維茂から見れば、磐城平家を味方に付ければ、本拠の常陸領を北方から脅(おびや)かされる怖れが無く成るばかりか、国府を南北より挟撃し、一気に村岡本陣を叩(たた)く事が出来る。

 これは、裏を返せば村岡忠頼が、政道を自軍に味方させねば成らぬ要因でもある。国府の大掾(だいじょう)として政務に携わって居た政道は、両陣営より味方に付く様求める使者が相次ぎ、悩み抜いて、殆(ほとほと)疲れ果ててしまった。そして遂には、手勢を率いて国府を退去、本領磐城へと引き揚げて行った。

 この事は、陸奥守忠頼を大いに怒らせた。そして一計を案じ、書翰(しょかん)を認(したた)め、磐城平家執政村岡重頼の元へ発したのであった。

 一方、関東においては坂東太郎(利根川)を挟み、忠頼の子忠常と、維茂の叔父維幹(これもと)が対峙して居た。奥州から坂東に架けての十ヶ国は、大乱の渦に捲(ま)き込まれ様として居たのである。

 政道が磐城住吉へ帰城した折、館内には兵が充満し、物々しい雰囲気と成って居た。驚いた政道は本丸に戻ると、直ぐに三大老に召集を掛けた。

 間も無く、大村信澄と高野盛国が、政道の間に姿を現した。そして主君の前で礼を執る最中、政道は焦(じ)れた様子で両名に尋ねた。
「何故(なにゆえ)、本城に大軍が詰めて居るのか?」
礼を途中で止めた信澄は、姿勢を正し、政道に答える。
「あれは全て、村岡殿が菊多、白河より掻(か)き集めし軍勢にござりまする。」
「何と、如何(いか)なる理由で兵を集めたのか?」
信澄は表情を翳(かげ)らせ、口元を震わせながら声を発そうとしたその時、廻廊を音を立てて渡って来る者が在った。

 三人が黙って向かい合う中、甲冑(かっちゅう)の音を鳴らしながら入室して来たのは、村岡重頼であった。重頼は、二大老の間を抜けて前に出ると、腰を下ろし、政道に礼を執った。
「御帰りなされませ。」
涼しい顔で挨拶をする重頼に、政道は立腹しながら尋ねる。
「城内が兵で溢(あふ)れて居る。ざっと見ても千騎を超えて居る様だが、如何(いか)なる大事が出来(しゅったい)したのか?」
重頼はさらりと答える。
「先日、陸奥守様より直々(じきじき)に、某(それがし)に国府へ軍勢を入れる様、命が下り申した。仍(よっ)て某(それがし)は兵を集め、明日には多賀城へ向け、進発致しまする。」
それを聞いて、政道等は慌てた。
「待て。其方(そなた)の軍勢が鎮守府の軍と衝突する事態と相成れば、当家と常陸家の間に築かれて来た誼(よしみ)は、瞬(またた)く間に消滅しようぞ。」
政道の言葉を受け、大村信澄が重頼を諫(いさ)める。
「重頼殿、主命にござる。殿も今は苦しき御立場なれば、先ずは静謐(せいひつ)を保ち、事の推移を見守るが賢明にござろう。」
重頼はゆっくりと信澄の方へ体を向けると、形相(ぎょうそう)を一変させて大叱(だいかつ)した。
「愚か者!我等が領内に留まりて傍観を続け居れば、村岡、常陸双方からの信を失い、下手(へた)をすれば陸奥守の威光を以(もっ)て、当家に如何(いか)なる仕打ちをして来るか、分かった物ではない。」
信澄を救う様に、政道が重頼に言葉を掛ける。
「其方(そなた)は今、忠頼様の御味方をすべく動こうとして居る。其(そ)は伯父を扶(たす)ける私事と、家中の者より思われ兼ねぬぞ。」
重頼は溜息を吐(つ)き、政道に言上する。
「殿より斯様(かよう)な御言葉を賜(たまわ)ろうとは、某(それがし)、情け無く存ずる。考えても御覧あれ。村岡、常陸の衝突が回避出来ぬ今、何方(どちら)に付くかを鮮明にして置かねば、同盟勢力から悉(ことごと)く、疑念の目で見られる事に成り申そう。そして何(いず)れに付くか、両家を比較して見た時、維茂殿の勢力は常陸国内を出ぬ一方、忠頼様は相模、武蔵、下総、上総の四国に及ぶ大勢力にござりまする。又、官職におきましても、殿の四郡大領兼大掾の上に位置するは、鎮守府ではなく国府にござる。殿には、村岡平家を敵に回す覚悟が御有りにござりましょうや?」
政道は重頼の気迫に圧(お)され、渋々答える。
「相(あい)解った。其方(そなた)の好い様にせよ。」
「ははっ。」
重頼は主君に座礼を執ると、再び立ち上がり、足音を響かせながら、軍務へと戻って行った。

 やがて重頼の足音が聞こえなく成った後、高野盛国が弱り顔で呟(つぶや)いた。
「あれは殿よりも、忠頼殿を大事にして居られる御様子。困った者じゃ。」
(しば)し沈黙が続いた後、信澄が政道に言上する。
「先ずは、忠頼殿と維茂(これしげ)殿の戦を、回避する手を打たねば成りませぬ。差し当り、朝廷に東国の危機を奏上なされては如何(いかが)にござりましょう。」
「うむ、そうじゃのう。ではこれより書翰(しょかん)を認(したた)める故、信澄に京の検非違使(けびいし)庁まで届けて貰(もら)おう。」
「ははっ。」
政道は直ぐに筆を執って書状を認(したた)め、箱に納めると、信澄に手渡した。信澄はそれを押し戴いて立ち上がり、急ぎ上洛の仕度を整えるべく、本丸を下って行った。

 引き続き、政道は残った盛国と、領内防備に就(つ)いて相談し始めた。そしてその様子を、遠目に見る少年が居た。六歳と成って居た千勝である。千勝は、久し振りに住吉へ戻って来た父に会いに来た物の、真剣に大人達と話を続けて居る姿を只眺めて居た。そして寂しさに駆られながら、次第に足が父より遠ざかって行った。

 大村信澄が京へ急行し、東国の擾乱(じょうらん)は直ちに、内裏(だいり)へ達する所と成った。時の一の上藤原道長は、その報に接した折、寛和二年(986)の事件が思い出された。それは陸奥守藤原為長没後、後任に平繁盛を選任した所、介の平忠頼との対立が激化し、東国は一触即発の危機に瀕(ひん)してしまった事である。当時道長は、磐城政氏より齎(もたら)された報を基に解決案を練り上げ、摂政を務めて居た父兼家にその策を進言し、結果その方針が採られる運びと成り、東国の大乱を未然に防ぐ事に成功した。

 しかしその時採られた策は、繁盛方と忠頼方双方の兵を、朝威を以(もっ)て撤兵させただけであり、両家の怨恨(えんこん)を解消するという根源までには、全く手を施して居なかった。故に今思い返せば、此度の事は必然的に起る事であったのである。

 道長は先ず、両家の拠点が在る坂東で戦が起らぬ様、壁を築く事にした。即(すなわ)ち、文官である藤原通経を常陸介から移動させ、代わって大規模な武士団の棟梁を後任として、軍勢を伴って常陸国府に入れるのである。常陸国府軍が充分な戦力を保持し、両者の中間に入れば、双方共迂闊(うかつ)に手が出せなく成り、一先ず膠着(こうちゃく)状態に持ち込む事が出来る。

 常陸介の選任に当たり、道長は己に仕える四天王を、先ず思い浮かべた。平致頼(むねより)は昨年病没して居た。平維衡(これひら)は常陸平家の出身であり、忠頼方が敵視する怖れが高い。この二人が駄目と成ると、残るは藤原保昌(やすまさ)か源頼信である。

 道長は源頼信の父、満仲の事を思い起した。満仲は常陸介を始め、坂東諸国の守、更(さら)には陸奥守、鎮守府将軍をも歴任して居た。当然家臣の中には、東国の事情に明るい者も居るであろう。

 やがて左大臣に召し出された源頼信は、常陸介として、東国の争乱を解決に導く事を命ぜられると、神妙に従う旨を申し上げた。頼信ならば必ずや、巧(うま)く事を治めてくれるであろうと確信した道長は、直ちに除目(じもく)を行い、源頼信を常陸介に任官させた。頼信は予(あらかじ)め、河内国の武士団に出兵の用意をさせて洛外に留め置き、補佐の命が下ると、直ぐに常陸へ向けて、軍を進発させた。その数、凡(およ)そ二千騎である。

 半月程を経て、河内源氏の軍は遂に、常陸府中へと至った。幸い、常陸、村岡両軍は、未だ睨(にら)み合いを続けて居た。磐城氏と下野藤原氏が、共に中立を保ち続けて居た為である。この頃下野国は、先代文脩(ふみのぶ)亡き後、長男文行は従五位下左衛門大尉(さえもんのだいじょう)に叙任して京に在り、次男兼光が下野武士団の棟梁と成って居た。

 源頼信は早速事態の収拾を図るべく、平維幹(これもと)、平忠常双方を、常陸国府へ呼び寄せた。先に到着したのは、国内の豪族維幹である。維幹は神妙に常陸介に従い、兵を退(ひ)く旨を通知した。

 一方の平忠常は、頼信の使者より調停を持ち掛けられると、次の様に返答した。
「常陸介様の仰(おお)せとあらば、当然従うべき物なれども、維幹は父祖の敵故、これに屈する事は能(あた)わず。」
その言葉を使者より聞いた頼信は、溜息を吐(つ)いて天を仰いだ。

 しかし幸いにも、武蔵を治める忠頼の子将常と、相模を治める同じく頼尊(よりたか)と甥(おい)三浦為通は、頼信の調停を受け容(い)れると回答して来た。

 頼信は武相両国の動きを忠常に伝え、再度講和に応ずる様求めた。しかし忠常は、却(かえ)って坂東に孤立したと危機感を募(つの)らせ、遂には兵を動かすに至った。先ずは地盤である下総、上総両国を完全に抑えて置く事を目論(もくろ)み、下総の居城大椎(おおじ)館より、兵を繰(く)り出したのである。

 忠常の軍は、両総地方一帯に戦火を齎(もたら)した。これを受けて源頼信は、最早事ここに至れば、忠常討伐も已(や)むなしと断じ、常陸軍の下総出兵を下知した。

 平維幹(これもと)も頼信の動きに呼応し、三千の兵を率いて馳せ参じた。常陸軍は源氏二千にこれを加え、総勢五千騎に膨(ふく)れ上がった。維幹は頼信の前で馬を下り、頼信の馬の轡(くつわ)を取って臣従の態度を示したのである。この噂(うわさ)は瞬(またた)く間に近隣諸郡へ伝わり、頼信に従う豪族が相次いだ。頼信は基盤と成る常陸を固めた上で、遂に南進を開始した。

 その頃、陸奥国府の平忠頼は、甥(おい)の重頼の他にも宮城野の諸豪族より兵を徴募し、多賀城内に駐屯する兵の数は、日増しに膨れ上がって居た。やがて鎮守府の維茂(これしげ)を討つに、充分の数が集まったと断じた忠頼は、愈々(いよいよ)決戦に向けて、軍を伊治(これはる)城まで北進させ様と考えた。その矢先、早馬が一騎、国府へと駆け込んで来た。その急便が、常陸国の信田頼望より遣(つか)わされし者と聞くと、忠頼は直ぐ様使者を、自室へと呼び入れた。

 信田頼望は、常陸国信太郡浮島の豪族である。かつて忠頼の父良文が、将門の遺児小太郎将国を浮島に匿(かくま)い、爾来(じらい)七十年余。信田を姓とした将国は、良文の死後も引き続き忠頼の庇護(ひご)の下、相馬平家の末裔である事を隠し続け、内海(霞ケ浦)に浮かぶ孤島にて、細々と生き延びて来たのである。将国の後は子の文国が家督を継ぎ、今ではその子頼望(よりもち)が当主と成って居た。

 信田家の使者は、家宰木幡氏であった。木幡氏は忠頼に拝謁(はいえつ)すると、常陸、下総の情勢を具(つぶさ)に伝えた。そして、常陸介源頼信が忠常討伐の兵を挙げたと聞くと、その顔は見る見る内に青ざめた。

 忠頼は木幡氏を下がらせた後、甥(おい)の重頼を呼んだ。急便が来た直後だけに、何事であろうという顔をしながら、重頼は忠頼に前へ進み出て、座礼を執った。
「御呼びにござりましょうや?」
「うむ。其方(そなた)には急ぎ磐城へ戻り、政道殿に維茂との調停を依頼して貰(もら)いたい。」
重頼は怪訝(けげん)そうな顔をして尋ねる。
「はて、我が軍は既(すで)に、鎮守府に倍する兵を擁して居りまするが。」
忠頼は深刻な面持ちで、今齎(もたら)されたばかりの報せを話し始めた。
「実は、常陸介に河内源氏の頼信が就任し、忠常と維幹(これもと)双方に和睦を持ち掛けたそうじゃ。維幹は直ぐ様これに応じた物の、忠常は和睦を拒(こば)み、頼信と維幹が連合して、忠常追討の為に五千騎を出陣させたそうな。源氏は先代満仲が常陸介、下総守を歴任した為、彼(か)の地理に通じたる者も多い筈(はず)。加えて頼信率いる武士団は、清和源氏の中でも随一の精強さを誇ると聞く。忠常が敗れる前に手を打たねば、父の代より守り続けて来た両総の地は、源氏か維幹に奪われるやも知れぬ。」
忠頼の言に納得した重頼は、自軍を纏(まと)めると、早々に磐城へ引き揚げた。そして住吉御所へ戻り、主君政道に停戦を持ち掛ける様、願い出たのである。

 政道や高野盛国以下の重臣は、主君の意向を蔑(ないがし)ろにしてまで出兵に及んだ重頼に対し、冷やかな態度で迎えた。しかし、重頼が申し出た両家への停戦勧告は、政道の望む所であった。大軍を擁する忠頼方より申入れが有ったとなれば、成功の公算は高い。政道は重頼に対し、菊多郡汐谷城において謹慎を命じると、磐城郡政は高野盛国に任せ、自身は重臣の鵜沼(うぬま)次郎昌直を従え、北方を目指した。

 政道率いる磐城軍は、忠頼の本陣多賀城には立ち寄らず、更(さら)に街道を北上し、宮城野の北端、栗原郡内の一迫川と二迫川に挟まれた丘陵地に築かれた、伊治(これはる)城へ入城した。丁度(ちょうど)、国府多賀城と胆沢鎮守府の中央に位置する。ここから政道は、国府と鎮守府双方に、停戦を呼び掛ける使者を送った。

 やがて南方より、僅(わず)かな馬廻(うままわり)のみを伴った、村岡忠頼の小勢が姿を現した。伊治城は陸奥守の支配下に在る城であるが、此度は和議の場と成る為、忠頼は城主の間を政道に譲り、村岡平家は別の間へと入って行った。

 少し遅れて、平維茂も僅(わず)かな手勢を率い、伊治城に到着した。ここで停戦の申入れを断っては、仲裁に入った磐城平家が、村岡方に付く事が危惧(きぐ)された。斯(か)かる事態を避けるべく、已(や)むなく停戦に応ずる事に決したのである。

 伊治城において、磐城判官政道立会の中、陸奥守忠頼と鎮守府将軍維茂の両者は、互いに武装解除、不戦の起請文(きしょうもん)を交した。両府は以後、第三者が動乱を起さぬ限り、平時の兵力まで軍勢を削減する事が課される。又、忠頼は子の忠常に、維茂は義兄の維幹に、其々(それぞれ)停戦を命ずる書翰(しょかん)を送った。

 これに因(よ)り、忠頼は坂東の勢力を削(そ)がれずに済むと考え、内心大いに安堵して居た。政道も又、両家の狭間での苦悩から解放され、晴れ晴れとした心地と成った。

 両家の和睦の手続きが全て整うと、維茂と忠頼は各々手勢を纏(まと)め、其々(それぞれ)の府へと引き揚げて行く。政道は城門に移り、両将を見送る事にした。

 先に出発したのは、維茂の隊であった。別れ際(ぎわ)、維茂は政道に、此度調停の労を犒(ねぎら)う言葉を掛けてくれた。一方、後続と成って進発した忠頼は、門前に在って見送る政道の側で馬を止め、笑顔で告げる。
「此度は停戦を呼び掛けて貰(もら)い、誠に有難く存ずる。この御礼は、何時(いつ)かさせて貰いたい。」
政道は、忠頼が己に鄭重に接してくれる事を、実に意外に感じた。
「いえ、某は陸奥国安寧の為に、動いたに過ぎませぬ。」
忠頼は頷(うなず)きながら言葉を接ぐ。
「所で、重頼の事なのだが。」
その名を聞いた時、一瞬政道から表情が消え去った。忠頼はそれを察しつつ、話を続ける。
「重頼が此度、政道殿の不興を買いつつも、軍を国府へ送りたるは、全て我が意に因(よ)る物じゃ。儂(わし)に免じて、どうかあれを処罰しないで貰いたい。」
政道は平静を装(よそお)って返す。
「いえ、重頼の言にも一理有った故に、某(それがし)も出陣を許可したのでござりまする。仍(よっ)て、罰する法はござりませぬ。」
「おお、それを聞いて安堵致した。これで村岡、磐城両家は、今後も盟友として居られ様という物。重頼は我が甥(おい)の上、かつて儂(わし)自らが烏帽子親(えぼしおや)を務め、又親子の契りを交した者なれば、あれを今後共よしなに御願い申す。」
話を終えると、忠頼は再び軍勢を進発させ、伊治城を出て、街道を南下して行った。

 両軍が去った後、政道は家臣の鵜沼昌直と共に、城主の間へと戻って行った。その途次、政道は昌直に語り掛けた。
「忠頼殿が、重頼の烏帽子親を務めた事は聞いて居ったが、親子の誓いまでして居ったとは知らなんだ。」
昌直は頷(うなず)き、己の存念を述べる。
「重頼様の父君、忠重様が未だ御存命の折、確かに主君政氏様の許可を得て、重頼様は忠頼様を烏帽子親に、元服をなされ申した。しかし、忠重様御存命の間に、よもや忠頼様と親子の関係を結ぶ事は致しますまい。その後御二方が接近なされたのは、此度の騒動の最中としか考えられませぬ。」
「両者は、父子の誓いを立てたばかりという事か。そうなると、重頼は密命の一つや二つ、持ち帰ったやも知れぬのう。」
「某(それがし)が思いまするに、重頼様は少なくとも、当家の監視役は仰せ付かった筈(はず)。今のまま執政の地位に留め置くは、危険かと存じまする。」
昌直の言は、政道の思う所でもあった。しかし政道には、重頼を大老職より罷免(ひめん)させて、郡政に当たる自身は無かった。重頼を失脚させた後、忠頼の後ろ楯を得た重頼の報復に、対抗出来るとは思えなかったのである。

 翌日、両軍の撤退を見届けた政道は、自らも手勢を纏(まと)め、伊治城を後にした。そして、本領磐城を目指したのである。

 その頃坂東では、源頼信率いる常陸国が、国境を越えて下総へと傾(なだ)れ込んで居た。国境を成す小貝川を渡河した後、常陸軍は於賦駅から街道を東へ外れた。それを見て驚いた平維幹(これもと)は、頼信本隊へと急行し、頼信の真意を尋ね様とした。

 僅(わず)かな供を連れて、維幹が駆け付けて来たのを認めた頼信は、声を掛けた。
「維幹殿、此方(こちら)でござる。」
源氏が行軍を停止する様子が無いので、維幹は頼信の隣に馬を並べ、進みながら話をする。
「介の殿、このまま街道を行けば、間も無く下総国府に到着致しまする。そこで下総守の援軍を得て、更(さら)に南の忠常が居城、大椎(おおじ)館を攻めれば、早期に逆賊の討伐が叶(かな)う物と存じまする。」
頼信は前方、東の空を眺めながら話を聞いて居る。そして、答えを発する直前につと、維幹の目を見据えた。
「忠常は未だ、朝賊に認定された訳ではござらぬ。目下、平忠頼の影響を受ける下総守が、何(どれ)程真剣に我等を支援してくれるか、分かった物では無い。又、事を無用に荒立てぬ為にも、下総国府の協力は仰(あお)がぬ。しかし一応、軍を国内へ入れる事は通達して置いたがのう。」
「では何故、軍を東へ向けられるのでござりましょうか?」
「実を申せば、我が手の者より報せが入り、忠常が香取郡の大友館に居る事が判(わか)ったのじゃ。仍(よっ)て我等は、忠常が籠(こも)る彼(か)の館を攻略し、一気に片を付ける。」
大友館を聞き、維幹の表情が俄(にわか)に翳(かげ)った。
「常陸介様、大友館はその周囲を内海(霞ケ浦)に囲まれ、大軍を以(もっ)てしても、一斉に攻め立てる事が出来ぬ要害にござりまする。もし我等が当地で長滞陣を続ける事と成れば、陸奥守忠頼が必ずや何らかの手を打ち、面倒な事と成るやも知れませぬ。」
維幹は深刻な顔を呈して居たが、頼信は依然、余裕を湛(たた)えたままである。維幹は頼信の胸中を量り兼ねながらも、東進に賛同し、自軍へと戻って行った。

 やがて、常陸軍は真敷を経由した。この地は、延暦二十四年(805)に廃止された元駅馬(えきば)である。その後下総一宮(いちのみや)香取社を過ぎ、内海(霞ケ浦)の東南端に漸(ようや)く、忠常が籠(こも)る大友館が見えて来た。

 大友館は内海(霞ケ浦)に浮かぶ城の如くで、忠常の月星紋旗が、無数にはためいて居る。軍勢の数では常陸軍が圧倒して居る様であったが、数を以(もっ)て館を包囲する事は、地勢上不可能である。忠常方は時を稼ぎ、援軍を待つべく、この館に拠(よ)ったのであった。

 頼信は、館と湖水を隔(へだ)てて対陣した。しかしここからでは、天然の堀が両軍を遮断(しゃだん)し、互いに攻め寄せる事は出来ない。忠常はこれを源氏の陽動作戦であると断じ、大手門に主力を置いたまま、頼信本陣の対岸を増強する事はしなかった。

 その日、頼信は平維幹に命じ、一軍を大手門前へと移動させた。そして、行軍を続けて来た兵を休めるべく、戦(いくさ)を控えた。頼信は只、夜討ちへの警戒を怠(おこた)らぬ様下知しただけで、その後は日の沈むまで、湖の辺(ほとり)を散策して居た。

 その夜は頼信の指示通り、各陣は忠常方の夜襲に確(しか)と備えて居たので、大友館からも手が出せず、何事も無く朝を迎えた。

 翌日、朝靄(あさもや)が晴れる頃、頼信は直参の河内武士二千騎を、一列縦隊に並ばせた。やがて隊の先頭が動き始め、湖水の中へと進み始めた。大友館忠常方の将兵は、暫(しば)しその様子を静観して居た。何(いず)れ深みに填(はま)り、溺(おぼ)れるのが落ちだからである。

 しかし大友館の兵達は、次第に背筋が寒くなるのを覚えた。源氏の軍は湖の中央まで来たというのに、尚も悠然と歩み進めて居るからである。忠常軍の中で、俄(にわか)に源氏方に対する恐怖心が膨(ふく)らんで行った。そして源氏の先鋒隊が広大な湖を渡り終え、岸に上陸した時、その恐怖は極(きわ)みに達した。

 兵法上から言っても、館の搦手(からめて)に敵の大軍の進入を許してしまっては、最早勝敗は決したも同然である。忠常は源氏二千騎が湖を渡り終え、館への総攻撃を開始し様として居るのを目(ま)の当りにし、一瞬己の目を疑った。そして、源頼信という男が人か魔か分らなく成り、頭が混乱したまま家臣に命じ、降伏の意を伝える大旗を振らせた。これを見て源氏方は攻撃を止め、陣形を整える一方、開門を求める使者を館へ走らせた。

 忠常は城門を開き、自ら門前に出て、頼信を迎えた。頼信は手勢二千騎を入城させると共に、館外に布陣する平維幹へ、敵軍降伏を通知した。斯(か)くして維幹勢三千も、すんなりと大友館に入る事が出来た。

 やがて、大友館を制圧した常陸軍の将頼信は、忠常を召し出した。この時、忠常は敗軍の将として、名簿(みょうぶ)と怠状(たいじょう)を差し出した。この後頼信は、忠常に対して厳しい処分は執らなかった。忠常の背後には未だ、老練なる陸奥守忠頼が健在であった故である。

 頼信は忠常の名簿、怠状を得ただけで満足し、数日滞在の後、常陸へ全軍を退却させた。常陸国府へ向かう途次、平維幹が訝(いぶか)しがり、頼信に尋ねた。
「介の殿、何故(なにゆえ)忠常奴(め)を厳罰に処さなかったのでござりまするか?所領を召し上げれば、二度と斯様(かよう)な悪事を起す事は能(あた)うまいに。」
「両総地方は今、実質忠常の統治下に在ると雖(いえど)も、名目上は忠頼殿の所領じゃ。これに手を付ければ、忠頼殿は全力を挙げて、当方と戦(いくさ)に及ばざるを得なく成ろう。さすれば、愈々(いよいよ)村岡平家は一丸と成り、武相両国の主力を繰り出して来るに違い無い。これ等に対抗するとなると、坂東一円は天慶(てんぎょう)以来の大乱に陥(おちい)ろう。又、鎮守府の維茂殿の御身(おんみ)も危うく成る。」
「成程(なるほど)、一理ござりまする。しかし、彼奴(あやつ)の立て籠(こも)った大友館を含む香取郡位は、召し上げても良かったのではありますまいか?」
「忠常は彼(か)の地で、当家秘伝の技を篤(とく)と見せ付けられた。最早大友館に拠(よ)って事を構え様とは、二度と思うまい。」
確かに、源氏軍が湖を渡る光景は、遠方より維幹も目にして居た。維幹はあの時の不可思議を思い出し、些(いささ)か興奮気味に問う。
「あれには、我等も流石(さすが)に度肝を抜かれ申した。清和源氏には、水に沈まぬ秘術でもござりまするのか?」
頼信は、微(かす)かな笑みを湛(たた)えて答える。
「我が父満仲は、かつて常陸介、下総守を歴任し、その折に内海(霞ケ浦)の地勢もよくよく調べたそうにござる。あの辺りは干(ひ)上がると、湖が幾つにも分断され申す。即(すなわ)ち、一見大きな湖に見え様とも、人が歩くに充分な浅瀬が、各地に在るのでござる。儂(わし)は父よりその図面を伝承してござれば、斯(か)かる奇襲が可能であったという訳でござる。」
「確かに、我等の代にあの辺りの水位は上がり、浅瀬を確認する事は無く成り申した。御先祖の御家伝、正に秘宝にござりまするな。」
維幹は磊落(らいらく)に笑って見せたが、その顳顬(こめかみ)からは、冷たい汗が伝って居た。源頼信は畿内に在って坂東の人情地理を知り、此度は下総の平忠常を服属させるに至った。今は未だ父忠頼が健在である為、迂闊(うかつ)に忠常の所領に手を出す事は出来ない。しかし忠頼は、既(すで)に齢八十を超えて居る。忠頼が没した後、頼信が本腰を入れて坂東に進出して来たとしたら、坂東に割拠する高望流平氏は、悉(ことごと)く源氏の配下に置かれるやも知れぬ。維幹の胸中には、斯(か)かる不安が過(よぎ)って居た。

 陸奥大掾(だいじょう)平政道が、陸奥守忠頼と鎮守府将軍維茂の和睦が成った事を、内裏(だいり)に報告して間も無く、常陸介源頼信も、兵を動かす不心得者は悉(ことごと)く成敗したと奏上した。これを受けて漸(ようや)く、左大臣道長以下の公卿達は、皆安堵の表情を浮かべるに至った。

 この日、陣座(じんのざ)に集結した高官が審議する内容は、坂東、奥州の今後の人事である。此度東国が不穏と成ったは、対立する忠頼と維茂を、職務上接点の多い、陸奥守と鎮守府将軍に任じた故である。仍(よっ)て、少なくともこの両名を、以後も留任させる事は出来なかった。

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