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第一節 嫡子入城
逢隈(阿武隈)の大河は滔々(とうとう)と奥州七郡を貫流し、その支流は近郷の水田を潤(うるお)して、凡(およ)そ五十万石の米穀を産する天恵を成す。沿岸部の仙道一円は、康保四年(967)、藍沢権太郎広行の乱以後戦は起らず、平和な時が流れて居た。
仙道北部では、強い勢力を持つ大豪族が周辺をよく纏(まと)め、太平を齎(もたら)して居た。信夫郡椿舘(つばきのたち)を居城とする、平政澄である。政澄の父政氏は、かつて陸奥大掾(だいじょう)職と奥州四郡の大領を兼帯し、奥州五十四郡の主(あるじ)、磐城判官と謳(うた)われた人物であった。しかし長保元年(999)、政氏は宮門警備の任に不届きが有った廉(かど)で、筑前国大宰府の東方に在る安楽寺へ流され、その後は連絡を取る事も能(あた)わず。
幸い、政氏の遺跡は嫡男政道が相続する事が叶(かな)い、奥州磐城郡住吉館を拠点に、父の築きし勢力を保持して居た。海道諸郡は本家政道の直参が支配する一方、実弟政澄は信夫(しのぶ)郡少領を拝命し、仙道北部の諸豪族を服属させるに至って居た。
政澄の家臣団の内、中核を成すのは松川一族であった。当主勝宗は平政道正室の長兄であり、亡き先代と共に、長年政澄の郡政を補佐して来た。次兄の勝秋は武勇に秀(ひい)で、磐城家先代政氏より、安積郡小川郷守山の地を賜(たまわ)り、仙道中央部に睨(にら)みを利かせて居た。もう一人の弟は、了円(りょうえん)と称す僧であり、近江国三井寺(みいでら)にて修行中の身である。
松川氏の他にも、大波氏や大和田氏等は先代政氏以来の臣であり、その忠義心は厚かった。
斯(か)かる折の信夫郡にて、椿舘の府より南方半里程の処、丘の中腹に小倉郷観世音の御堂が在り、中では未だ年の若い御前が、千手観音の前に座して居る。御前は手を合わせて、頓(ひたすら)祈り続けて居た。直ぐ側には、未だ齢(よわい)二つ程の幼児が在り、母に倣(なら)い、合掌の真似(まね)事をして居る。
長い祈りを捧(ささ)げた後、漸(ようや)く母御前が直ると、幼児もそれを見て、掌(てのひら)を離した。母子は共に立ち上がると、母御前が息子の手を引き、表へと誘(いざな)う。御堂の門が開け放たれた刹那、暗闇に慣れた二人の目には、外の光が一層眩(まばゆ)く感じられた。そして、正面西方に聳(そび)える、吾妻小富士と呼ばれる高嶺(たかね)の腹に、残雪が兎(うさぎ)の形を顕(あらわ)して居る。これは山兎、俗に種蒔(ま)き兎と称される物で、当地方の農民に取っては、春の種蒔きの適期を知る為の指標と成って居る。この日は快晴で、吾妻連峰の麗(うるわ)しくも雄大な景色が、逢隈(阿武隈)川の彼方(かなた)に広がって居た。
母子が御堂を出ると、十名ばかりの家臣が控えて居た。殆(ほとん)どは護衛の武士であるが、その先頭に待機して居たのは、年の若い侍女であった。侍女は母子の姿を認めると、二人の前へ歩み寄った。それを受けて御前は微笑(ほほえ)み、優しく言葉を掛ける。
「御待たせしてしまいましたね。では館へ戻りましょう。千勝を頼みまする。」
「はい、御方様。」
侍女は承ると、幼児の手をそっと掴(つか)み、輿(こし)の方へと誘(いざな)った。
先ず、御前が輿(こし)に乗り込んだ後、侍女に履物(はきもの)を脱がせて貰(もら)った幼児が、抱えられて母の乗る輿の中へと渡された。母御前は息子を確(しか)と抱き留めた後、傍らの侍女に告げる。
「苔野(こけの)、輿(こし)を出しなさい。」
「畏(かしこ)まりました。」
苔野という侍女は、輿の簾(すだれ)を下ろすと、他の者に出立を命じた。それを受けた武士達は、ゆっくりと輿を担ぎ上げ、隊列を整えて、小倉郷の大蔵寺境域を下って行った。
椿舘への帰途、輿(こし)の中で千勝という童子は、母御前に抱かれながら、その顔を見上げて居た。暫(しば)し怪訝(けげん)そうに母の顔を見詰めて居たが、やがて母と目が合うと、その思う所が口から出て来た。
「母上は御堂の中で、何をして居たのです?」
母御前は童子に、にこりと笑みを向けると、穏やかに話し始めた。
「明日、磐城へ向かう旅が、無事に済みます様に。後、磐城に居る千勝の父上と姉上が、元気にして居ります様に。それを観音様に、御祈りして居たのです。」
「父上と姉上か。早く会いたいな。」
母御前は優しく童子の頭を撫(な)でた。そして、我が子に告げなかったもう一つの願いを、思い描いて居た。それは即(すなわ)ち、舅(しゅうと)である前(さきの)磐城判官平政氏が、早く赦免を得て、陸奥へ帰国する事であった。
小倉郷の北端に、椿舘が在る。この館は、東西に連なる三つの丘に築かれし、要害である。東館は福見山の頂に在り、東西二十三間、南北十五間の広さである。中館本丸は椿山に在り、東西三十三間、南北十六間。西館は弁天山、別称八千代山に在り、東西十三間、南北八間と比較的狭いが、逢隈(阿武隈)川の西岸に広がる、信夫郡の中心を成す平野を、俯瞰(ふかん)する事が出来た。椿舘は逢隈(阿武隈)東岸を南北に分断し、その南方は小倉郷、北方は亘理(わたり)郷であった。又、逢隈(阿武隈)西岸の平野部は安岐郷であり、館主平政澄は、郡内三郷を御膝元とし、強固な地盤を築いて居た。
母子を乗せた輿(こし)は、やがて椿舘へ入って行った。中館本丸へ至った処で輿は下ろされ、傍らの侍女苔野が、中の母御前へ申し上げる。
「御方様、只今到着致しました。」
そして輿(こし)の前に履物(はきもの)を並べ、簾(すだれ)を上げると、中より母御前が先ず、降りて来た。中に残った童子は苔野が抱き上げ、共に屋内へと向かって行った時、俄(にわか)に渡り廊下を大きな音を立てて、歩み寄って来る武士が在った。
母御前はその姿を認めると、懐かしむ顔をして、静かに武士に対し、一揖(いちゆう)した。
「守山の兄上、御久しゅうござりまする。」
母御前の声を受け、武士は眼前まで来ると、恭(うやうや)しく一礼した。その様を見て、母御前は恥ずかし気に告げる。
「兄上、実の妹に対し、斯様(かよう)に仰々(ぎょうぎょう)しい礼を執らずとも。」
しかし、武士は真顔で答える。
「いえ、妹とは雖(いえど)も、今や磐城宗家の御正室。敬意を表さねば、政道様に対する不忠と成りまする。」
母御前はこの生真面目(きまじめ)な兄、守山勝秋の自身に接する態度に、違和感を拭(ぬぐ)えずに居た。これは妹が長幼の序を重んじ、兄が忠義を重んじて居た為に、生じたる錯綜(さくそう)である。
勝秋は御前の後方で、苔野に抱かれて居た童子の姿を認めると、嬉々とした顔に成った。
「彼所(あそこ)におわすが、若君千勝様か。以前ここへ参った時よりも、又一段と大きゅう成られた。」
そして勝秋は、再び御前の方へ顔を向け、話を続ける。
「実は本日某(それがし)が参ったは、明日の出立に際し、我が守山勢を以(もっ)て、磐城住吉御所までの嚮導(きょうどう)、並びに護衛を成す為にござる。」
「兄上が警護を務めて下さるのであらば、これ程心強き事は有りませぬ。宜しく御頼み申し上げまする。」
御前の言葉に、勝秋は深く頷(うなず)いた。
その日の夕刻、館主平政澄は、義姉と甥(おい)の送別を前に、別れの宴(うたげ)を催してくれた。これには松川一族の他、政澄の重臣も多数参列し、盛大な物と成った。
宴(うたげ)の冒頭、政澄は共に上座に座す御前に対し、言葉を掛ける。
「思えば、義姉(あね)上が当館へ御越しになられたは、二年余も前の事であった。御産を実家にて行うという、当地方の習わしに従いし物であったが、その後見事に宗家御嫡男千勝殿を挙げられた。千勝殿は二年間、この信夫にて健(すこ)やかに育ち、本郡家臣達との絆も深まった。これで儂(わし)も、磐城の兄上に対し、顔が立つという物でござる。」
御前は政澄の方へ体を向け、礼を述べる。
「政澄殿の仰せの通り、信夫の皆様方に御蔭を以(も)ちまして、成長した千勝の姿を、殿の御目に掛ける事が叶(かな)いまする。磐城に戻りし後も、信夫の方々の温かき御心遣いは、終生忘れ得る物ではござりませぬ。」
その言葉を受け、信夫の臣一同は答礼すべく、一斉に平伏した。
やがて皆は各々の前に置かれた膳に、舌鼓を打ち始めた。信夫は盆地であるので、広大な田畑からは様々な食材が収穫される。又、逢隈(阿武隈)の支流は蟹(かに)、鮭(さけ)、鰻(うなぎ)、鯰(なまず)、鯉(こい)、鮠(はや)、鮎(あゆ)等を育(はぐく)み、信夫の膳に彩(いろど)りを加える。御前は故郷の食材を大事に戴き、名残(なごり)惜しさを覚える一方、隣で苔野に抱かれながら、粥(かゆ)を食べる息子にも気を配って居た。千勝は未だ離乳したばかりであり、大人と同じ物を食する事は出来ないが、責(せ)めて粥と雖(いえど)も、信夫の味を記憶の片隅に留めて置いて欲しい、と願って居た。
粥(かゆ)や汁物といった消化に易しい物を腹に詰め、満腹と成った千勝は、大人達の喧騒(けんそう)を余所(よそ)に、次第に微睡(まどろみ)の中へと入って行く。千勝の寝息に気付いた御前は、息子を寝所へ運ぶ様、苔野に告げた。苔野は頷(うなず)くと千勝を抱き上げて、広間を静かに退出する。それに気が付いた重臣達は話を止め、御曹司の退室を、平伏して見送った。俄(にわか)に広間は静まり返り、苔野の足音だけが響いて居た。
本家嫡男の千勝が退席した後、静寂を打ち破ったのは、館主政澄の声であった。
「名残(なごり)が尽きぬのう。漸(ようや)く彼所(あそこ)まで大きく成ったに。もう少し、成長を見守って居たかった。」
御前が、謝意を込めて答える。
「申し訳ござりませぬ。本年陸奥守橘道貞様が退任遊ばされ、殿は新任の受領(ずりょう)を迎えるまでの間、久しく国府に留まるとの仰(おお)せにて。その前に嫡子を住吉御所に入れ、磐城の重臣に広めをして置きたいとの、思(おぼ)し召しにござりまする。」
「まあ、兄上の御気持も解る。急に父上が流刑と成り、海仙両道九郡に及ぶ大勢力の主(あるじ)と成られた故、多くの家臣共を纏(まと)めるのに、苦心なさって御出でにござろう。御嫡男に父上の幼名を授けられたのも、父上の威武を知る者に、多少なりとも従属心を煽(あお)る事が狙いと存ずる。」
御前の表情が、俄(にわか)に翳(かげ)った。政澄の言う通り、夫平政道は未だ、磐城平家家臣団を纏(まと)め切れずに居た。先代政氏が政道の補佐役に任じた三大老も、今では各々が派閥を形成し、住吉御所は三つに割れて居た。
御前の不安気な顔に気付いてか、松川勝宗が話題を変えて来た。
「思い起せば四年前、御前が始めて姫を出産された時は、未だ乳飲み子の内に、磐城へ戻って行かれてしもうた。しかし若君は、粥(かゆ)を御召し上がりになられるまで、久しくこの信夫の地に居られた故、一層別れが辛(つろ)う成りますな。」
「真(まこと)でござる。」
隣で勝秋も相槌(あいづち)を打つ。
兄の言葉を聞き、御前はふと、磐城に残して来た長女を思い出した。名を万珠といい、千勝とは二歳年上の姉に当たる。御前が千勝を身籠(みごも)った時、政道の命に因(よ)り、当地方の、出産を実家に戻って行うという習わしに従うべく、御前は当時未だ二歳にも成らぬ娘と別れ、信夫へ来たのであった。去り際(ぎわ)の、娘が母を求めて泣き叫ぶ姿は、今でも思い起すには辛い光景であった。その後、万珠姫は乳母の小笹(こざさ)に預けられ、今は四つに成った頃である。御前は、信夫を去り難い気持と、早く磐城の娘に会いたいという気持で、大きく揺さ振られて居た。
一方下座では、松川勝宗が弟の守山勝秋と、深刻に話をして居る。
「勝秋、御主は御前と若君の警護の為に、兵を如何(いか)程率いて参った?」
「はっ、ざっと二百騎。」
「何と、この農繁期に斯様(かよう)に兵を集めては、農民の恨(うら)みを買う事と成ろう。」
「致し方ござらぬ。逢隈(阿武隈)山中は近頃、再び山賊が多う成り申した。故に警固の為には、最低限これだけは必要にござる。」
「何と、磐城の大老方は何をされて居るのか。已(や)むを得ぬ。信夫の兵を幾(いく)らか回すか。」
「それには及びませぬ。我が小川郷は、白河郡長田郷を抜ければ、磐城へは直ぐの処にござる。しかし兵の代りに、恩賞として与える為の銭を、幾らか支給して戴ければ幸いに存じまするが。」
「相(あい)解った。後日政庁にて協議した上、手配致そう。」
「忝(かたじけの)う存じまする。」
勝秋が述べた様に、逢隈(阿武隈)山中横断は容易(たやす)い事ではない。明日の出立に備え、宵(よい)の膳は間も無く御開きと成った。
*
翌朝卯(う)の刻、夜が未だ明け切らぬ内に、守山兵二百騎は隊列を整え、出発の時を待って居た。椿舘西麓の逢隈(阿武隈)川は蒸気を発し、館周辺には霧(きり)が立ち籠(こ)め、視界は頗(すこぶ)る悪い。その中、時折風が吹き込み、守山勝秋が先代磐城判官政氏より授けられた繋(つな)ぎ馬の旗が、音を立てて、力強くはためいて居た。
守山勢が静かに見守る中、館主政澄と共に、御前が屋内より姿を現した。そして後方より、眠た気に眼を擦(こす)りながら、苔野に手を曳(ひ)かれ、千勝も続く。又、主な信夫の重臣達も、続々と見送りに出て来た。
庭に置かれた輿(こし)の前まで進むと、御前は義弟政澄に対し、別れの礼を執る。政澄も深く頭を下げ、答礼した。そして旅の無事を祈る旨を申し上げると、御前は笑みを残して、ゆっくりと輿(こし)の中へと進んだ。
続いて苔野に誘(いざな)われ、輿(こし)の前に歩み出た千勝に対し、政澄は和(にこ)やかに声を掛ける。
「千勝殿、暫(しば)しの御別れにござる。磐城へ行っても、御健(すこ)やかに。」
温かい目を向け、頭を撫(な)でてくれる政澄を見上げながら、千勝は尋ねる。
「叔父上は、一緒ではないの?」
政澄はゆっくりと首を横に振る。
「儂(わし)は千勝殿の父上の命で、ここに残らねば成らぬ。御事(おこと)が大きく成ったら、又信夫を訪ねて来なされ。」
千勝は突如、生まれ育った地の人々との別れを悟り、寂しさから憤(むずか)り始めた。それを見た御前は、慌てて苔野に告げる。
「千勝を、早う輿(こし)へ。」
苔野は千勝の手を曳(ひ)き、輿の手前で履物(はきもの)を脱がせ、御前に託した。御前は輿の中へ千勝を引き込むと、最後に椿舘の諸将に向かい、一揖(いちゆう)した。それを受けて、信夫の諸臣一同が礼を執る最中、輿の簾(すだれ)は下ろされる。愈々(いよいよ)磐城へ向けて、軍旅は進発を始めた。
守山勢の前軍が、続々と椿山を下って行くと、引き続き中軍の出発と成り、御前と千勝の乗る輿(こし)も担ぎ上げられた。その傍(そば)に在って、指揮を執る守山勝秋の号令を受け、中軍も遂(つい)に動き始めた。
揺れる輿(こし)の中で、信夫を去り難い念に駆られて居た千勝は、堰(せき)を切った様に、涙が留処(とめど)無く頬(ほお)を伝って居た。その涙は次々と、千勝を包む母御前の袖(そで)に染み込んで行く。母御前は凛然(りんぜん)とした面持ちで、千勝にしか届かぬ小声で諫(いさ)める。
「其方(そなた)は磐城判官家の嫡男なるぞ。臣下である信夫家の前で、斯様(かよう)に女々(めめ)しき振舞は成りませぬ。」
千勝は母の言に頷(うなず)きつつ、必死に噎(むせ)び声を圧(お)し殺そうと努める。
「それで善(よ)い。」
母御前は息子の様を見て、優しく頭を撫(な)でた。
やがて、長蛇の列と成って椿山を下りた守山勢は、逢隈(阿武隈)の大河を渡り、嶺越郷へと出た。そして仙道、別称陸羽街道を南下し、母子の生まれ故郷を離れて行った。
一行はその後信夫郡を抜け、安達郡を過ぎ、安積(あさか)郡へと入った。安積郷内逢瀬川の手前で、仙道より東へ、一筋の街道が分岐して居る。これが磐城街道であり、逢隈(阿武隈)山中の丸子郷を経由して、磐城郡へと延びる主要道である。守山勢は再び逢隈(阿武隈)川を渡り、山中へと足を踏み入れて行った。
安積郡丸子郷の首邑(しゅゆう)には平沢館が建ち、黒沢正顕(まさあき)がこの地を拠点に、近郷の村々を支配して居る。黒沢正顕は、磐城判官政道の母の弟、即(すなわ)ち叔父に当たる。千勝に取っては大叔父に当たり、磐城平家一門衆として、家中でも重き地位を占めて居る。
しかし、黒沢家には一つの汚点が有り、それは今でも尾を引いて居た。長保元年(999)、磐城家先代平政氏が、筑前国安楽寺に流刑に処されたのは、正顕の実兄大江時廉が、讒訴(ざんそ)した為であった。政氏の奥州における勢力拡大を危惧(きぐ)した公卿は、時廉が政氏の謀叛を訴え出た事を口実に、遥か遠く、大宰府の近くに流したのであった。その後、政氏に謀叛の動きが無かった事が証明されると、時廉は誣告(ぶこく)罪で処刑された。しかし朝廷は、政氏に左衛門大尉(さえもんのだいじょう)として任せた宮門警備に、不行き届きが有ったは事実として、政氏を赦免する事は無く、先代政氏は今も尚、筑前に配流に処されたままであった。
又、正顕にはもう一人兄が居り、名を滝尻政之という。かつて平政道が、磐城郡政を父より代行して居た折、悪政を滝尻周辺に蔓延(はびこ)らせた為に政氏の勘気を蒙(こうむ)り、滝尻御所に幽閉された。そして政氏失脚の混乱を経て、未だその罪は許されて居ない。幸い、滝尻御所を任されている橘清輔が鄭重に遇して居る為、今も滝尻にて、健やかに過ごして居る。
斯(か)かる人物を出しながらも、黒沢家が磐城の一門衆として勢力を保って居られるのは、姉三春御前が政氏の正室であり、現当主政道の実母で有った事に加え、先代正住が磐城家勃興に、多大なる功績を挙げた事に因(よ)る。
政氏流刑の後、正顕は磐城家より奸物の弟と謗(そし)りを受けぬ様、言動には細心の注意を払い続けて来た。此度、御前と若君が磐城へ御帰還の為、途中平沢館で宿を取る旨が伝えられると、正顕は館の内外を綺麗に掃(は)き清めさせ、貴人に対する礼を以(もっ)て迎えた。
平沢館における持て成しは、旅に疲れた一行の心身を、充分に癒(いや)す物であった。食事は米をふんだんに用い、力の付く物であり、且(か)つ美味であった。寝所には柔らかい蒲団(ふとん)が用意され、御前と千勝は緩(ゆる)りと休が事が出来た。又、守山兵二百名にも、館内に寝所が用意された。そして館より差し入れられた酒を適量呷(あお)り、心地好く床(とこ)に就(つ)く事が出来た。
翌朝、信夫からの一行は、少々体の痛みを訴える者も有ったが、多くは気分好く朝を迎える事が出来た。起床後早々に朝餉(あさげ)を戴き、辰(たつ)の刻には出立の準備が整った。
館を発つ折、庭に出た信夫御前は、館主黒沢正顕に対して鄭重に礼を述べた。
「この度は、格別なる御持て成しで御迎え戴き、誠に有難く存じまする。住吉に戻った折は判官様に、黒沢家の御心遣いの程を、御伝え致しましょう。」
御前の返礼を受け、正顕は御前の前に膝(ひざ)を突く。
「有難き御言葉にござりまする。政道様には、磐城郡の北西は平穏にて、御懸念無用と御伝え下さりませ。」
「解りました。」
御前は笑顔で頷(うなず)いた後、思い出した様な顔をして、言葉を接ぐ。
「そう言えば、義母(はは)上とは久しく御会いして居りますまい。何ぞ御言伝(ことづ)てが有るならば、妾(わらわ)より申し上げて置きましょう。」
正顕は少し考えた後、真顔と成って言上する。
「されば、姉上に御伝え下さりませ。政氏様は必ずや、無事に磐城へ御戻り遊ばされる故、早まって剃髪(ていはつ)等御考えになられませぬ様にと。」
御前は粛然たる面持ちと成り、正顕に承知の意を告げた。
そして御前は、庭に用意された輿(こし)に千勝と共に乗り込むと、守山の護衛兵と共に城山を下りて行った。
簾(すだれ)越しに見る丸子郷の景色も、長閑(のどか)な物であった。信夫郡も平穏その物であったが、この三春の地でも貧民の姿は目立たず、若者は皆各々の生業(なりわい)に勤しみ、老人はのんびりと、道端で談笑して居る。御前は未だ幼い息子に、丸子郷の民の暮しを良く見て置く様に告げた。平政道と黒沢正顕は、為政者の良き手本であると感じた故である。千勝は母に促(うなが)されるまま、簾(すだれ)の向こうに映(うつ)る、丸子郷民の暮し振りを眺めて居た。
三春の邑(ゆう)南方に在る清水村を過ぎる時、母御前はかつて、舅(しゅうと)政氏から聞いた話を思い出した。政氏が康保(こうほう)の役を戦う最中、丸子郷清水の丘に滞陣した折、守り本尊を安置して居た仮設の祠(ほこら)が、土砂崩れに因(よ)って流され、その後探し出す事は叶(かな)わなかったという。母御前は、相馬以来の守り本尊が埋没して居ると伝えられし丘に向かい、そっと手を合わせた。そして政氏を始め、磐城平家を御護り下さいます様にと、祈願したのであった。
丸子郷の東南からは、道が二つ延びている。東方へ向かい、大滝根川に沿う道は、片曽根山の北東、大滝根川と牧野川が合流する辺りに開けた邑(ゆう)を擁する、芳賀郷に至る。そこが安積(あさか)郡の東端であり、その東は海道標葉(しめは)郡であるが、険しい逢隈(阿武隈)山地に阻(はば)まれ、通行は容易ではない。芳賀郷より東南の山間(やまあい)を抜けると、木戸川の上流へ達し、沿岸には幾つかの集落が形成されて居るという。彼(か)の地は俗に山楢葉と呼ばれ、一応は磐城郡楢葉郷内に含まれる。しかし街道から五里は隔(へだ)てた山奥に位置する為、磐城平家より当地を任されし重臣江藤玄貞も、統治には苦心して居ると聞く。
芳賀郷へ延びる道の他、東南方の小野郷を貫通し、夏井川沿いに磐城郡小高郷を経て、飯野平にて海道、別称浜街道に至る道が有る。それが仙道安積郡と海道磐城郡を結ぶ当地方の主要路、磐城街道である。磐城家の一行はこの街道を進み、一路磐城を目指した。
小野郷は夏井川上流の辺を首邑とする、安積郡の東南端に位置する。凡(およ)そ百五十年前、この地に小野小町という女流歌人が出生したとの伝承が残る。出羽郡司小野良真の娘であり、仁明天皇の更衣(こうい)であったという。文徳朝の頃まで宮中に仕え、文学に非凡な才を発揮した人物である。当時絶世の美女と謳(うた)われた一方で、紀貫之が『古今和歌集』序文の中で称讃する程の歌を、多々残した。小野小町を輩出した小野氏は、推古朝の時、摂政聖徳太子の命を受け、遣隋使として隋朝二代皇帝煬帝(楊広)に謁見(えっけん)した、小野妹子(おののいもこ)を祖とする。小野小町の祖父小野篁(たかむら)は法理に明るく、養老令の注釈書である「令儀解」(りょうのぎげ)十巻を、勅命に因(よ)って清原夏野、菅原清公等と共に撰進し、令の解釈統一に貢献した人物である。後に従三位参議に叙された。篁(たかむら)を父とする葛紘の子、即(すなわ)ち小野小町の従弟には、好古、道風兄弟が居る。小野好古は純友の乱の折、追捕山陽南海両道凶賊使を拝命し、見事に瀬戸内、九州を平定した人物である。一方弟の道風は、和様書道の基礎を築いた人物であり、藤原佐理(すけまさ)、藤原行成と共に「三蹟」(さんせき)と称された。
この小野郷は目下、黒沢氏の勢力下に置かれて居る。平政氏は三春黒沢家を御一門として重用し、奥州南部において比較的貧しき、山村の振興を託した。又、康保(こうほう)の役を引き起した藍沢広行の残党にも、目を光らせて居たのである。
小野郷より南の山道を進めば、磐城郡北西端の守りの要である、三倉館に至る。しかし磐城家の一行は、夏井川渓谷沿いに整備された磐城街道を取り、遂に磐城郡へ入った。
籠場(かごば)にて小休止と成り、御前は千勝と共に輿(こし)を下りた。春であるというのに、逢隈(阿武隈)山中の日当りの悪い所には、残雪が未だに在った。しかし、磐城郡内に入った頃からは、雪を見掛ける事も無く成り、代わって新緑が爽(さわ)やかに、渓谷の両岸を彩(いろど)って居る。
「秋に成ればこの緑が一面、錦色に変わるのですよ。」
母の言葉を受け、千勝は周囲の大自然を見渡しながら、初めて見る景色に心を躍(おど)らせて居た。
ふと、千勝は近くで轟音がして居る事が気に掛かった。その様子を察した勝秋は、千勝を抱き上げ、道を外れて、川岸の岩場へと下りて行く。やがて断崖より眼下に見下ろした物は、雪解けの水を集め、数丈の高さから怒濤の如く多量の飛沫(ひまつ)を上げて落ちる、勇壮な滝であった。千勝は日々信夫にて、逢隈(阿武隈)の大川を眺めて来たが、滝を見るのは初めてであり、その大地の力に、暫(しば)し心を奪われて居た。
籠場の滝
*
籠場(かごば)より二里程、街道に沿って東南へ進むと、夏井川の周辺には平坦な耕地が目立ち始め、次第に村落が両岸に開けて来る。この辺りが磐城郡十二郷の一、小高郷である。ここより南方の浜街道に出て、間も無くの処に、郡内西方の要地、高坂館が在る。小高郷の諸豪族は、高坂館主斎藤邦秀の影響下に置かれ、以(もっ)て秩序が保たれ、長閑(のどか)な里の風景が広がって居る。斎藤氏は、政氏、政道と、磐城二代に仕える忠臣である。仍(よっ)てここまで来れば、既(すで)に磐城判官の威光が行き渡り、跋扈(ばっこ)する賊の姿も見られなく成る。守山勝秋は、住吉御所までもう一息だと、兵達を鼓舞(こぶ)した。
夏井川の清流と閼迦井嶽(あかいだけ)の威容を右手に見つつ、守山の一隊は街道を南下した。やがて夏井川とその支流好嶋(よしま)川を渡ると、赤目崎物見岡(あかめがさきものみがおか)が際(きわ)立って聳(そび)え、その周囲に纏(まと)まった平地を持つ飯野平に到達した。物見岡の麓(ふもと)を過ぎて南へ出ると、漸(ようや)く浜街道に合流する。
ここより西方に進路を取り、高坂方面へと向かうのだが、少し進むと次は、夏井川支流の大根川(新川)が行く手を遮(さえぎ)る。この川には村人が橋を架けては居るが、大雨で水嵩(みずかさ)が増すと、容易に流されてしまう。近隣住民は途端に、飯野郷分断の憂(う)き目に遭(あ)い、生活に多大な支障を来(きた)す事と成る。当地は荘園であり、郡司に支配権は無い。それに目を付けた郡司平政道の重臣斎藤邦秀は、斯(か)かる罹災(りさい)民の救済に力を入れ、次第に荘園を、公領へと回復しつつ在った。民は磐城平家を、領主として仰ぐべきだと考え始めたのである。
街道に沿って、上綴(かみつづら)村西方の藤棚(ふじだな)村落を過ぎると、街道は坂道と成る。堀坂(ほっさか)、傾城(けいじょう)等の集落を抜けると、景色は再び開け、間も無く三箱(さはこ)の邑(ゆう)に至った。この村は温泉(ゆの)神社を祀(まつ)り、私(きさい)郷の中心である。ここより浜街道は湯本川の西岸を走るが、一行は街道を離れ、東岸の道を選んだ。これはかつて、磐城家先代政氏が、豊間に配置した近藤氏と共に整備した、小名浜街道である。三箱と、磐城郡内最大規模の津である小名浜とを結び、その中間に磐城平家本城住吉御所、別称玉川城が聳(そび)えて居る。
輿(こし)に揺られながら千勝は、父や姉がおわす館の近くまで来た事を、簾(すだれ)越しに侍女苔野より聞いた。千勝は、本日より新たな住居と成る御館がもう直ぐ見えて来ると聞き、簾(すだれ)の外を、目を凝(こ)らして見続けて居た。
道は下船尾村より、玉川に沿い始める。西へ傾いた陽が、俄(にわか)に赤く変色した光を放ち始めたその時、千勝はかつて見た事の無い光景を、目(ま)の当りにした。周囲の田畑は荒廃し、作物が悉(ことごと)く薙(な)ぎ倒されて居る。小名浜道には大量の土砂が流れ込み、道は酷(ひど)く凸凹(でこぼこ)と成り、又泥濘(ぬかる)んで居た。
夕焼けが野田村の惨状を、血の色の如く映(うつ)して居る。千勝は思わず、母御前の袖(そで)に顔を押し付け、目を背(そむ)けた。輿(こし)の側を警護する勝秋も、水害の被害に直面し、言葉を失って居た。前軍の兵は、比較的泥(どろ)の堆積して居ない処を選び、踏み固めて、後続が通り易い様に努めた。
周囲には、家や田畑を失い、呆然(ぼうぜん)と佇(たたず)む者や、泣き叫ぶ童(わらべ)の姿が、ちらほら目に入った。千勝は怯(おび)えながらも、初めて見る物への好奇心からか、再び簾(すだれ)の外へ目を遣(や)った。被災地の先には、夕陽を受けて赤く染まる住吉御所が、迫りつつ在った。
一行は間も無く、住吉御所の大手門へと到着した。門衛が左右に分かれ、礼を執って居る中を、千勝等を乗せた輿(こし)は、粛々と進んで行く。
住吉御所は、平政氏が磐城郡内を制圧する以前に築かれた物で、戦(いくさ)に備えた山城と成って居る。母御前と幼い千勝が登るには、通路は険しい。仍(よっ)て輿(こし)は大手門を潜(くぐ)ると、中軍の一部だけが随行し、大館(おおだて)本丸へと登って行った。
本丸では、磐城判官政道を始め、磐城平家の重臣達が出迎えて居る。千勝は初めて会う父との距離が狭(せば)まるに連れて、体が硬直するのを覚えた。
程無く守山本隊は、政道等の居並ぶ本丸へと到着し、将の勝秋が主君政道に、任務の完了を報告した。その間、輿(こし)の簾(すだれ)が上げられ、千勝は苔野に誘(いざな)われ、藁沓(わらぐつ)を履(は)いて外へ下りた。続いて母御前も、ゆっくりと輿を下りて来る。
母御前は千勝の手を曳(ひ)き、静かに政道の前へ歩み出た。そして、礼を執りながら申し上げる。
「只今、信夫より戻りましてござりまする。」
政道は頷(うなず)いて、御前の肩に手を置いた。
「長旅で疲れたであろう。善(よ)くぞ無事に戻って来た。して、その者が千勝か?」
「はい。」
政道は、御前の傍らでおどおどして居る童子に目を遣(や)った。そして千勝の背を掴(つか)み、ふわりと抱き上げる。政道は、初対面の我が子の顔をまじまじと見詰めつつ、和(にこ)やかに語り掛ける。
「儂(わし)が其方(そなた)の父、平政道じゃ。母上や信夫の叔父上より、聞き及んで居ろう?」
「はい。」
優しい父の顔を見て、千勝の顔からは、次第に怯(おび)えが消えて行った。政道は微笑を湛(たた)え、千勝の頭を一撫(な)ですると、千勝を抱えたまま振り返り、諸臣に告げた。
「皆の者、これが当家の嫡男、千勝である。宜しゅう頼むぞ。」
「ははっ。」
磐城平家の重臣達は、挙(こぞ)って平伏した。その光景を見た千勝は、訳が解らず戸惑いを覚えた。
平伏す諸臣の中、一人立ったままで居る少女の姿に、千勝は気が付いた。少女はじっと、千勝を見据えて居る。千勝が不安気に顔を背(そむ)けると、少女はすたすたと歩み寄って来た。
それに気付いた政道は、少女に話し掛ける。
「万珠、其方(そなた)の弟じゃ。かわいがって遣(や)るのだぞ。」
そう言うと、政道は千勝を下ろした。
万珠姫は、千勝より二歳年長である。背丈も千勝より、遙かに高い。その初めて見る姉が、真剣な顔付きで千勝の方へ向かって来る。千勝が戦(おのの)いて数歩後退すると、姫は千勝の脇を過ぎ、その先に居た母御前の元へと駆け寄った。姫は母の膝元にしがみつくと、俄(にわか)に噎(むせ)び始めた。母御前は娘を抱き留めて、優しく囁(ささや)く。
「善(よ)く、母の顔を覚えて居てくれました。二年見ぬ間に、大分大きく成りましたね。」
母御前は懐より布を取り出すと、娘の顔を拭(ふ)いて遣(や)った。
直後、万珠姫を追って、三十路(みそじ)程の侍女が、御前の前へ進み寄って来た。御前は娘の手を取って立ち上がると、和(にこ)やかに侍女へ告げる。
「小笹(こざさ)、娘を良く養育してくれた事、礼を申します。」
「いえ、御方様こそ無事に御戻り遊ばし、慶ばしき限りにござりまする。」
小笹と云う侍女は、信夫御前より万珠姫付きを仰せ付かって居り、この二年間、姫の母親代りを務めて来た。万珠姫は聞分けが良く、母の居ない寂しさを懸命に堪えて来た。小笹の言を良く聞き、大人しくして来た分、今日母の顔を二年振りに見て、心の底に秘めて居た物が、一気に顕(あらわ)に成った様子である。千勝は呆然(ぼうぜん)と、姉の後ろ姿を見て居た。
やがて千勝と信夫御前は、小笹の案内を得て、屋内へと入って行く。千勝付きの侍女苔野と、万珠姫も共に続いた。
一方で、政道が守山軍の宿割りの手配を命じて居た所、治水普請に携わる家臣より、早馬が相次いで飛ばされて来た。これを受けて、政道は家臣等に対し、政庁において評定を行う旨を命じた。そして守山家と一部家臣を残し、政庁へと渡って行った。
千勝は藁沓(わらぐつ)を脱いで館に上がると、苔野に手を引かれ、母御前の後に付き、館奥へと向かった。後ろから、姉の万珠姫と侍女小笹も付いて来る。千勝は姉の為人(ひととなり)が未だ掴(つか)めず、背後からの視線に緊張を覚えて居た。しかし御所の中を見回して居る内に、信夫の椿舘には無い絢爛(けんらん)さに目を奪われ、何時(いつ)しか姉の事は気に留めなく成って居た。
不意に母御前が立ち止り、それを受けて後方の四人も歩を止めた。母御前は真顔で振り返ると、千勝の前で膝(ひざ)を突き、息子の両肩を掴んで話し始める。 「これより御祖母(おばば)様の元へ、挨拶に参ります。御行儀良く出来ますね?」 母の真剣な眼指を受け、千勝は思わず頷(うなず)いた。御前はそれを見て微笑を湛(たた)えると、立ち上がって、再び回廊を歩み始めた。
間も無く、五人は三春御前の間に到着した。御前付きの侍女の案内を得て中に入ると、上座に三春御前が腰掛けて居るのが見えた。先代平政氏の正室で、磐城判官政道の生母である。政氏が磐城を粗方(あらかた)掌握した天禄の頃に磐城平家へ嫁(か)し、爾来(じらい)四十年近い月日が流れて居た。髪は大分白く成り、顔や手の皺(しわ)も深い物の、姿勢良く、堂々と構えて居る。
夫を亡くした妻は普通、髪を下ろして仏門に入り、亡夫を弔(とむら)う物である。しかし三春御前の夫政氏は、筑前国安楽寺に流されて七年、未だ連絡が取れず、生死の程も判然としない。その中で三春御前は、唯々(ただただ)夫の健在を信じ、仏門に入らずに居たのである。
信夫御前は三春御前の前に進み出ると、腰を下ろして座礼を執った。後ろから付いて来た姉弟も、母の後ろでそれに倣(なら)い、更(さら)に後方に侍女が控えた。三春御前は、温和な笑顔を皆に向ける。
「無事に信夫より戻られ、祝着(しゅうちゃく)に存じまする。その御子が、千勝殿ですか?」
三春御前の温かな眼指は、千勝へと注がれた。
「はい。」
信夫御前の返答を聞き、三春御前は千勝を、自身の元へ招いた。祖母の慈愛を感じた千勝は、立ち上がって祖母の前へと進む。
「健やかに育った様ですね。」
そう言うと、三春御前は二歳の孫を、己の膝(ひざ)の上に抱き寄せた。そして、頭を撫(な)でながら尋ねる。
「千勝殿の名前の由来を、御存知ですか?」
千勝は祖母を見上げながら、黙って首を振る。三春御前は眼を細めると、優しく語り始めた。
「千勝という名は、御祖父(おじじ)様が小さな時の名なのですよ。」
「御祖父様と同じ?」
「そう。父上様の、その又父上様が童名(わらわな)です。多くの方に慕(した)われた立派な御方でしたから、父上様も千勝殿に斯(か)く在って欲しいと願い、授けられたのでしょう。」
千勝は初めて聞く事にきょとんとしながら、祖母に尋ねる。
「御祖父様は、何処(いずこ)に居るのですか?」
三春御前は表情を曇らせて答える。
「御祖父様は今、遥か遠く、西方の国におわしまする。千勝殿がもう少し大きく成られた頃に、御戻りになられまする。その時、御祖父様が千勝殿を見て悲しむ事の無き様、健やかに、そして御利口に育つのですよ。」
「はい。」
何(いず)れ祖父に会えるという、新たな楽しみを得た千勝は、溌溂(はつらつ)とした顔で答えた。
*
やがて挨拶が済むと、信夫御前以下、子供と侍女は三春御前の間を辞し、信夫御前の自室へと移った。
母御前は腰を下ろし、二人の子を手前に座らせると、先ずは姉の万珠姫に言葉を掛けた。
「万珠には長い事寂しい思いをさせ、済まなく思います。」
「いえ、今日より又一緒に過ごせまする故、もう悲しくはありませぬ。」
姫が満面の笑みで答えるので、母御前の口元は綻(ほころ)んだ。
「そうですね。それに今日からは、姫の弟も一緒です。良く面倒を見て上げて下さい。」
「はい、母上。」
元気良く返事をした万珠姫は、隣に座す弟の顔を覗(のぞ)き込む。
「私は貴方の姉、万珠。千勝は、もう話が出来るの?」
千勝は呆然(ぼうぜん)と頷(うなず)く。姫は些(いささ)か剥(むく)れ笑顔と成った。
「武士の子なれば、返事は確(しっか)りとしなさい。それでは戦(いくさ)に勝てませぬ。」
そう言うと、姫は千勝の腕を掴(つか)んで立ち上がり、母御前に向かう。
「母上、千勝と遊んで参りまする。」
「おやおや。千勝は明日、磐城平家諸臣と顔合せをするのですよ。怪我等をさせては、御父上の御顔を傷付ける事に成り兼ねませぬ。そこの御庭で、気を付けて遊びなさい。」
「はい、母上。」
母親の心配を余所(よそ)に、姫は弟だけではなく、侍女小笹をも誘う。それを見た母御前は、強い口調で娘に告げる。
「母は少々、小笹と苔野に話が有りまする。二人で遊んで居なさい。」
万珠姫は一瞬立ち竦(すく)んだが、直ぐに弟が袖(そで)を引くので、我に返った。
「姉上、行きましょう。」
千勝に取っては、城内の庭と雖(いえど)も、初めての場所である。彼方此方(あちこち)覗(のぞ)いて見たいという好奇心が起って居た。そして姉を引っ張り、わくわくした顔で、庭へと下りて行った。
母御前の間の簾(すだれ)は悉(ことごと)く上げられ、室内に居ても、庭で戯(たわむ)れる二人の子の姿が目に入る。御前は安堵して、目の前に座る侍女と話を始めた。
「小笹、其方(そなた)には妾(わらわ)が不在であった二年余の歳月、万珠の母親代わりとして姫を健やかに育ててくれた事、重ねて礼を言います。」
小笹は恐縮しつつ答える。
「滅相もござりませぬ。私は只、御方様が信夫へ御移り遊ばされておわす間、姫様が心細く成らぬ様、努めただけにござりまする。」
母御前はゆっくりと頷(うなず)き、笑みを浮かべた。
「嬉しい言葉です。其方(そなた)になら姫を託せる。今後も従来通り、姫の養育係を務めて貰(もら)いたい。何(いず)れは殿が、止事(やんごと)無き御家に輿(こし)入れさせる事と成りましょう。何処(いずこ)へ嫁いで行こうとも、決して当家の恥と成る事の無き様に。」
「はっ。全身全霊を捧(ささ)げ、姫様の御養育に当たらせて戴きまする。」
そう答えて、小笹は平伏した。
続いて御前は、小笹の隣に座る苔野に目を移した。
「苔野。」
「はい。」
「千勝の事ですが、信夫より当御所に参ったばかりで、其方(そなた)の他に気を許せる侍女が居りませぬ。仍(よっ)て、其方(そなた)に千勝の養育を頼みたい。申すまでも無く、千勝は磐城本家の嫡男。将来は当家を継いで四郡の主(あるじ)と成り、陸奥の重職を拝命する身です。心して務めるのですよ。」
しかし苔野は、平伏したまま、震えて居る。
「行けませぬ、御方様。御嫡男の御養育は、私等の若輩者ではなく、老女より選任なされるが宜しいかと存じまする。」
苔野の声は上擦(うわず)って居たが、良く響いた。そしてそれは、庭で遊ぶ千勝の耳にも入った。
千勝は不意に苔野に向かって駆け付けると、廊下の下まで来て叫んだ。
「苔野、もう遊んではくれないの?」
悲しい目をして佇(たたず)む千勝に、苔野は手で顔を覆(おお)って背けた。苔野は未だ十代後半の娘である。老女を差し置き、主家嫡男の養育を務める自信が無かった。そして、物心が付いた時より常に側に在った、苔野に見捨てられたと思った千勝は、俄(にわか)に噎(むせ)び始め、やがて大粒の涙を流し始めた。見兼ねた万珠が弟を抱き締め、代わって苔野に懇願する。
「弟は、貴女に側に居て欲しいのです。御願いします。」
万珠の真摯(しんし)な態度は、苔野の心を更(さら)に揺さ振った。その様子を窺(うかが)い、御前は再び苔野に声を掛ける。
「其方(そなた)の気性では、嫡子養育の任は、先ず辞退するであろうと思って居りました。しかし、私の見る所では、其方の修めたる学問は、当御所内においても随一の物です。」
そして御前は、表で泣き噦(じゃく)る千勝に目を移して、話し続ける。
「千勝は未だ幼いと雖(いえど)も、後十年もすれば、元服の歳と成りまする。その後はこの対屋(たいのや)を離れ、然(しかる)るべき重臣の元にて、武家の嫡男としての教育が始まるでしょう。しかしそれまでは、品性を磨(みが)かねば成りませぬ。其方(そなた)は謙虚であり、且(か)つ慎重さを備えて居ます。その性格は、私が千勝に望む物であり、其方が千勝の側に在れば、千勝も薫陶を受けるであろうと、期待をして居るのです。」
苔野は御前の言葉を受け、その期待に応えたいと思う気持と、己の自身の無さに、激しく葛藤した。そしてそれを打ち破ったのは、隣に座す小笹であった。
小笹は苔野より、十歳以上も年長である。侍女として、苔野より遙かに練達する小笹が、温かい表情で苔野を諭(さと)す。
「私も御方様の御考えには、一理有ると思います。貴女は若い身空で新天地に移り、多くの不安を抱えて居るのでしょう。分らぬ事は私が相談に乗りますから、先ずは御方様の御期待に沿うべく、努めて見ては如何(いかが)でしょう。」
小笹の助言を得て苔野の胸中には、俄(にわか)に勇気が漲(みなぎ)った。そして手を床に突き、御前に申し上げる。
「未熟者にござりまするが、御方様の御期待を裏切る事の無き様、精一杯努めたく存じまする。」
「おお、では引き受けてくれまするか?」
「はい。謹んで。」
苔野の目に光を感じた御前は、漸(ようや)く安堵の息を吐(つ)いた。
突然、千勝が居間に駆け込んで来て、苔野の懐(ふところ)にしがみついた。苔野は斯様(かよう)に己を慕(した)ってくれる千勝をいとしく思い、千勝を優しく抱き抱(かか)える。
その様子を見て、心暖まる気持と成った御前は、二人の侍女に申し渡す。
「二人に対する話は以上です。今後とも、子供達の事を宜しく頼みまする。」
苔野は千勝を抱きながら、小笹と共に頭を下げた。
話が済んだ事を悟った万珠姫は、小笹に遊び相手をねだる。それを見た千勝も立ち上がり、苔野の袖を引いて、姉の元へ向かおうとする。姉弟が早くも打ち解けて居る様を見ると、御前は母親として、無上の喜びを感じるのであった。
そして、侍女達が子二人に引かれて庭に下り様とする時、母御前は一言、言葉を加えた。 「苔野、千勝は明日、殿の国府入りを前に、諸臣への御披露目(おひろめ)が有ります。後程詳しい話が有ると思いまするが、心に留め置いて給(たも)れ。」 「はい。承知致しました。」 真顔で答える苔野の袖を、千勝が急(せ)かす様に引っ張る。苔野は御前に一揖(いちゆう)すると、千勝に引かれるまま、庭へと下りて行った。
やんちゃ盛りの子等を眺めながら、御前の口から不意に息が漏れた。しかしその表情は嬉々とし、至極(しごく)満足気な様子であった。
*
翌日、住吉御所城下より、磐城平家家臣が続々と登城に及び、本丸政庁広間へと入室して行く。やがて全員が広間に揃(そろ)うと、その旨が控えの間に伝えられた。それを受けると、当主政道に付いて、御前が嫡子千勝の手を引き、ゆっくりと歩んで行く。
広間に主家の御越しが告げられると、程無く政道等が入室し、諸臣は一斉に平伏した。千勝は大勢の大人達が、皆頭を下げて居る様を怪訝(けげん)に思いながらも、母に手を引かれて、上座へと進んで行く。上座には政道と御前が並んで座り、千勝は母御前の脇に、ちょこんと腰を下ろした。
広間に詰める家臣は、三十名に及ぶ。その誰もが、初めて見える、主家の嫡男に注目して居る。千勝は、大勢の注目を集める事は、信夫の椿舘で既(すで)に慣れて居た。逆に千勝も重臣達を見渡し、この館には何(ど)の様な者が居るのか、興味深く観察して居た。
多くの家臣の中で、特に威厳を備えて居たのは、最前列に座す三人の武将であった。彼等は先代政氏より任ぜられた、磐城平家の大老達であり、当主政道の補佐を務める様、政氏より命を受けて居た為に、強い発言力を持って居た。しかしその体制が築かれたのは、政氏が未だ磐城判官であった頃である。所が政氏流刑後も依然、政(まつりごと)を執り行う際には、三大老の承認を得ねば成らぬ体制が、ここ磐城平家では継続されて居た。政道はそれを、大層煩(わずら)わしく思って居たのである。
三大老の内、右手に座すのは大村次郎信澄である。磐城の小豪族の子であったのを、政氏に見込まれ、所領が少ないにも拘(かかわ)らず、大老に抜擢(ばってき)された。磐城家に深く恩義を感じて居るだけに、政道はその素行から、忠節の士と信を置いて居る。加えて磐城の諸豪族の中に、政氏の磐城入部以前より誼(よしみ)の深い者も多く、大老の中では最も、近隣豪族の信望を集めて居た。
左手に座る大老は他の二人に比べ、十程年長に見える。高野盛国といい、白河郡東部に広大な所領を持つ大豪族である。白河郡高野郷に居城を持ち、かつては五郷を支配下に置いて居た為、高野郡司とも称される。街道通行の扶(たす)けと成る駅家(うまや)は、陸奥国内における海道、即(すなわ)ち菊多から亘理(わたり)に架けての六郡には整備されなかったが、高野駅には馬二疋が配置され、常陸国府と奥州白河関(しらかわのせき)を結ぶ要地である。斯(か)かる地盤を背景に、盛国は政氏より大老を拝命した。白河郡の武士である為に、磐城の土豪からは、余所(よそ)者と見られる時も有るが、一方で磐城郡外豪族の代表として、地方の豪族からの支持を得て居た。
そして中央に座すのは、平政氏より大老の筆頭である執政の称号を与えられた、村岡重頼である。村岡氏は磐城平家三代に渡り、家臣筆頭を務め、磐城判官政道の曽祖父将門の時に滅びた相馬平家を、磐城の地に再興させた大功の有る家の長者である。元は村岡平家率いる武士団の主力を成し、平良文に仕えて居た豪族の家であった。良文は相馬家の残党を傘下に加えるべく、実子忠重を村岡家の養子として名跡を継がせた上で、村岡家を相馬平家、今の磐城平家の一の家来としたのであった。今では代替りをしたが、当主重頼は良文の跡を継いだ忠頼の甥(おい)であり、忠頼とはかつての烏帽子親(えぼしおや)であると共に、偏諱(へんき)を賜(たまわ)った関係に在る。重頼から見れば、坂東最強の武士団の棟梁を伯父に持ち、自身も磐城軍最強の村岡勢を率いる立場に在る。且(か)つ所領は、二代に渡り郡司、荘官として実質支配して来た菊多郡一円に加え、重頼自身が切り開いた白河郡東部と、家中随一の収入を誇る。又重頼の正室は、住吉御前と称され、かつては花形姫と呼ばれた、政道の実姉である。村岡重頼は、磐城、村岡両平家の血縁からも、強大な発言力を持って居た。
主家が着座した後、広間は静寂に包まれた。斯(か)かる中、政道は諸臣を見渡した後、口を開く。
「此度諸将を召集したは、昨日当館へ信夫より到着せし我が妻子を、皆と対面させる為である。特に、これに座するは我が嫡子にて、千勝と申す。」
政道の言葉を受け、村岡重頼が一歩躙(にじ)り出て平伏する。
「殿、並びに御方様、御嫡男の御帰還、誠におめでとうござりまする。」
「おめでとうござりまする。」
重頼に倣(なら)い、他の臣も一斉に祝辞を述べ、平伏した。
政道は諸臣に顔を上げる様勧めた後、言葉を接ぐ。
「見ての通り、未だ幼児ではあるが、一先ず当家の血統は、次の世代を得た。皆安堵して、今後とも当家に仕えて貰(もら)いたい。」
そして辺りを見ると、大村信澄が政道を見詰めて居る事に気が付いた。
「信澄、そう言えば其方(そなた)には、国府赴任の仕度を命じてあったのう。」
信澄は畏(かしこ)まって答える。
「はっ。橘道貞様は今月中にも、御帰京遊ばされるとの事。仍(よっ)て早々に、多賀城へ向かわねば成りますまい。目下、殿の警固役として江藤玄貞殿が、木戸繁国殿に百騎を与え、遣(つか)わされるとの由(よし)にござりまする。」
「ふむ。しかし此度は、道貞様を御見送りした後、後任国司御到着までの政務の代行を務め、更(さら)には新任国司に侮(あなど)られぬ様にせねば成らぬ。やはり四家の何(いず)れかには、当主直々(じきじき)に出馬して貰(もら)いたいが。」
四家とは、平政氏が磐城平家を興した時、村岡家と共に多大な功績を挙げた、四人の臣の末裔である。即(すなわ)ち、豊間館の近藤宗昌、三沢館の佐藤純明、高坂館の斎藤邦秀、そして楢葉館の江藤玄貞を指す。何(いず)れも藤原氏の支流であり、村岡氏に次ぐ精強な兵を備えて居た。
政道は少し考えた後、信澄に命じた。
「では三沢の純明に、出兵の仕度を急ぎする様に伝えよ。」
「畏(おそ)れながら、高坂には隠居の邦衡殿も健在なれば、高坂館に出兵を御命じになられた方が、後の備えは心強いかと存じまするが。」
「いや、高坂は近郷で大根川(新川)が氾濫(はんらん)し、その復旧に追われて居ると聞く。今は一兵たりとも出す余裕は有るまい。一方の三沢はここ住吉に近く、当主不在中に万一何かが起きたにしても、直ぐに支援して遣(や)れるであろう。」
信澄は得心し、承服の意を示した。
続いて政道は、正面に座す村岡重頼に申し渡す。
「儂(わし)の出立は、三日後早朝と致す。馬廻(うままわり)は二十騎程、住吉より連れて参る。又、儂の留守中、政務は重頼に任せる。しかし、重頼は菊多郡も管轄して居る故、信澄と盛国にはその補佐を頼む。」
「ははっ。」
主命を受け、三大老は挙(こぞ)って平伏した。
政道は再度諸臣を見渡すと、真顔と成って最後の話に入る。
「かつての陸奥守、藤原実方公の例も有る。儂(わし)が多賀城に赴いて居る間、我が身に万一の事が有った場合の事を、念の為に申して置く。斯(か)かる折はこの千勝に、当家を相続させる事とする。しかし千勝は未だ幼く、陸奥大掾(だいじょう)職は世襲されまい。仍(よっ)て我が義兄松川勝宗に信夫郡政を委(まか)せ、弟政澄を磐城へ呼び戻し、以(もっ)て弟の大掾職相続を願い出、千勝が元服するまでの繋(つな)ぎとせよ。」
広間に詰める諸将は皆頭を下げ、承知の意を示した。
千勝は未だ、父の言った事が己に如何(どう)影響するか、皆目解(かい)せない様子であった。その隣に座る母御前は、夫政道が念の為に言い渡して置いた事、即(すなわ)ち夫が国府において急死した事を想像すると、身の毛が弥立(よだ)つ感覚に襲われるのであった。それは凡(およ)そ七十年余も昔の故事に因(よ)る。磐城判官政道の曾祖父将門は、幼くして父良将を亡くし、良将の兄弟である国香、良兼、良正が幼少の将門に代わり、良将の所領を預る事と成った。しかし将門成人後も、伯父達は甥(おい)に所領を返す事無く、一族血塗(ちみどろ)の戦いに突入して行ったのである。母御前は、斯(か)かる悲劇が繰り返されぬ事を願った。
話が済むと、政道は妻子と共に、広間を後にした。重臣達が悉(ことごと)く平伏する中を退室した千勝は、父の統率力に憧(あこが)れを抱いて居た。そして入室した時よりも、一際(ひときわ)その背中が大きく見えた。
三日後の朝、千勝は眠い目を擦(こす)りながら、母や姉、そして侍女達と共に、本丸対屋(たいのや)にて、父の出発を見送った。千勝に取っては、初対面から未だ四日しか経って居なかったが、先日諸臣を前にした姿を見て、父親に対する畏敬の念を覚えるに至って居た。
政道は母御前、続いて姉万珠姫に、暫(しば)しの別れを告げた。そして最後に千勝の頭を掴(つか)み、笑顔を見せる。
「其方(そなた)は磐城判官家の嫡男ぞ。儂(わし)の居らぬ間、母上や姉上を困らせる事をして、人から見下される事の無き様に。」
「はい、父上。」
千勝は元気に答えた。政道は笑顔を湛(たた)え、千勝の肩をポンと叩(たた)くと、振り返って、表に待たせて居る家臣の元へと歩んで行った。
大手門には、住吉直属の武者三十騎が既(すで)に隊列を整え、相馬以来の九曜、繋(つな)ぎ馬の旗を掲(かか)げて居る。その中で、将は鎧兜(よろいかぶと)を纏(まと)わず、総大将政道と同様に、武官の束帯(そくたい)を着用して居るので、物々しさは然程(さほど)感じられない。そして政道が隊を掌握し、進発させた時、本丸よりその光景を俯瞰(ふかん)して居た千勝は、一糸乱れぬ整然たる行軍に、住吉兵の頼もしさを感じた。
政道率いる住吉軍は、先ず三沢の佐藤軍と合流するべく、大手門を潜(くぐ)った後、道伝いに進路を東へ取った。やがて陽が高さを増して来ると、晴天の下、陽光を受けた住吉兵の甲冑(かっちゅう)が輝いて見えた。
時に寛弘五年(1008)弥生(三月)、先代磐城判官政氏が磐城を去ってから、九年の歳月が流れて居た。跡を継いだ政道は、三十三歳の立派な武士に成長し、幼くして嫁いだ信夫御前も、早二十一歳と成り、二人の子を儲けて居た。姉の万珠は寛弘元年(1004)、弟の千勝は寛弘三年(1006)の生れである。
千勝の父政道は、名君と謳(うた)われた先代政氏の後継者として、ある日突然、父の勢力圏内である奥州南部九郡に加え、飛地である北方津軽郡の宗主と成った。先代を西国へ流刑に処されたと雖(いえど)も、政氏が任じた三大老は磐城平家の屋台骨と成り、取分け執政の村岡氏は、菊多郡をよく治めて居る。広大な磐城郡内には、政氏が育てた磐城四家が隅々(すみずみ)まで目を光らせ、広く海道諸郡にも睨(にら)みを利かせて居た。一方、仙道の勢力圏の内、南方は大老高野盛国が勢力を持ち、北方信夫郡には政道の実弟、政澄が配置されて居る。信夫郡は康保(こうほう)の役で武功を挙げた平政氏が、朝廷より恩賞として賜(たまわ)った土地である。又、政氏は仙道中央にも隙が生じぬ様、信夫御前の実兄、守山勝秋を安積(あさか)郡の中央付近に置き、近郷を支配させた。
飛地である津軽郡は、磐城平家が朝廷より賜(たまわ)りし所領なれども、その以前より、奥州磐井郡以北に巨大な勢力を持つ、安倍氏の影響下に在った。安倍氏は五万もの兵を動かす力が有ると言われ、領内に多くの名馬や金を産する事で富を蓄え、倭(やまと)北端の地に大勢力を築いて来た。政氏は津軽郡政を掌管する上で、安倍氏と衝突する事を避け、磐城平家が津軽郡少領に安倍氏所縁の者を任じ、政務を委任する形を取って来た。以(もっ)て安倍氏との対立は回避され、逆に交易網を構築し、奥州の南北で物流を盛んにする事に因(よ)り、共栄の関係を築いたのである。政道は滝尻城主橘清輔に交易を担当させ、釜戸川の辺に在る滝尻城は、水運の便を良くする為、船着き場が整備された。又、住吉御所南方の玉川にも船着き場が増設され、両城には大量の産物や金が出入りする様に成った。
磐城平家は、近隣勢力から見れば強大であり、迂闊(うかつ)にも衝突する者は、最早居なかった。常陸国府中以北を粗(ほぼ)完全に制圧した平維茂(これしげ)も、未だ下野藤原氏との同盟が堅固とは雖(いえど)も、磐城平家を脅(おびや)かす力は既(すで)に無かった。維茂の弟、維良(これよし)は五年前に、下総国衙(こくが)を焼討にするという暴挙を働いて居た。これは平忠頼が、勢力下に在る下総の豪族に陰で指示を出し、挑発させた事に因(よ)る物であった。国府の焼討は、朝廷への叛逆行為である。如何(いか)なる理由が有れ、許される事ではない。維茂は左大臣藤原道長の下で勢力を伸ばす、同族の平維衡(これひら)を頼り、弟維良の罪を軽くする事に腐心した。
政道の目下最大の懸念は、郡内に頻発する水害と、三大老の連帯感の弱さであった。しかし近隣に敵無しの磐城平家に取って、それ等は然(さ)したる問題では無かった。
この年の九月十一日、左大臣藤原道長の長女で、帝(みかど)の中宮(ちゅうぐう)に上がって居た彰子(しょうし)が、皇子(みこ)を出産した。皇子は敦成(あつひら)親王と命名された。道長は遂(つい)に、天皇の外祖父と成る可能性を得たのである。
当時、太政官二等の右大臣を務めて居たのは、かつての関白藤原兼通の子で、道長の従兄(いとこ)に当たる藤原顕光(あきみつ)である。又、三等の内大臣に任官して居たのは、道長の叔父公季(きんすえ)であった。両者共に、娘を帝の后(きさき)に上げて居たが、依然皇子所か、皇女すら生まれて居なかった。
道長が敦成親王という外孫を得た事で、その力は右大臣、内大臣を更(さら)に引き離す、強大な物と成って行った。敦成親王には、敦康(あつやす)親王という兄が居た。皇后定子(ていし)の生んだ皇子ではあるが、母定子は既(すで)に亡く、伯父の伊周(これちか)はかつての不祥事で、太政官における勢力を、完全に失墜して居た。道長は、次の東宮を敦成親王にする事が、左大臣家繁栄には必須であると考えて居た。
この年、敦成親王の生母彰子に仕える女房(にょうぼう)の一人、紫式部が、宮中を舞台とした長編物語、「源氏物語」を書き上げた。
三年後の寛弘八年(1011)、帝は病(やまい)を得て重篤に陥(おちい)り、皇太子居貞(おきさだ)親王に譲位し、一条院と成った。人皇六十七代と成った新帝は、一条院の従兄(いとこ)であり、六十五代花山院の異母弟である。既(すで)に三十六歳と成って居た。それから間も無くの六月二十二日、一条院は三十二歳で崩御した。
新帝は道長を内覧兼左大臣に留任させた物の、関白は置かなかった。先帝が前(さきの)関白道兼没後、摂関を置かなかった事を踏襲し、天皇の権力拡大を図ったのである。
帝の母は道長の姉、超子(ちょうし)である。道長から見れば、帝との外戚関係は甥(おい)という点で、変化は無かった。
新帝は道長の傀儡(かいらい)と成る事を嫌い、幾度と無く意見が衝突する事が有った。道長は帝との関係を改善する為、次女硏子(けんし)を入内(じゅだい)させ、翌寛弘九年(1012)には中宮へ昇格させた。しかし帝の道長への対応に変化は無く、道長は皇太子と成った外孫、敦成親王の早期の即位を、唯々(ただただ)願うばかりであった。