第三十三節 政氏の足跡

 この年の九月、淡路国より農民が、大挙して都へ押し寄せる事件が起った。目的は、国司讃岐扶範(さぬきのすけのり)の無法を訴える事である。此度の農民に因(よ)る訴訟は、左大臣道長の父兼家が摂政を務めて居た、永延二年(988)以来の大規模な物であった。道長はこの騒動を受けて、内裏(だいり)陣座(じんのざ)に公卿を召集し、陣定(じんのさだめ)を行った。議題は、淡路農民への対応に就(つ)いてである。

 淡路農民が提出した、国司を糾弾(きゅうだん)する解文(げぶみ)を読み、呆(あき)れ果てて、讃岐扶範解任を申し出る者も在れば、一々農民の訴えに耳を貸しては、朝威が衰えると言う者も在る。前(さきの)淡路守平久佐(ひさすけ)は問題が無く、これと交代させてはという意見も出された。

 結局、讃岐扶範を喚問(かんもん)し、事実が農民の訴えの通りであるならば、扶範を解任し、後任に平久佐を宛(あ)てる事とし、仗議(じょうぎ)は決した。

 陣座(じんのざ)を退出した道長は、漸(ようや)く緊急の議題を纏(まと)められたと安堵するのも束(つか)の間、左大臣家に近々予定されて居る大事に、考えを巡らせて居た。それは長女彰子(しょうし)を、帝(みかど)の后(きさき)に上げる事であった。

 そして冬も深まりつつ在った十月末日、十二歳の彰子は入内(じゅだい)の為、一先ず京の西方に在る、大蔵録(おおくらのさかん)太秦連理(うずまさのつらまさ)の邸に移った。陰陽道(おんようどう)に依れば、左大臣の住む土御門第(つちみかどのてい)は方違(かたたが)えの方角と成る為、吉方(えほう)の太秦(うずまさ)邸に一泊させ、方角を変えさせたのである。

 翌十一月一日、彰子と、それに付き添う女房(にょうぼう)四十人を乗せた牛車(ぎっしゃ)、加えて多くの荷担ぎや護衛の兵が行列を成し、内裏へと向かった。入内式は華々しく執り行われ、彰子は帝の女御(にょうご)に上がった。女御は皇后、中宮に次いで、帝の后としては三番目の地位である。この日、僅(わず)か十二歳ながら堂々と式典を熟(こな)した彰子に、参列した多くの者は感心したという。

 翌長保二年(1000)二月、道長は中宮定子(ていし)を皇后へ格上げした上で、彰子を中宮に昇格させた。皇后と中宮は名称が異なるだけで、共に帝の正室である。これは未だかつて、先例の無い事であった。帝に二人の正室を置くという強引な手法に、反感を覚えた者は少なくなかった。帝もその一人で、寵愛(ちょうあい)は同情と重なって、皇后定子へと向けられた。

 定子は関白であった藤原道隆の娘で、内大臣伊周(これちか)の妹である。又、道長から見れば姪(めい)に当たった。二十四歳の定子は既(すで)に敦康(あつやす)親王を生み、教育を女房の清少納言(せいしょうなごん)に託して居た。清少納言は歌人清原元輔(きよはらのもとすけ)の娘であり、宮仕えの傍ら、随筆集「枕草子」(まくらのそうし)を執筆した才媛(さいえん)である。

 しかし皇后定子は、この年の十二月に病没し、清少納言も宮中を去って行った。内大臣伊周(これちか)復権の望みは大きく後退したが、唯一救いであった事は、甥(おい)の敦康親王が残り、中宮彰子には、未だ懐妊の兆しが無い事であった。

 左大臣道長は、太政官の人事を己の派閥で固め、巨大な権力を一手に握って居た。しかし父兼家の様に、我が子の代にもその力を残す為には、娘の生んだ皇子を即位させ、帝の外舅(がいきゅう)と成らねば成らない。今は未だ姉の皇太后東三条院が健在故、帝が左大臣家排斥(はいせき)に動く事は無いが、今後外戚(がいせき)の地位を失えば、別の家が摂関家に君臨するやも知れない。前(さきの)関白藤原道兼の子顕光(あきみつ)や、道長の叔父公季(きんすえ)も、娘を帝の后に上げて居る。次の帝の御宇、誰が一の上として朝政を取り纏(まと)めるかは、未だ判然としていない。藤原北家の権力闘争は、未だ地中にて燻(くすぶ)り続けて居た。

 一方、地方の政(まつりごと)においては、国司の腐敗が益々(ますます)顕著に成って居た。先年、農民が国政の悪(あ)しき様を朝廷に訴え出た事は、次第に国司がその権威を失って居る事を物語って居た。

 故に、国司の権力の及ばぬ荘園は増加の一途を辿(たど)り、京の有力貴族や寺社には富が集まった。そしてその私有地を守る為、各地で武士団が台頭した。かつて、藤原不比等(ふひと)等が中央集権体制を整える為に制定した、律令体制は次第に崩壊して行き、新たな体制に移行する兆しが現れ始めた。その動きの中心と成って居るのが、地方に独立した武力を擁する、武士団である。しかしその中で、東国に大勢力を築いた磐城平家は大黒柱を失い、一方で村岡平家は常陸へ進出し、平維茂(これしげ)、維幹(これもと)との対立を深めつつ在った。

 東国の二大勢力、即(すなわ)ち奥州の磐城平氏、坂東の村岡平氏が台頭した背景には、家祖良将、良文以来の善政が有った。両家は所領内における産業の育成、受領(ずりょう)に因(よ)る搾取(さくしゅ)からの庇護(ひご)、貧民救済等を行い、領主と領民の結束を強めた。この為に領内の人口は増加し、有事の際、募兵に応ずる者が増えて行ったのである。結果、強力な武士団に成長するに至った。

 一方の常陸平氏は、貞盛の子等が京の高官や地方の守を歴任し、維衡(これひら)は伊勢へ土着するに至った。そして繁盛の系統が常陸領を守り、東国の官職に就(つ)いた。これも又朝威を以(もっ)て、家祖国香以来の所領を拡大させ、武士団として成長した。

 平家以外に、東国において武士団として成長したのは、藤原秀郷以来、弓馬の道を磨(みが)いて所領の安定を図った下野藤原氏と、出羽鎮狄(ちんてき)将軍家麻呂(いえまろ)以来、永きに渡り奥羽北部に勢力を伸ばして居る、安倍一族であった。安倍氏は地理的に倭(やまと)の最北端に在り、奥羽山脈や日高見(北上)高地が天然の要害を成し、加えて領内に有力な金山も擁する為、陸奥守、鎮守府将軍が最も警戒する勢力と成って居た。

 その安倍氏と、所領の津軽を通じて、繋(つな)がりを持って居た磐城判官政氏は、筑前に流された。以(もっ)て陸奥国府は、安倍氏を抑え得る人材を失った事に成る。東国は大規模な武士団が割拠し、次第に国守の威光に翳(かげ)りが見え始めて居た。

 陸奥国は政氏が成した財政の健全化と、人材育成の甲斐有ってか大事無く、国司不在の期間を乗り切った。漸(ようや)く新任国司を迎えた後、国司代行の立場に在った源重之は、懐かしき京の都へ戻る事を望んだ。しかし体調は快復せず、医師からも暫(しば)しの安静を言い渡された。その後も病(やまい)は悪化し、長保二年(1000)、従五位上左馬頭(さまのかみ)重之は、奥州にて帰らぬ人と成った。京に在って訃報に接した歌人達は、藤原実方に続き、陸奥で没した当代の、歌聖の死を惜しんだ。一方で陸奥国府の中では、やはり笠島道祖神の祟(たた)りが、実方中将と同じく下されたのだと囁(ささや)かれた。

 藤中将実方には、十六夜姫という娘が有った。姫は父の死を酷(ひど)く悲しみ、陸奥国名取へ下向し、墓参に及んだ。姫はその後、父に所縁(ゆかり)の者を訪ねた所、末期(まつご)に出羽国千歳山へ葬られる事を望んで居た事を知った。そして単身奥羽山脈を越え、千歳山に辿(たど)り着き、その地に父の霊を弔(とむら)った。十六夜姫は、阿古耶(あこや)姫が老松の霊を弔った故事の如く、千歳山万松寺にて生涯を終えた。
  いかにせん 映る姿は つくも髪 わが面影は 恥しの川
                         中将姫
長旅の末、漸(ようや)く辿(たど)り着いた地で小川に顔を映(うつ)した時、酷(ひど)く窶(やつ)れた己の姿を嘆(なげ)いた歌が残る。

 藤中将の死後、京の賀茂川に架かる橋の下に、中将の亡霊が出没するという噂(うわさ)が流れた事を、清少納言は「枕草子」に記載した。清少納言も、実方の死を悼(いた)んだという。

 奈古曽関(なこそのせき)一帯は、既(すで)に山桜が散り終え、青葉に包まれて居た。愈々(いよいよ)雨期も近い事を予感しつつ、近藤宗昌は海道を辿(たど)り、奥州へと入った。菊多郡酒井郷は、磐城家執政、村岡重頼の所領である。宗昌は半年振りの故国が、大変懐かしく感じられた。京で過ごした一日一日が、とても長く感じられた所為(せい)であろう。

 安堵感を覚えると共に、宗昌は常陸を縦断して来た疲労が足を襲い、道端の平たい石が目に入ったので、そこに腰掛けた。竹筒の栓(せん)を抜き、咽(のど)を鳴らして中の水を飲む。やがて汗だくの体の内部に潤(うるお)いを感じると、宗昌は再び竹筒に栓をして、顎(あご)を伝う雫(しずく)を手で拭(ぬぐ)った。

 街道とは云え、村落を離れれば、鳥の声や虫の音しか聞こえない静けさが、辺りを覆(おお)う。宗昌は静寂の中で、心身を休めた。

 やがて、遠くで雉(きじ)の鳴き声が響いたのを切っ掛けに、宗昌はゆっくりと腰を上げた。
「もう一踏ん張りか。」
そう呟(つぶや)くと、宗昌は腿(もも)を叩いて、再び歩き始めた。

 山間(やまあい)を抜けて蛭田川に出ると、前方に平野が開ける。菊多の平野はその大半が皇族に寄進された荘園であり、菊多庄(きくたのしょう)又は錦庄(にしきのしょう)と称す。村岡氏は、菊多郡司磐城政道の家臣としては、直接税を徴収する事は出来ないが、一族村岡忠頼の後援を得て、地頭の権利を獲得した。これに因(よ)り、宗主磐城判官家は菊多荘園内の政(まつりごと)に関し、口を挟む事は出来なく成った。

 政氏は先代村岡忠重の人柄を見込んで、斯様(かよう)に主家からの独立性を帯びた権限を与えたのである。しかし、僅(わず)か数年の間に、磐城、村岡両家の当主が、相次いで磐城を去るという事態は、さしもの政氏も想定して居なかったであろう。磐城政道と村岡重頼は、共に先代が磐城平定後に挙げた嫡男であるので、年は近い。重頼には、幼少の頃より父忠重自ら、弓馬の道を厳しく仕込んで来た。故に武芸の腕は今や、磐城家中随一とも謳(うた)われて居る。そこには、忠重が実父良文や、義父重武より受け継いで来た、村岡武士の道が有った。

 一方の磐城政道は、元服後間も無く、磐城平家の居城住吉館を任された。父政氏が陸奥大掾(だいじょう)に任官し、国府に赴く事と成った為である。政氏としては、己の目の黒い内に、嫡男政道に経験を積ませる狙(ねら)いが有った。しかし、政道は父の留守を良い事に、己に与えられし権力を以(もっ)て奢侈(しゃし)に走り、政(まつりごと)を蔑(ないがし)ろにした。その後、政氏より廃嫡を匂(にお)わせる叱責(しっせき)を浴び、大人しくは成った。

 磐城家中では、この二代目は聡明な始祖政氏と比べると、一段も二段も劣って居るという見方が多数であった。それに加え、政氏が流刑に処された今、二代政道が失政を繰り返す様であれば、磐城平家が衰退してしまう事を、憂(うれ)う声すら有った。政道は未だ、家臣団の心を掌握するには、至って居ないのである。

 宗昌は、老君不在の磐城の前途を考えながら、錦庄(にしきのしょう)を北上して行った。

 鮫川河口に着くと、公用の船が浜に置かれて在る。ここから出航して、海岸伝いに北東へ進めば、玉川河口より川を上り、住吉御所へ漕(こ)ぎ着く事が出来る。又、河口より直ぐに釜戸川へ入れば、滝尻御所へも通じる。磐城家は海岸部の他に、主要河川をも水上路として整備し、物流を盛んにする政策を執って居た。磐城平家の所領四郡は、信夫、津軽が飛地と成って居る中で、重臣の近藤氏が水軍に通じて居た。又、臨海部の豪族も海の知識に富んで居た為、四郡を海上交通路で直結させる案が出され、実行に移されて居たのである。

 先代政氏は、菊多郡支配を筆頭重臣の村岡氏に任せ、自らは康保(こうほう)の役を共に戦った磐城四家と共に、磐城の政(まつりごと)に当たった。四家は磐城平定に多大の功有り。その後、政氏は指導力を発揮して善政を施し、今や支配域を仙道広域にまで広げるに至った。

 近藤家が政氏より託された、水産業と水運業の振興は軌道に乗り、北端の津軽との交易路も整備された。その結果、津軽に大きな影響力を持つ北方の雄、安倍氏とも、交易を通じて誼(よしみ)を深めた。

 政氏の行動力は、祖父の仇(かたき)である常陸平氏へも向けられ、永年の遺恨を解消させ、交易に因(よ)る共栄関係を築いた。海の路は、南北強豪との和平を齎(もたら)したのである。

 宗昌は、老公政氏の偉業を偲(しの)びながら、公用船に乗り込んだ。幸い宗昌の顔は、近藤水軍の御曹司として、船頭に覚えられて居た。仍(よっ)て、すんなりと船を出してくれた。

 十余人乗りの、然程(さほど)大きくはない船であるが、船足は軽く、水夫(かこ)は速度を上げて、菊多浦を沖に出た。海上は思いの外、風が強い。豊間浜に育った宗昌も、久し振りの船であった為、些(いささ)か辟易(へきえき)した。船は渚村の岬を旋回し、直ぐに照島が目に入って来た。岸の断崖より、僅(わず)か二町余の処に聳(そび)えるこの小島を過ぎると、愈々(いよいよ)玉川河口に近付いて来る。北東を見霽(みはる)かせば、小名浜や神城(かじろ)の岬等、懐かしい景色が広がる。

 間も無く、船は玉川を遡上(そじょう)し始めた。凡(およ)そ十町程で、大河は釜戸川との合流点に至り、船首を北へと向ける。更(さら)に川を上る事一里、西岸に滝尻、富岡の邑(ゆう)が見えて来た。富岡村は御巡検道が、西の丘と東の玉川の間の狭い地を通過する為、住吉御所に取っては南方の、最後の防衛地である。

 一方、東へ目を向ければ、大原の平野が広がる。この纏(まと)まった平坦地は、一千石余の米穀を産する要地である。かつて、近藤家は政氏と共同で、小名浜と三箱(さはこ)を繋(つな)ぐ主要道を整備した。大型船が多数寄港出来る、海運の拠点小名浜より大原を貫通し、支流矢田川沿いに佐藤氏の三沢館より延びる街道と合流、そして住吉御所の大手を経由し、浜街道より御斎所(ごさいしょ)街道が延びる邑(ゆう)を結ぶ、重要な道であった。

 この道の完成に因(よ)り、住吉は山海を巡る、物流大動脈の中心と成った。しかし喜びも束(つか)の間、政道が玉川の氾濫(はんらん)後、修復を怠(おこた)った為に、住吉と三箱(さはこ)は再び、寸断されてしまった。

 玉川の流れが北西に向き始めると、愈々(いよいよ)島倉の丘の右側に、磐城の神体山、湯ノ岳が彼方(かなた)に見えて来る。そして住吉御所の搦手(からめて)も、はっきりと目に映(うつ)る。

 ここ暫(しばら)く雨が多かった所為(せい)か、玉川の水位は高く、川幅も広く成って居た。増水は水害を齎(もたら)す一方で、大型船の住吉入港を可能にする。この日も、二艘の大型輸送船が接岸し、莫大(ばくだい)な物資の積み卸し作業が行われて居た。その光景を見ると、往古景行天皇に仕えし武内宿禰(たけのうちのすくね)が、東征の折、住吉を水軍の要塞に相応(ふさわ)しいと断じた事が頷(うなず)ける。往時の名残(なごり)として、住吉御所と玉川の間に、住吉明神が建つ。武内宿禰は、磐城近海で暴風雨に遭(あ)いながらも、住吉の神に祈って無事を得、故にこの地に住吉三所神を勧請(かんじょう)したと伝う。後にこれが、地名の由来に成ったという。

 宗昌は住吉の船着き場で下船すると、御所を目指して歩を進めた。途中、延喜式内小社住吉明神を掠(かす)め、やがて磐城平家の香華院(こうげいん)、遍照寺に達する。切り立つ住吉御所大館の南麓に、荘厳に建つ本堂を見ると、宗昌はかつて政氏に扈従(こじゅう)し、当山に墓参した時の事を思い出した。そして彼方(かなた)の本堂に正対し、合掌した。
「先代忠政公、並びに御母堂様、我等が御救いするまでの間、筑前安楽寺におわす政氏様を、如何(どう)か御護り下さりませ。」
そう呟(つぶや)いた後、宗昌はゆっくりと直り、再び御所の大手に向かい、歩き始めた。

 やがて大手門に至ると、宗昌の姿を認めた門衛二人が、恭(うやうや)しく道を開けた。宗昌は長旅で衣服が綻(ほころ)び、汚れて居たが、堂々と入城した。

 ふと空を見上げると、青空の中を、雲が速度を上げて東方へ流れて居る。あの雲は安楽寺より参ったのかと思いながら、宗昌は大館(おおだて)へと上がった。

 政氏を磐城へ戻す策が、宗昌には一つ有った。それは二代政道に、守成の君と成って貰(もら)う事である。二代目にも隙(すき)が無く、朝廷から恐れられる程に奥州の民心を得られれば、朝廷も下手に磐城平家の怨(うら)みを買い続けるよりも、赦免して恩を売ろうとするであろう。

 その為には先ず、磐城平家の核である三大老と四家が、先代と変わらぬ団結を以(もっ)て、新主を支えねば成らない。

 宗昌は、この後も磐城平家が盤石で在り続ける為の人材は、先代政氏に因(よ)り揃(そろ)って居ると信じて居た。そして彼等に京の情勢を伝え、磐城平家を正しい道へと導いて貰(もら)う事を願いつつ、本丸へ向かう階(きざはし)を登って行った。

第二章 完

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