第三十一節 筑前配流

 穏やかな日和(ひより)の下、検非違使(けびいし)庁に二火(か)が帰府して来た。凡(およ)そ二十騎である。庁の近くを通り掛かった者は、誰か大物が逮捕されたらしいと、噂(うわさ)し合った。庁内へ入ると、早々に取り調べが行われる事と成った。先程勅書を読み上げた検非違使少尉(けびいしのしょうじょう)は、下部(しもべ)二人に政氏を連行させ、裁きの間へと入って行った。

 取調べに当たったのは、坂上大尉(だいじょう)と中原大尉の二人である。両大尉が入室すると、少尉(しょうじょう)、下部は礼を執った。政氏は夢想だにせぬ事態に依然困惑し、一揖(いちゆう)するに止(とど)まった。

 中原大尉は腰を下ろすと、政氏を見据えて告げる。
「これより取調べを行う。陸奥大掾(だいじょう)平政氏に掛けられし嫌疑は、武力に因(よ)る朝廷の制圧、即(すなわ)ち謀叛(むほん)である。当方より証拠を呈示する故、申し開きが有れば、申せ。」
「ははっ。」
どうやら、正式な裁きが受けられる様子である。そう成れば、政氏の心中に疚(やま)しさは微塵(みじん)も無く、次第に気持は落着きを取り戻し、堂々たる姿勢を取った。

 坂上大尉は手元の書類に軽く目を通すと、よく通る声を発した。
「出(い)でませい。」
間も無く、入室して政氏の側を歩いて過ぎ、右前方で両大尉に平伏する男の顔を見た時、政氏は心臓が止まる程に仰天した。政氏を謀叛の廉(かど)で訴え出た人物は、義兄大江時廉であった。政氏の頭から、俄(にわか)に血の気が引いて行った。

 時廉に対し、坂上大尉が告げる。
「先程儂(わし)に話した事を、この場にて今一度申して見よ。」
「はっ。」
時廉は深く頭を下げると、体を幾分政氏の方へ向け、話し始めた。
「昨日夕刻、某(それがし)は政氏殿より夕餉(ゆうげ)を共にする様、招かれ申した。その時、手勢を衛門府に潜入させる事に成功した故、明日にでも宮中を制圧出来ると、打ち明けられたのでござりまする。そして某(それがし)には、奥州よりの増援が到着するまでの間、兵が足りぬ故に、丹波の兵を借りたいと、申し出たのでござり申す。戯言(ざれごと)であって欲しいと願いつつも、本日政氏殿が無断で欠勤した故に、恐ろしさを感じ、当庁に訴え出た次第にござりまする。」
話が終ると、時廉は坂上大尉に一礼した。

 続いて、坂上大尉は政氏に尋ねる。
「これに対し、貴殿の言い分は?」
政氏は胸中の憤(いきどお)りを抑えつつ、平静を装(よそお)って答えた。
「畏(おそ)れながら申し上げまする。某(それがし)が時廉殿を夕餉(ゆうげ)に招いたは、唯(ただ)(やまい)の折に役目を代わって貰(もら)った、礼からにござりまする。又、本日登庁に及ばざるは、夕餉(ゆうげ)の時に、時廉殿より非番と伺(うかが)った故にござり申す。」
「ふむ。」
坂上大尉は一応頷(うなず)くと、政氏の言を書翰(しょかん)に書き留めた。

 そして、中原大尉より次の質問が有った。大尉は手元に在る一通の書状を取り上げ、下部(しもべ)を通して政氏に渡した。
「開いて見るが良い。」
言われる通り、政氏はその書状を開き、読み始めた。

 既(すで)に、洛中には当家の手勢が潜伏し、内裏(だいり)の制圧は容易と成った。しかし、その後に来襲するであろう畿内の軍と対峙するには、正直心許(こころもと)無い。願わくば、貴殿の麾下(きか)に在る丹波の兵を、御借し願いたい。十日の後には、奥州より二万騎が到着する。さすれば、天下は我等の物。祖父将門公の悲願を、達成する事にも成る。我が天下と成った暁(あかつき)には、貴殿に左大臣の座を約束する物なり。

 宛名(あてな)は大江左衛門尉(さえもんのじょう)時廉殿、差出人は陸奥大掾平政氏と在った。又、政氏の印と酷似(こくじ)の印が押されて在る。政氏は、文面に書かれた悍(おぞま)しい内容に戦慄(せんりつ)を覚えると共に、斯(か)くも卑劣(ひれつ)な手段を以(もっ)て、己を陥(おとしい)れ様とする義兄に対し、激しい憎悪の念を込めて睨(にら)め付けた。しかし時廉は目を背(そむ)け、平然として居る。

 中原大尉は重ねて尋ねる。
「この書状に対し、何か申し述べる事は?」
政氏は激しく困惑する心を鎮(しず)めるべく、天を仰ぎ、大きく息を吐(つ)いた。そして中原大尉に向かい、毅然と答える。
「此(こ)は偽書と申す他はござりませぬ。某(それがし)が時廉殿の在京を知ったのは、僅(わず)かに二、三日前。加えて当家に、万を数える兵を動員する力はござりませぬ。」
「ふむ。」
中原大尉は頷(うなず)くと、隣で答弁を記録して居た坂上大尉と小声で話し合い、両者が合意した所で、中原大尉が言い渡した。
「詮議は一先ず、これにて打ち切る。本日の両者の申し分は、よくよく吟味の後、太政官において最終的な判決が下されるであろう。それまで、謀叛(むほん)の嫌疑が掛かる平政氏には、入牢を申し渡す。」
一同が平伏する中、両大尉は退出して行った。その後、時廉も政氏と目を合わす事無く、裁きの間を去って行った。独り、無念の表情を顕(あらわ)に取り残された政氏は、下部(しもべ)に引っ立てられ、白昼尚暗い獄裡(ごくり)へと、送られて行った。

 その日の夕刻、磐城家の臣は悉(ことごと)く任を解かれた。幸い、前下総介平忠頼預かりとされた為、食糧の心配も無く、京に留まれる事と成った。

 この時、朝廷内では奥州の雄磐城平家と、坂東の雄村岡平家の縁が深まる事を危惧(きぐ)する者も在った。一方で、磐城家と友好関係に在るもう一つの平家、即(すなわ)ち常陸家にも、近年大きな問題が有った。上総平家の祖良兼の孫致頼(むねより)が、伊勢に進出して居たが、常陸平家貞盛の子維衡(これひら)も、同国へ勢力を伸ばし、昨長徳四年(998)、遂(つい)に両者は所領を巡り、伊勢の地で合戦に及んだのである。両者の武名は京に轟(とどろ)いて居り、清和源氏頼信、藤原南家保昌と共に、道長四天王と称されて居た。都より然程(さほど)遠くない伊勢の情勢が不穏である為、此度の磐城判官謀叛の嫌疑は、より大きく、朝廷に警戒心を抱かせる事と成った。

 常陸、上総の両平家が険悪の情況下に在る一方、村岡平家忠頼は下総介を無難に務め上げ、朝廷から見れば、比較的安心出来得る勢力であった。当主忠頼も、齢(よわい)七十ながら矍鑠(かくしゃく)とし、慎重さを備えて居る。朝廷は磐城兵を一先ず忠頼に預け、政氏逮捕に因(よ)り騒動が起る事の無き様命じた。忠頼は謹んでこれを拝命し、京の邸内に磐城兵百騎を収容した。

 磐城軍を率いて村岡邸に入った近藤宗昌、斎藤邦秀の両将は、直ちに忠頼への拝謁を願い出た。しかし忠頼はこれに応じず、京へ同行して居た三男頼尊(よりたか)に応対を命じた。

 宗昌と邦秀は邸の者に案内され、一室で頼尊と向かい合って座った。頼尊は先ず、粛然と挨拶を述べた。
「平忠頼が三男、頼尊にござる。父は目下多忙の為、某(それがし)が話を承り申す。」
(にわか)に邦秀は不満を顔に顕(あらわ)したが、それを制するかの如く、宗昌が真顔で躙(にじ)り出て、頭を下げる。
「御願いの儀が、二つござりまする。一つは住吉へ使者を遣(つか)わし、斯(か)かる大事を、至急伝えとうござりまする。」
頼尊は困り顔で答える。
「其(そ)は成りませぬ。斯様な事を致さば、朝廷の磐城家に対する疑念は、益々(ますます)深まり申そう。但(ただ)し、此度の事は当家より、先ずは武蔵の村岡館へ伝え申す。然(しか)る後、村岡より密かに使者が遣(つか)わされ、汐谷に報せが行く物と存じまする。」
「有難き御配慮、痛み入りまする。」
宗昌は恭(うやうや)しく座礼を執り、邦秀もこれに倣(なら)った。
「して、もう一つは。」
「はっ。某(それがし)は陸奥国府より久しく、大殿と行動を共に致して参り申した。願わくば、某(それがし)を検非違使(けびいし)庁へ御連れ下され。必ずや、主君政氏を陥(おとしい)れんとする陰謀を、暴(あば)いて見せまする。」
それを聞いて邦秀も、一歩躙(にじ)り出る。
「されば、某(それがし)も。」
「成らぬ。」
宗昌は咄嗟(とっさ)に邦秀の言を一蹴した。
「貴殿はここに残り、大殿の兵を纏(まと)めよ。間違っても、村岡家に迷惑を掛ける者を出しては成らぬ。」
「はっ。」
宗昌の語気に圧(お)され、邦秀は引き下がった。

 磐城両将の真剣な眼指が、頼尊に向けられる。頼尊はその意気に心地好い物を感じ、承諾した。二人は低頭して礼を述べると、宗昌は勇(いさ)んで立ち上がった。それに続き、頼尊もすっと腰を上げる。
「検非違使庁まで、同道仕(つかまつ)る。」
頼尊を見詰めながら、宗昌は笑みを零(こぼ)した。
「忝(かたじけな)い。」
二人は早足で廊下を渡り、前を行く頼尊は、馬の用意を家臣に命じた。その後ろ姿に心強さを覚えた邦秀は、主君の冤罪(えんざい)が晴れる事を信じ、己の責務を果すべく、自軍が収容されて居る棟へと渡って行った。

 宗昌は全速力で駆け付けたかったが、左京の大路を馬で疾走する訳にも行かない。頼尊の後に続き、悠然さを装(よそお)って駒を進めた。

 やがて検非違使(けびいし)庁の門前に辿(たど)り着くと、二人は下馬し、頼尊が素姓と要件を門衛に告げた。門衛の一人が少々待つ様に言い残すと、上官の指示を仰ぐべく、庁内へと入って行った。

 少し待った後、先程の門衛が戻って来て、二人に告げる。
「本件を担当する坂上大尉(だいじょう)様が、御会いしたいと仰せにござる。御通り下され。」
門衛に案内され、二人は庁内の一室に案内された。更(さら)に待つ事暫(しば)し、坂上大尉が、資料を収めた箱を抱える少尉(しょうじょう)と共に、入室して来た。来訪者の二人は座礼を執り、大尉と少尉が上座に腰を下ろした後、再び一礼した。

 先ず、坂上大尉が口を開いた。
「これはこれは、村岡平家の御曹司が態々(わざわざ)御越しとは、余程の事にござりまするな。」
「余程か否(いな)かは未だ判(わか)りませぬが、陸奥国府より久しく平政氏殿に仕えし者を、これに連れて参り申した。」
そう答えて、頼尊は後方に控える宗昌に、前へ出る様促(うなが)した。

 宗昌は、勧められるまま前方へ躙(にじ)り出ると、坂上大尉に対し、再び平伏した。
「平政氏が家臣、近藤宗久が嫡男、宗昌にござりまする。某(それがし)はここ数年、主(あるじ)政氏と共に陸奥国府に仕えて居り申した。故に、主(あるじ)謀叛の証拠に対し、何かしら真偽の判定が出来得る物と存じまする。」
「ほう。」
坂上大尉は宗昌を見据え、その目の輝きを認めた後、脇に控える少尉に、証拠の品を示す様命じた。少尉は、木箱に収められた二通の書状の内、先ず一つを取り出し、宗昌の前に置いた。
「拝見致しまする。」
宗昌は書状を押し戴くと、開いて文面を読み始めた。

 陸奥大掾平政氏、腹心に命じ、国守の馬に細工(さいく)を施す。仍(よっ)て陸奥守実方様、落馬にて御逝去遊ばされ、奥州大いに混乱に陥(おちい)る。

 差出人は、磐城家家臣としか書かれて居ない。政氏逮捕の二日前、坂上大尉邸に送り付けられし物であるという。

 宗昌は一読した後、ゆっくりと書状を畳(たた)むと、恭(うやうや)しく少尉に返還した。そして、物腰穏やかに申し上げる。
「陸奥守様が御逝去なされしは、出羽に在る歌枕の地を訪ねた帰途にござり申した。当時、陸奥守様が率いた国府軍の内、磐城家の兵は某(それがし)が手勢にて、前軍に在り申した。そして国守様は中軍におわし、この文に書かれた如く、当家の者が手を下すは不可能であった事、国守の御側におわした源重之様に御尋ねになれば、明らかにござりましょう。この書状は、その場に居合わせぬ者が書いた、偽りにござりまする。」
少尉は、宗昌の証言をすらすらと書き留めて居た。坂上大尉は納得が行った様子で、顎鬚(あごひげ)を撫(な)でながら吟味し、時折頷(うなず)いて居た。

 少尉の記録する手が止まり、筆を置くと、続いて二通目の書状が宗昌に渡された。これは政氏が大江時廉に宛(あ)て、謀叛(むほん)に加わる様に唆(そそのか)す内容が、書かれて在る物である。

 宗昌はそれを暫(しば)し熟読した。その眼がゆっくりと右から左へ動き、文末に来た所で眼を細めた。そして書状を少尉に返還すると、宗昌は合点(がてん)の行かぬ面持ちで、坂上大尉に告げる。
「妙にござりまする。」
「何がじゃ?」
「主君政氏が陸奥大掾を拝命した後、今日まで用いて来た印は今、某(それがし)が預かってござりまする。されど、その書状に押されし物は、主が磐城郡司として用いし物にて、今は嫡子政道様のおわす、住吉城に保管されて居る筈(はず)にござりまする。」
「では、磐城家の御嫡男が、父君を陥(おとしい)れ様として居ると?」
宗昌は目を閉じ、暫(しば)し黙考した後に口を開いた。
「大江時廉は往時、磐城家傘下の豪族として、信夫郡衙(ぐんが)に在り申した。加えて、主(あるじ)の義兄という立場上、磐城家重臣の多くとは、繋(つな)がりが深うござりまする。此度の事は、大江時廉が磐城の何者かと相謀(はか)り、主(あるじ)を追い落そうとしたに相違ござりませぬ。」
「成程(なるほど)、一理有る。」
坂上大尉は、納得した面持ちを湛(たた)えた。

 少尉が宗昌の証言を一通り書き終えた所で、取調べは終了した。宗昌と頼尊は一礼し、取分け宗昌が、悲愴な表情で主君の無事を懇願する中、坂上大尉と少尉は退出して行った。

 検非違使(けびいし)庁を出て村岡邸へ戻ろうとする時、宗昌は幾度か振り返った。先程の己の証言が、一体何程(どれほど)の説得力が有ったか、不安を覚えたのである。その様子を見た頼尊は、苦笑しながら馬に跨(またが)って、宗昌に語り掛ける。
「案じても詮(せん)無き事じゃ。貴殿が検非違使(けびいし)庁で申されし証言に因(よ)り、あの二通の書状が有する信憑(しんぴょう)性を、完全に失墜せしめたであろう。政氏殿は人望も有るし、大丈夫でござろう。」
励ましの言葉を受け、宗昌の顔が僅かに和(やわ)らいだ。そして宗昌も騎乗し、頼尊に付いて検非違使庁を後にした。

 村岡邸への帰途、宗昌は二通の書状の事が、頭から離れなかった。一通目に記されて在った日付が、丁度(ちょうど)上洛の途次、磐城を過ぎた日に合致するのである。やはり、磐城家に裏切り者が居るとしか考えられない。磐城郡司の印は、住吉に在って政道が所持して居るが、管理が厳重に成されて居るとは言えない。共謀者が、そっと持ち出した可能性は有る。

 では、裏切り者は誰かと考えると、最初に思い当たるのは滝尻政之である。此度の急な上洛の折、滝尻御所を宿とした故に、家中で唯一、政氏上洛を知る者である。更(さら)に帰国の後は、その悪政を懲(こ)らしめるべく罰を与えると、政氏は民に約束した。加えて、政之と大江時廉は、実の兄弟である。

 しかし、確たる証拠は無い。磐城家台頭の歴史を顧(かえり)みれば、私欲に走る豪族との、戦いの歴史であった。村岡家と磐城四家を中核とする磐城軍が、連戦連勝の後に、漸(ようや)く郡政を掌握出来た事は、今は亡き祖父宗弘から聞いた。その後も政氏の許しを得た者は、未だに怨(うら)みを抱きつつ、密かに反撃の機会を窺(うかが)い続けて居るという。しかし磐城の勢力拡大と、常陸との同盟に因(よ)り、彼等が武力で太刀打ち出来る術(すべ)は、完全に喪失された。とは言え、政氏の対抗勢力が、未だ住吉や滝尻に潜(ひそ)み、隙(すき)を窺(うかが)って居る事は、充分に考えられる。

 何(いず)れはその者等を炙(あぶ)り出さねば成らないが、今は第一に、主君政氏の救出が優先された。宗昌は、他に主君の冤罪(えんざい)を晴らす術(すべ)が無い物かという方向へ、思考を切り換えた。

 京の町は磐城より南に位置する分、春の訪れが早い。しかし磐城平家は京に在れども、故国奥州と同様、依然冬の直中(ただなか)に在った。

 政氏逮捕の後太政官では、如何(いか)にこの問題を解決するかが、議題の中心と成って居た。奥州に万の軍勢を擁する大豪族に謀叛の疑惑が掛けられ、しかもその人物が、六十年前に八千騎を率いて坂東八州に大乱を起した、平将門の嫡孫であった故である。

 この事件で、太政官は大いに震撼して居た。かつての天慶(てんぎょう)の乱は、勃発した地が坂東と瀬戸内であった。瀬戸内は、初代神武天皇東征の折には、既(すで)に倭(やまと)の勢力下に在った。坂東も又、十二代景行天皇が行幸して居る。天慶(てんぎょう)の時代は六十一代朱雀院が皇位に在り、その永い支配の歴史から、官軍に味方する者が多かった。仍(よっ)て、一年半で東西の乱を鎮(しず)める事が出来たのである。

 しかし一方で、奥羽二州は支配の歴史が浅い上に、広大である。特に陸奥は金山を有し、名馬を産する為、律令体制下においては大国に指定された。彼(か)の地を土豪に抑えられては、十万の大軍を擁する事も可能と成る。朝廷は胆沢(いさわ)鎮守府、多賀城、秋田城等の要塞を、放棄せざるを得なく成るであろう。さすれば往古の如く、奈古曽(なこそ)、白河、念珠(ねず)の三関が、倭(やまと)と蝦夷(えみし)の国境と成る。

 それを想像し、背筋が寒く成るのを覚えた左大臣道長は、検非違使(けびいし)別当を召し出した。そして、陸奥大掾(だいじょう)平政氏を謀叛(むほん)の廉(かど)に因(よ)り、処刑する旨を命じた。

 別当は道長の元を辞すと、自室に戻るなり、検非違使佐(けびいしのすけ)を呼び付けた。そして、左大臣の命を伝えた。佐は眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せながら承り、別当の間を退出した。その後、佐は内裏(だいり)を後にした。しかし向かった先は、検非違使(けびいし)庁ではなく、村岡忠頼の邸であった。

 村岡忠頼は政氏逮捕後、検非違使(けびいし)庁内の人脈を伝い、佐との誼(よしみ)を深めて居た。そして、政氏に関わる情報を、逐一(ちくいち)収集して居たのである。

 その日、佐が齎(もたら)した報せは、忠頼を驚愕(きょうがく)せしむる物であった。最早一刻の猶予(ゆうよ)も無い事を悟った忠頼は、立ち上がると僅(わず)かな供を連れ、佐と共に急ぎ参内(さんだい)した。

 忠頼の官位は、正六位下である。単独では左大臣に謁見するのは難しいので、別当の取り成しを得る事にした。別当も、坂東五州に勢力を持つ村岡平家の、火急の要件を無視する事が出来ず、取り敢(あ)えず道長に取り成す事とした。

 今や磐城政氏謀叛(むほん)は、朝廷の最重要事項であり、そこへ一族の村岡忠頼が介入して来たと在らば、左大臣道長も無下(むげ)にする訳には行かなかった。道長は報せを受けると、直ぐに面会する旨を伝えた。

 摂関家長者の威厳を示すべく、道長は堂々と構えて居た。そこへ許しを得た検非違使(けびいし)別当、佐、そして村岡忠頼が入室し、御前にて平伏した。

 道長は単刀直入に尋ねる。
「其方(そち)が村岡忠頼か。して、余に話とは?」
忠頼はゆっくりと顔を上げると、穏やかな口調で答えた。
「されば、昔語りを二つ、致しとうござりまする。」
「何?」
道長は俄(にわか)に訝し気な顔をした。しかしよくよく考えると、忠頼は今や、承平天慶の乱を間近に見た、数少ない生き残りである。武家の棟梁であるこの老将が、公家の己に何かを示してくれる事を期待し、道長は静かに答えた。
「拝聴致す。」
忠頼は微笑を湛(たた)えると、今より凡(およ)そ二百年前、桓武朝の御代(みよ)の話を始めた。

 時に延暦二十一年(802)、坂上田村麻呂は征夷大将軍、近衛権中将、陸奥出羽按察使(あぜち)、陸奥守、鎭守将軍の五職を兼帯し、四万の兵を率いて奥羽制圧に当たった。その折、鎮守府を胆沢(いさわ)まで北上させ、蝦夷(えみし)軍の主力と対峙した。

 この時、蝦夷(えみし)の族長阿弖流為(あてるい)は、戦力が未だ残って居る内に、田村将軍に和睦(わぼく)を申し入れた。無用な戦(いくさ)を避けられると考えた田村将軍はこれに応じ、阿弖流為(あてるい)は倭(やまと)との関係を修復すべく、京へ上った。しかし阿弖流為(あてるい)を敗軍の将と見做(みな)した公卿は、河内において処刑してしまった。

 倭(やまと)への不信を募(つの)らせる蝦夷(えみし)に対し、弘仁元年(810)、参議大蔵卿文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)が陸奥出羽按察使(あぜち)を拝命し、二万六千の軍を動員して、再び蝦夷(えみし)との戦(いくさ)が勃発した。この泥沼の戦(いくさ)を終わらせる為、朝廷は夷俘(いふ)長を任命し、蝦夷(えみし)にある程度の支配権を認め、倭(やまと)の政権下に取り込んで行った。仍(よっ)て奥羽には今も、国守の力の及ばぬ地が多々在るという。

 道長は、忠頼が述べた故事を噛み締めた。
「詰りは、今政氏を処刑致さば、磐城の臣が蜂起し、陸奥は再び動乱に陥(おちい)ると?」
忠頼は平伏して答える。
「仰(おお)せの通りにござりまする。平政氏は、歴代の郡司が踏襲して来た違法な重税を撤廃し、その為には受領(ずりょう)とも争い、民の暮しを護って参り申した。又、領内の開発も積極的に行い、不幸にも罹災(りさい)した者には、その者等の暮しが再建出来る様、食糧等を施し、村の再建を支援致しまする。その為に磐城平家は勤倹を宗(むね)とし、当主と重臣は私財を貯(たくわ)えませぬ。その方針は国府の政(まつりごと)を通じて、陸奥一円に浸透しつつ在る為、民衆は政氏を陸奥五十四郡の太守と称し、受領(ずりょう)と成る事を望んで居るのでござりまする。」
次第に、道長の表情は不安に翳(かげ)り始めた。
「では、政氏を死罪とすれば、蜂起する者は現れようのう。」
「政氏は民のみ成らず、多くの豪族にも、交易に因(よ)り恩恵を与えて居りまする。故に少なくとも、逢隈(阿武隈)川流域は不穏と成り、海仙両道は封鎖される怖れがござりまする。」
道長は暫(しば)し黙考した後、忠頼に尋ねる。
「余は、忠頼こそが桓武平家の長者と聞いて居る。もし反乱が起きた折、其方(そち)を従五位上鎮守府将軍に任命致さば、容易に平定出来ようか?」
忠頼は苦笑して答える。
「某(それがし)が平家最大の兵力を誇れるは、磐城政氏との同盟が堅固である故にござりまする。天慶二年(939)、父良文が鎮守将軍を拝命し、秋田城近隣の反乱を鎮圧した時にでさえ、一年もの時を費やし申した。磐城軍の精強さは、あの時の秋田蝦夷(えみし)とは比べ物に成りませぬ。又、常陸の平維茂(これしげ)、下野の藤原文脩(ふみのぶ)と当家は犬猿の仲である一方、磐城家は両家と誼(よしみ)を持ってござりまする。」
言われて見れば、それは道長の記憶の片隅にも在った。道長は頭を抱えた。

 道長が苦悩の表情を呈する一方で、忠頼は涼しい顔のまま、話を続ける。
「某(それがし)の御話し致したきもう一つの儀は、常陸下野の両家と、当家との絡(から)みにござりまする。」
そして、忠頼は二つ目の話を始めた。

 常陸と下野の二大勢力が同盟関係を結んだのは、天慶三年(940)の事で、時の当主は平貞盛と藤原秀郷であった。目的は、当時関東八州を制圧して居た、平将門の討伐である。両家は見事に将門を討ち取り、征東大将軍藤原忠文の到着を待たずして、乱を粗(ほぼ)平定した。朝廷はその功績に報い、位官を昇進させ、所領も拡大させた。

 しかし、将門の乱の折に奥羽に在り、秋田の反乱を平定した村岡良文が、相馬将門の旧領を恩賞として賜(たまわ)った事で、対立が生じた。それは時が過ぎても融解せず、常陸領を貞盛が弟の繁盛に任せ、村岡平家を忠頼が相続した後も続いた。

 寛和二年(986)は今上天皇践祚(せんそ)の年であったが、対立を続ける平繁盛と平忠頼が、同時に陸奥の守、介に任命された。忠頼は奥州へ下向せず、更(さら)には、京へ向かう途中に村岡領内を通行した、繁盛の家臣を暴行し、追い返すという事件が発生した。これを受けて、繁盛は朝廷に忠頼の暴挙を訴え出た。忠頼は逆賊と認められ、追討令が発せられた。

 その時、上洛して両家の戦(いくさ)を食い止め様と努めたのが、平政氏であった。政氏は藤原式家相親(まさちか)を頼り、太政官の公卿を説得し様と試(こころ)みるも、中々面会が叶(かな)わない。その中で、唯一政氏の話を聞いてくれたのが、摂政兼家の四男、時の左京大夫道長であった。

 道長は政氏から、坂東の情勢を詳細に聞き出した。その頃、為来(しきた)りに従わぬ道長を、兼家は勘当して居た。斯(か)かる中で、道長は父兼家と面会し、坂東の情勢を伝えると共に、今後の指針を示し、平和裡に解決する道を開いた。

 道長の才覚は兼家に認められ、間も無く二十三歳の若さで、権中納言に栄進した。左大臣源雅信の娘倫子(りんし)との婚姻も認められ、正に道長の運を開いた事件であった。道長の脳裏(のうり)に今も、常陸村岡両家の不和が記憶されて居たのは、その為であろう。

 忠頼の話を聞いて、得心した顔と成った道長は、落着きを取り戻して、穏やかに告げる。
「余は少々、感情的に命を下して居たやも知れぬ。確かに政氏を処刑致さば、彼(か)の勢力下に在る者が暴走を始め、些(ち)と厄介な事態が起るであろう。」
そして道長は、検非違使(けびいし)別当に命じた。
「先程の命は、即刻取消とする。」
別当は平伏し、承服の意を示した。

 忠頼の顔に、微(かす)かに安堵の色が浮かだ。そして道長に問う。
「畏(おそ)れながら、左大臣様に御尋ね致したき儀がござりまする。平政氏はこれにて、釈放される運びと成りましょうや?」
それを聞いて道長は、俄(にわか)に表情を強張(こわば)らせた。
「実は、陸奥守の任期を終えた者が悉(ことごと)く、多賀城の政(まつりごと)は大掾に牛耳(ぎゅうじ)られて居ると申す。故に、朝廷内には磐城平家や、奥州北端に盤踞(ばんきょ)する安倍氏等を、警戒する者が多い。特に政氏は将門の孫故、これを機に潰(つぶ)してしまえと唱(とな)える者も、多々居る。」
「はっ。」
道長の眼からは、何かを決意した、強い気が放たれて居る。それを感じた忠頼は、静かに控え、道長の言葉を待った。

 正面の忠頼を見据える道長の口が、やがてゆっくりと動き始めた。
「死罪では奥州が不穏と成り、又無罪としても、一部貴族の不満、磐城の過度な勢力拡張を招き、何方(どちら)も宜しくない。では、その中間を採ると致そう。」
「と、仰(おお)せられますると?」
声に出して尋ねたのは、別当であった。道長は、微(かす)かに口元を綻(ほころ)ばせる。
「西国へ流刑に処す。こう成れば、磐城家の動きを制する事が出来、且(か)つ一部の貴族も安堵致すであろう。これに因(よ)り、磐城氏は一郡司に戻る。」
検非違使(けびいし)庁の別当と佐は、見事な裁決と頷(うなず)いて居たが、忠頼は静かに熟慮して居る様子であった。道長は諭(さと)す様に、忠頼に告げる。
「平政氏は老練にして、中々の人物じゃ。このまま奥州に帰還させるよりも、西国へ追放してしまえば、再び磐城平家を、村岡平家の下に置く事も叶(かな)うのではないか?」
そう言うと、道長はにやりと笑った。忠頼は異論を唱えず、黙って平伏した。

 左大臣道長は、翌日の朝議において、平政氏の処分を諮(はか)った。その結果、此度の謀叛(むほん)は、平政氏の独断で企(くわだ)てられし物と断定された。しかし、長年陸奥国府に仕えし功績を鑑(かんが)み、本来死罪の所を減刑し、官職を剥奪(はくだつ)した上、大宰府近くの安楽寺へ、流刑に処す事と決した。多くの磐城家臣には関与が認められない為、磐城領四郡は嫡子政道に相続させる物とし、此度の事件は解決する事と成った。

 獄中の政氏に刑が申し渡されたのは、その日の夕刻であった。政氏は従容(しょうよう)として承った。冤罪(えんざい)に因(よ)り投獄された事は、何よりも無念ではあった。且(か)つ、政道を磐城平家の棟梁にするには、未だ頼り無さを感じる。

 しかし、己の若い頃には所領も無く、僅(わず)かな父の遺臣と共に、数多(あまた)の試練を乗り越え、今日の繁栄を築いた。政道も又、父の流刑という試練を乗り越え、やがては奥州南部の民に幸いを齎(もたら)す、名君に育って欲しい。政道は三大老の補佐を受け、更(さら)には政氏が直々(じきじき)に育て上げた、磐城四家も残されて居る。そう考えると、政氏は安堵感に包まれ、冷たい木の床に横たわった。

 壁の隙間から、朱色の西日が一本の筋と成り、政氏の頭の側を照らし始めた。政氏は漸(ようや)く磐城家当主、陸奥大掾という重責から解放され、肩の荷が下りた気楽さを感じて居た。そして西方より注がれし光を受け、西国に希望を感じ様と努めた。然(さ)もなければ、奥州に残した妻子や、長年仕えし忠臣の顔が思い浮かび、心が圧(お)し潰(つぶ)されそうに成るのである。

 獄に入り、幾度太陽が昇り、沈んだか数え忘れたが、刑を言い渡された二日の後に、政氏は再び陽の当たる処へ出た。久しく手入れをしなかった、白色の髷(まげ)や鬚(ひげ)を整え、汚れた衣服も新しい物が支給された。鏡を見ると、陸奥大掾であった時の自身が思い出される。

 しかし、これは西国へ流されるに当たり、検非違使佐(けびいしのすけ)を通じて村岡忠頼が施した、責めてもの餞別(せんべつ)であった。かつて菅原道真や源高明(たかあきら)、藤原伊周(これちか)等が謀叛(むほん)の罪を着せられた折は、大宰権帥(だざいごんのそち)へ降格と成っただけであるが、下位の政氏は官職を失い、囚人として、京の諸人に顔を晒(さら)さなければ成らない。忠頼は長年の誼(よしみ)も有り、責めて綺麗な身形(みなり)で送って上げたいという。同情の念が働いたのであった。その事を、衣服を渡された時に告げられて知った政氏は、最後に礼も言えぬ、我が身を悔やんだ。

 やがて身仕度を整えた政氏は、衛士(えじ)十名の護送者と共に、牢獄から出立する事と成った。その時、衛士の隊長である火長(かちょう)が、政氏に馬を宛(あて)がった。
「御老体には、徒(かち)にて筑前へ赴くは無理にござる。御乗りあれ。」
火長は検非違使佐(けびいしのすけ)直属の臣であり、即(すなわ)ち村岡忠頼の影響を受ける人物である。政氏は一礼して手綱を受け取ると、入牢暮しで弱った身体なれど、自力で馬へ飛び乗った。

 全員が騎乗し、政氏を中央に隊列を整えると、牢獄の門が開かれた。総勢十二騎の一隊は、整然と駒を進め始めた。

 白昼の朱雀大路は人通りが多く、賑(にぎ)やかである。その中を十余騎の武官が通行すると、民衆は恐れをなして、道を空けた。政氏が生まれ、幼少の頃を過ごした平安京も、これが見納めやも知れない。政氏は藤原式家滋望(しげもち)の邸で育ち、母や村岡重武、近藤宗弘といった重臣、そして村岡忠重や佐藤純利と共に育った時の事が、自然と記憶に蘇(よみがえ)って来た。

 東寺の側まで来ると、遠くに荒れ果てた羅生門が見えて来る。ここは今では盗賊や貧民の屯(たむろ)する処と成り、人通りは少ない。ふと、政氏は道端に平伏する、二人の武士を認めた。よく見れば、近藤宗昌と斎藤邦秀である。

 しかし、互いに声を掛け合う事は出来ない。政氏は馬上で胸を張り、泰然と構えた。二人の前を通り過ぎる刹那、政氏は微(かす)かに笑みを向けた。そして無言のまま、一隊は羅生門の方へ通過して行った。

 両将は向きを変え、主君の後ろ姿を見詰める。間も無く一隊の姿は、羅生門の彼方(かなた)へと消えて行った。その後も両将は、暫(しば)し呆然と、南方を眺め続けて居た。

 やがて、邦秀が震える声で呟(つぶや)いた。
「何故(なぜ)じゃ?何故(なにゆえ)永年朝廷に尽されて来た大殿が、無実の罪を着せられねば成らぬのじゃ?」
その肩を、隣の宗昌が叩(たた)く。
「憎きは奸物、大江時廉じゃ。儂(わし)は彼奴(あやつ)の証言が讒言(ざんげん)である事を明らかにし、以(もっ)て彼奴(あやつ)を屠(ほふ)り去り、同時に大殿を救出する。」
涙に目を赤めて居た邦秀の顔が、俄(にわか)に綻(ほころ)んだ。
「某(それがし)も久しく大殿の側に御仕えした身。御助勢致す。」
「うむ。」
二人は互いに向き合い、頷(うなず)くと、悠然と立ち上がった。その胸中には、共通した一つの決意が秘められて居た。

 両将はゆっくりと踵(きびす)を返し、道端(みちばた)の大きな柳の木へ歩み寄った。すると、木の陰より平頼尊が姿を現した。宗昌は頼尊に対し、恭(うやうや)しく頭を下げる。
「御配慮を賜(たまわ)り、忝(かたじけな)く存じまする。御蔭にて、大殿と別れの対面が叶(かな)い申した。」
「何の。当家こそ政氏殿を護り切れず、申し訳無く存ずる。」
そう告げると、頼尊は近くに待機させて居た家臣に、馬を曳(ひ)いて来させた。三人は騎乗すると、左京の村岡邸へと引き揚げて行った。

 一方、京を出た政氏は、一度都を振り返っただけで、後は黙々と南方与等(よど)津の方角を望んで居た。護送の責を負う火長(かちょう)は、政氏の様子を見て、観念したと言うよりも、家臣が潔白を証明し、救い出してくれるのを信じて居る風(ふう)に思えた。

 火長(かちょう)は政氏を気遣(きづか)い、言葉を掛けた。
「伊周(これちか)公や隆家卿も、僅(わず)か一年で御赦免と成られた。左大臣様は慈悲深い御方故、政氏殿も遠からず、御許しが出る物と存ずる。」
政氏は火長に向かい、苦笑を湛(たた)えた。

 その言葉は、然程(さほど)(なぐさ)めには成らなかった。内大臣や中納言は、左大臣の長兄が遺子にて、即(すなわ)ち甥(おい)である。これを許す事は、藤原北家骨肉の勢力争いを終息させ、又左大臣の人望を高める事にも繋(つな)がる。

 しかし、政氏は一地方官に過ぎない。その運命は、火長(かちょう)が例に挙げし二人より、寧(むし)ろ大宰府で没した、菅原道真に近いであろう。罪は共に、謀叛(むほん)の嫌疑である。菅原道真はその死後、祟(たた)りを恐れる藤原氏に因(よ)り、太政大臣が追贈された。かつては菅公が、時の帝(みかど)の信を得て右大臣に昇進し、藤原氏を脅(おびや)かした時期も有った。されど、今や帝の外戚として、その地位を不動の物とした藤原氏が、位官で他家の追随を許す事は考え難い。しかし、太政官内に恐れる物の無い摂関家も、遠国の掾(じょう)は恐れた。政氏が将門の血を受け継ぐのも一つの理由であろうが、地方豪族が武士団を形成し、朝廷が派遣した受領(ずりょう)と争う者が出て来た事が、大きな要因であろう。

 政氏自身、磐城入部当初は、郡政を武力で掌握した事も有ったが、その後は近隣勢力との融和を図り、陸奥の安寧に貢献して来た。にも拘(かかわ)らず朝廷は、磐城平家が万を数える武士団を纏(まと)めるに至っただけで、恐れを成した。武家の官位は低い。源氏や平家といった、皇族の支流でさえも五位。藤原秀郷等大功を挙げたり、平貞盛や平良将等、各地の要職を歴任しても、精々(せいぜい)四位止りである。政氏に至っては、未だ六位に過ぎない。この後、藤原摂関家の権力を転覆させ得るのは、やはり武士団の結束力であると、政氏は予感した。

 それを思うと、政氏の心は磐城へと移った。己が流された後、磐城家は嫡男政道が継承し、所領も安堵される運びと成った事は、検非違使佐(けびいしのすけ)より報されて居た。取り敢(あ)えず、己や今は亡き忠臣達と共に興した家が残された事には、胸を撫(な)で下ろした。しかし、出る杭は打たれるの格言の如く、政道が成長し、名君の誉(ほま)れ高き人物に育とうとも、己の二の舞を演じ、失脚して欲しくはない。かと言って暗愚と成っては、磐城平家と、その領民に取って不幸である。政氏はやはり政道にも、民を慈(いつく)しむ心を、根幹から忘れて欲しくはなかった。これは相馬武士の道であり、磐城平家存続の意義と考えた故である。

 やがて与等(よど)津へ到着した政氏は、検非違使(けびいし)庁の用意した船に、乗る様に告げられた。火長(かちょう)は、政氏の老体を気遣(きづか)って尋ねる。
「船を使えば、筑前への旅程を大幅に短縮出来申す。只、揺れは少々身体に応えるやも知れませぬが。」
政氏は笑顔で答える。
「某(それがし)が陸奥大掾で在った頃、度々磐城小名浜と多賀城塩竈の津とを、船で往復して居り申した。某(それがし)は、大丈夫でござる。」
火長は頷(うなず)くと、衛士(えじ)に命じて馬や荷を船へ乗せ、出港した。

 一行を乗せた船は淀川を下り、難波江(なにわえ)を目指した。この後、瀬戸内海を西へ航行し、長門、豊前の海峡を抜け、玄海灘を南下して、博多津に入港する予定である。博多津からは陸路、大宰府を目指す。流刑地である安楽寺は、大宰府政庁の東に在り、菅原道真終焉(しゅうえん)の地である。延喜十五年(915)、勅命に因(よ)り、菅公を祀(まつ)る天満宮が、境内に建てられたという。

 ふと、政氏は京で聞いた、一つの話を思い出した。行く手に広がる摂津国、その北西部には多田社領である多田庄が在り、地頭は清和源氏頼光が務めて居るという。頼光は、家祖経基の嫡孫である。父満仲の頃より藤原摂関家に仕え、安和(あんな)の変、花山院の出家等、数々の陰謀を成功させ、勢力を伸ばした。満仲が興した多田の武士団を、二年前に相続したばかりであるが、既(すで)に四天王と称される勇将を従えて、武功も有る。娘は左大臣道長の異母兄、大納言道綱に嫁ぎ、嫡男頼国は非蔵人を経て、左衛門大尉(さえもんのだいじょう)に任官して居る。

 興隆する清和源氏の中で、政氏が特に着眼したのは、頼光の弟達であった。頼親は大和に、頼信は河内に、其々(それぞれ)武士団を形成しつつ在った。特に頼信は上野介に任官し、坂東において武名を挙げ、又左大臣に馬を貢進して、台頭著(いちじる)しいという。この二人に加え、頼平は未だ歳若いが、武芸の腕は一流であると聞く。

 桓武平氏は家祖高望以来、主に坂東を拠点として来たが、ここ数年は常陸平家維衡(これひら)、上総平家致頼(むねより)が伊勢へ進出して居る。この年、致頼は維衡との争いに遂(つい)に敗れ、隠岐に流された。今後、京を揺るがす大事件が起るとすれば、畿内における武士の覇権を掛けた、源平二大勢力の衝突では有るまいか。先を見越せば、それは平維衡と源頼信辺りかと、政氏は空想に耽(ふけ)った。

 政氏の目からは、清和源氏は羨(うらや)ましく映(うつ)った。もし長者頼光が失脚したとしても、有力な弟達が残る。政氏には兄弟が居らぬ為、一族の重鎮と言える者を、後見に宛(あ)てる事は叶(かな)わない。それ処か、妻の兄時廉は己を陥(おとしい)れ、又政之も、滝尻の要地を任せたにも拘(かかわ)らず、私欲の為に政(まつりごと)を誤り勝ちである。唯一、黒沢家を継いだ正顕だけが、三春の地をよく治めて居る。

 加えて、住吉に残した三大老に関しても、政氏は懸念を抱いて居た。高野盛国は仕える年数が浅く、白河郡東部の大豪族というだけで取り立てた。大村信澄は磐城の土豪であり、政氏の近習として育てた人物であるが、三大老の中で一人、所領が少ない。村岡重頼は先代忠重の功績から、執政の称号を与え、三大老の筆頭に置いた。しかし政氏とは面識が少なく、如何(いか)なる人物か、未だ判然として居ない。

 この様に異なる道を歩んで来た三人を、果して政道が、見事に纏(まと)めて行く事が出来ようか。それが政氏に取って、最も気掛りであった。

 次第に、陽が西方の丘に没して来た。目を凝(こ)らして行く手を見ると、夕陽に照らされて朱色に輝く摂津府中が広がり、その先には瀬戸内へ通じる海も垣間(かいま)見える。

 幼き頃、村岡重武より、父忠政の武勇伝を良く聞かされた。天慶三年(940)、父は村岡氏と近藤氏を従え、藤原純友征討に加わり、武勲を挙げたという。政氏は、先代が相馬家再興に係る、勝利を収めた地に近付いて居る事を思うと、俄(にわか)に心の高揚を覚えるのであった。

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