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第三十二節 誣告(ぶこく)の証
政氏流刑後、村岡邸に預けられて居た兵は主(あるじ)を失った上、京より退去する様、命が下された。磐城平家二将の内、年長の近藤宗昌が臨時に大将を務めて居り、この沙汰を神妙に承った。磐城までの充分な兵糧が手配されると、その翌朝、宗昌は出立前に、村岡忠頼に拝謁(はいえつ)した。
忠頼は宗昌に、同情の言葉を寄せた。
「此度の事は、至極(しごく)残念であった。しかし政道殿が、磐城家の所領を失わずに相続するに至ったは、不幸中の幸いじゃ。今後も当家は、磐城家と誼(よしみ)を深める事を望む物である。磐城に戻られた折、政道殿へよしなに。」
「はっ。長きに渡り貴家に逗留する間、各別の御計らいを賜(たまわ)り、御礼の言葉もござりませぬ。この御恩は磐城に戻り次第、主君政道様に必ずや伝えまする。」
そう申し上げて座礼を執ると、宗昌は忠頼の元を辞して行った。
宗昌は兵を纏(まと)めると、斎藤邦秀と共に村岡邸を発った。先ずは朱雀大路に出て、その後、羅生門を目指した。
間も無く、磐城軍は羅生門を近くに見る処まで来た。そこは宗昌と邦秀が、政氏が配流の地へ向かうのを見送った処である。先頭を行く宗昌が、隣の邦秀に目を遣(や)ると、案の定、無念さが込み上げて居る面持ちである。
ふと、宗昌が邦秀に声を掛けた。
「邦秀、貴殿は兵を率い、先に磐城へ還(かえ)れ。」
意外な言葉を受け、驚いた様子の邦秀は、咄嗟(とっさ)に軍を止めて、宗昌を見た。
「宗昌殿、貴殿は如何(いかが)される御積りか?」
「大殿の無実を晴らすべく、儂(わし)には未だ成すべき事が残って居る。」
宗昌の真剣な眼指を受け、邦秀は一旦後続の兵を振り返った後、再び宗昌を見詰めた。
「某(それがし)も御助勢仕(つかまつ)りたき所なれど、朝命故に兵を帰国させねば成りませぬ。では磐城にて、大殿の御戻りを待つ事と致す。宗昌殿、宜しく御頼み申し上げる。」
そう告げると、邦秀は家臣に命じ、軍資金の一部を巾着(きんちゃく)に詰めて、宗昌に渡した。
「京に留まり本懐を遂(と)げるには、何かと物入りでござろう。御使いあれ。」
「忝(かたじけな)い。」
宗昌が巾着(きんちゃく)を受け取った後、邦秀は一礼すると、手綱を捌(さば)いて駒を進めた。磐城軍百騎は再び行軍を始め、羅生門を目指して行く。一方、宗昌は反対方向に馬を駆り、左京の街へと戻って行った。
宗昌が向かった先は、藤原式家の支流、近藤家の屋敷であった。近藤本家は、磐城家先代忠政の岳父に当たる、忠宗の系統である。今の当主は忠宗嫡孫であり、宗昌とは又従兄(またいとこ)の関係である。
近藤邸の門前で馬を下りた宗昌は、屋敷の門を叩(たた)いた。すると、六十を疾(と)うに過ぎたと思われる、白髪頭の武士が姿を現した。
「何方(どなた)かな?」
宗昌は微笑を湛(たた)えながら答える。
「某(それがし)は奥州磐城平家家臣、近藤宗久が嫡男にて、宗昌と申しまする。我が祖父は宗弘と申し、宗家先々代忠宗公の弟にござりまする。」
老人は暫(しば)し、記憶の糸を手繰(たぐ)って居る様子で在ったが、やがて懐かしむ面持ちと成った。
「おお、康保(こうほう)の頃まで京におわした、宗久殿の御子で在られたか。言われて見れば、面影(おもかげ)がござる。」
幸い老将は、忠宗以来の旧臣であった為、宗昌の素姓を直ぐに理解した。そして、快く宗昌を屋敷に迎え入れた。話を聞けば、現今当主は今、播磨の荘園に赴いて居る為、京を留守にして居ると言う。
藤原式家は、先代相親(まさちか)が従四位下大膳大夫に任官したのを最後に、再び没落の道を辿(たど)って居た。近藤宗家は、衰退した主家に仕えるよりも、己の所領を確保して置く方が大事であると考え、播磨に下向したのだという。老将は京の情勢を探(さぐ)る役目を帯び、京の屋敷を僅(わず)かな従者と共に、守って居るとの事であった。
宗昌は来客応接の間に通され、茶を一杯振舞われた。宗昌は二、三度茶を啜(すす)った後、一旦碗を膝元に置き、礼を正して願い出た。
「実は、御願いの儀が有って、罷(まか)り越し申した。」
老将も、静かに姿勢を正して応ずる。
「承り申そう。」
宗昌は一呼吸置いた後、話し始めた。
「此度、我が主君平政氏様が、無実の罪で筑前へ流刑と成り申した。」
「聞き及んで居りまする。」
「某(それがし)は久しく主君の側に在った者。主君に掛けられし疑惑を、払拭(ふっしょく)し得る証拠の品を集めて居る矢先、早々に主君の刑が執行されてしまい申した。某(それがし)は収集せし証(あかし)の物を、全て検非違使(けびいし)庁へ提出し、主君の冤罪(えんざい)を晴らしたいのでござる。その為に目下、京に滞在する間の住処(すみか)を必要として居りまする。本家に迷惑は一切掛けませぬ故、本家邸への滞在を、一時御許し戴けます様、御願い申し上げまする。」
直向(ひたむ)きな宗昌の眼に輝きを見た老将は、温かい笑みを湛(たた)えた。
「磐城平家の苦衷(くちゅう)、御察し申し上げまする。直ぐに部屋を用意致しまする故、暫(しば)し御待ち下され。」
そう答えると、老将は従者を呼び、一室を手配する様命じた。
仮の住処(すみか)を得る目処(めど)が立った宗昌は安堵し、邦秀より受け取った巾着(きんちゃく)から銭を取り出して、老将に差し出した。
「御世話に成りまする。」
老将も静かに、座礼を返した。
*
一月(ひとつき)後、近藤邸の宗昌の元には、数々の書状が届いて居た。集められる物は全て集めたと確信した宗昌は、その日、書類を検非違使(けびいし)庁へ提出する事を決意した。
宗昌は屋敷より、従者一人と葛籠を(つづら)一つ借り受け、葛籠に各書状を収めた箱を入れ、荷車へと乗せた。宗昌が前に立って荷車を曳(ひ)き、従者は後方よりそれを押す。二人が屋敷の門を潜(くぐ)って大路へ出ると、俄(にわか)に風が起り、隣家に咲き誇る桜が、花吹雪(ふぶき)と成って吹き付けて来た。宗昌等は春の趣(おもむき)を感じながら、荷車を動かした。
宗昌は検非違使(けびいし)庁に到着すると、門衛に用件を伝え、許可を得た上で、荷車を中へと運び入れた。衛士(えじ)の案内を得て葛籠(つづら)を一室へ運び込み、暫(しば)しそこで待つ様告げられた。
やがて半時程が経った頃、坂上、中原両大尉(だいじょう)が姿を現した。宗昌は平伏し、従者も後方でそれに倣(なら)った。
宗昌と葛籠(つづら)を挟んで両大尉が腰を下ろすと、先ず中原大尉が目の前に置かれた葛籠に目を遣(や)り、感心した様子で呟(つぶや)く。
「これは又、大分頑張った様じゃのう。」
宗昌が静かに躙(にじ)り寄って蓋(ふた)を開けると、中には二十個程の木箱が収められて在った。
両大尉は一つずつ取り出し、木箱の中の書状を読み始めた。読み進めて行く内に、大尉達の表情は、真剣な物に変わって行く。そして一つを読み終えると、別の木箱へと手を伸ばした。
宗昌がこの一月の間に集めた書状は、全て奥州より届けられし物であった。半分は磐城郡豊間館に居る父より送られし物で、郡政上発行された書類であった。よく見ると、大江時廉が政氏謀叛の証拠とした書状と、同じ印が押されて在る。しかもその日付は、政氏逮捕より後の物であった。即(すなわ)ち、政氏の物と思われし印は、今も磐城に在る事に成る。
又、平政道が三大老や磐城四家に、各所領の情勢を報告させた書類も有る。これは政氏逮捕直前の物で、磐城軍の主力は悉(ことごと)く、領内において静謐(せいひつ)を保って居た事が窺(うかが)える。この書類は、主君の危機を報された近藤宗久が、郡司政道に事情を話し、借り受けた物であった。
残りの半分は、国府多賀城より発せられし物である。要職に在る者の殆(ほとん)どが、政氏に叛心無しと訴え、その赦免を願い出て居る。取分け重きをなしたのは、陸奥介源重之の書状である。それには、陸奥守実方逝去から、平政氏上洛までの経緯(いきさつ)が具(つぶさ)に書かれ、政氏の上洛は、重之の命に因(よ)る物と判明した。
此度の件に関しては、検非違使(けびいし)庁においても、独自に調査が行われて居た。大江時廉が、磐城軍二万が上洛の途上に在ると告げたのを受け、三関固守を施して居た。即(すなわ)ち近江国の防衛線である、北陸道が延びる越前国境の愛発関(あらちのせき)、東山道が延びる美濃国境の不破関(ふわのせき)、東海道が延びる伊勢国境の鈴鹿関(すずかのせき)、以上三関の守りを固めた。更(さら)には東国各府に使者を遣(つか)わし、不審な集団の通行が無かったか確かめさせたが、二万の軍が都に向かって来る形跡は、微塵(みじん)も見当たらなかった。
一通り目を通し終えると、坂上大尉が宗昌に告げた。
「貴殿の提出せし物証は、追って佐(すけ)の殿と共に吟味致す。本日は御苦労でござった。」
大尉に退出を求められ、宗昌は深く一礼して言葉を添えた。
「某(それがし)は、主君が正しく裁かれる事を、強く願う次第にござりまする。」
坂上大尉が頷(うなず)いたのを見届けて、宗昌は従者と共に、調べの間を辞して行った。
空(から)に成った荷車を従者に曳(ひ)かせ、宗昌は検非違使(けびいし)庁を後にした。宗昌には、成せる事を全て成した達成感が有った。加えて、穏やかな春の日和(ひより)が、宗昌の心を一層軽くしてくれて居る様に感じられた。
その後、宗昌は近藤宗家邸で静かに過ごした。そして五日後、検非違使(けびいし)庁より宗昌宛(あて)の書翰(しょかん)が届けられた。宗昌は昂(たか)ぶる気持ちを抑えつつ、自室に持ち帰り、封を解いて書翰(しょかん)を広げた。差出し人は、政氏を筑前まで護送した火長(かちょう)である。
半ばまで読み終えた所で、宗昌は肩を震わせ始めた。主臣の仇(かたき)、大江時廉の処分が報された為である。
検非違使(けびいし)庁では、先日宗昌が提出した書状を、物証として吟味した。その結果、政氏に掛けられし謀叛の嫌疑は、全くその根拠を喪失した。一方で、時廉には誣告(ぶこく)罪の疑いが生じた。直ちに大江邸へ武官が派遣され、時廉を逮捕し、検非違使(けびいし)庁へと連行した。
その後執り行われた調査の結果、政氏謀叛の証拠とした書状は、時廉が偽造せし物と発覚した。太政官は誣告(ぶこく)に加え、私怨(しえん)の為に禁中を煩(わずら)わせた罪は重いとして、時廉に死罪を宣告。昨日、刑が執行されたとの事であった。
時廉は政氏の義兄に当たるにも拘(かかわ)らず、陰謀を以(もっ)て陥(おとしい)れ、政氏は危うく死罪に処される所であった。宗昌は奸物(かんぶつ)を取り除(のぞ)けた事に、大いに満足感を覚えた。そして、再び書翰(しょかん)の続きを読み始めた。
やがて一伍一什(いちごいちじゅう)を読み終えた宗昌は、惚(ほう)けた顔と成り、書翰(しょかん)を脇へ放った。
「大殿。」
不意に宗昌は声を発すると、俯(うつぶ)して、嗚咽(おえつ)し始めた。
火長(かちょう)からの報せに依れば、政氏は謀叛の疑いは晴れた物の、宮中警固に過失が有った事は確かであり、罪が許される事は無いと記されて在った。しかし斟酌(しゃくりょう)の余地有りとされ、奥州四郡の主(あるじ)平政道に、陸奥大掾(だいじょう)を世襲させる事が決せられた。朝廷は、政氏を流刑に処したまま、子の政道に位官を悉(ことごと)く継承させたのである。
仍(よっ)て磐城平家も、その家臣団も、現今の地位は維持される事と成った。宗昌の近藤家も、新たな主君政道の下で、存続が保証される運びと成ったのである。
しかし、宗昌は唯々(ただただ)無念であった。政氏は筑前に流されたままである。宗昌に取って政氏は、主君というだけではなく、武士の有り様を教えてくれる師でもあった。これまで磐城、信夫の郡政、陸奥の国政、軍団の編成等、地方武士が民と共に栄える策を、宗昌は政氏の側に在る事に因(よ)って、学ぶ事が出来た。その主君を守り通す事が叶(かな)わなかった無念の他に、今後己を導いてくれる師を失った虚無感が、宗昌の心を覆(おお)って行くのであった。
その日、近藤宗家の老将と夕餉(ゆうげ)を共にした折、宗昌は磐城平家に下された裁決を告げた。老将は宗昌の無念を汲(く)んだ様子で、特に言葉を掛けて慰(なぐさ)める様な事はしなかった。その代り、老将が仕入れた情報を一つ、宗昌に告げた。
「そう言えば、貴殿が先月収容されて居た村岡平家の忠頼殿が、この度常陸介を拝命し、坂東へ赴かれるそうじゃ。」
それを聞いた宗昌の箸(はし)が、一瞬止まった。
常陸国は長年平貞盛が勢力を持ち、平忠頼と睨(にら)み合いを続けて来た地である。村岡家先代良文は、かつて常陸介に任官した折、当国南部、即(すなわ)ち内海(霞ケ浦)南西部を、勢力下に組み入れた。今の常陸平家には、将門の乱を鎮圧した貞盛、繁盛兄弟は既(すで)に亡く、未だ若年の維茂(これしげ)、維幹(これもと)義兄弟が守って居る。年を取って円熟味を増した忠頼に取っては、常陸平家の力を弱め、常陸に勢力を伸ばす好機であった。
宗昌は粥(かゆ)を啜(すす)りながら、村岡平家の更(さら)なる発展を予感した。村岡忠頼は磐城平家を興した時、最大の支援をしてくれた、長年の盟友である。しかし政氏は、その敵対勢力である常陸の維茂とも誼(よしみ)を深め、今では交易を通じて、共栄の関係に在る。常陸、村岡両平家の諍(いさか)いは、最早磐城平家に取って、望ましい事ではなく成って居た。村岡家の勢力が常陸北部にまで及ぶ様な事に成れば、忠頼は甥(おい)の汐谷城主村岡重頼に、調略の手を伸ばして来るのであろう。重頼が忠頼に与(くみ)すれば、磐城平家は菊多郡のみ成らず、磐城郡をも失い、村岡忠頼の家臣に落され兼ねない。
磐城家をこの先襲う嵐を予感すると、宗昌は早急に磐城へ戻らねば成らぬと思い至った。政氏救出の望みは、早絶(た)たれた。宗昌は意を決し、老将に告げる。
「明日、磐城へ戻りまする。」
「愈々(いよいよ)、御戻りになられまするか。」
老将は香の物を箸(はし)で取りながら、寂寞(じゃくまく)と答えた。
「御本家の御邸を借りる事が叶(かな)い、御蔭で主君を陥(おとしい)れた仇(かたき)を、死罪にする事が出来申した。此(こ)は帰国の前に成すべき最低限の己が責務にて、御本家には心より御礼(おんれい)申し上げまする。」
宗昌は箸を膳の上に置いて座礼を執ると、老将も同様に礼を執った。そして両者は再び、黙々と夕餉(ゆうげ)を掻(か)き込み始めた。
その夜、宗昌は部屋に戻ると、机の前に座り、墨を擦(す)った。そして、今まで磐城平家に同情的に動いてくれた、検非違使(けびいし)庁の火長(かちょう)宛(あて)に、書状を認(したた)めた。これまでの、感謝の意を伝える為である。
やがてそれが終わると、旅の荷造りを始めた。とは言っても、布に包んで背負える程に、荷は少なかった。又、帰路は護衛が居ない。悪政の蔓延(はびこ)る国では盗賊が跳梁(ちょうりょう)するので、万一に備え、父宗久より拝領した太刀を、念入りに手入れした。
全ての仕度を整え終えると、宗昌は明かりを消して床(とこ)に就(つ)いた。思えば、政氏流刑後は全力を挙げて、冤罪(えんざい)を晴らすべく奔走して来た為、体の力を抜いて休むのは、実に久し振りの事である。しかし、結局主君を救う事が叶(かな)わなかった事を思うと、悔(くや)しさに体が震え、涙が目に溢(あふ)れて来るのであった。その日は月の光が明るく、京の街を優しく照らして居た。
翌朝、宗昌は近藤宗家邸の人々から見送りを受けた。宗昌は、皆に今日まで世話に成った礼を述べると、颯爽(さっそう)と馬に跨(またが)った。そして馬上にて再び一礼すると、手綱(たづな)を引いて、邸の大門へと駒を進めた。
老将はその後ろ姿を見た時、若き頃己が仕えた、先々代忠宗を思い出して居た。近藤忠宗は実の弟宗弘を、平忠政という人物を見込んで、家臣に遣(や)った。しかし未だ将門の乱が終息したばかりで、その恐怖が覚め遣(や)らぬ時であった為、忠宗は相馬平家に仕えた弟の身を案じ続けた。
しかしその後宗弘は、磐城平家の重臣として二郷を任され、孫宗昌は若年ながら、主君の為に全力を注(そそ)ぐ遖(あっぱれ)な忠臣である。忠宗、宗弘兄弟は、今は共に泉下に在るが、宗昌が立派に育った姿を草葉の陰より見て、嘸(さぞ)や安堵して居る事であろうと、老将には思えた。
一方で、流刑に処せられし平政氏も、近藤忠宗の外孫である。老将は主家に縁(ゆかり)の者として、政氏の無事も祈らずには居られなかった。
やがて近藤の姓を冠する若武者は、大門を潜(くぐ)ると、大路を出て北へ折れ、やがて姿が見えなく成った。老将は大門の外に佇(たたず)みながら、北に向かい、深く一礼した。
宗昌は先ず検非違使(けびいし)庁へ足を運び、門衛に火長(かちょう)に宛(あ)てた文(ふみ)を託すと、直ぐにその場を去って行った。その後朱雀大路へ出て、頓(ひたすら)南を目指した。朱雀は四神の内、南方を守護する神獣である。今では、王城南端に位置する羅生門は廃(すた)れ、ならず者や無宿の貧民の窟(くつ)と化して居る。目付きの悪い物が幾人か宗昌を睨(にら)んで居たが、宗昌の威風に圧(お)されて、近寄っては来なかった。
羅生門を潜(くぐ)ると、南方の与等(よど)津へ至る街道が延びて居る。それは政氏が流刑地へ向かう時、通った道でもあった。宗昌は馬を下りると、街道の行く手に向かい、頭を下げた。それは主君に対し、暫(しば)しの別れを告げる意と、赦免を得るに至らなかった己の無力に対する、慚愧(ざんき)の念が込められて居た。
やがて頭を上げた宗昌は、再び馬に飛び乗った。そして東方へ駒を走らせ、鳥部野方面へと向かう。山城の野を行く春風は心地好く、時折辛夷(こぶし)の白い花を運んで来た。