第三十節 陰謀

 強行軍で都を目指した物の、厳冬の直中、やはり半月程の時が費やされた。漸(ようや)く山城国に到着した頃、暦(こよみ)は既(すで)に如月(二月)に入って居た。野には満作や福寿草が、先駆けて春の訪れを告げ、陽当りの良い梅林からは、紅白の花が開花し、芳香を風に乗せて居る。京はすっかり春の気候と成って居た。

 磐城軍は加茂川の東、六波羅に軍を留めた。政氏は近藤宗昌、そして三騎ばかりの衛兵を付けて入京し、残りは斎藤邦秀に任せ、待機させた。

 政氏等は先ず左衛門府に向かい、兵百騎を伴い、勅命を奉じて上洛した旨を報告した。ここはかつて、政氏が左衛門大尉(さえもんのだいじょう)として務めた処であり、知人も有った。

 待つ事半時、漸(ようや)く朝廷より使者が遣(つか)わされ、政氏に沙汰を下した。
「暫(しばら)くは仗議(じょうぎ)が立て込んで居る故、建春門の左衛門陣屋で待つ様。」
しかしこれは、上洛の勅命を受けた政氏と、近藤宗昌の二人のみに対する沙汰で、供の兵への指示は下されなかった。政氏が手勢百騎を宿営させる場所の手配を願い出ても、使者は存ぜぬの一点張りで、話に成らない。家臣の処遇に困惑する政氏を残し、使者は早々に府を後にして行った。

 暫(しば)し政氏は悩み、考え抜いた末に、洛外東南一里の処に在る、醍醐寺に収容して貰(もら)えぬかと思い至った。叔母如蔵尼のおわす恵日寺は、醍醐寺報恩院の末である。ここなれば、後日恵日寺を通じ、御恩を返す事も出来ようと考えた。

 早速、洛外で待機する斎藤邦秀に、伝令を飛ばそうとした時、府の入口が俄(にわか)に賑(にぎ)やかに成った。近くの者に聞くと、左衛門督(さえもんのかみ)が戻って来られたとの事であった。督(かみ)を務めるのは、四位の大身の者である。政氏は、勅命を得て左衛門陣屋にて待つ様に沙汰を受けたので、そこの長官である督に、一先ず挨拶して置いた方が良いと考えた。そして宗昌を伴い、官吏達の声が響いて来る方向へ向かった。

 渡り廊下で、政氏は督(かみ)が部下を率いて、此方(こちら)に向かって来るのを認めた。政氏は脇に避けず、廻廊の中央で跪(ひざまず)いたので、宗昌もそれに倣(なら)った。

 やがて、督(かみ)の直ぐ後ろを歩いて居た老年の佐(すけ)が、政氏等の姿に気付き、早足で近寄って来て命ずる。
「督の御通りである。控えられよ。」
政氏は佐を見上げると、離れた督にも届く、よく通る声で言上した。
「某(それがし)は陸奥大掾(だいじょう)平政氏にござりまする。此度は勅命を帯びて上洛し、暫(しば)し陣屋の隅(すみ)を御借りする事に成り申した故、御挨拶に罷(まか)り越した次第にござりまする。」
佐は心に掛かる事が有った様で、政氏の顔をまじまじと見詰めた。そして程無く、思い出した様子で尋ねて来た。
「貴殿は確か、三十年程前まで大尉を務めて居た、式家の政氏殿では?」
政氏は、左衛門佐が己を存じて居る事を、意外に思いながら答える。
「はっ。あの頃は藤原滋望(しげもち)様の元にて、御世話に成って居り申した。」
「うむ。そうであったのう。して、今は奥州へ移られたか?」
「はい。康保(こうほう)の役の恩賞として、奥州四郡を賜(たまわ)り申した。」
「おお、それは御出世なされた。されば、御供も大勢連れて参られたのでござろう。」
「大勢と申す程ではござりませぬが、百騎程を。」
それを聞いて、佐は訝(いぶか)し気な顔をした。
「百騎とな?斯様(かよう)な大人数を、一度に陣屋へ入れよとの御沙汰が下されたのか?」
「いえ、陣屋に入りまするのは、某(それがし)とこれに控える、近藤宗昌の二人だけにござりまする。」
「成程(なるほど)。して、他の御家来衆は何処(いずこ)へ?」
政氏は、弱った顔を呈して答える。
「実を申せば、朝廷よりの御沙汰が得られず、困って居た処にござりまする。兵は皆、陸奥国府軍に在った、素姓正しき者ばかりなのでござりまするが。」
「ほう、それは丁度(ちょうど)良い。」
その声は、佐の後ろから聞こえて来た。佐が慌てて脇に畏(かしこ)まると、政氏の前に督が立ち開(はだか)った。督は和(にこ)やかに告げる。
「陸奥国府軍が、何の御沙汰も下されず、放置され置かれるは、真に宜しからず。そこでじゃ。兵を儂(わし)に貸してはくれぬか?」
督の提案は、政氏に取って意外な物であり、又棚(たな)から牡丹餅(ぼたもち)であった。実はここ数日、京洛に凶悪事件が頻発し、左衛門府は多くの兵を動員して、治安の確保に当たって居た。しかし禁門の警固をも管轄して居る為に人手が足りず、困って居た所であると言う。

 斯(か)かる事情を聞いた政氏は、二つ返事で承諾した。怖らく、政氏の在京期間は長引くであろう。朝廷に陸奥守急死の経緯を説明する他、早期の新任国司派遣を求め、見届けねば成らぬ故である。その間、兵を左衛門府に入れる事が出来れば、手持ちの兵糧を消費せず、長く兵を京に留める事が出来る。政氏は左衛門督の命を受け、手勢を府へ呼び寄せるべく、宗昌を六波羅の陣へと奔(はし)らせた。

 暫(しばら)くして左衛門府に到着した磐城兵は、督(かみ)より衛士(えじ)に任命された。その中で、政氏の側近である近藤宗昌と斎藤邦秀だけは、番長を拝命した。衛士は宮城門番を務め、番長はその将である。磐城郡百名が補充された分、百名を衛士より、盗賊団の取締りに当たる吉上へ回す事が出来る。政氏は従六位上の位を持つので、左衛門大尉(さえもんのだいじょう)に再任される事と成った。

 磐城軍は幸運にも、左衛門府に入る事が叶(かな)い、手狭と雖(いえど)も、陣屋の一角の使用が認められた。兵の宿営手配の目処(めど)が立った政氏は、安堵の表情で官符を携え、手勢を率いて、建春門の陣屋へと向かった。

 磐城軍は幾つかの隊に分けられ、其々(それぞれ)配置場所、勤務時刻等が定められた。又、政氏には翌日、検非違使(けびいし)庁において、宗昌と共に聴取が行われる事と成った。

 検非違使(けびいし)は、律令で規定されて居ない令外官(りょうげのかん)の一つであり、京洛の治安対策を任務とする故に、司法警察の権限を有する。衛門府の官吏が当庁上級官職を兼任する為、かつては衛門府に倣(なら)って左右二府が置かれて居たが、二十五年前の天延二年(974)に統合された。左衛門府の北側に位置する。

 翌朝、政氏は宗昌を伴い、検非違使(けびいし)庁へ赴いた。衛兵に陸奥大掾の到着を告げると、間も無く検非違使大尉(けびいしのだいじょう)が、応対に姿を現した。大尉は磐城家主従を庁内の一室へと案内し、そこで聴取が執り行われる事と成った。

 目的は、陸奥守実方急死の経緯(いきさつ)を聞く事に在ったので、その現場に居合さなかった政氏は何も語れず、代わって実方に同行して居た宗昌が、当時の状況を説明した。宗昌の供述を一通り大尉が書き留め、その日の聴取は終了と成った。

 大尉が書類を纏(まと)めて退出し様とした時、政氏は一歩躙(にじ)り出て、大尉に希(こいねが)った。
「大尉の殿に御願いの儀がござりまする。陸奥国府は今、守を失い、介は病(やまい)に倒れ、大掾である某(それがし)は、彼(か)の地を遠く離れてござりまする。仍(よっ)て陸奥国政は、少掾が掌(つかさど)るという異常事態に在り、これでは国政は元より、鎮守府との連携も満足に行きませぬ。もしも奥羽の大豪族に不心得を覚える者が現れれば、天下を揺るがす大乱に繋(つな)がり兼ねませぬ。何卒(なにとぞ)太政官に、斯(か)かる陸奥の在り様を御伝え戴き、早期に後任者の派遣が成される事を、伏して御願い申し上げまする。」
そう申し上げ、政氏は深々と頭を下げた。傍らの宗昌も、これに倣(なら)う。

 その直向(ひたむ)きさに心を打たれた大尉は、和(にこ)やかに答える。
「仰せの儀、確(しか)と承り申した。今の申し状、必ずや上官に言上致しましょう。」
それを聞いた政氏の顔が晴れやかに成ったのを見て、大尉は書類を抱え、退出して行った。

 用を終えた磐城主従は、検非違使(けびいし)庁を後にし、左衛門陣屋へと引き返した。暫(しばら)くは取り調べも無いであろうから、呼出しを待ちつつ、明日より宮門警固の任に就(つ)く事と成る。政氏は若き時分、左衛門大尉として京洛の警備に当たって居た頃が、懐かしく思えた。

 やがて、陣屋の入口が見えて来た時、政氏は全身が怠(だる)く、熱(ほて)るのを感じた。主君の足取りがふらついて居るのに気付いた宗昌は、政氏を背負って陣屋に走り、床(とこ)を用意した。そして左衛門府に急行し、左衛門医師の診察を要請した。府は直ぐにそれを許可し、宗昌は医師を伴い、陣屋へ踵(きびす)を返した。

 床(とこ)に臥せる政氏の診察が終ると、傍らで気を揉(も)み続けて居た宗昌が、医師に尋ねた。
「大殿の御加減は、如何(いかが)にござりましょうや?」
医師は用具箱に手際(てぎわ)良く収めながら、穏やかに答える。
「真冬の長旅の所為(せい)で、風邪を拗(こじ)らせた様でござる。後で調合した薬を届けさせる故、朝夕飲ませて差し上げなされ。」
「はっ。」
宗昌は感謝の意を込め、一礼した。

 そして、医師の前に横たわる政氏が、か細い声で述べる。
「本当に忝(かたじけな)い。上洛して早々、病(やまい)に倒れるとは。何とも情け無い限りにござる。」
「いえ、大尉の殿は無理を重ね過ぎてござりまする。今日、明日とゆっくり休まれれば、直ぐに平癒される物と存じまする。御歳の割には、強靭(きょうじん)な体躯(たいく)を御持ちにござりまする故。」
そう言うと、医師は微笑を湛(たた)えて腰を上げ、用具箱を携えながら、左衛門府へ戻って行った。

 宗昌は医師と共に府へ赴き、主君が翌日の警固の任に堪(た)えない事を伝え、暫(しば)しの休養を願い出た。政氏の五十過ぎという年齢と、陸奥の有力者であるという事が考慮され、程無く担当官より、受理された事が伝えられた。宗昌は胸を撫(な)で下ろすと、主君の元へ引き揚げて行った。

 その日の夕刻、宗昌は政氏の看病に当たるべく、陣屋に詰めて居た。政氏は熱を発して居たので、額(ひたい)に当てる布を水で冷したり、医師より送られて来た薬を、煎(せん)じて飲ませたりして居た。

 ふと、廊下より足音が近付いて来るのが聞こえた。宗昌がじっと廊下を見詰めて居ると、間も無く壮年の武士が姿を現した。しかし夕陽が逆光と成り、その顔をよく窺(うかが)う事は出来ない。
「御久しゅうござりまする。」
そう言って、武士は床(とこ)に臥せる政氏の側へ歩み寄って来た。
(得体の知れぬ男を、主君に近付けては成らぬ。)
そう考えた宗昌は、武士の歩みを止めるべく、腰を上げ様とした。その時、政氏の口が静かに開いた。
「その声は正廉、いや、今は大江時廉殿か。」
「はい。」
武士は答えると、政氏の枕元に歩み寄り、座礼を執った。
「政氏様が左衛門府に入られたと聞き、かつての御恩に対し、礼の一つも申し上げたく存じ、罷(まか)り越しましてござりまする。」
「ほう。では京に移りし事は、貴殿に取っては幸運にござったか?」
「はい。丹波の荘官を務め、此度は左衛門大尉に昇進致しましてござりまする。」
「其(そ)は祝着(しゅうちゃく)じゃ。黒沢の父上様も、泉下にて嘸(さぞ)や御喜びの事であろう。」
そう言い終えると、政氏は俄(にわか)に激しく咳(せ)き込んだ。その様子を見た宗昌は、時廉にそっと告げる。
「大殿は御病気にござりますれば。」
時廉ははっと気付いた様子で、苦笑を呈した。
「これは思いが至りませなんだ。政氏様、何卒(なにとぞ)御身体を御大切に。同じ左衛門府に仕える身なれば、又御会いする機会もござりましょう。」
時廉は笑みを湛(たた)えて一礼し、腰を上げて政氏の元を辞して行った。

 時廉が廊下に出ると、直ぐにその後を追う者が在った。近藤宗昌である。その気配に気付き、足を止めて振り返る時廉に、宗昌は一間(いっけん)を隔(へだ)てて立ち止まり、一揖(いちゆう)する。
「某(それがし)は磐城家家臣、近藤宗久が嫡男、宗昌と申しまする。」
時廉は破顔して答えた。
「おお、では宗弘殿の御嫡孫か。言われて見れば、面影(おもかげ)が有る。儂(わし)は大江時廉、かつては信夫郡に居った。」
「存じ上げて居りまする。大殿の奥方様の、御兄上でござりましょう。そこで、大江様に御願の儀がござりまする。」
時廉は興味深そうに、宗昌を見詰めた。宗昌は苦衷を呈して話を続ける。
「大殿は、左衛門大尉に御復帰なされて、何もせぬまま病(やまい)に倒れた為、取り立てて戴いた方々に迷惑を掛けてしまわれた事に対し、真に慙愧(ざんき)に堪(た)えぬ御気持でおわしまする。そこで願わくば、大殿の明日の隊務、大江様に代わって戴きとう存じまする。」
そう述べると、宗昌は床に手を突いた。時廉は慌てて抱き起す。
「そこまでされずともよい。儂(わし)も政氏様には御恩の有る身。幸い明日は非番故、代行致す事としよう。」
「有難き御言葉にござりまする。大殿も、義兄に在らせられる大江様なれば、安堵される事にござりましょう。」
「うむ。ではこれより左衛門府へ赴き、交代を願い出て参ると致そう。」
時廉は笑みを湛(たた)えて、宗昌を掴(つか)んで居た手を放すと、再び背を向けて、陣屋を去って行った。宗昌は京にも磐城一族が在った事を、心底頼もしく感じて居た。

 医師が言った通り、二日も経った頃には、政氏の病(やまい)はすっかり良く成って居た。政氏は寝衣(ねまき)を纏(まと)ったまま、縁側に腰を下ろし、庭に咲く見事な梅の木々を眺めて居た。白梅と濃淡様々な紅梅が満開と成り、鶯(うぐいす)が梢(こずえ)に飛来する。恰(あたか)も桃源郷に居るかの如き、春日の長閑(のどか)な風景を眺めて居ると、憂(う)き世の苦労を忘れられる様に感じられる。

 ふと、足音を立てて廊下を渡って来る者が在り、政氏は桃源郷より戻った。見ると、遣(や)って来たのは、隊務を終えた近藤宗昌であった。
「大殿、起きて居られては、御身体に障(さわ)りませぬか?」
心配顔の宗昌に、政氏は血色の良い、溌溂(はつらつ)とした笑顔で返す。
「もう熱も引き、身体も軽う成った。今日一日緩(ゆる)りと休めば、明日にも職務に復帰出来様と、医師も申して居ったわ。」
「其(そ)は上々、されば緩(ゆる)りと御休み下され。」
「寝て居るは退屈でのう。」
渋る政氏を、宗昌は何とか床(とこ)へ移し得た。しかし、老主君の快復が思いの外順調であったので、宗昌は安堵と覚える一方で、驚駭(きょうがい)の念も抱いた。

 再び床(とこ)に横たわった政氏は、宗昌に命じた。
「大江時廉殿には、此度役目を代わって貰(もら)い、大いに助かった。儂(わし)は明日より復職致すが、今宵(こよい)は時廉殿を招き、御礼に馳走(ちそう)を致したいと思う。其方(そなた)、手配をしてくれぬか?」
宗昌は、政氏の椀に白湯(さゆ)を注(そそ)ぎながら答える。
「承知仕(つかまつ)り申した。では賄方(まかないかた)へ伝える一方、某(それがし)が大江家まで一っ走り行って参りましょう。」
(うなず)く政氏に、宗昌は熱い椀を手渡すと一礼し、早足で辞して行った。宗昌は、政氏の快復を非常に心強く思い、足取りも軽く成った様子であった。

 その日の宵(よい)、政氏の招待を受けた時廉は、左衛門陣屋内の、政氏の間を訪れた。政氏は宗昌、邦秀に鄭重に応対させ、やがて政氏の元へと案内されて来た。

 政氏の前に出た時廉は、恭(うやうや)しく座礼を執る。
「この度は順調なる御快復、誠に祝着(しゅうちゃく)至極(しごく)と存じ奉(たてまつ)りまする。」
政氏は顔を綻(ほころ)ばせて頷(うなず)く。
「儂(わし)が病(やまい)を得て居る間、貴殿はよく儂の役目を代行してくれた。先ずは礼を申す。」
そう言うと、政氏は静かに頭を下げた。時廉に取って、政氏はかつての主君である。時廉は慌てて、政氏に頭を上げる様に促(うなが)した。

 挨拶が済むと、政氏は直ぐに夕餉(ゆうげ)の膳を運ばせた。それは都に生活基盤を持たぬ磐城家の、出来得る限りの細(ささ)やかな持て成しであった。故に、美食に慣れた時廉は、余り箸(はし)が進まぬ様子であった。

 会食が始まって間も無く、政氏は時廉に、職務に就(つ)いて尋ねた。
「漸(ようや)く医師の許可が下り、明日より宮門の警固に当たる事と成った。明日の担当は、何処(いずこ)の門であったかのう?」
時廉は少しの間空(くう)を眺め、思い出して居る様子であった。やがてはっとした顔に成ると、微笑を湛(たた)えながら答える。
「確か政氏様の隊は、明日は非番にござる。陣屋にて確(しか)と御身体を治される様にとの、天祐にござりましょう。」
邦秀は破顔し、膝(ひざ)をぱしりと叩いた。
「其(そ)は真に幸運でござった。大殿は左衛門大尉の任務の他、陸奥介様の御指示に因(よ)り、早期に次の国守を派遣して戴く様、朝廷に請願する使命も有り、御多忙の身にござりまする。今の内に、良く休んで置いて戴かねば。」
邦秀の言葉に、宗昌も頷(うなず)く。

 その後は京の話、陸奥の話、政(まつりごと)の話等を少々したが、時廉は一通りの料理に箸(はし)を付けると、早々に帰宅する意思を政氏に告げた。
「もそっとゆっくり酒等を飲んで行けば良い物を。」
政氏は引き留めの言葉を掛けたが、時廉を翻意(ほんい)させるには至らなかった。
「某(それがし)も年にて、そろそろ疲れが出て参り申した。」
そう言われては、政氏に引き留める術(すべ)は無い。
「健康には呉々(くれぐれ)も留意されよ。」
政氏の言葉と、今宵(こよい)の会食に感謝の意を示して一礼すると、時廉は踵(きびす)を返した。そして別室で待機して居た従者を引き連れ、夜道を自邸へ向けて、駒を進めた。

 時廉は名門大江家に入った今も、かつての主君である政氏に対し、従順な態度を取って居た。大江時廉と滝尻政之兄弟は、政氏とは幾年も共に過ごして来た間柄であったが、未だにその胸中を理解し得ない所が有った。しかしそれは、馬が合った父の黒沢正住と、比較してしまうからに過ぎぬと考えると、納得が行った。政氏は宗昌、邦秀と共に再び箸(はし)を持つと、三人で残った夕餉(ゆうげ)を楽しんだ。

 翌日、漸(ようや)く全快した政氏は、床(とこ)を上げた。寝衣を脱ぎ、武官の束帯(そくたい)を纏(まと)うと、引き締まる気持に成る。簾(すだれ)を上げ、朝の心地好い陽射しを取り込み、大きく伸びをする。

 しかし、非番故に取分けする事も無い。近藤宗昌も斎藤邦秀も、既(すで)に建春門の警備に赴いて居た。建春門は内裏(だいり)の東門であり、政氏の居る陣屋は、これに付属する物である。仍(よっ)て内裏から御召(おめし)が有った時、直ぐに宗昌と共に参内(さんだい)する事が出来る。

 建春門の直ぐ西には宣陽門が在り、ここを潜(くぐ)れば、正面は温明殿(うんめいでん)である。これは神鏡を安置する殿舎であり、それより一町程西には、帝(みかど)の居処、清涼殿が建つ。政氏の居る場所は、正に倭(やまと)の中枢であり、且(か)つ八省、即(すなわ)ち中務(なかつかさ)、式部、治部、民部、兵部(ひょうぶ)、刑部(ぎょうぶ)、大蔵、宮内各省の正庁である朝堂院や、帝が政務を執り、大礼を行う大極殿(だいごくでん)よりも内部に在った。

 祖父将門が逆賊の汚名を被(かぶ)せられて討たれ、父忠政は天慶(てんぎょう)の乱の折に功有るも、先代の汚名を雪(そそ)ぐに留まった。今、政氏は齢(よわい)五十を過ぎ、漸(ようや)く家名が回復された事を感じた。家祖良将以来、四十にして討死した将門を超え、政氏は最も長寿の当主と成った。

 父忠政が病没した時、政氏は生後間も無かった為、父の記憶は無い。しかし、今も存命で在られたなら、確か七十一歳であった筈(はず)であると、政氏は記憶の片隅に刻んで居た。

 如月の風は未だ冷たい。政氏は風邪をぶり返して敵(かな)わぬと、居間の奥へ戻った。そして「礼記」(らいき)四十九篇の中の「中庸」(ちゅうよう)を読み始めた。己の成すべき事は未だ山積して居る。それ等に当たって行く前に、政氏は古代唐土(もろこし)の賢人の叡智(えいち)に触れ、道理を知り、強い意志を求めた。

 外は麗(うらら)らかな陽気で、桃の蕾(つぼみ)も大分膨(ふく)らんで来た。雀(すずめ)が時折高い声で鳴き、桃の梢(こずえ)を揺らして居る。政氏は天下の泰平を感じつつ、読書を続けた。

 午(うま)の刻、建春門の辺りが俄(にわか)に騒がしく成り、静寂は破られた。十騎を超す、馬蹄の響きが近付いて来る。
(此(こ)は、宮門に賊徒が入ったか?)
そう感じつつも、政氏は書を読み進めて居た。

 上位ニ在リテハ下(シモ)ヲ凌(シノ)ガス、下位ニ在リテハ上(カミ)ヲ援(ヒ)カズ、己レヲ正シクシテ人ニ求メザレバ、則(スナワ)チ怨(ウラ)ミナシ。上(カミ)ハ天ヲ怨ミズ、下(シモ)ハ人ヲ尤(トガ)メズ。故(ユエ)ニ君子ハ易(イ)ニ居(オ)リテ以(モッ)テ命(メイ)ヲ俟(マ)チ、小人ハ険(ケン)ヲ行ナイテ以(モッ)テ幸(コウ)ヲ徼(モト)ム。

 高位の者は低位の者を抑えず、低位の者は高位の者に取り入らず、自身を正し、他人に求めなければ、怨(うら)みも生じず、安らかな境地に在って、運命の成り行きを待つ事が能(あた)う。

 政氏が険しい顔で頷(うなず)いて居ると、陣屋が突如として騒然と成った。政氏は立ち上がって廊下に出ると、検非違使(けびいし)が二十名程、陣屋に突入して居た。

 何事が出来(しゅったい)したのか、呆然(ぼうぜん)と立ち竦(すく)む政氏の姿を認めた一隊が、直ちに陣屋へ上がり込んで来た。そして政氏を包囲する。
「何事にござる?」
政氏が大声で問うと、将と思(おぼ)しき者が庭へゆっくりと歩み出て、勅書を読み上げた。
「陸奥大掾平政氏、兵を京洛へ集め、謀叛(むほん)の疑い有り。直ちにこれを逮捕し、検非違使庁へ連行せよ。」
勅命とあらば、政氏に抗(あらが)う術(すべ)は無かった。政氏の心には一点の疚(やま)しさも無く、従容(しょうよう)として馬上の人と成った。検非違使(けびいし)は隊列を整えると、粛々と堀河の本営へと引き揚げて行った。

 途中、騒ぎを聞き付けた宗昌と邦秀が、手勢と共に門前に在った。
「大殿!」
二人が大声で呼び掛けたので、検非違使(けびいし)の一隊が警戒態勢を執った。政氏は二人に目を遣(や)り、無言で首を振る。それを見て、駆け寄ろうとした、二人の足が止まった。

 検非違使(けびいし)の隊は整然と過ぎて行く、磐城平家の臣は、只これを見守る事しか出来なかった。

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