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第二十九節 上洛
三日を経て、政氏の軍は漸(ようや)く、本拠磐城郡へと入った。将兵は故郷の地を踏む事が叶(かな)い、喜びを覚えて居る様である。政氏はこのまま住吉御所へ入り、兵馬を休めると共に、郡内の様子を視察して置きたいという考えが起った。しかしよくよく考えれば、此度は至急上洛に及ぶ様、勅命を帯びての行軍である。陸奥国府の代表たる今の立場を思えば、私事の為に寄り道を為る訳には行かなかった。その日は船尾から御巡検道に入り、富岡村辺りで日没が迫って来た。玉川の北方には、残照に映(は)える住吉御所が聳(そび)えて居るが、政氏は上洛を急ぐべく、今宵(こよい)の宿を滝尻と考えて居た。政氏は、使者を滝尻御所へと遣(つか)わした。城主を務める義弟の滝尻政之に、百騎分の宿舎を、早急に手配する様命じる為である。
御巡検道に沿って富岡村を南下すると、間も無く釜戸川の辺(ほとり)に在る、滝尻御所に到着する。やがて政氏の本隊が入城すると、橘清輔が迎えに出て挨拶した。
「御久しゅうござりまする。兵の宿割りは某(それがし)が任されて居りますれば、将の方は同道を願いまする。又大殿には、直ぐに政之様御自ら御案内仕(つかまつ)るとの仰(おお)せ故、少々御待ち願いたく存じまする。」
「然様(さよう)か。」
政氏は廊下へ上がる階段に腰を下ろし、政之を待った。清輔は宗昌と邦秀を呼び、図面を見せながら、各部隊の宿所を説明して居る。
間も無く、廊下を渡る足音が聞こえたので、政氏はその方へ顔を向けた。
「おお、政之か。久しいのう。」
政之は静かに膝(ひざ)を突くと、政氏に上がる様勧めた。政氏は藁履(わらぐつ)を脱いで上がると、氷の如く冷たい廊下に苦笑いをした。
「磐城も冷え込むのう。」
「はい。しかし、御休息の間には暖を取ってござりますれば。」
「おう、それは良い。」
政氏は義弟に案内され、一室に通された。
そこには火鉢が焚(た)かれて在ったが、未だ室内を隈(くま)無く暖めるには至って居ない。政氏は火鉢の側に腰を下ろして、手を翳(かざ)した。政之はその正面に座し、侍女に命じて熱い白湯(さゆ)を用意させた。政氏は湯気の立ち上がる椀を手に取ると、軽く一口啜(すす)った。
「うむ、旨(うま)い。体の芯より暖まる。」
政氏は破顔した。
「大した御持て成しも出来ず、御恥ずかしき限りにござりまする。」
政之が神妙に答えると、政氏は首を横に振った。
「いや。儂(わし)は其方(そなた)から豪奢(ごうしゃ)な心が消えたのを感じ、嬉しく思うぞ。これならば、そろそろ家中の重要な役職に就(つ)けても、良いやも知れぬ。」
それを聞いた政之は、嬉しそうに微笑(ほほえ)む。しかし直ぐに真顔に戻り、政氏に尋ねる。
「所で大殿、此度は急な御帰還と成り申したが、国府で何ぞ、一大事が出来(しゅったい)致しましたか?」
政氏は腕を組んで頷(うなず)いた。
「うむ。実は先月、陸奥守様が急死なされた。」
「何と?」
「しかし、此(こ)は公言しては成らぬ。徒(いたずら)に奥州の諸豪族を、悪(あ)しく刺激する怖れが有るからのう。斯(か)かる事態故、儂(わし)は勅命を奉じて、上洛する途上なのじゃ。」
政氏は、領内の一人位は国府の内情を報せて置いても良いと考え、義弟である滝尻政之に明かした。政之は驚きを隠せぬ様子で、政氏の話に聞き入った。
やがて政氏の話が終ると、政之は納得顔に成った。間も無く、兵の宿割りを終えた宗昌と邦秀が、政氏の元へ姿を現した。政氏は両将に犒(ねぎら)いの言葉を掛け、座る様に勧めた。そして政之に告げる。
「我等は明朝、滝尻を発し、その後も長い旅が続く。今宵は早々に夕餉(ゆうげ)を掻(か)き込み、ゆっくりと休みたいのだが。」
「畏(かしこ)まり申した。」
政之は一礼すると、侍女に命じて、夕餉(ゆうげ)の仕度をさせた。
程無く膳が運ばれ、四人は共に夕餉(ゆうげ)を取った。途中、邦秀が鮟鱇(あんこう)の身を食べながら言った。
「やはり磐城の膳は、美味(おい)しゅうござりまするな。」
「真(まこと)じゃ。」
政氏が舌鼓を打って答える。三人は久し振りに磐城の幸を味わい、満足顔で箸を置いた。
膳が済むと、政之は家臣に命じ、三人を寝所へと案内させた。政氏の案内を仰せ付かったのは、橘清輔であった。廻廊を渡り、家臣二人と別れると、政氏の側に在るのは、清輔一人だけと成った。
雲の動きが早く、急に月が翳(かげ)った。風が俄(にわか)に音を立て始める。政氏は、清輔の背後を歩きながら尋ねた。
「最近の政之が素行、其方(そち)の目から見て如何(どう)じゃ?」
清輔は黙考しながら、十歩程歩んだ所で口を開いた。
「畏(おそ)れながら申し上げまする。政之様は大殿の義弟に在らせられながら、磐城家中の席次が低いのを、悔やんで居られる御様子。又政(まつりごと)も、御自身の栄華を重んじておわされる様に見受けられまする。」
「然様(さよう)か。」
政氏は残念そうに呟(つぶや)いた。
やがて政氏の寝所に到着し、清輔は礼を執って辞して行った。政氏は独り寝間に入り、床(とこ)へ潜(もぐ)った。間も無く強風が吹き付け、館が軋(きし)む音が聞こえた。確かに宗昌が進言した様に、海路を採って居れば危ない所であった。又、失火が起らぬか案じもしたが、昼間の雪中行軍の疲れも手伝って、何時(いつ)しか深い眠りに就(つ)いて居た。
*
翌日は快晴で、風も大分治まって居た。辰(たつ)の上刻、冬の遅い日の出を待って、政氏一行は滝尻御所を発った。
政氏の中軍も愈々(いよいよ)進発と成った時、館主政之は政氏の側へ見送りに来て居た。別れ際(ぎわ)、政氏は政之に激励の意を込めて告げる。
「ここ滝尻は、磐城家発祥の地にして、菊多郡とを結ぶ要衝じゃ。決して凡小なる者に任せて置ける地ではない。それを確(しか)と肝に銘じ、館を守る様。」
政之は心做(な)しか、怯(おび)えた表情で礼を執った。その態度に政氏は、何か心に引っ掛かる物を感じたが、軍勢が行軍を始めたので、隊列を率いて、御所の大手門へ駒を進めた。
滝尻御所は南西に天然の堀、釜戸川を擁する。御巡検道は釜戸川を渡り、鳥見野原の高台を経て、村岡氏の居城汐谷の南麓で、浜街道と合流する。
大気が乾燥して居る為、見通しは良く利く。釜戸川を渡った政氏の一隊は、前方の鳥見野原に向かい、行軍して行った。
程無く、萱手の村落に差し掛かろうとした時、村の男衆多数が、道端(みちばた)に平伏して居るのが見えた。手前には、長老と思(おぼ)しき老人が畏(かしこ)まって居る。先陣の斎藤邦秀は、二騎の共を率いて先行し、村人の前で駒を止めた。
「何事か?」
邦秀が大声で尋ねると、長老が低頭のまま答える。
「我等は、萱手近隣六ヶ村の農民にござりまする。滝尻御所のある御方より、磐城判官様が明け方、ここを通られると聞き、嘆願に罷(まか)り越しましてござりまする。」
長老はそう言うと、真剣な眼指を邦秀に向けた。邦秀はたじろぎつつも、長老に返す。
「我等は勅命を帯び、上洛を急ぐ途上じゃ。嘆願なれば、住吉御所に成されるが良かろう。」
「はい。しかし、」
長老は途中で言葉を切って顔を上げると、再び平伏した。背後より馬蹄の音が聞こえたので、邦秀が振り返ると、そこには近藤宗昌を伴った、政氏の姿が在った。政氏が長老の前へ駒を寄せて来たので、邦秀は慌てて後方に控えた。
政氏は長老の前で馬を止めると、粛然と尋ねた。
「嘆願か?」
「ははっ。」
長老は平伏したまま答えた。政氏は懸念する表情で、重ねて尋ねる。
「其(そ)は、滝尻御所の政(まつりごと)に係わる事か?善(よ)いから面を上げて話せ。」
長老は深く一礼すると、政氏を見上げ、苦衷の面持ちで話し始めた。
「御明察の通りにござりまする。滝尻様の御所領は、郡内において取分け税が重く、又天災が起れども、民への救済は成されませぬ。近頃は住吉の政(まつりごと)が改革されたと聞き及び、郡司代政道様に嘆願書を提出したのではござりまするが。」
そこまで話した時、老人は噎(むせ)んで言葉に詰まった。代わって、隣に控えて居た青年が言葉を接ぐ。
「住吉御所からは何の回答も無く、嘆願書を出しに行った村の代表の若者は、皆滝尻様の兵に連れて行かれ、見せしめにされ申した。」
青年の言葉を聞き、後方で幾人かの村人が啜(すす)り泣いて居る。
長老は再び、か細い声で政氏に申し上げた。
「最早、我等が唯一の頼みと成るのは、磐城判官様を措(お)いて他にはござりませぬ。安和(あんな)の頃、判官様御自ら滝尻を治められておわした頃が、老骨には懐かしく思われまする。」
民の苦辛を知り、政氏は無言のまま天を仰いだ。住吉と滝尻は、磐城領の要である。されど、政氏が国政に当たって居る間、滝尻では悪政が蔓延(はびこ)り、住吉はこれを黙認し続けて来たのであった。
政氏は邦秀に命じ、紙と筆を用意させた。そして荒屋(あばらや)の一室を借りて、書状を認(したた)めた。それには、政氏の怒りが込められた。滝尻政之は、追って沙汰が有るまで、滝尻御所内にて幽閉。これに代わって、橘清輔を滝尻城代に任命。加えて以後、郡政に重大な不行き届きが有った場合、郡司代、大老と雖(いえど)も、処罰の対象と成る事を明示し、その書状を住吉と滝尻へと送った。
再び農民の前に立った政氏は、皆の前で布告した。
「今、滝尻政之を更迭(こうてつ)する命を下した。今後は橘清輔が後任として、政(まつりごと)を司(つかさど)る事と成る。」
それを聞いた村民の中から、歓喜の声が上がった。
「橘様なれば、信頼できる。」
民の喜びを横目に政氏は、長老と隣の青年の元へ歩み出て尋ねる。
「これで善(よ)いかな?」
二人は深々と頭を下げ、感謝の言葉を申し上げた。政氏はその様子を見て安心し、己の愛馬へと飛び乗った。
政氏が軍勢に進発を命ずると、隊列を整えた磐城軍は、粛然と行軍を開始した。やがて中軍に入った政氏の姿は、農民達から次第に遠ざかって行った。農民は、領主政氏に感謝の念を込め、低頭、恭(うやうや)しくその軍勢を見送った。年輩の者は皆、かつて政氏が直轄として居た頃の善政を思い起し、希望に満ちた表情を湛(たた)えて居た。その中、一人早足で北方へ去って行く、農夫の姿が在った。
*
磐城判官率いる一隊は、汐谷城の南で浜街道に合流するや、その後は頓(ひたすら)街道を通り、南を目指した。奈古曽関(なこそのせき)の北方からは蛭田川に沿って西へ折れ、酒井郷の山道を伝い、常陸国へと入った。海沿いの間道を進めば、国境の九面(ここづら)村にて、百階坂の難所に行き当たる。この地は只でさえ馬の行通が困難な急坂であるのに、冬場は凍結して、滑落の危険が高かった。仍(よっ)て、より安全な西の本道を採ったのである。
常陸国に入ると、奈古曽関の南麓を掠(かす)めて、再び海に出た。この地は邑(ゆう)を形成し、梁津の駅を擁する。更(さら)に一里近く南下すると、伊師浜の側に伴部の駅が整備されて居る。海道はその後、久慈川河口付近に在る、高市の駅より内陸に入り、やがて那珂川の辺で河内の駅に入る。ここからは、陸奥白河とを結ぶ街道が分岐して居る。白河関(しらかわのせき)の手前に広がる、白河郡高野郷を拠点とする豪族、高野盛国は、磐城家に臣従し、大老職に就(つ)いて、嫡子政道の補佐に当たって居る。この地を通った時、政氏は磐城家の勢力が如何(いか)に拡大したか、沁(し)み沁(じ)みと感じた。
その後、涸沼の北西に在る安侯(あこ)を経由すると、愈々(いよいよ)常陸国府に至る。この辺りまで来ると、常陸平家の中核を成す豪族の、勢力下に入って来る。現在常陸平家を纏(まと)めて居るのは、平維茂(これしげ)、維幹(これもと)兄弟である。平維茂は維幹の兄兼忠の子であるので、実際は甥(おい)と叔父の関係である。しかし維茂は父兼忠の死後、一時は祖父繁盛の養子として育てられた。歳も叔父維幹に近かったので、傍目からは兄弟の方が合点(がてん)が行く。常陸平家の大黒柱、繁盛亡き後は、未だ若いこの二人が、常陸平家の後継者であった。兼忠には維茂の他にもう一子有り、名を維良(これよし)という。しかしこの弟は素行が乱暴であり、家臣からの人望に欠けて居た。
若い棟梁を擁する常陸平家が安泰であったのは、常陸介に、従兄(いとこ)である平維叙(これのぶ)が任官して居た故である。維叙はかつて陸奥守で在った折、政氏と共に常磐両家に残りし怨恨(えんこん)を融解させ、同盟締結に漕(こ)ぎ着けた人物である。仍(よっ)て目下の常奥国境は、極めて静謐(せいひつ)であった。
常陸国府を過ぎると、街道は小路より中路に昇格する。やがて一行は、祖先の地である下総国相馬郡に差し掛かった。政氏は幼少の頃より、母や先代以来の臣から、何(いず)れは取り戻さねば成らぬ地であると、教えられて来た。又、平忠頼の庇護(ひご)の下より、京の藤原式家の邸へ移る折に、立ち寄った記憶も有る。しかし年が経つに連れ、家臣の中でこの地に強い思い入れを持つ者は、誰も居なく成った。政氏は無常の哀しみを感じつつ、相馬の地を後にした。
その後武蔵を経て、相模に達した。一行が高座郡内において、相模川を渡ろうとした時、前軍の斎藤邦秀が隊を止め、政氏の元へ馬を駆って来た。
「如何(いかが)致した?」
政氏が尋ねると、邦秀は南方を指差して、話し始める。
「ここより南へ進み、海辺へ出ますれば、鎌倉郡村岡郷までは目と鼻の先にござりまする。この辺り一円を治める御方は、村岡忠頼様の弟御に在らせられる忠通様なれば、挨拶に寄られては如何(いかが)かと存じまする。」
確かに、村岡平家との関係が疎遠と成りつつ在る昨今、僅(わず)かでも誼(よしみ)を通じて置く事は、悪い事ではなかった。しかし、政氏は首を振る。
「其方(そなた)の申し状にも一理有るが、今は勅命を帯びて、急ぎ上洛の途上じゃ。此度はこのまま、真っ直ぐ京へ向かう。」
邦秀は頷(うなず)くと、再び馬を返して、前軍へと戻って行った。そして軍旅は、整然と相模川を渡河した。
坂東南部は、陸奥とは比ぶべくも無い程、温暖であった。故に積雪も少なく、行軍は容易に感じられた。北西には、丹沢の稜線が空の青、山の白を明瞭に二分し、その西方には富士の偉容を見霽(みはる)かす。
街道は間も無く、足柄峠の険へと差し掛かる。ここを越えれば、残る難所は、伊勢、近江国境の鈴鹿関(すずかのせき)位である。政氏は家臣達に注意を促(うなが)し、酒匂(さかわ)川を西へ外れ、長い登り坂に入った。
かつてこの地を訪れた源頼光は、怪童に出会い、家臣に取り立てたという。幼名金太郎。長じて坂田金時(さかたのきんとき)の名を賜(たまわ)った。又、村岡忠頼の父良文と武芸を競った嵯峨源氏宛(あつる)は、武蔵国足立郡箕田(みのだ)郷を所領として居たが、その子綱は、摂津国渡辺に移った。渡辺綱(わたなべのつな)は既(すで)に齢(よわい)四十七と成って居り、頼光に仕え、数々の武功を挙げて来た。この渡辺綱、坂田金時に加え、碓井貞光(うすいさだみつ)、卜部季武(うらべすえたけ)は当時、頼光(らいこう)四天王と称されて居た。洛北市原野の鬼同丸、大江山の酒吞童子(しゅてんどうじ)、羅生門の鬼等、都人を脅(おびや)かす賊を、幾度も退治して来た故である。
二年前、清和源氏の長者満仲が八十六歳で逝去し、長子頼光が名実共に長者と成った。頼光も既(すで)に齢(よわい)五十二である。老練な頼光は亡父と同様に、摂関家、即(すなわ)ち藤原道長に接近し、家門の隆盛を図って居た。加えて頼光の弟、頼親、頼信、頼平は、何(いず)れも武芸に秀でた兵(つわもの)との名声が高い。
今まで武士を束(たば)ねて来たのは、主に桓武平氏と、秀郷流藤原氏であった。しかし今、新たに清和源氏の台頭が目覚ましい。政氏は雪深い足柄峠の難路を超えながら、新たな時代の行方(ゆくえ)を模索して居た。