第二十五節 高野郡司

 翌朝政氏は、斎藤邦秀と滝尻政之の手勢を伴い、住吉御所を目指して出立した。御巡検道を北東に進み、富岡村から島倉丘の東麓を抜けると、玉川の彼方(かなた)に住吉御所が見えて来る。

 政氏が帰還すると、大村次郎信澄が迎えに出た。
「政道は居るか?」
館主が現れぬ事に不満を感じた政氏は、少々険しい面持ちで、信澄に尋ねた。信澄は宥(なだ)める様に答える。
「昨日、白河郡高野郷より高野盛国殿が御越しに成り、若殿はその応対に当たられておわしまする。」
「ほう、高野殿が?」
政氏は信澄の案内を得て、高野盛国が控える間へと向かって行った。政之も急ぎこれに従う一方、邦秀は家臣を纏(まと)め、城下の斎藤家屋敷へ詰めさせた。

 高野氏の本拠である白河郡高野郷は、逢隈(阿武隈)山地の中に在る。居館は久慈の清流を堀とし、その西岸に聳(そび)える山腹に築かれた要害である。下流には、一里も行かぬ処に矢祭山が在り、その周囲では、山水の佳景(かけい)を望む事が出来る。又、館から久慈川を挟んで対岸には、駅が整備されて居る。これは、常陸郡那賀郡の那珂川河畔(かはん)に在る河内において、海道から分岐するもう一つの街道が北西に延び、高野を経由して、白河郡の首邑(しゅゆう)たる白河郷内の雄野に至り、仙道に連結して居るのである。高野より街道を久慈川上流に向かうと、軈(やが)て久慈川が街道を離れ、西に湾曲する処に、陸奥国一宮(いちのみや)、都々古別(つつこわけ)社が鎮座して居る。

 高野氏は、ここ高野郷を拠点に、広大な所領を有して居た。陸奥の南端、高野より久慈川沿いに南下し、長有の駅より西方に位置する依上(よりがみ)郷。高野より久慈川沿いに北上し、都々古別社の南方に在る常世郷。磐城郡に端を発し、鮫川に沿う御斎所(ごさいしょ)街道を西へ向かい、組矢川との合流点より北西、街道沿いに位置する石川郷。磐城郡北西端の要衝三倉館より、更(さら)に北西の山間に入り、蓬田山の東南に広がる長田郷。これ等を併せると、白河郡内の東半分に勢力を誇って居ると言える。盛国が郡司に匹敵する力を持って居る事から、人々は高野郡司と呼んで居た。政氏が何よりも先に盛国の元へ向かったのは、西隣に大勢力を持つ豪族であった為である。

 政氏が広間へ入ると、盛国が黄金一袋を政道に献上した所であった。盛国は政氏の足音に気付いて居たので、入口へ体を向き直し、礼を執る。

 政道が上座を政氏に譲り、政氏がそこへ腰を下ろすと、先ずは犒(ねぎら)いの言葉を掛けた。
「遠路、御疲れにござり申した。峠は早、冬に成って居りましょう。」
「はっ。四時(しどき)川に至るまでは道に雪が積り、些(いささ)か難儀致し申した。」
盛国は苦笑しながら答えた。政氏も微笑を湛(たた)え、更(さら)に尋ねる。
「して、そこまでされて、遥々(はるばる)磐城に御越しに成られた用向きとは?見れば、金を持参為された様にござるが。」
政氏の問いを受け、盛国は俄(にわか)に表情を引き締めた。
「実は、某(それがし)の領内に賊が多数跋扈(ばっこ)し、甚(はなは)だ困って居りまする。我が手勢だけでは、恥ずかしながら歯が立ち申さず。故に、精強で知られる磐城判官様の軍に御縋(すが)りする他道は無く、こうして罷(まか)り越した次第にござりまする。」
「ほう、高野殿の程の御方を煩(わずら)わせるとは、中々手強(てごわ)き賊にござりまするな。」
「実を申し上げれば、我が所領は広大と雖(いえど)も、その大半は山にして、賊の隠処には事欠きませぬ。又、養える兵力も少く、賊が山へ逃げ込めば、これを殲滅(せんめつ)するは甚(はなは)だ難しいのでござりまする。」
政氏は、盛国の言に納得した様子で頷(うなず)く。
「成程(なるほど)。御所領の八溝山麓では、金が産出されると聞き及んでござる。それでは賊に狙われ易く、御困りでござろう。」
つと、盛国は政氏を見据えて話を接ぐ。
「仰(おお)せの通り、我が所領には金山がござりまする。多くは朝廷へ納めまするが、一部は手元に残るのも確かでござりまする。当家の所領は悉(ことごと)く山地なれども、怖らく磐城には産せぬ黄金が有り申す。又、当家の所領石川郷は、御斎所街道の要地にして、仙道白河とも繋(つな)がってござれば、磐城様の持つ交易網拡大に、多大なる貢献が能(あた)う自負がござりまする。」
確かに、高野氏を磐城家へ組み込めば、奥州の要地白河に、強い影響力を持ち得る事と成る。さすれば、磐城家の仙道諸郡における力は増し、磐城郡内海浜地域にて産する幸の、仙道方面への輸出量は、怖らく激増する事であろう。

 政氏は静かに頷(うなず)くと、隅(すみ)に控える大村信澄に命ずる。
「高野殿の要請に応ずる事と致そう。信澄、其方(そち)には磐城軍副大将を命ずる。そして総大将には、村岡重頼を宛(あ)てる事に致そう。これより兵を集め、高野殿の所領の内、主立つ邑(ゆう)を警備せよ。冬の間は動かず、春に成った後、賊の掃討を開始せよ。」
「ははっ。直ちに汐谷へ使者を送り、出兵の仕度に取り掛かりまする。では、これにて御免。」
そう答えると、信澄は一礼して立ち上がった。政氏は立ち去ろうとする信澄を止め、言葉を加える。
「重頼に取っては、家督を継いで初の大仕事じゃ。余り張り切り過ぎぬ様、其方(そち)がよく制してやるが良い。」
「承知仕(つかまつ)り申した。」
信澄は表情を変えずに再び一礼すると、早足で広間を後にして行った。

 政氏は再び視線を高野盛国に向け、穏和に告げる。
「今申した通り、彼(か)の大村軍と、当家最強を誇る村岡軍を出兵させる事と致し申した。総勢は五百騎に達しましょう。兵糧の補給や、兵の配備箇処等に係る事は、総大将の村岡重頼と相談して下され。」
盛国は、政氏が援軍の要請を受諾してくれた事に対し、深く頭(こうべ)を垂れて、感謝の意を示した。
「判官様の御高配には、真に以(もっ)て御礼の言葉もござりませぬ。匪賊(ひぞく)討伐が成就(じょうじゅ)した暁(あかつき)には、更(さら)なる御礼をさせて戴きまする。」
そう告げると、盛国も磐城軍との連繋を取る為に政氏の元を辞し、臨時に手配された城下の仮屋敷へと、引き揚げて行った。

 三日の後、大村勢は高野盛国と共に汐谷城へ入った。そこで部隊の配置箇処を定め、翌日に其々(それぞれ)の目的地を目指し、進軍を開始した。流石(さすが)に高野家の本拠は、自らの手で守ると言うので、村岡軍は山田川に沿って、北西の御斎所街道に向かい、石川郷を目指した。大村軍は長田郷を守る事と成り、冬山の雪道を成るべく避ける為、一旦飯野平まで北上した後、三坂道を経て、長沢峠を越えて行った。

 各軍には盛国の家臣が随行し、高野領内を通行する際に、問題が起らぬ様に手配した。村岡軍は大軍故に軍を二分し、半数を常世郷へ派遣した。

 逢隈(阿武隈)山中の冬の厳しさは、磐城の臨海部の比ではない。慣れぬ寒さ故に、兵の戦闘能力も低下する。磐城軍は政氏の言を守り、村岡勢は石川郷と常世郷に、大村勢は長田郷に其々(それぞれ)駐屯し、春を待つ事にした。兵糧は高野家より、充分に補給される手筈(てはず)である。只、里に下りて悪事を働く賊に対しては、容赦無くこれを討ち取った。冬の間に、各隊は賊の拠点を探り、春の掃討作戦に備えた。

 高野家への増援軍が磐城を発った後、磐城郡内東部にも、愈々(いよいよ)雪が舞い始めた。本格的な寒波の到来である。道端の草も勢いを失い、雅やかな錦色を呈して居た葉も、悉(ことごと)く落ちてしまった。空には灰色の雲が立ち籠(こ)め、陽光を遮断(しゃだん)し、真昼にも拘(かかわ)らず暗い。

 斯(か)かる天候の下、住吉を発し、北東に向かう一行が在った。平政氏を先頭に、平政道、滝尻政之、そして護衛の兵五騎ばかりを従えた、斎藤邦秀が続く。

 一行はやがて、住吉御所より十町程隔(へだ)てた寺院へと入って行った。大同二年(807)、徳一大師開創の法相宗(後に臨済宗)、普門山禅長寺である。

 政氏は住持の許しを得て本堂に入り、政道と政之のみを中へ招き入れ、邦秀以下警固の兵は、表で待たせた。

 薄暗い本堂の中で、政氏は静かに本尊様の御前に腰を下ろし、合掌した。暫(しばら)くして直った後、政氏は後方で共に合掌して居た二人の方へ向き直った。二人も政氏の視線を受け、合掌から直る。

 政氏は、両者を交互に見据えながら、話し始める。
「儂(わし)は久しく磐城を離れ、その間、信夫郡に行っては政澄の後見をし、又多賀城に在っては、陸奥の国政に努めて居った。あれから幾年が過ぎたか。我が磐城家の本拠を其方(そなた)等に任せて来たが、その成果を聞かせてくれぬか?」
その口調は、存外穏やかな物であった。政道は安堵して答える。
「では申し上げまする。磐城家居城住吉館に加え、父上が当家を興された記念すべき地、滝尻館の二館に改修を加え、より厳かに致してござりまする。これに因(よ)り、当地を訪れる諸豪族も、益々当家に敬意を払う様に成ったと、聞き及んで居りまする。」
「他には?」
政氏の素っ気無い応答に政道はたじろぎ、次の句が出て来なかった。それを見兼ねて、政之が代わって答える。
「某(それがし)からも御報告致しまする。大殿が磐城を政道殿に委(まか)せられて以来、一度も大きな騒動が起きては居りませぬ。これこそ、政道殿最大の功績と存じ奉(たてまつ)りまする。」
政氏は、政之を見据えて答える。
「うむ。其(そ)は立派である。」
政之は安堵の表情を浮かべたが、それも束(つか)の間、政氏は直ぐに言葉を接いだ。
「磐城四家は、実によく領内を治めて居る。御蔭で住吉、滝尻領内において暮しに窮(きゅう)した民は、続々と四家の元へ流れ、善政に浴する事が出来るそうな。それ故、民も騒動を起す必要は無い。但(ただ)し、儂(わし)が若い日々に力を注いで治めて来た土地は、荒廃してしもうたがのう。」
政氏は悲し気な目をして、故事を話し始める。
「かつて我が祖父将門公は、偽書を以(もっ)て下野へ誘(おび)き出され、源扶(みなもとのたすく)の軍勢に包囲された事が有った。将門公は、弟御の将頼殿以下三十騎と共に勇敢に戦い、この包囲網を崩すに至った。追撃を行い、大串館へ追い詰めた将門公の前に、今度は源護(みなもとのまもる)と、常陸大掾(だいじょう)国香殿の軍が待ち構えて居った。立派な館を構えた源護と、豪華な鎧(よろい)を身に纏(まと)った国香殿の軍勢は、数では遥かに将門公を凌(しの)いで居た。しかし、将門公率いる相馬武士の武勇は、その大軍を蹴散らし得た。やがて大串館は炎上し、源扶兄弟は討ち取られた。石田館へ逃れた国香殿も、自害して果てたそうな。」
そこまで話すと、政氏は深い息を吐(つ)いた。政道と政之は緊張しながら、政氏を見詰めて居る。政氏は二人の表情を窺(うかが)った後、再び口を開いた。
「豪奢(ごうしゃ)な館や衣服を以(もっ)て、一時は人を動かす事も出来る。されど、その絆は極めて脆(もろ)く、質素を旨に自己を鍛錬して来た相馬武士に、数の上では優勢にも拘(かかわ)らず、崩されてしもうた。孔子曰(いわ)く、苛政(かせい)は虎よりも猛(たけ)し。領主が奢侈(しゃし)なれば、民は塗炭(とたん)の苦しみを味わうが、質素を旨とすれば、民が産した富は、民の手元に残る。斯(か)かる領主は民の信を得、漸(ようや)く強固な組織を築く足掛りと成るのじゃ。」
政道も政之も、政氏の言を受けて平伏したが、その表情は得心した様には見えなかった。政氏は、やはり釘(くぎ)を刺して置くべきかと感じ、両名に告げる。
「政道は紛(まぎ)れも無い、相馬武士棟梁の末裔である。又政之は、儂(わし)が政(まつりごと)を学んだ師とも言える、黒沢殿の御子である。仍(よっ)て、二人には其々(それぞれ)の祖先に倣(なら)い、政(まつりごと)に励む事を望んで居た。しかし今、儂(わし)の目から見て、両名に相馬武士、黒沢武士の魂が感じられぬ。仍(よっ)て今後も今の如き有様が続く様であれば、信夫の政澄を含め、他にも人材は居る。今の其方(そなた)等の地位が安泰とは、言い切れぬぞ。」
政氏が諭(さと)す様に心を改めねば、住吉御所は政澄に、滝尻御所は信夫の臣に取って代わられる可能性が示された。二人は戦慄(せんりつ)し、冷汗を流しながら、強張(こわば)った面持ちと成り、再び平伏した。

 政氏は二人をそのままに立ち上がり、本堂の扉を開いた。外からは、眩(まばゆ)い光が射(さ)し込んで来る。
「話は仕舞(しまい)じゃ。住吉の館へ戻ると致そう。」
そう告げると、政氏は本堂を出て、外で待機する斎藤勢の元へと向かった。残された二人は、暫(しばら)く呆然(ぼうぜん)として居たが、やがて我に返ると、慌てて政氏の後を追った。

 政氏は住持に、本堂を借りた礼を述べると、手勢を纏(まと)めて、住吉への帰途に着いた。政氏の直ぐ後ろでは、政道と政之が馬を並べて付き従う。政道は父に叱(しか)られ、最悪弟政澄に、継嗣(けいし)の座を奪われる事も有り得ると宣告された為、大いに気落ちして居る様子であった。しかし一方の政之は、静かに政氏の背中を睨(にら)み続けて居た。

 俄(にわか)に北西の風が小雪を伴い、強く吹き付けて来た。郡内の主峰湯ノ岳に、僅(わず)かに雪が冠(かぶ)って居るのが見える。この様子だと、峠より西、逢隈(阿武隈)山中は、厳しい寒さに見舞われて居る事であろう。政氏は、白河郡に派遣した村岡軍、大村軍の事が案じられた。

 年が明け、長徳三年(997)と成った。この年は、郡主政氏が久し振りに磐城で年を越す事と成った為、郡内の豪族が悉(ことごと)く新春を賀し奉(たてまつ)るべく、住吉御所を訪れて居た。政氏は数多の豪族と面会し、かなりの疲労を覚えたが、かつて対抗勢力と諍(いさか)いを繰り返して居た時の事を思えば、平和の有難さに疲れを忘れる事も出来た。

 又政氏は、磐城四家の当主をも召集して居たので、住吉城下は例年に無い賑(にぎ)わいを見せて居た。正月、近藤宗久、斉藤邦衡、佐藤純明、江藤玄貞は揃(そろ)って登城に及び、主君である政氏父子に拝謁(はいえつ)した。四家の当主は皆、二代目と成って居る。又家中筆頭の村岡家も、昨年忠重を失った為、二代目重頼が後を継いで居た。その重頼は高野氏領へ出陣中であった為、新年の挨拶には、執事であり、汐谷城代を務める山田蔵人が、派遣されて居た。

 政氏は忠重を失い、大いに落胆もしたが、ここに居並ぶ四家の当主を見ると、憂鬱(うっそう)たる気も晴れる思いがした。かつては己の側に置いて、武士としての心構えを教えた者達が、今では四家の当主と成り、郡内を見事に治めて居る故である。

 斉藤邦衡の後方には、此度政氏の護衛として付き従って来た、邦秀が控えて居る。二代が揃(そろ)って登城したのは、この斎藤家だけであった。近藤家は、嫡男宗昌を国府に残したままであるし、佐藤家の隠居純利も、政氏の命で信夫郡に在り、政澄の補佐に当たって居る。

 政氏はふと、江藤家の隠居、玄篤の姿が見えない事に気が付いた。そして子の玄貞に尋ねる。
「玄篤が登城して居らぬ様だが、如何(いかが)した?」
玄貞は表情を曇らせて答える。
「はっ。父は昨年暮れより風邪を拗(こじ)らせ、長友館にて、床(とこ)に臥してござりまする。」
「悪いのか?」
政氏は心配の度を強くする。玄貞は主君に気遣いをさせたくは無かったが、偽りを口にする事も憚(はばか)られた。
「畏(おそ)れながら申し上げまする。父も既(すで)に年にて、体が弱って来て居りまする。今は安静にして置くのが何よりと存じ、説得して、館に残して参り申した。」
政氏は尚も案じつつ、言い渡す。
「それで良い。無理はするなと、伝えて置いてくれ。」
「はっ。」
玄貞は平伏して答えた。

 磐城四家はこの場にて、先代と変わらぬ中節を、政氏と政道に誓った。政氏は頼もし気に四人の当主を見渡し、これまでの犒(ねぎら)いの言葉を掛けた。その日、村岡家名代山田蔵人も召し出され、磐城家の中核である村岡家、四家と共に宴(うたげ)を催し、互いの絆を深め合った。

 新年祝賀も終り、磐城の地にもやがて春風が吹き込んで来た。野山に山桜の花吹雪が舞う頃、村岡軍の小隊が、住吉へ凱旋して来た。報せを受けた政氏は、直ちに小隊を城内へ迎え入れ、将を政庁へ召し出した。

 村岡軍の将は広間に入ると、入口で座礼を執った。政氏が近くへ参る様に告げたので、将は広間の中程まで進み、腰を下ろして再び座礼を執った。そして、先ず総大将の言葉を伝える。
「申し上げまする。村岡勢、大村勢、併せて一千、賊を悉(ことごと)く平らげ、間も無く住吉館へ到着致しまする。仍(よっ)て受け容(い)れの手配を、御願い申し上げまする。」
それを聞き、広間に居並ぶ重臣達は、流石(さすが)は忠重様の御子よと、称讃の声を上げた。政氏も頷(うなず)き、直ぐに家臣に命じて、一千騎を迎え入れる仕度を整えさせた。

 しかし、ふと不審に思われる点が頭を過(よぎ)ったので、政氏は村岡の将に尋ねた。
「御主、併せて一千騎と申したが、何故(なにゆえ)斯様(かよう)な大軍であるのか?」
将は些(いささ)か、高揚した様子で答える。
「仰せの如く、両軍は当初、併せて七百騎ばかりにござりましたが、戦(いくさ)の最中に、石川郡南部の豪族、浅川権太夫殿が村岡勢に御味方下さり、他にも磐城軍と共に戦い、大殿に心寄せたる者達も、伴って参った次第にござりまする。」
「高野殿が集められる兵は、総勢一千騎と聞き及んで居ったが、その内三百が当家に付く訳か?」
「はっ。特に高野殿の所領の北方、白河郡長田郷、石川郷は粗(ほぼ)、磐城家の掌中に入ったと申しても、宜しいかと存じまする。」
おお、と重臣達の間から、響動めきが起った。政氏は其を静めた後、将に言い渡す。
「役目、大儀であった。其方(そち)はこれより、重頼が元へ立ち返り、軍を館内東部の小館へ収容する様、伝えてくれ。」
「はっ、直ちに。」
そう答えると、将は座礼を執った後、早足に広間を後にして行った。

 やがて南方富岡村方面より、村岡、大村軍の本隊が姿を現した。一千騎が行軍する様は、実に壮観である。両軍は玉川を渡り、住吉明神の方角より、城に接近して来る。しかし南方は搦手(からめて)であるので、重頼は晴れやかに凱旋するべく、大館の麓を西に迂回して、北面の大手へと出た。大手門には館の者が多数迎えに出て、村岡、大村両軍の武勇を称えた。

 程無く軍勢が小館に収容されると、主立つ将は、総大将村岡重頼、副大将大村信澄に従い、西側大館におわす政氏の元へと向かった。

 重頼以下の武将が本丸政庁に到着すると、政氏や住吉の重臣達は、笑顔でこれを迎えた。重頼は、諸将を従えて政氏の前に平伏し、帰国の挨拶を述べる。後方の将達も、静かに平伏した。
「只今帰城致しましてござりまする。高野殿の所領を荒らして居た賊共を悉(ことごと)く討ち平げ、領民には、大殿の懿徳(いとく)が浸透した様子でござり申した。又豪族の中にも、大殿へ御仕え致したいと申す者が居り、ここに連れて参ってござりまする。」
重頼の言葉を受け、その後ろに控える七名の将が頭を下げた。

 政氏は満足そうに頷(うなず)き、重頼に言葉を掛ける。
「初陣ながら、見事に総大将の任務を果したのう。儂(わし)は、夏頃まで梃摺(てこず)る物と踏んで居たのだが。嘸(さぞ)や泉下にて、忠重殿も喜んで居られる事であろう。」
重頼は主君の言葉を受け、再び頭を下げた。
「有難き御言葉にござりまする。しかし此度、速やかなる鎮定を成さしめたのは、土着の豪族達から齎(もたら)される、賊の所在の報せにござり申した。仍(よっ)て、この者等にも大功が有る事を、申し添えて置きまする。特に、ここに控える浅川権太夫は、手勢百騎と共に、賊将が立て籠(こも)る砦に突撃を敢行し、落城に導いた剛の者にござりまする。」
「ほう。」
政氏の視線を受け、権太夫は畏(かしこ)まった。

 又、政氏は重頼に、領内平定後の高野盛国の対応を尋ねた。それに依れば、居城石館にて、盛国より感謝と犒(ねぎら)いの言葉を掛けられ、後日住吉御所へ正式な使者を遣(つか)わし、礼を申し上げると言い渡された、との事であった。

 最後に政氏は、諸将に恩賞を約束し、早く疲れを取る様下がらせた。

 重頼、信澄以下の将は礼を執ると、小館へと引き揚げて行く。その後ろ姿を見ながら政氏は、若い家臣に勇将が育って来た事を感じ、内心大いに頼もしく思って居た。

 その後数日、白河郡鎮定に功の有った将兵は、住吉御所内にて体を休め、負傷した兵には、三箱(さはこ)村での湯治が許可された。その間に政氏は、鉄器、陶器、銭等、恩賞として与えられる物を用意した。やがて次々と豪族の長(おさ)が政庁へと召し出され、政氏より恩賞が下賜された。族長は皆、銭や珍品を得て満足の意を示し、己(おの)が所領へと引き揚げて行った。

 白河郡内の豪族が悉(ことごと)く退去した後、政氏は最後に総大将村岡重頼と、副大将大村信澄を召し出した。政庁広間に入った二人は、礼を執った後に政氏の前へ進み、腰を下ろして再び座礼を執る。

 二人に頭を上げさせた後、政氏は恩賞を与える旨を伝えた。その様は粛々として居り、二人の顔は自ずと引き締まった。政氏は己の膝元に地図を広げ、それを睨(にら)みながら口を開く。
「二人共、此度はよく総大将、副大将の重責を果してくれた。仍(よっ)て、恩賞として所領を与える。」
「ははっ。」
二人は神妙に承った。政氏は傍らの政道に促(うなが)し、政道は用意された書翰(しょかん)を読み上げる。
「村岡重頼に、白河郡石川郷を所領として与える。又大村信澄には、白河郡長田郷を所領として与える。」
それを聞いた二人は驚き、政氏の顔を見上げた。政氏は険しい面持ちで、一度ゆっくりと頷(うなず)く。

 重頼は怪訝(けげん)そうな顔のまま、政氏に尋ねる。
「畏(おそ)れながら、大殿に御伺(うかが)い致したき儀がござりまする。」
「申せ。」
政氏はさらりと答える。
「今、某(それがし)と大村殿に下賜されると仰(おお)せられし土地は、今まで高野殿の勢力下に置かれていた処にござりまする。高野殿から大殿に、二郷を割譲するとの申し出が有ったのでござりましょうか?」
「いや、高野殿ではなく、土着の豪族達より望まれた。」
「しかしそれでは、高野家より怨(うら)みを買う怖れがござりまするが。」
「うむ。只、諸豪族より望まれたとあれば、高野氏より力付くで強奪したと、他勢力より謗(そし)られる事は有るまい。又、領民が当家に因(よ)る統治を望んでくれるのであらば、これに過ぐる喜びは無い。先ずはこれ等の地に軍を進め、その後の高野殿の動きを見る事と致す。」
「はあ。」
二将は所領が大幅に拡大したにも拘(かかわ)らず、近隣豪族との難しい折衝が予測され、浮かぬ顔をして居た。されども、政氏の命に従う旨を申し上げた。

 その後、村岡、大村両氏は、先の戦(いくさ)では留守居番を務めた者を集め、此度所領として賜(たまわ)った地へ派遣した。大村軍は、郡境に聳(そび)える芝山の北麓を西へ進み、その後山間を北上して、北須川に出た。そして川沿いに北上すると、やがて纏(まと)まった平地に出る。信澄はここに軍を留めて、川の東岸に在る丘陵地に館を築いた。そこは北西に蓬田(よもぎだ)の峰が望め、眺望は頗(すこぶ)る良かった。

 一方、村岡軍は鮫川沿いの御斎所(ごさいしょ)街道を、西へと進んだ。御斎所山の辺りは雨期の頃、川の両岸に聳(そび)える連山に雲が掛かると、その朦朧(もうろう)とした輪郭が、恰(あたか)も山水画の中に立ち入ったが如き、幽玄さを醸(かも)し出す。

 軍勢は川伝いの悪路を抜け、やがて石住村に到達すると、そこより先は愈々(いよいよ)、菊多郡外である。一里程進むと、鮫川の北より下久田川、南より松川が流れ込む、大原という村落が在る。更(さら)に一里を北西に進むと、竹貫(たかぬき)という邑(ゆう)が在り、そこは近隣と比べれば、平地も多く、人口も多い。村岡軍は万一の高野氏の動きに備え、邑の東部、川の北岸に砦を築き、西方進出への足掛りを固めた。その一方で、小隊を石川郷の中心地、北須川と飛鳥川が合流する三芦(みよし)へと派遣した。小隊は三芦の丘に館を構え、その上で近隣豪族に、村岡氏が石川郷を接収した旨を布告した。

 三芦館より南方二里、北須川の本流杜川の東岸に、山城が在る。先の賊徒討伐を、村岡軍と共に戦った浅川権太夫は、この館に拠(よ)って居た。権太夫は村岡軍の布告を聞くと、真っ先に、磐城家へ臣従を誓う使者を遣(つか)わした。

 浅川館は、高野氏の領内において、居城と北部二郷を繋(つな)ぐ要衝に位置する。浅川氏が磐城氏に属したと成ると、石川、長田二郷は、高野氏本領から分断された事に成る。二郷の諸豪族は、最早頼みと成るは磐城家と断じ、次々と臣従を申し出て来た。長田郷は蓬田(よもぎだ)館を、石川郷は三芦(みよし)館を府と成し、磐城家の白河郡進出は、順調に推移して行った。

 やがて、磐城の地も本格的な雨期に入って行った。玉川は俄(にわか)に水嵩(みずかさ)を増し、処々渦(うず)を巻いて濁流と化して居る。堤(つつみ)の決壊が懸念され、住吉御所からは人手を増やし、この対応に当てて居た。

 御所本丸の一室では、政氏、政道、斉藤邦秀、滝尻政之の四名が、書類の整理を行って居た。政氏は、報告書に目を通しては溜息を吐(つ)き、時折外の雨量を眺めて居る。この数年、政道が治水普請を怠(おこた)って来た為に、玉川流域の各地では、既(すで)に水害が発生して居た。政道と政之は、報告書を読む度に不機嫌に成って行く政氏の様子に恐々としながら、己に分担された書類を処理して居た。

 間の空気がピリピリして行くのを感じた邦秀は、己が検分して居た書翰(しょかん)の中から吉報を見付け、直ちに政氏に報告する。
「大殿に申し上げまする。江藤様より遣(つか)わされし書翰に依れば、北隣標葉(しめは)郡内の豪族は、悉(ことごと)く磐城家の傘下に入り、遂(つい)には行方(なめかた)郡の豪族までもが、大殿に臣従を申し出て来たとの由(よし)にござりまする。」
「ほう、其(そ)は祝着(しゅうちゃく)じゃ。行方郡内に所領が広がれば、逢隈(阿武隈)山地を挟んで居るとは言え、飛地であった信夫郡と繋(つな)がる事と成る。玄貞は良くやってくれた。」
政氏の機嫌が多少なりとも良く成ったので、政道と政之は、ほっと溜息を吐(つ)いた。

 しかし、再び己宛(あて)の書翰(しょかん)に目を通した政氏の顔は、俄(にわか)に煩(わずら)わしさを呈し始めた。それ等は、国府多賀城に詰める少掾(しょうじょう)、目(もく)や、家臣の近藤宗昌より、送られて来た物である。その何(どれ)もが、国司の徒(むだ)遣いを非難し、政氏の早期入府を求めて居た。
(愈々(いよいよ)戻らねば成らぬか。)
磐城において、やるべき事が未だ多々有る政氏に取って、何処(どこ)まで成せば国府に戻るべきか。その判断が難しい所であり、政氏を大いに悩ませた。

 程無く館の者が現れ、報告をする。
「申し上げまする。高野盛国様、重臣と僅(わず)かな兵を伴い、大原まで御越しにござりまする。」
政氏は怪訝(けげん)そうに尋ねる。
「大原とな?高野殿の所領とは逆の方角ではないか。」
「はっ。使者の話に依れば、鮫川の流れが激しく、迚(とて)も渡河する事能(あた)わず。仍(よっ)て村岡様が船を用意為され、菊多浦より小名浜に上陸された由(よし)にござりまする。」
「然様(さよう)であったか。」
政氏は得心すると立ち上がった。高野氏の要件は、怖らく二郷を磐城軍が接収した事への、抗議であると推察出来る。磐城家の非を咎(とが)められても、仕方の無い立場故、政氏は礼を示す為、城門まで迎えに出る事とした。他の三人も、主君に扈従(こじゅう)した。

 政氏と重臣が、御所の大手門を開けて待ち受けて居ると、やがて高野氏一行の姿が東南より現れた。人数が報告より多く、よく見れば、村岡兵が護衛、嚮導(きょうどう)に当たって居る。

 漸(ようや)く大手門に辿(たど)り着いた高野盛国は、政氏直々(じきじき)の出迎えに恐欋(きょうく)した。政氏はその様を意外に感じながらも、和(にこ)やかに一行を御所内へと導いた。

 本丸政庁に入り、磐城、高野の両家は会談に移った。下座に控える盛国に対し、先ず政氏が犒(ねぎら)いの言葉を掛ける。
「此度は雨期の直中(ただなか)、難路を越えて態々(わざわざ)御越し下さり、誠に恐縮でござる。」
「いえ、当家に取っては大事故、当主である某(それがし)が出向くは、当然にござりまする。」
そう言うと、盛国は傍らの家臣より桐箱を受け取り、それを政氏に差し出した。それを受けて、邦秀が桐箱を政氏の元へと届ける。政氏が箱の蓋(ふた)を開けて見ると、中には書翰(しょかん)が収められて在った。

 政氏はそれを取り出してよくよく見ると、驚いた顔をして盛国に尋ねる。
「此(こ)は、名簿(みょうぶ)ではござらぬか?」
「はっ。これより先は、磐城判官様の臣に御加え戴きたく存じまする。」
名簿(みょうぶ)とは、その家の家臣団を書き記した物であり、それを差し出す事は、臣従を申し出る事を意味する。

 政氏は重ねて問う。
「高野殿程の御方であれば、何も当家を選ばずとも、有力な公卿に御出しに成られた方が、宜しいのではござりませぬか?」
しかし、盛国は真顔で返答する。
「判官様は磐城郡を中心に、海道から仙道に渡る広範な土地を、見事に治めておわしまする。その手腕に、甚(はなは)だ感銘を受け申した。某(それがし)も陸奥の武士にござれば、判官様の下にて、奥州発展の一助を成したいと、決意致した次第にござりまする。」
盛国の熱弁を聞いて、政氏は漸(ようや)く承知した。
「成程(なるほど)。盛国殿の御決意に、某(それがし)の方こそ心を動かされ申した。久慈川流域の街道を抑える高野殿が、当家に付いてくれるとは、真に頼もしき限り。共に、陸奥の為に励みましょうぞ。」
「ははっ。以後、宜しく御引き回し下さりませ。」
盛国は。政氏に平伏した。

 高野氏の名簿(みょうぶ)を受け取った政氏は、早速家臣に命じ、城下に屋敷を用意させる事とした。又、それまでは御所内小館の一角に、逗留用の部屋を貸し与える事とした。高野家は政氏の厚遇に対し礼を述べ、館の者に案内されて、政庁を辞して行った。

 高野氏が去った後、邦秀が訝(いぶか)し気な顔をして、政氏に尋ねる。
「てっきり、当家が高野家支配下の二郷を接収した事に対する、抗議をしに参られたと思って居りましたが、何故(なにゆえ)高野殿は、臣従を申し出て来たのでござりましょうや?」
政氏は顎鬚(あごひげ)を撫(な)でながら答える。
「怖らくは、二郷を失った事で、高野家中に大きな動揺が走ったのであろう。村岡重頼はその所領を、鮫川流域一円へ広げるに至った。最早高野氏の勢力は、村岡と互角と成るまでに衰えた。斯(か)く成る上は、早々に当家の傘下に入り、勢力を保つが得策であろう。又、当家は常陸と盟約を結んで居る故、当家の下に在れば、南方からの脅威も無く成る。」
「成程(なるほど)。言われて見れば。」
邦秀は政氏の話を聞き、得心出来た様子であった。一方で政氏には、新たな悩みが生じて居た。村岡氏に劣らぬ勢力を未だ保持する高野盛国を、家中の如何(いか)なる役職に就(つ)けるかである。

 やがて雨期が明けて、盛夏と成った。この年、政氏が住吉に腰を据えて、治水普請に力を注いだ成果が有り、水害に因(よ)る被害は大幅に減少した。これを受けて玉川流域の民は、悉(ことごと)く磐城判官の帰国を喜んだ。しかし一方で、国府多賀城では難問が山積し、政氏の登庁を求める使者の来訪が、次第に頻繁と成って来た。特に、奥州にて起きた事件で大きな物は、平維茂(これしげ)と藤原諸任(もろとう)の大戦(おおいくさ)である。

 陸奥国信夫郡は、平政氏が郡政を預かる地であるが、安岐郷信夫山の西方、松川の辺(ほとり)に沢胯(さわまた)という村が在った。松川南岸には南館という城が在り、藤原諸任という豪族が所領として居た。諸任は安和(あんな)の変で失脚した、藤原千晴の子である。千晴が鎮守府将軍を務めた折、この沢胯の地を切り開き、子の諸任に与えた。諸任は南館に住み、この地を治めて来たので、沢胯四郎とも呼ばれた。

 一方で、かつて陸奥守鎮守府将軍を務めた平貞盛も、恩賞として沢胯の地を賜(たまわ)って居た。しかし貞盛は、下野藤原氏との関係悪化を懸念し、諸任の統治を黙認し続けた。

 貞盛は多くの親類を養子としたが、常陸を支配する平兼忠の子、維茂もその一人である。維茂は、貞盛の子としては兄弟順が十五番目であった為、余五将軍とも呼ばれた。

 先年貞盛が天寿を全(まっと)うした折、実子、養子に遺領の分配が成された。この折、奥州沢胯の地の領有証書は、維茂に与えられた。昨年、維茂が所領の確認をした所、沢胯の地の税が納められて居ない事に気付き、家臣を当地へ遣(つか)わして、証書を示した。しかし南館の藤原諸任は、長年領有開発して来た土地を、今更(いまさら)昔の紙一枚で譲る訳には行かぬと、反発した。

 故に維茂は陸奥国府を訪れ、藤原諸任の不法占拠を訴え出た。しかし政氏を欠いた国府は、双方が納得する解決策を、示す事が出来なかった。業(ごう)を煮やした維茂は、合戦にて決着を付けるべく、その旨を書状に認(したた)めて、諸任の元へ届けさせた。諸任もこれに応じる旨の返書を認(したた)め、双方合戦の仕度に取り掛かった。

 維茂は常陸で三千の兵を集め、久慈川に沿って北上し、仙道を辿(たど)り、大森川の南に布陣した。一方の、諸任の兵は一千。合戦場は、川が東西に流れて堀の役目をして居る他は平野部で、数に劣る諸任は不利を悟り、兵を纏(まと)めて何処(いずこ)へと去って行った。それを確認した維茂は、悠々と南館に入城し、沢胯を制圧した。

 その後、行方を晦(くら)ました諸任の足取りは掴(つか)めず、維茂は大軍を留めて置いても仕方の無き事と考え、一部の兵を残し、後は悉(ことごと)く常陸へ引き揚げさせた。

 郡内に潜伏して居た諸任は、その報を受けると取って返し、南館に夜討ちを懸けた。維茂方は全くの不意を突かれて多くの犠牲を出した。維茂自身は僅(わず)かな側近と共に、辛(かろ)うじて血路を開き、館を脱出した。

 大勝を収めた諸任は、館の鎮火を命ずる一方で、松川の辺(ほとり)に陣を布(し)き、戦勝の宴(うたげ)を催した。維茂は命辛々(からがら)、常陸へ逃げ帰ったのであろうと考えた諸任勢は、久しく山中に潜(ひそ)んで居た憂(う)さ晴らしも兼ねて、盛大に祝勝した後、酒の酔いと戦(いくさ)の疲れが相俟(あいま)って、やがて将も兵も皆、寝入ってしまった。

 一方、敗れた維茂は野に身を隠しながらも、散り散りと成った郎党百騎を集めて居た。そして決意の程を述べる。
「このままおめおめと常陸へ逃げ帰るよりは、一か八か、勝戦に酔い痴(し)れて居るのであろう敵陣へ。斬り込もうではないか。」
郎等百騎は、維茂の意を受けて沢胯へ引き返し、松川の辺(ほとり)にて寝静まって居る、諸任一千騎の陣に突入した。諸任勢は寝込みを襲われて混乱を来(きた)し、維茂軍は遂に敵本陣へ駆け込み、諸任の首級を挙げて、戦(いくさ)は終結した。

 南館はこの時焼け落ち、維茂は諸任の妻女を、鄭重に実家へと送り返した。結果、沢胯は維茂の所領と成り、維茂は一部の家臣を残して、常陸へ凱旋した。

 椿舘は中立を保ち、こうして信夫郡は、再び平穏と成った。この件を受けて政氏は、寒露の頃に再び多賀城へ向かう事を決し、勢力下の諸豪族へと通達した。

 そして磐城を発する日も迫って来た頃、政氏は主立った重臣を、住吉御所へと召集した。それを受けて、浜街道、御巡検道、小名浜道等の諸道を、郡の内外より陸続と、諸豪族が住吉御所へ詰め掛けて来る。

 やがて磐城家の重臣達は、次々と大館内の控えの間へと案内されて行った。そして、政氏が召集した評定の刻限が迫ると、重臣達は度次の順に政庁広間へ入り、主君の御越しを間つ。間も無く、館の者より主君の到着が告げられ、政氏、政道父子が入室して来た。二人は上座に並ぶと、揃(そろ)って腰を下ろした。

 家臣団の最前列に並んで座すのは、村岡重頼、滝尻政之、高野盛国、そして磐城四家の当主である。彼等が主君に礼を執るのに合わせ、後方の家臣も、一斉に平伏する。高野盛国は新参であったが、その勢力の大きさ故に、政氏は最前列の着座を許して居た。

 家臣達に顔を上げさせると、政氏は彼等を見渡した後、口を開く。
「本日、皆を集めたのは他でも無い。近日中に儂(わし)は多賀城へ赴くが、留守中における本郡の体制を、ここで固めて置く。」
そう言うと政氏は、隣に座る嫡子政道を一瞥(いちべつ)した後、言葉を接いだ。
「先ず従来通りであるのは、政道を住吉の城主として、儂の代行とする事。即(すなわ)ち、儂が口出しをせぬ限り、政道の言葉は、磐城家当主の言葉である。」
政氏の言を受け、家臣達は悉(ことごと)く政道に対して平伏した。

 政氏は皆を直らせた後、話を続ける。
「又、磐城四家の皆は、其々(それぞれ)に所領を開発し、よくこれを治めて居る。仍(よっ)て四家の役目も変更は無く、任された地の統治に努める事。」
四家の当主は皆、神妙に頭を下げた。

 一方で後方に座す、席次が下方の豪族達には、表情に不安の翳(かげ)りが窺(うかが)える。やはり政氏が磐城を離れた後、政道と政之が政(まつりごと)を蔑(ないがし)ろにし、再び磐城郡南部の荒廃を齎(もたら)す事を、案じて居るのである。その気配を政氏は察し、それへの対策を話し始めた。
「加えて、儂(わし)が皆と評議したき事が二つ有る。一つは、住吉の政(まつりごと)の仕組みに関してじゃ。城主政道は、見ての通り未だ若い。そこで大老を三名置き、城主の補佐に当たらせ様と思う。大老が合議を重ねた上、城主に政策を進言すれば、政道が未熟とて、政道(せいどう)を大きく踏み外す事は有るまい。」
(にわか)に政庁内では、重臣達が相談を始め、騒(ざわ)つき始めた。やがてそれを断ち切る大きな声で、近藤宗久が政氏に尋ねる。
「畏(おそ)れながら、大殿に御尋ね致しまする。大殿は既(すで)に何(ど)の三人が適任か、目星を付けられておわされるのではござりませぬか?先ずは大殿の人選を、聞きとうござりまする。下手に我等家臣が推挙し合えば、後々痼(しこり)が生じ兼ねまする故。」
宗久の発言で、政庁内には再び静寂が訪れた。家臣達の視線は、悉(ことご)く政氏に向けられて居る。政氏は暫(しば)し黙考した後に頷(うなず)き、家臣に告げる。
「確かに、宗久の申す通りじゃ。では儂(わし)の人選を聞いて貰(もら)おう。」
そして政氏は、三人の名を挙げた。村岡重頼、高野盛国、大村信澄の三名である。村岡重頼は磐城家筆頭重臣である故、誰も不満は無い様子であった。しかし高野盛国は、その勢力大と雖(いえど)も、昨日今日仕えたばかりである。又、大村信澄は軍功を挙げたばかりと雖(いえど)も、家中の席次は中程であり、この二名には否定的な声が上がった。しかしそれを制する様に、斉藤邦衡が声を上げる。
「確かに、諸侯の言には一理有り。されど、高野殿は今まで当家に属して来なかった分、客観的な視点を持ち合わせてござる。又大村は、幾度も大殿が玉川治水普請に登用した人物。玉川の頻繁なる災害は、郡内第一の難問なれば、これも適任かと存じまする。」
近藤、佐藤、江藤の三氏もこれに同意し、場の空気は次第に、政氏の人選を支持する方へ移って行った。

 これを受けて政氏は、家臣団の承認を得た物と見做(みな)し、村岡、高野、大村の三氏を、磐城家大老に任命した。更(さら)に村岡重頼に対しては、先々代重武以来の忠節と、同族村岡忠頼への配慮も有り、磐城平家執政(しっせい)の称号を与えた。

 一つ目の議案が纏(まと)まったので、政氏は二つ目の議題に話を移した。
「皆にもう一つ話が有る。其(そ)は当家が朝廷より拝領したもう一つの所領、信夫郡の事じゃ。この地をよく治める事は、天朝に対し奉(たてまつ)る、当家の責務である。仍(よっ)て、儂(わし)はこの地に次子政澄と、宿老佐藤純利を派遣した。そして、磐城と信夫の絆をより深める為、もう一つ手を打って置きたい。」
そう言うと、政氏は隣に座す政道に目をやりながら、話を続ける。
「目下、信夫郡政の中核を担(にな)って居るのは、土豪の松川氏である。この人物は文武に優(すぐ)れ、信夫の民の名声も高い。儂は松川の姫を、政道の正室に迎え様と思うが、如何(どう)であろう?」
再び重臣達は、近くの者と話を始めた。しかし、殆(ほとん)どの者が松川の事を見知らぬ為、中々結論が出せない。やがて江藤玄貞が、最初に存念を述べた。
「畏(おそ)れながら、先ず某(それがし)に思う所がござりまする。某(それがし)はかつて、大殿の信夫入りに伴われた事が有った為、松川殿とは面識がござり申す。彼(か)の人物が信夫郡政の中心に在るのは、土豪故の人脈も然(さ)る事ながら、平素は温厚篤実、危機に臨みても泰然自若たる、実に肝の据(す)わった武士である故と、御見受け致し申した。怖らくは、信夫随一の人物でござりましょう。」
玄貞の意見は、松川氏の人物を見込み、婚姻に賛同する物であった。

 江藤家は、郡内の北東を所領とし、近年は行方(なめかた)郡に至るまで、海道周辺の豪族を、磐城家傘下に取り込んだ功臣である。殆(ほとん)どの者は玄貞の評価を聞いて安堵し、婚姻の話に賛意を示した。

 二つの議が上手く纏(まと)まったので、政氏は漸(ようや)く肩の力が抜けた。そして広間を見渡すと、大老大村信澄の姿が見当らない。
「大村信澄!」
政氏が大声で呼ぶと、広間の中程から返事が聞こえた。政氏は手招きしながら告げる。
「其方(そなた)は磐城家大老ぞ。前に出よ。」
「はっ。」
信澄は一礼すると立ち上がり、人の隙間を縫(ぬ)って進み出る。

 政氏はこの際に、家中の席順を改変した。先ずは三大老を第一列とし、執政をその中心とする。第二列は相馬以来の功臣であり、要地を固める磐城四家。その後ろは、所領の大小を基(もと)に決定された。

 最前列では、磐城四家の前で信澄が、恐縮しながら座って居る。一方、席次を後方へ落された滝尻政之は、表情は平然としながらも、その拳(こぶし)には力が込められ、小刻(こきざ)みに震えて居た。

 最後に、政氏は信澄に対し、大老としての最初の役目を与えた。それは嫡男政道と、松川氏の姫との、婚儀の纏(まと)め役である。信澄は、光栄な限りと申し上げ、謹(つつし)んで承った。

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