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第二十四節 磐城の凶兆
標葉(しめは)磐城両郡の境である熊川を渡ると、愈々(いよいよ)久しく足を踏み入れる事の無かった本領、磐城郡内である。かつて邦秀と宗昌より、磐城の治政が乱れて居ると聞いて案じて居たが、楢葉郷を見る限りでは、特に問題は見当たらない。この地を託した江藤家には、未だ磐城家確立の功臣である、玄篤が健在である。政氏は杞憂(きゆう)に過ぎぬ様であると安堵を覚え、更(さら)に南方の住吉を目指した。
飯野平から街道を南に折れ、丘を越えると荒川郷に達する。そこから矢田川に沿って南下すると、その周辺は三沢館の管轄下である。三沢館主の初代純利は、信夫へ遣(つか)わし、郡司政澄の後見を務めて居るので、現在この地を治めて居るのは、二代目純明である。純明も、政氏の元で久しく治政を学んだ。その成果は、民の暮し振りや、矢田川沿いの道の整備状況を見ると、容易に察しが付く。民の表情には余裕が窺(うかが)える。道は、荷駄の運搬も容易に成る様、幅が確保され、且(か)つ平坦に均(なら)されて在った。政氏は、佐藤純明の政(まつりごと)を見て安堵すると、三沢館へは寄らず、真っ直ぐ本拠住吉へ向かった。
一行は林原(林城)へ出て、愈々(いよいよ)住吉館は眼前に迫って来た。それと同時に、政氏は暗澹(あんたん)たる思いに駆られ始めた。政氏が若き日々、亡き近藤宗弘と共に整備した小名浜、三箱(さはこ)を結ぶ道が、無慚にも荒れ果てて居たのである。
政氏は館に入るのを止め、館の周辺を巡察した。随処に水害に因(よ)る荒廃が見られ、それは久しく放置されて来た様である。又民の顔も、生気が失われて居る様に見受けられた。政氏が兵を遣(つか)わして、民の様子を調べさせた所、数ヶ月前に、治水を担い続けて来た大村信澄が病没して以降、住吉御所は治水に力を注がなく成ったと言う。
「住吉御所とは?」
政氏が尋ねると、話を聞いて来た兵は、恐る恐る答えた。
「畏(おそ)れながら、若殿と滝尻様は、其々(それぞれ)の館を豪華絢爛(けんらん)に改築し、館より御所へ改称なされたとの由(よし)にござりまする。」
それを聞いた政氏は、地面を強く踏み締めて憤慨した。
「あの戯(たわ)け共奴(め)が。」
政氏の普段に無い形相(ぎょうそう)に、邦秀以下は皆、慄然(りつぜん)たる物を感じた。やがて政氏は、憤然としたまま兵を纏(まと)め、住吉御所へと駒を進めて行った。
漸(ようや)く住吉入城を果した時、政氏以下は住吉諸臣より恭(うやうや)しく迎えられ、館主政道も又、大手門の近くまで、出迎えに姿を現して居た。政氏は馬を下りると、愛馬を館の者に預け、邦秀と共に政道の案内を得て、大館の広間へと向かった。その途中、館の至る処に、豪奢(ごうしゃ)な装飾が目に付いた。又、庭園も整備されて在る。それ等を見る度に、農民達の声の信憑(しんぴょう)性が高まり、政氏は気が重く成るのであった。
本丸広間において、政氏は久しく座す事の無かった、住吉城主の座に腰を下ろし、周囲を見渡した。傍らには政道が座し、斎藤邦秀を含む家臣達は下座に居並び、平伏して居る。もっと懐かしい気分がするのかと思ったが、然程(さほど)でも無かった。家臣達の面々の多くが変わってしまった所為(せい)も有るが、上質の畳(たたみ)やら、高価な屏風(びょうぶ)やら、かつて質素を旨として居た頃は、殺風景であった景色が、今では一変してしまっていたからである。
政氏は先ず、己の留守中、政務に励んでくれた家臣達に礼を述べ、続いて村岡忠重に就(つ)いて尋ねた。
「此度は、汐谷城主村岡忠重殿が重病に臥したと聞き、至急戻って参った次第じゃ。近況を説明してくれ。」
すると、家臣の中より一人が前方へ歩み出て、再び座礼を執って言上する。
「某(それがし)は、昨日汐谷城より戻ったばかりにて、畏(おそ)れながら某(それがし)より、御報告申し上げたく存じまする。」
「うむ。」
政氏は頷(うなず)き、その者に話す様促(うなが)した。
「では申し上げまする。三日程前に、村岡様は急に、住吉御所に詰めておわした江藤玄篤様を、御召(おめし)に成られ申した。玄篤様と床(とこ)の中より暫(しば)し御話を成された後、急に体調の不良を訴え、間も無く意識を失われましてござりまする。昨日某(それがし)が汐谷を発った時にも、未だ意識は戻らず。薬師(くすし)も、手の施し様が無い様子にござり申した。」
それを聞いた政氏は、直ぐに立ち上がり、大声で告げる。
「これより汐谷へ参る。政道、邦秀、供をせよ。」
邦秀はそれに応じて、直ちに立ち上がったが、政道は座したまま、政氏を見上げて尋ねる。
「父上、今から出立しては、鳥見野原の辺りで陽が暮れてしまいまする。其に、遠路戻られたばかりにござりますれば、今日は当御所にて御休みになられ、明朝発たれては如何(いかが)にござりましょうや?」
政氏は即座に答える。
「気遣いは無用。直ぐに仕度をせよ。」
父の表情が、幾分険しく成って居る事に気付いた政道は、渋々立ち上がり、父の後を追って行った。
住吉を出た時、陽は既(すで)に大分西へ傾いて居た。節季は寒露より霜降に移ろう頃で、日も短く成って来て居る。政氏は邦秀の家臣五名を護衛に付け、全員騎乗して住吉御所を出た。
先ずは南方の御巡検道を目指すのだが、そこに至るまでの道が酷(ひど)く荒廃し、馬を駆る速さを抑えねば成らなかった。政氏は整備の怠慢に、怒りが込み上げて来るのを覚えたが、今は政道に何も言わなかった。
一行は、玉川を渡って西岸の富岡村に入り、そのまま御巡検道を通って南へ急いだ。途中、釜戸川の辺(ほとり)にて滝尻館を見掛けたが、これも御所と呼ぶに相応(ふさわ)しい程、絢爛(けんらん)たる造りに改築されて在った。政氏はそれを横目に渡河し、黒須野村に達した所で、政道が言った通りに、日が暮れてしまった。
周囲は藍色に包まれたが、未だ辛(かろ)うじて視覚が利く。政氏は強行して南の坂道を進み、登り終えて鳥見野原に出た処で、完全に辺りは闇に覆(おお)われた。しかし、幸いにも遠方に、愛宕(あたご)族の集落の明かりが見える。政氏は家臣を遣(つか)わし、村人に松明(たいまつ)を求めた。村人は使いの武士から、磐城判官が直々に御越しに成って居ると聞くと、供の者全員分の松明(たいまつ)を用意してくれた他、自身も汐谷までの案内役を買って出た。その態度を見た護衛の斎藤勢は、流石(さすが)は相馬武士の末裔、見上げた忠節振りよと、誉(ほ)め称(たた)えた。
地元案内人を得た事で、政氏一行はゆっくりながらも、先へ進む事が出来た。金子平から先は谷間を下りて行き、やがて汐谷城の東門へ到達した。政氏は遠慮する村人に金を渡して御礼とし、村へ帰した。然(しか)る後、門衛の前へと進んで行った。
門衛二人は、暗闇の中から不意に十騎余の武者が現れたので、驚いて槍を構え、誰何(すいか)した。政氏は騎乗したまま、進み出て答える。
「陸奥大掾(だいじょう)平政氏じゃ。忠重殿を見舞いに参った。」
門衛は、俄(にわか)に信じられぬ様子で答える。
「少々御待ちを。」
そう答えて、一人は城内へ駆けて行った。
暫(しばら)くして、城内より一人の老将が姿を現した。篝火(かがりび)の揺らぐ炎が、互いの顔をぼんやりと浮かび上がらせる。
「玄篤、久し振りであったな。」
政氏が笑みを湛(たた)えた直後、江藤玄篤は恭(うやうや)しく頭を下げた。
「大殿、善(よ)くぞ御出で下さた。」
そう言うと玄篤は、一行を城内へと誘(いざな)った。本丸へ向かう途中、玄篤はぼそりと呟(つぶや)いた。
「間に合ってくれた。天の御導きじゃ。」
汐谷は山城である。若い邦秀は元気に登って行くが、政氏と玄篤は息を切らせながら、忠重の間へと急いだ。
やがて、政氏等は忠重の臥す寝所へと辿(たど)り着いた。政氏が中へ踏み入ると同時に、村岡家の主立つ者が一斉に平伏した。部屋の中は幽(かす)かに明かりが灯(とも)され、中央に敷かれた床(とこ)に、老人が臥して居るのが見える。
その脇で、嫡男の重頼が座礼を執りながら、口を開く。
「ようこそ御越し下され申した。村岡家を代表し、御礼(おんれい)申し上げまする。」
「うむ。」
政氏は頷(うなず)いて忠重の側へ歩み寄ると、腰を下ろしてその顔を見詰める。。
忠重は苦悶の表情で、何か譫言(うわごと)を言って居た。耳を澄ますと、幽(かす)かにその声を聴き取る事が出来た。
「小次郎殿、小次郎殿。」
呻(うめ)く様に人の名を呼んで居るが、長年苦楽を共にして来た政氏にも、その意を解(かい)せない。訝(いぶか)しむ顔の政氏を見て、脇から重頼が静かに伝える。
「小次郎様とは、大殿の御先代忠政公の御幼名と、父より承ってござりまする。忠政公と父は、天慶(てんぎょう)の乱の折、瀬戸内へ出陣して共に初陣を飾られ、畏(おそ)れながら、無二の友であると申して居り申した。怖らくは、忠政公の夢を見て居るので在りましょう。」
「然様(さよう)か。」
天慶の乱の頃、政氏は未だこの世に生を受けて居ない。物心が付いた時には、既(すで)に忠重は重臣として仕えて居た。父忠政の武勲は、忠重や近藤宗弘から、良く聞かされた物である。しかし、思えば坂東において、最大の勢力を誇る村岡平家の御曹司であった忠重が、何故没落して居た相馬家に、斯(か)くも忠義を貫き通して来たのか。忠重の末期(まつご)を予感させる呻(うめ)き声から、政氏は顔も知らぬ亡父の偉大さを、垣間(かいま)見た様な気がした。
暫(しばら)く、政氏は忠重の枕元に座したまま、老将軍の様子を眺めて居た。今では頭髪も薄く成り、その殆(ほとん)どが白く成って居る。そっと目を閉じて、坂東の野を駆け巡って居た頃を思い起すと、そこには黒髪を束(たば)ね、筋骨隆々たる逞(たくま)しい武者姿の忠重が、姿を現す。
不意に右手がむず痒(がゆ)く成ったので、政氏は目を開けて、膝(ひざ)の上に置かれた右手の甲を見た。すると、そこに己の髪が一本、落ちて居るのに気付く。政氏がそを左手で摘(つま)んで見ると、見事な程純白であった。
(己も又老いたり。)
そう思いながら、政氏の視線は再び忠重に向けられた。
やがて、忠重の呼吸は穏やかさを取り戻し、表情からも、苦痛の色が薄らいで来た。部屋に詰める者達からは、安堵の空気が広がり、別の間にて一休みしようと立ち上がった。それを見て重頼も立ち上がり、父の眠りを妨げぬ様、小声で政氏に告げる。
「大殿、御覧戴きたき物がござりまする。江藤殿と邦秀殿にも、同道願いたい。」
重頼は粛々としつつも、その表情の陰には悲愴感が窺(うかが)える。
「うむ。」
頷(うなず)くと、政氏は玄篤と邦秀を伴い、重頼の後に付いて行った。
*
軈て、人気の無い一室に通されたが、ここは重頼の居間であるという。明かりが、重頼が携えて来た油皿一つしか無い為、大層暗く感じられた。だが、四人が座るには充分な広さである事は判(わか)る。政氏を上座に勧める一方、重頼は部屋の隅に置かれた箱から、一通の書状を取り出して、それを政氏に差し出した。政氏がそれを読んで居る間、玄篤と邦秀はじっと、政氏の様子を窺(うかが)って居た。
その文は長く、何十行にも渡って居た。漸(ようや)く、政氏が終りまで目を通し終えた時、文を持って居た手が、力無く膝(ひざ)の上に落ちた。そして書状を前に広げ、玄篤と邦秀にも見える様にして告げる。
「忠重殿の遺言じゃ。読んで見よ。」
政氏の言葉を受け、二人は見を乗り出してそれを読んだ。文字に力無く、忠重が最後の力を振り絞(しぼ)って、認(したた)めた様子が伝わって来る。
そこには、村岡忠重最後の心添えが書かれて在った。主に三つの内容に重点が置かれて居る。その一つ目は、村岡忠頼との関係であった。先年、政氏は南方の脅威を除(のぞ)く為に、常陸平家兼忠と盟約を結び、交易網を拡充して、共栄関係と成った。しかし一方で、坂東太郎を挟んで対立を続ける村岡忠頼に取っては、磐城常陸の同盟は裏切り行為であり、村岡家中では、政氏を非難する声が強まって居るという。常陸との誼(よしみ)を深める事は、村岡平家との対立を深める事に繋(つな)がり、よくよく注意されたし、との事であった。
二つ目は、京の情勢に関してである。この年、即(すなわ)ち長徳二年(996)は、朝政に大きな動きが有った年であった。一月十六日の夜、藤原伊周(これちか)の手の者が、花山法皇に矢を射掛けるという事件が起こった。法皇に怪我は無く、法皇自身もこの事を口外しなかった。所が、噂(うわさ)は直ぐに巷間(こうかん)へ広まった。それに依れば、女性を巡る諍(いさか)いであったという。伊周は、故太政大臣恒徳公藤原為光三女の元に通って居たが、為光四女の元へ通って居た花山法皇を見掛け、恋敵と勘違いした事が真相であった。その後、伊周、降家兄弟が参内(さんだい)しなく成ったので、貴族達の間にも、疑念を持つ者が増えて行った。しかし、右大臣藤原道長は調査を命じただけで、二人に対する処罰を執らなかった。己に対して不都合な人物を、隙(すき)を突いて失脚させなかった事で、道長の評判は上がって行った。
三月二十七日、皇太后東三条詮子は日頃患(わずら)って居た病(やまい)が悪化し、重症の床(とこ)に就(つ)いた。やがて道長の元に、一大事が報告された。皇太后がおわす寝殿の床下より、呪(まじな)い物が発見されたというのである。続いて法淋寺より、伊周(これちか)が大元帥法(だいげんのほう)を行わせて居るとの密告が有った。大元帥法とは密教の修法であり、天子のみに許された、国家安寧を祈る呪(まじな)いの法である。臣下がこれを行う事は、絶対に許されぬ物であった。ここにおいて、道長は遂(つい)に意を決するに至った。
四月二十四日、道長は公卿を宮中へ召集し、除目(じもく)を執り行った。この時道長は、伊周(これちか)を太宰権帥(だざいごんのそち)、隆家を出雲権守に其々(それぞれ)左遷する事を宣告した。罪状は花山法皇に矢を射掛けた事、皇太后を呪詛(じゅそ)した事、禁を破り大元帥法(だいげんのほう)を行った事である。五月一日、道長は検非違使(けびいし)を中宮定子(ていし)のおわす二条邸へ出動させた。伊周等が、妹である中宮の元に匿(かくま)われて居るとの情報を、得て居たからである。やがて検非違使は、伊周、隆家兄弟を逮捕し、二人は大宰府と出雲へと流されて行った。
政敵が失脚した道長は、正二位左大臣に昇進し、高級官吏の人事である除目(じもく)を行う際に執筆する、一ノ上と成った。人臣最高の位である。最早道長に匹敵する勢力は朝廷には居らず、朝政は道長の独裁色が強く成った。
村岡忠重は、斯(か)かる京の情勢を按(あん)じ、道長という人物には隙が無く、この先失脚する事は無いであろうと考えた。仍(よっ)て文中において、今後は道長との関係を深める事を勧めて居る。
三つ目は、次世代の事である。政氏の嫡子政道は、久しく磐城郡政を預かっては居るが、家祖良将以来の、武門の棟梁として率先して諸豪族を束(たば)ね、領内を発展させる気概に乏(とぼ)しい事が案じられて居た。又、自身の嫡男重頼も、武芸の稽古には熱心なれど、如何(いかん)せん実戦の経験が乏(とぼ)しく、常陸との友好が崩れる事有らば、汐谷城主を任せるのは、些(いささ)か荷が重いと書かれて在った。しかし政氏は、戦(いくさ)の経験が浅いと雖(いえど)も、父忠重の薫陶を受けて育った身なれば、大丈夫であろうと考えた。
四人は暫(しば)し黙ったまま、忠重の遺言を囲んで座し、忠重と共に歩んで来た時を偲(しの)んで居た。就中(なかんずく)、特に思い入れが強いのは、五十年の長き間、主従の関係を貫いて来た、政氏であった。
やがて遠くより、住吉御前が大声で探して居るのが聞こえた。住吉御前は政氏の長女であり、又重頼の正室である。重頼は父の遺言書を畳(たた)むと、政氏へ差し出し、立ち上がって部屋を出た。それに気付いて、早足で歩み寄って来る御前に対し、重頼は「何事か」と尋ねた。御前は慌てた様子で答える。
「義父上様の容態が、急変なされました。」
それを聞いて、政氏等もすっと立ち上がり、重頼と共に、急ぎ忠重の元へと向かった。
程無く、忠重の枕元へ駆け付けた政氏の目に映(うつ)ったのは、呼吸荒気に苦悶する、老将の姿であった。政氏は傍らの薬師(くすし)に目を向けるも、只無言のまま、首を振るばかりである。政氏は跪(ひざまず)いて忠重の手を取り、唯々念じた。忠重はやがて大きく息をすると、急に穏やかな表情と成った。
呆然とする政氏を余所(よそ)目に、薬師(くすし)は忠重のもう片方の手から、脈を取る。そして静かに、その手を蒲団(ふとん)の中へと戻すと、恭(うやうや)しく一礼した。
「御逝去、なされ申した。」
薬師(くすし)の言葉の後、僅(わず)かな静寂が有った。しかしそれは、御前を始めとする女衆の慟哭(どうこく)に因(よ)って破られ、重頼は拳(こぶし)を震わせながら俯(うつむ)いて居た。政氏は、忠重の寝顔を見詰めながら手を合わせて居たが、その手もやはり震えて居た。
政氏の傍らに座る政道も、父に倣(なら)い合掌した。しかし胸中では、忠重の死を悼(いた)むよりも、先程重頼が己を誘わず、奥で父や家臣達と何と話して居たのかが、気に掛かって居た。
ふと、冷たい晩秋の風が吹き込んで来た。政氏は立ち上がると部屋を出て、縁側から天を見上げた。未だ日の出には至らず、漆黒(しっこく)の夜空に、無数の星が輝いて居る。政氏が天文を見ると、北方に衰亡の兆(きざ)しが顕(あらわ)れて居た。汐谷より北方には、磐城家の本居住吉が在る。これは磐城家の衰退を示して居るのではと、政氏は強い不安に駆られた。
翌日、汐谷は深い悲しみに包まれたまま、城主村岡忠重の葬儀が、しめやかに執り行われた。嫡男重頼が喪主を務め、政氏はよくこれを扶(たす)けた。
葬儀が終ると、重頼と住吉御前が忌中(きちゅう)に入られる様、政氏がその間、菊多郡政を直に執行し、汐谷城主と成った。一方で住吉も放置出来ないので、一先ず政道を戻し、磐城郡政に宛(あ)てさせた。
政氏は滝尻入部時以来、菊多郡内を巡察して回った。かつて常陸とは緊迫した関係に在り、間諜(かんちょう)が多く潜伏して居た為、政氏も家中随一の剛の者、村岡忠重を配置して備えて来た。しかし今では、それが嘘(うそ)であったかの様に、平穏な地と成って居る。往(ゆ)き交(か)う者の多くも、武士ではなく、行商人と成って居た。政氏は、菊多を忠重が巧く治めてくれて居た事に感謝の念を覚えつつ、汐谷城へと引き返した。
汐谷に戻る前に、政氏は入部間も無く守護神を安置した、東方の那智神社へ詣(もう)でる事にした。一行は、汐谷城の南麓より御巡検道を東に外れ、浦に沿って東の道を進んで行った。
途中、岩間の浜にて、政氏は村民らしからぬ者が十余名、浜の砂を採取して居るのが目に付いた。不審に思い、随臣に素姓を質(ただ)させようとした所、汐谷に久しく住む村岡兵の一人が、政氏の側へ進み寄って言上する。
「御待ちを。あれは金山の愛宕(あたご)族の者にござりまする。怖らく、鉄器の原料と成る砂鉄を採って居るのでござりましょう。」
「ほう、この辺りの砂からは、鉄が採れるのか?」
愛宕族が住む鳥見野原は、ここより北方半里の台地に在る。岩間浜の東方は、岩が屹立(きつりつ)して居る為、急な坂を登って行かねば成らない。坂の上には台という集落が在り、そこから北の山間を越えれば、最短の距離で金山に辿(たど)り着けるとの事であった。
台に着くと眺望が良く、菊多浦一円を見渡す事が出来る。東南には広大な海が広がり、此方も佳景(かけい)である。その台より東方僅(わず)か五町程の処に、渚村の小浜が在り、那智権現への登り口と成って居る。
参道は頓(ひたすら)登り坂であり、丘の中腹に社(やしろ)がひっそりと佇(たたず)んで居る。周囲は樹林が茂って居るが、南方の林の切れ目には海が望める。山海大自然の妙に在り、政氏と随臣達は守護神に対し奉(たてまつ)り、磐城の安寧を願った。
政氏が汐谷城を直轄して十日ばかりが過ぎた頃、村岡忠頼より弔問(ちょうもん)の使者が遣(つか)わされて来た。使者の口上では、忠頼は実弟の訃報に接し、食事も咽(のど)を通らなく成る程、落胆されたとの事であった。更(さら)には、甥(おい)重頼への莫大(ばくだい)な贈物(おくりもの)も有り、政氏は使者を城内の仏間へと案内した。そこでは重頼と住吉御前が喪(も)に服して居たが、本家からの使者が訪れた事を聞き、重頼は伯父の心遣いを嬉しく感じた様子であった。
使者は焼香の後、主君の嘆(なげ)き振りと、甥(おい)に対する同情を重頼に伝え、政氏に伴われて仏間を後にした。重頼は、坂東一の勢力を誇る伯父の優しさに触れ、感涙して居た。
使者は、政氏が一晩持て成した後、再び坂東へと引き返して行った。
*
忌(いみ)が過ぎた翌日、村岡重頼は住吉御前と二人の男子を連れ、本丸を訪れた。そして政氏に拝謁(はいえつ)し、喪(も)が明けた事を報告した。
重頼に甚(はなは)だしい憔悴(しょうすい)が見られなかったので、政氏は安堵の様相で告げる。
「四十九日の法要を終え、儂(わし)も安心致した。忠重の御霊(みたま)も、今頃新たな生命を得た所であろう。」
重頼は恭(うやうや)しく頭を下げる。それに倣(なら)い、後ろに控える二人の子も頭を下げた。未だ五歳前後と思(おぼ)しき兄弟である。その愛らしい仕草に、政氏の顔は綻(ほころ)んだ。
「その御子等は、二人の子か。」
父の問いに、御前は笑顔で頷(うなず)く。重頼に突(つつ)かれ、二人の子は真顔で挨拶をする。
「村岡重頼が嫡男、五郎にござりまする。」
「次男の六郎にござりまする。」
かわいい孫の名乗りを聞いて、政氏は破顔しながら頷(うなず)く。
「然様(さよう)か。斯(か)かる跡継ぎが居るならば、村岡家は安泰じゃ。五郎とは、良文公に由来するのう。」
政氏は手をポンポンと叩(たた)いた。
それを受けて、隣室にて控えて居た武士が入室して来た。村岡家執事、山田蔵人である。先代忠重に抜擢された人物で、菊多郡内山田郷を所領とし、村岡家中の中心的人物であった。
政氏は山田蔵人に命ずる。
「本日より、村岡重頼を菊多郡少領並びに汐谷城主に任ずる。仍(よっ)て家中一同、新たな当主を先代と同じゅう盛り立てる様。」
「ははっ。」
蔵人は深く頭を下げた。
視線を奥の蔵人から、手前の重頼に移した政氏は、穏やかに告げる。
「孫の健(しこ)やかなる顔を見る事が叶(かな)ったは、重畳(ちょうじょう)至極(しごく)。儂(わし)は一先ず磐城へ引き揚げる故、菊多の事は其方(そなた)に任せる。常陸との関係には、特に細心の注意を払う様に。」
「はっ。父に劣らぬ様、菊多を無事に治めて御覧に入れまする。」
重頼の意気込みを見て、政氏は安堵を覚えた。そして、住吉の家臣に帰還の命を下すべく、部屋を後にして行った。
政氏は僅(わず)かな手勢を素早く纏(まと)めると、直ぐに汐谷城を出立した。一行は御巡検道を北へ進んで行く。村岡忠重が、菊多と家臣団をよく纏(まと)めてくれて居たので、それを見て育った重頼なれば、必ずや見事に治めてくれるであろうと、政氏は女婿(じょせい)に期待を掛けて居た。
やがて一行は、鳥見野原の台地を抜け、滝尻の側へ下りて来た。滝尻は、政氏が陸奥四郡を賜った折、最初に府を置いた、思い出深い処である。陽も大分傾いて来たので、政氏は滝尻御所へ使者を先行させ、一行の宿泊の手配を命じさせた。
使者に遅れて政氏が御所に入った時、迎えに出たのは橘清輔であった。
「大殿、御久しゅうござりまする。」
政氏も、懐かしい顔に驚いた様子である。
「おお清輔、立派に成ったのう。政道より滝尻家の執事でも命ぜられたか?」
清輔は苦笑して答える。
「いえ、家中の末席に加えて戴いたに過ぎませぬ。」
政氏の眉(まゆ)がピクリと動いた。そして清輔に尋ねる。
「南方の要、村岡忠重殿が没した今、滝尻は怠(おこた)り無く、汐谷の支援に努めねば成らぬ時。斯(か)かる折、館主と執事は何処(いずこ)で何をして居る?」
俄(にわか)に政氏の声は荒くなり、清輔は恐る恐る答えた。
「畏(おそ)れながら、三箱(さはこ)にて、湯治を成されてござりまする。」
「湯治とは?」
「三箱に涌き出す湯は、身体を健(すこ)やか成らしめる効能が有るとの事。政之様以下重臣の方々は、その湯に浸(つ)かりに行かれましてござりまする。」
「愚かな。」
政氏は急に疲れた顔と成り、深い溜息を吐(つ)いた。
「直ぐに連れ戻せ。」
怒気を帯びた政氏の声に、清輔は恐れ入り、急ぎ自ら滝尻御所を発って、三箱へと馬を飛ばした。
その間、政氏は改築された御所を、斎藤邦秀と共に見て回った。
「すっかり雅やかに成ってしもうたのう。築城間も無い頃は、周辺勢力に攻め破られぬ為だけの館であったが。」
「某(それがし)も、祖父邦泰よりその様に聞き及んでござり申した。されど滝尻様は、大殿が陸奥大掾(だいじょう)の大任を拝命しておわされる御身(おんみ)なれば、それに相応(ふさわ)しい御所が本拠に必要と仰(おお)せられ、若殿もそれを認可なされ申した。」
邦秀も、政氏が嫡子政道と義弟政之に対し、怒りを覚えて居る事は感じて居た。それ故事が荒立たぬ様、二人形(なり)の考えを伝えたのである。
政氏は静かに、「そうか」と頷(うなず)いた。邦秀はその様子を見て、安堵の表情を呈した。政氏も、二人の考えが解(げ)せぬ訳でも無かった。確かに一国の判官職にも就(つ)けば、賓客の応接も度々有る。磐城郡主を任せた政道も、近隣豪族の使者が頻繁に来訪する為、粗末な館では父の名に傷が付くやも知れぬと、案じての事であろう。
しかし、斯(か)かる御所は一つ有れば充分である。既(すで)に本拠を住吉に移転し、家臣である滝尻氏に与えた館までも、豪奢(ごうしゃ)に改築する必要は無い。しかも、その為に莫大(ばくだい)な費用を掛け、罹災(りさい)民の救済が滞(とどこお)る等とは、以(もっ)ての外であった。
質素を旨とし、領民の安寧に努める。これは家祖良将以来、相馬武士の精神の根幹として、代々受け継がれて来た。将門、忠政、政氏の三代は、幼くして父を失えども、母や家臣の訓育を受け、政氏の代に再び、大成を見た。善政を以(もっ)て、奥州南部の豪族は多くが傘下に入り、磐城平家は陸奥国政の中心たる存在と成った。
所が、後嗣(こうし)たる政道と、一族として磐城家の要と成ってくれる事を期待した政之からは、相馬武士の魂を見出す事は出来ない。その魂を如何(いか)に二人に伝えるかが、政氏の次なる難問と成った。
一時(いっとき)程が過ぎ、政之以下、滝尻の重臣達が帰還して来た。日没間際(まぎわ)であり、御所を守る衛兵達に松明(たいまつ)が配られた頃である。
政之は真っ直ぐに政氏の元へと向かい、拝謁(はいえつ)を願い出た。斎藤邦秀がこれに対応し、政氏の許可を得て、滝尻館主と執事のみを通した。
やがて、政氏の前へ進み出た政之は、ばつが悪い顔をして平伏した。
「大殿の御越しにも拘(かかわ)らず、出迎えを致す事叶(かな)わざる段、真に以(もっ)て御詫びの申し様もござりませぬ。」
政之が謝罪の言葉を述べるも、政氏は暫(しば)し沈黙したままであった。政之や執事の額からは、冷汗が流れ始める。
それを察してか、政氏は漸(ようや)く口を開いた。
「今宵(こよい)はここに泊まるが、明日朝には住吉へ戻る。」
それを聞いて政之は、安堵の溜息を吐(つ)いたが、政氏の話には続きが有った。
「政之には、儂(わし)の留守中の事も聞きたい故、同行致す事。又、玉川流域では今年も水害が発生し、被災した民を救わねば成らぬ。仍(よっ)て執事には、滝尻家財産の供出を命ずる。」
執事は政氏を前に恐縮し、直ぐに承知の旨を申し上げた。一方の政之も、政氏の勘気には薄々気付き、内心恐々として居た。