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第二十三節 歌人国司
奥州にはその後も平和が続き、平維叙(これのぶ)は正暦六年(995)、四年間の任期を無事に終えた。朝廷より、磐城判官の力を削(そ)ぐ事を内命されて赴任し、かつては磐城平家が国府軍の粗(ほぼ)全軍を占めて居たのを、殆(ほとん)ど磐城郡へ退去させた事を以(もっ)て、維叙の任務は達成されたと言える。退任の宴(うたげ)の折には、朝廷に対して満足の行く報告が出来る事に加え、村岡忠頼と対峙の際に、背後を脅(おびや)かされる怖れが無く成った事も有り、至極(しごく)上機嫌であった。
一方、京の都では昨年から、九州より流行り始めた赤斑瘡(あかもがさ:麻疹)が蔓延(まんえん)し、夥(おびただ)しい数の人命を奪って居た。人々は疫病神牛頭天王(ごずてんのう)の祟(たた)りと恐れ、山城の民は北野船岡山に集い、牛頭天王を祭って、その怒りを鎮(しず)め様と努めた。
朝廷は二月二十二日に、元号を長徳(ちょうとく)と改めたが、その後も赤斑瘡(あかもがさ)の流行は続いた。疫病を鎮める為、朝廷は神輿(みこし)を作り、御霊会(ごりょうえ)を催し、更(さら)には紫野(むらさきの)に今宮と称す社殿を創建した。
しかし、疫病が猛威を振う直中、長徳元年(995)四月に、関白藤原道隆は病没した。皇太后東三条院詮子(せんし)は関白の後任に兄の道兼を推し、帝(みかど)もこれを認可した。所が、新関白道兼はその時、既(すで)に病(やまい)に臥して居り、僅(わず)か在任七日で薨去(こうきょ)した。人々は道兼を陰で、七日関白と呼んだ。
赤斑瘡(あかもがさ)は、朝廷内にも多くの感染者を出した。中納言以上の公卿は十四人居たが、その内の半数以上に上る、八人が薨去(こうきょ)した。
再び関白の座は空位と成り、道兼の弟である道長と、甥(おい)の伊周(これちか)が対立する様相と成った。伊周は内大臣で、道長の権大納言より上の官職に在り、又妹の定子(ていし)は、帝の中宮である。しかし東三条院詮子は、かつて安子皇太后の頃、摂政関白は官位の高低よりも、兄弟順に拠(よ)るべしと定めた先例を挙げ、帝に道兼の後任として、道長を推挙した。帝は母の言に従い、道長を内覧(ないらん)に任命する事に決した。
五月十一日、藤原道長に内覧任官の宣旨が下された。内覧には天皇への奏上書や、天皇からの命令書を事前に閲覧する権利が有り、事実上は摂政、関白と同等の権限が認められて居た。斯(か)くして藤原道長が、新たな摂関家の長者に君臨する事と成った。
しかし、政争に敗れた甥(おい)の伊周(これちか)、隆家兄弟からは憎悪(ぞうお)の念を向けられた。六月に道長が右大臣に昇進した事を受けて、憎しみは更(さら)に募(つの)って行った。七月二十七日、遂に七条大路にて、道長の従者と隆家の従者が衝突し、道長方に二名の死者を出すという事件に発展した。又八月二日にも、隆家の従者は道長の随身を殺害するという事件を起した。しかし道長は、徒(いたずら)に伊周、隆家の挑発を受けて、声望を失墜する事を避け、報復の動きを見せる事は無かった。
朝廷内に斯(か)かる大きな動きが有ったこの年、任期を終えた平維叙(これのぶ)は、兼忠や手勢と共に、一先ず常陸へと引き揚げて行った。維叙は陸奥守の権威を、磐城判官より奪回するという内命を果しはした物の、命を下した藤原道隆が没し、関白の交代が行われた事を受け、失望の色が顕(あらわ)れて居た。一方兼忠は、政氏と盟友と成れた事を喜び、別れの際には政氏に笑顔を向けて居た。
常陸軍が去ると、政氏は再び仮の主(あるじ)と成った。政氏の財政再建計画を維叙(これのぶ)が支持してくれた為、国庫には再び備蓄が出来る様に成って居た。政氏はそれを見る度、この四年間の苦労が報われる思いであった。
間も無く、政氏の元に新任国司の報が入って来た。それに依ると、新たに陸奥守を拝命したのは、従四位上藤原実方という人物であった。前(さきの)左近衛中将である。系譜では、安和(あんな)の変で源高明を追い落し、左大臣に昇進した藤原師尹(もろただ)の孫にして、父は侍従定時であり、母は藤原道長の正室とは姉妹である。
これは随分と高貴な方が任命された物だと、政氏は訝(いぶか)しがった。しかし聞いて見れば、やはり一悶着(もんちゃく)を起したが為に、左遷された人物であると言う。事の仔細は、実方が帝(みかど)の御前にて、藤原行成と和歌に就(つ)いて論じて居た所、口論と成り、遂には行成の冠を奪って、これを投げ捨てるという暴挙を働いてしまった。行成はそれでも平静を保ち、主殿司(とのもづかさ)に冠を拾わせ、事を荒立てなかったという。帝は行成の態度に感服し、蔵人頭(くろうどのとう)に昇進させる一方、実方には歌枕を見て参れと命じ、陸奥の地へ左遷したという次第であった。
只、実方は幼くして父を亡くし、叔父である小一条済時の養子と成り、育てられたという経緯(いきさつ)が有った。その叔父が昨今亡くなった為、実方は喪(も)が明けるまで陸奥下向を遅らせる事と成り、その旨が朝廷より、陸奥国政を一時預かる政氏の元へ、通達されて来た。
仍(よっ)て、大掾(だいじょう)政氏が暫(しば)しの間、国守の代行役を務める事と成った。常陸軍が抜けた為、国府軍の再編が必要であったが、政氏は再び朝廷から睨(にら)まれる事の無い様、磐城平家に属さぬ者を、新たに募兵した。又、久しく国府に在って政氏の護衛を務めた、江藤玄貞を磐城へ戻し、代わって近藤宗久の嫡男宗昌と、斎藤邦衡の嫡男邦秀を、磐城軍へ編入させた。政氏は、次の世代を担(にな)う磐城四家の世嗣(せいし)に、陸奥国政を通じ、将として必要な要素を涵養(かんよう)しようと考えたのである。
その年、政氏は誰に憚(はばか)る事無く、質素倹約と新田開発に努め、国府の財政収支を飛躍的に改善させた。そして遂には、前(さきの)国司平維叙(これのぶ)赴任前の国庫備蓄量を、回復するに至った。この秋、奥州各地は凶作に見舞われる事無く、平穏に収穫作業を終える事が出来た。
秋の税収を完了した後、政氏は国府に諸官吏を集め、本年の労を犒(ねぎら)う宴(うたげ)を催した。皆、日々質素な生活を強(し)いられて来たが、この日ばかりは豪華な料理と酒が振舞われ、皆心底楽しんで居る様子である。
政氏は、これで日頃の憂(う)さが晴れれば良しと思い、久しく己の政策を忠実に遂行してくれた、少掾(しょうじょう)や目(もく)達に盃(さかずき)を取らせ、更(さら)なる融和を望んだ。
その後、政氏は近藤宗昌と佐藤邦秀を側へ招き、両将にも盃を取らせた。両将は恐縮しながら、それを押し戴く。二人共飲み乾(ほ)し終えると、政氏は両者に尋ねた。
「其方(そなた)等は、この半年国府に仕え、国府の政(まつりごと)を如何(いか)に思ったか?」
俄(にわか)に鋭(するど)さを帯びた視線を受け、二人はたじろいだ。やがて、年長者の宗昌が答える。
「畏(おそ)れながら申し上げまする。大殿の治国の策は比類無き物にて、磐城を含め、斯様(かよう)に人心を得て、王道楽土を築きたる地は、他に例を見ぬ物と存じまする。」
宗昌の隣で、邦秀も肯定する様に頷(うなず)く。政氏は重ねて問う。
「其方(そなた)等には国府着任後、ここ宮城郡を中心に、周辺諸郡の巡察もして貰(もら)った。その結果、磐城よりも国府近隣の方が、民の暮しが豊かであると申すのか?」
「御意(ぎょい)にござりまする。」
二人は揃(そろ)って頭を下げたが、その表情に翳(かげ)りが出た事を、政氏は察した。政氏は訝(いぶか)しみ、尋ねる。
「磐城には当家の重鎮である村岡忠重に加え、其方(そなた)等の父を含む磐城四家を配置して居る。更(さら)には常陸との同盟も成ったというに、政(まつりごと)に何ぞ支障を来(きた)す物が有るのか?」
険しい表情を呈し始めた政氏に、邦秀が恐る恐る答えた。
「畏(おそ)れながら、村岡忠重様、並びに江藤玄篤様、体調を崩され、各々が館にて静養なされてござりまする。郡政は専(もっぱ)ら、大村殿と橘殿が中心と成り、執り行ってござりまするが。」
「その両名に、問題が有るのか?」
「いえ。」
邦秀は慌てて否定した。
「御二方はよく若殿を支え、大村殿は治水作業に、橘殿は交易に、日夜力を注いでござりまする。只。」
「只、何か?」
邦秀は話し難そうであったが、政氏に睨(にら)まれ、又磐城家の為を思うと、意を決して話し始めた。
「村岡重頼様は未だ御若く、忠重様の如く、強い影響力を以(もっ)て住吉を扶(たす)ける事が能(あた)いませぬ。又、滝尻の政之様と若殿が少々、金の使い方が荒く、金蔵の貯(たくわ)えは徐々に減じてござりまする。その結果、罹災(りさい)民への救済が滞(とどこお)り始め、民は大殿の御戻りを、待ち望んで居りまする。」
邦秀は胸中に秘めて居た物を吐き出し、大分すっきりした様子である。しかし、政氏は表情を一層険しくさせ、暫(しば)し思い悩んで居る風(ふう)であった。そして、力無い声で呟(つぶや)く。
「成程(なるほど)のう。されど今は新国司を迎える仕度に追われ、迚(とて)も磐城へ戻る事は叶(かな)わず。一先ず政道には書状を認(したた)め、警告を発する事に致そう。」
宗昌と邦秀は、磐城郡内の問題が政氏に伝わった事で、幾分安堵した面持ちであったが、一方で、政氏が心痛を抱いてしまった事も感じ取った。そこで宗昌は、政氏の気分を和(なご)ませるべく話題を変えた。
「そう言えば、滝尻政之様の御兄君にて、京の大江家に養子に入られた時廉様が、この度目出度(めでた)く丹波国において地頭を拝命し、遂に所領を得る事が叶(かな)ったとか。真、祝着(しゅうちゃく)にござりまする。」
「ほう、其(そ)は誰から聞いた?」
「滝尻様からでござりまするが。」
「然様(さよう)か。」
政氏はそれ以上、何も言わなかった。実はこの時、初めて時廉の地頭就任を耳にしたのである。かつては共に信夫郡政に係り、更(さら)には大江家養子入りの世話までして上げた。にも拘(かかわ)らず、斯(か)かる慶事に便りの一つも無い事に、政氏の心は痛んだ。しかしその反面、亡き岳父、黒沢正住の最後の願いが果された事を思うと、ほっと胸を撫(な)で下ろすのであった。
しかし、政氏の心に深い影を落としたのは、大江時廉よりも寧(むし)ろ、磐城の政道と滝尻政之の事であった。政氏と共に磐城郡を切り開いた、磐城四家の初代は、既(すで)に半数が逝去し、残りも高齢の為に隠居して居る。今又、重鎮村岡忠重が倒れ、相馬平家を称して居た頃以来の者で健在なのは、政氏唯(ただ)一人と成った。その政氏も、齢(よわい)五十に達しようとして居る。政氏はかつて、母や村岡重武より伝えられし相馬武士の魂が、己の代で途絶えてしまうのではないかと案じた。
秋風が次第に凍(し)みる様に感じ始めた九月の入りの頃、漸(ようや)く陸奥守が下向するとの報せが、多賀城に入った。政氏は国司入府の為の最後の作業に追われ、磐城の事は何時(いつ)しか、頭の中から消えて行った。
*
長徳元年(995)九月、陸奥守藤原実方が漸(ようや)く、国府多賀城に到着した。この時、実方は源重之を介として伴って居た。源重之は清和天皇の曾孫(ひまご)であり、摂関家の下で武門の棟梁として勢力を拡大しつつ在る源満仲とは、又従兄弟の関係に在った。祖父は清和天皇の第三皇子貞元親王で、実父は従五位下侍従源兼信である。しかし重之は、伯父である正四位下参議源兼忠の養子となった。位官は従五位上左馬頭(さまのかみ)である。重之自身も和歌に精通し、後に実方と共に、中古三十六歌仙の一に数えられる。此度は実方の歌の相手役として、請(こ)われて陸奥介を拝命し、実方に従い東下に及んだ次第であった。
大掾(だいじょう)政氏は城門を掃(は)き清めさせ、国府軍を整列させて、門前にて少掾、目と共に出迎えた。実方一行が到着すると、重之が騎乗したまま、政氏の前へ進み出る。
「役目大儀。国司様を政庁まで御案内致せ。」
「ははっ。」
政氏は承服すると、衛兵が両側を固める道を、政庁へ向かい誘(いざな)った。
一行が政庁に入ると、先ず国守実方の御言葉を戴くべく、主立つ官吏は皆、広間へと召集された。政氏を筆頭に平伏する中、実方は重之と共に入室し、実方が上座に着くと、重之はその脇に腰を下ろして、多賀城の官吏一同を見渡した。
やがて実方より、楽にせよとの言葉が有ったので、下座にて畏(かしこ)まる一同は、挙(こぞ)って頭を上げた。前列に居た政氏は、冷静に二人を観察した。重之は己と同じ位齢(よわい)を重ねて居るが、国守実方は十歳程若いであろうか。藤原行成相手に激昂(げっこう)し、無礼を働いたのは、名門意識が災(わざわ)いしたのかと、政氏は一抹(いちまつ)の不安を覚えた。
実方は、先ず大掾政氏に声を掛けた。そして畏まる政氏に対し、己の希望を述べる。
「余は帝(みかど)より、陸奥の歌枕を訪ねて来る様命ぜられた。此(こ)は即(すなわ)ち、当国において和歌の研鑽(けんさん)を積んで参れとの勅命である。仍(よっ)て余と重之は奥州各地を巡り、歌の道に勤しまねば成らぬ。その間、政務は其方(そち)に託すが、旅の案内人と費用の用意も、併せて命ずる。」
「ははっ。承知仕(つかまつ)り申した。」
政氏が直ぐに応じてくれたので、実方は大層上機嫌であった。
政氏は国司の側から政務を委託された為、今までに無く容易に、その指導力を発揮する機会を得た。しかし唯一の懸案は、実方と重之が名家の出で在る故か、豪奢(ごうしゃ)な生活をし、国府財政に大きな負荷と成った事である。しかし、前(さきの)国守平維叙(これのぶ)の時の如く、武家が赴任して来て、軍事的な問題に発展するよりは、遥かに増しであると政氏は考えた。
又政氏は、国内の案内人にしても、ある程度は和歌に通じた者で無くては、粗相(そそう)が有るやも知れぬと案じた。そして官吏の中から、比較的和歌を嗜(たしな)む者を抜擢し、国守実方の世話役を命じた。しかし、実方や重之には及ぶべくも無く、日々神経を磨(す)り減らして居る様であったので、政氏は気の毒に思い、已(や)むなく御世話役を増員した。
国司入府から間も無く、奥州には本格的な冬が到来した。赴任一年目の実方に取って、この寒さは殊(こと)に厳しく感じられた様である。深雪(みゆき)に閉ざされた冬の間は、暖を取った部屋で、重之と共に引き籠(こも)る日が多かった。
しかし、年が明けて長徳二年(996)正月、実方は年賀の式典を、例年に無く盛大に執り行った。実方にして見れば、左遷された憂(う)さを晴らすのが、一つの目的であったのであろう。故に国司のやる事に、政氏等は大人しく従って居た。やがて実方は、京より伴った従者等に命じ、陸奥の官吏達に対し、京風の作法を厳しく指導させ始めた。政氏は国政の責任者であり、又京の藤原式家にて養育された為、然程(さほど)苦労は無かったが、多くの官吏は、悲鳴を上げんばかりの有様であった。
やがて春が訪れた。多賀城近辺でも梅が咲き始め、芳香を風に漂(ただよ)わせて居る。この香に誘われてか、国司実方は旅の費用を、政氏に請求して来た。和歌の研鑽を勅命であると言われては、下手に揉(も)め事と成らぬ様、政氏は要求された額を金蔵より出し、国司へと届けさせる他は無い。金を受け取ると、実方は直ちに旅の仕度に取り掛かり、翌日には二十名程の供を従え、多賀城を後にして行った。
実方の旅はその後幾度にも及び、財務方からは苦情が出始めた。この年の秋、国内の税収は例年と比べ、先ず先ずであったにも拘(かかわ)らず、金蔵の貯(たくわ)えは大幅に減じて居た。政氏を始め、国府官吏は悉(ことごと)く質素倹約に努めて居る。その脇で、国司の周辺だけが、贅沢(ぜいたく)な暮しを送って居る為、一部官吏から、怨嗟(えんさ)の声が上がり始めた。
政氏は国司に謁見(えっけん)し、国府の財務状況を説明した上で、出費の切り詰めを歎願した。しかし実方は、不機嫌な表情を呈すると、それ等の費用は全て、勅命を果す為の物であると回答した。政氏は、このままでは国府財政の破綻(はたん)を招き、延(ひ)いてはそれが陸奥の不穏に繋(つな)がる事を懸念して居たので、尚も必死に食い下がる。
「陸奥守様、国庫が空と成っては、朝廷に税も納められず、それこそ天子様の御心(みこころ)に適(かな)わぬかと存じまする。」
執拗(しつよう)な政氏に、実方は遂に激怒した。
「ええい、煩(うるさ)い事を申す奴じゃ。国庫が空に成ろうとも、そこを何とかするのが御主の役目であろう。これ以上申すのであらば、帝(みかど)への不忠として処罰致すぞ!」
最早取り付く島が無い事を悟った政氏は、大人しく承服して、実方の元を辞した。そして深い溜息を吐(つ)き、政庁へ引き返して行った。
已(や)むなく政氏は、少掾と相談した後、金蔵の貯えを取り崩して、税に充てる様指示した。しかし、国司実方の金遣いは予想以上に荒く、このままでは退任を待つ前に、金蔵が枯渇してしまう事が案じられた。
疲れた様子で、政氏が己の机に腰を下ろすと同時に、斎藤邦秀が早足で入室して来た。
「大殿、急使が参り、これを。」
そう告げて、政氏に一通の書翰(しょかん)を差し出した。政氏はそれを受け取ってよく見ると、汐谷城の村岡重頼より発せられし物であった。嫌な予感がしながらも封を解き、文面を読み始める。
黙々と書翰(しょかん)を読んで居た政氏が、やがてそれから目を離し、再び畳(たた)み始めると同時に、傍らに控える邦秀に命を下した。
「忠重殿が重篤との事。儂(わし)は急ぎ汐谷へ向かう故、其方(そなた)の手勢に、出動の仕度をさせよ。又、近藤勢は国府に残して置くが、幾つか指示を与えて置く故、儂の間へ参る様、宗昌に伝えよ。」
「はっ。直ちに。」
邦秀は返事をすると立ち上がり、再び足早に政庁を辞して行った。
邦秀が退出した後政氏は、書類の点検に追われる少掾の前に、腰を下ろして告げる。
「実は、今し方急使が参り、所領の磐城に戻らねば成らなく成り申した。」
「何と、政氏殿に留守にされては、国府(こう)の殿は更(さら)に金を無心して参りますぞ。」
少掾は周囲に気を配りながら、小声で告げた。政氏も小声にて、少掾に策を授ける。
「確かに、儂(わし)が戻るのは、早くとも来春と成ろう。その間、守と介には胆沢(いさわ)鎮守府を視察に赴いて戴こう。さすれば、高価な物を買い込んだり、出費の嵩(かさ)む旅等されずに、時を稼ぐ事が出来るであろう。」
「成程(なるほど)、其(そ)は妙案。では某(それがし)より、鎮守府将軍に使者を遣(つか)わしましょう。」
「うむ。では宜しく頼むぞ。官吏達には呉々(くれぐれ)も、倹約を徹底させる様。」
「はっ。政氏殿も道中、御気を付け下され。」
政氏は頷(うなず)くと、政庁を後にし、自室へと戻って行った。そして、そこへ呼ばれて来た近藤宗昌に、国府の留守を頼んだ上、幾つか有事における策を授けた。
政氏の護衛を務める事と成った邦秀は、屈強の者を二十名ばかり選び抜き、残りの兵を一時宗昌に託した。少数精鋭とする事で、警固兵の戦力を成るべく削(そ)がずに、翌日には出立の準備を整える事が出来たのである。政氏は精兵二十騎を纏(まと)めると、直ちに南へ向けて、軍を進発させた。
政氏が磐城に帰るのは、実に久しい事であった。これまでは黒沢正住亡き後、次子政澄に因(よ)る信夫統治の基盤を築き、その後は陸奥国政の中心人物として、多くの難問に直面して来た。
今己は、領主としての出発地点に戻ろうとして居る。それを考えると、政氏は長年培(つちか)って来た思索の基幹と、初心の頃のそれとが、何(ど)の様に変遷して来たのか、自然と顧(かえり)みて居た。
没頭しながら、軍を進める政氏が辿(たど)る道の両側では、奥州の民が被(かぶ)り物を脱いで、辞儀をして居る。それに気付いた政氏は、手振りを以(もっ)て、各々の作業を続ける様に促(うなが)した。しかし、民は磐城軍が通り過ぎるまで、礼を執り続けて居た。
政氏は怪訝(けげん)な顔を呈して、民に任す様にした。陸奥の民は、これまで夷狄(いてき)の如き差別を受け、厳しく搾取(さくしゅ)をされ続けた。故に、磐城判官の馬紋と九曜紋の旗を見た時、その生き地獄の中から救い出してくれた、稀代の傑士に対する返礼の意を示すべく、頭を下げて居るのであった。
陸奥の民心は、最早陸奥守には無かった。